10月ー12月

京都南東山区観光
2009年12月26日


今回は近場の京都に足を運び、京都駅から南のエリア東山区の寺社巡りしてきました。

12:30京阪電車で京都方面に向かう。
13:45深草駅到達、散策する。

宝永年間(1704~1711)創建。石仏の寺として知られ、本堂背後の竹林にぽつんぽつんと石仏が立っている。これらは釈迦誕生から涅槃にいたるまでを表す五百羅漢。錦市場の青物問屋に生まれた江戸中期の画家・伊藤若冲(斗米翁)が、この地に隠棲し、下絵を描いたものを石仏にしたといわれる石峰寺を訪れる。

全国で約3万社を超えるお稲荷さんの総本宮。商売繁昌、五穀豊饒の神として有名。大鳥居をくぐると、1589年(天正17)に豊臣秀吉が寄進したと伝える朱塗りの楼門がある。本殿(重要文化財)は、1499年(明応8)再建の檜皮葺き。本殿背後にある鳥居のトンネルをくぐれば奥社奉拝所。稲荷山への登り口である。高さ233mの山には、至る所にお塚がある伏見稲荷大社を訪れる。

1236年(嘉禎2)に建立された禅刹で、京都五山の一つ。境内は広く、日本最古の三門(国宝)、禅宗寺院様式の東司(トイレ)(重要文化財)、堂本印象が竜を天井に描いた本堂などが立つ。方丈の庭園は東西南北それぞれ趣が異なり、苔と角石とが市松模様になっている北庭が特に名高い。洗玉澗に架かる、通天橋付近の紅葉も見ごとの東福寺を訪れる。

東福寺塔頭のひとつで、1390年(明徳元)創建。重森三玲が復元した九山八海の庭の中央には、熊本藩細川家から贈られた遺愛石がある。この石は寺領五百石を辞退した代わりに拝領したものという。もう一つの臥雲の庭も美しい。また、日露戦争中、ロシア人捕虜を収容し、彼らが木や竹で作った楽器なども陳列している霊雲院を訪れる。

東福寺に境内に立つ。じゅうまん不動と呼ばれ、火除け信仰がある。五大堂に安置されている本尊の平安時代の不動明王像(重要文化財)がある同聚院を訪れる。

皇室とゆかりが深く、御寺とも呼ばれる古刹で、弘法大師が草庵を結んだのが始まり。境内には狩野探幽作の天井絵などが見られる仏殿(重要文化財)がある。大門近くの観音堂には、唐の玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈り造らせたという楊貴妃観音坐像(重要文化財)が祭られ、良縁や安産、美容に御利益があるという泉涌寺を訪れる。

天長年間(823~834)に空海が十一面観音を安置して開創した。西国三十三カ所第15番札所。高さ16mの多宝塔は、1983年(昭和58)の建立する今熊野観音寺を訪れる。

東大路通に面してクスノキの巨木が目を引く。後白河法皇が1160年(永暦元)に、仙洞御所の法住寺殿のなかに熊野神社を勧請、創祀したのが起こり。1374年(応安7)、足利義満がここで能の勧進興行を行い、演能したのが観阿弥・世阿弥の親子。絵馬は、車馬安全祈願の「八咫烏」の新熊野神社を訪れる。

17:00終了。

今回も近場の京都の南エリア、東山区の寺社を3時間掛けて歩きで巡りました。

紅葉で有名な東福寺周辺は紅葉時に訪れれたことがありますがシーズンオフの訪れも人も疎ら、のんびりと巡ることができ、違った意味で楽しめました。

さて明日からはペルーに出発です。
謎の遺跡群を目の前での観光、期待しています。又結果報告します。







名古屋タウン観光
2009年12月23日


今回は早朝からの日帰りで愛知県の中核である名古屋タウンに足を運び、草薙神剣を祀る熱田神社で有名な金山エリア、縁日で賑わう日泰寺の参道沿いを中心にレトロなお店が点在する覚王山エリア、名古屋最大の繁華街、栄エリア、老若男女を問わず、幅広い層が集まる下町情緒漂う大須エリアを散策しました。

7:22新大阪新幹線のぞみで出発
8:07名古屋駅到達、東海道線に乗り換え熱田駅下車

三種の神器の一つである草薙神剣をご神体として祀り、古くから皇室より伊勢の神宮に次ぐ崇敬を受けている由緒ある大宮。約19万平方mにおよぶ境内には本宮・別宮をはじめ、8つの摂社と18の末社が鎮座。主な祭典・神事だけでも年間70余りが行われ、5月4日の酔笑人神事など、古式ゆかしく珍しい神事もある。古くから「あつたさん」とよばれて親しまれ、初詣や七五三詣など、一年を通じて多くの参拝者が訪れている熱田神宮を訪れる。

熱田神宮にある昭和41年に建てられた校倉造り風の文化殿の内部にあり、国宝1件、重要文化財27件をはじめとして、約4000点におよぶ宝物を収蔵し、一部を公開している熱田神宮宝物館を見学。

東海道の宮の宿(現在の熱田)は、桑名へ渡る七里の渡しの渡船場として、船の出入りや客の往来も多かった。その航海の安全を見守る役目として置かれた常夜灯が、今でもひっそりと残っている。火災により焼失したため、現在のものは、1791年(寛政3)に再建された七里の渡しを訪れる。

地下鉄名城線熱田西駅で乗車、八事駅下車

1686年(貞享3)、二代藩主・徳川光友の創建による由緒正しい寺。約30万平方mもの緑豊かな境内は、秋には紅葉の名所にもなっている。高野山を模して造られたため尾張高野とも呼ばれ、1808年(文化5)建立の五重塔は国の重要文化財に指定。境内の山の上には、高さ3.6mの巨大な銅造大日如来坐像が安置されている八事山興正寺を訪れる。

地下鉄名城線八事駅乗車、本山駅下車

織田信長の舎弟・信行公が父信秀公の菩堤を弔う為建立し、信行公も共に祀られている。木彫聖観世音菩薩を安秩、境内は5千余坪を有し楓桜樹など名木数多く美しい竹林などと共に庭園美を競っている。又露座の名古屋大仏も有名である。別名名古屋弁天といわれる桃巌寺を訪れる。

明治33年にシャム国皇帝から贈られた釈迦の遺骨を奉安するために明治37年に創建された。本尊は、この遺骨とシャム王室寺院伝来の釈尊像。日本で唯一の超宗派の寺院である。寺内の茶室草結庵は県指定文化財の名席。境内周辺には、明治44年ごろ出来たという八十八ヶ所霊場がある。毎月21日の弘法縁日には市がたち賑わう日泰寺を訪れる。

地下鉄東山線で栄方面に向かう。

栄の中心、久屋大通公園の東側、約1万9000平方mの広大な敷地に整備された公園。地上14mの水の宇宙船がシンボル。空中に浮かぶガラスの大屋根には水が流れ、外周にめぐらされた回路で空中散歩が楽しめる。吹き抜けの地下にある銀河の広場周辺には、約30の飲食店やショップがズラリ。自然光を取り入れた明るい半地下にはバスターミナルがあり、栄の交通の要所となっているオアシス21を訪れる。

愛知芸術文化センター内の美術館で、ピカソ・クリムトなど20世紀初頭~現代の絵画を中心に展示している。随時企画展も開催。10室の貸しギャラリーやラウンジ、彫刻作品が展示された屋外展示スペース、自然光が差し込む天井の高い展示室もある愛知県美術館を訪れる。残念ながら休館でした。

昭和29年(1954年)6月、日本ではじめての集約電波鉄塔として開業した、高さ180mのテレビ塔。平成17年(2005年)7月にはタワーとして全国で初めて国の登録有形文化財に指定され、平成20年(2008年)10月には恋人の聖地に選定、カップルのデートスポットになっている。塔内にはレストランやギャラリーもあり、90mのスカイデッキ、100mのスカイバルコニーからは名古屋の街並みが一望できる古屋テレビ塔を訪れる。

近代科学の解説とプラネタリウムで星や宇宙の投影を行う。全体は理工館、天文館、生命館の3つにわかれており、実際に見たり触れたり体験しながら学ぶことができる。プラネタリウムのある天文館では、季節ごとの天体について紹介する名古屋市科学館を見学。

ナディアパークにある、デザイン全般に関するさまざまな展示や情報発信を行う施設。4階に1930年代アメリカのデザイン作品を中心に、歴史的側面からデザインを取り上げるミュージアムや、企画展を開催するギャラリー、また6階には資料が閲覧できるライブラリーを持つ国際デザインセンターを見学。

ラン生産日本一の愛知県。その愛知県産のランを中心に世界のラン約250種類を集めた都心のミニ・テーマパーク。ランの美しいディスプレイを展開するアトリウムや、色々な花の飾り方を提案する花かざりモデル展示棟、ランの原種を展示する小温室などなどがあるランの館を訪れる。

市内唯一の演芸場。1・2階合わせて250席を持ち、演目は落語・漫才・講談・粋曲と幅広い。1965年(昭和40)のオープン以来常設の寄席として親しまれ、かつてはビートたけしなども舞台に立った。現在は、地元の若手芸人の自主興行や、東京・大阪からの興行を中心に行っている大須演芸場を訪れる。

正式名を北野山真福寺宝生院といい、南北朝時代に今の岐阜県羽島[はしま]市に創建されたが、1612年(慶長17)に現在の場所に移転された。地元の人たちからは「大須の観音さん」として親しまれ、節分会や人形供養など年間通じて行われる催し物の際には、多くの人で賑わう。日本最古の古事記写本(国宝)や将門記(重要文化財)をはじめ、和漢の古文書約1万5000点を収蔵する真福寺文庫(大須文庫)もある北野山真福寺宝生院を訪れる。

地下鉄鶴舞線で名古屋城方面に向かう。

金鯱で有名な城。1612年(慶長17)、徳川家康が築城。天守閣と本丸御殿が隅櫓・多聞櫓で囲まれた豪壮堅固な造りで、尾張徳川家約六十二万石として栄えた。1945年(昭和20)の空襲で大部分が焼失し、1959年(昭和34)に天守閣と正門を再建。三つの隅櫓(重要文化財)と表二之門(重要文化財)・石垣は、ほぼ原型を残している。再建された天守閣は、1~5階が旧本丸御殿の障壁画などを観賞できる展示室で、最上階は展望室。本丸東側には季節の花が楽しめる二之丸庭園(名勝)がある名古屋城を訪れる。

1922年(大正11)、当時の名古屋控訴院地方裁判所区裁判所として建設。現在は市政資料館として館内を公開し、名古屋市政に関する資料等も保存・公開している。レンガ造りの建物は国の重要文化財に指定の名古屋市市政資料館を見学。

尾張徳川家の邸宅跡地を改修した、池泉回遊式の日本庭園。地下水を水源とする「龍仙湖」を中心に、「虎の尾」「龍門の瀧」など変化に富んだ景観のほか、新緑や紅葉、ボタン・ハナショウブなど四季を通じてさまざまな植物が楽しめる徳川園を訪れる。

尾張徳川家に伝わる遺品や大名道具を展示する私立美術館。家康の遺愛品など、その数は約1万数千件にも及び、国宝9件、重要文化財57件、重要美術品46件。世界的に有名な源氏物語絵巻(国宝)も収蔵。質・保存状態の良さは他の追随を許さない。常設展では尾張藩主の公的生活の場であった名古屋城二ノ丸御殿の鎖の間と広間の一部、能舞台、猿面茶席を復元の徳川美術館を訪れました。残念ながら休館でした。

1650年(慶安3)、二代藩主・光友が建立した尾張徳川家歴代の菩提寺。本堂裏には、権現造の御霊屋がある。創建時の姿を留める三間一戸様式の重層の山門は、往時をしのばせている建中寺を訪れる。

17:00地下鉄桜通線で名古屋駅に向かう。
17:15名古屋駅到達
17:45新幹線のぞみで出発
18:37新大阪到達。

今回の旅行、車を使わず、電車と歩きで名古屋タウンを散策して観光名所を巡りました。

深い緑に包まれた広大な境内をもつ、由緒正しき神社、三種の神器の一つ草薙神剣を祀る熱田神社で有名な金山エリア。

縁日で賑わう、タイ王国より贈られた釈迦の遺骨を安置するために建立された寺院、日泰寺の参道沿いを中心にレトロなお店が点在する覚王山エリア。

名古屋市内最大の繁華街、ラウンドマーク的存在の名古屋テレビ塔のスカイバルコニーからの眺める街の景色を楽しめる栄エリア。

地元の人に観音さんの名で親しまれている大須のシンボル、大須観音が位置し老若男女を問わず、幅広い層が集まる下町情緒漂う大須エリア。

早朝からの日帰りでほぼ名古屋タウンを制覇しました。

しかし、残念ながら訪れたすべての美術館は休館でした。

地元の方に聞きますと、名古屋のほとんどの美術館は年末は休館とのこと。
次回美術館巡りのイベントで訪れたいと思います。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第八十三弾:福岡県福岡タウン&大宰府観光
2009年12月19-20日


今回は西の九州の中心となる福岡県に足を運び、歴史ある町ならではの寺社や祭り、人気のショッピングモールなど見所情報いっぱいの福岡タウン、学問の神様として有名な大宰府天満宮を訪れました。

19日13:09新大阪新幹線のぞみで出発
15:44博多到達、博多タウン散策。

弘法大師(七七四~八三五)が、廷暦二十三年(八〇四)い津に渡り、二年後の大同元年(八〇六)十月、博多に帰ってきて伽藍を設立。平成四年には大仏様ができ、木造坐像では、日本一の大きさで大仏様の裏側には「地獄・極楽めぐり」コースがあり、仏像の横には宝物展示宝もあり、毎日参拝客で賑わっている東長寺 を訪れる

明治・大正時代の、博多町人の暮らしや文化を紹介する歴史資料館。のぞきからくりや博多弁講座などユニークな内容で博多の歴史を学べる展示棟をはじめ、明治中期に建てられた博多織の住居兼工場を移築復元した町家棟、博多人形や名産品を販売するみやげ処の3棟で構成。白壁や格子戸など当時の町並みを復元した建築物が並ぶ職人による張子・曲物・博多人形など、伝統工芸の実演も日替わり(博多織は毎日実施)で開催する「博多町家」ふるさと館を見学。

「お櫛田さん」の愛称で親しまれる博多の街の総鎮守。博多祗園山笠の舞台でもある。境内には飾り山を常設展示する櫛田神社を訪れる。

博多の街に古くからある商店街。140軒ほどの商店が軒を連ね、飲食店や衣料品店などが多い。中程にぜんざい広場がありそこには博多祇園山笠のレプリカが飾ってある川端商店街 を通過する。

博多区下川端地区に99年3月にオープンした2万2千平方メートルの大規模商業文化施設はホテル、スーパーブランドシティー、美術館、劇場、5階のアトリウムガーデンには、リラックスできる緑いっぱいの空間を提供し、多彩な機能を備えた街、博多リバレインを訪れる。

博多リバレインにある演劇専用の公設民営劇場。総客席数1500席。幅20m・奥行き21mの大舞台に廻り舞台や、花道・オーケストラピットなどを備え、多彩なジャンルに対応。県内外から多くの人が集まる博多座を訪れる。

博多リバレインにある、アジア近代・現代美術コレクション専門の美術館。作品展示以外に、アジアの美術作家を招待する滞在型の公開制作も行われている福岡アジア美術館を見学。

食事を済ませてから博多駅付近のホテル到達、宿泊。

20日7:00出発、大宰府方面に向かう。

大宰府の中心、府政庁があった跡。広大な敷地に並ぶ建物の礎石が、当時の繁栄ぶりを物語る。現在は歴史公園として整備され市民の憩いの場。発掘で出土した溝を保存公開する展示館も隣接する大宰府政庁跡を訪れる。

746年(天平18)、天智天皇が母・斉明天皇の冥福を祈って建立。80年もの歳月を費やし、完成時は西日本最大の大寺院といわれた。境内には創建当初の梵鐘(国宝)があり、収蔵庫では平安~鎌倉時代の仏像(重要文化財)などを公開している観世音寺を訪れる。

901(昌泰4)年、京都から大宰府に左遷され、この地で亡くなった菅原道真公を祀る神社。道真公が学問に秀でていたことから学問の神様として崇敬を集め、今も大勢の受験生が参拝する。心字池の太鼓橋、境内の大樟(天然記念物)などが見どころ。道真公を慕い、京から飛んで来たという本殿(重要文化財)向かって右側の神木・飛梅をはじめ、約6000本の梅が咲き誇る梅の名所でもある太宰府天満宮を訪れる。

菅原道真公(菅公)の神霊を御奉祀する神社・太宰府天満宮内に位置するこの宝物殿は、昭和3年に開館、という古い歴史を持つ。菅公の御真筆、御佩刀、国宝「翰苑」を始め、古文書、工芸品、菅公が愛でた梅を描いた日本画など約5万点の宝物を収蔵・展示する太宰府天満宮宝物殿を見学。

東京、奈良、京都に次ぐ4番目の国立博物館。「日本文化の形成をアジア史的観念から捉える」というコンセプトに基づき、アジア諸地域との交流の歴史をわかりやすく紹介している。文化交流展示(常設展)は、テーマに応じて展示品の入れ替えが行われる九州国立博物館を見学。

天神方面に向かう。

鴻瀘館とは奈良~平安時代にかけて華やかな国際交流の舞台となった古代の迎賓館。1987年(昭和62)にその遺構が舞鶴公園内で発掘され、中国、朝鮮半島の陶器やペルシアのガラス器など貴重な出土品を一般公開している鴻臚館跡展示館を見学。

初代福岡藩主・黒田長政[くろだながまさ]が1601年(慶長6)から7年がかりで築城した福岡城は、大中小の天守台と47の櫓を配した壮大な平山城だった。現在は多門櫓(重要文化財)と大手門、潮見櫓などが当時の面影をとどめている。周辺は舞鶴公園として整備。高台には展望台が設置され、福岡タワーや福岡ドームまで見渡せる福岡城跡を散策する。

古美術から現代美術まで幅広いジャンルの作品を収蔵する。九州ゆかりの画家をはじめ、ミロ、ダリなどシュルレアリスムの作品を常設展示している福岡市美術館を見学。

一帯はもともと大きな入江だったが、筑前五十二万石の領主・黒田長政が、1601年(慶長6)から7年がかりで福岡城を築城する際、一部を埋め立てて外濠として利用。さらに1927年(昭和2)、福岡市が東亜勧業博覧会を催すときに濠を埋め、周囲2kmの池を中心とする公園となった。園内には能楽堂や美術館、日本庭園があり、池を囲む周遊道は格好のジョギングコース。福岡城跡そのものは公園東側の舞鶴公園として整備され、本丸跡の展望台から福岡タワーや市街を一望できる大濠公園を散策する。

日本初の屋根開閉式スタジアム。野球のほか各種イベント・コンサートも開催する福岡 Yahoo! JAPAN ドームを訪れる。

8000枚のハーフミラーで覆われた、高さ234mの福岡のシンボル。地上116mと123mの2カ所にある展望室からは福岡の街並みや玄界灘の大パノラマが楽しめる福岡タワーに昇り眺望する。

東西1400mにわたり、真っ白な人工海浜が広がる公園。市民の憩いのスポットとして多くの人が集い、夏には水遊びやマリンスポーツを楽しむ人々の姿が見られるシーサイドももち海浜公園を散策する。

古代から大陸との交流が盛んだった福岡ならではの資料を多数展示。目玉は志賀島で発見された金印(国宝)と、黒田節で有名な名槍・日本号。体験学習室ではアジアのおもちゃや珍しい楽器に触れることができる福岡市博物館を見学。

姪浜港に向かう。
姪浜港、フェリーで能古島に向かう。

博多湾に浮かぶ風光明媚な島。福岡市内からフェリーで10分の近距離にあり、気軽に訪れることができる。古くは万葉集に島で詠んだと思われる歌が記され、奈良時代には国を守る「防人」が置かれるなど歴史も深い。島にはコンビニやホテルなど近代的な施設はなく、車の排気ガスも少ないため、自然の空気を満喫できる。四季の花が咲く自然公園「のこのしまアイランドパーク」、歴史を学べる「能古博物館」など観光スポットも人気。周囲12kmの島は自然を楽しみながらウォーキングやサイクリングを楽しめる能古島を散策する。

博多湾に浮かぶ島の博物館。島ならではの自然や能古島の歴史、能古出身画家の絵画まで、能古島に関するものを展示している。珍しい長垂の鉱物(天然記念物)も常設展示。郷土の学者、亀井南冥(金印鑑定者)とその一族五世にわたる資料も収集展示している。別館では様々なジャンルの企画・特別展を行い、毎年「能古の風フォトコンクール」を開催。敷地内には、福岡市文化財指定史跡である江戸時代の能古焼古窯跡もある能古博物館を見学。

博多に向かう。

18:00新幹線のぞみで出発
20:36新大阪到達。

今回の旅行、西の九州の中心の県、福岡県に足を運び、レトロな町並みが存する中州やデパート&ファンションビル&屋台を筆頭に何でも揃うグルメの町の天神や周囲に博物館、美術館、公園などが点在する福岡タウン。

7世紀後半に地方政庁が置かれた地で、九州きっての古都として知られる。菅原道真を祀る太宰府天満宮は全国1万2000社ある天満宮の総本山的な存在で、学業祈願を中心に年間600万人以上が訪れている。かつての太宰府政庁跡や日本最古の梵鐘が残る観世音寺、苔寺として知られる光明禅寺、名物の梅ケ枝餅などで有名な太宰府。

一泊二日で福岡の中心部をほぼ制覇しました。

福岡タウンにしても大宰府にしても韓国の方の観光客が目立っていましたね。
日本で最も韓国に近い大都市で交通の便が良く、訪れやすいのでしょうね。
日本語より外国語の方がよく耳にする福岡観光旅行でした。










兵庫県伊丹市観光
2009年12月16日


今回は近場の意外と皆さん知らない有馬温泉の東20km位の所にあり、大阪国際空港が位置し、酒造りの町としても知られており、江戸時代の雰囲気を今に伝える酒蔵や町屋などが点在し、一方では、美術館や昆虫館などの文化施設もあり、ご家族連れにオススメの観光スポットに恵まれている伊丹市の史跡巡りに足を運びました。

13:00JR伊丹駅到達。

歩いて史跡巡りする。

戦国末期1574年に、荒木村重が伊丹城の城主となり、大改築した上で、有岡城と改称しました。東西0.8km、南北1.7kmの堀と土塁で侍屋敷と町屋を囲んだ惣構えの城で、日本最古(1520年)の天守台があります。織田信長に対し謀反を起こしたため織田の大軍に攻められ、1579年に落城、1583年に廃城となりました。JR伊丹駅の直ぐ西側にある城跡は、1979年に国指定の史跡となり、「有岡公園」として整備されています。史跡の整備に伴って築かれた石垣の上には、本丸の礎石建物跡と二つの井戸跡が復元されています。また、本丸の西側には、土塁と自然石を積んだ野面積みの石垣が保存されています有岡城址を訪れる。

清酒「白雪」でよく知られている小西酒造が築後約200年の酒蔵を改装し、オープンした複合施設です。地ビールと清酒の醸造場、地ビール・レストラン、日本酒ミュージアム、関連グッズの売店コーナーに分かれています。醸造酒の文化と酵母菌の不思議な活躍を実感していただけます。清酒発祥の地に相応しい伝統的な酒造り道具類を130種類、200点以上展示している他、江戸時代の酒造りの様子を映像で紹介する「マジカルシーン・ビジョン」などもあるブルーワリビレッジ長寿蔵を訪れる。

猪名野神社の門前町に当たる地域が宮ノ前です。伊丹郷町館(旧岡田家住宅、旧石橋家住宅、新町家)、柿衞文庫、市立美術館、市立工芸センターなど多彩な施設が集まる伊丹市の文化ゾーンとして、2001年から一般公開されています。江戸時代の商家や酒蔵などの文化財や日本庭園などを常時見学できます。また、各施設の行う展示事業や各種講座、イベントなどに気軽に参加できるみやのまえ文化の郷を訪れる。

有岡城の落城の後、その城下町が酒造りの町として発展しました。当時の伊丹村は27町からなり、伊丹郷町と呼ばれていました。そういう由来から、旧岡田家酒蔵の解体・復元、旧石橋家住宅の解体・復元・移築と併せて、総合管理棟として町家形式の「新町家」が設けられた際に、これらの建物の総称の伊丹郷町館を訪れる。

伊丹の町家としては、最も古い旧岡田家が伊丹郷町の中心部の米屋町にあります。棟札によると、旧岡田家の店舗は、1674年に松屋によって建てられたもので、店舗の北側の酒蔵は1715年ごろに増築され、酒造りを行ったようです。1729年に鹿島屋が酒蔵を買収し、店舗の東隣に酒蔵を増築し、酒造りの最盛期には千石蔵を増築しましたが、明治の初めに廃業しました。1900年に岡田正造が購入し、大規模な改造を行った結果、広大な敷地に、店舗・臼屋・酒蔵・千石蔵・居宅・庭園が立ち並ぶようになりました。その後、伊丹市の所有となり、店舗・酒蔵を除いて取り壊されました。1992年には、旧岡田家の店舗と酒蔵が国指定重要文化財に、店舗と酒蔵をつなぐ釜屋および洗い場が附指定となりました。1995年の阪神・淡路大震災によって、店舗の大屋根や酒蔵の西壁が崩壊するなど大きな被害を受けたため、解体・復元工事が行われ、2001年から一般公開されています旧岡田家酒蔵を見学。

元は、猪名野神社の門前通り(北少路村)にあった町屋ですが、江戸時代の商家の造りが良く保存されていたので、解体調査後に旧岡田家住宅の隣に移築され、2001年から一般公開されています。母屋の正面は、厨子二階の塗り込めの軒裏と虫籠窓、出格子窓、正面中央の摺り揚げ大戸やバッタリ床几など、江戸後期の商家の店構えが見られます。また、茶室や水禽窟もあり、郷町の旦那衆が風流をたしなんでいた様子がうかがえます。石橋家は、明治以降、紙と金物の小売業の傍らで酒造業を営んでいました。1996年に伊丹市の文化財に、2001年には兵庫県の文化財に指定され、現在地に移築された後、一般公開されている旧石橋家住宅を見学。

旧石橋家住宅のかつての店舗部分に、全国の工芸作家の作品を展示販売しているクラフト・ミュージアムショップがあります。ここには、工芸センターにゆかりの作家や伊丹国際クラフト展に入選された方々の創作による、陶器・ガラス・木工・織物・ジュエリーなど様々な種類の作品が並んでいる伊丹郷町クラフトショップを訪れる。

江戸時代の伊丹は、酒造りで繁栄したため、富裕層が増え、俳諧文化が華やかに開花しました。岡田家当主の故岡田利兵衛氏(俳号=柿衞)は、実業家、国文学者、伊丹市長として多方面で活躍しましたが、俳諧文化について多年研究し、数多くの文献や資料を収集しました。彼から寄贈された貴重な文化遺産を下に1984年に「柿衞文庫」が発足しました。著名な俳人の直筆資料を約6千点、「奥の細道」を含む俳書・俳画などを約5千点所蔵しており、東京大学図書館、天理大学附属天理図書館とともに日本三大俳諧コレクションと評価されています柿衞文庫を見学。

1987年に「柿衞文庫」を増築して共同利用する形でオープンしました。主なコレクションは、19世紀のフランス絵画を代表するオノレ・ドーミエの1800点以上の諷刺版画、49点の彫刻、4点の油彩です。さらに、彼と同時代の諷刺画家の作品や、イギリスのウィリアム・ホガース、ジェイムズ・ギルレイ、ジョージ・クルックシャンクなどの諷刺版画、明治初年に来日したフランスのジョルジュ・ビゴーの諷刺版画などを所蔵しています。その他にもベルギーのジェームズ・アンソールの油絵 版画、ドイツのケーテ・コルヴィッツの版画などもあります。その他に、ラウル・デュフィの代表的油彩「海の女神」など、アメリカ現代作家の大作版画や日本の現代作家の絵画・彫刻もあります伊丹市立美術館を見学。

「伊丹郷町館」東側にある工芸センターでは、全国の優れた工芸品を展示する企画展や、国際公募のクラフト展などを開催しています。また、手織りや陶芸など各種工芸品の講座を常設しています。旧石橋住宅内の「伊丹郷町クラフトショップ」での工芸品の展示・販売や、「伊丹ジュエリーカレッジ」においてジュエリー工芸のプロの育成も行っています伊丹市立工芸センターを見学。

江戸時代の伊丹郷町の氏神で、祭神は須佐乃男命です。「野ノ宮」、「天王ノ宮」、「牛頭天王」と呼ばれていましたが、1869年の神仏分離令により改称しました。904年の創建という言い伝えがありますが、本殿が建てられたのは1686年です。境内には、酒造家や豪商が寄進した97基もの石灯篭が並んでいます。1703年以降、"お渡り"という祭礼が行われていたことが、伊丹市の指定民俗文化財である「猪名野神社神幸絵巻」に描かれています。また、戦国時代に、有岡城の惣構の北端を防御する「岸の砦」が置かれていた所です。今も、境内の西側に土塁が残っており、有岡城跡とともに国の指定史跡となっています。境内のムクロジは、樹高が約13.5mもある巨木で、1986年に伊丹市の指定文化財となりました猪名野神社を訪れる。

奈良の法隆寺と同じ伽藍配置なので、世紀初め頃の建築と推測される寺院跡があります。大規模な寺院であったようですが、当時の文献には全く記載されていないので、寺の名前も来歴も不明です。1958年に基壇の一部を発見し、発掘調査が行われ、66年に国の指定史跡となりました。金堂の基壇や朱塗りの北門などが復元されており、史跡公園として整備されています。創建当初からの瓦、水煙や風鐸などの銅製品も出土し、兵庫県の指定文化財として市立博物館に展示されています伊丹廃寺跡を訪れる。

緑豊かな昆陽池公園の中にあり、関西で最大規模のドーム型のチョウ温室があります。日本最大のオオゴマダラなど15種類、約1000匹のチョウが亜熱帯の花と緑の中を飛び交っている様子を一年中ごく間近に観察できます。また、ナナフシやバッタ、タガメ、ゲンゴロウなど生きている昆虫を展示している生態展示室、身近な昆虫の世界を10倍に拡大したジオラマ、珍しい世界の昆虫標本、昆虫の生態に関するAV資料、特別展、各種の昆虫講座、図書コーナーなどもあり、親子で昆虫の生態について楽しく学べる伊丹市昆虫館を見学。

奈良時代の名僧、行基上人が731年に築造したと伝えられる農業用の溜め池でした。伊丹市が1968年以来、この池を順次整備し、広さ27.8ha(そのうち自然池12.5ha、貯水池4.5ha)もある公園にしました。関西でも屈指の渡り鳥の飛来地として有名で、都会には稀な野鳥のオアシスとして人気を集めています。正面入り口の右手にある昆陽池センターには、展望室があり、日本列島を象った人口島など、公園全体を一望できます。1999年に池の水質浄化対策として、水鳥に餌をやるための給餌池(きゅうじいけ)および、池の中に突き出た野鳥観察橋を新たに設けました。この観察橋から野鳥の生態が間近に観察できる昆陽池公園を散策する。

正式には、崑崙山昆陽寺という名称の高野山真言宗の寺院です。奈良時代の名僧、行基上人が貧民救済のために731年に創建した昆陽施院の後身です。行基上人が創立した畿内49院の一つで、昆陽里バス停から東300mにあり、地元では「こやでら」、または「行基さん」として親しまれています。1579年に荒木村重と織田信長の戦いで全ての伽藍を焼失しましたが、江戸時代に入ると、遍照院や一乗院など周辺の塔頭(たっちゅう)も含めて再興されました。ご本尊は、行基上人の自作と伝えられている薬師如来像です。朱塗りの山門と境内の観音堂が1969年に、山門内にあった広目天・増長天立像が1998年に、それぞれ兵庫県の指定文化財となっています昆陽寺を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、近場の伊丹市に足を運び、JR伊丹駅からスタートし左回りでひたすら4時間歩いて、地元の人でも意外と知らない史跡を巡り、歴史学習できました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第八十二弾:山口県山口タウン&周南観光
2009年12月12-13日


今回は本州最西端の山口に足を運び、日本三名塔と知られる瑠璃光寺五重塔や約800年の歴史を持つ湯田温泉のある山口タウン、海の幸に恵まれ、市内にはフグをはじめとする活魚が味わえる店が多く又徳山港の西南約10kmに浮かぶ大津島は太平洋戦争末期に人間魚雷回天の発射訓練基地があったことでも知られている周南を訪れました。
12日13:22新大阪新幹線ひかりで出発
15:28新山口に到達、歩いて観光。

4つある展示室のうち、ぜひ見たいのが、小郡で7年間を過ごした俳人・種田山頭火のコーナーだ。山頭火が使っていた机などの遺品や遺作など約30点が展示されており、その人となりを偲ぶことができる。このほか小郡ゆかりの彫刻家・河内山賢祐の作品展示室、小郡周辺の民具を紹介した生活文化展示室も興味深い。その他ふるさと文化(歴史文化など)を紹介する山口市小郡文化資料館を見学。

昭和7年から13年まで種田山頭火が住んでいた草庵。山頭火はこの間にも各地を旅したが、放浪の人生にあって、最も長く結んでいた庵が、生まれ故郷の防府に近い其中庵だった。跡地に立つ現在の建物は、平成4年に復元されたもので、四畳半と三畳二間などからなる間取りは、当時の記録に基づき再現。室内に置かれた袈裟や火鉢などからも、質素な暮らしぶりがうかがえる其中庵を訪れる。

18:00新山口駅付近のホテルに到達後、繁華街を散策し食事を済ませてから床に就く。

13日7:00出発、今回の観光名所は各駅に集中しているため車を使わず、電車と歩きで観光巡りしました。

山口駅方面に向かう。

古都の風情が残る市街地を穏やかに流れる川。大内弘世が京都を模して山口の街造りを行った際、京の鴨川に見立てたといわれる。川岸の桜並木も美しく、3月下旬から4月上旬の開花の時期にはライトアップも実施。初夏はゲンジボタルが幽玄の世界に誘う一の坂川を散策する。

京を模した街造りを行った大内24代弘世が、1369年(応安2)京都の八坂神社を勧請した神社。本殿(重要文化財)は30代義興が1519年(永正16)に再建したもので、室町時代の様式をよく伝えている八坂神社を訪れる。

瑠璃光寺の周辺一帯を整備した公園。園内には、幕末に毛利敬親が茶事にことよせて藩士と討幕の策を練ったといわれる露山堂や、薩長連合の志士が集った沈流亭、明治時代以降の毛利家墓所、瑠璃光寺資料館などがある香山公園を散策する。

応永の乱で戦死した大内25代義弘の菩提を弔うため、弟の26代盛見が建立を計画。1442年(嘉吉2)ごろに完成した。高さは31.2m。大内文化を伝える貴重な建造物で、国宝に指定されている。上層にいくに従って細くなる塔身と、優雅な反りを見せる檜皮葺きの屋根が優美な調和を見せている瑠璃光寺五重塔を訪れる。

1572年(元亀3)創建後幾度もの変遷をへて、1868年(明治元)萩城内から移した毛利元就の菩提寺。もともとここは1404年(応永11)大内盛見が建立した国清寺の跡で、どっしりとした四脚門の山門(重要文化財)は当時の遺構。桟唐戸や花頭窓が美しい観音堂(重要文化財)は大内氏ゆかりの滝の観音寺の仏殿を移築したもの洞春寺を訪れる。

1863年(文久3)、毛利敬親[もうりたかちか]は萩から山口に長州藩庁を移し、新時代の到来に藩を上げて取り組んだ。1867年(慶応3)その藩庁の正門として建造された。松とケヤキを用い黒瓦屋根をのせた切妻造で、その重厚な趣がかつての藩の威信を伝えている旧藩庁門を訪れる。

1916年(大正5)に建てられた、旧山口県庁舎と旧県会議事堂を公開した施設。武田五一らの設計による大正建築の粋を凝らした後期ルネッサンス様式の建築で、国の重要文化財に指定。玄関ホールや正庁会議室、議員控室の天井など、随所に凝ったデザインが見られる。議場、知事室などが見学できる山口県政資料館を見学。

山口の自然、地理、歴史などを総合的に紹介する博物館。2階には理工、地学、天文の各展示室があり、3階の体験型理工展示室では、山口線運転シミュレーターでリアルな運転体験ができる山口県立山口博物館を見学。

フランシスコ・サビエルは1549年(天文18)に来日、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師。西国一の大大名だった大内義隆を頼って山口を訪れ、本格的な布教活動を行った。わずか5カ月ほどの滞在であったが、受洗者は500人を越えたといわれる。サビエルの来訪400年を記念して建てられた聖堂は1991年(平成3)に火災で焼失。その7年後、高さ53mの2本の塔を持つ斬新なデザインの聖堂として再建された。1階はサビエルの足跡と日本のキリスト教の歩みを紹介する記念館、2階は光と水をテーマにしたステンドグラスが美しい礼拝堂になっている山口サビエル記念聖堂を訪れる。

雪舟や狩野芳崖の日本画、香月泰男のシベリアシリーズなど、山口ゆかりの作家の作品を中心に所蔵。特に雪舟の『牧牛図・渡河』『牧牛図・牧童』は、国の重要文化財に指定されている名品だ。絵画のほか、写真や彫刻などのコレクションを年に数回展示替えして紹介している山口県立美術館を見学。

湯田温泉方面に向かう。

温泉街の一角、明治の元勲・井上馨の生家跡を公園としたもの。幕末に京都の政変で都落ちしてきた、三条実美ら七卿の宿舎にもなった。園内にはその記念碑や井上馨の銅像のほか、湯田温泉生まれの詩人・中原中也の詩『帰郷』の一節を刻んだ詩碑、一時湯田温泉に住んだ俳人・種田山頭火の句碑などが立つ高田公園を散策する。

近代を代表する詩人、中原中也の生誕地に立つ記念館。常設展示のほか、企画・特別企画展示コーナーがあり、さまざまな角度から中也の世界にふれられる中原中也記念館を見学。

徳山方面に向かう。

12:30徳山到達。

徳山港からフェリーで大津島に向かう。

大津島にある、太平洋戦争末期に特攻兵器として開発された人間魚雷・回天の記念館。記念館から徒歩12分のところには回天発射訓練基地跡が残る。特攻隊員の遺書や遺品の展示ほか、回天の歴史や時代背景をパネルやビデオで紹介。また、映画「出口のない海」で使用した全長3.5mの回天操縦室の模型を展示している。館脇には回天の実物大の模型もある回天記念館を見学。

フェリーで徳山に戻る。

周南ゆかりの洋画家・宮崎進、詩人まど・みちお、画家岸田劉生の作品や、毛利家資料など郷土の歴史資料を収蔵している。なかでも周南が生んだ日本の代表的な写真家・林忠彦の記念室は、作品だけでなく、愛用のカメラや機材も展示。有名な太宰治のポートレートのオリジナルプリントや、その撮影場所であるバー「ルパン」の再現コーナーもあって興味深い周南市美術博物館を見学。

18:00新幹線ひかりで出発
20:09新大阪到達。

今回の旅行、各駅に集中して観光名所が位置していたため、あえて車を使わず電車と歩きで観光巡りしました。

西ノ京と呼ばれ多くの寺や寺院が点在する風情ある町並みを歩く、山口タウンの散策、約800年の歴史をもつ湯田温泉、新幹線やSLやまぐち号が発着する鉄道交通の拠点、新山口、徳山港の西南約10kmに浮かび、太平洋戦争末期に人間魚雷回天の発射訓練基地があったことでも知られる負の遺産を訪ね、平和の尊さを心に刻む大津島のある周南、ローカルな電車と歩きでゆったりと訪れることが出来ました。

車を使っての観光は移動時間のロスが少なく、短時間で多くの名所を回ることが出来ますが、今回のローカル線を利用して歩きの観光巡りものんびり出来、又違った意味で楽しめることが出来ました。

たまにはこのような旅行も楽しいですね。次回又計画します。









大阪ベイエリア観光
2009年12月9日


今回は近場の大阪市の大阪湾付近のベイエリアにある名所を訪れました。

12:30天保山方面に向かう。

13:30天保山到達。

企画展示を行うギャラリーと、巨大立体映像が楽しめるアイマックスシアターを併せもつミュージアム。建築家安藤忠雄設計の建物のデザインも必見のサントリーミュージアムを訪れ、クルムト・シーレの特別展示を見学。

南港方面に向かう。

大阪の海の交流史をメインテーマにした、船と歴史の体験ミュージアム。海面から直径約70m/高さ約40mのガラス張り半円球ドームが顔を出すという建物のデザインが一際目をひく。地下にあるエントランスを経て、天窓のついた長さ約60mの海底トンネルを通り抜け、ドーム内のエレベーターで4~1階までと進む。「大航海時代」の海上貿易・交流から、海の玄関口という役目をもった近世大坂の様子、江戸時代に大坂~江戸間を往来していた菱垣廻船をはじめとする和船の発達史などまでが、展示・紹介されている。江戸時代の町人に扮したパフォーマーの説明や案内もある(土日祝のみ)。とくに、2階に実物大で展示中の「浪華丸」(長さ約30m)への乗船や、3Dスーパーバーチャルシアター、星を利用して時間を測る夜間時計などの体験は人気が高く、航海の素晴らしさを伝えているなにわの海の時空館を見学。

四季を通じて、毎年さまざまな渡り鳥が飛来する。自然豊かな園内には干潟や林など野鳥たちの姿を間近で見られるポイントが点在し、自然に生きる鳥たちの生態を観察することができる大阪南港野鳥園を散策する。

ミズノ大阪本社内のスポーツミュージアム。明治時代からの野球グラブや昭和初期からのテニスラケット、スキー板、ゴルフクラブなどを展示。特に、現代のプロ野球選手が実際に使っているグラブ、バットなどを展示するプロモデルコーナーは要注目。最新のスポーツ用品の展示、2020年のスポーツシーンを想定した未来感覚のコーナーもあるスポートロジーギャラリーを見学。

住之江方面に向かう。

花と緑に満ちた都会のなかのオアシスとして親しまれている公園。コンセプトは花と緑とふれあう、広々とした施設で遊ぶ、スポーツを楽しむ。四季折々に彩りを変える花や木々、野球場やテニスコート、プールなどの充実したスポーツ施設、子供たちがのびのび遊べる児童遊戯場などがある住之江公園を散策する。

昭和15年5月、仁徳天皇と明治時代以降の大阪府出身の戦没者を祭神として創建された。明治33年以来続けていた遺族らの悲願が、日中戦争に際し実ったもので、神社の築造には、のべ36万人が勤労奉仕にかけつけた。有志が桜樹献木会を組織して桜・桐約千本を植えるなど約2万平方メートルの神域はうっそうと樹木が茂り、閑静なたたずまいを見せている大阪護国神社を訪れる。

近畿でも有数の古い神社。摂津国一ノ宮として信仰され、禊祓[みそぎはらい]の神、海上安全の神として崇敬されてきた。住吉造と呼ばれる本殿の4棟が国宝、大海神社や石舞台、南門、楽所[がくしょ]が重要文化財に指定されている。本殿の南側には毎年6月14日に御田植神事が行われる御田がある。池に架かる反橋は通称太鼓橋といわれ、現在の橋脚は淀君の寄進だという住吉大社を訪れる。

明治6年に開設された大阪でもっとも古い公園です。春は満開のサクラのもとで行われる桜祭り、夏は隣接する住吉大社の住吉祭り(夏越大祓神事)、お正月には初詣と、1年中にぎわいをみせています。公園中央部を通る潮掛道はかつて住吉大社の参道であったところの住吉公園散策する。

17:00終了。

今回の名所巡り、大阪市のベイエリアに足を運び、昨今、人気のあるクリムト・シーレの特別展示を開催しているサントリーミュージアムを見学、又プロ野球選手のグローブが展示しているスポートロジーギャラリー、イチロー、松井、その他有名選手の使用していたグローブの展示、なかなか感激いたしました。





三重県松坂・津・関観光
2009年12月6日


今回は近場の波穏やかな伊勢湾と黒潮洗う熊野灘に囲まれた1000kmに及ぶ海岸線を持ち、東海と近畿の接点地、三重県に足を運び、江戸時代の風情を残す関の町並み、松坂牛で知られ戦国時代の武将蒲生氏郷が築いた城下町、松坂、三重県の県庁所在地で藤堂藩32万石の宿場町として栄えた津を訪れました。

6:45電車で東西線、環状線、東海道線、草津線、関西本線を経由して
9:15関駅到達、関の町並みを散策する。

江戸時代の町家を公開し、宿場の暮らしを再現した資料館。内部にはバッタリや蔀戸など町家特有の工夫が見られるほか、当時の生活道具が展示されている関まちなみ資料館を見学。

関宿でも1、2を争うほどの規模であった旅籠玉屋を修復した資料館。店の間、帳場、客室、坪庭、離れなどを自由に見学できる。宿場町であった時代に使われていた食器や食膳、旅の持ち物などが展示され、興味深い関宿旅籠玉屋歴史資料館を見学。

741年(天平13)、僧行基が開いたとされる日本最古の地蔵院。一休禅師がここで改めて開眼供養したと伝えられる。徳川綱吉の寄進による本堂には174枚もの天井絵がある。本堂、愛染堂、鐘楼堂は重要文化財の関の地蔵院を訪れる。

東西約1.8kmにわたる旧街道の東西の入口が追分だ。東追分は東海道と伊勢別街道の分岐点で、今も残る大鳥居は伊勢神宮を遥拝するもの。20年に一度の遷宮の際、宇治橋南詰の鳥居を譲り受けて移設される。西追分は東海道と大和・伊賀街道の分岐点で、元禄時代の石碑が残る東西の追分を訪れる。

関宿が江戸から百六里の距離にあったことから、その名が付いた小公園。古い町並みの中にあり、東屋風の休憩所や井戸を模した水飲み場などがある。展望台眺関亭も併設されていて、関の町並みを一望できる百六里庭を訪れる。

亀山方面に向かう。

石川氏六万石の家老職にあった加藤家の屋敷跡。建物は江戸時代中期以降の建築とされるが、1990年の修復工事で幕末当時の姿に復元された。土蔵のなまこ壁や長屋門の白壁に城下町の面影が残っている加藤家長屋門・土蔵を訪れる。

1590年(天正18)に岡本良勝が築いた城。かつては5つの曲輪があり、櫓や門が立ち並んでいた。現在は石垣の上に多門櫓を残すのみだが、美しい石垣に往時の姿が偲ばれる。多門櫓は県の史跡に指定されている。近年、城内門の1つであった石坂門の石垣が発掘され、亀山市歴史博物館の玄関前に一部を移築・復元されている亀山城跡を散策する。

一身田方面に向かう。

600以上もの寺院を数える、真宗高田派の総本山。国宝『西方指南抄』や『三帖和讃』ほか、本堂如来堂、御影堂など多くの重要文化財をもつ専修寺を訪れる。

津方面に向かう。

1982年(昭和57)9月開館。現在、5000点を数える所蔵品は、三重県ゆかりの美術、日本近現代美術、西洋近現代美術、スペイン美術などにわたる。これらを年4期にわけて常設展示するほか、国内外の様々な美術を紹介する企画展を開催する三重県立美術館を見学。

松坂方面に向かう。

戸で紙や木綿を手広く商っていた豪商、小津清左衛門の屋敷を公開したもの。17世紀末ごろに建設された木造2階建ての母屋には、見世の間、勘定場、座敷など20以上の部屋がある。屋敷奥の内蔵には、松阪商人に関する資料を展示している松阪商人の館を見学。

1911年(明治44)建築の旧市立図書館を改装した資料館。1階には薬種商・桜井家の店が再現され、池大雅の書とされる金看板が見もの。2階には松阪木綿や伊勢白粉の資料、道具類が展示されている。年4回企画展を開催。建物は国の登録有形文化財に指定の松阪市立歴史民俗資料館を見学。

江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅で、国の特別史跡に指定されている。宣長が2階の物置を改造して4畳半の簡素な書斎を造ったのは53歳の時。鈴屋の命名は宣長自身で、研究に疲れると柱掛の鈴を振って音色を楽しんだという鈴屋[本居宣長記念館]を訪れる。

鈴屋に隣接する記念館には、宣長の著書、蔵書、書簡、愛用の文具や鈴のコレクションが収蔵、展示されている。1730年(享保15)、松坂本町の小津家に生まれ、23歳で上京し、5年半の勉学ののちに帰郷、町医を開業した。その後、国学者の賀茂真淵と出会い、『古事記』研究の志を固め、35年の歳月をかけて全44巻の『古事記伝』を完成させた。記念館にある自筆の自画像や『古事記伝』など約2000点が重要文化財の本居宣長記念館を見学。

松阪城は戦国武将、蒲生氏郷によって1588年(天正16)に築かれた。かつては本丸とニノ丸に石垣を築き、3層の天守閣に敵見、金の間、月見などの櫓が配されていた堅城だった。今はそそり立つ石垣を残し、公園として整備されている松阪城跡を散策する。

かつて松阪城の警護を任された紀州藩士20人の屋敷で、城の裏門と搦手門を結ぶ石畳の両側に並ぶ。長屋建ての母屋2棟(重要文化財)と前庭、畑地、土蔵などが槙垣に囲まれた姿は往時そのまま。今も藩士の子孫が住むが、そのうちの1棟が内部を一般公開している御城番屋敷を訪れる。

17:00終了。

東海道五十三次の宿駅で、伊勢街道との分岐点は東の追分から大和街道との分岐点西の追分までの約1,8kmがかつての宿場町、当時の面影を色濃く残し、東海道五十三次の宿場町としては唯一重要伝統的建造物群保存地区に選定されている関の町並み。

1590年(天正18)に岡本良勝が築いた亀山城の城下町、東海道と伊勢別街道の分岐点となる亀山。

真宗高田派本山専修寺を中心とした寺内町、ほぼ完全な姿で残る環濠が町を囲む貴重なエリアでかつては伊勢木綿を中心とした産業が栄え、信仰と商業の地として賑わった一身田。

松坂牛で有名で、戦国時代の武将蒲生氏郷が築いた城下町、伊勢木綿と伊勢白粉で大成功した松坂商人の町であり、江戸時代の高名な国学者本居宣長も輩出した松坂。

早朝から夕刻までひたすら歩いて三重県に点在する城下町、宿場町、寺内町の名所観光巡り、堪能しました。










和歌山県高野山観光
2009年12月2日


今回は近場の和歌山県の標高800mの山上に117もの寺院が建ち並ぶ真言宗の聖地、1200年にわたる信仰の歴史を刻む高野山に足を運びました。

12:30車で近畿南阪奈自動車道経由して
14:30高野山に到達。

1200年に及ぶ歴史をもつ、弘法大師(空海)が開山した真言密教の聖地。標高約900mの山上に金剛峯寺を含め117カ寺が集い、一大宗教都市を発展させてきた。壇上伽藍と奥の院を中核にした霊場には、今日もなお大師信仰を求める多くの人々が参拝に訪れる。町の周辺は森林地帯になっているので、寺巡りをしながらハイキングも楽しめる高野山を散策する。

開山以来、表玄関の役割を果たす高野山一山の総門。九度山町の慈尊院から続く町石道の表参道を上ると、ここからが山内となる。開創当時は現在の位置から500m下の九折谷の谷底に木の鳥居があった。高さ約25mの現在の朱塗の楼門は、1705年(宝永2)に再建されたもの。1986年(昭和61)にも大がかりな解体修理が行われた。大門の両脚に構える高さ4.8mの力強い金剛力士像は、阿形像を仏師康意が、吽形像を法橋運長が造ったとされている。ここからの眺望がよく、晴れた日には山並みの向こうに紀淡海峡から淡路島まで望める。また、大門の左の赤い鳥居から原生林に囲まれた山道を約600m登ると、高野山最高峰の弁天岳に至る大門を訪れる。

奥の院とともに高野山の二大聖地。真言密教の根本道場のために弘法大師が創建した密教伽藍。壇上伽藍の壇上は、諸堂が集まっている場所、伽藍は寺の建物という意味をもち、金堂、根本大塔などの総称の壇上伽藍を訪れる。

本尊に薬師如来を祭る高野山一山の本堂。創建当時は講堂とよばれていた。度重なる火災に遭い、現在の本堂は1932年(昭和7)に再建されたもの。本尊薬師如来は高村光雲の作で秘仏のある金堂を訪れる。

高野山壇上伽藍にあり、堂宇は1847年(弘化4)の再建。弘法大師の御影と10大弟子と祈親上人、真然大徳の肖像が安置されている。毎年旧暦3月21日、旧正御影供の法会が行われる御影堂を訪れる。

高野山壇上伽藍にあり、高さ約50mの5間4面の多宝塔で真言密教の根本理念を表す。弘法大師が着手し、2代座主の真然大徳のときに完成。1843年(天保14)に焼失し、以後再建されずにいたが、1937年(昭和12)に再建。内部は大日如来の本尊を中心に東西南北に金剛界四仏を置き、周囲の柱に十六大菩薩を配し、曼陀羅を立体的に表している根本大塔を訪れる。

高野山内に現存する建物のなかで最古の堂。1198年(建久9)に行勝上人が一心院谷に創建したものを移築した不動堂を訪れる。本尊の不動明王坐像(重要文化財)と運慶作の八大童子立像(国宝)はいずれも霊宝館に収蔵。

国宝21件、重要文化財143件を含む、山内に伝わる文化財から約90点を常時展示。鎌倉時代の秀作として名高い運慶作の八大童子立像(国宝)をはじめ、絹本着色の阿弥陀聖衆来迎図(国宝)、五大力菩薩図(国宝)、空海24歳の自筆とされる『聾瞽指帰』(国宝)を展示する高野山霊宝館を見学。

全国3600カ寺に及ぶ高野山真言宗の総本山。1年交代で弘法大師の身代わりを勤める検校法印の就任式や法印転衣式などの重要な行事が執り行われる。金剛峯寺の名称はもとは高野山一山の総称で、ここは青巌寺とよばれていた。1593年(文禄2)、豊臣秀吉が亡母の菩提寺として建立、1863年(文久3)に再建された。明治になり寺号を金剛峯寺と改め、総本山が置かれた。檜皮葺の大屋根をもち、東西54m、南北63mの大主殿をはじめ、別殿、新別殿、奥殿、新書院、経蔵、鐘楼、護摩堂などが並ぶ。大主殿の襖絵は狩野派の作。秀吉の怒りに触れ豊臣秀次が切腹した柳の間もある。雲海の中で一対の岩の龍が奥殿を囲む蟠龍庭は2340平方mの石庭の金剛峯寺を訪れる。

高野七口の一つ、不動口に現存する唯一の女人堂。かつて七口すべてにあった女人堂は高野山が女人禁制だったころに、女性が真言をひと晩中唱えていた場所。高野山の外周には女人道があり、女性は峯から峯を巡りながら樹間から垣間見える壇上伽藍や奥の院に手を合わせて参拝したといわれる。明治になって女人禁制が解かれたあとは、参拝者の休憩所に利用された女人堂を訪れる。

奥の院の入口、一の橋から弘法大師の御廟まで約2kmの参道両側には、戦国武将・大名・高僧・宮家など、鎌倉時代から現代まで約20万基の墓碑が並ぶ。切妻で檜皮葺きの屋根の佐竹義重霊屋(重要文化財)、参道内最古の墓碑、源氏の祖多田満仲の墓や入母屋の銅板葺の上杉謙信・景勝霊屋(重要文化財)も。中の橋脇には一年中衆生の苦を代わって受けて汗をかいている汗かき地蔵と、水面に映る姿の濃淡により命の長短が分かるという姿見の井戸がある。御廟橋までには高麗陣敵味方供養塔、高さ約10m、参道内最大の墓石で通称、一番石塔の崇源院墓(徳川秀忠夫人墓)、芭蕉句碑も。参道沿いには御廟まで19基の町石が続く奥の院参道を散策する。

御廟の前室として、真然が創建。参道正面の石段上にあり、大師へ献上するたくさんの灯籠が堂内いっぱいに下げられている燈籠堂を訪れる。

壇上伽藍とともに高野山の二大聖地で、弘法大師の御廟がある。玉川にかかる御廟橋を渡ると、36枚の橋板と全体を1枚と数え、金剛界三十七尊を表す。1枚ごとに裏面に種子(梵字)が刻み込まれている。参詣する人たちを弘法大師が迎え見送る場所といわれ、僧侶や参詣者が廟に向かって合掌する姿が見られる。この橋は石童丸が父道心と初めて出会った場所でもある。玉川は霊峰揚柳山から湧き流れる川で、かつては禊の場。流れの上に立てられた卒塔婆は、水難や難産で死んだ人たちを供養するためのもので流水灌頂という。右手には先祖供養の水向地蔵がある御廟を訪れる。

龍神~高野山を結ぶ延長42.7kmの山岳道路、高野龍神スカイラインを走行する。

高野龍神スカイライン沿いの紀州一の高峰である護摩壇山頂上付近に立つ展望台。標高は1374mあるごまさんスカイタワーを訪れる。

17:00終了。

今回の観光地巡り、和歌山県高野山に足を運び、弘法大師空海が816年に高野山に修禅道場を開き、約1200年もの歴史を刻む真言宗の聖地、奥の院、壇上伽藍や金剛峯寺などの寺院を訪れ信仰の歴史を学び、かつては秘境と呼ばれた紀州の尾根を走る高野龍神スカイラインのドライブ観光、原生林の風景を楽しみながら紀伊山脈の山々の眺望、堪能しました。

今回の観光地は外人さんが目白押し、やはり世界遺産に登録された観光名所は外人さんには人気がありますね。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第八十一弾:岐阜県美濃観光
2009年11月28-29日


今回は日本のど真中に位置し数少ない内陸県の一つで海こそ無いが、美しい河川、豊かな山々、湯量豊富な温泉など、魅力あふれる岐阜県に足を運び、戦国時代に斉藤道三や織田信長が活躍し、後に徳川家康と石田三成による関が原の舞台にもなった歴史的一大中心地、江戸時代には中山道が整備され、馬籠や美濃大田をはじめ当時の趣のある町並みを残す旧宿場町も多く、関鍛冶や美濃焼、美濃和紙、鵜飼、郡上おどりといった伝統や文化も受け継がれている美濃エリアを訪れました。

28日12:30車で近畿名神自動車道経由して関が原インター下車
14:30石灰岩と水によって造り上げられた全長518mの鍾乳洞。洞内には巨人の足や玉華殿など珍しい鍾乳石が見られる関ケ原鍾乳洞を訪れる。

関ケ原駅から北西へ延びる街道沿いがかつての主戦場。向かって前方左手が石田方西軍の笹尾山、後方右手が徳川方東軍の桃配山。戦死者を葬った首塚、各武将の陣跡なども点在する関ケ原古戦場を訪れる。

関ケ原合戦の詳細を解説する資料館。実際に使われた火縄銃やほら貝、軍記の写本や屏風絵などを展示する関ケ原町歴史民俗資料館を見学。

養老山地北部に広がる約78.6万平方mの広大な敷地内に、由緒ある神社・仏閣、霊泉などを有する自然公園。巨岩や老樹に囲まれた養老の滝はこの公園の中心。高さ約30m・幅約4mの清冽な流れは圧巻で、霧のようにたちこめる水しぶきで夏でも肌寒さを感じるほどだ。717年(霊亀3)、元正天皇がその水の清らかさに感動し、若返りの美泉とたたえ年号を養老と改元したと伝えられる菊水泉は養老神社境内にある。木造十一面千手観音立像(重要文化財)をまつる養老寺、養老キャンプセンター、こどもの国などもある養老公園を散策する。

養老公園内にある世界的に有名なアーティストの荒川修作氏と詩人マドリン・ギンズ氏が1万8000平方mの楕円形の窪地に築いた巨大なアート庭園。すり鉢状にくり抜かれ、起伏に富んだ広大な斜面には大小5つの日本列島があり、半球状の小山とくぼみが対をなして点在したり、迷路のように入り組んだ148もの回遊路が交差している。天井から家具がつり下げられ、上下の感覚が麻痺するような「極限で似るものの家」、暗闇を手探りで進む「切り閉じの間」のほか、「想像のへそ」「陥入膜の径」など、10のパビリオンとも不思議な構造でバランス感覚を失いそうになる養老天命反転地を訪れる。

岐阜方面に向かう。

18:00岐阜駅の近くのホテル到着後繁華街を散策して食事を済ませてから床に就く。

29日6:30車で美濃に向かう。

江戸時代から続く趣のある家並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているうだつの上がる町並みを散策する。美濃は物資集散の一大商業都市として栄え巨万の富を得た豪商らが建てた町並みである。

毎年10月に開催される、美濃和紙あかりアート展を館内に再現。館内は和紙を使ったあかりの幻想的な空間だ。美濃和紙の里会館、美濃和紙あかりアート館に寄る。

江戸時代中期から和紙問屋を営んできた旧今井家。敷地内にある4つの蔵では、うだつ・和紙・美濃まつりに関する展示を行っている旧今井家住宅・美濃史料館による。

南下して

ナイフのみを集めたミュージアム。アメリカ、ヨーロッパ、アジアなど世界約30カ国の珍しいナイフ約1500点を展示。中でも全長1.5mの世界一大きなナイフは迫力満点のナイフ博物館を見学。

郷土の自然と生い立ちを中心に紹介する博物館。メインホールには恐竜の化石などを展示。県民のコレクション等の展示を行う岐阜県博物館を見学。

標高329mの山頂からは岐阜市内を一望することができる。岐阜城や、自然と触れあえる散策コースもある金華山をロープエイで上る。

戦国時代、斎藤道三の居城だった稲葉山城が、織田信長の占領によって岐阜城と名を変えたのは1567年(永禄10)。その後、関ケ原の合戦の前哨戦で落城。金華山に現在立つ岐阜城は、1956年(昭和31)に再建されたものだ。三層四階構造で、内部には甲冑や文献を展示。最上階は展望台になっている岐阜城を訪れる。

飛行機や宇宙船の仕組みや原理、開発の歴史がわかるエアロスペースパーク。屋外の実機展示のほか、ロボット科学や航空科学を学習できるかかみがはら航空宇宙科学博物館を見学。

世界最大級のビッグスケールを誇る淡水魚水族館。各階ごとテーマに沿って趣向を凝らした展示スタイルがとられ、地元岐阜に棲息する淡水魚をはじめ、アジアや南米など世界各国の水辺の生物260種2万8500匹を観察できる岐阜県世界淡水魚園水族館を見学。

ルドンのコレクション約250点をはじめ、岐阜県にゆかりの前田青邨、川合玉堂、熊谷守一のほか、ルノワールの作品など約3千点を収蔵する岐阜県美術館を見学。

大垣方面に向かう。

1535年(天文4)に築城。関ケ原合戦では西軍の本拠地となった。4層4階建て総塗りごめ様式の優美な天守閣からは大垣市内を一望できる大垣城を訪れる。

1985年(昭和60)、関ケ原合戦の後、戸田氏鉄がこの地を治めてから350年を記念して開館。歴代大垣藩主・戸田氏の肖像画や銅像などを展示している。藩主や郷土の先賢の書画など、貴重な美術品も多数所蔵の大垣市郷土館を見学。

17:00終了、大阪に向かう。

今回の旅行、日本のど真中に位置し数少ない内陸県の一つの岐阜県に足を運び、天下分け目の戦いといわれた関が原の戦いの合戦地として有名な関が原。

駅前には再開発で新ランドマークのシティタワー、賑わい度アップの岐阜中心部、郊外には長い歴史を誇るぎふ長良川鵜飼、古い町並みが残る川原町などの岐阜タウン。

物資集散の一大商業都市として栄え巨万の富を得た豪商らが建て、江戸時代から続く趣のある家並みが残る美濃。

水門川を生かした舟運の港町として、東西交通の要として栄えた地、良質で豊かな地下水にも恵まれ水の都とも呼ばれ、俳聖・松尾芭蕉の奥の細道の結びの地としても有名な大垣。

一泊二日で岐阜の中心地の歴史的ゆかりのあるエリアを訪れ、岐阜県の日本でのいちずけを学習、再確認できました。










三重県奥伊勢観光
2009年11月25日


今回は三重県の奈良県と境の奥伊勢方面に足を運びました。

12:00車で出発
14:30奥伊勢方面に到達。

奈良との県境にそびえる台高山脈の北端の主峰。標高1248mの山頂まで登山道が整備され、山頂からは伊勢湾、河内平野、香落渓、台高山脈などが一望できる高見山の麓を通過。

国道166号は旧和歌山街道。歴史を感じさせる家並みが続き、なかでも波瀬地区は本陣田中家が残る旧宿場町の波瀬の町並みを訪れる。

櫛田川の支流の蓮川によって形成され、室生赤目青山国定公園一部でもある。1000m級の山々が迫り、自然を満喫できるポイントは数多いが、なかでも蓮川上流に位置し、奇岩や原生林がある宮ノ谷渓谷は代表する渓谷の一つ。遊歩道も整備され、川沿いにゆるやかな傾斜の道が続いている奥香肌峡を散策する。

春日大社の流れを汲み、天児屋根命を祀る。境内にそびえる神木は樹齢1000年以上の大楠で、県の天然記念物に指定されている。2005年、フランスのブルゴーニュ地方に分社を創建した水屋神社を訪れる。

山々に囲まれた、周囲16km、面積220万平方mの湖。4月下旬~11月末は遊覧船が運航。水上から大台山系の雄大な景観が楽しめる。春に咲く約3000本の桜、秋の紅葉も見逃せない宮川ダム湖を訪れる。

大杉谷の登山口手前にある滝。美濃ケ谷に流れ落ちるこの滝は、1541年(天文10)の発見で、六十尋(約90m)の落差があることからこの名がついたという。実際にはそれほどの高さはないが、間近で見るとその迫力に圧倒される六十尋滝を訪れる。

17:00終了。

今回は近場の奈良県よりの三重県奥伊勢エリア、二つの川、櫛田川と宮川の上流に点在する名所巡りしてきました。

櫛田川と宮川はカヌーでの川下りで何回かは訪れたことがありましたが観光は初めて、二つの川の上流の自然に接して楽しめました。

昼からの半日の名所巡り、三重県は今回で最後の訪れです。
三重県の他の観光エリアは一日以上必要ですね。
又時間を作って訪れたいと思います。




飛行機で国内&海外の観光地巡り第八十弾:石垣島&波照間島&竹富島観光
2009年11月21-23日


今回は沖縄本島の南西、八重山諸島の玄関口、石垣島、星の綺麗な日本最南端の有人島、波照間島、八重山の美しい原風景が残る島、竹富島に足を運びました。

21日15:05関西国際空港出発
17:25那覇空港到達
18:40那覇空港出発
19:40石垣空港到達、タクシーで石垣港付近のホテルに向かう。
20:00ホテル到着後繁華街で食事を済ませて床に就く。
22日8:20高速艇で波照間に向かう。
9:20波照間港到達

石垣島から南西63kmの、日本最南端の有人島。高那崎には日本最南端の碑が立つ。サトウキビ栽培が中心ののどかな島で、中央に集落がある。この島は緯度が低いため、本州で見ることのできない星座が観測でき、口径200mm屈折式望遠鏡を備えた星空観測タワーが人気をよんでいる波照間島をレンタカーで巡る。

左回りで一周道路を走行する。

一週道路から浜へ向かう道へ歩いていく。突然目の前に広がるいくつも青色の景色は、思わず歓声をあげたくなるほど美しい。波照間島の北西部にある浜は、真っ白な砂浜とエメラルドグリーン海の美しい日本で一番南のビーチ、ニシ浜を訪れる。

島の西岸の波打ち際にある隆起サンゴ礁の上に、太い幹をぐねぐねとくねらせながら育つハマシタン(和名ミズガンピ)の大木群を見ることができる。群落内には二十数本の老大木があり、大きな木では樹高3.5m、幹の周囲が2mもあり、樹齢数百年に及ぶのではないかといわれ、町指定の天然記念物に指定されているハマシタン群落を散策する。

日本最南端の碑は、1972年(昭和47)の沖縄本土復帰を記念して立てられたもの。北回帰線までわずか66kmという位置にあり、目の前に広がる太平洋の先にはフィリピン諸島がある。海側へ出ると、左手に見えるのが高さ数10mの断崖絶壁が続く高那崎・日本最南端の碑を訪れる。

日本最南端の碑にほど近い場所に立つ観測タワー。館内のプラネタリウムでは波照間の夜空を上映している。屋上のドームにはコンピュータ制御された口径200mmの屈折式望遠鏡があり、夜には天体観察ができる星空観測タワーを訪れる。

シムスケーとは旧シムス村跡にある古井戸のこと。その昔、7ヵ月にも及ぶ大干ばつの際、1頭の牛がこの地を前足で掘り水を飲んでいた。それを見た人々はここに井戸を掘り、水を得て、命を救われたと伝えられているシムスケーを訪れる。

島の中央にある集落に向かう。

15世紀末、琉球王朝の重税に反対し、農民の代表として反乱を起こしたオヤケアカハチが生まれた屋敷跡の碑。今でも八重山が生んだ英雄として関係する碑が各地に残されているオヤケアカハチ生誕の碑を訪れる。

波照間港から集落へ向かうと気になる石垣がある。何かの遺跡のような雰囲気のこの地は「旧藩時代の火番所 会場の船舶の通報のために炊火を揚げた」と記された石碑が側にあり、歴史を感じさせる場所。側の階段を上がってみると、島中を見渡せ、遠くのほうに西表島さえも見ることができる。最高の眺めであるコート盛を訪れる。

13:00波照間港到達
13:15高速艇で石垣島に向かう。
14:15石垣港到達、石垣タウンを散策

本の最南端に位置する八重山諸島の歴史と文化を紹介している博物館。八重山上布や陶磁器などの美術工芸品、民具類をはじめ、琉球王府時代の古文書、南方から漂着したくり舟など八重山ならではの文物が約1万2000点収蔵され、600点の資料を展示している八重山博物館を見学。

戦後八重山民政府の知事に任命された吉野高善氏の陶器のコレクションや、民具、家具、歴史資料を収集・展示。沖縄の民家に招かれたような独特の雰囲気が印象的な南嶋民俗資料館を見学。

1819年(文政2)、宮良間切の頭職だった宮良親雲上當演が、琉球の伝統的な建築様式にのっとり造らせた館。世界大戦で沖縄本島の士族家屋はことごとく焼失したが、石垣島は戦火を免れた。そのため、当時の士族の邸宅を知る資料として、国の重要文化財に指定されている。母屋の右奥にある庭園は首里の名造園師、城間親雲上が設計監督したもので、国の名勝に指定されている宮良殿内を見学。

ホテルに戻ってから繁華街で食事を済ませて床に就く。

23日鳩間島に向かう予定でしたが波が高く高速艇が欠航、竹富島に変更。
7:30石垣港から高速艇で竹富島に向かう。
7:40竹富島到達
石垣島の西方約6km、サンゴ礁に囲まれた小島。島の集落には、昔ながらの赤瓦屋根の家並みが保たれ、国の町並み保存地区となっている。琉球民謡安里屋の発祥の地であり、集落の美しさは最も沖縄らしい島と讃えられる。毎年秋に国指定重要無形民俗文化財の種子取祭が島の人たち総出で行われる竹富島を歩いて左回りで島を一周する。

西表石垣国立公園竹富島の自然と伝統文化・芸能を紹介する施設の竹富島ゆがふ館を見学。

島で一番のサンセットスポットがここ。目の前には西表島やカヤマ島を望め、夕方になると海に沈む夕日と赤く染まる空を見にくる島の人も多い。昼間は真っ青な海に突き出た桟橋が印象的な西桟橋を訪れる。

コンドイビーチの南側にあるビーチ。別名星砂の浜ともいわれ、砂浜に手を押しつけると手のひらにたくさんの星砂や太陽砂がくっついてくるカイジ浜を訪れる。

島の中央部の集落に向かう。

1987年(昭和62)、国の伝統的建造物群保存地区に選定。ハイビスカスが咲き、サンゴを積み上げた石垣に囲まれた家の伝統的な赤瓦と白砂の道が美しいコントラストを見せる集落は、昔ながらの景観を残している。町中央の赤山公園にある、なごみの塔からの景観がすばらしい竹富島の集落を散策。

標高約20m、島で一番高いンブフルの丘の民家に立つ展望台。ンブフルの丘の名前の由来は、かつて仲筋集落の住民の飼っていた牛が夜中に逃げ出し、角をシャベルがわりに土や石を積み上げ一晩で丘を築き、朝になり頂上で「ンブフル、ンブフル」と鳴いたところからきているという。展望台は今から30年以上前、生盛氏という島民が島を見下ろしてみたいという思いで作ったそうだ。島全体をはじめ、西表島や石垣島など周辺の島々まで望むことができるンブフル展望台を訪れる。

赤瓦屋根が並ぶ集落のほぼ中央にある、赤山公園の丘に立つ塔。赤山丘には壇の浦の戦いで敗れた平家の落ち武者、赤山王が住んでいたという伝承がある。1953年に有志によって赤山丘一帯が集落に寄贈されると周辺を赤山公園として整備し、塔も竣工した。塔のてっぺんからは、町並み保存地区に指定された集落を見下ろすことができるなごみの塔を訪れる。

竹富島の代表的な織り物、ミンサーをはじめ、八重山地方の染織の製作工程を見学できる工芸館。帯やランチョンマット、財布といった製品を館内で展示販売もしている竹富民芸館を見学。

民芸品から伝統工芸品、美術品など約4000点を展示する、竹富島の歴史民俗資料館。もともとは喜宝院という、日本で最南端の寺の初代住職、上勢頭亨氏が蒐集した民俗、考古資料を保存展示したもの。その資料は多種多様だが、なかでも珍しいのは、わら算(琉球王朝時代に庶民がつくり出した文字の代用品で、わらの編み方や結び方などを組み合わせて、物の種類や量などを記したもの)。国の登録有形民俗文化財に指定されている喜宝院蒐集館を見学。

12:30竹富島港到達。
12:45高速艇で出発
12:55石垣島港到達、石垣タウン散策
15:40バスで石垣空港に向かう。
18:15石垣空港出発
19:05那覇空港到達
19:40那覇空港出発
21:10関西空港到達

今回の旅行、4回目の訪れの石垣島、前回2回にわたって波浪により波照間島断念、今回はやっとの思い出、日本の最南端の島、波照間島を訪れることが出来、満足できました。
しかし鳩間島は波浪のため足を運ぶことが出来ず、次回持ち越しとなりました。

鳩間島に代わって3回目の訪れとなる竹富島を歩いて細部にわたって十分な観光巡りしてきました。

11月ですが西高東低の冬型気圧、22日は晴れましたがその他の日は小雨で風がやや強く、なかなか八重山諸島の観光巡りは苦戦、今回も天候に恵まれない旅でした。
やはり天候の穏やかな夏に訪れることですね。

 












奈良県生駒史跡巡り
2009年11月18日


今回は近場の奈良県の生駒信貴山脈の麓に足を運び、寺社など歴史的建造物を巡ってきました。

12:30車で生駒方面に向かう。

茶を点てるときに使う茶筌は、国内生産のおよそ9割を生駒市高山で作っている。その茶筌つくりにかかわる資料を展示し、また、さまざまな竹の見本園もある高山竹林園を訪れる。

聖武天皇が狩りをした際、我が子の流れ矢にあたって死んだ鳥見郷の名族真弓長弓[まゆみながゆみ]を哀れんで、行基に命じて建立させたと伝わる。入母屋造檜皮葺きの本堂(国宝)は、和様に天竺様、唐様を加えた優美な建築。堂内には厨子(重要文化財)に納められた一木造の十一面観音立像(重要文化財)を安置する長弓寺を訪れる。

商売繁盛の現世利益と、禁酒など断ちものを祈願する庶民信仰の寺。生駒山中腹にあり、生駒の聖天さんと親しまれている。役行者や空海が修行した地と伝えられ、1678年(延宝6)に宝山湛海が歓喜天を祭ったのが寺の起こり。般若窟と呼ばれる大岩壁を背に、本堂・聖天堂・多宝塔・絵馬堂などが立ち並ぶ宝山寺(聖天さん)を訪れる。

正式には往馬坐伊古麻都比古神社といい、石垣の壇上に7棟の春日造檜皮葺きの社殿が立ち並ぶ。社殿は明治の再建だが、古くは生駒山を御神体とした神社で火の神として崇敬を集め、歴代の天皇即位の際に、火を起こす道具である火燧木を献上してきた往馬大社を訪れる。

天平勝宝年間(749~757)に創建された古刹。本尊の阿弥陀三尊像を祭る本堂(重要文化財)は入母屋造本瓦葺きで、鎌倉時代に再建されたもの。本堂前に同じく鎌倉時代の美しい宝篋印塔(重要文化財)が2基あり、南側の塔身には四仏が浮彫され、北側の塔身には四仏を表す梵字と永仁元年(1293)の銘が刻まれている円福寺を訪れる。

役行者が大峯山を開く前に修行したといわれる修験道の霊場で、元山上とも呼ばれる。境内には本堂や観音堂、宝塔、十三重塔などの堂塔が立ち並び、五尊磨崖仏やハラミ地蔵、貝ふき地蔵という名の地蔵が崖に彫られた行場めぐりもできる千光寺(元山上)を訪れる。

天武天皇の皇子、高市皇子の第一皇子である長屋王の墓と伝えられる場所。聖武天皇即位の際に左大臣に就いたものの、藤原氏の陰謀で、自殺に追い込まれた。削平された前方後円墳の後円部を利用した直径15mの塚が樹木におおわれている長屋王墓を訪れる。

龍田風神とも呼ばれる風の神を祭る式内社。崇神天皇の時代に凶作が長く続いた際、神のお告げをもとに社殿を創建。気を司る天御柱命と国御柱命を祭ったところ、五穀豊穣になったと伝える。近年は、航海や航空の安全を祈る参拝客も多い龍田大社を訪れる。

標高437mの信貴山中腹にある聖徳太子ゆかりの寺。寅の年・寅の日・寅の刻に現れた毘沙門天を、太子が祭ったのが始まりとされる。松永久秀が築いた信貴山城が1577年(天正5)に織田信長に攻められて炎上すると、寺も焼亡、のち豊臣秀頼が復興した。本尊の毘沙門天は福徳と財宝を授けるといわれることから、庶民信仰が篤い。石灯籠が並ぶ参道には巨大なトラの像も設置されている。山腹に護摩堂や三重塔などが立ち並び、一番奥の舞台造の朱塗りの本堂からは、奈良盆地の眺望がすばらしい。寺宝に名高い信貴山縁起絵巻(国宝)を伝え、本堂脇の霊宝館で毎年10月末日から2週間公開される朝護孫子寺を訪れる。

生駒山脈の稜線をたどり、大阪平野と大阪湾、奈良盆地の眺望を楽しみながら走れる全長20.9kmの快適なドライブウェイ。阪奈道路登山口から生駒山上遊園地・生駒山上を経て、暗[くらがり]峠・鳴川峠・十三峠とクロスして信貴山へ至る。春は桜、夏は新緑、秋は紅葉と四季折々の景色が楽しめ、夜景スポットとしても有名な信貴生駒スカイラインを走行する。

17:00終了。

今回の史跡巡り、近場の奈良県、生駒山脈の麓の歴史的建造物を訪れ、歴史学習できました。

尚信貴スカイラインを走行して、東の奈良盆地、西の大阪平野の奥行きのある町並みの眺望、今までにも何回も訪れ眺望してきましたが、やはりすばらしいものがあり、奥行きのある眺望はぴか一と言っても過言では無いでしょうか。






飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十九弾:愛媛県佐田岬&南予観光
2009年11月14-15日


今回は四国の北西部に位置し、北側には瀬戸内海、南側に西日本最高の石槌山がそびえ、瀬戸内海、宇和海には200余りの島が浮かび、海山里の自然に恵まれ、温暖な気候風土ゆえに山海の幸が豊かで、穏やかな県人気質を作り出している愛媛県に足を運び、ぼってりした白磁に青い呉須が特徴の砥部焼きで有名な砥部、長い海岸線を持つ佐田岬半島、レトロの町並みが美しい内子、大洲、宇和を訪れました。

14日15:40伊丹空港出発
16:30愛媛松山空港到達、レンタカーで松山市内に向かう。
松山駅付近のホテルに到着後、国内外の優れた作品を収蔵する美術館。年間4~6回、企画展を開催。常設展示室では、地元作家の作品を中心に、2~3カ月ごとにさまざまなテーマを設けて展示している。企画展に合わせて講座も開催。参加創造型の美術館として親しまれている。展望ロビーから見える松山城もおすすめの愛媛県美術館を見学。

松山タウン繁華街を散策して食事を済ませてから床に就く。

15日6:30レンタカーで佐田岬半島に向かう。

長さ50kmに及ぶ佐田岬半島の尾根部分を走る国道197号。八幡浜から伊方町三崎までの38.9kmがメロディーラインで、快適なドライブが楽しめるメロディーラインを走行する。

海峡を隔て九州を望む四国西端の岬。車で行ける駐車場から遊歩道を約20分歩くとキャンプ場に出る。その先に50段の階段があり、登り切ると高さ19mの佐田岬灯台がある。対岸の佐賀関までは豊予海峡を挟んでわずか13.5kmだ。海が夕日に染まる日没のころの景観は特に美しい佐田岬を散策する。

戻って保内地区を流れる宮内川沿いには、旧東洋紡績の赤レンガ倉庫や洋館の並ぶ町並み、レンガ塀が続く赤レンガ通りなどが残っている。擬洋風建築の旧白石和太郎洋館や、国立銀行に使われた宇都宮邸、海運倉庫など近代化遺産が多く残されている明治のまちなみを散策する。

宇和方面に向かう。

宇和島藩唯一の宿場町として栄えた当時の町並みが残り、白壁の商家などが300mほど続く。白壁や卯建、出格子、半蔀のある家などが幕末から明治の面影を伝える。シーボルトの高弟・二宮敬作の住居跡や高野長英の隠家跡などもある卯之町の町並みを散策する。

5000点もの生活用具を集めた暮らしの博物館。履物・古時計・番傘・雑貨から芝居小屋の看板や鬼瓦など、展示物の内容は広範囲に及ぶ。膨大なコレクションがところ狭しと並び、宇和町ばかりでなく、日本の生活文化史を知る上で必見の博物館、宇和民具館を見学。

1882年(明治15)に建築された、アーチ型の窓をもつ擬洋風のモダンな校舎。2階には当時の教室が再現され、明治初期の教材「掛図」などを展示している開明学校を見学。

先哲とは過去の偉人や賢者の意。この記念館では、幕末から昭和に活躍した宇和町ゆかりの人々を紹介している。二宮敬作やシーボルトの娘で日本初の女医、楠本イネなどの資料を展示する宇和先哲記念館を見学。

原始時代から現代まで愛媛の歴史と文化を紹介する。広々とした館内に、竪穴式住居、中世の一般住宅、なまこ壁の民家、昭和初期の県内最大の繁華街など、各時代の建物が実物大で再現され、それぞれの生活がリアルに分かる愛媛県歴史文化博物館を見学。

1928年(昭和3)建築の旧宇和町小学校校舎を移築し、米に関する展示をしている。長さ109mの木造廊下が見ものの宇和米博物館を見学。

大洲方面に向かう。

江戸時代からの町割りがそのまま残る大洲の旧城下町の一角で、1966年(昭和41)に放映されたNHK朝の連続テレビドラマ『おはなはん』の舞台となった通り。洋館やなまこ壁の家、腰板張りの土蔵群などが並ぶ。通りの東端を曲がると明治時代に建てられた家々も並んでいるおはなはん通りを散策する。

町の東端にある肱川の景勝地・臥龍淵に立つ山荘で、大洲一番のみどころ。明治時代に4年の歳月をかけて建てられた数寄屋造の名建築。冨士山を借景にした庭園に立つ母屋の臥龍院、茶室の知止庵、不老庵の3棟がみものの臥龍山荘を訪れる。

1901年(明治34)、大洲商業銀行として建てられた和洋折衷建築を再建したおおず赤煉瓦館を訪れる。

慶長年間(1596~1615)の築城とされ、後に大洲藩主・加藤氏が13代居城した。町の西の高台にあり、天守閣は1888年(明治21)に取り壊されたが、高欄櫓、台所櫓が残る。市内の芋綿櫓、南隅櫓とともに重要文化財に指定の大洲城を訪れる。

内子方面に向かう。

道後温泉本館と並び愛媛県を代表する木造建築。正面に太鼓櫓を据えた入母屋造の木造瓦葺2階建てで、1916年(大正5)に建てられた。1950年(昭和25)に映画館に改造され、1985年(昭和60)に建築当時の芝居小屋の姿に戻った。花道やお囃子のいた黒簾など歌舞伎劇場の形式が興味深い。現在も不定期で芝居や文楽の公演が行われている内子座を見学。

1921年(大正10)ごろの薬商の暮らしをマネキン人形で再現した博物館。建物は明治時代からの薬局の店舗と家屋を利用。棚に並ぶ薬や雑貨などはほとんどが当時の商品で見飽きない。主人家族と丁稚の食事風景や女中の洗濯、大旦那の退屈そうな表情など、ユニークなマネキン人形が、生活の一コマを語るセリフにも聞き耳を立てたい商いと暮らし博物館を見学。

内子のメインストリート、本町通りの伊予銀行内子支店を山手に曲がった一帯。江戸中期から明治にかけて建てられた商家や土蔵が軒を連ね、木ろう生産で繁栄した町の面影を残す。大村家住宅(重要文化財)、本芳我家住宅(重要文化財)、内部見学可能な上芳我邸(重要文化財)など、90軒にも及ぶ町家群の集まる通りは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている八日市・護国の町並みを散策する。

八日市・護国の町並み保存地区にある資料館。1793年(寛政5)に建てられた町家を公開。厨子と呼ばれる低い2階建ての造りは、当時2階に部屋を造ることが禁止されていたため。虫籠窓と呼ばれる明かりとりの窓や大戸、蔀戸がすべて開けられる設計は江戸時代の建物の典型だ。内部では、昔の民具を展示している町家資料館を見学。

木蝋製造で内子随一の名家となった、芳我家の分家屋敷。鬼瓦やなまこ壁の建物は1894年(明治27)の建造で重要文化財。客間・座敷・炊事場などから、当時の隆盛を極めた暮らしぶりを感じることができる。隣接する収蔵庫には、芳我家の財を築く手段となった木蝋生産の用具類(重要有形民俗文化財)も収蔵(非公開)。展示棟では、木蝋の製造工程をビデオや用具類の模型を使って紹介している木蝋資料館上芳我邸を見学。

砥部方面に向かう。

砥部焼の作品を展示する施設。砥部焼は、1775年(安永4)に大洲藩主・加藤泰候が磁器焼成を命じ、杉野丈助が2年後に白磁を焼き上げたことに始まると伝えられる。砥部焼の歴史を知る上でも最初に立ち寄りたい。展示室の中では、歴史的作品が並ぶ伝統的しつらえと、実用的で美しい現代作品が並ぶ現代的しつらえのコーナーが必見の砥部焼伝統産業会館を見学。

砥部焼伝統産業会館から砥部町陶芸創作館へ向かう途中にある、約500mの遊歩道。地元の陶工による陶板が敷き詰められ、丘の斜面には陶壁も見られる。陶祖ケ丘の頂上には、砥部で初めて磁器の焼成に成功した杉野丈助の碑が立ち、砥部の町並みが遠望できる陶板の道を散策する。
松山空港に向かう。

18:00松山空港到達。
19:05松山空港出発。
20:00伊丹空港到達。

今回の旅行、四国の北西部に位置し、海山里の自然に恵まれ、温暖な気候風土ゆえに山海の幸が豊かで、穏やかな県人気質を作り出している愛媛県に足を運び、

豊後水道に突き出した全長約50km、西日本一細長い半島のドライブ観光、突端にある佐田岬灯台までの散策コースのある佐田岬半島。

宇和島藩の在郷町、宇和島街道の宿場町として栄えた宇和町、宇和町の中心に広がる卯之町、江戸時代から続く老舗旅館や蔵元をはじめ古い商家が数多く残っている宇和。

清流肱川沿いに広がる水郷の中心部は伊予大洲六万石の城下町の面影が色濃く残り、伊予の小京都と呼ばれ大洲城やおはなはん通り、明治の家並みなど、城下町の風情を伝える名所に加え、おおず赤煉互館や臥龍山荘といった明治の名建築が存する大洲。

江戸から明治にかけて木蠟と和紙の製造で栄えた歴史を持つ町、町家通り八日市・護国地区や大正時代の芝居小屋内子座をはじめ昔の栄華を物語る必見スポットなどみどころたくさんの内子。

約230年の歴史を持つぽってりとした白滋に紺色の素朴な絵付けで親しまれてきた砥部焼出有名な砥部。

松山郊外の点在するレトロな町並みの散策、満喫しました。

松山郊外の観光、多くの名所があり、観光客も多く、観光で有名な愛媛県、再確認できた観光旅行でした。















滋賀県信楽・甲賀観光
2009年11月11日


今回は近場の滋賀県に足を運び、たぬきの置物で有名な信楽焼、世界的建築家によるMIHO MUSEUM、甲賀流忍者の忍者屋敷を訪れました。

12:30車で近畿名神第二名神自動車道経由して信楽方面に向かう。

14:00信楽の穏やかな山並みに抱かれた美術館。ルーブルのガラスのピラミッドで知られるI.Mペイ設計による、自然と同化した建物が印象的。美術館棟へは枝垂れ桜の並木道、一条の光を映す銀色のトンネル、深い谷を渡る吊り橋を渡って行く。所蔵品はシルクロードの沿って、エジプト、ギリシア・ローマ、ペルシア、西アジア、中国などの古代美術と、仏教・茶道などの日本美術からなり、常時約250点を公開しているMIHO MUSEUMを見学。

陶芸に関する文化施設が小高い丘陵地に集まる。陶芸専門の美術館である陶芸館では、古信楽をはじめとし、滋賀県ゆかりの陶芸作家の作品や、世界の現代陶芸を中心に収蔵。年に数回、国内外の陶芸文化を紹介するテーマ展や収蔵品展で公開している。信楽産業展示館では信楽の陶器産業について知ることができる。信楽焼の始まりは鎌倉中期ごろといわれ、「日本六古窯」のひとつにも挙げられている。現在は、大型陶板やタイルといった建築資材を生産するなど、伝統を生かしながら時代のニーズに即応した製品作りが進められている滋賀県立陶芸の森を訪れる。

信楽駅の近くにあり、信楽焼の歴史や作品を紹介する施設。左手に徳利、右手に大福帳、あみだに笠をかぶり、白くてぽっちゃり突き出ているおなかが愛らしいタヌキの焼き物でおなじみの信楽焼。館内は信楽焼に関する資料室やギャラリーなどで構成される甲賀市信楽伝統産業会館を訪れる。

甲賀方面に向かう。

甲賀武士53家の筆頭、望月出雲守の住宅として元禄年間(1688~1703)に建築されました。外見は一般的な日本建築の住宅そのものですが、建物内部には忍者の住まいにふさわしく、侵入者から身を守る為のさまざまな工夫が凝らされている甲賀流忍術屋敷を訪れる。

792年(延暦11)、この地を訪ねた最澄が霊夢を感じたことから、イチイの木に刻んだ十一面観音菩薩(重要文化財)を本尊として祭る。高さ3.3mの日本最大級の木造坐像がある櫟野寺を訪れる。

草創は古く、聖徳太子が社壇を建立し油日大明神を祭ったと伝承されている。朝野の崇敬篤く甲賀の総社と敬い祭られ、油の神として全国油業者の信仰を集めています。県下でも数少ない現存する本格神社建築で、本殿・拝殿・楼門・回廊はいずれも重要文化財。また、境内にある高野槇(コウヤマキ)は樹齢700年以上と推定され、県の自然記念物に指定されている油日神社を訪れる。

17:00終了。

今回の近場の観光地巡り、滋賀県に足を運び、狸で有名な信楽焼、桃源郷のような誘惑の空間で癒しのひとときを過ごせる雄大な大自然に抱かれた美術館、MIHO MUSEUM、甲賀忍者の発祥の地と日本有数の木造坐仏がある甲賀、いくつかの歴史的建造物の訪れと歴史的芸術に触れ有意義な日々を送ることが出来ました。




京都桂・松尾観光
2009年11月7日


回は近場の京都の松尾の山すそ、桂川が流れる自然豊かなエリアに足を運び、美しい建築様式の桂離宮、西芳寺などを訪れました。

12:30車で近畿自動車道経由して京都桂方面に向かう。

13:30桂到達。

もとは八条宮家の別荘として江戸初期に造営された。完成に35年余りを費やし、竹やぶに囲まれた5万6000平方mの敷地には、苑池を設け、松琴亭、賞花亭などの茶亭や書院を配している。庭園と建築の総合美は、世界的に知られる桂離宮を訪れましたが、参観は許可制のため外部から眺めるのみに終わりました。次回許可書をもらい訪れたたいと思います。

足利義満の補佐役だった細川頼之が夢窓国師の高弟宗鏡禅師に帰依して創建した禅寺。4000坪の境内の半分が竹林に覆われていて、竹の寺と呼ばれている。本堂北の方丈からは、杉苔の中に16個の自然石を配し、それを十六羅漢に見立てた平庭式枯山水庭園が観賞できる地蔵院を訪れる。

奈良時代の行基が開祖と伝えられてる古刹で暦応2年(1339)夢窓国師が再興し、天下一の名庭と言われ銀閣寺など作庭の手本とされた、苔が素晴らしい庭園、通称「苔寺」と呼れる西芳寺を訪れる。残念ながらこちらも許可書が必要、外部から眺めて終わりました。

1723年(享保8)鳳潭上人が華厳宗再興を願って創建。飼育された鈴虫が一年中鳴くことから、別名鈴虫寺と呼ばれる。山門横に立つ草鞋を履いた幸福地蔵は、一つだけ願いを叶えてくれるという華巌寺を訪れる。

701年(大宝元)、秦氏が創建したと伝える古社。酒の神として信仰を集めていて、境内には全国の酒造元から奉納された、こもかぶりの酒樽が並ぶ。祭神は酒の神・大山咋神[おおやまぐいのかみ]で、社務所裏には湧き水(亀の井)を加えると酒が腐らないといわれる。室町前期建造で、1542年(天文11)に大改修した本殿(重要文化財)は、松尾造といわれる三間社両流造。重森三玲氏作庭の松風苑は、磐座をイメージした上古の庭、鎌倉風の蓬莱の庭、平安風の曲水の庭と、趣を変えた3つの庭が見られる松尾大社を訪れる。

延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。顕宗三年(四八七)阿閉臣事代が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒樔田の地に社を創建したとされ、斎衡三年(八五六)に松尾山南麓の現在の地に移ったと伝えます。境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御船社、聖徳太子社などから構成されている月読神社を訪れる。

その名の通り梅の美しい神社である。子授けの神として有名で、子宝を望む夫婦が季節を問わず参拝に訪れる梅宮大社を散策する。

鷹峯方面に向かう。

陶芸や書道、茶道などに多才を発揮した江戸時代の芸術家・本阿弥光悦が1615年(元和元)に徳川家康からこの地を拝領、多くの工芸職人らと芸術村を営んだのが始まりで、光悦没後、その住まいが寺に改められた。境内には7つの茶室が点在、太虚庵茶室を囲む竹垣は、太い竹を斜めに組んだ独特のもので「光悦垣」と呼ばれる。紅葉の名所でもある光悦寺を訪れる。

1364年、大徳寺の徹翁が隠居所として創建したが、1694年に臨済宗から曹洞宗に改宗された。有名なのが、堂内の「悟り窓」と「迷い窓」。円で大宇宙、悟りとし、禅と円通の心を、四角で人間の生涯、迷いとし、生老病死・四苦八苦を表している源光庵を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、近場の京都の桂・松尾・鷹峯エリアを訪れ、松尾の山すそ、桂川が流れる自然豊かなエリアでの桂離宮、西芳寺、華厳寺、地蔵院、梅宮大社、月読神社、松尾大社の散策、緑多く空気の澄んだ爽やかなエリアの仏教の教えを表したという原光寺の2つの窓、独特の編み方が美しい光悦寺の竹垣などの散策、癒されました。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十八弾:カンボジア観光
2009年11月1-3日


今回は東南アジアのインドシナ半島の中央やや南西側に位置し、北西にタイ、北隣にラオス、東南隣にベトナムとの国境を接し、東西約560km、南北約440kmにおよび、総面積18万1035k㎡で、ほぼ日本の半分のカンボジアに足を運び、首都プノンペンから北西約250kmのトンレサップ湖の北側にあるシェムリアップを訪れ、世界的に有名な世界遺産アンコール遺跡群を観光巡りして来ました。
 
10月31日22:30関西国際空港集合
11月00:30関西国際空港タイ空港で出発
04:20(時差ー2時間)バンコクスワンナプーム空港到達
8:00バンコクスワンナプーム空港出発
9:00シェムリアップ空港到達、観光バスでアンコール遺跡群に向かう。
 
9:30アンコールトム到着。
 
顔の長さだけでも約3mある四面塔の南大門を通過してアンコールトム内部に入る。
 
アンコールワットの北に位置し、10万人の人々が住み栄えた12-15世紀の王都アンコールトムは高さ約8mのラテライトの城壁に囲まれ、周囲約12kmの城壁内には、十字に主要道路が配置され、その中央にバイヨン寺院がある。そこから少し北上した位置に王宮があり、王宮の正式な塔門は、象のテラス、ライ王のテラスと一体化して作られている。
 
バイヨン寺院は、観世音菩薩が彫り込まれた四面仏顔像が林立し、又東西約160m、南北約140mの第一回廊は一大絵巻で、壁面のレリーフは、12世紀の人々の生活模様が多数描かれ、漁、狩り、炊事、闘鶏、将棋に相撲、出産の場面まで飛び出す。人物や動物の表情は生き生きと輝き、石の表面からは、体温や匂いまでも伝わってくるようでした。
 
12世紀末、ジャヤバルマン7世が母の菩提を弔うために建立したといわれる。巨人の足が石を踏みつけているように見える巨大なガジュマルの根が、面妖ながらも芸術的な威厳を放っているタプロムを訪れる。

カンボジア料理の昼食を済ませてからアンコールワットに向かう。
 
12世紀前半、クメール朝のスールヤバルマン2世の指示で、30年にかけて建造され、19世紀末のフランス人植物学者アンリ・ムオーの発見により、世界的に知られることになる。外周は約5kmの堀に囲まれた約200haの広い敷地に三重の回廊に囲まれた本殿があり、4基の塔堂の中心にひときわ高い中央祠堂が聳え立つアンコールワットを訪れる。
 
第一回廊の外壁に浮き彫りされたレリーフ群、ヒンドゥー教の神話を題材にした絵巻風に展開するレリーフ、天空の楽園と言われる神秘の遺跡を感じさせられます。
 
小高い丘にあり、6層のピラミッド式寺院、絶景スポットとして知られ、樹海にそびえるアンコールワットやジャングルに沈む美しい夕日を鑑賞できるプノンバケンから360°眺望する。

18:30カンボジアが誇るクメール文化の華、9世紀頃に生まれた宮廷舞踏で、アプサラは天女・天使とみなされ、踊りは神への祈りとして捧げられるものであるアプサラの踊りを鑑賞しながらカンボジア料理のディナーをめしあがる。

20:30ホテル到達、床に就く。

2日5:00観光バスで出発、アンコールワットのサンライズ観光してからアンコール遺跡の郊外に向かう。

ピラミッド型寺院で、3層の基壇は紅色砂岩で造られ、上部には5つの祠堂があります。祠堂は風雨と太陽の日差しを直に受けており、風化し、崩れかけていますが、基壇の紅色との対比が美しく崇高な雰囲気が漂っています。伽藍と東門の間には石槽が置かれ、ここで死者を荼毘に付していたと言われていますプレ・ループを訪れる。

水浴の池という意味でジャヤヴァルマン七世の沐浴場として造られました。池の中心に建てられた中央祠堂はポル・ポト時代に崩壊しています。また、同じくポル・ポト時代に食糧増産のため、池の水を大量 に抜かれてしまったため、一部干上がっているところがあります。しかし、広大な池の朝は幻想的なスラ・スランを訪れる。

東バライの東岸に位置する。その建設時期は12世紀初頭、スールヤヴァルマン2世の時代である。寺院は上部に円錐状の塔をのせた中央祠堂に特徴のあるアンコール・ワット様式で、要塞のような独特の雰囲気を持つ。その原因は高い外周壁と、まるで沐浴池の中に中央祠堂が立っているような内周壁内部の構成にあるバンテアイ・サムレを訪れる。

遺跡の規模は大きくありませんが、鮮やかな紅色砂岩に彫り込まれた彫刻の美しさはアンコール遺跡群の中でも特に優美といわれています。なかでも中央神殿の側面 に彫られたデヴァダー像は「東洋のモナリサ」と評されるほどのもので作家のアンドレ・マルローが盗掘して持ち出そうとして逮捕されてしまったいわくつきの物。後にその時のエピソードを小説に著したことで注目を集めましたバンテアイ・スレイを訪れる。

昼食はタイ料理を召し上がる。

アンコール遺跡の南東13kmのロリュオス遺跡群に向かう。王都がアンコールへ移る前はロリュオスが王都でした。

祠堂が4基残っているものの、経年による劣化が著しいものとなっています。もともとはこの寺院は大貯水池の中心にあった島に建てられていました。現在は水がなくなり、祠堂のみが残っている状態のロレイ寺院を訪れる。

プリア・コーは聖なる牛を意味しており、境内に置かれているシヴァ神の乗用獣、聖ナンディンに由来しています。祖先を祀るための祖寺型様式寺院として造られました。年号が判明している遺跡で最も古いため、それだけに損壊が目立つプリア・コー寺院を訪れる。

ロリュオスの中でもこの寺院はメール山を模して造られました。最初のピラミッド型寺院で周囲には環濠を巡らせています。中央祠堂は王の威厳を示すかのようにも見えます。5重の基壇には彫刻が施されていたと思われますが、現在、ほとんどはがれ落ちてしまっているバコン寺院を訪れる。
シェムリアップの南に位置する小さな市場。早朝から賑わい、山積みにされた品々を見ると、まさにアジアのマーケットであることを実感させられる。値段交渉すると応じてくれる事も多いオールドマーケットを散策する。

19:30カンボジアには、古くから伝わる影絵芝居があります。野外にスクリーンをたてかがり火やライトを灯し、なめした牛の皮で作った人形を遣い、語りと音楽を合わせて演じるお芝居です。この影絵芝居はクメール語(カンボジア語)で、「スバエク」と呼ばれています。スバエクを鑑賞しながらカンボジアのディナーを召し上がる。

20:30ホテルに戻り床に就く。

3日8:00観光バスで出発、カンボジアの中央に広がる東南アジア最大の湖がトンレサップ湖に向かう。

トンレサップ湖は雨期と乾期でその大きさが大きく異なり、雨期は乾期の3倍もの大きさになります。そのため、元陸地であったところが水につかり、大量 にプランクトンが発生し、それを主食にしている淡水魚も大量 に発生します。乾期には、水のひいたあとに堆積した土が養分を大量 に含んでいるため、農地として利用されています。トンレサップ湖は、カンボジアの人々の食生活を支えている重要な湖といえます。このトンレサップ湖をボートクルーズして巡る。

水上生活を営んでいる人々が住む水路を通 って養殖場に向かうクルーズで、まるで海ではないかと思ってしまうような広大なトンレサップ湖のスケールを直に感じることができました。

午後からはシェムリアップの町を散策する。

カンボジアに住むさまざまな民俗の文化を紹介するテーマパーク。パーク内には伝統的な家屋が再現され、またカンボジア国内の代表的な建築物の模型なども展示されている。蝋人形館や民族舞踊のショーなども行われているカンボジアン・カルチャー・ヴィレッジ(東埔寨民俗文化村)を散策する。
 
国宝級のものをはじめ、カンボジア全土から出土した彫像などが集められている。考古学的にも貴重なものが多い。特に代表的なものを挙げると、厳格な表情の「8本の腕をもつビシュヌ神」、透き通るような緑色をした「カーリー女神」、しなやかな手が美しい「横たわるビシュヌ神の胸像」、瞑想する姿の「ジャヤバルマン7世像」など。展示物は年代順に並んでいるので、カンボジア文化が時代とともに変遷してきた様子がよくわかるアンコール国立博物館を見学。

17:00送迎バスで空港に向かう。

17:30シェムリアップ空港到達
19:30シェムリアップ空港バンコック航空で出発
20:30バンコクスワンナブーム空港到達
23:00スワンナ空港タイ航空で出発
4日6:20関西国際空港到達

今回の海外旅行、インドシナ半島の中央に位 置し、タイ、ベトナム、ラオスと隣接し、大河メコンと東南アジア最大の湖であるトンレサップ湖の自然の恵みに支えられているカンボジアに足を運び、アンコール・ワットを始めとした、かつてインドシナ半島を支配したアンコール王朝の栄華をしのばせる数々の貴重な遺跡群は世界遺産としても知られており、カンボジアへ足を運ぶ人々は年々増えています。
1953年、カンボジアはフランス統治の時代を経て独立したものの、隣国で行われていたベトナム戦争やクーデターなどに見舞われ、なかなか国内の情勢は整いません。さらに、1975年にはポル・ポト政権が成立し、内戦が激化。その後、国連が紛争の解決に乗り出し、1993年に新生カンボジア王国が誕生して現在に至っています。
治安や経済など復興へと着実に歩みを進めています。 近年ではカンボジアへ訪れる観光客の増加に伴い、一流ホテルが続々と進出。遺跡の街シェムリアップでは75軒以上のホテルが建ち並び、高級志向のリゾートタイプのホテルも充実しています。世界遺産、アンコール遺跡群を見ながらリゾートライフを送れる時代となり、カンボジアはこれまで以上に注目されている3日間のカンボジア観光堪能しました。

膨大な緻密な遺跡、当時では考えられない技術の高さ、驚かされるばかりでした。
内戦の紛争により遺跡のほとんどが半分以上壊され、密林の中でそれが幻想的な遺跡群としてとらえられ多くの観光客の訪れの源になったのでしょうね。

日本から比較的近場のアンコール遺跡、圧巻でした。
まだ訪れていない方はぜひ訪れてみてください。
費用、日程を考えればいきやすい国の遺跡群でした。












大阪府堺市百舌鳥古墳群史跡巡り
2009年10月31日


今回は近場の大阪府堺市に足を運び、大仙公園を中心とし四方に点在する大小43の古墳群、百舌鳥古墳群を訪れました。

12:30車で出発、阪神高速経由して
13:00百舌鳥古墳群の中央に位置する公園、園内にも古墳が点在し、博物館・日本庭園・中央図書館・平和記念塔・都市緑化センターなどの施設がある大仙公園を散策する。
 
大仙公園内にある茶室、茶屋三宗匠のひとり、今井宗久ゆかりの黄梅庵と数奇屋造の伸庵を訪れる。
 
大仙公園内に立ち、堺の歴史・文化を紹介する。館内には百舌鳥古墳群からの出土品、飛鳥時代の日本最大の白檀の観音菩薩立像や堺特産の刃物、火縄銃などを展示。特に図版をもとに復元された巨大な仁徳天皇陵の石棺は必見の堺市博物館を見学する。
 
大仙公園内にあり、貿易の町、堺の歴史や文化をイメージして作られた庭、敷地2.6haに広がる築山林泉回遊式の庭園の大仙公園日本庭園を訪れる。
 
墳丘長486mの前方後円墳、日本最大の古墳であり、5世紀中期のものとされておりエジプトのピラミッド、中国の秦始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられるほか、北側の反正陵古墳、南側の履中陵古墳と合わせて百舌鳥三陵と呼ばれる仁徳陵古墳を訪れる。
 
墳丘長360mの前方後円墳、日本第3位の墳丘を誇り、5世紀前半のものとされている履中陵古墳を訪れる。
 
墳丘長146mの前方後円墳、5世紀中期頃、堺市指定有形文化財の衝角付胃型埴輪が出土しているいたすけ古墳を訪れる。
 
墳丘長186mの前方後円墳、5世紀後半頃の御廟山古墳を訪れる。
 
墳丘長290mの前方後円墳、日本第8位の墳丘を誇る。5世紀後半のニサンザイ古墳を訪れる。
 
墳丘長148mの前方後円墳、百舌鳥古墳群の北端に位置し5世紀後半の反正陵古墳を訪れる。
 
17:00終了。
 
今回の史跡めぐり、近場の大阪府堺市の百舌鳥古墳群の43の古墳の中で比較的大きな前方後円墳6つを訪れました。
 
大仙公園内にある堺市博物館で百舌鳥古墳群の学習を終えてから散策。
最大の前方後円墳仁徳陵古墳を散策してから、履中陵古墳、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳、反正陵古墳を巡り、百舌鳥古墳群再確認学習できました。
 
 





京都大原&鞍馬&貴船観光
2009年10月28日


今回は近場の京都郊外、京都有数の美庭を鑑賞できる三千院、実光院、宝泉院などが位置する大原、大自然の魅力を歩いて満喫できる京の奥座敷と呼ばれる鞍馬・貴船に足を運びました。

12:30車で近畿名神自動車道経由して
13:30大原到達。

天台五門跡の一つ。最澄が比叡山に建てた小堂に源を発し、明治4年、現在地を本坊とする。境内は自然の傾斜を活かして建物を配置。京都市の名勝に指定されている聚碧園などを眺めながら客殿、宸殿を通り、池泉回遊式庭園の有清園に出る。一面を苔の緑が覆い、秋には見事な紅葉に彩られるこの庭の一角に往生極楽院(重要文化財)が立つ。1148年(久安4)の建立で、狭い堂内に仏像を納めるため船を逆さにしたような船底天井となっている。本尊は金色に輝く阿弥陀三尊像(国宝)。観音・勢至両菩薩の腰をやや浮かせた姿勢が印象的。かつては、堂内は極彩色の壁画で荘厳され、平等院鳳凰堂などとともに極楽浄土の世界を表した三千院門跡(三千院)を訪れる。

天台声明の根本道場として開山された寺。1188年(文治2)、浄土宗祖法然上人が諸学の学僧と宗論をした、「大原問答」の舞台として有名だ。この問答で、阿弥陀仏の名を唱うれば仏様の願力によって衆生が救われると法然が説いたところ、阿弥陀如来が手から光明を放ったといわれる。このことから、本尊を「証拠の阿弥陀」と呼ぶようになった。また、当時をしのばせる問答台が2つ本堂に残っている。子院に実光院と宝泉院がある勝林院を訪れる。

勝林院で声明を修行する学僧の僧坊として建てられた。詩仙堂の三十六詩仙画像の模写が掲げられた客殿の、西側と南側には庭園が広がる。西の庭にある不断桜は、秋から春にかけて花を咲かせ続ける珍しい実光院を訪れる。

声明の道場として開かれた勝林院の塔頭で、書院から見事な庭園を観賞できる。大原の山を背景に楓や桜、竹などが眺められ、まるで絵画を見るよう。廊下の天井は、鳥居元忠一党が自害した伏見城の板間を移したものといわれ、「血天井」と呼ばれる。2005年3月には、新庭園・宝楽園が完成した宝泉院を訪れる。

三千院と並んで大原を代表する寺。平清盛の娘・建礼門院徳子が、わが子、安徳天皇や平家一門の菩提を弔いながら、長い余生を過ごした。後白河法皇が建礼門院を訪れた『平家物語』の大原御幸でも知られる。本尊は木造地蔵菩薩立像(重要文化財)。夏は沙羅の花、秋の紅葉が美しく境内には『平家物語』ゆかりの汀の池、汀の桜などもある寂光院を訪れる。

鞍馬方面に向かう。

奈良末期に鑑真和上の高弟・鑑禎上人が毘沙門天を祭ったのが始まり。牛若丸や天狗伝説でも知られる。山門から本殿までは、清少納言が『枕草子』で「近くて遠きもの」と記した九十九折の道が約1km続く。参道途中には由岐神社や義経供養塔がある。本殿前庭からの眺望がすばらしく、桜や紅葉のシーズンは特に美しい。近くに金星から降臨したという護法魔王尊を祭る光明心殿、毘沙門天(国宝)や経塚遺物(国宝)などの寺宝のほか、与謝野鉄幹・晶子夫妻の遺品などを展示する霊宝殿がある鞍馬寺を訪れる。

940年(天慶3)創建の古社。鞍馬寺本堂へ至る参道途中にあり、鞍馬の火祭の舞台としてよく知られる。境内には樹齢800年と伝わる杉の巨木が立ち、霊気に満ちた気配が漂う。1610年(慶長15)に豊臣秀頼が再建した檜皮葺きの割拝殿(重要文化財)は、中央を石段がくぐっていて、その先に本殿がある由岐神社を訪れる。

貴船方面に向かう。

京都を流れる鴨川の水源地にあたり、水の供給を司る神様を祀る。創建年代は不詳だが、平安京遷都以来、水源を守る神として皇室からも格別の崇敬を受けてきた古社。日照りや長雨が続いた時には雨乞い・雨止め神事が行われ、現在も農業や菓子・酒造業など水に関わりのあるあらゆる業種の人々の信仰を集めている。平安時代の女流歌人・和泉式部が参拝し、復縁祈願が成就したことから、縁結びの神様としても信仰を集める。本宮境内には、重森三玲作の石庭がある貴船神社を訪れる。

天台宗寺門派の単立寺院。寛喜元年(1229)静基によって開山され、応仁の乱を避け北区紫野より岩倉の地へ移る。床紅葉で有名な実相院を訪れる。

比叡山を借景にした見事な枯山水の庭園(名勝)が有名だ。後水尾上皇の幡枝御殿(はたえだごてん)が1678年(延宝6)に寺に改められたもので、本堂と庭はかつての「下御茶屋」に当たる。苔が敷き詰められた庭には40数個の石が巧みに配置され、低い生け垣の向こうに霊峰比叡山を望む円通寺を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、京都郊外の紫陽花で有名、ビロードのように広がる苔の美しさの本堂を囲むように造られた池泉式庭園も有名で多くの観光客が訪れる三千院。勝林院の塔頭寺院の一つで、池泉鑑賞式庭園と池泉回遊式庭園がある実光院。柱を額に見立てた額縁庭園の美しさは見事の一言の宝泉院。などの京都有数の美庭を鑑賞できる大原。

京の奥座敷と呼ばれる大自然の魅力を歩いて満喫できる、薄暗くひんやしとしていて静寂に包まれ、澄んだ空気が気持ちがいい鞍馬・貴船エリア。

昼から半日でリラクゼーションできる寺社巡り、満喫できました。












岐阜県長良川カヌー
2009年10月25日


全国でも屈指のパドリングゲレンデとして有名、ホワイトウォーターゲレンデとして印象が強い長良川に足を運びました。

8:00大阪駅集合出発、車で阪神名神東海北陸自動車道経由して
11:00長良川美濃市立花橋到達、準備して
12:00ダウンリバー開始

天候曇り、気温20℃、1-3級の瀬が10箇所有り、快適なダウンリバーでした。

立花橋から鮎の瀬橋までの12kmを3時間で下り終えました。

16:00終了、あとかたずけして
17:30近くの子宝の温泉に浸かり
19:00帰路、途中食事を済ませてから
22:30大阪駅到達解散。

今年最後のカヌーイベント、ホワイトウォーターで有名な激流の長良川にチャレンジ、長良川のコースでは比較的緩やかな美濃エリアのコースを選びましたが、なかなかスリルを味わえる瀬が10箇所有り、緊張感を伴いながら快適なダウンリバー楽しめました。

水の綺麗さが抜群で、いままで訪れた川ではトップレベルの透明度の高い川でもありました。

次回は上流のもっと難易度の高いコースをチャレンジしたいと思います。


奈良県吉野山史跡巡り
2009年10月24日


今日は近場の奈良県に足を運び、一目千本といわれる桜の名所で、修験道の根本霊場、世界遺産にも登録されている金峯寺や如意輪寺をはじめとする史跡で有名な吉野山を訪れました。

12:30車で阪神近畿南阪奈自動車道経由して
13:30吉野到達。

1889年(明治22)の創建で、祭神は後醍醐天皇。後村上天皇自らが彫ったと伝えられる後醍醐天皇の尊像を、吉水神社から奉遷して創祀された。現在の総檜造の社殿は1932年(昭和7)の造営。境内の摂社3社には、日野資朝など建武中興の功臣7人を祀る吉野神宮を訪れる。

銅製の鳥居で高さ約8m。吉野山から山上ケ岳まで4つある門のうちの最初で、「発心門」[ほっしんもん」と書かれた扁額を掲げている。修験者は鳥居に手を触れ、「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と唱えて入山する。もとは東大寺大仏鋳造の余った銅で建立したともいわれる銅鳥居を通過する。

吉野山の尾根上にひときわ高くそびえる。修験道の開祖、役行者によって奈良時代に開かれた金峯山寺の本堂(国宝)で、高さ約34m。木造古建築では東大寺大仏殿に次ぐ大きさだ。堂内には杉、檜、ナシ、ツツジなど自然木をそのまま使った68本の柱が林立、山岳宗教の荒々しい雰囲気を漂わせている。3体ある本尊の蔵王権現は高さ7mの巨像。国内最大といわれる厨子に納められた秘仏の金峯山寺蔵王堂を訪れる。

元は吉水院と称し修験宗の僧坊だったが、明治の神仏分離令で後醍醐天皇、楠木正成・宗信法印を祭る神社となった。源頼朝に追われた義経は静御前、弁慶らとともにここに身を隠し、後醍醐天皇の行宮にもなった。豊臣秀吉が花見の本陣を置いたことでも知られる。書院(重要文化財)には、後醍醐天皇玉座の間や義経潜居の間がある。平成16年7月に世界遺産に指定された吉水神社を訪れる。

後醍醐天皇の勅願寺で、創建は延喜年間(901~923)とされる。1347年(正平2)、楠木正行が出陣に際し、辞世の歌を鏃で刻んだという扉を、桜材の蔵王権現立像(重要文化財)などとともに宝物殿に陳列。境内には正行の髻を埋めた髻塚、正行の妻となるはずだった弁内侍の黒髪を埋めた至情塚がある。本堂後方には後醍醐天皇陵もある如意輪寺を訪れる。

818年(弘仁9)、空海が入峯した時に建てた椿山寺に始まるといわれ、金峯山寺四律院に数えられたが、現在は単立寺院。境内の小高い位置に広がる池泉回遊式庭園の群芳園は大和三庭園の一つ。秀吉の花見の際に千利休が作庭、細川幽斎が改修したと伝えられ、吉野の山を借景とする。寺は格調高い宿坊としても知られる竹林院を訪れる。

水の配分を司る、天之水分大神を祭る。みくまりが訛って「みこもり」となり、子授けの神として信仰を集めるようになった。社殿は1604年(慶長9)、豊臣秀頼の再建。3殿を1棟とした本殿(重要文化財)、拝殿(重要文化財)、幣殿(重要文化財)、楼門(重要文化財)、回廊(重要文化財)からなる、桃山時代の特色をもった美しい建物の吉野水分神社を訪れる。

吉野山の最奥、奥千本にひっそりと立つ古社で、吉野山の地主神、金山毘古命を祭る式内社。中世以降修験道の行場として知られ、関白藤原道長も祈願したことが『栄華物語』に記載。道長が埋めたとされる金銅製の経筒(国宝)が山上ケ岳で江戸時代に発掘された。社殿を少し下った所に、頼朝に追われた義経が身を隠したという義経隠れ塔が残る。追っ手に囲まれた際、屋根を蹴破って逃げたことから、蹴抜けの塔ともいわれる金峯神社を訪れる。

金峯神社からさらに山中に分け入った所にある小さな庵。『新古今和歌集』の代表的歌人の一人である西行が、俗塵を避け3年間幽居した場所と伝わり、庵の中には西行像が安置されている。西行が「とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなきすみかかな」と詠んだ苔清水も近くに残り、西行の歌碑や、西行を慕ってここを訪れた芭蕉の句碑が立つ。付近は桜、紅葉が美しい西行庵を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、奈良県吉野山に足を運び、吉野大峯の山々は有史以前から神々の鎮まる聖地であり、やがて山中で心身を耐えるものが現れ、修験道の根本霊場へと発展、天険の地に大伽藍が築かれ、また有名な桜、源義経の逃避行、後醍醐天皇の南朝など修験の本山であることと深く関わっている吉野の歴史建造物巡り満足できました。








大阪府泉南史跡巡り
2009年10月21日


今回は近場の大阪府泉南の点在する社寺、歴史的建造物の史跡巡りしてきました。

12:30車で阪神近畿阪和自動車道経由して
13:30泉南に到達。

行基が開山したと伝えられる真言宗の寺。織田信長によって全焼したが、江戸時代になって再建された。ヒラドツツジの名所として有名な庭園がある。近くの岡中鎮守社にある府の天然記念物の楠もみどころの林昌寺を訪れる。

関西国際空港対岸に位置する広大な臨海公園。白い玉石が敷き詰められたマーブルビーチ、緑と磯が広がるシンボル緑地などがある。特にマーブルビーチは関空が目の前のりんくう公園を散策する。

江戸初期に建てられた庄屋の家で、近畿地方でも最大規模という、寺院の庫裡や武家の台所のような広い土間が特徴。重要文化財に指定されている中家住宅を訪れる。

釘を1本も使わずに建てられた観音堂は「釘無堂」とも呼ばれ、鎌倉密教様式の貴重な例として国宝指定。豊臣秀吉の紀州攻めでほかの堂は焼かれたが、この観音堂だけが残ったという。宝物館には、重要文化財19点が所蔵される孝恩寺を訪れる。

江戸時代に多くの望遠鏡を制作・研究した、岩橋善兵衛の記念館。天体観測ドームに口径60cm反射望遠鏡を備え、晴天であれば昼夜の天体観望ができる。展示室では、善兵衛の遺品や天文関係の資料を常設展示している貝塚市立善兵衛ランドに寄る。

市民の森公園にある自然史系博物館。貝塚で発掘されたアンモナイトの化石をデザインしたユニークな外観。館内では、大阪府下でも豊かな自然の残る貝塚市の海・山・川に生息する生物の標本展示や生態飼育をしている貝塚市立自然遊学館を見学。

「日本の白砂青松100選」に選定された長さ1kmのビーチに、3カ所の児童遊戯場やマリンスポーツ施設を設置。風光明媚で開放的な海浜公園として賑わっている。白砂と青松の2色に彩られていることから、この名が付けられた二色の浜公園を散策する。

「岸城さん」の通称で親しまれる神社。だんじり祭では15台がこの神社に宮入りする。岸和田城の鎮守社で、岸和田城が千亀利城と呼ばれていたことから、縁結びの神様としても名高い岸城神社を訪れる。

岸和田城主・岡部氏の茶屋跡に、財閥の寺田家が10年かけて造った別荘。スイレンが咲く池を中心に回遊式庭園が広がる五風荘を訪れる。

1334年(建武元)、当時の代表的武将であった楠木正成が、一族の和田高家に、岸と呼ばれていたこの地に築城させたのが始まり。和泉地方の岸の和田氏が転じて「岸和田」の地名となったという。その後、1585年(天正13)に小出秀政が入城し天守閣を築造。徳川政権下では1640年(寛永17)に岡部家が入封、13代にわたり支配したが、1827年(文政10)に五層の天守閣が落雷で焼失。1954年(昭和29)、鉄筋コンクリート造りの三層の天守閣が、1969年(昭和44)に城壁と櫓が再建された岸和田城を散策する。

だんじり祭のテーマ館。祭りの迫力を再現するマルチビジョンや、町家の間を駆け抜ける3D映像が楽しめるほか、現存する岸和田最古のだんじりを展示する。だんじりの大屋根に乗る体験もできる岸和田だんじり会館を見学。

大和薬師寺に入山し、法相宗を学んだ行基が畿内に建造した49院のひとつ。聖武天皇の勅願寺で学問の寺として信仰を集める。平安絵画として名高い星曼荼羅図[ほしまんだらず]をはじめ、国の重要文化財指定の宝物も数多く所蔵している。寺の裏手にある、古墳時代中期に築かれたという久米田古墳もみどころの久米田寺を訪れる。

岸和田の中央部にある自然いっぱいの公園。白鳥が泳ぐ大池、四季折々の花が咲く花木園、広大な芝生広場、展望台、巨大なアスレチック遊具など、ファミリーのレジャーで賑わう。硬式、軟式が楽しめる人工芝のテニスコートも16面揃っている蜻蛉池公園を散策する。

17:30終了。

今回の史跡巡り、大阪府の南部エリアの泉南に足を運び、社寺、歴史的建造物、公園等を訪れ大阪の歴史の深さを感じさせられました。





飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十七弾:静岡県西中伊豆半島観光
2009年10月17-18日


今回は静岡県の伊豆半島に足を運び、夕日の美しさの堂ヶ島や黄金岬、なまこ壁の町並みが残り明治時代の面影を留める港町、松崎など富士山を望む海岸線に観光スポットが点在する西伊豆、白砂が美しいビーチが数多く、のんびり町歩きが楽しめる港町下田が位置する南伊豆、伊豆半島の中央部に伸びる緑豊かなエリア、三島から湯ヶ島まで山に囲まれ、修善寺温泉、伊豆長岡など由緒ある温泉地や川端康成の伊豆の踊り子など、文学作品の舞台として有名な中伊豆を訪れました。

17日13:15新大阪新幹線ひかりで出発
15:54新幹線三島駅到達、レンタカーで観光

見晴らしのよい、富士山麓の丘陵地にある複合施設。園内には花・アート・食をテーマに、自然公園や美術館・文学館、有名シェフのレストランなど点在している。5~6月にはクレマチスの花が開花。美しいガーデンの散策、アート鑑賞、おいしい空気を感じながらの食事と、いろいろな楽しみ方ができるスポットのクレマチスの丘を散策する。

三島駅付近のホテル到達後、繁華街を散策して食事を済ませてから床に就く。

18日6:00レンタカーで出発、天候曇りのち晴れ

伊豆国の一宮。旧官幣大社。祭神は事代主神と大山祇命。創建は不明だが、1300年以上の歴史をもち、伊豆諸島の噴火・造島を司る神として朝廷から特別な尊崇を受けた。源頼朝が源氏再興を祈願したことでも知られ、頼朝発給の古文書(重文)、北条政子奉納の「梅蒔絵手箱」(国宝)などゆかりの品も遺る。幕末再建の豪壮な社殿(重文)、キンモクセイ(天然記念物)も見どころの三嶋大社を訪れる。

富士山の伏流水が湧く楽寿園小浜池を水源地としており、上流は自然河川、下流は戦国時代に開削された灌漑用水路である。昭和30年代まで豊富な水量を誇ったが、周辺部の都市化や富士山麓への工場進出等により、湧水量が減少し危機的な環境悪化に陥った。このような状況を何とかしようと住民と行政、企業が一体となって、定期的な清掃活動や工場の1次冷却水を流してもらうなどの河川再生に向けた取り組みを行った。結果、水辺環境が向上し、現在では、市民の憩いの場となっている源兵衛川を訪れる。

約8500年前に富士山の爆発で大量に噴出した三島溶岩流層とその下の火山表層の性質により、この地方に降った雨や雪は地下水となって流下し、三島市や柿田川の地表に湧き出ている。その中でも最大のもで、水量は極めて多く、日量約100万トン。水温も一年を通して一定で約15℃、水質も大変よい柿田川湧水群を散策する。

南西の西伊豆方面に向かう。

伊豆半島の北端に位置する、井田地区にある展望台。見事な景観が楽しめる。井田集落と青い海、その向こうに富士山が一望できる煌きの丘を訪れる。

江戸時代に幕府直轄の金鉱として繁栄した金山。1965年(昭和40)に廃坑となるまで、100km以上も採掘され続け、金40トン、銀400トンが産出された。実物大の人形を置いて江戸時代の採掘風景を再現した約400mもの長さのある坑道の見学、砂金採り体験などが楽しめる。資料館となっている黄金館には、ギネス認定の世界一の巨大金塊を展示している土肥金山を訪れる。

高さ5m、座像では日本一大きい達磨大師像があり、病気平癒のご利益があるといわれる土肥達磨寺を訪れる。

バス停から岬の突端までは、林の中の遊歩道を歩いて約15分。展望台にはラブコールベルがあり、思う人の名前を呼びながら3回鳴らすと永遠の愛が叶うという恋人岬を散策する。

宇久須港と、安良里港の間に突き出した岬。突端部の切り立った断崖が風化して黄褐色となり、夕日を浴びると黄金色に輝く。三島由紀夫の小説『獣の戯れ』にもその美しさが描かれており、一節を刻んだ文学碑が立つ。松林の続く遊歩道を10分ほど行くと、1万7000平方mもの広大な黄金崎公園がある黄金崎を散策する。

象島・中ノ島・高島の3つの小島を総称して三四郎島と呼ぶ。干潮時、島と陸地の間に幅約30mの磯が出現して道となり、歩いて渡れるようになる、珍しいトンボロ現象が見られることで有名な三四郎島を海岸から眺める。

らんの里堂ケ島に隣接する俳優・加山雄三の記念館。誕生から現在までを写真で紹介するほか、愛用のギターや直筆の楽譜、映画で使われた小道具、自作の絵画などを展示している加山雄三ミュージアムを見学。

明治中期の呉服問屋で、松崎の大地主だった中瀬邸を利用した町営資料館。当時の呉服商の様子を再現し、なまこ壁造りの土蔵や太い柱が見事な母屋など、明治の重厚な木造建築の粋を見られる明治商家中瀬邸を見学。

壁面に四角い平瓦を並べて張り、その継ぎ目を白漆喰でかまぼこ型に盛り上げたなまこ壁。江戸時代に防火・防湿建築として普及したもので、伊豆各地で見ることができるが、ことに松崎には数多く残されている。なかでも、かつて薬問屋だった近藤家横の路地が、江戸時代末期の立派な壁が保存されているなまこ壁通りを訪れる。

入江長八の代表作約50点を展示する美術館。1815年(文化12)、松崎に生まれた長八は江戸に出て修業し、各地に漆喰鏝絵の名作を残した。漆喰鏝絵は、壁に塗る漆喰を材料に鏝だけを使って描いた絵画のこと。作品はどれも精緻をきわめ、入口で渡される虫眼鏡で見るとそのすばらしさがよくわかる。モダンな現代建築と、なまこ壁や漆喰鏝絵が調和したユニークな建物も興味深い伊豆の長八美術館を見学。

漆喰細工の名人とうたわれた左官職人・入江長八の菩提寺が浄感寺。その本堂が長八記念館となっており、長八の傑作として有名な天井に描かれた『八方睨みの龍』や、『飛天』など約20点の作品が残っている。境内には長八の墓と胸像、記念碑が立つ長八記念館を見学。

1880年(明治13)に建てられた小学校で、国の重要文化財。伊豆で現存する最古の学校建築物である。なまこ壁を生かした白亜の社寺風建築様式にバルコニーなど、和洋折衷となっている。内部は郷土館で、往時の授業の様子などを再現している岩科学校を見学。

南伊豆方面に向かう。

相模灘と遠州灘を分ける伊豆半島最南端の岬。海から高さ60mの断崖が切り立ち、青い海、褐色の岩、木々の緑が見事なコントラストを見せる石廊崎を訪れる。

石廊崎の先端に立つ灯台。1871年(明治4)、英国人技師ブラントンの設計で建てられ、当初は木造だったが1933年(昭和8)に現在のコンクリート造物原型に建て替えられた。高さ11.4m、光達距離38kmの石廊埼灯台を訪れる。

石廊埼灯台のすぐ下、岬の崖の途中にある神社。千石船の帆柱を利用した簡素な造りの社殿は1901年(明治34)の建築だが創建は701年(大宝元)と古く、海上の安全を守る伊波例命を祭っている石室神社を訪れる。

下田方面に向かう。

下田の開港に関する歴史資料約1000点を中心に展示。ペリーの写真や唐人お吉の肖像画、黒船の模型、ロシア使節のプチャーチンが使っていたグラス、蒸気船の錦絵などが見られる。下田太鼓祭の解説、民具の展示コーナーで下田の民俗・歴史の紹介もしている下田開国博物館を見学。
1854年(嘉永7)、日米和親条約付録下田条約が締結された場所として国の史跡に指定。境内にある宝物館には、ペリー直筆の公文書や黒船来航絵巻など3000点を超える国内最大の黒船コレクションを収蔵・展示している了仙寺を訪れる。

日米交渉のために了仙寺へ向かうペリーが歩いた道。石畳の道に整備され、かつての遊郭を利用したものなどレトロな雰囲気の店が並ぶペリーロードを散策する。

お吉の菩提寺。本堂の右横に唐人お吉記念館があり、お吉の遺品や写真を展示。墓は記念館裏手に、供養の石灯籠や鶴松の塚と並んで立っている宝福寺を訪れる。

然の入江を利用した水族館。イルカのショーやユーモラスなアシカショーが人気をよんでいる。25m×21mの大水槽では50種3000点の海の生物を飼育展示している下田海中水族館を見学。

北上して中伊豆方面に向かう。

直径80m、総延長1100mの巨大ならせん道路。ぐるりとふた回りして、落差45mの急傾斜を登り下りする。1981年(昭和56)、国道414号の大滝・七滝温泉脇に完成。緑濃い山あいにひときわ目立つループラインは、七滝エリアの目印、名所となっている河津七滝ループ橋を通過する。

河津川沿い約2kmに点在する釜滝、エビ滝、蛇滝、初景滝、カニ滝、出合滝、大滝の大小7つの滝の総称。なかでも、『伊豆の踊子』の像が立つ初景滝は絶好のシャッターポイント。滝壺に温泉が湧く、高さ27mの大滝は迫力満点の河津七滝を散策する。

落差25m、幅7mの滝。原生林が生い茂り、静寂な雰囲気の中、激しい音を立てて流れ落ちる姿は迫力がある。滝への道は明治末期に開かれ、昔は人も近づかぬ神秘的な場所であったという。周辺は夏でも涼しく、滝の周りや滝壺の岩肌には県指定天然記念物のジョウレンシダが群生。「日本の滝100選」のひとつに選ばれている浄蓮の滝を訪れる。

湯ケ島温泉にある。川のせせらぎを聞きながら温泉内をめぐる散策道。かつて地元の人々が共同浴場に通った道を散策道として整備した道で、井上靖や若山牧水らも歩いたといわれる。川の合流地点の出会い橋には男橋と女橋があり、ここで男女が出会うと幸福になれると人気の場所の湯道を散策する。

暗殺された源頼家の冥福を祈って実母、北条政子が建てた経堂。お堂の中心には鎌倉期の作品である釈迦如来坐像が安置され、県の文化財に指定されている。指月殿の横には源頼家の墓がある指月殿を訪れる。

807年(大同2)、弘法大師の開山と伝わる古刹。ここで源頼朝の弟・範頼が自刃し、長子頼家が暗殺された。岡本綺堂の戯曲『修禅寺物語』はこの史実を題材にして書いたものとして知られる修禅寺を訪れる。

18:00三島駅到達。
18:26三島駅新幹線こだまで出発
19:38浜松駅新幹線ひかりに乗り換え出発
21:03新大阪到達。

今回の旅行、伊豆旅のゲートタウン、三島から伊豆半島の西半分をドライブ観光してきました。

三島大社の門前町として発展、富士山の伏流水が市内各地で湧くことから、水の郷百選に選ばれている三島。

夕日の美しさで知られる恋人岬、黄金崎、大田子海岸が位置する西の海岸線、数々の奇岩の島が浮かぶ堂ヶ島、なまこ壁の家や蔵が点在するレトロな町、松崎などが位置する西伊豆。

温暖な港町らしい景色のなかにレトロな町並みが溶け込んだ下田、伊豆最南端に位置し、相模湾の荒波が打ち寄せる石廊崎などがある南伊豆。

川端康成の伊豆の踊り子の舞台となった天城湯ヶ島の散策、美しい竹林や源氏ゆかりの史跡がおなじみの古都の風情が薫る温泉地修善寺など観光名所が点在する中伊豆。

一泊二日で東の伊豆は以前訪れたことがありますが西南中伊豆は今回初めてで天候も良く、多くの自然と史跡を巡り有意義な日を送ることが出来ました。














和歌山県和歌山市史跡巡り
2009年10月14日


今回は近場の和歌山県和歌山市に足を運び、紀州徳川家の城下町の中心部の和歌山城、総面積55万㎡に及ぶ史跡公園、500以上の古墳をはじめ、文化財民家、万葉植物園、複元竪穴式住居などがある和歌山県立紀伊風土記の丘を訪れました。

12:30車で近畿阪和自動車道経由して

13:30和歌山市東部の丘陵地にある県立の博物館施設。総面積65万平方mの敷地には、約430基の古墳を中心に、復元した古墳時代の竪穴住居や県内の代表的な民家を移築している和歌山県立紀伊風土記の丘を散策する。

考古・民俗資料を中心とした県立博物館。岩橋手塚古墳群をはじめ、県内各地の出土品を通して和歌山県の歴史を紹介している紀伊風土記の丘資料館を見学。

紀伊風土記の丘にある古墳群。大部分の古墳は5~7世紀に築造されたもの。丘陵の尾根には前方後円墳が、斜面には円墳が所狭しと並んでいる。直径27m・高さ8mの前山A46号墳は、この周辺では一番大きい円墳。横穴式石室が長さ8.5m、高さ3.4mもある。前方後円墳の前山B53号墳は将軍塚古墳と呼ばれ、石室の内部が見学できる岩橋千塚古墳群を散策する。

紀伊風土記の丘資料館に隣接した竪穴住居は、古墳時代のものを復元したもので、実際に竈に火を入れて古代の生活を体験できる。また、4軒の民家は江戸時代のもの。うち商家の旧柳川家と漁家の旧谷山家は国の重要文化財に指定されている竪穴住居と民家を見学。

和歌山城方面に向かう。

1585年(天正13)、豊臣秀吉が藤堂高虎に命じて築城し、弟の秀長に与えたのが始まり。桑山重晴、浅野幸長の時代を経て1619年(元和5)、徳川家康の第10子・頼宣が入城。明治の廃藩置県まで徳川御三家の一つ、紀州徳川家の居城として使われた。岡口門(重要文化財)と特産の青石を使った野面積の石垣などは当時のもの。戦後復元された天守閣は鬼瓦や鎧の展示室を備え、紀ノ川の眺めがすばらしい。城内西の丸の紅葉渓庭園(名勝)は、紀州藩祖徳川頼宣が西之丸御殿に築造したもので、戦後復元した池泉観賞式庭園が存する和歌山城を散策する。

和歌山県立博物館の南側に隣接。日本画、洋画、版画、彫塑、写真、現代陶芸など、近代・現代美術の幅広い作品を収集・展示している。特に版画のコレクションは秀逸。長谷川潔、山本鼎、戸張孤雁など国内作家の作品をはじめ、パブロ・ピカソの『貧しき食事』『ミノトーロマシー』『泣く女』の3作品、ムンク、ルドンなどの版画作品もある。田中恭吉、恩地孝四郎、浜口陽三、石垣栄太郎など郷土出身作家の作品も充実。企画展のほか、屋外スペースではさまざまなイベントを開催する和歌山県立近代美術館を見学。

和歌山の人々の暮らしと文化の移り変わりにスポットをあてた歴史博物館。常設展示では、原始・古代から現代までの歴史を紹介。なかでも中世以降、全国的に信仰を集めた高野山や熊野三山などの霊場の展示が見もの。熊野詣の様子や熊野比丘尼の生活の様子を詳しく解説。『熊野垂迹神曼荼羅図』、『道成寺縁起』、などの貴重な所蔵品も展示している和歌山県立博物館を見学。

天正13年(1585)に和歌山城が築城され、城下町和歌山が拓かれてから、ちょうど400年目にあたる昭和60年(1985)11月に開館いたしました。本館は、郷土和歌山の歴史・文化遺産に関する市民の理解と認識を深め、教育・文化の発展に寄与することを目的とした歴史系博物館です。常設展示は、「資料が語る和歌山の歴史」をテーマに、この地を中心とした歴史と文化を正しく理解し、その継承と発展に資する学習の場として構成されています和歌山市立博物館を見学。

昭和30年代にはモダンな建物が建ち並ぶ歓楽街だった横丁に、最近若い感覚の店が次々にできた。味の店を中心に古い建物をうまく使っておしゃれな町筋をつくり出しているじゃんじゃん横丁を散策する。

17:30終了。

今回は和歌山市に足を運び、1585年、羽柴秀吉が弟の秀長に命じて築城、1619年に徳川家康の第十子、徳川頼宣が入部して、紀州徳川家55万5千石の居城として約250年の歴史を刻んだが第二次世界大戦の戦火によりわずかな建造物を残し焼失したが、1958年に天守閣が再建され、城跡は緑豊かな和歌山公園として整備され散策しました。

総面積55万㎡に及ぶ特別史跡、岩橋千塚古墳群を中心とする史跡公園、園内には500基以上の古墳をはじめ、文化財民家、万葉植物園、復元竪穴式住居などがある和歌山県立紀伊風土記の丘を散策。

国内屈指の近代版画コレクションを持つ和歌山県近代美術館、和歌山県の歴史をわかりやすく展示する和歌山県博物館、和歌山市の歴史を通覧できる和歌山市立博物館を見学。

半日で和歌山市の史跡、歴史建造物、美術館、博物館を訪れ、和歌山市の歴史学習できました。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十六弾:伊豆諸島八丈島・青ヶ島観光
2009年10月10-12日


今回は伊豆諸島の雄大な八丈富士や三原山のほか、温泉や島料理が楽しめる八丈島、伊豆諸島の最南端、火山が造り出す雄大な風景が広がる青ヶ島に足を運びました。

10日14:00伊丹空港出発
15:10羽田空港到達
15:50羽田空港出発
16:40八丈島空港到達、宿に到着後、市街地を散策して食事を済ませてから床に就く。

11日9:20ヘリコプターで出発
9:40青ヶ島到達、天候快晴、絶好の観光日和、レンタカーで島巡り

ヘリポート北側の森に有り、天明の大噴火ののち無人となった青ヶ島に帰島する際、航海の安全を祈願した船頭がその後事故に遭わなかったため金比羅大権現を歓請したとされている金比羅神社を訪れる。

島の北側に位置する展望台。標約250mの展望台からは神子の浦をほぼ真下に見ることができ、天気が良いと八丈島も眺めることができます。
展望台の横には神子の浦に下りることができる非難道がある神子の浦展望台を訪れる。

1785年に起きた天明の大噴火で、生き残った島民全員が八丈での避難生活を余儀なくされた時に、困難な生活を強いられた人々をまとめあげ、50年後に旧島民の帰島を果たした佐々木次郎太夫の屋敷跡。数年前まで建物が残っていたが、台風で崩壊してしまい、現在は玉石垣が残るだけだが、うっそうとしたソテツの大木や整然と積まれた石垣に往時を偲ばれる佐々木次郎太夫屋敷跡を訪れる。

島の鎮守様、玉石殿の急崖を登りつめると、静かに社がたっている大里神社を訪れる。

青ケ島と八丈島を結ぶ、還住丸が入港する島唯一の港。コンクリートで覆われた高さ200mほどの断崖絶壁の下に作られ、貨物はクレーンなどで運ぶ。港を作る適当な入江がないため、根を利用して作られたという岸壁には1年を通して太平洋の荒波が押し寄せ、何日も欠航になることも珍しくない。久しぶりに船が着いた日には、港は島の人や山ほどの貨物で大賑わいとなる。国内で最後まではしけ作業が行われていた港としても知られ、今でも港の隅に置かれたはしけ船が島民の苦労を伝えている。青ケ島の地形の厳しさを物語る荒々しい景観の港の三宝港を訪れる。

日本ではめったにみられない南方系のシダの一種、島のいたるところで見られるがこの一帯は特に群集しているオオタニワタリ群生地を訪れる。

内輪山である丸山の北斜面では、高温の地熱蒸気が何カ所からも吹き出す様子が見られる。電気がない時代、島では蒸気が噴き出す場所に家を建て、暖房や調理などに地熱蒸気を利用したという池之沢噴気孔群を訪れる。

大地から噴き出す地熱を利用した天然サウナ。浴槽や休憩室などを併設する地熱ふれあいサウナを訪れる。

天明の大噴火で形成された噴火口の青ヶ島火山カルデラの内輪山。外輪山の内側の山の景色を見ながら森林浴の出来るハイカーにはたまらないコースです。緑が360度広がる光景は、目にも優しく時間もやさしく進ませてくれます。のんびりと木々や草花を見ながらの散歩できる丸山遊歩道を散策する。

青ヶ島でもっとも標高の高い場所です。二重式火山である青ヶ島は内輪山と外輪山があり、標高432mの大凸部は、外側の火口である外輪山の最高地点。ここからは、内輪山の丸山全体も見渡すことが出来て、火山全体の様子もよく見える。島の最高峰でもあり、周囲を囲む大海原が、大パノラマで鑑賞出来る大凸部展望台を訪れる。

外輪山の頂上にある大里神社が島の鎮守であるのに対して、ここは、宝暦7年(1757)に、恋に破れた腹いせに島民7人を殺傷して入水自殺したした浅之助の霊を鎮めるためのいわば祟り神を祀る神社。今では縁結びの神様として島民の信仰を集めているが、苔むした急な玉石の階段を登る参道は、両脇から木々が生い茂り、どこか神秘的な雰囲気が漂う東台所神社を訪れる。

集落の背後にそびえる外輪山の北西部の尾根上にある公園。標高約400mの展望台からは、北の方角に八丈島の島影、南側には、まるでゼリーのような形の内輪山とカルデラが一望でき、類い稀な二重式火山からなる島の全容を観察できる尾山展望公園を散策する。

17:00宿に到達、食事を済ませてから床に就く。

12日9:45ヘリコプターで出発、天候曇り時々小雨
10:05八丈島空港到達、レンタカーで島巡り。

黒潮の影響を受けて独特な発達を遂げた八丈島の歴史と民俗についての資料を展示する資料館。旧八丈支庁舎の建物を利用した館内は、八丈島の自然、文化財や、民俗資料、自然、流人など9のコーナーに分かれており、系統ごとに分かりやすい展示がされている。中でも約7000年以上も前にこの島へ渡ってきた縄文人の遺跡の復元模型や土器を展示してある考古学のコーナーでは、未知なる世界に漕ぎ出した太古の人々の勇気と知恵に感心させられる。宇喜多秀家をはじめとする流人の暮らしぶりを紹介する流人コーナーも興味深い八丈島歴史民俗資料館を見学。

玉石垣とは、荒波に削られ角のとれた丸い石だけを使い、積み上げられた石垣のこと。島内随所で見られるが、かつて島庁がおかれた大里地区の玉石垣は規模・保存状態ともに最良のもので、観光ポスターなどにも度々登場。1日の糧を得るため、流人たちが海岸からひとつひとつ運び、丹念に積み上げて築いたものといわれ、景観の美しさだけでなく八丈の歴史の上でも貴重な資料となっている大里の玉石垣を散策する。

大里地区に残されたオリクネと呼ばれる八丈に昔から伝わる伝統工法による民家を修復して公開する施設。玉石垣に囲まれた敷地に足を踏み入れると、茅葺きの母屋をはじめ高倉や牛小屋(マヤ)をはじめ便所(カンジョ)まで復元され、昔の島の暮らしをうかがい知ることができる。中でも湿気から穀物を守るために床を高く上げた高倉や家を強い風雨から守るために周囲に植えられたタミの木などは、まさに南国の原風景といった趣で見る者をはるか昔の八丈にタイムスリップさせてくれるふるさと村を訪れる。

明治40年(1907)に竣工した全長151mのトンネルで、坂下と呼ばれる大賀郷と坂上と呼ばれる樫立を結ぶ島の重要な生活道路。このトンネルの大賀郷側からは、大きく裾野を広げる八丈富士や黒々とした玄武岩が広がる南原千畳岩海岸、青い海に浮かぶ八丈小島が一幅の絵を見るかのように並び、その壮大で秀麗な展望は八丈八景のひとつにも数えられている大坂トンネル展望台を訪れる。

江戸時代、お船預りを務めていた服部家の屋敷跡。「お船預り」とは、米に代わる年貢として黄八丈を納めるための御用船の船頭のことで、島では代官に次いで重要な役目だったという。屋敷の建物は残っていないが、流人の近藤富蔵が築いた二重の玉石垣や樹齢700年ともいわれる見事な蘇鉄から、当時の豪勢さが偲ばれる八丈服部屋敷を訪れる。

三原川が中之郷の水田用水路と交差するときにできる一風変わった名を持つ滝、落下する滝を裏側から見ることができることが名前のいわれで、光に透けたしぶきがシャワーのように降り注ぐ光景は爽快そのもの。滝は、ヘゴシダが生い茂る遊歩道をせせらぎの音を聞きながら5分ほど歩いたところにあり、亜熱帯ムードのミニトレッキングが楽しめる裏見ケ滝を訪れる。

洞輪沢港の背後にそびえる、高さ180mの断崖の上に設けられた展望台。絶壁に乗り出すかのように作られた展望台からは眼下の洞輪沢港はもちろん、半島状に張り出した小岩戸の鼻に連なるパノラマが広がる。晴れた日には、青く澄み渡る太平洋に浮かぶ青ケ島の島影も見ることができる。古くから夜は名月鑑賞の場としても知られており、八丈八景のひとつにも数えられている名古展望台を訪れる。

島の最東端、石積ケ鼻の高台に立つ高さ16.7mの円形灯台。昭和26年の開設当時、末吉地区には電気が導入されていたが、夜間2~3時間しか送電されなかった。そのため、地元の要望で陸側の遮光をせずに街灯代わりの役目も果たした。オーシャンブルーの海に映える白亜の灯台は、記念撮影ポイントとしても人気が高い八丈島灯台を訪れる。

戻って島の北方に向かう。

八丈富士が噴火した際に流れ出た溶岩が海に流れ落ちてできた溶岩台地で、海に沿って長さ500m、幅100mの範囲に、黒々とした玄武岩が広がり、荒涼とした世界を形作っている。海に面した場所は長い年月を経て浸食され、岩壁に打ちつける波がしぶきになって飛び散る様子はまさに迫力のひとことの南原千畳敷を訪れる。

島の北端近くにある展望台。小島のほか、灯台、アロエ園の景色が楽しめます。御蔵島・三宅島が見えることもある永郷展望台を訪れる。

根と末吉を島の北東岸沿いに結ぶ登竜峠は、曲がりくねった道が天に昇っていく竜のように見えることから、この名が付いたというほど急坂、急カーブが連続する難所、途中にある展望台からは、正面に八丈富士と八丈小島、眼下に三根の町並みが広がり、おもいのほかの標高差に驚かされる。晴れた日には右手の海上に、三宅島や御蔵島のシルエットが浮かぶ登龍峠展望台を訪れる。

標高854mの美しい円錐形をした山。なだらかな山肌には広大な牧場があり、環状道路が整備されている八丈富士山をドライブする。

八丈富士七合目にある周回道路。平坦な道で、快適なドライブが楽しめる。道路沿いにある「ふれあい牧場」には、市街地を一望する展望台を訪れる。

島の自然に、一番手軽に・しかも幅広く触れることができるのが、植物公園。22ヘクタールの広大な敷地に、テーマ別8つのエリア、展望台、温室、ビジターセンターが設置され、「八丈島のキョン!」も飼育されている八丈植物公園を散策する。

公園内に、八丈の自然をわかりやすくした展示物やビデオを見ることができる八丈ビジターセンターを見学する。

八丈島は伊豆諸島で唯一、水田耕作がなされた島で鴨川に沿って水田が残り、ホタルの光が美しく幻想的なホタル水路を訪れる。

16:00八丈島空港到達
17:10八丈島出発
18:00羽田空港到達
19:00羽田空港出発
20:10伊丹空港到達

今回の旅行、伊豆七島の南端の2つの島に足を運び、島内で発掘された土器や石器などが縄文弥生時代のものから、古代より続く長い歴史を持ち、江戸時代では流刑地として重要な役割を果たすと共に、流民の受け入れは島独自の文化を作り、西の八丈富士と東の三原山、二つの山からなる火山島の八丈島。

周囲約9kmという非常に小さな島、海岸からせり上がる絶壁は、外輪山として島をぐるりと囲み、活発な火山活動によってできた外輪山のカルデラの中には、新たに出来た小さなお椀形の内輪山の丸山があり、このような火山を複式火山といい、世界的に珍しい存在の青ヶ島。

2泊3日の旅、2つの離島の火山で出来た変化に富んだ島の大自然と歴史文化に触れ満喫しました。














兵庫県尼崎史跡巡り
2009年10月7日


今回は近場の兵庫県東の端、大阪との境に位置する尼崎に足を運び、古墳、社寺、歴史的建造物の史跡巡りしました。

12:30車で阪神高速経由で尼崎方面に向かう。

13:00尼崎市の東北端、標高7m、猪名川左岸に営まれた弥生時代(2300-1700年前)の集落跡です。遺跡は東西約110m、南北120m以上の広さがある田能遺跡を訪れる。

国史跡田能遺跡の上に立地しており、田能遺跡から出土した遺物を収蔵・展示しています。資料館は、遺跡の保存が決定された後、昭和42年から整備工事が進められ、昭和45年7月25日に開館しました田能資料館を見学。

猪名川のほとりにあり、四季折々に花が咲き乱れる花と緑の公園です。春は梅、桜、牡丹、初夏には薔薇、花菖蒲、あじさい、夏にはヒマワリ、秋にはコスモスと四季それぞれの季節を代表する花々が栽培され、手入れも行き届いているため美しい花を見ることが出来る尼崎農業公園を散策する。

尼崎市と大阪府豊中市の境界をはさんで広がる大きな公園で、周辺に貴重な自然林が残っており、緑がたくさん繁っています。砂場やアスレチックなどがあり、自然の中で体を動かすことができる猪名川公園を散策する。

武田勝親の父は、武田信玄の子勝頼といわれています。天正10年(1582)の天目山の戦いで敗死したため勝親は甲斐国から逃げ、富田(現在地)の地に住みついて亡くなったと言われている武田勝親の墓を訪れる。

猪名寺廃寺は、塔と金堂が東西に並び、講堂がその北側に配されている「法隆寺式」伽藍配置の白鳳時代の寺院跡です。大正年間に塔跡から運び出された巨大な塔心礎が庫裏の東側に置かれています。昭和27年と33年に発掘調査が行われ川原寺式の軒瓦や鬼瓦・鴟尾のほか、鎌倉時代・室町時代の瓦も見つかっています。この寺は織田信長勢による荒木村重の居城「在岡城(有岡城)」攻略の時焼失したと考えられています猪名寺廃寺跡を訪れる。

全長約45m、後円部径約24mの周囲に濠を巡らした6世紀代の前方後円墳です。昭和初期土取り作業によって破壊されましたが、木棺を埋葬した粘土槨と木炭層をもった竪穴式土壙から五鈴鏡・鉄刀・鉄鏃・馬具・工具・玉類・土器などが出土しました。現在約二分の一に縮小して公園内に復元しています大塚山古墳を訪れる。

東西に主軸をおく全長約60m、高さ約3mの古墳時代中期の前方後円墳です。墳丘が御園地区の墓地になっています。昭和初期の墓地整理のときに石棺が発見され、保存処理を施して、現在墳丘上覆屋内に置かれている御園古墳を訪れる。

近松の墓がある広済寺、近松記念館を中心に、近松の風情を感じられるように整備しているのが「近松の里」です。この辺りは古くから開けたところで、古墳や由緒ある神社もあり、歴史と文化にふれあう憩いのスペースの近松公園を散策する。

尼崎市にある日蓮宗の寺。九五七年(天徳一)多田満仲が妙見菩薩を勧請して創建したと伝え、のち荒廃。一七一四年(正徳四)日昌が堂宇を建立。近松門左衛門の墓がある。俗称、近松寺、広済寺を訪れる。

近松門左衛門は音曲の名人竹本義太夫と協力して、江戸時代の初めに始まった人形浄瑠璃を空前の盛況に発展させた脚本家で、多くの名作を残しました。広済寺再興の開山講には近松も名を連ねたり、母の供養を行うなど広済寺とは深いつながりが窺われます国指定史跡「近松門左衛門墓」を訪れる。

平安時代、源氏の棟梁多田満仲の勧請により建立されたと伝えられています。江戸時代に刊行された「摂津名所図会」には、広い境内を持つ当時の様子が描かれています須佐男神社を訪れる。

延長5年(927)に編まれた「延喜式」のなかの神名帳に記された摂津国河辺郡七座の第一の神社で、市内では唯一の式内社の伊佐具神社を訪れる。

神崎町の梅ヶ枝公園にある神崎五人遊女塚の墓碑。法然上人と五人遊女の説話にゆかりの塚、遊女塚を訪れる。

領有関係が複雑であった尼崎藩の領地の範囲を示すために設置された石碑で、この領界碑は、昭和60年に西川八幡神社の注連柱(しめばしら)の移設中に発見さた尼崎藩領界碑を訪れる。

真言宗善通寺派の寺院で、寺伝によれば宗祖弘法大師がこの地に立ち寄り創建したといわれています浄光寺を訪れる。

境内は、樹齢千年という楠の大木がうっそうと繁っている。御本殿は、元和年間(十七世紀)に造営されたもの。末社に、稲荷神社を配し、境内右手に「子安の池」といって、この池の水の呑めば安産するという言い伝えられた池もある。神功皇后をおまつりしてある杭瀬熊野神社を訪れる。

長洲御厨(京都鴨社の社領)と深い関係のある貴布禰社(貴船社)の分社で、現在西本町にある貴布祢神社の元宮といわれています長洲貴布祢神社を訪れる。

阪神大物駅の北側にある公園で、県立尼崎病院の北隣にあります。かつて九州や山口県で活躍したという蒸気機関車が静態保存されています大物公園を散策する。

往古、尼崎の海岸線は現在よりも北であった。神崎川と武庫川に挟まれた三角州尼崎は海ヶ崎であり、海土ヶ幸であったが、水害の地であり、海運の要衝であるとともに難所でもあった。『平家物語』などにも語られ、源義経、弁慶ら主従が大物浦から船出するも大風に流されたとある。当社はこのような土地の守護神として古くから祀られていた大物主神社を訪れる。

明治33年(1900)尼崎では最初の大工場である尼崎紡績会社(現在のユニチカ)の本社事務所として建設された建物で、市内に現存する最も古い洋風建築です。煉瓦造り2階建て、設計は日本人によるものと思われますが、外壁を覆う赤煉瓦はイギリスからの輸入品と伝えられています。現在は、2階を展示室として公開し、創業当初からの貴重な資料が展示されていますユニチカ記念館を訪れる。

尼崎城は、元和3年(1617)に5万石の大名として赴任してきた戸田氏鉄によって、現在の北城内・南城内の約300メートル四方、三重の堀をもち、甲子園球場の約3.4倍に相当する敷地に築かれました。このように、5万石の大名の城としては大きすぎる城を幕府が作らせたのは、尼崎城に大坂城をの西を守る役割を期待したためでした。現在の庄下川も西側の外堀として利用され、沖からみると城全体が海に浮かんでいるように見え、美しく水に写る姿は「琴浦城」の名称で親しまれていました。城は本丸・二の丸・松の丸・南浜・西三の丸・東三の丸と渦巻き状に外へと広がり、中心の本丸には本丸御殿や4層の天守閣が建てられていました。明治6(1873)年に廃城が決まった後、城の建物は売却されたり取り壊され、堀も次第に埋められていったために、今では全くその姿を見ることはできなくなりましたが、発掘調査により遺構や遺物が発見されている尼崎城跡を訪れる。

明治38年に開業した阪神電鉄ですが、明治41年には配電事業をも開始し、尼崎火力発電所は御影発電所と共に配電事業の中枢でした。その尼崎火力発電所の建物が今なお尼崎車庫の一角に残っています。阪神電車に乗って尼崎駅に進入する直前、車庫の西側に煉瓦造の建物が見える阪神電車旧尼崎発電所を訪れる。

17:30終了。

今回の史跡巡り、近場の兵庫県尼崎に足を運び、意外と知らない、古墳、社寺、歴史的建造物に触れました。

伊丹市や川を挟んで大阪府豊中市と接する園田地区には、古代遺跡や古墳などがたくさんあり、特に有名な弥生時代の大集落、田能遺跡。

京都の公家に仕えるが、浄瑠璃・歌舞伎作家となり曽根崎心中で有名になる近松門左衛門と尼崎との関わりの晩年の10年の近松の里。

尼崎市立図書館横にある小さな公園、ここはかつて尼崎城があった場所で、土塀や石垣、日本庭園風の植栽、石畳の遊歩道が整備され、当時の面影を感じることが出来る尼崎城址公園。

尼崎の多くの史跡巡り、歴史学習できました。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十五弾:島根県松江・出雲・石見銀山観光
2009年10月3-4日


今回は中国地方の日本海に面し東西に広い位置にある島根県に足を運び、島根県の経済、文化の中心の松江、縁結びなどむすびの神として知られる大国主命を祭る出雲大社、世界遺産の石見銀山を訪れました。

3日14:05伊丹空港出発
15:05出雲空港到達、レンタカーで松江方面に向かう。

宍道湖の北、標高28mの亀田山にあり、千鳥城の別名をもつ。明治の廃城令で天守閣(重要文化財)と石垣以外はすべて失われた。広大な城跡は城山公園(史跡)とよばれ、緑濃く、春は桜の名所になっている松江城(千鳥城)を散策する。

1903年(明治36)、松江城の二ノ丸跡に迎賓館として建てられた擬洋風建築で、別名興雲閣。松江の歴史文化教育に関する資料や、大正天皇皇太子時代の山陰行啓の折の御宿泊所を公開する松江郷土館(興雲閣)を見学。

1611年(慶長16)、堀尾吉晴が築城した。5層6階で高さ30m。桃山初期の城郭の特徴を残し、黒塗り下見板張りの外壁に簡素な美しさが漂う。各層に設けられた銃眼、地階の井戸など、江戸期の城とはいえ、実戦的な側面を色濃く残しているのが興味深い。展示物は武具甲冑の類や松江市街の模型、1950年(昭和25)からの解体修理で得られた資料など。最上階は望楼になっており、市街と宍道湖を一望できる松江城天守閣を訪れる。

城山公園の深い緑の中、ひときわ鮮やかな朱塗りの鳥居が目印。小泉八雲も好んでよく散策したという神社で、お気に入りだった狐像もある。12年ごとに行われる松江の祭事でホーランエンヤの船神事があり。春は桜が見事の城山稲荷神社を訪れる。

松江城北側の堀沿いで、黒い塀と白壁の建物が軒を連ね、堀端には老松が連なる塩見縄手を散策する。

怪談』『知られぬ日本の面影』の著者、明治の文豪・小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは1850年(嘉永3)に、アイルランド人の父とギリシア人の母の間に生まれた。繊細な筆致で日本に関する随筆や短編を発表し、世界に日本を紹介することに貢献した彼の遺品をここで展示している。ペン皿や人を呼ぶために使ったホラ貝、視力の弱かった八雲が特注で作らせた机、自身で集めたキセルのコレクションなど、ハーンの息づかいが感じられるものが並ぶ小泉八雲記念館を見学。

ハーンはアイルランド人の父とギリシア人の母の間に生まれたが、両親の離婚、左目の失明など不遇な少年時代を送った。20歳で渡米後、ハーパー社の特派員として来日し、松江中学の英語教師となった。小泉セツと結婚し、八雲と名のるようになる。1891年(明治24)5~11月、松江藩士の屋敷だった閑静なこの家にセツと暮らした。著書『知られぬ日本の面影』に登場する庭のある家で、彼が愛したカワズのいる蓮池も残る小泉八雲旧居を訪れる。

田部家が23代にわたって収集伝来した茶道具を中心に、絵画や彫刻などの美術品を展示。展示品には、茶の湯を好んだ松平不昧の愛蔵品も含まれている田部美術館に寄る。

中級藩士が屋敷替えによって入れ替わり住んだ屋敷。275年前の姿がそのまま保存され、質実剛健な雰囲気とつつましい暮らしぶりを見ることができる。屋敷内にはお歯黒道具や家具などの民具も展示され、当時を偲ぶことができる武家屋敷を訪れる。

1779年(安永8)、茶人としても名高い松江藩7代当主・松平不昧こと松平治郷が、松江市殿町の家老有沢弌善邸に建てたもの。その後幾度かの変遷を経て、1966年(昭和41)、目の前に松江城を望む現在の位置に移築された。茅葺き、入母屋造の建物は簡素な美しさで、入母屋には不昧直筆の「明々庵」の額が架けられている明々庵を訪れる。

北田川べりに立つ天台宗の古刹だが、幾度も火災に遭い、建物に往時の面影はない。みどころは境内に立つ三斎流の茶室。月を見るために窓を大きくとったことから観月庵と呼ばれる。不昧の信任の厚かった荒井一掌の好みという。門前の橋は小泉八雲の『あずきとぎ橋の怪』ゆかりの橋がある普門院を訪れる。

松江しんじ湖温泉の北、小高い丘を背にたたずむ。松平直政が母月照院の菩提を弔うために1664年(寛文4)に建立し以後、松平家の菩提寺に。廟所には初代から9代までの墓碑が並ぶが、不昧のものや、大亀を配した6代宗衍のものが特に目をひく。藩主遺愛の品を納めた宝物殿もある月照寺を訪れる。

水との調和をテーマにした穴道湖畔の美術館。コレクションは日本画・洋画・西洋絵画・版画・工芸・写真・彫刻と幅広く、モネやクールベなど「水」を描いた絵画を多数収蔵。特色のあるテーマで展示を行っている。全面ガラス張りのロビー(無料開放)や屋外彫刻のある湖岸からは、季節・時間によって表情の変わる穴道湖を眺望出来る島根県立美術館を見学。

淡水と海水の入り交じる汽水湖。周囲45kmと日本で7番目の大きさ。シラウオやシジミなど宍道湖七珍に代表される魚介の宝庫で、早朝はシジミ漁の船が見られる。湖畔には名所が点在。夕日が美しく、島根県立美術館から袖師町までの湖岸が格好の夕日スポットとなっている宍道湖を眺望する。

18:00松江駅付近のホテル到着後、市街地を散策して食事を済ませて床に就く。

4日6:00天候快晴、絶好の観光日和、レンタカーで出発

特異な三重環壕を持つ弥生時代の集落遺跡 「史跡 田和山遺跡」とその周辺の自然環境を保全し、歴史学習の場、自然学習の場、憩いの場として整備した公園、田和山史跡公園を散策する。

全長94m、後方部の高さ9.5mという県内最大級の古墳(史跡)。1925年(大正14)初めて「前方後方墳」の名称が用いられたことで知られる。前方後方の形状が見てとれるほか、内部の見学も可能。古墳の裾近くにある「ガイダンス山代の郷」では、地域の古墳の種類や構造、築造過程の模型などを展示解説している山代二子塚古墳を散策する。

桜並木の道から苔むした自然石の御手洗の横の急な石段を上ったところにある。主祭神は伊弉冉命。中央に立つ高床式の本殿は、1583年(天正11)の大火直後の建築で、現存するものとしては最古の大社造(国宝)。本殿に隣接する二間社流造の末社貴布祢・稲荷両神社(重要文化財)も同じころの造営の神魂神社を訪れる。

石見銀山方面に向かう。

途中、農道整備の工事中に、全国最多39個の銅鐸(重要文化財)が出土。遺跡は発見当時の状況に復元整備されている。併設のガイダンス施設では出土資料を展示しており、遺跡を遠望しながら休憩もできる加茂岩倉遺跡を散策する。

鳴り砂で知られる琴ケ浜近くに立つ、ピラミッド型をした砂の博物館。鳴り砂の資料や1年かけて砂を落とす高さ5.2mの巨大砂時計は必見の仁摩サンドミュージアムを見学。

11:00石見銀山到達。

幕府の直轄地だった銀山を治めるための代官所の跡。白壁の長屋門は1815年(文化12)の建築。敷地内には『紙本石見銀山絵巻』など、銀山の歴史を伝える資料を展示した石見銀山資料館を見学。

江戸時代、幕府の直轄地だった石見銀山の中心の町。1923年(大正12)に鉱山は廃坑となったが、銀山川の細流沿いに赤瓦と土壁の家が軒を連ねる町並みが状態よく残り、伝統的建造物群保存地区に指定されている。白壁の旧旅籠や商家が並び、趣がある大森の町並みを散策する。

大森町年寄の遺宅。広大な屋敷地に主屋、納屋と共に五つの蔵が建ち並び、大森では代官所跡に次ぐ、部屋数が34ある総漆喰の建物。重要伝統的建造物群保存地区にある重要文化財の熊谷家住宅を見学。

旧大森区裁判所を復元して利用。館内では明治時代の法廷の再現や、銀山の歴史と暮らしをビデオコーナーでくわしく紹介している大森町並み交流センターを見学。

代官所地役人だった河島家の住宅。1991年(平成3)に復元修理が行われて以降、一般に公開。建物や庭の配置など、武家屋敷の特徴を良く伝えている旧河島家住宅を見学。

町並みが途切れたところに立つ真言宗の寺院。みどころは境内の向い側に続く岩窟内に並ぶ五百羅漢像。左右窟にそれぞれ250体を安置し、中央には釈迦三尊を祭る。亡くなった掘子を弔って、1766年(明和3)まで25年ほどかけて作ったとされる羅漢寺を訪れる。

江戸幕府直轄の御直山とよばれた間歩(坑道)の一つ。現在、唯一内部を見学できるのがこの龍源寺間歩で、273mが公開されている。当時の技術では、掘子(鉱山労働者)が1日に掘り進める距離は30cmほどであった。ノミ跡があらわに残る壁に、掘子たちの過酷な労働が偲ばれる石見銀山龍源寺間歩を訪れる。

石見銀山の歴史と技術を紹介する展示や、石見銀山の調査・研究センターとして、最新の調査成果を公開していく施設、石見銀山世界遺産センターを見学。

三瓶山方面に向かう。

縄文時代に地中に埋もれた巨木が出土した三瓶小豆原埋没林(天然記念物)は、地下に数多くの巨木が立つ不思議な林。展示棟では、縄文時代のままで林立している巨木を間近に見ることができる。南側には埋もれ木展示場に加え、古代ハス池などが設けられた縄文の森公園がある三瓶小豆原埋没林公園を散策する。

三瓶山北麓にある自然博物館。三瓶山をはじめ、島根の自然を中心に生物・地形・地質・天文まで、自然・環境についての幅広い展示が魅力。直径20mのドームスクリーンでは、プラネタリウムや島根の自然を紹介する大型ドーム映像が迫力だ。三瓶山麓で立った状態で発見された、縄文時代の巨大埋没スギの展示は圧巻の島根県立三瓶自然館サヒメルを見学。

石見銀山の奉行大久保石見守が、一里塚として植えたと伝えられる定の松を中心とした雄大な草原の三瓶山西の原を訪れる。

出雲方面に戻る。

古代の出雲大社や、当時の生活、そして発掘された銅鐸や勾玉など古代の魅力を味わえる、古代出雲歴史博物館を見学。

古代より縁結びの神として崇められてきた古社。松並木の参道の奥には本殿をはじめ、拝殿や彰古館などが立ち並び、荘厳な雰囲気をたたえている出雲大社を散策する。

雲大社域入口に立つ木の鳥居から境内へ一直線に続く参道。両側からおおいかぶさるように続く松並木は、寛永年間(1624~44)に奉納された松の馬場を通過する。

出雲大社の西十九社と庁舎の間の門を出ると、巨大な神楽殿が立つ広場がある。ここは神楽や古式の儀式が行われる場所となる。なんといっても目をひくのが注連縄。長さ13m、太さ8m、重さ6トンと日本一のスケールを誇る神楽殿を訪れる。

出雲大社拝殿に向かって右手脇にあるコンクリート製の建物で、1階は一般参拝者の休憩室・祈祷受付所、2階が宝物殿になっている。収蔵されている社宝の中には、蝶貝を施した美しい秋野鹿蒔絵手箱(国宝)、足利義政寄進の赤糸威肩白鎧兜大袖付(重要文化財)、硬玉・勾玉(重要文化財)など、数々の文化財が含まれる神こ殿を訪れる。

出雲大社内の総檜造りの拝殿は1959年(昭和34)の再建。巨大な注連縄[しめなわ]は周囲4m、長さ8m、重さ1.5トン。「二拝、四拍、一拝」が参拝の流儀なのは、「しあわせ」を願う心からともいわれている拝殿を訪れる。

出雲大社本殿を囲む瑞垣の外側左右に一列に並ぶ細長い建物。旧暦10月に日本中から出雲に集まってくる神々のための宿舎のひとつといわれる。そのため神無月を出雲では神在月と呼ぶ。創建は寛文年間(1661~73)で、現在あるのは1748年(延享5)の造営の東西十九社を訪れる。

出雲大社内にある、玉垣内に鎮座する大社造の大建築(国宝)。現在の本殿は1744年(延亨元)、造替されたもので、垂直に切られた千木が印象的だ。御祭神は大国主大神を主祭神に、ほか5神。現在の高さ24mは他の追随を許さない規模だが、2000年4月、巨木3本を束ねた直径3mにもなる柱が境内から出土。伝承どおり、かつては現在の2倍近い48m前後の壮大な高層神殿だった可能性が高まった本殿を訪れたが現在平成の大遷宮が行われており修造工事のため立ち入り禁止。

17:00終了、出雲空港方面に向かう。
17:45出雲空港到達。
19:00出雲空港出発
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行、中国地方の日本海に面した東西に広い島根県に足を運び、島根県の経済・文化の中心地で宍道湖を囲み、松江城や塩見縄手の江戸情緒豊かな城下町など日本古来の美しさに触れる松江。

間歩とよばれる坑道見学や当時の人々の暮らしぶりを今に伝える大森地区など、見どころが目白押しの世界遺産・石見銀山の6km3時間の散策。

ダム湖や山々の絶景はもちろん、太古の眠りから目覚めた巨大埋没林は必見の三瓶山ドライブ観光。

大国主命を祭神とする古社、縁結びを含むむすびの神として知られ、大社造と呼ばれる日本最古の神社建築様式による御本殿(現在修造中)や、日本最大級のサイズを誇る神楽殿の注連縄など、迫力に満ちたみどころがつまった出雲大社。

一泊二日で自然と数多くの歴史的建造物と史跡に触れ堪能しました。

島根県は意外と観光名所が多く、たくさんの観光客が訪れていました。宍道湖周囲の松江城、出雲大社を含めての歴史的建造物観光、西に足を延ばすと、大自然の火山地帯、三瓶山、現在注目の世界遺産の石見銀山、盛りだくさんの島根県観光でした。

但し残念なのは出雲大社の御本殿の修復工事による立ち入り禁止、2013年に完成とのこと、又訪れたいと思います。