7月ー9月

奈良県大宇陀観光
2009年9月30日


今回は近場の織田家ゆかりの城下町、旧街道沿いには現在も古い家並やかつての松山城の遺構などが散在する奈良県大宇陀に足を運びました。

12:30車で近畿南阪奈自動車道経由して
13:30大宇陀到達

旧内藤家住宅。明治時代前期に建てられたと推定される。煙出しが残る伝統的な町家で、改造前の痕跡も建物の各所に残る。平成12年に建物が寄贈され、町並み保存事業の基準に則して整備されたまちづくりの拠点施設。現在は町づくりのための会議や、まち歩きの休憩所として利用することができる。また展示スペースでは旧内藤家住宅に関する展示や、歴史的町並みの保存と整備に関する展示を行っているまちづくりセンター千軒舎を訪れ、ここを拠点として大宇陀を散策する。

旧街道に面した吉野葛の老舗、吉野葛本舗の裏山に広がる薬草園。1729年(享保14)森野通貞により開かれ、今なお当時の面影を残す。園内には約250種類もの薬草が栽培され、珍しい草花を目にすることができる森野旧薬園を散策する。

旧街道沿いにある地域コミュニティの場です。入ってすぐにゆったりとした休憩所があり、二階には展示コーナーや集会室があります。また、裏の中庭には施設名の由来になった南北朝時代の石垣がある石景庵を訪れる。

製薬の町、大宇陀の歴史がわかるミニ資料館。旧街道筋に面して立ち、年代ものの銅板葺きの看板が掛かる。建物は、1806年(文化3)から薬問屋を営んでいた細川家住宅を改修したもの。館内には昔の薬の看板や薬のパッケージ、細川家ゆかりの藤沢薬品に関する資料などが展示されている宇陀市大宇陀歴史文化館薬の館を訪れる。

大宇陀の中心部の松山地区には江戸時代、福島氏、織田氏の居城だった松山城があった。この門はその名残を留める唯一の遺構。福島正則の弟福島掃部頭孝治が、松山城を居城とした江戸初期に建築された。本瓦葺き切妻屋根の簡素な門で、壁以外は黒く塗られているから、黒門という松山西口関門を訪れる。

創建は推古時代と伝えられる古刹で真言宗御室派、本尊は十一面観音菩薩像。十薬やウイキョウなど、周囲の山に自生する薬草を使った精進料理が食べられる大願寺を訪れる。

宇陀川沿いの小高い丘にあり、柿本人麻呂が当地で詠んだ秀歌「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」を刻んだ歌碑が立つ。かぎろひとは厳冬のよく晴れた日の出前、東の空を彩る陽光。人麻呂がかぎろひを見た陰暦11月17日、この場所でかぎろひを観る会が開かれる。園内には万葉植物も植栽されている。丘の下からは阿騎野が古代の狩場だったことを示す遺跡が発掘され、阿騎野・人麻呂公園として保存されているかぎろひの丘万葉公園を散策する。

寛永9年(1632)織田常真公信雄のぶかつ(織田信長の次男)の菩提を弔うため四男の織田出雲守高長が京都北野の古寝殿を移築したものを本堂として創建する徳源寺を訪れる。

宇陀郡の屈指の大社で水の配分を司る神を祭る。創建は崇神天皇の時代にまでさかのぼるといわれ、延喜式にも記載された古社。大和の式内社の水分神社はここと葛城、吉野、都祁の4社だけ。緑に包まれた鎌倉時代の本殿(国宝)は、一間社隅木入春日造の3棟が並び立ち、速秋津彦神邸、天水分神、国水分神の水分三座を祭る。本殿に向かって右側に、室町中期の摂社春日神社本殿(重要文化財)と室町末期の摂社宗像神社本殿(重要文化財)が並んでいる宇太水分神社を訪れる。

山桜や白い彼岸花が美しい山寺。850年(嘉祥3)、空海の高弟堅恵が創建したと伝える。本堂背後、平安前期の宝形造の石室(重要文化財)には堅恵の墓という石室があり、中に五輪塔が立っている仏隆寺を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、近場の奈良県宇陀市に足を運び、織田信長の次男、信雄を祖とする織田松山藩の城下町として栄え、旧街道沿いには現在も古い家並やかつての松山城の遺構などが散在、名物葛を味わえる店、さらに街道西側には、織田家ゆかりの古刹や、柿本人麻呂が秀歌を詠んだ万葉集ゆかりの故地などが位置する大宇陀を訪れ、散策し多くの歴史的建造物に触れました。








徳島県那賀川カヌー
2009年9月27日


今回は四国の徳島県を流れ、鷲敷ラインと呼ばれる鷲敷町一帯の流域で小さな川ではあるが変化に富んだ急流で、奇岩、怪岩が多く、絶景を誇る渓流でも有り、阿波八景十二勝に指定されている那賀川に足を運びました。

8:00大阪駅集合出発、天候晴れのち曇り、車で阪神、淡路自動車道経由して
11:00那賀川鷲敷青少年野外活動センター下の河川敷到達、準備して昼食を済ませてから

13:00スタート、2級ー3級の瀬を20箇所以上通過してゴール地点水井橋までの12km4時間で下り終えました。

17:00水井橋到達、あとかたずけして
18:30わじき温泉に浸かり食事をゆっくり済ませて
21:00出発
0:30大阪駅到達、解散

今回のカヌーイベント、四国徳島県の鷲敷ラインと呼ばれる変化に富んだ急流、那賀川をカヌーで川くだりしました。

那賀川の最上流域の木頭村の降雨量は全国でも屈指で、3つのダムが蓄えた水を渇水期でも常に一定量放流しているため浅瀬がほとんどなく水深に恵まれ、又多くの少々スリリングを味わえる多くの瀬を越えるダウンリバー、快適に楽しく下ることが出来堪能しました。

前回の天竜川に続いて、今回の那賀川も楽しめる川としてトップレベルでした。
周りの景観もバツグンで又下ってみたい川でもありました。



奈良県吉野川大型ゴムボートで川下り
2009年9月26日


今回は近場の一級河川紀ノ川水系の津風呂川に建設されたダムによって出現した人造湖の奈良県津風呂湖を訪れ、エンジン付きの大型ゴムボートで湖巡りの予定でしたが、津風呂湖は最近所有のボートの使用を禁ずるとのこと、急遽近くの津風呂湖から流れる吉野川でエンジンをはずしての大型ゴムボートでの川くだりに変更しました。

13:00大阪駅集合出発、天候晴れ、阪神近畿南阪奈自動車道経由して
14:30吉野川上流、大和上市河原に到達、準備して
15:30スタート

水かさが少なく浅瀬が多い、まして定員オーバーの10人でボートが重く深く沈んでいるためところどことで底をすりランニングダウンしながら2km2時間かけてゆっくりのんびりと水遊び気分で川を下リました。

17:30ゴール到達、あとかたずけして近くの津風呂湖温泉に浸かり食事を済ませて
20:00帰路に向かう。
21:30大阪駅到達、解散。

今回のイベント、エンジン付きの大型ゴムボートで川登の一環としての湖巡り、残念ながら今回の湖は最近所有の艇の使用を禁ずるとのことで津風呂湖から流れ出る吉野川で水遊び気分の川下りを行いました。

激流の川下りを経験されている方は退屈されたかもしれませんが、違った観点での川下りとして受け止め川遊び気分で楽しめました。



飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十四弾:ラオス観光&メコン川下り
2009年9月19−24日


今回は国土が日本の本州とほぼ同じ、総人口は日本の5%ほどしかない東南アジアの最後の桃源郷、ラオスに足を運び、メコン川を挟んでタイと対峠し、経済開放政策以降は、人や物がひっきりなしに行き来する、名実ともに政治、経済の中心地となった首都ビエンチャン、ラオスの北部は、そのほとんどが山岳地帯で形成され、その山々の間に町や村が点在し、世界各国から多くのツーリストが集まる世界遺産都市ルアンパバーンを訪れました。
 
19日フライトが夕方でゆっくりでしたので天王寺駅付近の観光名所を巡り時間を費やしました。
13:00天王寺駅到達、天王寺駅周辺の観光名所、散策して見物する。
 
JR天王寺駅の西側にある美術館や動物園、慶沢園などを含み、多様な噴水や植物温室もある天王寺公園を散策する。
 
天王寺公園内に、1936年に開館、旧財閥の旧宅を利用したクラシカルな建物、中国絵画・石仏からなる東洋美術、仏教美術・光琳資料・近世の漆工芸からなる日本美術がコレクションの中心の大阪市立美術館を見学する。
 
1915年日本で3番目の動物園として開園した都市型動物園、現在11haの園内に、約230種930点の動物を飼育し、生息地の環境を可能な限り再現し、そこに暮らす動物の様子を紹介する生態的展示も行う天王寺動物園を見学。
 
西に向かい、1903年、第5回勧業博覧会が開催され、跡地の東半分が天王寺公園、西半分を博覧会のおよそ8年後、アメリカのコニーアイランドをまねた遊園地ルナパークと、パリのエッフェル塔を模した通天閣が誕生。周辺には興行館や飲食店が集まり、大衆の娯楽場として栄えた。ノスタルジックな店も軒を連ね、町の景色は変わってもその人情は生き続けている新世界を散策する。
 
数多くの映画にも登場した大阪のシンボル。1912年(明治45)、64mという当時東洋一の高さを誇り、パリのエッフェル塔と凱旋門を模して造られた。現在の通天閣は1956年(昭和31)に造られた2代目。最上階の高さは103m。展望台には福の神ビリケンさんも安置する。ビリケンさんは1912年(大正元)にやってきた。元々はアメリカの女性美術家が夢で見た神様を木像に表したものとか。学業や病気平癒の神様として拝まれている通天閣を訪れる。
 
通天閣の真下にある、漫才と落語の拠点。漫才・漫談・コントが6組と、落語3組の合計9組が出演。松竹芸能所属のタレントがステージを盛り上げる。客席数は196。ステージと一体感あふれる席で、上方芸能を堪能できる通天閣劇場に寄る。
 
さらに北西方面二向かい、毎年1月9〜11日の十日戎では100万人以上の人が訪れ、えべっさんの名で商売繁盛、福徳円満の神として信仰を集める。創建は推古天皇年間ごろ。天照大神、事代主命ほか、三神を祭っている今宮戎神社を訪れる。
 
東に戻り、約800年前、浄土宗祖法然によって開山された寺院。お骨仏の寺として知られる。宗派を問わず納められた遺骨で阿弥陀如来像を作るしきたりは1887年(明治20)から行われ、戦前に6体を造立。その後戦災で焼失したが、その遺灰と、1947年(昭和22)までに納められたお骨を合わせて第7期のお骨仏を造立。現在は、第13期のものまで7体祠られている一心寺を訪れる。
 
聖徳太子が建立した日本仏法最初の大寺。史跡に指定された境内には、戦後に再建された金堂・講堂・五重塔のほか、重要文化財でもある石の鳥居が立つ。これは創建時の木造の鳥居を、1294年(永仁2)に石造に改めたものの四天王寺を訪れる。
 
16:00天王寺駅出発
16:40関西国際空港到達。
18:40関西国際空港ベトナム航空で出発
21:35(時差ー2時間)ハノイ空港到達、空港近くのホテルで宿泊。
20日8:30ハノイ空港ベトナム航空で出発
9:35ラオスビエンチャンワッタイ空港到達
11:50ワッタイ空港ラオス航空で出発
12:30ルアンパバーン空港到達、ホテル到着後市街地を散策する。
 
ルアンパバンはランサン王国(1353-1975)の王都で、古くはムアン・スワといい、その後シェントーン と呼ばれるようになった。カーン川とメコン川の合流地点に位置する緑豊かな町ルアンパバンは、その 美しいラオスらしい町並みと、歴史的、文化的遺跡保護の観点から、1995年、ユネスコによって世界 遺産に指定された。
 
1560年にセティラート王によって王家の菩提寺として建立された。 屋根が軒に向かって低く流れるように作られている、典型的なルアンパバン様式 の建物で、ルアンパバンで一番荘厳な寺院である。本堂裏側のタイルによって描 かれた「生命の樹」のレリーフは素晴らしく、一見の価値があるワット・シェントーンを訪れる。
 
1904年〜1909年にかけてSisavangvong王の王宮として建設されました。現在は博物館となっている。館内は当時の国王の使用したインテリアや遺品、献上品などが展示されています王宮博物館を見学。
 
ルアンパバンの中心近くに位置する100mくらいの丘で、300あまりの階段を上が りきると、頂上には1804年、アヌルット王によって建立されたタートチョムシー と呼ばれる仏塔がある。丘の上からはルアンパバンの箱庭のような町並みが見渡 せ絶景のプーシーを訪れる。
 
1821年に建設された仏教寺院。本堂の壁には黄金のレリーフで仏教の物語が描かれています。本堂の中には、ラオスの正月(西洋暦の10月)に使用する美しい装飾を施されたボートが納められていますワットマイを見学。
 
他のルアンパバーンの寺院とは様式を異にするベトナム風の寺院、中には黄金の寝仏が横たわっているワットパバートタイを訪れる。
 
町の西側のはずれ、小高い丘の上に立つ。質素な感じの本堂、角ばった仏塔と、全体的に武骨なイメージを与える。本堂の両サイドの仏塔のうち、金色の方はシーサワンウォン王(位1904-59)の遺灰が埋められている。もう1基には仏舎利が納められているというワットタートルアンを訪れる。
 
プーシーの丘の南側、王宮と反対側に位置する寺院で、ワット=シエントーンより古く、およそ500年の歴史を持つ。本堂はかつては2重屋根の木造で、ラオス建築の傑作であった。大きな仏塔タート=パトゥムは、その形からタート=マークモー(すいか仏塔)とも言われ、長細いすいかの上半分を台座に乗せた格好をしている。残念ながら本堂もこの仏塔も後世の再建だが、仏塔の中から発見された仏像や財宝類は、現在本堂内や王宮博物館に展示されているワットビスンナラートを訪れる。
 
ホテルに戻り食事を済ませてから床に就く。
 
21日8:00歩いてメコン川岸のスローボート船着場到達、スローボートでメコン川の上流下流の観光名所を巡る。
 
8:30スローボートで下流に向かう。
 
15分後上陸、焼き物の村、ろくろの上に粘土を乗せ、ひも作りの技法で水瓶や植木鉢を作っているバーンチャーンを訪れる。
 
再びスローボートでメコン川を下り1時間ほどで上陸、ツクツクに乗りで15分ので到達。
ルアンパバーン市内からメコン川の下流に向かって約28キロほどいったところにある美しい滝。ラオスを代表する滝の一つ。石灰岩質の絶壁より約80メートルの落差のある美しい滝。 水は美しい白糸となって滝壺に流れ落ち、滝壺はエメラルドグリーンに輝いています。滝壺からさらにしたの方では、泳ぐことが出来ます。この滝全体は森林公園のようになっていて、公園ゲートを通過すると保護されているトラやクマの見ることができます。その先に滝下が水泳エリアで、約10分ぐらい登ると滝全体が見渡せるところに到着するアンシー滝を散策する。
 
ローボート船着場に戻り昼食を済ませてから
13:30ローボートで上流の方向に出発、2時間後
 ルアンパバーンからメコン川を約25km、船で1.5〜2時間ほどさかのぼった、ウー川との合流点・パークウーにある洞窟寺院。メコン川に面した崖の洞窟・タムティン、少し登ったところにある洞窟・タムプラカチャイの2か所に、たくさんの仏像がまつられているパークウー洞窟を散策する。
 
16:00ローボート船着場に引き返す。
17:00ローボート船着場到達、ホテルに戻りツクツクで飛行場に向かう。
17:30ルアンパバーン空港到達
19:20ルアンパバーン空港をラオス航空で出発
20:00ビエンチャンワッタイ空港到達、送迎バスでホテルに向かう。
20:30ホテル到達、宿泊
22日7:30ホテル歩いて出発
 
ラオス共産党創立25周年を記念して、2000年12月2日の建国記念日にリニューアルオープンした、カイソーン元大統領の名前が冠された博物館、カイソーン氏に関係する展示品だけでなく、ラオス全体の歴史博物館的な性格のカイソーン・ポムビハーン博物館を見学する。
 
国防省の博物館でラオス軍の歴史について展示している。1階は軍用車両の展示。2階は小銃や無線機などのほか、撃墜したタイ軍の無人偵察機も展示されている。
ラオス軍の歴史を解説したパネルなどがあるラオス人民軍歴史博物館を見学。
 
ラオス仏教の最高の寺院で、ラオスの象徴で、伝承では3世紀頃インドからの使いの一行がブッダの胸骨を納めるために建立したと伝えられるが、定かではない。その後、1566年にセタティラート王により、四方を四つの寺院に囲まれる形で再建されたが、現在は北と南の寺院が残るのみである。北の寺院、ワットタートルアンヌアはラオス仏教界最高位の僧侶の住まいである。1828年にシャムの侵攻により損傷を受けたが、1936年に改修されて現在に至るタートルアンを訪れる。
 
ランサン通りにあり、パリの凱旋門を模して作られた。ラオス語でパトゥーとは「扉」「門」の意味、サイとは「勝利」の意味である。下から見上げた天井にはラオスの典型的なモチーフ、神々や3頭の像などのレリーフがある。もともとは戦没者の慰霊碑として1960年から建設が始められ、新空港建設に使用されるはずだったセメントで建てられたものである。朝の8時から夕方5時までの間は上に上ることが出来、ヴィエンチャン市内を一望できるパトゥーサイを訪れる。
 
1818年、King Anou Vongによって建立。ヴィエンチャン最古の寺院で、市内で唯一、建立された当時のままの姿を保つ。本堂と回廊の壁を合わせると6,840もの仏像が安置されている。その殆どはが度重なる戦いによって、目に嵌め込んでいた宝石類や頭部の金細工等が取り去られているが、一部残っているのもあるワットシーサケットを訪れる。
 
1565年にセタティラート王の命により、建立された。王の父、ランサン王国のボティサラート王の死により、セタティラートが王位を継承後、王国の首都をルアンパバンからヴィエンチャンへと遷都した。その折、エメラルド仏(パーケオ)を旧王都から移し安置したのがこの寺院である。当初は王の祈りの場所として建立された寺院であったが、1779年、シャム王国との戦争によりた建物は焼失し、エメラルド仏は持ち去られた。1936年に現在の建物がフランスによって再建された。現在は博物館として使用され、国内各地から集められた仏像などが並べられている。中庭にはジャール平原から運ばれた石の壷もあるワットホーパケオ を訪れる。

1560年にルアンパバンからビエンチャンに遷都したセーターティラート王が、1563年に寺院を建設するために、ここで土台の穴を掘っていたところ、大きな石が出てきました。しかし、その石を綱で結わえて引っ張り出そうとしてもビクともしません。それを見ていたシーという若い妊婦さんが自ら人身御供となって穴に飛び込んだところ、石は穴の中に落ちました。その伝説からシームアン(シーの街)という名前が付けられたワットシームアンを訪れる。
 
サームセンタイ通りから少し奥に入った所にある苔むした黒色の塔、16世紀に建立されたとされ、当時は金属で覆われていたためタートカム金塔と呼ばれていたタートダム黒塔を訪れる。
 
1909年に、当時の王シーサワンウォンとその家族の住居として建造された宮殿。そのかつて王宮だった建物が現在は博物館になっており、王族が使用した家具や調度品、世界各地からの贈呈品や黄金仏などが展示されているラオス国立博物館を見学。
 
ビエンチャンは多くの寺院があり、仏教徒の人々は自分の近くにあるお寺にお参りに行ったり、僧侶の食事を作ったりしており、その寺院のいくつか、ワットインベン、ワットオントゥ、ワットハーイソーク、ワットチャンタブリー、ワットミーサイを訪れる。
 
ナンプ広場で休憩してホテルに歩いて戻る。
 
17:30ホテル到達、食事を済ませてから宿泊。
 
23日11:00ツクツクでホテル出発、南東方面に向かう。
 
12:001994年4月8日、ラオスとタイの国境を流れるメコン川にかかる橋としてオープンした、全長4500kmのメコン川に橋が架かるのは初めて、橋の全長が1174km、全幅12,7mの友好橋に到達し橋の中央のタイとの国境線まで歩きました。
 
さらに15分東に向かい、正式にはワットシェンクワンという寺院で、多くの仏体が無造作に置かれているところからいつの間にかブッダパークと呼ばれている寺院を訪れる。
巨大な寝仏が出迎え、仏像だけでなくヒンズー教の神々も祭られている。
 
ビエンチャン市街地に戻る。
13:30昨日訪れたナンプ広場に到達し食事を取る。
14:30出発、ツクツクで飛行場に向かう。
15:00ビエンチャンワッタイ空港到着
17:50ワッタイ空港、ベトナム航空で出発
18:30ハノイ空港到達
23:00ハノイ空港、ベトナム空港で出発
24日5:10(時差;+2時間)関西国際空港到達
 
今回の旅行、5つの国(中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー)に囲まれた内陸の国ラオスに足を運び、
初日は世界遺産の町、ルアンパバーンを散策し多くの寺院と博物館を訪れました。
 
2日目は大河メコン川を午前は下流を下り、流れ落ちる水が非常にきれいなタートクアンシーの滝を散策し、午後はメコン川を上り、メコン川とナムウー川とが合流する地点にある大小多くの仏像が納められているパークウー洞窟を散策する。
 
3日目はラオスの首都ビエンチャンをひたすら歩き多くの寺院と博物館を巡りました。
 
4日目はツクツクでビエンチャン郊外のラオスとタイの国境を流れるメコン川にかかる橋を歩き、また多くの仏体が無造作に置かれている寺院、ブッダパークを訪れました。
 
5泊6日の旅、全日天候晴れ、絶好の観光日和、東南アジア最後の桃源郷、まだまだ未開発で自然いっぱいの国ですが、ベトナム同様に経済が急成長しているラオス観光堪能しました。
 
ラオスを含め東南アジアの国はまだまだ物価が安く、日本の約5分の1、現地ではお金に神経を使うこともなく少々贅沢しても問題なく過ごせる国々なかなか楽しめました。
特に治安抜群のラオス、時間があれば目的を決めずにのんびり旅するには絶好の国です。
今後日本からの旅行客もかなり増えるでしょうね。
素朴な治安のいいラオスを訪れるのは今がチャンスかもしれません。
 
 
 
 
 
 




















三重県名張観光
2009年9月16日


今回は近場の三重県、伊賀上野と同様に藤堂高虎氏の城下町として栄え、郊外には赤目四十八滝、東側には青山高原が広がる名張に足を運びました。

12:30車で近畿名阪自動車道経由して
13:30名張到達。

1636年(寛永13)、藤堂高吉が建てた武家屋敷。往時には1083畳の広さを誇ったが、廃藩置県で5分の1に縮小された。現在、書院式枯山水の庭園をはじめ、全国でも珍しい中奥とよばれる当主の私室が残されている名張藤堂家邸跡を見学する。

7世紀後半から8世紀前半にかけて、大来皇女が父・天武天皇のために建立した昌福寺の跡と推定されている。跡地に立つ夏見廃寺展示館には、仏画の彫られたせん仏や軒瓦など、数多くの出土品が展示されている夏見廃寺跡を訪れる。

青蓮寺川をせき止めるダムによって生まれた人造湖。高さ82m、長さ275mの巨大なアーチ式のダムの上は、車や徒歩で渡ることができる。四方を深い山々で囲まれた湖は青く美しく、春は桜、夏は新緑、秋は紅葉が周辺を彩る青蓮寺湖を訪れる。

室生火山群が造り出した青蓮寺川上流の渓谷。香落橋からバス停:落合まで約8kmにわたって、斧で断ち切ったような柱状節理の岩肌が続く。最も高い岩壁は100mを超え、途中には鬼面岩、天狗柱岩、小太郎岩などの奇岩が連続する。秋は岩肌を燃え立つような紅葉が彩る香落渓を訪れる。

奈良・三重県境にある、標高849mの亀山麓に広がるなだらかな高原。山全体が草原の亀山は新緑が美しく、秋は一面ススキに覆われる。陽光を受けて金銀に輝く景色は見事。谷を隔てた正面には、屏風岩・兜岳や鎧岳などの奇峰が見える曽爾高原を散策する。

名張の奥座敷として知られる滝で、伊賀と大和の境を流れる滝川の上流約4kmにわたる群瀑。大小50もの滝があり、特に美しい不動滝、千手滝、布曳滝、荷担滝、琵琶滝の赤目五瀑はみどころの赤目四十八滝を散策する。

延喜式にも記されている古社。国の重要文化財に指定されている宝殿は一間社で、入母屋造の檜皮葺き。安土桃山時代の特徴を表し、朱塗りの建物にゾウの彫刻などが鮮やかで豪華だ。境内には、日本三大奇鐘の一つといわれる虫喰鐘、地震の神様が鎮座する要石社もある大村神社を訪れる。

笠取山の南斜面に広がる高原で、ツツジとススキのころが美しい。標高756mの三角点付近は伊勢湾や大和の山々を見渡す展望台なども整備されている。初日の出スポットとしても有名な青山高原をドライブ走行する。

18:00終了、帰路に向かう。

今回は近場の名張に足を運び歴史的建造物史跡の名張藤堂家邸跡、夏見廃寺跡を訪れ、又郊外の室生火山群の活動が作り出した渓谷、香落渓、滝川の上流4kmにわたって続く渓谷で多くの滝に接することが出来る赤目四十八滝、笠取山から青山峠までの約12kmの青山高原をドライブして楽しみました。

尚笠取山の山頂付近には数多くの風車が設置されており、運よく適度の風で気持ちよく、効率よく回っているのを確認することが出来ました。
これだけ多くの風車の回転は他では見れない規模でなかなかの迫力を感じました。





飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十三弾:木曽路&伊那路観光
2009年9月12−13日


今回はかつての中山道で賑わった宿場町が点在する木曽エリア、桜で有名な高遠や駒ケ岳の千畳敷カールなど自然豊かな観光スポットがある伊那エリア等の南、中央、北アルプスの山脈にある木曽路と伊那路に足を運びました。

12日13:07新大阪新幹線のぞみで出発、名古屋到達後中央線快速で出発
15:03恵那駅到達。

恵那駅付近に平成13年9月にオープンした恵那市内在住の収集家田中春雄氏から寄贈された歌川広重の浮世絵版画などを所蔵しています。 恵那市には旧中山道が通り、かつてこの地域の代表的な宿場町として栄えた大井宿があります。その歴史的財産を活用しながら、芸術・文化の振興に役立てようとした中山道広重美術館を見学する。

レンタカーで中津川方面に向かう。

中津川には、中津川宿と落合宿があり、商業、文化面から木曽路との接点あるいは江戸と京都との接点としての重要な役割を果たしてきました。中津川市の歴史資料として重要な古文書、公文書等の記録類を継続的に収集・保存し、市民共有の記録遺産として永く後世に伝えるとともに、その収蔵資料を広く公開している中津川中山道歴史資料館を見学。

戦国時代から明治時代にかけて、この地方を12代に渡って治めた苗木遠山家の居城が苗木城。その城跡が残る丘の麓にあるのが、この史料館だ。苗木遠山氏は織田氏や武田氏と縁戚関係を結び、その後、徳川氏とも安定した関係を築いて、国替えもなくこの地方を治めた。城跡は、南に流れる木曽川を天然の堀とした小高い丘の上にあり、国の史跡に指定されている。館内では苗木領内における人々の生活ぶりなどがわかりやすく展示されている苗木遠山史料館を見学。

中山道を江戸から数えて45番目の宿場町として栄え、旅籠だけでも大小29軒を数える大きな宿場だった。現在、本町にある本陣跡地には、石碑が残されている。周辺には古い家屋も立ち並び、卯建のある家なども見ることができる中津川宿を散策する。

恵那方面に戻る。

日本初の発電用ダムとして、木曽川に建設された大井ダム。このダム湖が造り出した、人工の景勝地。四季折々の自然が楽しめ、風化によって造られた奇岩もみられる。今にも倒れそうな傘岩は、キノコ形をした、傘の周囲が約10mもある珍しい岩がある恵那峡を散策する。

恵那駅付近のホテル到達後、繁華街散策、食事を済ませてから床に就く。

13日5:30レンタカーで出発、天候は前日と一転して快晴、絶好の観光日和、馬籠方面に向かう。

中山道の難路、木曽路の最南端に位置し、宿場町として栄え、全長600mの石畳の坂道に沿って、軒の低い格子造りの家並みが宿場時代の面影を残す。明治28年の大火事により江戸時代からの建物は焼けてしまったが、町の人達の努力で、当時を彷佛させる町並みを復元された。文豪・島崎藤村の生まれ故郷としても知られ、名作「夜明け前」の舞台にもなった宿場町馬籠宿を散策する。

島崎藤村の生家で、馬籠本陣の島崎家跡。黒塗りの冠木門内の藤村記念堂は奈良朝の様式を取り入れた回廊式の建物で、藤村の肖像画や年譜を展示している。藤村の祖父母が使用した隠居所は、旧本陣の建物では唯一焼失をまぬがれた。階下のふるさとの部屋ではビデオを放映。敷地奥にある第二文庫では企画展を、第三文庫では常設展示を行う。藤村の著書や蔵書、夏目漱石からの書簡、『夜明け前』の原稿、愛用品などの資料を公開し、彼の一生を紹介している藤村記念館に寄る。
代々、馬籠の宿役人を務めた清水屋(原家)は、本陣島崎家と親交があり、藤村の小説執筆にあたっての覚書や、書簡、「是より北木曽路」の掛軸などを展示している。このほか、陶器や鏡、ランプなどの生活道具、陣羽織りなどの衣類と共に、清水屋に伝わる古文書、尾形光琳や富岡鉄斎作の掛け軸、絵画などもある清水屋資料館に寄る。

小説『夜明け前』に登場する桝田屋のモデルともなった、旧馬籠脇本陣蜂谷家跡に立つ。初代から4代までの覚書は、藤村が『夜明け前』を執筆する際に資料としたもの。館内では、蜂谷家伝来の家具や古美術品を展示している。大名が宿泊した上段の間も、忠実に復元されている馬籠脇本陣史料館に寄る。

藤村記念館の裏手、向かい側の丘にある島崎家の菩提寺は、1665年(寛文5)に創建された臨済宗の古刹だ。小説『夜明け前』には万福寺の名で登場している。境内には島崎家の墓地があり、墓石は藤村がデザインしたといわれている。藤村の父・正樹らの墓の一段上には、島崎春樹と記された藤村と、妻冬子、長男楠雄らの墓標が並んで立つ。遺骨は彼が晩年を過ごした神奈川県大磯の地福寺に埋葬されており、ここには遺髪と爪が納められている。また、藤村の『母を葬るのうた』の詩碑も立ち、円空作の聖観音像も本堂脇のお堂に安置されている永昌寺を訪れる。

馬籠宿の坂道を上りきった、中山道への入り口付近に立っている。江戸時代にはこの場所で木曽代官から庶民にふれ回す高札が掲げられていた。現在は、正徳年間(1711〜16)に発布された御朱印、切支丹、薬品などに関する定書と、1770〜94年(明和7〜寛政6)に発布された徒党禁止の定書が復元され、掲示されている馬籠宿高札場を見学。

妻籠方面に向かう。

中山道と車道が交わる標高801mの地点にある。馬籠宿からこの峠までは、木曽路の難路とされ、馬を宿に置いていったことが地名の由来だと伝えられる。峠の頂上には1891年(明治24)にこの地を訪れた正岡子規の句が刻まれた石碑が立っている馬籠峠を訪れる。

中山道の東側にある滝で、清々しい水の音が辺りの山林に響いている。水量の多い方が男滝、奥にある水量の少ない方が女滝だ。また、吉川英治著の『宮本武蔵』に登場し、武蔵とお通の恋物語の舞台にもなっている。滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説も興味深い男滝・女滝を訪れる。

中山道と飯田街道の分岐点に位置し、古くから交通の要所として栄え、昭和43年に町並みの保存が始められ、昭和51年に国の重要伝統建造物保存地区に選定される。全長約500mの町並みは、江戸時代にタイムスリップした感じで、どれも当時の面影を残し、懐かしさと郷愁を感じる情緒いっぱいの宿場町妻籠宿を散策する。

幕府が庶民に対し、禁制や法度、罪人の罪科などを示した掲示板。現在の官報掲示板に当たる。脇本陣奥谷から北に100m、江戸方面から宿場へ入る入り口付近にあり、江戸幕府の威信を示すためか人々を見下ろすような形で高札が掲げられている。現在見られる屋根付きの高札は、江戸時代の姿をそのままに復元した妻籠宿高札場を見学。

籠宿見学の中心となる施設で、南木曽町の歴史や生活、自然を紹介。現存する脇本陣奥谷と復原された妻籠宿本陣、歴史資料館の3館で構成される南木曽町博物館に寄る。

南木曽町博物館のひとつ。妻籠宿の脇本陣・造り酒屋であった林家の屋敷で、「奥谷」とは林家の屋号。現在の建物は木曽五木の禁制が解かれた明治10年(1877)に建築され、総檜造り。当時の粋を集めて建てられた。島崎藤村の初恋の人「おゆふさん」の嫁ぎ先でもあり、敷地内の土蔵には肖像画や愛用品、藤村から送られた書などゆかりの品が展示されている脇本陣奥谷に寄る。

南木曽町博物館のひとつ歴史資料館は、南木曽町で出土した縄文時代の土器、山仕事に使用されていた民具など約200点の資料を展示。原始から近現代までに渡る自然や生活の変遷を紹介。全国にさきがけて実施した町並み保存に関する資料も必見の歴史資料館に寄る。

木曽町博物館のひとつで、宿駅が制定されてから代々妻籠宿の本陣・庄屋を務めた島崎家の邸宅。藤村の母ぬいの生家でもある。明治20年代に一度取り壊されたが、江戸時代後期の間取り図を元に再建された。島崎家の居住と、大名が泊まった御上段の間や家来が使った部屋まで、往時の姿のまま忠実に復原されている妻籠宿本陣に寄る。

籠の町に溶け込む木造建築の風情ある妻籠郵便局。その内部に小さな史料館が併設されている。1871年(明治4)から現在までのポストの模型が並べられ、その変遷が一目で分かる。昔の郵便物、配達夫の服装や持ち歩いた逓信ラッパなども展示されている郵便史料館に寄る。

桝形とは、宿場の出入り口に必ず設けられた直角に折れる道。かつて幕府により防塞施設としての役割も担わされていた宿場は、街道を2度、直角に折り曲げて外敵の侵入を防いだという。妻籠の桝形は、観光案内所から下嵯峨屋までの70mの間にあり、当時の形がくっきりと分かる姿で保存されている桝形跡を訪れる。

央の土間を挟んで両側に部屋が並ぶ、珍しい中土間形式の造りで、民家の歴史上貴重な建物。建築当初の形式をよくとどめている。旅人が集ったであろう囲炉裏のある板敷きの部屋もあり、庶民の旅籠だった当時の雰囲気がうかがえる上嵯峨屋を訪れる。

長屋だった建物の一軒分だけを1968年(昭和43)に解体、建造当初の姿に復元された。片土間に並列二間取の形式をそのまま留めた、妻籠における庶民の典型的な家屋だ。内部には蓑や籠などの生活用具が置かれ、江戸時代の庶民の暮らしをうかがい知ることができる下嵯峨屋を訪れる。

上松方面に向かう。

葛飾北斎や安藤広重の浮世絵にも描かれた滝。木曽八景の一つにも数えられる。高さ30m、幅10m、滝壺の脇には不動尊の御堂と石碑、常夜灯が立っており、御嶽信仰の行者にとっては水行の場でもあった。滝の背後に控える風越山も、木曽八景風越の青嵐として知られる名山の小野の滝を訪れる。

国道19号のすぐ近く、寝覚の床を見下ろすように立つ臨済宗妙心寺派の寺。浦島太郎が変わり果てた自分の姿をなげいて旅立ってしまったが、後に残されていた弁財天の像を祭ったのが開基の由来という。境内には松尾芭蕉、正岡子規、種田山頭火の句碑、姿見の池などがあり、奥の降り口から寝覚の床への近道が通じている臨川寺を訪れる。

約1.5kmにわたり、奇岩が続く景勝地(名勝)。木曽川の急流が花崗岩の岩盤を浸食したもので、古くから木曽路を行く旅人たちが必ず足を止め、眺めたといわれる。それぞれの岩は、形になぞらえ屏風岩・烏帽子岩・象岩・獅子岩などの名が。表面にできた縦横の割れ目(方状節理)や甌穴(ポットホール)は、地質学的にも貴重なものとされている。龍宮城から戻った浦島太郎がここで玉手箱を開け、300歳の老翁になり、夢から覚めたという伝説からその名が付いた寝覚の床を散策する。

信州木曽路の西部に位置し、樹齢300年を超える木曽ひのきの天然林で構成されています。開園から30年を迎え、また昭和57年には第1回の森林浴大会を開催。平成13年には、環境省かおり風景100選の選定を受けました。さらに、園内には木曽の山林で活躍した森林鉄道が保存されています。森林鉄道記念館には、当時運行されていた機関車や客車を展示、開園期間中は土曜・日曜・祝日を中心に森林鉄道を運行しています。かつて森林の中を走った情景を、天然林の中で気軽に体験できます赤沢自然休養林を散策する。

開田高原方面に向かう。

村の水田開墾の歴史や産業、生活、動物について紹介している。絶滅しかけた木曽馬の最後の純血種雄馬として多くの子孫を残した、第三春山号のはく製を展示する木曽町開田高原郷土館を見学。
天然記念物に指定された木曽馬1頭がいる乗馬スポット、ここでは19頭の木曽馬で乗馬が出来、馬場からは御嶽山を見渡せる木曽馬トレッキングセンターを訪れる。

木曽福島方面に向かう。

木曽氏と山村氏の菩提寺で、木曽三大寺の一つ。1434年(永享6)に、木曽家12代信道が、先祖である木曽義仲のために建てた寺。平安末期の古代様式を見せる勅使門、奥正面には観音堂と木曽檜造りの本堂がある。観音堂脇には義仲が植えた2代目の時雨桜があり、また、境内左手には4つの庭園と、江戸時代の漆器などが展示された宝物殿がある興禅寺を訪れる。

興禅寺境内の北東に位置する。木曽義仲は1184年(寿永3)、源義経らの軍勢に敗れ31歳でこの世を去った。この墓には死の直前、義仲が巴御前に託した遺髪が納められている木曽義仲の墓を訪れる。

福島関所の関守を務め、木曽代官も兼務していた山村氏の屋敷の一部を所蔵品と併せて公開。当時の屋敷は隣接する福島小学校の敷地一帯に広がっていたが、現存するのは下屋敷の一部だった城陽邸と付属の庭園、本邸の石垣の一部のみ。城陽邸は1723年(享保8)に再建された建物で、書院造の座敷を中心とした数室からなる。その一室には山村家の守り神、木やりを唄うキツネ・お末社様とよばれ崇拝されたキツネのミイラが祭られている。山村家家臣の漢学者・石作駒石の書斎翠山楼も敷地内にある山村代官屋敷を訪れる。

奈良井方面に向かう。

1991年に奈良井川に架けられた太鼓型の橋は、樹齢300年以上の天然木を使った贅沢な総檜造り。橋脚を持たない木製の橋としては日本有数の大きさを誇り、長さ33m、幅6.5m、水面からの高さは7mもある奈良井木曽の大橋をわたり奈良井宿に向かう。

木曽路の難所、鳥居峠を越える旅人が足を休めた宿場町。奈良井千軒と呼ばれ、木曽路十一宿の宿場の中でも一番の賑わいをみせた。度重なる火災に見舞われたが、江戸時代(天保年間以降)の建造物が多く残り、町並み全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。奈良井駅から南へ、千本格子の町並みが1kmほど続く奈良井宿を散策する。

1602年(慶長7)から約270年間、幕府の定めた伝馬と人足を管理運用する問屋を勤め、時には庄屋も兼務した手塚家の住宅。1840年(天保11)建築の館内は、間取りに問屋の造りをとどめ、当時の様子を今に伝える。明治天皇が使用した茶器など約300点余りの諸道具、100点余りの古文書などを展示する上問屋史料館を見学。

間口が狭く奥行きがある出梁造が特徴の、奈良井の代表的民家。塗櫛の創始者中村利兵衛の屋敷として、天保年間(1830〜44)の大火直後に建てられた。雨戸の役目を果たす蔀戸をはじめ、防火壁として設けられた袖壁、猿頭をあしらった鎧庇、情緒ある千本格子や潜り戸など、独特な造りがそのまま残る。屋内は、通り土間が裏まで続き、店、吹き抜けの勝手、中の間、座敷、箱階段などが見られる中村邸を見学。

東の伊那エリア、高遠方面に向かう。

武田信玄の命により高遠城が改築されたのは、天文16年(1547)のこと。武田流の戦略を考え合わせ、進歩した築城技術で築かれた名城だったが、明治5年(1872)になると民間に払い下げられ、城は撤去されてしまう。明治8年(1875)頃から桜が植え始められ、その後次第に拡張して現在の公園となった。5万4000平方mの敷地内に1500本以上のコヒガンザクラが植えられ、4月中旬の満開の時期を迎えると「天下第一の桜」と賞された桜を一目見ようと遠方からも多くの観光客が訪れる高遠城址公園を散策する。

駒ヶ根方面に向かう。

中央アルプスの主峰・宝剣岳の南東斜面を氷河がえぐった、すり鉢状の圏谷(カール)。麓のしらび平から千畳敷までは、ロープウェイで高低差950mを7分30秒のスピードで駆け上がる。終点から遊歩道が整備されていて、1周50分ほどのハイキングが楽しめる。7月中旬〜8月上旬にはチングルマやイワカガミなど200種類もの高山植物が咲き乱れ、9月下旬になればナナカマドなどの鮮やかな紅葉が目を楽しませてくれる千畳敷カールを散策する。

氷河によって削られたカール地形に山の湧き水が流れ込んでできた小さな池。夏のわずかな期間のみ水が溜まって池になる。透明な水面に映し出される宝剣山は見事なまでに美しく、千畳敷カールの隠れた名所として写真スポットにもなっている剣ケ池を訪れる。

駒ヶ根インターから中央高速経由して中津川インター下車

18:00恵那駅到達
18:24快速で出発
19:35名古屋駅到達
19:45名古屋駅新幹線のぞみで出発
21:35新大阪到達。

今回の旅行、岐阜県と長野県にわたっての観光名所の多い木曽路と伊那路の広い範囲でのドライブ観光。

木曽川を堰きとめたダム湖に広がる景勝地恵那峡の散策。
中央アルプスと北アルプスに狭まれたV字谷の木曽谷の山中に江戸時代の面影を残している3つの宿場町、馬籠・妻籠・奈良井の散策。
全国に先駆けて森林セラピー基地に認定された天然ヒノキの森、赤沢自然休養林の散策と森林鉄道での森林との触れ合い。
開田高原での日本在来種で天然記念物の木曽馬の出会いと、ここからの険しい山頂が特徴的な木曽谷の霊峰、御嶽山の眺望。
季節はずれの訪れですが、中央・南アルプスに囲まれた伊那谷の桜の名所、桜は城址公園一帯に集中して植えられ遠くから見ると山全体がまるでピンクの雲海のように見えるといわれる高遠城跡公園の散策。
木曽路と伊那路の間にそびえ立つ山脈の中央アルプスの最高峰・木曽駒ケ岳と並ぶ宝剣岳直下の谷間にある千畳敷カールの散策。
一泊二日の旅、堪能しました。

観光名所の多い、有名な木曽路と伊那路の旅、今回のコースもかなりお勧めです。
大自然と江戸時代のタイムスリップに接し、強行スケジュールですがなかなか満足できたドライブ観光旅行でした。



















滋賀県五個荘史跡巡り
2009年9月9日


今回は近場の滋賀県の近江商人の発祥の地、白壁、舟板張りの豪商の屋敷が建ち並ぶ五個荘に足を運びました。

12:30車で近畿名神自動車道経由して八日市インター下車
14:00五個荘到達、散策する。

五個荘の観光拠点となる場所、生き活き館に車を留めて散策する。

五個荘町の古い町並みが続く静かな金堂地区に、堂々とひときわ高くそびえ立つ浄土真宗大谷派の古刹。この寺を開基した愚咄坊は那須与一の嫡子で、本願寺三代の覚如上人が関東へ下る際に弟子となり、犬上郡石畑に一宇を建立しました。正応5年(1292)には現在の寺号を受け、その後神崎郡躰光寺村に移り、天正9年(1581)には現在地の金堂に永住することになりました。敷地は移転してきましたが、本尊と祖師親鸞上人真影(御裏書に安食庄石畑(あんじきのしょういしはた)云々とある)は、代々受け継がれてきています。現在の建物は宝暦5年(1755)、高木作右衛門によって建てられたもので、国の重要文化財に指定されている弘誓寺を訪れる。

近江商人とは、近江(現在の滋賀県)に本拠を置いて全国で商業活動をしていた人々のこと。五個荘商人は江戸後期ごろの登場で、江戸初期から活躍している同じ近江商人の八幡商人より遅かった。ただ、商人の数が多いこともあり、明治時代には呉服や麻布などの繊維製品を中心に商いを進めて商業範囲を広げていった。そんな五個荘商人の屋敷が、五個荘金堂地区にあり、今でも舟板塀の蔵屋敷3軒が一般公開されている近江商人屋敷を訪れる。

近江商人をテーマにした小説を発表し、野間文学賞を受賞した外村繁氏の生家。父・吉太郎は根っからの近江商人で、東京の日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開いて活躍した。家族や番頭が生活した母屋や蔵が残る。外村繁の直筆原稿や書簡を展示した外村繁文学館も併設している外村繁邸を訪れる。

東京や横浜、京都などで呉服などの販売を手がけ、明治時代に全国の長者番付にも名を連ねた豪商・外村宇兵衛の本宅。往時には母屋や納屋、米蔵など10数棟の建物があった。屋敷の一部は取り壊されたが、市によって復元された外村宇兵衛邸を訪れる。

昭和初期、朝鮮半島や中国大陸などで20数店舗の百貨店を経営し、「百貨店王」と称された三中井一族の本宅。約1000平方mの敷地に木造2階建の本宅や蔵、庭園がある。蔵では小幡人形や全国の土人形を展示している中江準五郎邸を訪れる。

北は北海道から南は九州まで、天秤棒を肩にかけて全国各地を行商した近江商人たち。江戸時代、湖東地域から多くの近江商人を輩出した。ここでは映像やジオラマを通して地域の歴史、近江商人の暮らしや文化、商法や家訓、教育などさまざまな角度から近江商人を紹介している近江市近江商人博物館を見学。

藤井彦四郎は、明治9年に三代目藤井善助の次男として北五個荘村大字宮荘に生まれ明治32年23歳で分家して明治42年に藤井糸店を創業しました。「鳳凰印の『絹小町糸』」の販売や「スキー毛糸」の製造販売を行い、また、日本で最初に化学繊維を輸入し、「人造絹糸」として販売するなど時代を敏感にとらえて、一代で成功しました。当家は、敷地面積8,155m2、建物面積710m2にもおよぶ。屋敷内には、彦四郎自身の構想による琵琶湖を模した池泉回遊式の庭園をはじめ、主屋、客殿、洋館、土蔵が立ち並んでいる藤井彦四郎邸を訪れる。

東近江方面に向かう。

町の中央部にある大きな鎮守の森にあり、近郷一帯33カ村にわたって氏子を有し、33年に一度行われる大祭は有名であ、社殿の多くが国宝や国の重要文化財に指定されている苗村神社を訪れる。
野洲方面に向かう。

市内で出土した銅鐸を中心に展示。野洲の歴史と文化を紹介している。日本最大という、高さ134.7cmの銅鐸の輝く復元品は必見。隣接する弥生の森歴史公園には竪穴住居や高床倉庫があり、古代の村を復元する野洲市歴史民俗博物館を見学。

近江富士とも呼ばれる三上山をご神体とする神社で、頂上に奥宮がある。檜皮葺き入母屋造の鎌倉後期の本殿(国宝)や拝殿(重要文化財)のほか、楼門(重要文化財)や摂社である若宮神社(重要文化財)などが立ち並ぶ境内は厳粛な雰囲気の御上神社を訪れる。

足利尊氏や源頼朝など、武人から厚く崇拝された古社。平安期の池泉回遊式庭園(名勝)、白絹包腹巻(重要文化財)など数々の社宝を展示する収蔵庫がある兵主大社を訪れる。

17:30終了、帰路に向かう。

今回の史跡巡り、滋賀県は東海道など多くの街道が通り、昔からたくさんの物質が行き来した近江、多くの豪商を排出した湖東の中でも、近江商人の発祥の地として知られ、白壁、舟板張りの豪商が建ち並ぶ金堂地区、水路に錦鯉が泳ぐ風情の町並みは、国の重要伝統的建築物群保存地区に選定されている五個荘をおとずれ江戸時代以降の近江商人の歴史学習できました。

又野洲地区にある銅鐸博物館に展示している市内で出土した銅鐸24個、中には高さ134.7cmという国内最大の銅鐸が出土した地で実物の展示があり、見る価値がありました。

今回の地域を含めて、滋賀県はなかなか歴史的興味ある建造物、史跡が多いのに感心させられた歴史学習史跡巡りでした。。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十二弾:金沢&五箇山&白川郷観光
2009年9月5−6日


今回は加賀百万石の城下町、伝統文化と最新アートがクロスする金沢、世界遺産の村、合掌集落の白川郷と五箇山、日本三霊山に数えられる白山の裾野から海岸までを含む広大なエリア、白山に足を運びました。

5日13:12大阪駅雷鳥で出発
16:04金沢駅到達、レンタカーで兼六園に向かう。
16:30兼六園到達。

春の桜、初夏のカキツバタ、秋の紅葉、冬の雪吊りなど、四季折々の美しさで知られる名園。1676年(延宝4)、加賀藩5代藩主・前田綱紀の時代に最初の庭が造られて以来、代々の藩主によって今の形に整えられた。総面積は約11万平方m。完成まで実に180年の歳月を要している。名の由来は、中国で名園の条件とされた宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六勝すべてを兼備するところから、松平定信が命名。池や橋、樹木、茶室などが配された庭園を歩くと、加賀百万石の伝統と美意識に浸ることができる兼六園を散策する。

兼六園の中央に位置する、園内最大の池。池の周囲には兼六園のシンボル的存在の徽軫灯籠をはじめ、虹橋・唐崎松・栄螺山などの見どころが点在。高台にありながら満々と水をたたえた水面に影を落とす、四季折々の眺めがすばらしい霞ケ池を訪れる。

六園内の霞ケ池北岸に立つ灯籠。灯籠の足が、琴の糸を支える琴柱に似ていることからこの名がある。その前に架かる虹橋を琴に見立てた意匠は、兼六園のシンボルとなっている徽軫灯籠を拝見。

兼六園の中にあり、雁が列を作って飛んでいる姿に似ていることから名付けられた。亀甲型の赤戸室石が11枚連なった石橋で、渡ると長生きするといわれるが現在は通行できない雁行橋(亀甲橋)を拝見。

3代藩主・前田利常の命で、金沢城の防火用水として城内に水を引き入れるためつくられた、辰巳用水の一部を庭づくりに生かしたもの。岸に植えられた桜やツツジ、水辺のカキツバタが美しい曲水を拝見。

兼六園の中にある曲水に架かる木橋で、名前のとおり花見には最適の場所の花見橋を訪れる。

兼六園内に植えられた珍しい黒松。大小40数本もの根が、地面から2mも盛り上がっている。13代藩主・前田斉泰のお手植えといわれ、盛り土の上に松を植えた後、土を取り除いたとされている根上松を拝見。

兼六園内の霞ケ池西南岸に立つ、内橋亭の背後にある築山。13代藩主・前田斉泰が、霞ケ池を掘り広げたときの土を利用してつくったもの。山頂に向かってグルグルとらせん状の道が延び、それがまるでサザエの殻を思わせることから名付けられた栄螺山を訪れる。

兼六園内にある池。中ほどがくびれて、瓢箪の形をしているのでその名がある。霞ケ池から下った水が翠滝となって流れ落ち、中の島には秀吉から贈られたという説もある海石塔が立つ瓢池を訪れる。
兼六園内にある噴水。現存する日本最古の噴水と言われ、霞ケ池を水源に自然の水圧で高さ約3.5mまで噴き上がる噴水を拝見。

兼六園内にある茶室。1774年(安永3)に建てられた、園内で最も古い建物。瓢池の隣にあり、次の間の袖壁に夕顔の透彫りがある夕顔亭を拝見。

兼六園内にある歴代藩主の別荘。かつては噴水前にあり明治初期に取り壊されたが、2000年(平成12)に復元した時雨亭を訪れる。

兼六園の冬の風物詩・雪吊りは、雪の重みから庭木を守る作業。支柱を立てて頂上から円錐状に縄を張るりんご吊りと呼ばれる手法が代表的で、格別の美しさ。なかでも唐崎松が見事の雪吊りを拝見。

1583年(天正11)、前田利家が金沢に入った直後から本格的な城づくりを開始。約30万平方mの敷地に20もの櫓をもつ城だったが、たび重なる火災から石川門と三十間長屋のみが残った。一時は金沢大学のキャンパスとして使用。現在は金沢城公園として整備され、復元した五十間長屋や菱櫓などが立つ金沢城公園を散策する。

金沢城公園の入り口に立つ、入母屋造の城門(重要文化財)。隠し鉄砲狭間や石落としなどを備え、屋根には鉛の瓦が葺かれた。瓦が白っぽいのもそのため。1759年の宝暦の大火で焼失し、1788年(天明8)に再建された石川門を訪れる。

金沢城公園内。3層3階の菱櫓と、橋爪門続櫓を2層2階建ての五十間長屋でつないだもので、明治以降の木造城郭建築物では最大規模。菱櫓は大手と搦手を見張る物見櫓、橋爪門続櫓は二ノ丸大手の橋爪門枡形を見張る物見櫓、五十間長屋は武器などの倉庫だった。2001年(平成13)年に復元した菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓を訪れる。

金沢城公園の中にある国の重要文化財。現存の長屋は1858年(安政5)に再建。現在の長さは二十六間半で武器弾薬の倉庫としても使用された三十間長屋を訪れる。

金沢城址の北、大手門跡の前にある。1599年(慶長4)に徳川家康との戦いに備えて造られたもの。城の周りにあった百間堀、白鳥堀などが埋め立てられた中で、唯一水をたたえている堀。加賀藩時代の金沢城が偲ばれる外濠公園大手堀を訪れる。

金沢城公園の石川門から大手堀方向へと続く散歩道。徳田秋声、室生犀星、泉鏡花の三文豪像や白鳥像など、21体もの彫刻が行き交う人を出迎えてくれる外濠公園白鳥路を訪れる。

長町武家屋敷跡方面に向かう。

早道飛脚足軽の組屋敷地であった旧早道町(現幸町周辺)に残されていた高西家、清水家の2軒の足軽屋敷を移築し、内部を公開している。足軽とは身分の低い歩兵のことだが、加賀藩の足軽は、小さいながらも庭付きの一戸建てに住んでいた。また、間取りも接客空間を重視した武家屋敷の流れをくむ。職務、武術、世襲など足軽関係の文献資料も公開している金沢市足軽資料館を見学。

かつては藩主の荷を運んだ水路で、ゴリや鮎もとれたという大野庄用水。その東側の小路に一歩足を踏み入れれば、江戸時代に逆戻りしたかのような武家屋敷跡に入る。両側に土塀が連なる細い道は、突き当たっては曲がる迷路のよう。戦いの際に敵が一気に侵入するのを防ぐ構造になっている。土塀にのった光沢のある瓦は雪や雨の多い北陸地方独特のもので、釉薬をかけて焼いてある長町武家屋敷跡を散策する。

加賀初代藩主前田利家が金沢城に入場した際、直臣として従った加賀藩士・野村伝兵衛信貞の屋敷跡。総檜造りの天井やギヤマン入りの障子戸に歴史を感じる。樹齢400年以上のヤマモモの木やシイの木、曲水、落水の名石を配した格式ある庭園は見応えがある武家屋敷跡野村家に寄る。

兼六園や金沢城公園近くの観光ゾーンにある現代美術館。展覧会ゾーンはここでしか出会うことができない作品も多く、気軽にアートと触れ合うことができる金沢21世紀美術館を見学。

ひがし茶屋町付近のライトスポットをあびた梅の橋を拝見してから

17:00金沢駅付近のホテル到達後繁華街を散策して食事を済まして床に就く。

6日6:00レンタカーで出発、天候快晴、絶好の観光日和

3つの茶屋町を早朝散策する。

文政3年(1820)に加賀藩が、この近辺に点在していたお茶屋を集めて整備した茶屋街です。石畳の道の両側に紅殻格子のお茶屋が軒を連ね、藩政時代の情緒が色濃く残っているひがし茶屋町を散策する。

1869年(明治2)に開かれた茶屋街。ひがし・にしともに、大店の旦那衆の社交の場として栄えた。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定。浅野川大橋から中の橋までの浅野川南岸に、美しい格子戸の料亭が立ち並んでいる主計町茶屋街を散策する。

前身の西の郭は1820年(文政3)、12代藩主・斉広が公許を与えて妓楼地区を定めたのが始まりで、東の郭(現ひがし茶屋街)とともに誕生した。かつての賑わいにはおよぶべくもないが、今も木造のお茶屋と、大正11年に建てられた検番が当時を偲ばせる。夕方になると軒下に灯がともり、独特の風情を醸し出しているにし茶屋街を散策する。

1585年(天正13)、前田利家が前田家の祈願所として金沢城付近に建立。その後、3代藩主・利常が幕府からの攻撃に備え、1643年(寛永20)現在地に移築した。本堂に続く庫裏は外観が2階建て、内部が4階7層。23の部屋と29の階段がある。物見台ともとれる本堂屋上の望楼、金沢城への地下道と伝えられる大井戸、隠し部屋や隠し階段、ドンデン返し、抜け穴などもあり、別名・忍者寺ともよばれるほど複雑な構造。巧妙に外敵の目をあざむけるようになっている妙立寺を訪れる。

高速で五箇山方面に向かう。

蓮如上人の高弟、赤尾道宗が室町時代末期に開いた浄土真宗の寺院。併設の赤尾道宗遺徳館では、道宗ゆかりの品や棟方志功等の作品を展示する行徳寺を訪れる。

約300年前に加賀藩の塩硝上煮役を務めた家で、五箇山合掌造り最大の家屋。建物は間口26.4m、奥行12.7m、高さ14mの威容を誇る。内部は総ケヤキ造りの5階建てで、3〜5階は養蚕作業場。明治時代までは35人もの大家族が暮らした。1階には、加賀藩の巡視役人が宿泊した書院の間などもある岩瀬家を見学。

庄川の谷あいにせり出した平坦地にあり、三方を庄川に囲まれ、もう一方は雪持林の茂る急斜面となっています。集落には現在12棟の家屋があり、そのうち9棟が合掌造り家屋です。これらの合掌造り家屋は江戸時代末期(19世紀前期〜中期)に造られたものが2棟、明治時代に建てられたものが6棟、最も新しいものは大正14年(1925)に建てられていて、このころまで合掌造りの家が建築されていたことがわかる南砺市世界遺産菅沼合掌造り集落を散策。

世界遺産に登録された菅沼集落に残る合掌造り家屋を資料館として公開。食器や衣類、ワラジなどの生活用品のほか、養蚕、紙漉きの道具を約200点展示している五箇山民俗館に寄る。

かつて菅沼集落は火薬の原料となる塩硝の生産地だった。その原料の採取から出荷までの製造工程をジオラマや影絵コーナーでわかりやすく解説する塩硝の館に寄る。

1578年(天正6)の建築とみられる、4階建ての合掌造民家(重要文化財)。一向宗門徒と織田勢が戦った石山合戦のころに建てられたと伝えられる。囲炉裏を囲んで、当主が五箇山の歴史やこきりこ唄などについて詳しく話してくれる村上家に寄る。

御縮小屋といい、江戸時代に加賀藩の流刑地として8ケ所あった流刑小屋の一つ。1963年(昭和38)の豪雪で倒壊したため、現在あるのは、1965年(昭和40)に復元されたもので、間口2.8m、奥行3.6mの小さな茅葺き造り。入口の柱には、20cm角の食事差し入れ口が開けられ、ここから食料を罪人に与えていた流刑小屋を訪れる。

庄川からやや離れた段丘上に位置し、北東にゆるく傾斜する細長い台地に広がっています。この集落にある32戸の住宅のうち20戸が合掌造り家屋となっています。合掌造りとは、日本有数の豪雪地帯で知られる白川郷・五箇山地方で、特徴的に見られる急傾斜の切妻造り・茅葺きの民家のことです。1階は大工の手で造られ、屋根を構成する合掌部分は村人が自分達で造ったものです。広い屋根裏では養蚕が行われていました。現存する合掌造り家屋の多くは、江戸時代末期から明治時代に建てられたものですが、最も古いものは17世紀にさかのぼると考えられる世界遺産相倉合掌造り集落を散策する。

菅沼集落とともに世界遺産に登録された相倉集落の人々の暮らしぶりを紹介する2棟の合掌造民俗資料館、相倉民俗館に寄る。

旧尾崎家住宅を、そのままの形で利用。内部は、土間、居間、寝室などが田の字型に仕切られた典型的な合掌造家屋の様式になっている。展示は、自給自足の生活を続けてきた村人たちの民具や農具が中心。かつての主要産業であった塩硝[えんしょう]や養蚕の道具類などもある。屋根裏部屋では、釘を一切使用せず、縄やネソと呼ばれる木で組み立てた合掌造の構造が見られる相倉民俗館の1号館に寄る。

1号館から小道を少し下った旧中谷家住宅を利用。屋内では、相倉地区で盛んに製造されていた和紙の生産工程や道具、和紙工芸品の数々が見学できる。和紙の染紙や和紙の造花など、多岐にわたる工芸品に目をみはる相倉民俗館の2号館に寄る。

利賀方面に向かう。

仏の悟りの世界を表現した、曼荼羅と仏画を紹介する施設。瞑想の館は、4m四方の2枚の曼荼羅画と2枚の仏画を展示。この館には、世界に数点しかない胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅がある。いずれもネパールの曼荼羅絵師サシ・ドージ・トラチャン氏によるもので、極彩色で精緻な描写が特徴の瞑想の郷を訪れる。

毎年夏に開催された世界演劇祭で知られる利賀。南砺市利賀行政センター前の高台に集まっている4つの文化施設の総称の飛翔の郷を訪れる。

飛翔の郷の資料館。道を切り口に利賀の歴史、文化、民俗、産業に関する資料を紹介している。ユニークな建物はスペインの建築家セザール・ポルテラの設計の道の資料館を見学。

飛翔の郷の美術館。書道家・関根薫園氏の作品や、中国の古書、硯に墨といった書道具コレクションを展示する関根薫園書道美術館を見学。

飛翔の郷の民俗館。200年前に建てられた合掌民家を利用。養蚕、紙漉き、林業などの道具類、山里の生活用具を3000点余り紹介している利賀民俗館を見学。

飛翔の郷の展示館。富永氏が利賀を訪れたのをきっかけに創設された。利賀をテーマに色鉛筆で描かれた作品約50点を展示している富永一朗とが漫画館を見学。

白川郷方面に向かう。

五箇山と共に、世界遺産に登録されている白川郷 合掌造り集落。圧川を挟み、集落の対岸にある合掌造り民家園は、大小25棟の合掌造りからなる野外博物館。 一部の建物は、床や柱が建てられた当初のまま保存されている。白川郷最古の合掌造り旧山下家は、なんと江戸時代中期に建てられたものがある白川郷野外博物館合掌造り民家園を散策する。

荻町を見下ろす高台にある。約400年前、室町8代将軍足利義政の命令で信州松代から白川郷へ進出した、内ケ島為氏の家臣山下氏勝の居城だった場所。今はその面影もないが、新緑、紅葉、雪景色の合掌集落を一望できる絶好のポイントとなっている荻町城跡展望台を訪れる。

野外博物館合掌造り民家園内の建物の中で、もっとも規模の大きい合掌造り。明治後期の建築で、社の上をはしるウシノキは豪壮で目をみはる。建物内では白川村にあった離村集落の貴重な写真パネル50点を展示している中野義盛家住宅に寄る。

荻町最大の合掌造り住宅。江戸中期の建築とみられ、国の重要文化財にも指定されている。1573年(天正元)以来、和田家は、代々弥右衛門の名を継ぎながら名主を務めた。火薬の原料となる塩硝[えんしょう]の取引も許され、式台付きの玄関などに格式の高さがうかがえる。囲炉裏の間や仏間があり、昔、実際に使われていた生活用具や民具、農具のほか、婚礼時や祝い事に使用された赤漆の食器などが展示されている和田家住宅を訪れる。

白山方面に向かう。

未開発森林資源の開発を目的に特定森林地域開発林道として、昭和52年開通した日本を代表する山岳道路。石川県側の中宮料金ゲートから、終点の岐阜県馬狩料金ゲートまで全長33.3km。途中の観光ポイントに寄りながらドライブを楽しみヘアピンカーブや急勾配の上りがある白山スーパー林道をドライブする。

白山スーパー林道沿い、標高1400m地点にある駐車場。豊かな原生林が一帯に広がり、樹海越しに白山連峰の最高峰・御前ケ峰の美しい姿を望むことができる。向かいには、展望台のある瓢箪谷上園地への登り口があり、白山連峰の雄姿が目の前に広がるとがの木台駐車場を訪れ展望する。

白山スーパー林道沿いにある、蛇谷渓谷随一の大滝。落差86mのその流れは豪快で、水量の多い時は水しぶきが観瀑台まで飛んで来るふくべの大滝を訪れる。

白峰方面に向かう。

骨格レプリカ,貝化石,植物化石。日本初,体長28mのディプロドクスの骨格レプリカの展示や恐竜の世界を9面マルチシアターで体験できます。また,化石発掘体験もでき,見つけた化石は1個持って帰ることができます白山恐竜パーク白峰を見学。

80年(昭和55)に完成した、土と岩石を積み上げてできたロックフィル式ダム。高さは東京霞ケ関ビルと同じ153mで日本3位、左右は420m。ダム湖は山々に囲まれ、エメラルドグリーンの湖水をたたえている手取川ダムを訪れる。

手取峡谷方面に向かう。

手取川は狭い河岸段丘下に深い谷を刻み、美しい峡谷となる。黄門橋から対山橋間は、徒歩約1時間30分。峡谷を望めない部分もあるが、途中には御仏供杉や飛龍岩、不老峡、五色滝、綿ケ滝などの景勝が眺められる。特に、黄門橋や不老橋から見る景観は見事の手取り峡谷を訪れる。

賀一向一揆をわかりやすく知ることができる資料館。鳥越城跡・二曲城跡から発掘された貴重な出土品の展示や、映像シアターや立体映像が見られるマジックビジョンも備えている白山市立鳥越一向一揆歴史館を見学。

鶴来方面に向かう。

全国に約3000社を数える白山神社の総本宮。崇神天皇7年(紀元前91)の創建と伝えられる。祭神は白山比め大神、伊弉諾神、伊弉冉神。前田利家をはじめ歴代藩主の信仰が篤く、現存する本殿は10代藩主・重教の寄進によるもの。県の有形文化財に指定されている。境内の宝物館では、鎌倉後期の作で国重要文化財の木造狛犬など多くの宝物を展示する白山比め神社を訪れる。

金沢に向かう。

17:30金沢駅到達。
18:42金沢駅サンダーバードで出発

21:27大阪駅到達。

今回の旅行、加賀百万石の歴史文化に彩られた北陸エリアの中心都市、藩政時代の面影を残し、町並みや和の伝統文化をを満喫できる街、金沢。

世界遺産の村、家屋や田畑、すべてが昔話の舞台のような独特の民俗や食にふれる岐阜県の白川郷、富山県の五箇山の2つの合掌造り集落。

日本三霊山に数えられる白山の裾野から海岸までを含む広大なエリア、白山。

石川県、富山県、岐阜県の3つの県に渡るドライブ観光堪能しました。

今回のコースなかなかお勧めですね。
かなり内容が豊富で新鮮で充実した観光旅行でした。























京都府丹波亀岡史跡巡り
2009年9月2日


今回は近場の京都府の明智光秀が築いた丹波・亀山城の城下町、亀岡、足利尊氏ゆかりの綾部、鬼退治伝説で有名な千丈ヶ嶽(833m)を最高峰として鳩ヶ峰(746m)、鍋塚(763m)とハイキングコースがあり、大江山連峰の大自然を満喫できる大江山に足を運びました。

12:30車で阪神高速経由して京都西部亀岡方面に向かう。

13:30南丹市の南西部にある約4kmの渓谷。通天湖から流れ落ちる水が清流となり、奇岩や樹木の間を縫う。両岸は、色鮮やかな紅葉の名所。一体は京都府立自然公園指定で遊歩道が整備されているため、ハイキングコースとしても知られている。国名勝るり渓を散策する。

西国三十三カ所霊場第21番札所で、縁起によれば705年(慶雲2)の建立という古刹。本尊聖観音像は33年に一度開扉される秘仏のある穴太寺を訪れる。

明智光秀が丹波平定時に築城し、亀岡は城下町として次第に発展。その後、江戸初期に5層の天守に改築。その美しさから亀宝城とも呼ばれていたが、現在は苔むした石垣と内堀が往時を物語るのみで城跡を含む一帯は現在大本教の敷地内となっている亀山城趾を散策する。

創建は709年(和銅2)という延喜式内名神大社で、丹波国一の宮。足利尊氏が修造したと伝わる本殿(重要文化財)は、三間社流造で檜皮葺きの建物。境内から湧出する御神水は、飲めば幸福を招き長寿になるとされ、真名井水と呼ばれている出雲大神宮を訪れる。

綾部方面に向かう。

足利尊氏の生誕地と言われる古寺。993年(正暦4)頃、恵心僧都作の子安地蔵菩薩を安置して光福寺としたのがはじまりと言われる。尊氏の母は、この地を所領していた上杉氏の娘にあたり、里帰りして尊氏を産んだ。境内には産屋の跡やその傍らに産湯の井戸が残るほか、尊氏と母、妻の墓もある安国寺を訪れる。

大江山方面に向かう。

標高833mの千丈ケ嶽を主峰とする連峰。鬼退治伝説の地として知られ、麓の大江町には鬼をテーマとしたさまざまな施設がある。その一つが、日本の鬼の交流博物館。日本全国はもとより、世界の鬼に関する資料を収蔵・展示している。一帯はレジャーゾーンとして整備され、各種アウトドア体験が楽しめる。大江山八合目、鬼嶽稲荷神社から見る雲海は絶景である大江山を訪れる。

18:00終了、帰路に向かう。

今回の史跡巡り、近場の京都府の
戦国武将・明智光秀公が、丹波平定の拠点として亀山城を築き、城下町の整備をはじめた亀岡。
室町幕府を開いた足利尊氏が、上杉荘(安国寺町)で誕生したと伝えられ、尊氏公の生母清子の実家上杉氏の発祥の地である綾部。
酒呑童子の鬼退治伝説で有名、春は新緑、夏は清流遊び、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々の楽しみ方があり、特に鬼嶽稲荷神社から見る雲海は絶景です。 山から流れ出る二瀬川渓流では、奇岩と清流がおりなす風景を散策できるよう遊歩道が完備されている大江山。
3つのエリアの史跡巡り、意外と知らない歴史学習できました。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十一弾:山梨県甲府&南アルプス観光
2009年8月29−30日


今回は富士山や八ヶ岳、南アルプスなど美しい山々に囲まれた山梨県に足を運び、山梨の中心都市、戦国武将・武田信玄のお膝元や水晶の産地として名高い昇仙峡が位置する甲府タウン、歴史ある門前町・身延、信玄の隠し湯として名高い下部、豊かな緑と清冽な渓谷が織り成す南アルプスを訪れました。

29日13:07新大阪新幹線のぞみで出発、名古屋駅でこだまに乗り換え
16:01新富士駅到達、レンタカーで甲府方面に向かう。

18:30甲府駅北口近くのホテルに到着後、甲府タウン市街地を散策し食事を済ませてから床に就く。

30日5:30レンタカーで出発、天候晴れ、甲府タウンの史跡を早朝巡る。

甲府城の北側入口だった場所にあたり、かつて甲府城にあった山手御門を復元した。北門だった山手門、見張り台などに使われていた山手渡櫓門を、絵図をもとに柳沢吉保が城主だったころの姿を再現した甲府市歴史公園を散策する。

豊臣秀吉が天下統一した後、秀吉の命で羽柴秀勝と部下の加藤光泰らによって築城され、浅野長政・幸長父子によって1600年頃までに完成させた。享保年間に大火により本丸御殿などが焼失した。明治時代に入って廃城になり主な建物は取り壊された。1904年(明治37)に本丸周辺を公開された舞鶴城公園を散策する。

1969年(昭和44)に、武田信玄公銅像建立奉賛会からの寄附により甲府駅前に設置された武田信玄の像、信玄公像を訪れる。

信玄の手厚い保護を受けた名刹、甲府五山(長禅寺、能成寺、東光寺、法泉寺、円光院)を訪れる。
長禅寺は信玄の母、大井夫人の墓があり、円光院には信玄の妻、三条夫人の墓がある。

武田信玄が1558年(永禄元)に川中島の合戦で長野の善光寺の焼失を怖れ、本尊以下諸仏寺宝類を移したのが始まり。境内には多くの木造建築物が立っているが、特に江戸時代に再建された撞木造の高さ27mもある金堂(重要文化財)と、朱塗りの山門(重要文化財)は必見の甲斐善光寺を訪れる。

戦国時代、武田信虎・信玄・勝頼の三代が住んだつつじが崎館(武田館)の本丸跡に、1919年(大正8)に建立された神社。祭神は信玄で、境内には重厚な造りの社殿、武田家ゆかりの武具や資料を収めた宝物殿などが立つ。館跡(史跡)は土塁の外側に堀が巡らされ、中世の領主の館としては規模が大きい武田神社を訪れる。

天正元年(1573)4月12日、信玄公は信州伊那の駒場の陣中にて、53歳で逝去されました。信玄公の死は3年間秘密にされましたが、その間ひそかに荼毘に附され、埋葬されたのが土屋右衛門の邸でした。この場所は後の安永8年、代官中井清太夫によって発掘され、今に残る法性院大僧正機山信玄之墓の墓石が建立されました信玄公墓を訪れる。

湯村温泉の北郊外にある、808年(大同3)に弘法大師が開山したと伝わる古刹。厄除け地蔵として有名で、本尊の収められている地蔵堂(重要文化財)は、室町時代末期の建築様式を伝えるものとして貴重。門前一帯の湯村温泉の湯は弘法大師が当時の寺域内で発見したといわれる。平成20年には開創1200年を迎える塩澤寺を訪れる。

北の昇仙峡方面に向かう。

荒川が、約4kmにわたって作り出した渓谷。入口に当たる天神森から上流の仙娥滝までが最も美しい。渓谷の中ほどに位置する能泉までトテ馬車に乗り、そこから遊歩道の散策が楽しめる。奇岩が多く、天狗岩・鎧岩などそれぞれに名が付けられ、なかでも約180mもの高さを誇る巨岩の覚円峰は見もの昇仙峡を散策する。

昇仙峡の仙娥滝上近くから、昇仙峡ロープウェイに乗って約5分の標高1058mの展望台。360度の眺めが楽しめるビューポイントで、特に南アルプス連峰や富士山の眺望は見事。昇仙峡沿いにそびえる羅漢寺山の峰続きにあり、天神森までのハイキングコースもあるパノラマ台(昇仙峡)をロープウェイで訪れる。

昇仙峡にある美術館。影絵の第一人者・藤城清治の代表作約54点を中心に展示。山下清の貼り絵原画19点、女優東ちづる作「マリアンナとパルージャ」の展示もあり、コレクションは幅広い昇仙峡影絵の森を見学。

甲府タウンに戻る。

平成11年10月、印傳屋本店2階に開設され、鹿革に漆で模様を付ける甲州印伝は、古くから山梨に伝わる伝統工芸品です。この甲州印伝の技法を守り伝える唯一の老舗印傳屋は、時代時代の職人たちによって製作され、人々に愛されてきた過去の印伝作品の保存・収集に努めてきました。この貴重な収蔵品を広く公開し、日本の革工芸文化を後世に伝えるとともに、伝統技術の研究・普及に資することを目的としている印傳博物館を見学。

巨大なアメジスト(紫水晶)などの宝石の原石や、カットグラスの工芸品をメインに展示する、石とガラスの博物館、クリスタル・ミュージアムを見学。

世界的な名画など約1万点の美術品を所蔵。特に、『種をまく人』をはじめとする絵画・版画など約70点のミレーのコレクションは有名。ほかにも、コロー、ターナー、シャガール、横山大観などの作品が揃い、見ごたえがある。周辺は花や木々が美しい芸術の森公園として整備され、散策にいい山梨県立美術館を見学。

美術館と同じく芸術の森公園の一角にあり、山梨県にゆかりの深い近代文学者のコレクションを展示。俳人の飯田蛇笏、作家の芥川龍之介、太宰治、樋口一葉、山本周五郎らの自筆の原稿や手紙など興味深い資料が揃っている山梨県立文学館を見学。

約三百年前の建物で、山梨県立保存民家であり国の重要文化財に指定されています。武田家の家臣を祖先に持ち、江戸時代は西南湖村の名主を務めた旧家。民家は一般公開されています安藤家住宅を訪れる。

南アルプス方面に向かう。

南アルプス市小笠原出身の名取春仙の画業を広く紹介することを目的に開館し、収蔵作品には、名取春仙の役者絵版画を中心に、日本画や、挿絵・装幀など春仙芸術の真髄に迫る作品を収蔵しています。また、さらに春仙と同時代に新版画を制作し活躍した山村耕花・吉田博・川瀬巴水らの作品と、自画・自刻・自摺により制作された笠松紫浪の作品、そして櫛形町出身で現在スペインで活躍している山本正文の銅版画の作品などを所蔵しています南アルプス市立春仙美術館を見学。

下部・身延方面に向かう。

下部川左岸の下部リバーサイドパーク内にある施設。戦国時代に毛無山にあった金山の様子を、実物大の人形や映像、模型展示物などで再現。砂金採り体験も楽しめる湯之奥金山博物館を見学。

日蓮宗の総本山。1274年(文永11)に日蓮聖人が山中に庵を構えたのが始まりで、後の1474年(文明6)に日朝上人が大伽藍を建立。門前通りから巨大な三門を抜けて境内に入り、287段の石段・菩
提梯を上りつめた山の中腹に豪壮な堂宇が立ち並ぶ。ほとんどが明治の大火後の再建だが、格式を感じさせる建物ばかり。大本堂横からロープウェイで上がった身延山頂は日蓮が父母を偲び、ふるさと南房総の方向を眺めるため登頂した場所。手植えのスギと伝わる巨木が林を作り、富士山・駿河湾の眺めも楽しめる。祖師堂前の樹齢約400年のシダレ桜も見事な身延山久遠寺を訪れる。

17:30新富士駅到達
18:13新富士駅新幹線こだまで出発、名古屋でのぞみに乗り換え
20:46新大阪駅到達

今回の旅行、富士山、八ヶ岳、南アルプスなど美しい山々に囲まれた山梨県に足を運び、武田信玄の時代から山梨の中心都市として賑わい、信玄ゆかりの武田神社など歴史が息ずく街であり、名勝・昇仙峡の渓谷美もすばらしく、国内の宝石加工シェア3割を誇るジュエリー王国である甲府。

甲府の南方に位置し信玄の隠し湯として名高い下部温泉、日蓮宗の総本山身延山久遠寺が位置する門前町として栄え、今なお歴史を感じさせられる建物や古樹が佇む身延町。

自然と歴史的興味ある山梨の観光名所、満喫しました。

山梨は富士山を筆頭に八ヶ岳、南アルプス等の美しい山々の自然観光名所だけでなく武田信玄のお膝元甲府を中心とした歴史建造物、史跡の多いのに驚きました。

山梨県に訪れ、山梨の見方が変化した山梨自然歴史観光旅行でした。











大阪府北摂史跡・博物館巡り
2009年8月26日


今回は近場の大阪府北部の北摂エリアに足を運び史跡・博物館巡りしてきました。

12:30車で阪神高速経由して豊中北インター下車

735年(天平7)草創。日本最初の民衆火葬の聖地で、新西国第十二番観音霊場。行基自作と伝える薬師如来を本尊とする。全山を覆う萩は死者の霊を慰めるため、行基自ら植栽したものという。唯一大阪(川崎)東照宮の遺構を残す寺院でもあり、移築した本地堂には徳川家康の念持仏薬師如来座像を安置。鎮守として小田原征伐の際豊臣秀吉が勧請した道了大権現をまつる萩の寺東光院を訪れる。

豊中市と吹田市にまたがって広がる、126haの広大な公園。植物園・民家集落博物館・野外音楽堂などの施設があり、陸上競技場・テニスコート・乗馬センターなどスポーツ施設も充実する服部緑地を散策する。

江戸時代の民家12棟を移築・復元。飛騨白川郷の合掌造や南部の曲家などがあり、その内部では各地の生活民具を展示している日本民家集落博物館を見学。

日本初のノーベル文学賞を受賞した川端康成の自筆原稿や初版本などを展示。茨木は氏の父祖の地で、3歳から旧制茨木中学校を卒業するまで暮らしており、この時期に文学への志をかためている茨木市立川端康成文学館を見学。

890年(寛平2)に建立されたが、信長の茨木合戦で焼失。1603年(慶長8)に豊臣秀頼が再建した。毎年4月には寺に伝わる山蔭流包丁式があり、全国から料理人が集まる。西国三十三カ所第22番札所の総持寺を訪れる。

南北に延びる、低い台地上に築造された前方後円墳。墳丘全長226m、前方部幅147m、後円部径138mで、幅約28〜33mの濠がめぐっている。第26代継体天皇の御陵とされている太田茶臼山古墳を訪れる。

芥川の上流に続く渓谷。断崖・奇岩・滝が連なり、景観がすばらしい。渓谷沿いの道はハイキングコースになっていて、渓流釣り(入漁券が必要)やキャンプも楽しめる。摂津峡公園は桜の名所。春には花見客で賑わう摂津峡を散策する。

徳川家康の禁教令により追放された、高槻領主のキリシタン大名、高山右近を記念して建てられた教会。追放先のマニラの大聖堂を模して造られている。聖堂の前には祈りを捧げる右近の像がある高山右近記念聖堂を訪れる。

17:30終了。

今回の史跡・博物館巡り、近場の大阪府北摂の馴染み深い歴史的建造物に接し歴史学習し、又公園・渓谷を散策しリフレッシュ、体力作り、健康維持出来ました。




天竜川カヌー
2009年8月23日


今回は長野県南信州伊那谷を流れる快適急流、暴れ天竜とも呼ばれる天竜川でカヌーで川くだりしてきました。

7:00大阪駅集合出発、車で阪神名神中央自動車道経由して飯田インター下車
11:00天竜川新明神橋到達、準備して食事を済ませてから
13:00出発
17:00唐笠駅付近の長瀞橋でゴール、あとかたずけして
18:30近くの温泉に浸かる。
19:30帰路、途中中央高速サービスエリアで食事を取る。
24:00大阪駅到達、解散。

今回のカヌーイベント、遠方の長野県南信州の天竜川に足を運び新明神橋から長瀞橋までの21kmを4時間で下りを終えました。

天候は晴れ、絶好の川下り日和、急流で有名な天竜川、コースも通常より長く設定、途中大波の長い瀬がいくつもあり、又有名な天竜峡の景観をのんびりと楽しみながら下ることが出来ました。

2つの顔を持った天竜川、急流で瀬の多い区間と景観を楽しみながらゆっくり下る区間、堪能しました。

今まで下った川ではトップレベルの楽しめる川と言えるでしょう。
又下ってみたい川です。


兵庫県東部史跡巡り
2009年8月22日


今回は近場の兵庫県東部の西宮、芦屋、宝塚の由緒ある馴染みのある社寺、美術館、公園に足を運びました。

12:30車で阪神高速経由して武庫川インター下車、西宮方面に向かう。

13:00商売繁盛の神様として信仰されているえびす様を祭る、全国の総本社。室町時代に造られた250mの大練塀、1604年(慶長9)に豊臣秀頼の寄進で建立された表大門はともに国の重要文化財に指定されている西宮神社を訪れる。

実業家、大谷竹次郎氏から美術品と邸宅の寄贈を受けて開館。横山大観や梅原龍三郎、クールベの作品など約1000点を所蔵する。恒例のイタリア・ボローニャ国際絵本原画展など、企画展示も見応え。緑豊かな日本庭園では散策が楽しめる西宮市大谷記念美術館を見学。

芦屋方面に向かう。

歴史・美術部門からなる総合ミュージアム。1階では主に芦屋周辺の自然、原始・古代から近代に至るまでの芦屋の歴史を紹介している。2階ではコレクションの企画展示、芦屋ゆかりの美術家を中心に近代・現代の作品の展覧会などを開催。庭園内には芦屋に縁深い小出楢重のアトリエを復元し、愛用の画材などを展示している芦屋市立美術博物館を見学。

芦屋市立美術博物館の東隣。芦屋は文豪・谷崎潤一郎が1934年(昭和9)から3年余りを過ごした土地で、細雪の舞台でもある。館内には谷崎の自筆原稿や書簡、愛用したすずりなどを収蔵、展示している。また、京都の住まいにあった日本庭園を模した中庭や、純和風の建物なども趣深い芦屋市谷崎潤一郎記念館を見学。

昔の携帯用筆記具である矢立を中心に、江戸期の浮世絵、美術工芸品などを展示する美術館。矢立の収蔵数は約1500点で、そのうち約150点を常設展示している。材質や意匠にも凝り、単なる道具だけでなく美術品としての価値も高い。ほかに根付、煙草入れ、刀装具や、女性の髪油を入れるための髪油壺など約400点を収蔵している俵美術館を見学。

帝国ホテルの旧本館の設計でも有名なフランク・ロイド・ライトが、灘の酒造家・山邑太左衛門の別荘として設計した。鉄筋コンクリートの4層造りで、外壁や内装に使われている大谷石が、どっしりとした重厚な印象を受ける。自然光を取り入れた2階の応接間、欄間を銅板で装飾したハイカラな3階の和室や、暖炉を中心に左右対称のデザインになっている最上階などみどころが多い。国の重要文化財のヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)を訪れる。

西宮の北部方面に向かう。

故堀江光男氏が個人で収集した、世界のオルゴール300点以上を展示。ロシア最後の皇帝ニコライ2世が所有したという、貴重なオルゴールもある堀江オルゴール博物館を訪れる。

門戸の厄神さんの通称で知られる。弘法大師が開基とされ、名は祭られている薬師如来の住む浄土東方浄瑠璃世界から光を発せられる寺という意味で、境内の厄神堂に祭られた厄神明王は日本三躰厄神の一つで、唯一現存する貴重なものの門戸厄神東光寺を訪れる。

春の桜花賞をはじめ、宝塚記念やジャパンカップダートなどのレースを開催。場内には遊具のある広場や西洋庭園も備わり、レースのない平日は無料で開放されている阪神競馬場を訪れる。

宝塚方面に向かう。

宝塚ファミリーランド跡地に立つ施設。英国風ナチュラル庭園や約50頭の犬とふれあえるペットパークを中心に、ペットショップやレストランなども備えている宝塚ガーデンフィールズを散策する。

鉄腕アトム、ジャングル大帝など、数々の名作を残した漫画家・手塚治虫の記念館。宝塚で育った手塚氏の肉筆原稿や初版本を含む単行本558冊が展示されている。アニメ工房では、自分の描いた絵で、初歩のアニメ制作を体験することができる宝塚市立手塚治虫記念館を見学。

華麗なステージで魅了し続ける宝塚歌劇団のホームシアター。花・月・雪・星・宙[そら]の5組が交替で公演を行い、各組の男役トップスターを中心に華やかな芝居やショーが繰り広げられている。上演される作品は、オリジナル作品を中心に海外ミュージカルやレビューなどバラエティ豊かな宝塚大劇場を訪れる。

地元の人たちに荒神さんの名で親しまれている寺。正式は清荒神清澄寺。896年(寛平8)、宇多天皇の勅願寺の一つとして創建されたもので、火の神、台所の神様としても知られている清荒神清澄寺(清荒神)を訪れる。

聖徳太子が創建したと伝えられる古寺で、西国三十三カ所第24番札所。本堂や山門などの堂宇は、豊臣秀頼が造営したものといわれる。約800体の羅漢像が並ぶ羅漢堂は壮観。本尊の十一面観音(重要文化財)は安産の観音様として知られる中山寺を訪れる。

南の方面に戻る。

甲山山麓に広がる83ヘクタールの広大な県立森林公園。ハイキングや森林浴に最適。野外彫刻の展示もある甲山森林公園を散策する。

阪神香櫨園駅から阪急苦楽園口駅まで、夙川沿いに約2.8km続くオアシスロード。藤棚やベンチが配置され、憩いの場となっている。春は両岸に並ぶ約1700本のソメイヨシノが咲き誇り、4月上旬には西宮さくら祭を開催する夙川公園を散策する。

18:30終了。

今回は近場の由緒ある馴染みの深い社寺、美術館、公園を訪れました。

海外を制覇するのはなかなかですが国内は今のペースでしたら数年内に制覇出来そうです。

アウトドアスポーツの趣味から今は旅行しながら地理、歴史を学習していますが最終的には最も奥の深い芸術にはまるかも知れませんね。
今はぜんぜん知識がありませんが、芸術の美術館、博物館が主の名所巡りでした。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十弾:北欧観光
2009年8月13−20日


今回はヨーロッパの北部地域を総称する北欧に足を運び、スカンジナビア半島の西側に位置し、西海岸には大自然の絶景フィヨルドが点在するノルウェー、ユトランド半島と大小500以上の島々からなり国土の多くは緑豊かな酪農地帯のデンマーク、平地が広がる南部と険しい山々がある北部とで異なる表情を持つスウェーデン、国土の8割が美しい森や湖に覆われた自然豊かなフィンランドを訪れました。

13日11:00関西国際空港、フィンランド航空で出発
15:10(時差ー6時間)ヘルシンキ空港到着
17:55ヘルシンキ空港出発
18:25(時差ー7時間)ノルウェーオスロ空港到達、バスでホテル到達、宿泊

14日8:30バスで出発、天候晴れ、絶好の観光日和
4大フィヨルドの中で2番目に長く、全長179km、切り立った断崖はあまり見られず、女性的で牧歌的な景色が広がっているハダンゲルフィヨルドに向かう。

ゴール、ゲイル、ブリムネス、ルバンダール、オイストーゼ経由して
18:00ハダンゲルフィヨルド到達、宿泊、途中アイフィヨルドの東、ハダンゲルビッダ高原の西の端にある落差182mの渓谷に落ちる様子は圧巻のボーリングフォッセンの滝を観賞。

15日7:30バスでハダンゲルフィヨルド出発、天候小雨、ハダンゲルフィヨルドを眺めてボスに向かう。

8:30ボス到達、ボス駅付近を散策する。

ボス駅を出ると正面に美しいバングス湖を眺望する。

1277年に建てられたゴシック教会、木造の教会が主流であった当事としては珍しい石造りで、壁の厚さは1−2mもあり、第二次世界大戦時、ドイツ軍によって町は破壊し尽くされたが、唯一破壊が免れたボス教会を訪れる。

9:00ベルゲン鉄道でミュールダールに向かう。
10:46ミュールダール到達
10:55ミュールダールをフロム鉄道で出発。

フロム山岳鉄道は世界的にも傑作と言われる鉄道で登山列車フロム鉄道で急勾配の全長約20kmを約1時間かけてフロムに向かう。
途中音楽に合わせて美女が登場するショースの滝を見学、数分間停車して高さ305m、水はエメラルドグリーン。
バスや船からは見ることのできないフィヨルド内部の景観美を楽しむ。

14:25フロム到達、フロムの町を散策後
15:10、約2時間のソグネフィヨルドクルーズで全長205kmにも及ぶ世界最長・最深のフィヨルド、水面から切り立った山々や山岳から流れ落ちる数々の滝など雄大な自然の景観を船上より楽しむ。

17:10グドバンゲン到達後バスでラールダールに向かう。
18:30ソグネフィヨルドの最奥にある小さな村、町なかのオールドタウンには、昔ながらのカラフルな木造家屋が残っているラールダール到達、付近のホテルで宿泊。

16日7:30バスでオスロに向かう。天候晴れのち曇り
北欧の雄大な大自然を眺めながらボールグンド、ゴール経由して
12:30オスロ到達 。

昼食後200点以上の彫刻や、公園の象徴でもあるモノリッテンなど、数々のアートをゆっくりと堪能することができる彫刻に囲まれた美しい公園、フログネル公園を散策する。

ノルウェーを代表とする画家、ムンクの代表作叫びのほか、ゴーギャン、ピカソ、モネ、セザンヌなど、著名な画家の絵が数多く収蔵されている国立美術館を見学する。

ノーベル平和賞の授賞式が行われ、ロビーに巨大な油絵、2階にはムンクの絵もあり、市民の憩いの広場があるオスロ市庁舎を訪れる。

カール・ヨハンス通りの高台に立つノルウェー国王の王宮で、ハラール5世の居城であるオスロ王宮を訪れる。

17:00DFDSシーウェイズの大型旅客船にてデンマークの首都コペンハーゲンに向かう。船中泊。

17日9:30コペンハーゲン到達、観光。天候晴れ

ランゲリニエ埠頭沿いにある、世界的に有名な全長80cmの像、1913年にアンデルセンの人形姫を王立劇場のバレエで見たカールスベア・ビールの2代目社長カール・ヤコブセンが、彫刻家エドワード・エリクセンに命じて作らせた人魚姫の像を訪れる。

クリスチャンボー城が大火に見舞われた1794年、クリスチャン7世によって選ばれた当時の貴族の館だったロココ様式の4棟が王室の宮殿となり、現在もマーグレーテ女王やイングリッド皇太后の居城として使われているアマリエンボー宮殿を散策する。

1894年完成、大理石がふんだんに使われたロマネスク・バロック様式の美しい教会、地元の人々は大理石の教会と呼んで親しんでいるフレデリスク教会を訪れる。

コンゲンス・ニュートー広場まで東に延びるおよそ500mの長さで掘られた人工の入り江で、1671年に作られ、今でも18世紀の建物が多く残り、レストランやカフェが軒を連ねるアンデルセンの愛した地、ニューハウンを訪れる。

12:19コペンハーゲン中央駅から特急電車でオアスン海峡橋を渡りストックホルムに向かう。
17:30ストックホルム中央駅到達。
18:00郊外のホテル到達、宿泊。

18日9:00バスで出発、ストックホルム観光。天候晴れ

ノーベル賞受賞者の公式の晩餐会会場で有名な赤茶レンガ造りの姿をリッダー湾に映し、1923年に施工し、黄金の間の1900万個金箔を使ったモザイク画がすばらしい市庁舎を散策する。

ストックホルムの発祥の地、旧市街のガムラスタンを散策する。

スウェーデン王室の公式行事に使われるイタリア・バロック様式の宮殿、王宮、13世紀に建立されたストックホルム最古の教会、大聖堂、ガムラ・スタンの中心地、かつて市が開かれ、また罪人がさらされた場所でもある大広場、教会の裏庭に、アイアイン・ボーイと呼ばれる市内で最も小さな像があるフィンランド教会、地下鉄ガムラ・スタン駅を出てすぐ目に飛び込んでくる壮麗な教会、尖塔の高さが96mあるドイツ教会、1280−1310年に建てられ、スウェーデン王族の多くが眠っているリッダーホルム教会、ノーベル賞100周年を記念して2001年にオープン、建物はかつての証券取引所を利用し、館内ではノーベル賞の歴史や歴代受賞者に関してビデオや写真などを使って年代ごとに詳しく紹介するノーベル博物館、ストックホルム中心部とガムラ・スタンの間に浮かぶ小さな島にあるスウェーデン国会議事堂、ガムラ・スタンの北西の角にあり建物はオランダ・バロック様式で1668年建造、貴族階級による初の議会が行われた場所でもある貴族の館、13世紀にさかのぼる繁華街、ベステルロングガータン通りを訪れる。

午後からバスで郊外にあるユネスコの世界遺産にも登録され、現在も国王一家の居城として使われている城宮殿、ドロットニングホルジュ宮殿を散策する。

19:00郊外のホテルに到達、宿泊。

19日6:00バスでストックホルム・アーランダー空港に向かう。天候晴れ

6:30ストックホルム・アーランダー空港到達
8:40ストックホルム・アーランダー空港出発
10:35ヘルシンキ・バンター空港到達、バスでヘルシンキ観光

1952年に開催されたヘルシンキ・オリンピックのために造られたスタジアム、入り口に9個の金メダルを獲得したマラソンランナー、パーボ・ヌルミのブロンズ像があり、スタジアムの横に聳え立つ高さ72mの展望塔スタディウム・タワーなどがあるオリンピック競技場を散策する。

フィンランドの代表的作曲家ハメーンリンナ生まれのジャン・シベリウスを記念した公園、シベリウス公園を散策する。園内には彼のモニュメントもある。

すっぽりと岩にくるまれたデザインがユニークな教会、内装は岩盤がむき出しになっており、180枚の窓ガラスからあたたかな光が差し込む周囲を岩に囲まれたロックチャーチのテンペリアウキオ教会を訪れる。

ヘルシンキのランドマーク的存在でもあるヘルシンキ大聖堂のすぐ下にある約3000uの広さを誇る石畳の広場でロシアのアレクサンドル2世立像がある元老院広場を訪れる。

元老院広場を下に従える白亜の大聖堂、天に伸びる3つのドームがあるシンメトリカルな外観が美しいヘルシンキ大聖堂を訪れる。

食料品や民芸品を売る屋台がずらり集まり市民の暮らしをのぞけるマーケット広場を散策する。

内部の祭壇の周辺には、キリストt12使徒のテンペラ画が描かれ、豪華なシャンデリアなど荘厳な雰囲気に満ちている北欧最大のロシア正教の教会、ウスペンスキー寺院を訪れる。

14:30ヘルシンキ・バンター空港に向かう。
15:00ヘルシンキ・バンター空港到達
17:20ヘルシンキ・バンター空港出発
20日8:55(時差+6時間)関西国際空港到達

今回の旅行ヨーロッパ北部地域を総称する北欧の4カ国、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、フィンランドに足を運び、各国々の首都観光めぐりとノルウェーの氷河時代の太古から形ずくられてきた大自然の造形フィヨルドを巡り8日間の旅、堪能し満喫しました。

夏季であるのに肌寒い北欧、夏の平均気温が南部で20℃、冬は5℃、1年の大半を寒い日を送らねばならない北欧、教育費、医療費が無料、福祉国家の北欧、治安が世界でトップレベルの北欧、日本とはかなり異なった国家の国々の訪れ、なかなか勉強になりました。


福祉を充実して治安を良くし、快適な生活を送るための見本となる北欧の国々、消費税を25%と高率、所得が多くなるに連れて所得税の増率、最高75%、交通違反の罰金も所得が多いと高率、出産前に国からの援助、大学までの教育費、医療はすべて無料、いろんな政策で国民はできるだけ平等に近くなるよう考えられている国であることを感心させられた北欧観光旅行でした。
















京都府八幡寺社史跡巡り
2009年8月12日


今回は近場の大阪の境、京都南部に位置する同志社と古代が混在する街、京田辺、歴史を訪ねながら史跡を巡ったり、木津川・宇治川・桂川の三川合流部に広がる自然の大パノラマや緑豊かな男山で森林浴を楽しんだり、四季を通して、魅力がいっぱい八幡方面に足を運びました。

12:30車で京田辺方面に向かう。

13:30のどかな里山の景観に溶け込んで佇む。天武天皇の勅願で義淵僧正が開基、聖武天皇の願いで良弁僧正が伽藍を増築したという。本尊の十一面観音立像(国宝)は744年(天平16)に安置。天平時代後期に盛んに作られた木心乾漆像で、華やかな天平の息吹を今に伝える。奈良・興福寺の別院でもあったため藤原氏の庇護を受けて隆盛したが、中世に焼失。現在は本堂(大御堂)だけがひっそりと立つ観音寺を訪れる。

一休禅師が晩年を過ごした寺。鎌倉時代、妙勝寺として創建。その後兵火に遭ったが、康正年間(1455〜56)に一休が再興。酬恩庵と号した。苔に覆われ、しっとりと風情のある境内には本堂・方丈・庫裏(すべて重要文化財)が立ち、方丈庭園と虎丘庵庭園は名勝に指定。一休は81歳で大徳寺住職となった時もここから通い、88歳で没した。方丈中央に安置する木造一休禅師像(重要文化財)は逝去の年に高弟に作らせた等身大の像で、髪や髭は一休が自分のものを植え付けたという一休寺(酬恩庵)を散策する。

八幡方面に向かう。

木津川に架かる日本最長級の木造橋。全長356.5m、幅3.3m。川の水が橋桁に達する増水時には、水の抵抗を少なくするため、橋脚にワイヤーロープでつながれた橋板が流されるようになっている。水が引けばワイヤーを手繰り寄せ復元する仕組み。昭和28年の架橋以来10数回にわたり流出した。江戸時代を思わせる素朴な橋は広い河原の白砂によく調和し、時代劇のロケに使われることもしばしば。映画やテレビで見ている人も多いはず。橋のたもとには、近隣の観光の拠点・やわた流れ橋交流プラザ四季彩館があり、地域の食や文化を楽しめる流れ橋を訪れる。

石清水八幡宮の別当だった善法寺宮清が建立。本堂は、八幡宮の旧社殿の一部を移したものと伝わる。宮清の孫・通清の娘で足利義満の母である良子が寺に数多くの楓を寄進したと伝えられ、今でも秋には境内全体が燃えるような紅葉に包まれる。現在は律宗寺院で奈良・唐招提寺の末寺、善法律寺を訪れる。

松花堂は石清水八幡宮の社僧だった松花堂昭乗が1637年(寛永14)、隠棲用に建てた草庵の茶室。もとは八幡宮近くにあったが、明治の神仏分離令で書院、庭園とともに現在地に移された。6600坪の広大な庭にはほかに3棟の茶室があり、昭乗作の書画などを展示する美術館や食の交流棟もある松花堂庭園・美術館を訪れる。

別名らくがき寺といい、境内の大黒堂の壁に自由に願い事を書ける。大黒堂建立にあたって受けた援助に感謝して、大黒様に願い事がよく見えるようにと始められた。白壁はさまざまな願いで埋まるが毎年末に塗り替えられる単伝庵(らくがき寺)を訪れる。

わが国航空界の先駆者である二宮忠八が、1915年(大正4)に全世界の航空殉難者の霊を慰めるために建立。忠八はライト兄弟より早く飛行機の実用化を試みたが、軍の上司に却下されたという。境内には航空関係の資料館もある飛行神社を訪れる。

緑豊かな男山の山上に立つ古社で、創建は859年(貞観元)。王城鎮護のために、平安京の裏鬼門(西南)に当たるこの地に九州から宇佐八幡を勧請したのが始まり。平安期には朝廷の崇敬を受け、のちに源氏の氏神となり頼朝らも訪れたという。現在は厄除けの神様として信仰を集める。朱塗りの社殿は徳川家光の寄進で江戸時代に再建され、本殿、外殿、楼門などすべて重要文化財に指定。動物彫刻などで装飾された豪華絢爛な造りで、桃山文化の特色を伝えている石清水八幡宮を散策する。

男山ケーブルで下山し八幡駅周囲を散策する。

17:00解散。

今回の史跡巡り、近場の京都南部の京田辺と八幡の歴史深い社寺を数箇所巡り、歴史学習出来ました。
全国各地の史跡巡りしていますがさすが関西、古都が築いた歴史建造物の多さ、さすがですね。
関西の方は近場に多くの由緒ある歴史的建造物に触れやすいので恵まれていますね。
皆さんどしどし訪れて歴史学習しましょう。






飛行機で国内&海外の観光地巡り第六十九弾:横浜&鎌倉&江ノ島観光
2009年8月8−9日


今回は神奈川県の歴史ある港町山下公園、世界最大のチャイナタウン横浜中華街、かつて外人居留地だった山手、150を超える寺社が点在する古都鎌倉、海沿いの国道134号線のドライブコースの湘南に位置する観光名所、江ノ島に足を運びました。

8日14:00伊丹空港出発
15:10羽田空港到達、レンタカーで東京湾アクアラインを経由して千葉房総半島に向かう。

東京湾をはさむ木更津と川崎を、木更津沖合い4.4km に造られた人工島海ほたるを接点として、海上ルート5.1km と海底ルート約10kmの幹線道路で結ぶ東京湾アクアラインを走行。

木更津からは海の道を、川崎からは長いトンネルを抜けると、そこには東京湾周辺の景色を360度一望できるパーキングエリア「\海ほたる」\を訪れる。5階建てで中央が吹き抜けになった建物は3階までが駐車場、4階がショップとアミューズメントコーナー、5階にレストランと展望デッキがある

海ほたるにある袖ケ浦市郷土博物館の屋外展示施設の1つ。東京湾アクアライン建設に関する工程や歴史などを、詳細な模型やパネルで展示、紹介。また、東京湾の海上交通や産業の歴史について映像から学ぶこともできるアクアラインなるほど館を見学。

東京湾アクアラインを通過して千葉県房総半島にはいり南下する。

浦賀水道に面した標高120mの大坪山山頂に立つ高さ56mの観音像。地元出身の材木商である宇佐美氏が戦没者慰霊のために4年の歳月をかけて建てたもので、1961年(昭和36)に完成した。胎内に13仏7福神が安置され、314段のらせん階段を上っていく途中、腕、肩、冠にある展望窓から東京湾が望め、冠部分にある展望台からの眺めもよい東京湾観音を訪れる。

富津岬一帯に広がる公園。入口にはヤシが植えられ、海岸沿いには松林が続き明るく広々としている。岬先端にある明治百年記念展望塔からの眺めはすばらしい千葉県立富津公園を散策する。

狸囃子の童謡のモデルとなった寺。浄土真宗本願寺派の学問寺として、また、寺子屋として古くから親しまれてきた。境内で踊っていたタヌキと和尚の伝説にちなみ、野口雨情が作詞、中山晋平が作曲したのが『証誠寺の狸ばやし』の證誠寺を訪れる。

公園西側に広がる木更津海岸は潮干狩りの名所で、3月上旬〜8月まで多くの人で賑わいをみせる。中の島公園と鳥居崎海浜公園を結ぶ長さ236mの中の島大橋は歩行者専用橋なので、東京湾を行き交う船や木更津の町を眼下にゆっくりと眺められる中の島公園を散策する。

東京湾アクアライン経由で川崎方面に向かう。

19:00川崎駅近くのホテル到着後市街地を散策し、食事を済ませて床に就く。

9日5:00レンタカーで出発、天候曇りのち晴れ

川崎大師駅から表参道、仲見世と歩いて来ると、大山門が見えてくる。境内には平安朝様式の大本堂、高さ31.5mの八角五重塔、薬師殿などがあり、国道409号沿いの大師河原には自動車交通安全の祈祷殿がある川崎大師を散策する。

大師公園の中にある中国式公園。瀋秀園とは、中国・瀋陽市のすばらしい景色を集めた庭園という意味だ。川崎市と瀋陽市との友好都市提携5周年を記念して、1987年(昭和62)に造られた。秀湖と名づけられた池のほとりには知春亭、攬翠亭などの建物が点在する。蓮の池や柳の緑、瑠璃瓦の屋根、流れ落ちる滝など、風雅な古典庭園の様式が再現されている瀋秀園を訪れる。

湘南方面に向かう。

日本のヨット発祥地であり歴史と格式を持つ葉山マリーナを訪れる。

ヤシの木が並ぶ敷地にマンションが建ち並び、海にはクルーザーやヨットが浮かぶ厨子マリーナを訪れる。

海沿いの国道134号線を走行して材木座海岸、由比ガ浜、稲村ケ崎、七里ヶ浜を通過して江ノ島方面に向かう。

かつては、干潮時にようやく通行できた難所で、1333年(元弘3)の新田義貞の鎌倉攻めが開始されたという古戦場でもある。義貞が海中に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈ると、潮が引いたため、龍神が敵地への道を示してくれたと思った新田軍は志気が大いに高まり、磯伝いに鎌倉に突入したという故事はあまりにも有名だ。周辺は今は芝生が巡る海浜公園として整備され、江の島や遠く富士山を望める。特に夕日が沈む頃はシルエットが美しい。園内には新田義貞の碑と1910年(明治43)にこの沖合いで遭難した逗子開成中学校の生徒12名の霊を慰めるボート遭難慰霊碑(真白き富士の嶺碑)が立つ稲村ケ崎を訪れる。

最大のみどころは、水深6.5m、底面積144平方m、容量1000トン、厚さ41cmのアクリルガラスを使用した相模湾大水槽の中を泳ぐ約8000匹のマイワシの大群。そのほか深海コーナーでは海洋研究開発機構と協力し、日本初となる深海生物の長期飼育の様子を公開。またクラゲファンタジーホールでは世界で一番大きなクラゲの一つとされるシーネットルをはじめ、常時約15種類のクラゲを公開。イルカやアシカが愉快なパフォーマンスを見せてくれるショースタジアムもあり、遊びながら学ぶことができる、エデュテインメント型の水族館、新江ノ島水族館の前を通過して江ノ島大橋を渡り江ノ島到達。

明治時代、イギリスの貿易商サムエル・コッキング氏が世界各地から珍しい植物を集めて築造した大庭園が原型。苑内には、逆円錐形の江の島展望灯台、明治中期に建造されたれんが造りの温室遺構、藤沢市との姉妹・友好都市コーナーなどがある江の島サムエル・コッキング苑を訪れる。

江の島に伝わる、天女と五頭龍の伝説にちなんで造られた。見晴らしのよい恋人の丘に立ち、カップルの新名所として人気の恋人の丘龍恋の鐘を訪れる。

奥津宮を過ぎ、急な石段を降りたところに広がる幅約50mの海蝕台地。広々とした相模湾の向こうに富士の雄姿が美しい。その昔、建長寺の修行僧・自休と恋に落ちた相承院の稚児・白菊がここに身を投げ、自休も後を追ったという伝説がある稚児ケ淵を訪れる。

稚児ケ淵から断崖沿いに数10m進んだ、江の島最奥部にある海蝕洞窟。江の島信仰の発祥の地で、かつて弘法大師や日蓮聖人も修行したという霊場だ。奥行152mの第一岩屋と奥行112mの第二岩屋があり、神秘的な音響や照明で演出されたうす暗い中を歩いて見学できる江の島岩屋を訪れる。

鎌倉方面に向かう。

由比ケ浜から鶴岡八幡宮まで一直線に延びる大通り。延長約1.8kmで、その間に一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居の三つの鳥居がある若宮大路を通過。

若宮大路の二ノ鳥居から三ノ鳥居まで、通りの中央が一段高くなっている長さ457mの歩道。源頼朝が、妻政子の安産を祈願して1182年(寿永元)に築いたもので、鶴岡八幡宮に近付くにつれ道幅が狭くなる遠近法を用いている。両側には桜が植えられ、春は段葛全体がみごとな桜のトンネルとなる
段葛を歩いて通過。

若宮大路を進むと、緑濃い樹木に包まれて朱塗りの社殿が立つ。1063年(康平6)、源頼義が奥州を平定した際に京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡(現在の材木座)に勧請し、由比若宮を建てたのが始まりという。その後1180年(治承4)、源頼朝公が鎌倉に入ると同時に現在地に移し、1191年(建久2)には背後の大臣山中腹に本宮を造営して源氏の氏神としてお祀りした。現在の建物は江戸時代の再建。今も鎌倉のシンボルとして賑わい、特に正月の初詣は全国有数の人出がある鶴岡八幡宮を散策する。

鶴岡八幡宮の三ノ鳥居をくぐるとすぐ左右に源平池があり、中央には石の太鼓橋が架っている。太鼓橋をはさんで東側の源氏池には産を意味する三つの島、西側の平家池には死を意味する四つの島が配されている。夏には紅白のハスが花開く源平池を訪れる。

鶴岡八幡宮境内の源氏池の中の島に鎮座する社。1180年(治承4)の源頼朝公旗上げの際に、弁財天の加護があったといわれている。江の島鎌倉七福神のひとつで、境内には奉納された数多くの旗が立ち並んでいる。社殿裏にある政子石は、夫婦円満、子宝の祈願石とされている旗上弁財天社を訪れる。

奈良の正倉院を模した校倉風の建物で、東鳥居の近くにある。鶴岡八幡宮だけでなく、鎌倉市内の各社寺が所蔵する仏像、工芸品、書画、古文書など貴重な文化財4800点余りを保管、展示している。代表的なものに建長寺の「蘭溪道隆像」[らんけいどうりゅうぞう](国宝)や鶴岡八幡宮の弁才天坐像(重要文化財)などがある鎌倉国宝館を見学。

鶴岡八幡宮の参道途中に立つ朱色も鮮やかな入母屋造の建物。義経の愛妾・静御前が、しずやしず しずのをだまき…と義経を慕って舞ったところと伝えられる舞殿(下拝殿)を訪れる。

鶴岡八幡宮内にあり、舞殿の右側に立つ流権現造の社殿。現在の建物は徳川2代将軍秀忠の命によって1624年(寛永元)に立て替えられたもので、江戸時代初期の建築様式をみることができる若宮(下宮)を訪れる。

鶴岡八幡宮内にあり、本宮へ通じる大石段の途中左手にそびえる、高さ約30m、幹回り約7m、樹齢1000余年という巨木。3代将軍源実朝公が、1219年(承久元)1月の雪の夜に、この木の陰にひそんでいた甥の公暁に暗殺されたという故事で知られ、隠れ銀杏ともよばれている大銀杏を見学。

鶴岡八幡宮内にあり、大銀杏脇の石段を上りつめたところに立つ。流権現造、総朱塗りという華麗な社殿には、極彩色の彫刻が施されている。1828年(文政11)に徳川11代将軍・家斉が再建したもので国の重要文化財に指定。左右に設けられた廻廊の一部は宝物殿となっており、神宝が数多く展示されている本宮(上宮)を訪れる。

東の金沢街道エリアに向かう。

鎌倉随一の萩の寺として有名。9月中旬には参道いっぱいに白萩が咲き乱れる。北条義時以来、執権職についていた北条氏の屋敷があったところで、北条氏滅亡後、その冥福を祈り後醍醐天皇が足利尊氏に命じて1335年(建武2)に建立した天台宗の古刹。本尊の子育経読地蔵大菩薩は地蔵像としては珍しい座像で、国の重要文化財に指定されている。こぢんまりとした境内には、本堂、鐘楼、聖徳太子を祭る太子堂などが立つ。全部で108種あるという椿をはじめ、サルスベリなど四季折々の花が咲く宝戒寺を訪れる。

大蔵幕府跡を見下ろす大倉山の中腹に、笠石を5枚積み重ねた高さ約2mの石塔が立っている。ここは頼朝の持仏堂があったところで、1199年(正治元)に亡くなった後に廟所とされ、法華堂が立っていた。また、頼朝の墓から右手の細い山道を登ると、頼朝の参謀だった大江広元の墓がある源頼朝墓を訪れる。

1104年(長治元)の創建と伝えられる古社。頼朝が大蔵幕府を開いた際に鬼門の守り神として崇拝したという。祭神は学問の神様・菅原道真で合格祈願の絵馬が数多く奉納されている。約100本の梅の木が植えられた境内には、河童を描き続けた漫画家の清水昆ゆかりの筆塚が立つ荏柄天神社を訪れる。

後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王を祭神として、1869年(明治2)明治天皇により創建された神社。鎌倉幕府が倒れ、親王は建武中興で征夷大将軍となったが、足利尊氏と対立してこの地に幽閉され殺められた。広い境内には本殿、拝殿、親王の遺品を展示する宝物殿、親王が幽閉されていたという土牢などがある鎌倉宮を訪れる。

鎌倉宮の東、紅葉ケ谷の奥にあり、鎌倉随一の花の寺として名高い。1月のロウバイにはじまり桜、アジサイ、芙蓉、萩など四季折々の花が境内狭しと咲き誇る。ことに梅や水仙が咲く1〜2月や紅葉の時期は多くの参拝者で賑わう。1327年(嘉暦2)の創建で、開山は夢窓国師。後に足利基氏が中興し、以来足利氏4代の菩提所となった。本堂の裏手には、夢窓国師の作といわれる岩肌の斜面を巧みに取り入れた池泉式庭園(名勝)がある。また大宅壮一の評論碑や、久保田万太郎句碑、吉田松陰留跡碑などもある瑞泉寺を訪れる。

1188年(文治4)に足利義兼が創建した鎌倉五山第五位の寺。室町時代には七堂伽藍を備え23の塔頭を数えたが、現在は1756年(宝歴6)に再建された本堂と客殿、庫裏などが立つ。手入れが行き届いた境内にはボタン、ウメ、サルスベリなど花木が多く、また寺宝の開山退耕禅師坐像は国の重要文化財に指定されている浄妙寺を訪れる。

滑川に架かる華の橋を渡った宅間ケ谷にあり、竹の寺として有名。1334年(建武元)足利尊氏の祖父・家時が、天岸慧広を開山として創建したと伝えられる。かつては足利、上杉両氏の菩提寺として栄え、裏山には足利一族の墓といわれるやぐらがある。本堂西側の竹の庭は1000本を越す孟宗竹がみごとな景観を見せている報国寺を訪れる。

滑川に架かる夷堂橋のたもとにある日蓮宗の寺。配流先の佐渡から帰った日蓮上人が身延山に入るまで滞在した夷堂の跡に、日出上人が1436年(永享8)に建立した。2世住職日朝上人の時、身延山から日蓮上人の遺骨を持ち帰り、分骨堂に納めた。以来東身延と称されて栄えたことから、日朝さまともよばれている。境内奥の墓地には、名刀正宗を生み出した刀工岡崎五郎正宗と、2代目貞宗の墓と伝えられる石塔がある本覚寺を訪れる。

北東の北鎌倉エリアに向かう。

臨済宗建長寺派の大本山で鎌倉五山の第一位。1253年(建長5)に5代執権北条時頼が、宋の高僧蘭渓道隆を開山として創建したわが国初の禅宗専門道場。最盛期には七堂伽藍を備え、1000人以上もの修行僧がいたという。たび重なる火災で当初の建物は焼失したが、江戸時代に沢庵禅師によって復興された。現在の堂宇は近世の再建や移築だが総門、三門、仏殿、法堂などが一直線に並び、中国宋時代の典型的な禅宗様式の伽藍配置を残している建長寺を散策する。

建長寺入口にあり、別名巨福門とよばれる。1943年(昭和18)に京都の般舟三昧院から移築されたもので、頭上にかかる額『巨福山』は宋出身の禅僧で10代住職一山一寧の筆によるという。巨の字に点が加えられているのは文字をひきしめるためで、百貫の重みに値するのでこの点を百貫点と称している。総門を入ると、広々とした境内に桜の老樹が立ち並んでいる総門(巨福門)を通過する。

建長寺内にあり、本尊の地蔵菩薩坐像を安置している。建物は、江戸初期の1647年(正保4)、徳川2代将軍・秀忠の夫人崇源院の霊廟を芝の増上寺から移築したもの。仏殿前のビャクシンの巨木は、蘭渓道隆が宋から持ってきて植えたものと伝わる仏殿を訪れる。

建長寺にあり、高さ約30mで入母屋造、裳階付、十二脚門の巨大な楼門。1775年(安永4)に万拙和尚が再建したもので『建長興国禅寺』の額は後深草天皇の宸筆と伝えられている。なお、禅宗では山門ではなく三門とよぶことが多い。悟りに入る3つの法門、つまり三解脱門のことで、この下を通ると心が清められるといわれている三門を訪れる。

建長寺内にあり、総門とともに京都般舟三昧院から移築された江戸後期の建物。方丈背後には、中央にさん碧池(心字形の池)を配した大覚禅師作と伝わる建長寺庭園(名勝)がある方丈を訪れる。

建長寺内にあり、三門右手にある茅葺き屋根の鐘楼に、創建当時の貴重な梵鐘が下がっている。高さ約2m、直径約1.25mの大きな梵鐘は、1255年(建長7)北条時頼が鋳物師物部重光に鋳造させたもの。蘭渓道隆の銘文があり、模様や形など藤原様式の美しさを今に伝えている梵鐘を訪れる。

建長寺裏山の勝上けん(標高145m)の山腹にある鎮守社。1890年(明治23)に、当時の建長寺住職が静岡県の方広寺(奥山半僧坊)から勧請したもので、半僧半俗姿(いわゆる天狗の姿)の半僧坊大権現を祭っている。交通安全、火盗除けなどにご利益があるとされ、参拝者が多い。境内には大天狗・小天狗像10体が立ち、また堂内には天狗の大団扇や下駄などが奉納されて特異な雰囲気。総門から徒歩約15分。さらに上がると勝上けんで、ここから天園にいたる尾根は、鎌倉アルプスとよばれるハイキングコースになっている半僧坊を訪れる。

アジサイ寺として有名な寺。境内には約2000株ものアジサイが植えられ、6月中旬のシーズンには青、紫、白などの花で埋まる。ことに小雨の日には花の色が一段と増して美しい。寺の創建は1160年(永暦元)に建てられた明月庵が始まり。1256年(建長8)に5代執権北条時頼が敷地内に最明寺という隠居所を建造。その後、嫡男の時宗が禅興寺として再興した。禅興寺は明治になって廃絶したが、塔頭の明月院だけが残った。境内には『紫陽花殿』の額がかかる1973年(昭和48)に再建された本堂や北条時頼の墓、鎌倉十井のひとつ瓶ノ井、明月院やぐらなどがある。時頼の墓は高さ約1mの苔むした宝篋印塔で、秋は紅葉に彩られる明月院を訪れる。

臨済宗円覚寺派の禅寺で、鎌倉五山の第四位。1281年(弘安4)、北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために妻とその子師時が建立したという。鎌倉時代には七堂伽藍を備え、塔頭も11院ほどあった。現在は関東大震災後に再建された総門や仏殿などが立つ。すり減った石段を登って鐘楼を兼ねた中国風の山門を入ると、右手に本尊の木造三世仏坐像を安置する仏殿の曇華殿がある。境内には竹林ややぐらなどを巡る散策路が設けられ、禅寺にふさわしい閑寂なたたずまいをみせている。梅や桜、萩など花の寺としても人気。また、参道入口には鎌倉十井のひとつ、甘露ノ井がある浄智寺を訪れる。

鎌倉尼五山で唯一現存。1285年(弘安8)、北条時宗の妻・覚山尼が創建した臨済宗の寺。覚山尼は、妻が寺に駆け込んで3年間修行すれば離縁できるという縁切り寺法を定めたといわれ、以来駆込寺・縁切寺として知られるようになった。歴代の住職には後醍醐天皇の皇女用堂尼、豊臣秀頼の娘天秀尼といった名門出身の尼僧が多く、松ケ岡御所と称されるほど格式も高かった。明治初年に寺法が廃され、1903年(明治36)に男僧寺となった。梅、水仙、ボタン、桜、ハナショウブなど四季の花が咲く境内には、泰平殿や水月堂、松ケ岡宝蔵などが立つ。参道奥の墓地には、学者の西田幾太郎、和辻哲郎、作家の高見順、評論家の小林秀雄ら著名人の墓がある東慶寺を訪れる。

東慶寺内にあり、聖観音立像、離縁状、縁切関係の文書など多数の重要文化財を展示する松ケ岡宝蔵を見学。

臨済宗円覚寺派の大本山で、鎌倉五山の第二位。1282年(弘安5)8代執権北条時宗が、文永・弘安の役(蒙古襲来)の戦死者の霊を弔うため、宋の高僧無学祖元を招いて創建した。約6万平方mもの広大な境内には総門、山門、仏殿、方丈などの伽藍が一直線に並び、さらに夏目漱石や島崎藤村も参禅した帰源院や仏日庵、黄梅院など18の塔頭が山かげにひっそりと点在している。うっそうとした老杉に囲まれた山内は全域が国の史跡。禅林道場らしいすがすがしさと格式が感じられる円覚寺を散策する。

円覚寺内にあり、山門右手の急な石段を登った高台の鐘楼に吊されている。1301年(正安3)、9代執権北条貞時が鋳造させたもので高さ259.4cm、口径142cmの大きさは鎌倉一。常楽寺、建長寺の鐘と共に鎌倉三名鐘とされている洪鐘を訪れる。

円覚寺内にある、伏見上皇勅筆の圓覚興聖禅寺の額がかかる壮大な楼門。1783年(天明3)に再建されたもので、高さ約20m・木造2層のどっしりとした重厚な構えは円覚寺のシンボルとなっている。県重要文化財に指定の山門を訪れる。

円覚寺内にあり、1964年(昭和39)に再建された唐様禅宗様式の建物。本尊の宝冠釈迦如来座像(頭部は鎌倉時代、胴は江戸初期)や、梵天像、帝釈天像など鎌倉時代の貴重な仏像が安置されている。天井に描かれた巨大な『白龍の図』は前田青邨監修、守屋多々志揮毫によるものの仏殿を訪れる。

西の源氏山エリアに向かう。

臨済宗建長寺派の寺で、鎌倉五山の第三位。源頼朝が亡くなった翌1200年(正治2)に、妻の政子が栄西を開山として創建した。栄西は中国から初めてお茶を持ち帰り『喫茶養生記』を著した禅師。総門をくぐると50mほどの石畳の参道が一直線に続く。参道の正面に仏殿、右手に鐘楼と庫裏などが立つ。山門左手の道を行くと仏殿背後の墓地に北条政子、源実朝の墓と伝わるやぐらや、俳人高浜虚子、作家大佛次郎らの墓がある寿福寺を訪れる。

足利氏満の命を受けた上杉氏定が、空外を開山として1394年(応永元)に再建した臨済宗の寺。鎌倉三十三観音霊場の第二十六番札所。扇ケ谷の静かな住宅街にあり、カイドウをはじめ、梅、水仙、萩など花の寺としても名高い。境内には1785年(天明5)建立の庫裡や、浄智寺から移されたという仏殿、大正時代に再建された本堂などが立つ。山門前右手には鎌倉十井のひとつ底脱ノ井、左手奥の崖下に十六ノ井がある海蔵寺を訪れる。

海蔵寺内仏殿裏の山腹に板戸を閉めたやぐらがあり、直径約70cmのくぼみが4個ずつ4列に16個並んでいる。弘法大師が掘ったものと伝えられ、今も清水をたたえている十六ノ井を訪れる。

源義家が奥州征伐の戦勝を祈願したという源氏山の山頂一帯に造られた自然公園。桜並木や芝生の広場があり、市民の憩いの場として親しまれている。特に春は、3月に咲く彼岸桜から5月の山桜まで数多くの花見客で賑わう。中央広場には、高さ約2mの堂々たる頼朝像が立っている。また大仏ハイキングコースの、格好の休憩ポイントでもある源氏山公園を散策する。

南西の長谷エリアに向かう。

藤原不比等の子藤原房前が、736年(天平8)に徳道上人を開山として創建したと伝えられる浄土宗系の単立寺院。俗に長谷観音の名で知られている。室町期には足利氏によって本堂の再建や本尊の大修理が行われるなど、代々の権力者の保護を受けてきた。広い境内には、本尊の十一面観音像を安置する観音堂をはじめ阿弥陀堂、大黒堂、地蔵堂など6つの堂宇が立つほか、高浜虚子の句碑や久米正雄の胸像、高山樗牛の住居跡の碑などがある。観音堂南側の見晴台からの景色はすばらしく、由比ケ浜をはじめ、鎌倉の町を一望できる長谷寺を散策する。

長谷寺内にあり、高さ2.8mの阿弥陀如来座像を安置している。源頼朝が42歳の時に厄除けのために建立したと伝えられ、別名厄除け阿弥陀ともいう。鎌倉六阿弥陀仏のひとつに数えられている阿弥陀堂を訪れる。

長谷寺内にあり、高さ9.18mもある漆箔・寄木造の十一面観音像を安置している。木造の仏像では日本最大級。右手に錫杖、左手には蓮華をさした華瓶を持ち、金色に輝く姿は実に優美だ。長谷寺の縁起によると霊夢を得た徳道上人の祈願で、721年(養老5)に大和(奈良県)の泊瀬で1本の楠から2体の像が造られ、1つは奈良の長谷寺に安置し、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと願いをこめて海に流された。10余年後に三浦半島の長井に漂着したものを、この地に移し創建したといわれている観音堂を見学。

長谷寺内にあり、弘法大師が彫ったと伝わる弁財天が祀られている(現在は宝物館に収蔵)。弁天堂背後にあるうす暗い弁天窟内は、ローソクの炎がゆらめく幻想的な雰囲気。壁面には弁財天と十六童子が刻まれている弁天堂を訪れる。

広い境内の奥に鎮座する大仏は、正式には浄土宗大異山高徳院浄泉寺の本尊の阿弥陀如来坐像(国宝)。5年の歳月をかけて1243年(寛元元)に完成した当初は木造だったが台風で倒壊し、1252年(建長4)に青銅製の大仏の鋳造が始められたといわれている。完成年月日や原型作者などは不明。1498年(明応7)に大仏殿が津波で流されてからは露座になり、大きな礎石だけが境内に残っている。像高は約11.31m、顔だけでも2.35mあり、重さは約121トン。胎内に入ると、下から8層に分けて鋳造の跡がよくわかり興味深い高徳院(鎌倉大仏)を訪れる。

高徳院鎌倉大仏の背後に立つ。朝鮮王朝の月宮殿を移築したもので、高徳院を再興した祐天上人を祭っている観月堂を訪れる。

高徳院鎌倉大仏の観月堂の隣に立つ。女流歌人与謝野晶子が、大仏を見て詠んだ短歌「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かなが刻まれている与謝野晶子歌碑を訪れる。

五代執権北条時頼の家臣宿屋光則が、日蓮の高弟日朗を開山として自邸に建立した寺。光則は日蓮の『立正安国論』を時頼に手渡した人物で、のちに日蓮に帰依した。本堂前には日蓮の直筆を写した高さ約3mの石碑が立つ。境内には梅や椿など四季折々の花木が植えられ、華やいだ雰囲気が漂う。特に高さ約5m、根回り1.2mのカイドウの巨木は有名。4月上旬に、薄紅色の花を咲かせて美しい。また、本堂裏には日蓮が佐渡に流罪になった際、日朗を幽閉した土牢がある光則寺を訪れる。

平安時代後期創立の古社。鎌倉・湘南地帯を開拓、鎌倉権之守として鎌倉武士団を率いた領主・鎌倉権五郎景政公を祀る。境内にはイチョウの大木や樹齢400年のタブの巨木が生い茂り、静寂そのもの。景政公が軽々と持ち上げたという105kgもある手玉石も残る御霊神社を訪れる。

極楽寺切通しの途中、石段を登った小高い丘の上にある真言密教の寺。弘法大師が修行した霊場跡に、1219年(承久元)北条泰時が創建したと伝えられる。本尊は不動明王(縁結び不動)。108段の参道の両側には般若心経の文字数と同じ262株のアジサイが植えられ、明月院と並ぶアジサイの名所。また、参道からは眼下に由比ケ浜の眺望が広がる成就院を訪れる。

貧者救済や病人の治療に尽くしたことで知られる忍性菩薩が、1259年(正元元)に創建した真言律宗の寺。本堂前には忍性菩薩が使用したと伝わる千服石臼や薬鉢がある。往時は七堂伽藍をはじめ49もの塔頭があったが度重なる火災や戦乱で大半が焼失。現在は山門や本堂などが山かげにひっそりと立っているのみだが、宝物殿には木造十大弟子立像(重要文化財)などの古仏像が数多く収蔵されている極楽寺を訪れる。

横浜山手方面に向かう。

1962年(昭和37)、イギリス兵舎のあった土地に開園。園内の展望台と、海側へ向いて置かれたベンチからは、MM21・大さん橋・横浜ベイブリッジまで横浜港を一望。横浜ベイブリッジの夜景が有名だ。北側の森は、フランス山地区とよばれる元フランス軍駐屯地。1971年(昭和46)に横浜市へ譲渡され、パリ中央市場と同じアーチが正面に立つ。イギリス館、山手111番館、大佛次郎記念館、県立神奈川近代文学館も併設する港の見える丘公園を散策する。

1926年(大正15)、米国人ラフィン氏邸として建てられたスペイン風の洋館。地階は鉄筋コンクリート、地上2階は木造の寄棟造り。ホールは開放的な吹き抜けになっている。設計者は、アメリカ人建築家J・H・モーガン。1920年(大正9)、東京・丸ビル建設のために来日。日本を愛したモーガンは横浜に移り住み、数多くの建物の設計を手がけた山手111番館を訪れる。

明治〜大正時代の横浜を今に伝える資料館。1909年(明治42)、和洋併設型住宅として建てられた中澤邸の洋館部分を、1977年(昭和52)に移築。開港当時の様子を描いた錦絵(横浜絵)、マンガの原型・ポンチ絵、ギヤマン、オルガン、蓄音機や外国人墓地全景の150分の1模型を解説付きで展示している山手資料館を見学。

港の見える丘公園の正面にある、外国人専用の墓地。1854年(安政元)に米ペリー戦艦上で事故死した海兵隊員ロバート・ウィリアムスがここに葬られたのが始まり。異郷の地・横浜で没した外国人、40カ国余り約4800人が1万8000平方mの敷地に眠る。生麦事件の犠牲者リチャードソン、旧国鉄の初代技師長モレル、電話技師メーソン、フェリス女学院創立者キダー、日本に漫画を伝えたワーグマンら文明開花の功労者をはじめ、著名人の墓も多い横浜外国人墓地を訪れる。

元町公園内、山手本通りに面して立つ白い洋館。1926年(大正15)、現代建築の父と言われるレーモンドの設計で、スイス人貿易商・エリスマンの私邸として建設。1990年(平成2)、公園内に移築・復元された。邸内では資料展示室のほか、暖炉のある応接室やサンルームなどを見学可、元町公園を一望できるエリスマン邸を訪れる。

1930年(昭和5)に建てられた、イギリス人貿易商ベリックの邸宅。建築家J・Hモーガンの設計でスパニッシュスタイルが基調。戦前に建築されて現存する山手外国人住宅では最も規模が大きい。セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用された後、2001年(平成13)に横浜市の所有となり、翌年から施設を公開している。正面の3連アーチ、瓦屋根を持つ煙突、幾何学模様のタイルなど多彩な装飾が見どころベーリック・ホールを訪れる。

敷地面積約1万3000平方m。石畳、噴水と花壇が美しい公園。明治期にイタリア領事館がおかれたことから、イタリア山と呼ばれる。高台にある展望台からは緑豊かな山手が一望可。園内には、2つの西洋館が移築されている山手イタリア山庭園を散策する。

山手イタリア山庭園にあるアメリカン・ヴィクトリアン調の洋館。ニューヨーク総領事を務めた明治政府の外交官が住んでいた。食堂、客間、書斎、寝室など、当時の様子を忠実に再現している外交官の家を訪れる。

山手イタリア山庭園入口の右側に立つ、大正末期に建てられた洋館。戦後は山手カトリック教会司祭館として使われていた。木造2階建て。フランス瓦、よろい戸を持つ典型的な外国人住宅。館内には居留地時代の展示資料や図書室もあるブラフ18番館を訪れる。

横浜中華街方面に向かう。

祭られている関羽は三国志で有名な武将だが、商売繁盛の神様としても信仰されている。初代は明治期に建造。現在のものは、1990年(平成2)に再建された4代目だ。北京瑠璃瓦・観音石竜柱など中国清朝時代の伝統的な建築工芸技術が施された絢爛豪華な建物は、中華街のシンボルにふさわしい横浜中華街関帝廟を訪れる。

吉本興業プロデュースのユニークな水族館。中国の南の島、小さな小学校がモチーフになっていて、下駄箱水槽や牢屋水槽などおもしろい水槽の宝庫。73本あるすべての水槽にクイズもついている。さかなの稚魚や卵のみを集めた、さかなの赤ちゃん水族館も併設するよしもとおもしろ水族館を見学。

山下公園方面に向かう。

横浜港を目の前に、大さん橋の東側から山下埠頭まで約1km続く日本最初の臨海公園。1930年(昭和5)、関東大震災の瓦礫を埋め立てて開園。芝生広場やバラ園をはじめ、赤い靴はいてた女の子の像、姉妹都市のサンディエゴから贈られた水の守護神像、かもめの水兵さん歌碑などが点在。園内には氷川丸が係留され、水の階段やステージなどもある山下公園を散策する。

日本最大規模の人形博物館。昭和初期、日米親善のために贈られた親善人形を含む、世界140カ国1300点の貴重な人形を展示。3階の人形ふれあいアトリエでは、人形作りの工程を映像で見ながら素材や道具にふれられるなど、ユニークな展示がたくさんの横浜人形の家を訪れる。

メリケン波止場とも呼ばれる長さ483m、幅約70mの桟橋。豪華客船のクイーンエリザベスIIをはじめ、外国航路の客船が訪れ、入港の際などは、大変な賑わいとなる。2002年に、3万トンクラスの客船が4隻同時に停泊できるターミナルが完成した。屋上広場からは、山下公園や横浜赤レンガ倉庫などミナトヨコハマの風景が一望できる大さん橋を訪れる。

1930年(昭和5)に三菱横浜造船所で造られた、総トン数1万2000トン、全長163.3mの豪華客船。30年にわたり太平洋を横断すること254回、合計2万5000人もの船客を運び、太平洋の女王とも呼ばれた。1961年(昭和36)から山下公園に係留され、アールデコの内装が美しい一等食堂や社交室、チャップリンも泊まった特別室などが見学できる日本郵船氷川丸を見学。

18:00羽田空港に向かう。
19:00羽田空港到達
20:15羽田空港出発
21:30神戸空港到達。

今回の旅行、観光名所の多い横浜に足を運びました。

初日は前回の千葉観光で渋滞で渡れなかった東京アクアラインを走行し、エンターテイメントとグルメスポットで有名な海ほたるによってから千葉県房総半島に入り内房の名所見物、散策して楽しみました。

横浜観光は海沿いのオーシャンビュー、マリンスポーツを楽しめる湘南をドライブし、江島神社や江ノ島展望灯台など見所が盛りたくさんの江ノ島、鶴岡八幡宮、北鎌倉の名刹、鎌倉大仏で知られる高徳院など、由緒ある寺社がたくさんあり、四季折々の花を求めて訪れる人が多い鎌倉、かつて外人居留地で今も当時の面影を残す優雅な洋館を見物しながら巡る山手、料理店の多さでは世界一、200をゆうに越える飲食店の横浜中華街、歴史ある港町のムードを満喫できる山下公園など早朝の5:00から夕刻の18:00までひたすら歩いて数多くの歴史的建造物を巡り堪能いたしました。

尚江ノ島で1時間30分、鎌倉で5時間、山手で1時間30分、横浜中華街で1時間、山下公園で1時間、計10時間歩き回りました。
今まで訪れた観光名所でこれだけ歩いたのは記憶が無いですね。
さすが両足にマメができ、疲労困憊でぐっすり眠ることが出来ました。
何キロ痩せたかな!

観光名所が比較的集中していたため、移動時間にあまり時間を費やす必要がなかったのが多くの名所を回ることができたのでしょうね。
おそらく実動13時間でこれだけ周れたのは過去最高です。
我ながら驚きの盛りたくさんの名所観光旅行でした。

多くの名所を訪れたことは、その結果当然活動記録もかなりの長文になります。
はたして何人の方がこの長文をすべて読みおえる事ができるのかな。
お疲れ様でした。






































三重県伊賀上野史跡巡り
2009年8月5日


今回は近場の三重県、藤堂高虎の城下町であり、俳句松尾芭蕉の生誕地として知られ、忍者と芭蕉の町で、郊外には伊賀焼の里がある伊賀上野に足を運びました。

12:30車で出発、木津を経由して伊賀上野方面に向かう。

14:00昭和57年11月に通産大臣から伝統工芸品に指定された伊賀焼を幅広く展示する資料館。伊賀焼きの振興と後継者の育成を図るため、伊賀焼の製造過程や古今の伊賀焼の名品の展示を行うほか、伊賀焼の体験教室や技術指導を行う実技研修室を備えている伊賀焼伝統産業会館を見学。

俳聖芭蕉翁を顕彰する事業の一つとして設立された記念館。内部には芭蕉の遺墨、文献、弟子たちの俳画、さらに近世から現代までの連歌、俳諧にまつわる資料を展示する芭蕉翁記念館を見学。

1585年(天正13)、筒井定次が築城。関ケ原の合戦以降、築城の名手である藤堂高虎が大改修を行ったが、天守閣は竣工直前の1612年(慶長17)に暴風雨で倒壊した。現在の城は1935年(昭和10)の再建で、城跡は国の史跡の指定を受けている。日本一の高さを誇る石垣は高虎時代のものの伊賀上野城を散策する。

芭蕉生誕300年を記念し、1942年(昭和17)に上野公園内に建てられた。ユニークな形は芭蕉翁の旅姿を表す。丸い屋根は笠、八角形のひさしは袈裟、柱は行脚する翁の杖、建物の額は顔をイメージしているという俳聖殿を訪れる。

伊賀流忍術は飛鳥時代、伊賀地方に生まれた修験道が、のちに山伏兵法となって伝承され、発展したものだといわれる。忍者を分かりやすく紹介。ハイテク設備で、楽しく忍術の極意が学べる伊賀流忍者博物館を見学。

伊賀流忍者博物館にあり、実際に忍者が住んでいた屋敷を移築したもの。外観は農家のようだが、実は巧妙にカラクリが仕掛けられていて、くノ一(女忍者)さんが実演を交えて案内する。普段は押し入れの棚だが、緊急時には階段に変わる隠し階段や、引き戸の端を押すと回転し、戸の裏に姿を隠せるどんでん返しなど、忍者の知恵に驚く忍者屋敷を見学。

伊賀流忍者博物館の施設。忍者は苛酷な仕事だけに、日ごろは心と体を鍛える生活を実践していた。館内には忍者のメンタルヘルスをパソコンなどを使って学べるコーナーがある。また、忍者体験ルームの無限庵では、体内の気を高めストレス解消に役立つ九字法をビデオで紹介。ほかにも忍者文字や五色米といった独自の伝達方法や天文学など、忍者の知恵がパネル展示されている忍者伝承館を見学。

伊賀流忍者博物館にあり、伊賀上野城侵入を想定し、忍者の潜入から脱出までを音響や照明、ビデオなどハイテク技術を駆使して楽しく体験できるゾーン。導入部の暗闇の階段を降りていくと、突然、目の前のスクリーンにトリック映像で忍者頭が出現し、城内侵入の心得を説いて消える。館内のミニシアターでは、忍者の隠密行動をドラマにして映像で分かりやすく紹介。侵入時に使われた水グモなどの道具、さらに手裏剣や含み針など、数多くの武器も展示されている忍術体験館を見学。

毎年10月23〜25日に、豪華な楼車と鬼行列が町を練り歩く上野天神祭(重要無形民俗文化財)。館内には楼車3基と、鬼行列が練り歩く様子を再現している。300インチ3面マルチスクリーンでは、伊賀上野の風土や四季折々の自然、上野天神祭りの様子が迫力ある映像で楽しめるだんじり会館を見学。

松尾芭蕉の生家。書斎「釣月軒」が奥にあり、29歳まで生家で過ごし、ここで処女句集「貝おほひ」を執筆した。近くには、松尾家の菩提寺愛染院、遺髪を収めた故郷塚がある芭蕉翁生家を訪れる。

芭蕉五庵の一つで、唯一現存する庵。門弟服部土芳の草庵で、庵開きの祝いに芭蕉が贈った句「みの虫の音を聞きにこよ草の庵」にちなんで名付けられた蓑虫庵を訪れる。

時代劇で有名な伊賀越仇討の舞台となった所。ことの発端は1630年(寛永7)、備前岡山藩の渡辺源太夫が河合又五郎に惨殺されたことにある。実弟を殺された渡辺数馬は、義兄の荒木又右衛門の助太刀を得て、4年後の11月7日の早朝、死闘ののち、ここで又五郎一行を討ち果たし、見事本懐を遂げる鍵屋ノ辻を訪れる。

鍵屋ノ辻に立つ資料館。館内には、伊賀越仇討にまつわる貴重な資料が展示されている。荒木又右衛門自筆の起請文や助太刀の事情を書いた記録のほか、伊賀越仇討の錦絵や、仇討当時の遺品などが見学できる伊賀越資料館を訪れる。

17:00終了。帰路に向かう。

今回の史跡巡り、近場の三重県、伊賀上野に訪れ、のどかな田園風景が広がる伊賀市郊外の丸柱の伊賀焼の里、藤堂高虎の城下町であり、俳句松尾芭蕉の生誕地として知られ、忍者と芭蕉の町の歴史散歩学習でした。





飛行機で国内&海外の観光地巡り第六十八弾:岩手県盛岡タウン&八幡平観光
2009年8月1−2日


先月に続いて今年2回目の岩手県の訪れ、今回は北上川、中津川が流れ、水と緑にあふれ、グルメや伝統工芸など岩手の特産物が数多く集まっている盛岡タウンと岩手と秋田の県境にあり、原生林、湿原、高山植物など貴重な自然にあふれて、周辺には秘湯が点在しドライブやトレッキングを楽しめる八幡平・安比高原に足を運びました。

1日14:30伊丹空港出発
15:55花巻空港到達、レンタカーで盛岡に向かう。
16:45盛岡駅付近のホテル到達
17:00盛岡タウン散策

明暦2(1656)年に架設され、盛岡城下の北の玄関口で、藩は材木町に惣門を設け、御番所を置いていた夕顔瀬橋をわたる。

北上川の東岸、旧盛岡高等農林学校へ通った宮沢賢治が歩いた材木町の通り。賢治ゆかりの光原社、南部古代型染といった店が並び、背広姿の賢治が腰掛ける石座など6つの賢治のモニュメントもあるいーはとーぶアベニュー材木町を散策する。

石川啄木が1905年(明治38)に1ヵ月間、節子と両親、妹で暮らした家。節子が愛用した琴などを保存する啄木新婚の家を訪れる。

盛岡地方裁判所前庭にある、巨大な花崗岩の間に育った樹齢約350〜400年のエドヒガンザクラ。国の天然記念物にも指定されており、市内でいち早く花を咲かせる石割桜を見物。

昭和天皇のご成婚を記念して建てられ、昭和2年に完成。日比谷公会堂と同じく佐藤功一氏による設計で、外壁をレンガで飾ったモダンな造りは当時も注目を集めた。地下に、フランス料理の老舗レストラン公会堂多賀がある岩手県公会堂を訪れる。

中津川に架かる上の橋の欄干には、18個の擬宝珠が付けられている。擬宝珠とは手すりや橋の欄干に付ける飾りのこと。青銅製で1609年(慶長14)の銘が残る上の橋擬宝珠を渡る。

盛岡出身の画家・深沢紅子の美術館。花に向かい合った深沢紅子の世界は、多くの来館者に安らぎと癒しの空間として親しまれている。深沢家から盛岡市に寄贈された野の花の水彩画200点を中心に、サムホールから100号までの油彩画を季節に応じて、いろいろなテーマで企画展を開催する深沢紅子野の花美術館の前を通る。

城下町のたたずまいを色濃く残した街並。昔なつかしい望楼のある番屋、白壁と貼り瓦、格子戸の低い軒が続く商家ござ九などが建ち並ぶ。盛岡を代表する南部紫根染の店もある。中津川に面する裏側の土塀、土蔵は川岸の石垣とあいまって、盛岡を代表する景観の紺屋町界隈を散策。

中ノ橋のたもとに立つ、ルネッサンス風赤レンガの建物。明治44年(1911)に旧盛岡銀行本店として建てられた国の重要文化財で、現在も現役の銀行の岩手銀行中ノ橋支店を見学。

繁華街で食事を済ませて床に就く。

2日4:00レンタカーで出発、天候曇りのち晴れ、八幡平方面に向かう。

八幡平温泉と秋田県のトロコ温泉をつなぐ約27kmの道路。アオモリトドマツの樹海や岩手山、高山植物の群生など、雄大な風景が見られる八幡平アスピーテラインを走行。

八幡平温泉内で岩手山などを望むビューポイント。一周約1時間30分の遊歩道があり、ギンリョウソウ、ワタスゲ、ミズバショウなどの湿生植物が見られる。御在所沼や、湖面の色が変化することから五色沼と呼ばれる赤沼もある御在所園地を散策する。

茶臼岳と源太森の間にある湿地。木道があり、片道20分で、軽装でも回ることができる。ミズバショウ、ミツガシワなどの植物が見られる黒谷地湿地を散策する。

八幡平山頂に到達。岩手、秋田の両県にまたがる標高1400〜1600mの八幡平は、山頂まで軽装で登れる。ガマ沼、八幡沼などの火口湖が点在し、穏やかな高原風景が展開する。南に展望が開け、岩手山、秋田駒ケ岳が見渡せる。バス停から山頂・八幡沼・八幡平三大展望といわれる源太森を巡る遊歩道を散策する。

断層によって生まれた窪地に水がたまってできた断層湖。周辺の湿原は高山植物の宝庫で、一周30分の遊歩道も整備されている大沼の周囲を散策する。

後生掛温泉の玄関前から火山活動の博物館のようである。紺屋地獄と,おなめ・もとめ(妾・本妻)という湯元がある。これは一方が蒸気,もう一方が熱湯を噴出している。さらに登っていくとしゃくなげ茶屋があり,水と湯が半分ずつの大湯沼と泥火山とに向かって道が二手に別れている後生掛自然研究路を散策する。

東に戻って八幡平アスピーテラインの見返峠から松川温泉まで延びる約15kmの道路。ブナ、カエデの美しい木立が続く。途中には木々の間から水が流れる涼風の滝や、高温の源泉が湧きだす太古の息吹がある八幡平樹海ラインを走行。

1966年(昭和41)に日本初の地熱発電所として運転を開始。高さ46m、直径45mの巨大な冷却塔から白い蒸気がたちのぼる。松川地熱館では発電の仕組みを解説する松川地熱発電所を訪れる。

ブナ、ナラ、カエデ、モミジなどの落葉樹が多く、新緑から紅葉まで美しい自然が楽しめる松川渓谷を散策。

岩手山北東斜面の標高1200m付近に、幅1.5km・長さ約4kmにわたって広がる熔岩流。一帯には熔岩流観察路が整備され、間近で見ることができる。ゴツゴツとした黒い岩は、江戸時代の噴火で流れ出したマグマが冷えて固まったもの。噴火の激しさを物語っている。保存状態がよく、当時の噴火時間の記録が残るなど学術的にも貴重。国の特別天然記念物に指定されている焼走り熔岩流を散策。

安比方面に向かう。
総面積100haの広大な敷地を持ち酪農を中心とした生産牧場としての一面とアスレチックやファミリーひろば等、観光牧場としての一面を持つ総合牧場です。のんびりとを食む牛や馬を眺めながら様々なプレイスポットが点在し、新鮮な生乳から作られた美味しい牛乳やチーズを楽しむこともできる安比高原牧場を散策する。

安比ゴンドラに乗車しゴンドラ山頂駅からは遊歩道に沿って標高1,305mの前森山山頂へ。気軽にトレッキング気分を味わ、山頂からは眼下に広がるブナの二次林や岩手山・八幡平・七時雨山・姫神山などの大パノラマを楽しむ。

南下して雫石方面に向かう。
以前冬のスキーシーズンに訪れたことのある網張スキー場に到達、夏のスキー場の風景を楽しむ。

ブナ原生林を擁し、変化に富んだ渓流からのダイナミックな流れと、玄武の大岩屋の景観が多くの人を惹きつける。秋にはブナの黄色にモミジやウルシの赤が織り交ざった美しい紅葉が見られる葛根田渓流を散策する。


岩手県にある日本最大の民間総合農場である。盛岡市から西北約12kmに位置し、岩手山南麓に約3,000ヘクタール(900万坪)の広大な敷地面積を誇り、その敷地の3分の2が雫石町に属し、残り3分の1は滝沢村に属する小岩井農場を散策する。

小岩井農場内にある。酪農発祥地の上丸牛舎構内に、歴史と酪農技術を中心とした現在の事業紹介の場として開設された展示資料館を見学。

盛岡郊外に向かう。
盛岡出身者や盛岡にゆかりの深い、政治・産業・学術・芸術など各分野で活躍した130人の遺品や資料を展示。新渡戸稲造、米内光政、金田一京助などの偉業を紹介する盛岡市先人記念館を見学。

大正時代、日本最初の本格的政党内閣を組織。平民宰相と呼ばれた、盛岡市出身の原敬の遺品や書簡などの資料を展示する記念館。生家が保存され、鎌倉の腰越別荘の書斎も移築・復元されている原敬記念館を見学。

標高343mの岩山の山頂にある。盛岡市街や北奥羽連山を一望でき、昼も夜も絶好のビューポイント。山頂周辺は啄木望郷の丘として整備され、啄木詩の道には啄木の詩碑が10基ある岩山展望台を訪れる。

岩山山頂の展望台周辺に広がる、文学ファンや市民に親しまれている公園。昭和57年に石川啄木の没後70年を記念して建てられた啄木の銅像と、啄木・節子夫妻の歌碑がある。また、啄木生誕111年を記念して平成9年に設けられた啄木詩の道は、約200mの散歩道に「ふるさとの山に向かひて言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」など、一首ずつ自然石に刻んだ詩碑が10基が配されている啄木望郷の丘を散策する。

羅漢堂に安置されている五百羅漢はすべて木彫りの漆塗。1731年(享保16)から、京都の仏師9人により4年の歳月をかけて造られたといわれる。マルコポーロやフビライといわれる像もある報恩寺を訪れる。

境内にある巨岩には鬼の手形が残り、鬼が二度とこの地には来ないと誓ったという伝説が残る。3つの岩は岩手山噴火の際に飛んできたともいわれ、残った手形から岩手、二度と来ないと誓ったことから盛岡を別名不来方こずかたと呼ぶようになり、さらに鬼が来なくなって村民が喜び、踊ったのがさんさ踊りの始まりだとされている三ツ石神社を訪れる。

花巻空港に向かう。

17:30花巻空港到達
19:00花巻空港出発
20:30伊丹空港到達。

今回の旅行、中津川、北上川、雫石川が流れ込む水の都、川沿いには四季折々に情緒あふれる風景が広がり又盛岡冷麺、じゃじゃ麺、わんこそばの3大麺で有名な盛岡タウン。

岩手と秋田の両県のまたがる広大な火山台地・八幡平、国定公園に指定される台地には湿原や湖沼群が点在し、四季ごとにスケールの大きい美しさを見せ付けてくれる八幡平のドライブ観光。

自然と歴史ある建造物の多い岩手県観光堪能いたしました。

当日曇りで天候は芳しくなかったですが比較的低い雲が多く、1000mを越える山頂では雲が下に存在し、八幡平、安比高原からの360度のパノラマ眺望を十分楽しむことが出来ました。

安比高原と網張り高原は冬のスキーシーズンには訪れたことがありましたが、夏の全く違った風景を楽しめたことに、四季折々にいろんな楽しみ方が出来ることを痛感しました。















和歌山県紀の川沿い史跡巡り
2009年7月29日


今回は近場の和歌山県、県都和歌山市を中心とする紀北エリアの紀ノ川沿いと世界遺産に登録された高野参詣の表参道、高野山麓の史跡に足を運びました。

12:30車で近畿自動車道経由して橋本方面に向かう。

13:45戦国武将真田昌幸・幸村親子が、関ケ原の戦いで破れたのち隠棲した寺。正式には善名称院。境内には昌幸の墓や供養塔がある。真田宝物資料館では書状や刀の下げ緒用の真田紐などを展示する善名称院(真田庵)を訪れる。

816年(弘仁7)に弘法大師が高野山開山のために雨引山麓に政所(寺務所)として建立した古刹。高野山表参道の入口にあり、宿泊所も兼ねていた。開山当時は、女人の高野参りはここまでで、大師を訪れた母親もここで逗留。そのため、大師は月に9度下山し、そのことから九度山の地名が付いた。境内にある弥勒堂(重要文化財)は、母親没後、信仰を寄せていた本尊の弥勒仏坐像(国宝)を安置して大師の母の「御廟所」とした。4方3間、宝形造、檜皮葺の堂で、平安時代末期の堂宇建築の特徴を残す。また女人高野ともよばれ、現在も安産、育児などへの信仰が厚い慈尊院を訪れる。

弘法大師によって慈尊院とともに創建された古社。地主神の丹生都比売大神の御子・高野御子大神(狩場明神)が猟師の姿で現れ、従えていた2頭の犬を放たれ大師を高野山に導いたことから祭られた。また、朝廷(国)から免税などの特権のある官省符を下賜されたと伝わる。1541年(天文10)に再建された本殿は3棟からなり、国の重要文化財に指定されている丹生官省符神社を訪れる。

勝利寺の隣にある九度山町の町立施設。弘法大師直伝といわれる高野紙(古沢紙)の紙漉き技法を体験できる紙遊苑を訪れる。

今から千七百年前に創建されたと伝えられる古社で、丹生都比売大神を祀る全国180余社の総本社。元寇の時に幕府がこの神社に祈願をかけ、大風が吹き国難を救ったことから紀伊國の一の宮となった。弘法大師はこの神社から社地を借受けて千二百年前に高野山を開山し、それ以来真言密教の守護神としても知られる。壮麗な彫刻と彩色が施された本殿四殿は、春日造りで最大の規模を誇り、楼門とともに国の重要文化財。鏡池に架かる朱塗りの太鼓橋は、標高450mの天野盆地の里山の風景に溶けこみ四季折々に美しい丹生都比売神社を訪れる。

西に向かう。

1804年(文化元)、西洋医学に先立ち全身麻酔による乳ガン手術に成功した華岡青洲。マンダラゲの花から採った麻酔薬通仙散の開発に、母・於継と妻・加恵を人体実験に用いたことは有名。その青洲ゆかりの地に、青洲の住居や墓所、薬草園が集まっている青洲の里を散策する。

青洲の里にある、華岡青洲の住居兼診療所、医学校を修理復元した施設。手術室と薬調合室のある母屋をとり囲むように、門下生住居棟、病棟、米倉などがあり、人形、音声、画像で当時の医療にとり組む真剣さを伝えている春林軒を訪れる。

青洲の里にあり、建物は建築家・黒川紀章氏の設計によるもの。内部には華岡青洲が使った手術道具や華岡流医学の貴重な資料を展示した展示室、地元でとれた旬の食材を使ったヘルシー料理が楽しめる「レストラン華」、米粉を使ったパンを製造販売する「ヒルベーカリー」がある。南側斜面には薬草園や花壇があり散策もできるフラワーヒルミュージアムを訪れる。

770年(宝亀元)に創建され、『枕草子』にも登場する古刹。正式には風猛山粉河寺。粉河観音宗の総本山で西国三十三カ所第3番札所として名高い。最盛期には七堂伽藍、塔頭550坊、寺領四万石を有し、高野山、根来寺に次ぐ勢力を誇ったが、秀吉の紀州攻めの際に諸堂を焼失。江戸時代に再建された。大門、中門、本堂、千手堂(いずれも重要文化財)などがたたずむ粉河寺を散策する。

高低差を利用して、庭園越しに本堂を仰ぎ見るように造られた石庭。桃山時代の枯山水観賞式蓬莱庭園、上田宗固の作庭ともいわれる。ソテツ、サツキ、ビャクシン、枝垂れ桜などが植え込まれ、紀州石で枯滝や鶴亀の島を表現している粉河寺庭園を訪れる。

粉河寺境内奥に立つ寺院。1800年(寛政12)、紀州徳川家10代藩主・治宝により建立。東大寺の覚峯上人が、地中から堂塔の四方に吊り下げる宝鐸を得た地といわれることでも知られる。武家屋敷風の庫裏には、治宝直筆の書や道具類を展示。和泉山脈を借景にした枯山水の庭園もある十禅律院を訪れる。

高野山の座主となる覚鑁上人(興教大師)が1126年(大治元)、この地に鎮守の祠と僧房を建てたのがはじまり。のちに、高野山内衆徒との教義上の対立などから高野山を追われ、根来で新義真言宗総本山の基礎を築く。1288年(正応元)に一乗山大伝法院根来寺となり、室町時代末期には領地七十二万石、寺院数2700を数え、その後鉄砲隊を持つ根来衆は数万にまで隆盛を極めた。1585年(天正13)、秀吉の根来攻めでほとんどを焼失し、大塔(国宝)と大師堂(重要文化財)以外の建物は、江戸時代に復興したもの。境内には、種子島から鉄砲を伝えた杉坊の住坊跡といわれる愛染院などの塔頭が立つ。枝垂れ桜など、桜の名所としても有名な根来寺を散策する。

本坊の池庭と平庭、聖天堂南面の聖天池の3カ所が国の名勝に指定。本坊の池庭は洗練された池泉式蓬莱庭園[ちせんしきほうらいていえん]。斜面を利用して滝口の石組に3段の滝を落とし、池には蓮莱島を浮かべて自然石の石橋を渡している。平庭は三尊石の石組みの美しい枯山水庭園で、池庭とともに江戸時代の作庭。また聖天池は浄土池ともよばれ、根来寺開創当時の最も古い庭。中島には当初の石組が残る根来寺名勝庭園を訪れる。

1547年(天文16)に67年の歳月をかけ真言密教の教義を形にして建立された、根来寺の中心的堂宇。高さ40m、五間の木造多宝塔は国内最大級。円形の堂内には胎蔵界大日如来像を囲んで、四仏四菩薩などの像が配されている大塔(多宝塔)を訪れる。

根来寺の大塔とともに根来攻めの兵火から逃れた堂宇。1391年(明徳2)に建立されたと伝わる、中世伽藍建築のなかでも南北朝時代の遺構として貴重な建物。堂内には名前の由来となった真言宗開祖・弘法大師(空海)像を祭り、須弥壇とともに国の重要文化財の大師堂を訪れる。

加太方面に向かう。

医薬の祖神と伝えられる少彦名命を祭り、安産・子授け・婦人病などに霊験あらたかという。またスクナヒコナノミコトは雛祭りの語源といわれ、社を移した日が3月3日だったので雛祭りの日になったとされる。宝物殿では、紀州徳川家から奉納された雛人形や遊具を展示している淡嶋神社を訪れる。

瀬戸内海国立公園に浮かぶ沖ノ島、地ノ島、神島、虎島の4つの島々の総称。無人島で明治時代から第2次世界大戦終戦時までの砲台跡がいくつか残る。沖ノ島へは船で渡ることができ、ハイキングやキャンプ、磯遊び、魚釣り、史跡巡りなどが楽しめる友ケ島を加太港から眺望する。

17:30終了。
18:00加太駅付近で食事を済ませる。
19:00出発、解散。

今回の史跡巡り、近場の和歌山の紀北エリアの紀ノ川沿いの史跡巡り、特に高野山麓の慈尊院周囲は世界遺産に登録された高野参詣の表参道であり、綺麗に整備され無料の駐車場もあちこちに配置しており訪れやすく観光しやすいように出来上がっていました。

世界遺産の高野街道の出発地点、慈尊院からの高野山町石道を見渡すと、ここから歩いて世界遺産の高野街道の全工程をチャレンジしてみたい気分になりますね。








三重県宮川カヌー
2009年7月26日


本州有数の降水量を誇る大台ケ原を水源に持ち、その豊かな水量と綺麗な水により、伊勢神宮の神域に入る前の禊の川として古来から親しまれ、名前の由来は宮(神宮)川の三重県の宮川にカヌーで川くだりしてきました。

8:00大阪駅集合出発、車で名神新名神伊勢自動車道経由して勢和多気インター下車。

10:30スタート地点宮川中川大橋到達、準備して食事を済ませてから

12:30スタート、緩やかな川、数箇所の1級の瀬を乗り越えて下流、伊勢方面に下る。
不思議なことに下流に向かうに連れて水の綺麗さが増していきました。
他の川では考えられないことです。

16:30、8km4時間でゴール地点宮リバー度会パーク到達、あとかたずけして

17:30出発

18:00玉城ふれやい宿の温泉に浸かる

19:00出発、途中サービスエリで食事を済ませる。

21:30大阪駅到達、解散。

今回のカヌーイベント、三重県の宮川は3回目のチャレンジで、過去2回下ったコースより下流を下りました。上流より水の綺麗さが増したのは感動しました。

天候晴れ、前日までの降雨で絶好の川下り日和、360°自然一杯の風景を見ながらのカヌー、リフレッシュでき満喫しました。




滋賀県近江八幡史跡巡り
2009年7月25日


今回は近場の滋賀県、16世紀に豊臣秀次が築いた八幡山城の城下町として開かれ、その後、商業都市へと発展した近江八幡、織田信長の歴史ロマンを語る安土に足を運びました。

12:30車で名神自動車道経由して滋賀県近江八幡方面に向かう。
14:00近江八幡到達。

城の防御のため、八幡山を囲むように築かれた堀。琵琶湖水運にも利用されていた。両岸には今でも白壁土蔵や旧家が立ち並び、当時の面影を色濃く残している。重要伝統的建造物群保存地区、重要文化的景観地区に選定する八幡堀を散策する。

991年(正暦2)に宇佐八幡宮を勧請して以来、近江商人の信仰を集めてきた古社。エノキやムク、杉などの古木が生い茂る境内には、どっしりとした拝殿や本殿が静かに佇んでいる。社宝の安南渡海船額(重要文化財)は、安南(ベトナム)貿易で活躍した豪商・西村太郎右衛門が1647年(正保4)に奉納したもの。1636年(寛永13)に出された鎖国令で帰国できなくなり、望郷と鎖国解禁の思いを込めて自らの姿を描かせた。絵馬殿で複製を拝観できる日牟禮八幡宮を訪れる。

八幡山城趾にある日蓮宗唯一の門跡寺院。豊臣秀次の菩提を弔うために生母・日秀尼が創建したもので、当初は京都にあった。境内からは近江八幡市街や琵琶湖を一望することができる。石で妙法と書かれた庭や、八幡山城時代の石垣などが山門の左右にある。山頂までは八幡山ロープウェイを利用して到達できる瑞龍寺を訪れ八幡山城趾を散策する。

江戸時代からの地場産業である八幡瓦。かつて、八幡堀には数十軒の瓦工場が軒を連ねたという。八幡瓦を中心に、日本各地や世界の瓦を展示。風土に適した瓦の美しさなどを紹介しているかわらミュージアムを見学。

近江八幡の町は、1585年(天正13)に豊臣秀次が開いた八幡山城の城下町として築かれたのが始まり。八幡掘をはさんだ北側が武士の居住地域、南側は町人の町。町人が住む地域はさらに西が商業地域、東北が職人地域に分けられた。現在の新町通りはかつての商業地域。畳表などを扱う豪商の邸宅だった、旧西川家住宅などが公開。邸宅には卯建があがり、家並みの塀越しに松がのぞくなど、情緒ある風景が続く。重要伝統的建造物群保存地区に選定する新町通りを散策する。

メンソレータム(現メンターム)で知られる、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の記念館。1905年(明治38)、キリスト教伝道のため来日。英語教師として近江八幡に赴任し、その後全国で教会や学校、ホテルなど1600件にものぼる建物を設計。医療や教育、社会事業などの幅広い分野で活躍した。記念館はヴォーリズ氏の木造2階建ての自邸を公開したもので、内部には愛用したピアノや資料を展示。広い居間や応接室のほか、畳の和室もあり、氏の住宅建築観もうかがえるヴォーリズ記念館を訪れる。

健康長寿のご利益があるといわれる、西国三十三カ所第31番札所。長命寺山の中腹に立つ。聖徳太子の創建とされ、山を登ると本堂(重要文化財)や護摩堂(重要文化財)、三重塔(重要文化財)などの諸堂が並び、本堂には本尊の千手観音立像が祀られている。境内からは琵琶湖が一望できる長命寺を訪れる。

中世ヨーロッパの教会建築を思わせる外観。吹き抜け部分は安土城の天主をモデルに設計された。弥生時代から戦国時代にかけての出土品、安土城の復元模型、信長に関する歴史資料などを展示している滋賀県立安土城考古博物館を見学。

織田信長の居城。安土山に1576年(天正4)に築城を開始し、1579年(天正7)に信長が入城した。外観5層内部7階(地上6階地下1階)の華麗な天主をもっていたとされる城は、本能寺の変の数日後、完成からわずか3年で焼失。今は石垣が残るのみの安土城跡を訪れる。

聖徳太子が建立したと伝わる古刹。平安時代になると、万事吉祥縁結びの祈祷道場として広く信仰を集めた。参道の石段が険しいことで知られ、西国三十三カ所の中でも最大の難所といわれてきたが、現在は車で山頂近くまで行ける。1993年(平成5)に本堂・本尊が焼失し、2004年(平成16)落慶。インド政府の特別許可で輸入した白檀香木で造立した、丈六千手観音座像が現在の本尊だ。寺の奥には、戦国武将佐々木六角氏の居城・観音寺城跡がある観音正寺を訪れる。

18:00近江八幡駅到達、駅付近の居酒屋で食事を取る。
19:30出発
21:00解散。

今回は近場滋賀県の織田信長居城の安土城跡、16世紀豊臣秀次が築いた八幡山城の城下町として開かれ、商業都市として発展し江戸時代以前の風情が残る碁盤目状の町並みが国の重要伝統的建物保存地区に選ばれた近江八幡を訪れ歴史文化学習できました。

滋賀県は有名な琵琶湖、延暦寺だけでなく、湖東、湖西、琵琶湖周囲にはたくさんの歴史的建造物、史跡が目白押しです。これから徐々に攻めて行きたいと思います。





大阪府南河内史跡巡り
2009年7月22日


今回は大阪府南河内の寺院、大阪府で最も高い1125mの山、金剛山、多数の滝が点在する滝畑周辺に足を運びました。

12:30車で南河内方面に向かう。

寺伝によると弘仁12年(821)に弘法大師の開基と伝わる。本尊の不動明王と二童子立像は重要文化財に指定されている。眼病、厄除にご利益があるといわれる瀧谷不動(明王寺)を訪れる。

役行者が開き、弘法大師が再興したといわれる寺。金堂は室町初期の建立で、国宝指定。本尊の如意輪観音も国宝だ。梅・桜をはじめ、ツツジ・モミジ・椿など四季各々の花木が美しい花の寺としても有名な観心寺を訪れる。

1125mの大阪府の山で最も高く、また、山頂手前までロープウェイが通じているので、気軽に登山やハイキング、キャンプを楽しめる金剛山をロープウエイで登り散策する。

世界各地の花が楽しめる大温室、日本有数のボタン園、160品種2300株のバラ園など、広大なスペースに花と緑があふれる。花に関する企画展示や体験講座も多数開催している大阪府立花の文化園に寄る。

聖武天皇の勅願により行基が開基。後白河法皇の妹、八条女院が弘法大師像を安置し、女性が仏縁を結ぶ霊場として女人高野と呼ばれる。宝物館には仏教美術品を奉納。周辺は天野山森林公園でハイキング途中の参拝客も多い金剛寺を訪れる。

光滝・大滝・御光滝・権現滝など、多数の滝が点在する滝畑周辺は、昔から滝畑四十八滝として知られるキャンプ場を散策する。

戦国時代の1559年(永禄2)ごろ、京都の興正寺が別院を建立したことから、近隣の有力者が中心となって町づくりがはじまった。江戸時代には幕府直轄地となり、商業の町として発展。特に酒造業が盛んで、1668年(寛文8)の記録では、51職種149店もの店が並んだという。重要伝統的建造物群保存地区に指定された富田林寺内町を訪れる。

古市の駅の近くで食事を済ませて
18:00終了。

今回の近場の史跡巡り、南河内の由緒ある寺院と大阪で最も高い山、金剛山、滝畑エリアの数箇所の滝を訪れ終了いたしました。

近場の史跡巡り、まだまだ訪れてない史跡、たくさんあります。
徐々に攻めていきたいと思います。




飛行機で国内&海外の観光地巡り第六十七弾:北海道旭川&天売島&焼尻島&富良野観光
2009年7月18−20日


今回は北海道第二の都市旭川、100万羽の海鳥が生息する天売島、オンコの森と一面の牧草が大地を覆う焼尻島、広大なラベンダー畑で有名な富良野・美瑛、自然が繰り成す大迫力の景観、大雪山麓の層雲峡に足を運びました。

18日15:00神戸空港から出発
16:55新千歳空港到達、レンタカーで道央自動車道経由して旭川方面に向かう。
19:00旭川到達、市街地を散策して食事を済ませてから床に就く。
19日4:00レンタカーで出発、羽幌方面に向かう。天候曇りのち雨
途中、留萌のかつてニシンの見張り台でもあった岬は、夕陽に映し出されたニシンの群がきらきらと黄金色に輝きながら岸をめがけて押し寄せたことから呼ばれた黄金岬を訪れる。

日本海岸線沿いを北上し 日本最北端の国指定重要文化財、平成13年には北海道遺産にも認定され、明治38年頃に建築され、道内で現存する番屋では最大の規模を有し、当時雇い人が200人を超えた大鰊漁家。道の駅を併設し、年間を通じて公開されている旧花田家番屋を訪れる。

約3500uのバラ園と約7000uの芝生からなる広々とした開放的な空間。北方系も含め300種類以上、約2000株の花々が6月から9月まで咲き誇るはぼろバラ園を散策する。

道北西海岸の地平線と水平線を堪能でき、日本とは思えない光景を感じさせてくれる場所。遠く浮かぶ利尻富士をを染めながら落ちる夕陽を求め毎年訪れる人がいるみさき台公園を散策する。

道の駅富士見裏に広がる、41ヘクタールの敷地を持つ公園です。キャンプ場やバーベキューハウス、野外ステージ、遊歩道が整備されているほか、特色ある3コースが自慢のパークゴルフ場もあり、アウトドアレジャーを楽しむことができる富士見ヶ丘公園を散策する。

8:00羽幌港から高速艇で天売島に向かう。
9:00天売島到達、レンタカーで島巡り。
北海道留萌管内苫前郡羽幌町にある羽幌港の西30kmの日本海に浮かぶ。島の東側に並んで浮かぶ焼尻島とともに羽幌町に属している。面積5.50km2、人口は398人の天売島。

多数のオロロン鳥の繁殖地であった天売島。そのシンボル・赤岩は、海中から突き上げる鋭い矢尻の形をした、海抜48メートルの垂直岩です。周辺は赤岩の展望台として整備され、赤岩を望む険しいルートは階段に取り付けられ、赤岩が間近に迫る展望台から海鳥観察ができます。赤岩の展望台一帯の斜面は直径20センチほどの穴を掘って巣を作るウトウや草地に営巣するウミネコの繁殖地で、5〜7月には海鳥たちの子育てが間近で観察できるチャンスがある赤岩展望台を訪れる。

島の最高点に近接していて、西海岸の壮大な断崖絶壁群のスタート地点であり、海鳥繁殖地の中心ポイントに設けられています。海鳥の繁殖期は4月から8月までるシーズン中、観察舎内に設置つれている50倍の無料望遠鏡を覗くと断崖の岩棚ではウミウの子育て、海岸にちりばめられた岩礁で遊ぶ赤い足をしたケイマフリなどを見ることができる海鳥観察舎を訪れる。

断崖絶壁の終点が観音岬展望台で海鳥の繁殖地の終点でもあります。島内きってのウミネコの繁殖地で、カモメが空を覆い尽くすその数の多さと鳴き声に圧倒される百数十メートルの断崖絶壁群を恐々覗く観音岬展望台を訪れる。

最新情報がつまった天売島ウォッチングの拠点施設、海鳥だけでなく花や渡り鳥などの最新情報の天売島海鳥情報センター、海の宇宙館を見学。

10:30天売港フェリーで出発、焼尻島に向かう。
11:00焼尻島到達、観光ハイヤーで島巡り。

百年の計をたて、森を譲った焼尻人の先人たち。空を覆う自然林と、野鳥、野生の花の宝庫の焼尻島。

848年(嘉永元年)米国捕鯨船の船員ラナルド・マグドナルド(24歳)が鷹巣付近に漂着しました。その後単独で利尻島に渡り、松前藩に引き渡されます。松前藩から長崎に引き渡され、密入国者として監獄生活を送りながら役人に英語を教え、7ヶ月後に本国へ帰されます。英語を習った役人は、後の黒船来航の折りには通訳として活躍しました。日本初の英語教師のマクドナルドの漂流地を訪れる。

島の西南部の岬に広がる草原で、さえぎるものは何もない開放的な空間です。目の前には武蔵水道を挟んで約4キロ離れた天売島、東は手塩山系が連なり、南に暑寒別岳と雄冬岬の海岸線が走っています。そして北は、利尻島が陽炎のように水平線に揺れるなど、北の海全体が見通すことができる鷹の巣園地を訪れる。

道指定有形文化財の旧小納家をそっくり焼尻郷土館として解放しています。明治33年の建造で、外観はモダンな洋風の木造建築が見事です。小納家は石川県出身で、漁業、呉服、雑貨商などを営み、郵便・電信局の許可を受けていました。展示物には小納家の家具や生活用品の他、当時の逓信機器などが残されている焼尻郷土館を見学。

焼尻島の森は本道の森とは趣を異にしています。一部の樹木は天高く延びずに、上から押しつぶされたように得たが横に広がった匍伏型樹形や風圧に押されたように風下に傾いたまま成長した風衝型樹木。希有性森林相と言うのだそうで、この自然の力を素直に受け入れた樹木はミズナラやイチイに多く見られます。大陸からの強く激しい季節風や、雪の重みによるものだといわれ、森が深いために、若木は陽光を求めて木漏れ日を探しながら成長したためだと言われています。特に普通だと高さ15メートルに成長するオンコ(イチイ)が焼尻島のオンコの荘は高さわずか1メートル、その枝の広がりは直径10メートルを超える末広がりの巨木ぞろいなのオンコの荘を散策する。

13:10高速艇で焼尻島出発
14:10羽幌港到達、レンタカーで旭川に向かう。
17:00旭川到達、市街地を散策して食事を済ませて床に就く。

20日4:00出発、天候晴れ、層雲峡方面に向かう。
石狩川の上流、24kmに渡り柱状節理の断崖絶壁が続く渓谷。雪渓からは多くの滝が流れ落ち、周囲の原生林とともに見事な景観を見せている。かつてアイヌ語でソウウンベツ(滝の多い川の意)と呼ばれていたことから、1921年(大正10)、評論家・随筆家の大町桂月によってなずけられた層雲峡を訪れる。

温泉街から大函・小函へ行く途中にある滝で、流星の滝は約90mの落差を激しく流れ落ち、銀河の滝は120mの落差を水が白糸のように穏やかに落ちる様子から、男滝・女滝とも呼ばれている2つの滝を訪れる。

銀河・流星の滝から約2kmの所に柱状節理の岩が作り出す約160mの高さにまで及ぶ大迫力の絶壁が続く小函があります。小函からさらに2.5km進むと柱状節理でもより巨大な岩の断崖が続く大函があり、地球的規模の自然が創り出す圧巻の光景をまのあたりにすことができます。

標高1984m。5合目までロープウェイで7分、さらに7合目まではペアリフトで約15分で上がることができ、6月中旬〜8月には目の前に花畑が広がる黒岳を訪れる。

大雪山西方に向かう。
天津岩、涙岩、七福岩などさまざまな形の忠別川が造った柱状節理の断崖絶壁が続く渓谷、天人峡を訪れる。

天人峡の温泉街から忠別川の上流に向かい、探勝路を600mほど歩くと見えてくる天人峡最大のみどころ。落差は270mと北海道第一位を誇り、日本の滝百選にも選ばれている。断崖を7段にわたって岩肌をつたい落ちる繊細できめ細かい滝の流れは、その名の通り天女の羽衣を連想させる羽衣の滝を訪れる。

標高2291m。大雪山連峰の主峰で、北海道最高峰。高緯度にあるため本州の3000m級の環境があり、天女ケ原の湿原特有の植物、姿見の池やその周辺に咲く40数種類の高山植物などが観賞できる。日本では大雪山系だけにいるウスバキチョウ(天然記念物)、天然記念物に指定されている6種類の高山蝶、エゾナキウサギやエゾシカなど、多くの昆虫や動物が生息している旭岳をロープウエイで登り散策する。

旭川方面に戻る。
動物を自由に見せる、独自の行動展示で全国から注目の動物園。トンネル型の通路から空を飛ぶように泳ぐペンギンを見ることができるぺんぎん館や、300kgの巨体がダイビングし泳ぎ回るほっきょくぐま館、水槽とつながった円柱水槽(マリンウェイ)をアザラシが自由自在に行き交うあざらし館、地上17mの空中散歩を見られるおらんうーたん館など人気の施設が多い。新施設オオカミの森もオープンした旭川市旭山動物園を訪れる。

富良野・美瑛方面に向かう。

国道237沿いの丘のうえにあり約3,000本のラベンダー・ひまわり・ポピーが咲き誇ります。か・香・遊ゼルブだそうです。丘の上の広い芝生で人生の骨休みできるゼルブの丘を散策する。

十勝岳を背にスッと立つポプラの木、何かとてもかっこいいですね、スカイラインのCMで使われたことで有名なケンとメリーの木を訪れる。

1977年(昭和52)、日本たばこのマイルドセブンのCMに使われた丘。豊かな黒土に新緑のアクセントが美しい春、紫色のラベンダーや白いジャガイモの花が咲き誇る夏、黄金色の小麦が揺れる実りの秋、丘一面が白一色に染まる冬。四季折々に表情を変える丘の風景は、まるで生きている絵画のよう。防風林に沈む夕陽も美しく、人気のシャッターポイントになっているマイルドセブンの丘を散策する。

美瑛の丘を見下ろす高台にあり、その2階からは視界を遮るものがない絶景の風景を眺められる。天候に恵まれれば大雪山連邦や、北側には水沢ダムも望める千代田の丘 見晴台を散策する。

小学校の校舎を再利用し、風景写真家・前田真三の作品が展示されているギャラリー。美瑛の美しい風景を日本中に知らせることとなった多くの作品をじっくりと鑑賞することができ、前田氏自身が撮影したハイビジョン映像も放映されている拓真館を見学。

大雪山系の眺望がすばらしく、東京ドームの約3倍の広さに春から秋まで数十種類の草花が見られる四季彩の丘を散策する。

総面積は15万m2で沿線最大規模の花畑。ラベンダーよりもジャーマンアイリスが有名なフラワーランドかみふらのを散策する。

人気ドラマ北の国からの貴重な資料を、歴史を感じさせる大きな倉庫を改装して展示しています。思い出のあのシーンが、鮮やかによみがえる北の国の資料館を見学。

富良野市の開基80周年を記念して造成したラベンダー園。3万4,000平方メートルにも渡って広がるラベンダーの花畑は、あまりの広大さにラベンダーの海と呼ばれているほどのハイランドふらのラベンダー園を散策する。

三笠方面に向かう。
別名化石の博物館とも言われ、天然記念物エゾミカサリュウ化石をはじめ、アンモナイト等1000点以上の展示物があります。また、北海道初の炭坑のまちとして栄えた歴史を刻んだ資料や、三笠の豊かな自然を知ることができる屋外博物館なども整備されている三笠市立博物館を見学。

道央自動車道経由して
18:00新千歳空港到達、食事を済ませてから
19:40新千歳空港出発
21:50関西国際空港到達。

今回の旅行、北海道の離島でまだ訪れていない100万羽の海鳥が生息する天売島、オンコの森と一面の牧草が大地を覆う焼尻島に足を運び、北海道の離島はすべて制覇しました。残念ながら当日天気が悪く、海が荒れ帰りの船便が欠航の恐れがあるため2島とも観光時間を短縮して巡り、予定より早く北海道本土の羽幌に戻りました。しかし運よく2島とも一周12kmの小さな島、レンタカー、観光ハイヤーを使って十分な名所巡りできました。

翌日は一転して天候がよくなり、絶好の観光日和、夜明けと共に出発し大雪山連峰を東と西とから攻め、高さ200mほどの断崖絶壁が連なる眺めは壮観の一言の層雲峡と2つの滝、西麓に抱かれる大雪山連峰の最高峰旭岳をロープウエイで登り、山頂からの360度の雄大な景色と群生する高山植物に目を向けて楽しめました。
又天人峡の日本の滝100選にも選ばれている落差270mの羽衣の滝は圧巻でした。

富良野・美瑛に向かい、いたるところにラベンダーを主とする広大は農園、お花畑の美しさはすばらしいものがありました。

2泊3日の北海道中央から北西のエリア、2つの離島を含めてドライブ観光旅行堪能しました。

北海道、本州と違って広大な平野、地平線を目の前にしてのドライブコース、そして険しい山脈、何回訪れても飽きのこないすばらしい景観を魅了させられます。
これからも頻繁に訪れてみたい北海道ドライブ観光旅行でした。


















大阪府能勢&箕面&池田史跡巡り
2009年7月15日


今回は近場の大阪北部の能勢の妙見山、箕面の箕面公園と滝、勝尾寺、池田の五月山公園に足を運びました。

12:30車で阪神自動車道経由して能勢妙見山に向かいました。
13:30標高660mの山頂には能勢の妙見さんと呼ばれ、親しまれる開運北辰妙見大菩薩がまつられている。かつては勝海舟や坂田三吉も参拝したという能勢妙見山を散策する。

箕面方面に向かう。
高野山真言宗に属する、西国三十三カ所第23番札所。本堂、多宝塔、荒神堂などが立ち並ぶ。名高い勝ちダルマは勝ち運をもたらすといい、試験・スポーツ・商売などで成功を願う人たちが多く訪れる勝尾寺を散策する。

日本の滝100選のひとつ。高さ33mの滝の周辺一帯は、明治の森箕面国定公園に指定されている。春の桜、秋の紅葉ともに美しい。野生猿を見かけることもある箕面の滝を散策する。

池田方面に向かう。
池田市の北西部、標高315mの五月山にある広大な自然公園。7つのハイキングコースやドライブウェイ、山頂付近の市民の森、日の丸展望台からは大阪平野が見渡せる五月山公園を散策する。

五月山公園にあり、ワラビーやアライグマなど80頭の小動物を飼育。なかでも有袋目のウォンバッドは、日本で初めて出産に成功した五月山動物園を見学。

五月山公園にあり、ツツジ・サツキ園、アジサイ園、芳香樹園、実のなる樹園で構成される。温室や花壇もある五月山緑地都市緑化植物園を散策する。

5世紀ごろ呉の国から渡来し、この地を訪れた呉服媛を祀る神社。昼夜をとおして布を織り続け、機織・裁縫の技術を日本に伝えた遺徳をたたえ、仁徳天皇の勅令で建てられたという。呉服という言葉は、呉服媛にちなんで絹布類を指す語として日本に定着したもの。形見の御神鏡を納めた姫室が残されている呉服神社を訪れる。

宝塚歌劇や歌舞伎など演劇・文芸を中心に、書籍雑誌約20万冊を収蔵。宝塚歌劇は公演ポスターをはじめ、雑誌『歌劇』やプログラムなどが創刊号から揃う。歌舞伎では、世界一を誇る江戸後期の上方役者絵、明治期の絵看板コレクションなどがある阪急学園池田文庫を見学。

室町時代から戦国時代にかけて、池田市域一帯を支配していた地方豪族・池田氏の居城、池田城跡を散策する。

17:00池田駅付近の居酒屋で食事を済ませて解散。

今回の車で関西の史跡巡り、大阪の北部の自然と文化史跡を巡りました。
以前に訪れたところもありましたが、特に箕面の滝は3回目です。
歴史的意味は浅くですが理解してからの、なかなか再度の訪れも違った観点からためになりました。



飛行機で国内&海外の観光地巡り第六十六弾:青森県下北半島&津軽半島観光
2009年7月11−12日


昨年に続いて3回目の訪れの青森県、今回は高野山、比叡山と共に日本三大霊場の一つされる恐山が位置する本州最北端の下北半島、青森市から松前街道、高野崎という景勝地を経て半島最北の竜飛崎に到達する津軽半島に足を運びました。

11日13:00JR東西線大阪城北詰駅下車、徒歩で元男爵の藤田傳三郎氏から2代にわたって集められた古美術品を鑑賞できる。世界に3つしかない曜変天目茶碗など、国宝9点、重要文化財50点、重要美術品2点を含む約5000点を収蔵する藤田美術館による。

桜ノ宮橋を越えて1871年(明治4)、アイルランド人技師・ウォートルスによって設計。大阪最古の洋風建築物で、国の重要文化財にも指定されている。もとは造幣局の応接所として建築。コロニアル様式の建物内には、シャンデリアや暖炉、化粧鏡など19世紀の優れた英国風室内装飾が施されている泉布観に寄る。

学問の神様で有名な、菅原道真を主祭神に祭る天満宮。受験シーズンには、合格祈願に多くの受験生が訪れる。度々の戦火に見舞われながらも、大阪町人の信仰と遊興の中心地として発展。日本三大祭の一つ天神祭りは、毎年7月に行われる大阪天満宮を訪れる。

日本一長い商店街。堂島川にかかる天神橋たもとの1丁目から北端の7丁目まで、総延長が約2.6km、800軒ほどの店が所狭しと立ち並ぶ大商店街、天神橋筋商店街を散策する。

毎年1月9〜11日に行なわれる十日戎が有名。ミナミの今宮と並び称され、祭礼の当日は数十万人の商売繁昌を願う人々で大混雑する。商売繁昌と福徳円満の神として、大阪人からえべっさんと慕われる神社、堀川戎神社を訪れる。

扇町通の南沿いに立つ真言宗の寺。821年(弘仁12)弘法大師による創建と伝わる。朝廷や武将からの信仰が厚く、かつては広大な寺域を所有していた。不動堂に安置されている不動明王は一願不動と呼ばれ、一願成就のご利益があるとされる。境内には芭蕉の句碑や、淀殿の墓という六重石塔がたたずんでいる太融寺を訪れる。

近松門左衛門の曽根崎心中で有名になった、お初天神。毎月第1・3金曜に開催される骨董市が人気だ。キタのビルの谷間にあり、多くの人が安らぎの場として訪れる。商売繁盛、交通安全、縁結びの社でもある露天神社(お初天神)を訪れる。

地下鉄新御堂筋線で本町下車、1694年(元禄7)5月中旬、江戸を発った松尾芭蕉は京や伊賀上野を経て、同年9月大坂に入ったが、体調を崩した。容態が悪化した10月5日に南御堂の門前にあったといわれる花屋仁左衛門宅に病床を移したが、10月12日夕刻に51歳の生涯を閉じた。今は御堂筋の緑地帯にその終焉地として碑が残されている。また、近くの南御堂境内には病床で詠んだ枯野の句碑がある芭蕉終焉地を訪れる。

反正天皇元年(406)の創建と伝えられ、仁徳天皇、素盞嗚尊、倉稲魂尊を祭る神社。文楽を広めた植村文楽軒の人形芝居を行ったという歴史をもち、境内には稲荷社文楽座跡の碑が立つ。樹齢400年以上という楠もあり、都会のオアシスとして親しまれている。また、博労町のおいなりさんとして親しまれる稲荷神社、金刀比羅神社も境内にある難波神社を訪れる。

地下鉄御堂筋線で新大阪駅下車、奈良時代の天平年間(729〜748)の創建といわれる。嘉吉の乱で将軍足利義教を殺した赤松満祐が、義教の首をこの寺へ葬った。その後、管領細川持賢が義教を弔うとともに細川家菩提寺として再興。また境内で起こった、大和郡山藩の遠城兄弟と生田伝八郎との果たし合い仇討崇禅寺馬場も有名だ。結果は、伝八朗の弟子たちに返り討ちにされたという。境内には主人公・遠城兄弟の墓、足利義教の首塚、細川ガラシャ夫人の墓がある崇禅寺を訪れる。

15:35新大阪駅出発、空港バスで伊丹空港に向かう。
16:05伊丹空港到達
17:10伊丹空港出発
18:45青森空港到達、レンタカーで青森市内に向かう。
19:30青森市内のホテル到達後、繁華街を散策して食事を済ませて床に就く。

12日5:00レンタカーで出発、天候晴れ、絶好の観光日和、下北半島に向かう。

高野山、比叡山と並ぶ日本三大霊場のひとつ。8つの外輪山と宇曽利山湖一帯を総称する名前。湖畔には、862年(貞観4)に慈覚大師が開いたという恐山菩提寺がある。一帯は、地獄谷や賽ノ河原などと呼ばれる白茶け、荒涼とした風景が広がる恐山を散策する。

下風呂漁港に隣接し、満潮時には海水が流れこむ人工池のある公園。中央に奇岩・二見岩があり、海上安全と大漁を祈願する恵比須様を祭った小さな祠と鳥居が立っている。園内には、小説海峡を執筆するために下風呂に滞在した井上靖の碑や、対岸の北海道を望む展望台がある海峡いさりび公園を散策する。

本州最北の町のさらに最北端の大間崎には、こゝ本州最北端の地と刻まれた碑や大間名物のマグロをかたどったモニュメントが立つ。晴れれば直線距離17.5kmの海峡をはさんだ函館の市街まで見え、フェリーで渡ることも可能な大間崎を訪れる。

約2kmにわたって、風雨と荒波で浸食された白緑色の凝灰岩が続く海岸。如来の首、五百羅漢、十三仏、蓮華岩などと名づけられ、恐山奥の院といわれている仏ケ浦を訪れる。

川内町の中央を流れる川内川は、下北半島で最も水量豊富な川。瀬や淵、滝など、変化に富んだ渓谷美が楽しめる川内川渓谷を散策する。

青森市を経由して津軽半島方面に向かう。
陸奥湾を一望できるランドマークタワー。108段のら旋階段を上ると、地上30mの展望スペースへ。1階は下北半島へのカーフェリーの乗船窓口トップマスを訪れる。

海抜40mの小高い丘に広がる緑豊かな公園で、陸奥湾の向うに下北半島、遠くは北海道まで望める。作家・太宰治も小説津軽執筆のために訪れ、山頂には太宰治文学碑が立つ。遊歩道が整備され、沿道には風の町をテーマに町が主催する川柳大賞の受賞作品が刻まれた石碑が立ち並ぶ観瀾山公園を散策する。

津軽国定公園に指定され、津軽半島随一の景勝地として知られる。切り立った断崖と岩礁が3kmにわたって続き、先端の高野崎には高野埼灯台が立つ。ここからは下北半島、龍飛崎、さらに北海道松前半島まで一望できる袰月海岸を通過。

源義経が津軽海峡から北海道へ逃れた伝説を伝える寺で、義経が祈りを捧げた観音像が安置されている。近くには海を静めるために座った厩石や、海神に捧げるために甲を沈めた甲岩などがある義経寺を訪れる。

バス停龍飛漁港から龍飛崎灯台までの総延長388.2mの道は、日本で唯一の階段状の国道。間違って、国道と記載されたものがそのまま残っている。段数は362段、階段国道を訪れる。

津軽半島の北端。太宰治が小説津軽でここは本州の袋小路だと表現した。岬には文学碑がある。徒歩5分の断崖の上には高さ13.7mの白亜の龍飛埼灯台が立つ龍飛岬を訪れる。

青森市方面に戻る。
1992年に発掘され、忽然と姿を現した日本最大級の縄文集落遺跡。出土品から遠方との交易が行われ、漆器などの技術者がいたことが推定されている。広大な土地に縄文前期から中期(約5500〜4000年前)の大型堅穴住居や高床倉庫を復元。クリの丸太を組んだ高さ14.7mの大型掘立柱建物などもある三内丸山遺跡を散策する。

18:00青森空港到達
18:50青森空港出発
20:25伊丹空港到達

今回の旅行、伊丹空港の出発便が17:10、比較的ゆっくりでしたので大阪市内の史跡を数箇所巡って時間を費やしてから青森に向かいました。

青森では北部に突き出た2つの大きな半島、下北半島と津軽半島をドライブ観光して両半島の最北端、下北半島の大間崎、津軽半島の竜飛崎を訪れ本州の2つの北端を制覇しました。

下北半島の高野山、比叡山とともに日本三大霊場の一つされ死者の霊が集まってくる場所といわれ、宇曽利山湖を望む火山性地形が独特の風景をもたらす恐山、約2kmにわたって奇岩怪石の風景が連なり、風雨や波浪が長い時間をかけて白緑色の凝灰石を削り上げた自然の造形美で、高さ90mを越える断崖は迫力満点の仏ヶ浦、世界的に貴重な発掘が見られる遺跡、住居なども復元して縄文遺跡公園に整備されている特別史跡三内丸山遺跡を訪れ、550kmをドライブ走行して自然、文化に接し堪能しました。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第六十五弾:岩手県平泉&釜石&遠野観光
2009年7月4−5日


今回は北海道に次いで日本では二番目の面積を持つ岩手県の世界遺産登録間近の平泉、陸中海岸南部の鉄の町、港町あふれる釜石、カッパ探しの旅に出かけようで有名で民話や伝説が残る町遠野に足を運びました。

4日14:30伊丹空港出発
15:55花巻空港到達、レンタカーで江刺方面に向かう。

奥州藤原氏第3代、藤原秀衡が過ごした豊田館近くに、平成5年の大河ドラマ炎立つロケのために建設された歴史公園。20ヘクタールの広大な敷地に国内唯一の寝殿造をはじめ平安時代の建築物を大小合わせて117棟が再現されており、まさに壮観。大河ドラマシリーズ、陰陽師などその後も多くのロケに使用されているえさし藤原の郷を散策する。

北上川の舟運に支えられ、交易の要衝として栄えてきた江刺市には、今でも100棟余りの土蔵が残る。白壁土蔵が集中する中町地区には、蔵を改装した黒壁ガラス館、蔵ギャラリーや飲食施設が軒を連ねる蔵まちモールがあり、歩行者専用道路も整備されている蔵の町江刺を散策する。

水沢方面に向かう。
水沢城主・留守氏に仕えた、内田家旧宅を中心とした施設。薬医門を表門に、主屋、塀重門、庭が残されている。敷地内の武家住宅資料センターでは、江戸時代の水沢城下の町並みが手にとるように分かる地図をはじめ、甲冑や火縄銃などの武具や生活道具を展示する奥州市武家住宅資料館を訪れる。

水沢出身の後藤新平(1857〜1929)は、東京市長、内務大臣、鉄道院総裁などを歴任し、大風呂敷の異名をとった政治家。後藤新平文書など、多くの資料を保存・展示する後藤新平記念館を訪れる。

斎藤實(1858〜1936)は昭和恐慌のなか、第31代内閣総理大臣に就任し、挙国一致内閣を組閣したが、2・26事件の凶弾に倒れた。生地に本人が建てた住居が保存、公開されている斎藤實記念館を訪れる。

水沢公園の一角にある記念館。幕末の蘭学者、高野長英(1804〜1850)の肖像画や夢物語、獄中で記した角筆詩文、鳥の鳴聲、高野長英の手紙などの遺品を展示。58点は国の重要文化財に指定されている高野長英記念館[水沢公園]を訪れる。

1348年(貞和4)、無底良韶禅師によって開創された曹洞宗の古刹。奥の正法寺の名で広く親しまれている。現在73カ寺の末寺を有し、その歴史と格式にふさわしい寺宝や伽藍を数多く保存。茅葺き屋根の本堂・庫裡・惣門の三棟は、国の重要文化財の奥の正法寺を訪れる。

水沢駅付近のホテル到着後水沢繁華街散策し食事を済ませてから床に就く。

5日6:00レンタカーで出発。天候曇りのち晴れ、時々小雨、平泉方面に向かう。

栗駒山を源とする磐井川両岸に、約2kmにわたって奇岩の連なる渓谷が続く。険しい灰色の岩と清流の織りなす川岸は、春は桜、初夏にはツツジ、秋は紅葉に彩られる。東屋では対岸から籠で運ばれてくる郭公だんごが味わえる厳美渓を散策。

原始から現代までを扱った一関のあゆみ、日本刀の源流舞草刀と刀剣、江戸時代の蘭学者大槻玄沢と蘭学、日本初の国語辞書編纂者大槻文彦と言海、江戸時代の数学一関と和算の5つの常設展示室からなり、それぞれ映像等を交えて紹介する一関市博物館に寄る。

安倍宗任の娘である藤原基衡の妻が建立したもの。境域は東西120m、南北約180mで西域に土塁の一部が残る。浄土庭園には大・小の阿弥陀堂が建っていたといわれている。現在ではその跡に発掘に基づいて舞鶴ケ池が復元され、芝生の広場が広がっている。池の東岸には鐘楼、普賢堂と伝えられる跡がある旧観自在王院庭園を散策する。

藤原秀衡が京都・宇治の平等院鳳凰堂にならって建てたという無量光院の跡。平等院よりも大きかったと言われるが、度重なる火災で消失してしまった無量光院跡を散策。ここから中尊寺へ向う前に4〜5分東へ道をそれると、秀衡の政庁であった平泉館跡(史跡)といわれる柳之御所跡を散策する。

藤原三代を中心とした平泉文化をはじめ、周辺市町村の歴史や文化を紹介。屋外には花立庵寺跡が公園化されており、そこから平泉の町並みが見渡せる平泉郷土館を見学。

850年(嘉祥3)に慈覚大師によって開かれた、天台宗の東北大本山。14世紀に金色堂と経蔵を残して焼失したが、その後さまざまな堂塔が再建されている。表参道の月見坂の入口で弁慶の墓と伝えられる五輪塔を見て、約1kmの坂を上る。中腹の東物見台からは、束稲山と北上川が一望。さらに鬱蒼と茂る杉木立の中に点在する堂塔を見るうちに金色堂に至る中尊寺を訪れる。

中尊寺月見坂入口から徒歩5分のところにある。1826年(文政9)の再建で、本尊の勝軍地蔵や弁慶衣川立往生の等身木像などがある弁慶堂(愛宕堂)を訪れる。

中尊寺月見坂入口から徒歩10分のところにある宝物館。平安時代の仏像や経典、藤原氏三代の棺と副葬品など、山内17カ院3000点余の国宝・重要文化財の多くを収蔵している讃衡蔵を訪れる。

中尊寺境内にある、藤原氏4代の廟所。1124年(天治元)、清衡と女性3人の建立と伝わる。鉄筋コンクリートの覆堂で保護された堂の内外は漆に金箔が押され、柱や須弥壇には金銀珠玉がちりばめられている。須弥壇の中には、中央に清衡、向かって左に基衡・右に秀衡の遺体を安置。秀衡の側に4代泰衡の首級を納める。壇上には本尊阿弥陀如来を中心に、黄金に輝く33体の仏像が安置されている金色堂を訪れる。

中尊寺東方には、藤原秀衡を頼って落ち延びた源義経の館があった場所。山頂の義経堂には、義経公の尊像が安置されている。芭蕉が夏草や兵共が夢の跡と詠んだ地でもあり、入口の階段を上った右側には芭蕉や曽良の句碑が立つ。眼下に弁慶が立往生した衣川、北上川も眺望できる高館義経堂を訪れる。

850年(嘉祥3)、中尊寺と同じく慈覚大師が開いた天台宗の別格本山。藤原基衡・秀衡の時代、金銀をちりばめ、紫檀、赤木をつぎ、万宝を尽くしたといわれる伽藍や堂塔40、僧坊500が建ち並んでいた。吾妻鏡に霊場の荘厳吾朝無双なりと記され、中尊寺をしのぐ華麗さを誇ったといわれるが、1226年(嘉禄2)の大火を初めとする相次ぐ兵火や野火で焼失。現在は再建された本堂や常行堂などが立つ毛越寺を散策する。

毛越寺境内にある宝物館。国の重要無形文化財に指定されている「延年の舞」に使われる道具、支院の仏像などの宝物を収蔵・展示している宝物館を見学。

毛越寺一山の根本道場。平安様式の建物で、1989年(平成元)に再建された。本尊は平安時代作の薬師如来。両脇には日光・月光菩薩、さらにその周りには本尊を守護する四天王が安置されている本堂を訪れる。

毛越寺境内に2代藤原基衡が造園した、日本最古の浄土庭園。州浜や築山、出島石組と池中立石が配された大泉ケ池を中心に、浄土を地上に表現したといわれる。平安時代の作庭様式を伝える貴重な遺構の遣水は、池に水を取り入れるための水路。玉石を底に敷きつめ、水の曲がり角や池への注ぎ口には石組みが配されている。毎年5月第4日曜、平安貴族の装束をまとった歌人たちが遣水に盃を流し、和歌を詠む曲水の宴が優雅に行われる。国特別史跡、特別名勝。毛越寺庭園を訪れる。
毛越寺境内にある天台宗修法道場。現在の建物は、仙台藩主・伊達吉村の武運長久を願い、1732年(亨保17)に再建されたもの。宝形造りで、須弥檀中央に本尊の宝冠を被った阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿に摩多羅神が祀られている常行堂を訪れる。

毛越寺と厳美渓を結ぶ県道沿いにある。801年(延暦20)、農民たちを苦しめていた悪路王らがこもっていた窟といわれ、これを討った坂上田村麿が、戦勝の御礼として108体の毘沙門天を祀る精舎を建立した。1946年(昭和21)の火災により焼失したが、1961年(昭和36)に再建され、現在も27体の毘沙門天が残る。堂の左側の岩壁には、11世紀に刻まれた北限の磨崖仏とされる岩面大仏がある達谷窟毘沙門堂を訪れる。

砂鉄川が北上山地の岩肌を侵食してできた渓谷。川の両岸には約2kmにわたり、高さ30〜100mの奇岩が連なるげいび渓を舟下りして観光する。

気仙沼方面に向かう。
宮城県の唐桑半島東岸の2つの岬。巨釜は湯が煮えたぎるように波が巻き、高さ16mの大理石の折石が立つ。半造は海食洞が多く、トンネル岩、潮吹岩などがある巨釜・半造を散策する。

太平洋側を北上して気仙川の河口から広田湾に沿って、2km続く砂浜海岸。背後には、寛文年間(1661〜73)に砂防林として植えられたという数万本の黒松・赤松が茂る。松原の中には、石川啄木歌碑や高浜虚子句碑が立つ高田松原を散策する。

釜石方面に向かい、近代製鉄発祥の地を物語る記念館。日本最古の洋式高炉原寸大模型は高さ14.1mで、断面が見られる。幕末の鉄づくりの模型もある。展望テラスから釜石湾を眼下にできる釜石市立鉄の歴史館を見学。

釜石湾を見下ろす、高さ48.5mの鉄筋コンクリート製の魚籃観音像。胎内は13階に分かれ、地上38mの展望台からは左に馬田岬、右に尾崎半島が見渡せる釜石大観音を上る。

西の遠野方面に向かう。
常堅寺境内の裏を流れる小川。ここにはカッパが多く住んでいて、人々を驚かしていたといわれている。岸辺にはお乳の神様・カッパ神も祭られている。裏手の一帯は安倍貞任一族の屋敷跡カッパ淵[常堅寺]を訪れる。

遠野地方の農家の生活形態を再現し、重要文化財の菊池家曲り家、柳田國男に昔話を話した佐々木喜善に関する資料館などがある伝承園を訪れる。

遠野物語の話し手・佐々木喜善の生家裏手の丘陵。ここは60歳になった村人が捨てられたという伝説が残る。非生産者とみなされた老人たちは、ここで自給自足の生活を送ったといわれる。また、死者の霊が通る場所ともいわれているデンデラ野を訪れる。

遠野物語の第11話に出てくる、幅7m、奥行5mの石に厚さ2mの巨岩が乗っている巨石遺構。古代人の墓とも、武蔵坊弁慶が持ち上げて作ったともいわれている。近くの羽黒神社にも巨石・羽黒岩がある続石を訪れる。

約200年前に建てられた豪壮な南部曲り家。昔は、作男15人を含め、25人の家族、馬20頭が同じ屋
根の下で生活していた。建物の一部を展示室として公開する南部曲り家千葉家を見学。

花巻方面に向かう。
18:00花巻空港到達。
19:00花巻空港出発。
20:30伊丹空港到達。

今回の旅行、観光で有名な岩手県、特に花巻から南の方面を訪れました。
世界遺産の話題で注目を集める平泉、蔵の町並みが残る江刺、自然の見所が点在する厳美渓・猊鼻渓、リアス式海岸で有名な陸中海岸の南部の製鉄で有名な釜石、カッパ淵や民謡などで話題の多い、懐かしの風景や自然が今もまだ残っている遠野をドライブ観光し自然と文化の新しい発見に有意義な日々を送ることが出来ました。

岩手県は観光の町です。車の数の割には道路は整備され渋滞もなく、ストレスの掛らない快適なドライブを味わうことが出来ます。観光地も整備されニューリアルして新鮮で気持ちよく周ることが出来ました。

しかし今話題の世界遺産登録間近の平泉、大変整備されていて、新しく綺麗ですが文化遺産の建物のほとんどが明治以降の再建であり、純粋に当時の現存する建物はごくわずかなのは残念です。度重なる火災で焼失したのですね。残念でなりません。
残念ながら世界遺産の登録が延びているのがなんとなくわかるような気がする観光旅行でした。