兵庫県淡路島淡路&洲本観光
2011年1月30日


大阪湾、播磨灘、紀伊水道に囲まれた総面積595,84平方キロメートル、国内第7位の規模の島、淡路島に足を運び、花やアートのスポットが多く点在する淡路エリア、かつては城下町で、淡路島で一番大きな町、海岸線には温泉が湧く、洲本エリアを訪れました。

7:15車で阪神淡路自動車道経由して北淡インター下車
8:30西海岸エリア到達。

香りの館・香りの湯・特産館からなる「香り」に特化したテーマパーク。
香りの体験コーナー、和・洋レストラン、日帰り入浴可能な温泉、宿泊施設があり、季節に応じてハーブの摘み取り体験も可能です。香りとふれあう癒し空間で、ゆったりした一日を過ごす事ができますパルシェ香りの館・香りの湯を訪れる。

源義経との悲恋で名をとどめる静御前隠棲の地と言われており、静御前の徳を偲んで、その霊廟を中心に整備された公園。昔からこの地にお参りすると良縁、安産に御利益があると言われており、また舞踊に秀でたことで有名な静御前にあやかってお参りをする人も多い静の里公園を訪れる。

淡路島最大の遊園地がリニューアルオープン、好評のミニチュアワールド、コースを延長したゴーカートコース、新設の芝滑り、その他クラフト体験教室など子供から大人までのんびりと楽しめる施設です。
凱旋門や万里の長城など世界の有名な建物が25分の1サイズで大集合する「ミニチュアワールド」、古代文明で築かれた彫刻や遺跡を展示する「遺跡の世界」、世界の童話から8つのシーンを紹介する「童話の森」、そして大人気のゴーカートや新設の芝滑りなど、11種類の「ライドアトラクション」がある。また、様々なクラフト体験教室なども充実していて、大人から子供まで楽しめる施設の淡路ワールドパーク ONOKOROを訪れる。

国生み神話の主人公である、伊弉諾と伊弉冉の二柱の神を祭る古社。国生みを成し遂げた伊弉諾大神は、ここで余生を過ごしたと伝えられている。境内には2神が宿るという夫婦の大楠があり、夫婦円満や安産を願って夫婦で訪れる参拝者が多い伊弉諾神宮を訪れる。

香りをテーマにしためずらしい公園で、2.9haの敷地に展望台、洋式庭園のハーブガーデン、香りのプロムナード、梅・桜園が設けられ、23種1200本のハーブが植えられ、様々な香りを満喫することができる。また、香りのみならず、ここには桜も多く植えられており、花見の時期には美しい桜が見られる。ハーブや草木をテーマにしたイベントなども時折開催している兵庫県立淡路香りの公園を訪れる。

瀬戸内を望む17万平方m以上の敷地に天然温泉やログハウス、オートキャンプ場、レストランなど、さまざまな施設があるウェルネスパーク五色・高田屋嘉兵衛公園を訪れる。

町名の由来ともなった五色の小石(メノウ、コハク、ルリ、白、斑紋など)が敷きつめられた海水浴場。 五色浜の石は、薄く層状の結晶片岩と珪岩(チャート)からできており、美しいつやのある珪岩が一般に天然記念物といわれる五色石。西浦を走る県道31はサンセットラインとも呼ばれ、海に沈む夕日が美しいことでも有名だが、ここは慶野松原と並んで特に夕日の名所として知られた海岸でもある五色浜海水浴場を訪れる。

南淡路方面に向かう。

日本の白砂青松100選、日本の渚百選、日本の夕陽百選、日本の水浴場55選、日本の水浴場88選、さらに快水浴場百選では、日本で12箇所しかない特選の一つに選ばれるなど、淡路島を代表するというよりも、瀬戸内海を代表するビーチの一つ。白い砂浜に沿って南北に続く松林は井原西鶴も絶賛したほど。海水の透明度、砂浜の美しさともに、島内でも屈指でオススメの海水浴場。また、ビーチの北側には特産のいぶし瓦を活かした遊歩道として、俳句や短歌が刻まれた「万葉の甍道」、愛の誓いが刻まれた「プロポーズ瓦道」などが設置されている慶野松原海水浴場を訪れる。

1300年ほど前に発祥したといわれている淡路瓦。 「南あわじ市産業文化センター」では、淡路瓦のすべてがわかる展示棟がある。世界各国の瓦のほか、瓦産業に関わるものを展示。粘土細工の体験ができる実習棟もあり、実際に粘土をこねて瓦作りの体験もできる南あわじ市産業文化センターを訪れる。

酪農農協が運営する観光牧場。乳搾り体験や、バターの手作り、仔牛にミルクを飲ませたりと、動物とのふれあいが楽しめる。その他、ポニーの背中に乗る本物の「メリーゴーランド」や、ウサギ、鳥など、いろんな動物(主に家畜・小動物)がたくさんいる淡路島牧場を訪れる。

イザナギ・イザナギの二神を祀っている神社。この神社では朱塗りの大鳥居が非常に有名で、境内には高さが21.7mもある大鳥居がそびえ建っている。また、ツガイのセキレイがイザナギ・イザナミの二神に「とつぎ」を教えたという伝承が残る「セキレイ石」もある。春大祭と夏祭りには島内外から多くの参拝者が訪れる。上述した理由により、縁結び・安産などのご利益があるとされるこの神社、おのころ島神社を訪れる。

緑豊かな山間にある公園施設。公園内には、豊かな自然の中での家族のふれあいをテーマにしたレクリエーション施設がある。野外スポーツやイベントが楽しめる「芝生公園」、子供たちに大人気の水上アスレチック「じゃぶじゃぶ池」やアスレチックなどの遊具施設も。その他、テニスコート・ナイター設備のある多目的グラウンド、サウナ付の温泉などもあり、宿泊、各種宴会、温泉、会議、スポーツ等の他、クラブ活動・サークル活動や合宿などにも利用することができるサンライズ淡路 ふれあい公園を訪れる。

洲本方面に向かう。
淡路島の歴史・文化を紹介する博物館。国の重要無形民俗文化財に指定されている淡路人形浄瑠璃、船だんじりなどのほか、美術工芸品や文学作品などを展示している。洲本で幼年期を過ごした南画家、直原玉青の記念美術館もある洲本市立淡路文化史料館を見学。

400年以上の歴史をもつ城跡で三熊山各地にその遺構が残っている。天守台には模擬天守閣が建つ。この模擬天守閣は江戸時代のものを復元したものではないが、模擬天守閣としては日本最古のものである。この洲本城跡は国指定史跡となっており、学術的にも非常に価値の高い石垣などが残る。本丸を構成する石垣は特に見事で、高石垣や、本丸大石段などは個人的にもオススメできる見所。また、全国に三箇所しか残っていないとされる「登り石垣」なども見ておきたい。また、天守台からは洲本市内を一望することができ、非常に美しい景色が眼下に広がる。そのため、ここからの景観は洲本八景の一つに数えられている三熊山・洲本城跡を訪れる。

淡路島では、七福神は各地で信仰を集めており、それぞれの七福神をお祀りする寺院が淡路島全島にまたがっているため、淡路島そのものが七福神乗り合いの宝船と見たてられています。

淡路島七福神の総本院で、大黒天を祀っている。淡路の三大祭の一つである回り弁天発祥の地。創建は室町時代という、歴史のある寺院。心身の裕福を授けるという大黒天を祀っている。功徳は、金運良好、資産増加、開運出世、家内安全、子孫繁栄などがある淡路島 七福神霊場 八浄寺を訪れる。

741年、聖武天皇の勅命を受けた行基が開基したお寺で、古い歴史をもつ。本道には長寿の神様である七福神の寿老人が安置されている。また、境内にある橋を渡ると10年長生きができ、参拝の帰りに頂けるお茶の接待では、これを飲めばさらに10年長生きができる、といわれている淡路島 七福神霊場 宝生寺を訪れる。

寺宝の大般若経には、1351年の銘があるという古い歴史のある寺。七福神唯一の女神である、弁財天を祀っている。もとはインドの水神であったという弁天様。その功徳は、芸術、芸能、文学、弁舌、学問の才、幸運授与、金銀財宝授与などがある淡路島 七福神霊場 智禅寺を訪れる。

淡路島の三大祭の一つ、つかいだんじりで全国的にも有名な寺院。737年、行基がこの寺の基を作ったといわれており、大変古い歴史がある。ここでは元々中国の仙人であった福禄寿が祀られており、その功徳は仏教守護、智恵、開運福徳、出世などがある淡路島 七福神霊場 長林寺を訪れる。

推古天皇の頃(592~628)、聖徳太子の勅詔により創建されたと伝えられる、淡路島最古の寺院。祀っているのは七福神の毘沙門天。病魔や厄災から守ってくれる。その功徳は仏教守護、智恵、開運福徳、出世などがある淡路島 七福神霊場 覚住寺を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、兵庫県淡路島に足を運び、淡路エリアから西淡エリア、洲本エリアの公園とビーチ、歴史的建造物を訪れました。

特に、長寿と幸運を授けてくれると、古来より厚い信仰を集めている七福神巡りは5箇所訪れることが出来ました。各々観光バスも多く観光客で賑わっており、みやげ物のお店も揃っており、寺も手入れが行き届いており、なかなかの淡路島の大きな観光名所だと感じました。

淡路島も残すは、南あわじ、沼島、成ヶ島となりました。近日中に訪れたいと思います。












大阪府北河内観光
2011年1月29日


大阪府の令制国の河内国北部に由来する地域名称で現在の大阪府北東部(淀川左岸)にあたり、京街道や古堤街道が通り、古くから京都府山城地域や奈良県北和地域との交流が深く、現在も関西文化学術研究都市の一翼を担っている北河内を訪れました。

12:30車で出発

「野崎の観音さん」として、広く親しまれる寺。「野崎まいりは屋形船でまいろ」と野崎小唄に登場し、浄瑠璃『お染久松』でも知られる。長い石段の上に本堂があり、本尊の十一面観音は縁結び・子授け・安産に霊験あらたかという。境内上にある公園からの眺めもすばらしく、「大阪みどりの百選」に名を連ねている野崎観音(慈眼寺)を訪れる。

南北朝時代の四條畷の合戦で敗れた小楠公・楠木正行を祭る。境内には小楠公の御母堂を祭る御妣神社がある。約500本のソメイヨシノが咲く神社としても知られている四條畷神社を訪れる。

1348年(正平3)、四條畷の戦いで戦死した、楠木正行の墓。墓所にある楠は樹齢570年を超え、府の天然記念物になっている小楠公御墓所を訪れる。

室池の周りに広がる水辺自然園、アスレチックのある森の宝島など、趣向を凝らした各エリアがあり、森の工作館ではいろいろな自然素材を使った工作ができる。自然観察遊歩道も2コースある大阪府民の森緑の文化園むろいけ園地を訪れる。

高さ12mの舟型をした、巨大な岩が御神体というユニークな神社。この御神体には大坂城築城のときに、加藤清正が運ぼうとして断念したという逸話が残る。岩窟が多数あり、古来から修験道の行場として知られてきたが、今では一般の人でも岩窟めぐりができる磐船神社を訪れる。

最大地上高50m、全長280mもの大吊橋「星のブランコ」や、本格的なロッククライミング用の人工岩がある。バードウォッチング、自然を満喫する遊歩道も設置されている府民の森ほしだ園地を訪れる。

甲子園球場の約6倍の広さをもち、樹木を中心に観察できる。日本の代表的な13型樹林のうち、11型樹林を造成している。このような森の再現は世界でも珍しい。約30mの高さに育ったメタセコイアの並木は、四季を通じて見事な景観をつくっている大阪市立大学理学部附属植物園を訪れる。

寺名の由来は、獅子が吠えて口を開けた時の形に似た、本堂裏にある巨大な石からといわれる。国宝指定の本尊薬師如来像は平安初期の作。展望台もあり、眺望がすばらしい獅子窟寺を訪れる。

四季折々の美しい自然とふれ合える、府立の森林公園。芝生広場やバーベキュー広場のほか、園内ハイキングコースが8コースもあり、休日には家族連れで賑わう。アスレチックの遊具もあり、子どもたちに人気の大阪府民の森くろんど園地を訪れる。

花ショウブ園やアジサイ園など緑が広がる。スイレンが咲く水生花園もあり、シーズンごとに咲き乱れる花々は見ごたえ充分。水辺広場、展望広場はゆったりくつろげるスペースの山田池公園を訪れる。

全国で初めて史跡公園として整備された古代寺院跡。750年(天平勝宝2)百済国王の子孫、敬福が河内守となり、一族の氏寺が建立されたと考えられている。ほかに類を見ない建物の配置で、国の特別史跡に指定。美しい松林に囲まれており、桜の名所としても知られている百済寺跡を訪れる。

1934年(昭和9)、全国的に知られる成田山新勝寺の別院として開創。日本で初めての交通安全祈願専用のお堂・祈祷殿があり、一度に100台の車の祈祷ができる根本道場として威容を誇っている。そのほか境内には、笑いの道の発展に力を尽くした関西芸能物故者の冥福と芸道の発展を祈る、笑魂塚という石碑がある。成田山明王院のある香里園は大阪の鬼門の方角にあたり、大阪守護の願いも込められている成田山明王院(成田山不動尊)を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、最も近場の地元大阪府北河内に足を運び、何回も訪れたことのある社寺、名所を巡り、再確認できました。









京都洛北観光
2011年1月26日


何回も訪れたことのある文化遺産の宝庫、京都に足を運び、都の鬼門、都人がひっそりと隠逓した閑雅なエリアから、穏やかな山里の大原、神秘的な伝説が数多く伝わる山深い鞍馬や貴船、洛中に近い上賀茂や大徳寺周辺の洛北を訪れました。

12:30車で第二京阪阪神京都線自動車道経由して上鳥羽インター下車
13:30出町柳到達

法然上人が念仏道場とした寺で、知恩院と並ぶ浄土宗の名刹。1331年(元弘元)、京都に悪病が流行した際、住職の第八世善阿上人が百萬遍の念仏を唱えて悪病を治め、後醍醐天皇から百萬遍の名を賜ったという。広い境内には、釈迦堂や阿弥陀堂などが立ち並ぶ百萬遍知恩寺(百萬遍さん)を訪れる。

御所の北東に賀茂川と高野川の合流点がある。この2つの川に挟まれた一帯は古くから糺ノ森、または河合の森と呼ばれ、平安時代は潔斎の地として知られていた。河合神社より下鴨神社に至る広大な森の面積は約12万平方m。樹齢千年を超える老木が生い茂り、樹木の中を泉川の清流が流れて、古代の森の名残を伝える糺ノ森を訪れる。

東山の裾を南北に貫く通り。銀閣寺道から北を北白川と呼び、修学院道にかけてイチョウの街路樹が美しい。比叡の山並みを東に見る界隈には、洒落たレストランやカフェ、ブティック、各種ショップが立ち並び、北山通と並ぶファッションストリートとして若者に人気。アンティークな店やエスニック料理店なども多く、和と洋、伝統と革新が渾然一体となった雰囲気も魅力的な白川通を通過する。

詩仙堂への道筋にある松の木。宮本武蔵と、足利将軍家の剣道指南役を務めた吉岡清十郎の門弟が決闘した場所と伝わり、「宮本・吉岡決闘之地」の碑が立つ。もとは比叡山への道標として植えられたという一乗寺下り松を訪れる。

888年(仁和4)、比叡山延暦寺の別院として創建された。御所から東北に位置し、鬼門に当たることから、古来、方除け、厄除けの祈願所として御所を守り、また広く人々の信仰を集めてきた。本殿には「皇城表鬼門」と大書され、拝殿の屋根の上には比叡山を守護する日吉大社の神猿の像が鎮座している。ここは「都七福神」の一つである福禄寿の寺でもあり、福禄寿神の姿をした「お姿みくじ」が人気の赤山禅院を訪れる。

京の夏の風物詩・五山の送り火のうち「法」の字が描き出される東山の麓にあり、京都七福神の一つである大黒天を祭る。商売繁盛や家内安全などを願う庶民の信仰が篤く、60日に一度の甲子祭、毎月1・15日の月例祭は賑わう妙円寺(松ケ崎大黒天)を訪れる。

府立植物園の北山門東側に隣接する屋外型美術館。安藤忠雄氏設計によるコンクリート造りの斬新な建物に、世界の名画を陶板に転写した作品8点を展示する。ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』、ミケランジェロの『最後の審判』などおなじみの作品は、どれも原寸大か2倍サイズで再現されており、迫力にあふれる京都府立陶板名画の庭を訪れる。

1924年(大正13)に開園、総面積24万平方mという全国有数の植物園。広大な園内には1万2000種、12万本の植物が植栽・展示されており、四季折々に美しい。日本最大級の回遊式温室には熱帯や亜熱帯の植物がゾーン別に栽培され、見応え充分。温室北側には自然林を残した「半木の森」があり、山城盆地の植生がわかる。ほかにツバキ園、バラ園、竹笹園などが展開する京都府立植物園を訪れる。

周囲1.5kmの小さな池だが、3mを超える泥土層をもち、氷河期から生き残るホロムイソウなど貴重な水生植物が群生、天然記念物に指定されている。独特のぬめりで知られるジュンサイも多く見られ、6・7月には暗紅紫色の花を咲かせる深泥池を訪れる。

上賀茂神社の摂社。芸能・長寿の神様として信仰が厚い。参道東側の池には、天然記念物の野生のカキツバタが群生する。一帯は古くから「大田ノ沢」と呼ばれており、艶やかな紫色の花は、平安時代の歌人・藤原俊成の歌にも詠まれている大田神社のカキツバタを訪れる。

上賀茂神社の南、賀茂社から流れ出る明神川に沿って、石垣を積み、白い土塀で囲った家が30軒余り続く。これらは同神社の神官らが住んだ屋敷(社家)で、風格のある家並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている社家の町並みを訪れる。

国内で唯一、朝鮮半島の美術品を専門に扱う美術館。在日朝鮮人一世の実業家・鄭詔文氏が収集した、高麗・朝鮮王朝時代を中心とする美術工芸品約1700点を収蔵・展示。入口両脇には石像が置かれ、異文化を実感できる。館内はそれほど広くないが、朝鮮王朝時代の華やかな屏風や青磁碗・白磁壺のほか、日用品も並ぶ。朝鮮王朝時代の貴族の部屋や家具類も興味深く、日本文化がいかに朝鮮の影響を受けてきたかがわかる高麗美術館を訪れる。

着物メーカーが開いた施設で、11万平方メートルもの広大な日本庭園や染織工芸館、食事処などさまざまな施設がある。染織ギャラリーでは京友禅の型染の体験ができるしょうざんを訪れる。

1616年(元和2)、日蓮宗の日乾上人が本阿弥光悦の寄進で創建した。数百人の学僧が学ぶ鷹峯檀林として栄えたが、今では江戸前期の遊女・吉野太夫ゆかりの寺として知られる。吉野太夫は諸芸に秀でた名妓で、「吉野門」と呼ばれる山門は太夫が寄進したもの。境内には、太夫を偲んで植えられた吉野桜や、太夫の墓が立ち、太夫の夫である豪商、灰屋紹益との比翼塚がある常照寺(吉野太夫菩提所)を訪れる。

京の市街地、特に西陣一帯が見渡せる景勝地。東西200m、南北100mのなだらかな丘陵で、平安時代からその美しさが京の人々に愛されてきた。清少納言も「岡は船岡」と讃えている。応仁の乱では西軍の山名宗全が城砦を築き、戦いの場にもなった。現在は遊歩道が延び、野外音楽堂などがある船岡山公園になっている船岡山を訪れる。

京都有数の古刹。船岡山の麓に立ち、千本通に面して長い築地塀が続く。応仁の乱で焼失した後、豊臣秀吉などの帰依を受け江戸時代には子院12カ寺をもつ大寺として繁栄した。現在は3院を残すのみ。天平時代の絵因果経(国宝)は、京都最古の絵巻物(京都国立博物館に寄託中)。境内に藤原期の代表的な仏師・定朝の墓がある。寺の西側には東の鳥辺野、西の化野とならぶ葬送の地とされた蓮台野が広がる上品蓮台寺を訪れる。

五山の送り火の一つがある船山の麓に佇む。鎌倉時代に創建され、伏見城の遺構である本堂(方丈)(重要文化財)には狩野山楽の襖絵(重要文化財)や、血天井の廊下がある。小堀遠州作と伝わる庭は、比叡山を借景とする見事な枯山水の正伝寺を訪れる。

境内にブッダガヤ大塔を模した、インド式の仏舎利大塔がそびえる。1389年(康応元)、日什上人が六条坊門室町(今の烏丸五条あたり)に開基。長く寺町二条にあったが、1968年(昭和43)に現在地に移転した。展示室には安珍・清姫で知られる道成寺の鐘も安置。本坊の雪の庭は松永貞徳作と伝わる妙満寺を訪れる。

京都民芸協会が昭和56年に開いた資料館。土蔵造の館内は3階に分かれ、日本を中心にアジア各地の焼き物、染織、木工など、会員が収集したさまざまな工芸品を展示する。いわゆる有名作家の作品はないが、工芸品の大半を占めている日用品の中に美を追求している京都民芸資料館を訪れる。

公武合体のため皇女和宮を降嫁させた岩倉具視は、急進派の弾劾を受けて、ここで5年余り蟄居生活を送った。敷地内の対岳文庫には、岩倉が赤坂喰違事件で刺客に襲われたとき着ていた衣服や携帯品などが展示されている岩倉具視幽棲旧宅を訪れる。

子供の夜泣きや癇の虫封じの神様で知られ、子供を守るところから学業の神という側面も。鳥居前には狛犬ならぬ「狛鳩」が置かれ、社殿のあちこちにも土製の「神鳩」が見られる。これらは子供の成長を祈願し、そのお礼に納められたもの。江戸時代から人々の信仰を集め、多くの大型絵馬が奉納された。大勢の子供が行列を作って参拝する様子、子どもの遊ぶ様子を描いた絵馬など、ほかに例を見ない60点を展示公開する絵馬展示資料館を併設する三宅八幡宮を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、何回も訪れたことのある近場の文化遺産の宝庫、京都に足を運び、京都市の北部、洛北を訪れ、今まで訪れたことのないマイナーな寺社を巡り、半日過ごおえました。












京都洛西観光
2011年1月19日


多くの世界遺産が位置する文化遺産の宝庫、京都に足を運び、衣笠山の山裾をゆく、きぬかけの道沿いに、世界遺産の金閣寺、龍安寺、仁和寺が続き、さらに進めば嵐山、また、山間に名刹が点在する大原野や三尾を含むエリアは桜や紅葉などが見事な洛西を訪れました。

12:30車で第二京阪自動車道経由して巨椋インター下車
13:30大原野到達

『伊勢物語』で知られる在原業平が晩年隠棲したと伝えられ、境内にはその墓宝篋印塔が立つ。恋焦がれた二条后・藤原高子が大原野神社に参拝した時、業平は塩を焼いて紫の煙を上げて、思いを伝えたという。その竈跡も残っており、毎年5月28日業平忌三弦法要、6月第3日曜聲明と三弦を聞く会、11月23日の塩がまきよめ祭では塩竈で火を焚き、参拝者を祈願する。本堂の屋根は、鳳輦型というおみこしに似た珍しい造りの十輪寺(なりひら寺)を訪れる。

善峯寺境内の北続きの山腹にある。1074年(承保元)、源算上人が往生院として開山。のちに西山上人(証空)が浄土宗西山派の念仏道場とし、背後に連なる山並みが仏器の三鈷杵に似ていることから、三鈷寺と改称。天台・真言・律・浄土の四宗を兼学する勅願所として栄えたが、応仁の乱後衰微した。華台廟には西山上人と百人一首の成立に関わった宇都宮頼綱(蓮生)を祀る。本堂前から北東方に見下ろす市街の眺望は雄大で見事。古くから二大仏七城俯瞰の地と言われている三鈷寺に向かうが残念ながら積雪のため通行止め。

718年(養老2)、元正天皇の勅願で創建されたと伝える。平安遷都の際、王城鎮護のため都の四方に経典を埋めたが、その一寺として西岩倉山の号を賜った。平安後期には名刹として知られ、『今昔物語集』にも描かれている。応仁の乱で兵火にあったが、貞享年間(1684~88)桂昌院の寄進によって現在の本堂・開山堂などが再建された金蔵寺に向かうがこちらも積雪のため通行止め。

洛西ニュータウンにある世界でも珍しい竹専門の公園。5000平方mの敷地には、竹・笹類についての資料館、生態園、子どもの広場などがある。資料館ではエジソンが約125年前に京都・八幡のマダケをフィラメントに使った電球の復元、竹製品の実物やパネル、京都の銘竹、東南アジアの珍しい竹などを展示している。元々うっそうと竹林が続く地であり、生態園では全国各地の竹や笹、約110種が植えられている京都市洛西竹林公園を訪れるが休園でした。

松尾・桂方面に向かう。

江戸中期の文人画家・池大雅の若年より晩年までの作品を所蔵、50数点を常時展示する。大雅は、柳沢淇園、祇園南海らに師事し、与謝蕪村と並び日本南画を大成させたといわれる。絵画『山関石崖図』などのほか、『和様尺牘文』などの書も鑑賞できる池大雅美術館を訪れるが休館でした。

太秦の南方、桂川のそばにあり、生八ツ橋作りの体験や刺繍講座など12種の体験講座を受けることができる。2階のししゅう美術館では名匠による京刺繍の逸品など75点ほどが常時展示されているほか、刺繍小物やアクセサリーの販売コーナーもある八つ橋庵とししゅうやかたを訪れる。

嵐山方面に向かう。

渡月橋を見下ろす高台に立ち、「嵯峨の虚空蔵さん」と親しまれてきた。『枕草子』の「寺は」では「壺坂、笠置、法輪」と並び称せられ、院政期には多くの人々の信仰を集めて隆盛を誇った寺。現在は十三まいりで親しまれ、毎年4月13日、13歳になった子供が法輪寺の虚空蔵菩薩に智恵と福徳を授かりに行く。思い思いの1字を墨で書いて奉納した後、渡月橋を渡って帰る時に、後ろを振り返るとせっかく授かった智恵を返してしまうとの言い伝えがある法輪寺を訪れる。

築70年の日本家屋を芸術家榎本兄弟が改築し、美術館として開館。常時20点ほどある絵は、反戦や核兵器廃絶を題材に自然環境や命の尊さを伝えたり、黒人文化を軸に人間の内面世界を表現している。きものレンタル着付の店・遊月もあり、きものに着替えて京都散策もできる嵐山ハイブリッド美術館を訪れる。

『平家物語』の遺跡として、昭和になって再建された寺。平重盛に仕え、宮中の滝口の侍になった斎藤時頼は、建礼門院に仕える横笛との結婚を望むが父に反対され、落胆のあまり出家。滝口入道と呼ばれた。それを知って訪れた横笛に会おうとはせず、高野山に入ったという。本堂に悲恋の2人の木像があり、参道には横笛の歌碑が立つ滝口寺を訪れる。

足利義満が1379年(康暦元)、普明国師を開山に宝幢寺を建立。鹿王院はその塔頭だったが、応仁の乱で宝幢寺は廃絶、鹿王院のみが残った。江戸前期作庭の平庭式枯山水庭園は、苔が美しい。女性専用の宿坊としても開かれており、宿泊者は座禅体験もできる鹿王院を訪れる。

秦氏の墓と考えられている京都市屈指の古墳。7世紀初頭の前方後円墳で、巨石を積んだ横穴式石室が露出している。玄室の長さは約7mの蛇塚古墳を訪れる。

のどかな田園風景が広がる北嵯峨にある観月の名所。周囲約1kmのこの池は、一説に嵯峨野を開拓した秦氏の手によって造られたといわれる。平安時代には池の畔に月見堂や釣殿などがあり、西行や藤原定家らの和歌にも詠まれた広沢池を訪れる。

1341年(暦応2)、足利尊氏建立による足利氏の菩提寺。初代尊氏から15代義昭まで歴代将軍の木像(5、10代を除く)を安置する霊光殿がある。夢窓疎石の作と伝えられる庭園は、東の心字池と西の芙蓉池の2つによって構成されている。特に書院から眺める西庭は、衣笠山を借景とし、刈込みや枯滝組を配し、石橋を架けるなど凝った造りの等持院を訪れる。

戦争の被害と加害の両面の歴史に学びながら平和について考えられる、世界初の大学立平和博物館。過去の戦争の実態を伝えるとともに、暴力や貧困などの平和をはばむ問題と、平和な世界をつくるための活動について展示している。実物資料や写真・解説パネル、映像展示のほか、戦時中の民家も復元。併設の国際平和メディア資料室では、平和に関する資料を閲覧できる。年数回、特別展を開催する立命館大学国際平和ミュージアムを訪れる。

726年(神亀3)に行基が創建。北野大茶会のとき宿となったこの寺に、豊臣秀吉が寄進したという五色八重散椿で知られる。花びらがひとひらずつ散る姿から、散り椿の名があり、現在は樹齢約120年の第二世が本堂前庭で赤、白、ピンクなど五色の花をつける。洛陽三十三観音霊場、第三十番札所の地蔵院(椿寺)を訪れる。

平安初期の右大臣清原夏野の山荘を、1130年(大治5)、鳥羽上皇の中宮待賢門院が復興。その後、応仁の乱などで荒廃したが、1617年(元和3)泉涌寺の照珍によって再建された。仏像・絵画・工芸に見るべきものが多い。特に藤原時代の本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)は、光背や台座の蓮弁に華麗で繊細な彫刻が施されており見事。夏には約80種類のハスが咲き競う、ハスの寺としても有名だ。迫力ある「青女の滝」の石組みも必見。庭園は特別名勝に指定の法金剛院を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、何回も訪れたことのある文化遺産の宝庫、観光客に最も人気のある京都洛西に足を運び、比較的マイナーな文化遺産を訪れ歴史学習してきました。

水曜日は休館が多く、又先日の寒波のため積雪で通行止めも多く、訪れることが出来なかった名所もありましたが、さすが京都、いくらでもある京都の観光名所堪能しました。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第百二十八弾:和歌山県白浜&串本&那智勝浦観光
2011年1月15ー16日


海や山に湧く温泉や静かな信仰の歴史を語る世界遺産、深呼吸したくなる紺碧の海の風景、魅力いっぱいの和歌山に足を運び、関西有数の温泉リゾートの白浜、今も昔も交通の要衝に位置する田辺市、巡礼の道、熊野古道とその目的の地、熊野三山に加え、黒潮の海が果てしなく広がる壮大な風景も大きな魅力である熊野古道・那智勝浦・串本を訪れました。

15日12:30車で阪神近畿阪和自動車道を経由して
13:30紀伊田辺到達

紀伊田辺駅の北、会津川のほとりに立つ「弘法さん」で親しまれる寺。寺伝によると、草創は聖徳太子で、弘法大師が中興したとされ、豊臣秀吉の紀州征伐で焼き討ちされた。境内を見渡すと、文化年間(1804~18)に建てられた多宝塔がひときわ目を引く。また、縄文時代の貝塚跡や、墓地には南方熊楠や合気道創始者の植芝盛平の墓もある高山寺を訪れる。

5世紀初めに、熊野権現を勧請し、建立されたと伝えられる神社。社名は、弁慶の父といわれる熊野別当湛増が、壇ノ浦の合戦の際に源平両軍から支援を求められ、どちらにつくか迷ったので、この神社の境内で紅白の鶏を闘わせて占い、源氏に加勢したことから付いた。境内には江戸時代建築の社殿が立ち並び、社務所には、湛増の鉄烏帽子や鉄扇、源義経愛用の笛、弁慶の産湯の釜が、社宝として展示されている闘けい神社を訪れる。

田辺湾北部に突き出た岬で、21万平方mの広大な岩棚には、イソギンチャクや貝類、磯浜の小動物など、多くの海洋生物が生息している。またここは、宅地開発から自然を保護するために、市民が出資、全国からの募金と併せて土地を買収するという、環境保護運動のナショナルトラストが1974年(昭和49)に行われた地として有名。この運動で守られた土地は、ほかの保護区とは違い、だれもが自由に出入りできる場所として解放され、釣りや潮干狩りなどが楽しめる天神崎を訪れる。

白浜に向かう。

ラマ教や密教秘仏約120点を展示している。チベット式の上楽王仏像やインドのミトウナ彫刻などが並び、独特の雰囲気が漂う。美術館の奥には約1300年前の祭祀礼拝所遺跡の岩屋を祭る歓喜神社があり、岩に彫られた男女の陰陽のレリーフが今も残されている白浜美術館・歓喜神社を訪れる。

南方熊楠は1867年(慶応3)和歌山市に生まれ、動植物の研究調査のためアメリカ、キューバ、イギリスへ14年間遊学した。帰国後は田辺に居を移し、多方面で功績を残した。ことに菌類の研究では多数の新菌種の発見もしている。その彼の生涯を6つのコーナーに分けて紹介している。ビデオを使って彼の生涯を紹介するほか、キノコ、粘菌類の標本や、1929年(昭和4)、天皇への御進講の際に手渡したのと同じキャラメル箱を利用した標本箱も展示されている南方熊楠記念館を訪れる。

京都大学が運営し、2010年には開館80年を迎える歴史ある水族館。白浜近海の海の生物約500種を展示しており、なかでもエビやウニなど無脊椎動物は約360種5800点と充実しており国内随一の京都大学白浜水族館を訪れる。

臨海湾に浮かぶ南北130m、東西35m、高さ25mほどの無人の小島で、正式には高島という。中央部分に円型の海蝕洞が開いていることから、円月島の名が付いた。夕景の美しさは格別で、白浜を代表する夕景ポイントの高島(円月島)を望む。

湯崎の沖合100mに突き出した、高さ18mの真っ白な塔。別名「コーラルプリンセス(サンゴ礁の女王)」とよばれ、水深8mのところにある12の丸窓からは悠々と泳ぐグレやチヌ、季節によってチョウチョウウオやルリスズメなどカラフルな魚も見られる白浜海中展望塔(コーラルプリンセス)を訪れる。

湯崎の南約1km、瀬戸崎の先端にある新生代第三紀中新生の大きな白い岩盤。柔らかい砂岩でできているため、長年の荒波の浸食によって石畳ならぬ岩畳のような地形が造り出された。広い岩畳は、何層もの階段状になっているので、容易に先端の波打際まで歩いて行ける。風の強い日は波が岩に砕け散って豪快。夕景もまた美しい千畳敷を訪れる。

高さ50~60m、南北約2kmにわたる海に突き出た屏風のような断崖。絶壁の際まで続く遊歩道があり、先端の展望台からの眺めは雄大。展望台前には三段壁洞窟の入口がある。また勇猛果敢で知られ、壇ノ浦の戦いで源平の争いに終止符を打つ要因となった弁慶の父、湛増が率いた熊野水軍の舟隠し場でもあったため、その番所小屋も復元されている三段壁を訪れる。

三段壁の展望台前に寺の本堂をイメージしたような三段壁洞窟入口の建物がある。そこから36m下の洞窟内部へ、エレベーターで一気に降り、洞窟へ。自然の海蝕洞窟で、赤茶色の洞窟内には1周約200mの通路があり、水の神様、神社仏閣の守護神ともいわれる牟婁大弁財天が祭られている。洞窟からは対岸に荒波が打ち上げる潮吹き岩なども一望できる三段壁洞窟[三段壁]を訪れる。

17:00千畳敷近くのロッジ到着後、車で白浜駅に向かい食事を済ませて宿に戻り就寝。

16日7:00車で出発、串本方面に向かう。

詩人の野口雨情が生前に愛した地を記念して造られた、紀州にゆかりのある童謡をモチーフにした公園。園内には『まりと殿様』や『鳩ぽっぽ』などのブロンズ像や歌碑がある。また、すさみ町近海に棲むエビやカニが飼育されている、すさみ町立エビとカニの水族館も併設する日本童謡の園を散策する。

串本海中公園内にあり、沖合140mの海底に設置。40ものガラス窓から、水深6mの海中を眺められる。サンゴの間を泳ぎ回るメジナ、チョウチョウウオ、ニシキベラなど約80種類が生息している海中展望塔[串本海中公園]を訪れる。

江戸時代の画家、円山応挙と長沢芦雪の美術館。1961年(昭和36)、無量寺境内に建てられた。収蔵作品には、応挙の『波上群仙図』、芦雪の『龍虎図』などがある。応挙、芦雪の障壁画55面が国の重要文化財の串本応挙芦雪館を訪れる。

虎関師錬開山の臨済宗東福寺派の寺。1786年(天明6)、津波で大破していた寺を愚海和尚が再建した際、友人の画家・円山応挙が再建祝いとして方丈の障壁画を描き、その作品を弟子の長沢芦雪が寺に届けた。芦雪もまた、この寺に滞在している間、多くの襖絵などを描き残したため、「芦雪寺」とよばれている無量寺を訪れる。

潮岬へと続く坂道にある展望公園。ここからは、上浦・下浦の2つの浜にはさまれた串本の町並みがよく望める。大島・橋杭岩・熊野灘・枯木灘などを一望できるビューポイント。夜には、小函館といわれる串本の夜景を楽しめる馬坂園地を訪れる。

本州最南端に立つ白亜の灯台。初点灯は1873年(明治6)。光力130万カンデラ、光達距離は19海里(約35km)にも及ぶ。68段のらせん階段を上れば、水平線が丸く見える絶景ポイントの潮岬灯台を訪れる。

潮岬の南端にある展望台。7・8階の展望室は海抜100mで、眼前に広がる太平洋の広大なパノラマがすばらしい。天気のいい日には、遠く那智山まで見渡せる。入館すれば、潮岬を訪れた証しとして、「本州最南端訪問証明書」も発行してもらえる。また、岬の突端には、「望楼の芝」とよばれる10万平方mに及ぶ芝生が広がっている潮岬観光タワーを訪れる。

幕末のペリー浦賀来航の62年前、1791年(寛政3)に2隻の米国商船が大島に寄航、貿易を申し込んできた。これが初めて公文書に記された日米間の接触で、その歴史的場所に建てられた記念館。館内には、当時の様子をジオラマで展示。商船レディ・ワシントン号の模型や修交に関する文献、写真なども見ることができる日米修交記念館を見学。

大島の南側の海岸は、40mもの険しい断崖絶壁が連なる豪快な岩礁地帯。海面から突き出たピラミッド型の巨岩が、太平洋の荒波にもまれる光景は壮観だ。鷹ノ巣展望台からの眺めがよい。名前の由来は、朝鮮半島の名勝金剛山に発する海金剛を訪れる。

1890年(明治23)、オスマントルコの特派使節一行を乗せた軍艦エルトゥールル号が帰国の途中、暴風雨のため熊野灘で座礁・沈没。69人が大島の人たちに救出されたが、580余人という多くの犠牲者を出した。この水難事故に際し、島の人たちは死者を弔い、その翌年、樫野崎に遭難碑を造った。碑の近くに建てられたトルコ記念館では、沈没したエルトゥールル号の模型や遺品、写真、トルコの民芸品などを展示するトルコ記念館を見学。

日本最古の石造灯台。イギリス人が設計と建設にあたり、1870年(明治3)に初点灯。現在は自動点灯の無人灯台のため、内部は非公開になっている。スイセンの名所としても知られ、12~3月になると花が咲き、周囲はさわやかな香りで包まれる。かつて常駐していたイギリス人技師が植えたものと言われている樫野埼灯台を訪れる。

海岸から大島に向かって延長850m、一直線に並ぶ大小40もの奇岩群(名勝・天然記念物)。その規則的な並び方が、橋の杭に似ていることからこの名が付いた。第3紀層の軟らかい頁岩が波によって浸食され、石英粗面岩の岩脈だけが断続して残ったもの。弘法大師と天の邪鬼が、一晩で橋を架ける競争をし、杭にするための巨岩だけが残ったという伝説もある橋杭岩を訪れる。

町内を流れる古座川がつくり上げた渓谷。幅500m、高さ100mの巨大な一枚岩(天然記念物)や表面に無数の穴があいた蟲喰岩など、七川ダムから下流に向かって約20kmも奇岩・怪石が続く。澄んだ清流には鮎などが生息。カヌー下りのメッカとしても名高い。周辺は「古座川弧状岩脈」として日本地質百選に選ばれている古座川峡を訪れる。

古座川沿いに点在する奇岩のなかでも、もっともスケールが大きく、国の天然記念物に指定。川淵からそそりたつ高さ100m・幅500mの巨大な岩は、石英粗面岩が風食によってできたもの。継ぎ目も割れ目もない赤茶色の巨岩は、ついたてのようだ。周辺は一枚岩自然公園として整備され、遊歩道やキャンプ場もある一枚岩[古座川峡]を訪れる。

古座川の支流の小川にあるミニ渓谷。岩でできた川底は、侵食されて凸凹になり、大小の奇岩の間から滝が落ちている滝の拝を訪れる。

太地ぬ向かう。

燈明崎の南に位置する岬。周辺は岩礁や暗礁が多く、熊野灘を航海する船はこの岬を目標として進路を決めて梶をとっていたため、この名がついた。かつては燈明崎と同様に山見台が置かれていた場所で、現在白い灯台のある一帯は見晴らしのよい芝生の広場に。大きなくじら供養碑が立ち、4月29日には鯨供養祭も開催。ここから燈明崎までは断崖と磯が織りなす豪快な海岸線が続き、海沿いに所要40分の遊歩道が延びている梶取崎を訪れる。

日本初のプロ野球選手の個人記念館。ロッテや中日、巨人などでプレイし、史上初の快挙である3度の三冠王をはじめ、輝かしい活躍を残した落合博満氏の記念館。六角形2階建ての洋館は、落合選手の背番号6に因んで設計。彼の野球人生を物語る500点以上のトロフィーや写真などを展示するほか、ビデオシアターでは活躍シーンの放映もある。2階には信子夫人の油彩画も展示しており、喫茶店、ベースボールヒーローからは熊野灘の眺望が楽しめる落合博満野球記念館を訪れる。

太地湾の東にある岬で、古くから航海の目印とされていた。古くは754年(天平勝宝6)、遣唐副使であった吉備真備が唐からの帰路、遭難して漂着したといわれる場所でもある。捕鯨が盛んなころには、沖にやって来る鯨の群れを見張る山見台が置かれ、捕鯨船に鯨の居場所を教えた狼煙場跡や支度部屋跡などに当時の面影が残る。1636年(寛永13)には、日本初の鯨油を用いた行灯式の燈明台があった。ここから眺められる紀ノ松島や梶取崎の風景は雄大で美しい燈明崎を訪れる。

太地くじら浜公園にある、世界でも珍しい鯨専門の博物館。まず目に入るのは、天井に吊るされた実物大15mのセミクジラの模型。骨格標本や身体各部のホルマリン漬け、剥製、太地の捕鯨の歴史を伝える古式捕鯨の用具類・絵図など1000点以上の貴重な資料を展示。博物館の横には入江を利用した自然プールがあり、クジラとイルカのショー、イルカとのふれあい体験が楽しめる太地町立くじらの博物館[太地くじら浜公園]を訪れる。

太地出身の洋画家、石垣栄太郎の記念館で、1991年に評論家の妻綾子氏が設立した。1909年(明治42)、栄太郎は移民として渡米し、1920年(大正9)から40年代にかけてアメリカ画壇で活躍。当時は世界恐慌から第2次世界大戦へ至る暗い時代で、彼の作品もアメリカの苦悩などをテーマにした力強いタッチのものが多い。油彩、デッサンなどを中心に遺品や綾子氏の著作も展示する太地町立石垣記念館を訪れる。

那智勝浦に向かう。

インドから熊野の海岸に漂着した裸形上人が開山した寺。本尊は千手千眼観世音菩薩像(重要文化財)で、平安時代に作られたもの。補陀洛とは古代サンスクリット語の「ポータラカ」の音訳で、観音菩薩の住む浄土を意味する。かつて那智の浜は、補陀洛浄土に通じていると信じられ、この寺の住僧は臨終間際になるとわずかな食料を屋形付きの小舟に積み、扉を封印して、補陀洛へと旅立った。これを補陀洛渡海という。境内には渡海船が復元されているほか、隣には熊野詣の際、潮垢離をしたといわれる浜ノ宮王子跡に、熊野三所大神社が立つ補陀洛山寺を訪れる。

那智四十八滝のなかの一の滝を那智の滝(名勝)とよぶ。高さ133m、幅13mもある大瀑布。勝浦の海上や那智山へ向かう山道から見えることも。滝壺へは那智山上にある飛瀧神社の鳥居をくぐって、老杉に囲まれた石段を降りていく。やがて、轟音とともに、切り立った崖から純白の布を垂らしたように落下する滝が現れる。滝の背後には那智の原始林(天然記念物)が広がり、暖地性の植物を中心に300種に及ぶ植物の宝庫となっている智の滝[熊野那智大社]を訪れる。

本宮、速玉とともに熊野三山の一つ。みやげ店が並ぶ473の石段を上りきると道が左右に分かれ、右は青岸渡寺、左に行くと熊野那智大社に着く。南向きの朱塗りの拝殿の後ろに独特な熊野権現造の社殿5棟(重要文化財)と、その脇に、8神を合わせ祭る八社殿が東向きに立つ。1581年(天正9)、織田信長によって焼き討ちにあうが、豊臣秀吉が再建した。熊野夫須美大神を主神として、飛瀧権現をも加え、十三所権現を祀り、あらゆる願いを叶えてくれる諸願成就の御利益があるといわれている。境内には推定樹齢800年、平重盛の手植えと伝えられる樟の巨木が大きな枝を広げている熊野那智大社を訪れる。

那智熊野大社と並んでたたずむ、西国三十三カ所第1番札所。補陀洛山寺と同様、裸形上人が開いたといわれ、熊野詣の重要拠点として栄えた。織田信長の兵火で焼失するが、1590年(天正18)豊臣秀吉が再建。最盛時には7カ寺36坊を有したが、明治時代の廃仏毀釈で入母屋造の本堂(重要文化財)を残して、ほとんどが失われてしまった。本堂と那智滝の中間に立つ高さ25mの朱塗りの三重塔は、1972年(昭和47)に再建され、三層の展望台からは那智の滝の全貌を望むことができる那智山青岸渡寺を訪れる。

那智山の南西に位置する標高750mの妙法山と、那智山の中間部にある見晴台。ここからは眼下に広がる勝浦温泉や太地はもちろん、潮岬まで遠く見渡せる。熊野灘に向かって巨大な阿弥陀如来像が立っている那智山見晴台を訪れる。

妙法山の中腹にある真言宗の名刹。平安時代に空海が開山し、その後応照上人が弘仁年間(810~824)に再興した。女人禁制の高野山のかわりに貴族の妻女たちが参詣したところから、女人高野として知られる。山門をくぐると正面が本堂。すぐ左側に有名な「妙法山の一つ鐘」がある。熊野では、昔から人が死ねば、霊魂は枕元のシキミという木を持ってこの妙法山に飛び、その木で鐘を一つ撞き、死出の旅に向かうと信じられている。そのことから、地元の人は現世の安穏と先祖の供養のため、生前にお参りすることが多い。奥の院周辺には、信者たちが捧げたシキミが根づき群生していて、妙法山は別名シキミ山ともよばれる阿弥陀寺を訪れる。

新宮に向かう。

市の西方、千穂ケ峰の南端に位置する神倉山。538段もの急峻な石段を上ると、大きなゴトビキ岩がある。この巨石が古くからの御神体で、古代から神の依代、神の磐座として敬ってきた。祭神は高倉下命と天照大神[あまてらすおおみかみ]だ。1400年もの歴史を誇るお燈祭りが行われる神社としても有名で、毎年2月6日に、白装束に荒縄を巻いた2000人もの上り子(男性のみ)が松明を手に急な石段を駆け降りる。新宮節に「山は火の滝、下り龍」と歌われるほど、豪快な火祭りの神倉神社を訪れる。

本宮、那智とともに熊野三山の一つ。景行天皇の時代に社殿を造営したと伝えられ、主神は速玉大神と夫須美大神。現在の社殿は、昭和になって再建された。速玉大神を祭る速玉宮の社殿は切妻正面に庇を付けた独特の熊野造で、前に礼殿が立つ。参道には、平重盛が植えたといわれる樹齢1000年のナギの巨木(天然記念物)がある熊野速玉大社を訪れる。

熊野速玉大社に伝わる室町時代の蒔絵手箱(国宝)や彩絵檜扇(国宝)など1200点もの神宝類を展示。美術的価値だけでなく、当時の風俗や熊野信仰を知る上でも重要な熊野神宝館[熊野速玉大社]を訪れる。

新宮市出身で熊野をこよなく愛し、「望郷詩人」としても知られる作家・佐藤春夫。東京の佐藤家旧宅を生誕地近くの熊野速玉大社の境内に移築復元し、記念館として公開している。館内には、小説、戯曲、評論、随筆、翻訳と、幅広い活躍をした作家の自筆原稿や自作の絵画、愛用品などを展示する佐藤春夫記念館を訪れる。

熊野川を見下ろす高台にある公園。新宮城(丹鶴城)は1633年(寛永10)に完成し、浅野氏2代、水野氏10代と続いた三万五千石の居城だった。名前は、築城前に源為義の娘である丹鶴姫が開いた東仙寺があったことから。太平洋をよく見渡せるため沖見城とも呼ばれたが、明治時代に城はとり壊され、石垣と天守台しか残っていない新宮城跡(丹鶴城公園)を訪れる。

新宮駅の近くにある、中国風の楼門がひときわ鮮やかな公園。園内には、徐福の墓や顕彰碑、徐福の重臣たち7人を祭った七塚の碑などがある。徐福とは、中国の歴史書『史記』によれば、今から約2200年前、秦の始皇帝に方土(仙術者)として仕えた人。皇帝の命を受け不老不死の霊薬を探しに、東方に浮かぶ蓬莱の島に向かって出航した。熊野で不老長寿の木といわれる天台烏薬を見つけたが、気候温暖で風光明媚な土地柄を気に入り、熊野を永住の地とした。土地を開拓し、農耕、漁法、紙すきなどの技術を伝えたといわれる徐福公園を訪れる。

島全体が沼の上に浮いている不思議な森。面積は約5000平方mで、増水すると森全体が浮き上がってくるという。森の中には遊歩道があり、歩くと足元に揺れを感じる。また、寒暖両性の植物の混生群落があり、寒帯性のオオミズゴケ、温帯性から亜寒帯性のヤマドリゼンマイなど、130種類もの植物が自然混生している新宮蘭沢浮島植物群落(浮島の森)を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、近場の南紀和歌山に足を運び、田辺・白浜から海岸線に沿って移動、串本・太地・那智勝浦・新宮の観光名所をドライブ観光してきました。

世界遺産の社寺・古道、険しい自然の景勝、数多くの自然と文化遺産の宝庫和歌山観光、満喫しました。

当日は冬型の気圧配置、南紀の和歌山での雪がちらつき、温度も1℃、山沿いは雪も積もり、険しい寒さの中でのドライブ観光でした。

往路は海岸線を高速道路を使って白浜まで到達しましたが、復路は新宮から山越えで十津川経由で考えていましたが十津川の手前で積雪、チエーンが必要とのことでこのルートを断念、本宮から中辺路を経由して白浜に向かい往路と同じ高速道路を使って戻りました。おかげで到着もかなり遅れてしまいました。
冬は4駆のスタッドレス使用の車が欠かせないですね。




























滋賀県大津周辺観光
2011年1月12日


近畿の水瓶日本一のびわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、県庁所在地の大津、世界遺産比叡山延暦寺、源氏物語紫式部ゆかりの石山寺が位置する大津周辺を訪れました。

12:30車で第二京阪京滋バイパス経由し
13:15石山インター下車

立木山の中腹に位置し、境内まで約750段の石段が続く立木観音。平安初期の創建で、弘法大師が42歳の厄年に開基し、厄除けの観音様として信仰を集める立木観音を訪れる。

1690年(元禄3)、芭蕉が約4カ月間を過ごした庵。俳文の傑作『幻住庵の記』は、芭蕉が湖南を見下ろす国分山山中に位置するこの庵で書いたもの。現在、近津尾神社境内の庵跡地には1991年に再建された庵と句碑が残る幻住庵を訪れる。

総面積674平方kmを誇る日本最大の湖で、滋賀県の面積の約6分の1を占める。三重県上野盆地にできた大山田湖が琵琶湖の原形といわれ、約400万年をかけて現在の位置まで移動してきたと考えられている。一年中琵琶湖で見られるカイツブリは滋賀県の県鳥に指定されている。冬になるとカモやコハクチョウなどの多くの水鳥が飛来し、バードウォッチャーの目を楽しませる。またビワマスやニゴロブナ、イサザなど数多くの固有種が生息する珍しい湖であるが、近年は外来種の繁殖や自然環境の変化などの影響で固有種が徐々に減少する傾向にある琵琶湖を訪れる。

膳所焼は江戸初期に小堀遠州の指導で始まった、膳所藩の藩窯が起源。黒味を帯びた鉄釉が美しく、遠州七窯のひとつでもある。館内では、古膳所焼の水指や茶入など茶陶器類を中心に展示する膳所焼美術館を訪れる。

「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」という百人一首の作者で、琵琶の名手として知られる平安時代の歌人・蝉丸を祀る。蝉丸が逢坂山に隠棲していたという伝説にちなんで建てられ、この下社のほか上社が近くにある。境内入口には関の清水跡、本殿横に鎌倉時代の時雨灯籠と呼ばれる石灯籠(重要文化財)がたたずむ。上社の南西、国道1号北側には逢坂山関跡がある関蝉丸神社下社を訪れる。

俳句をテーマとした全国でも珍しいギャラリー。マガジンハウスの創立者で、『平凡』の編集長として活躍した清水達夫氏の俳句などを展示する。館内には、彼と親交があったペーター佐藤、大橋歩など著名な芸術家の作品とともに約30点が並ぶ淡淡美術館を訪れる。

大津港の約180m沖合の防波堤上で、形を変化させながら吹き出す噴水の横幅は440mあり、世界最大級。豪快な水しぶきが日没後はカラフルにライトアップされ、幻想的なムードを醸し出すびわこ花噴水を訪れる。

琵琶湖から京都へ続く人工水路。着工から約4年8カ月かけて、1890年(明治23)に完成した。流通経路として活躍しただけでなく、水力発電や上下水道も整備したことで京都の都市機能は著しく発展した。詳細は京都南禅寺近くに立つ琵琶湖疏水記念館。春になると、大津港近くの取水口からトンネルまでの疏水沿いに桜が咲き乱れ、多くの花見客で賑わう琵琶湖疏水を訪れる。

園城寺山門の北側、白壁に囲まれて立つ皇室ゆかりの門跡寺院。987年(寛和3)に、村上天皇の皇子・悟円法親王が開いたと伝えられる。境内には書院造の宸殿(重要文化財)や、「三井の名園」と呼ばれる池泉観賞式の庭園(史跡・名勝)、円山応挙の作品などを展示した大津絵美術館がある圓満院を訪れる。

近江神宮にあり、和時計を中心とした約2300点の収蔵品のうち、約800点を常設展示。江戸時代末期の作品で、完全な形で現存するものとしては唯一の垂揺球儀は必見。櫓時計や尺時計など珍しいものも多い。中国の古代火時計と漏刻の復元模型の屋外展示もある時計博物館[近江神宮]を訪れる。

静寂な比叡山南麓にたたずむ寺跡で、天智天皇が大津京鎮護のため建立したと伝えられている。現在残る礎石などから金堂、講堂、三重塔などが立ち並ぶ大寺院だったことがうかがえる。境内からは、仏舎利を納める舎利容器(国宝)(近江神宮所蔵、現在京都国立博物館に寄託中)が出土している崇福寺跡を訪れる。

滋賀院門跡の上にある。信長による焼き打ちのあと、延暦寺の復興に尽力し、家康をはじめとした江戸幕府に仕えた慈眼大師天海を祀る廟所。境内には家康や紫式部の供養塔、江戸以降の天台座主の墓のほか高島市の鵜川四十八体石仏のうちの13体などが並ぶ慈眼堂[滋賀院門跡]を訪れる。

延暦寺と日吉大社の門前として栄えた坂本は、古い民家や神社の石塀などに巧みに積み上げられた石垣が見られる。これを「穴太衆積み」といい、坂本地域に住んだ、比叡山の土木と修繕作業などを行っていた「穴太衆」という石工集団の技によって生まれた技法だ。加工を施さない自然のままの石の面を使い、自然の美しさと堅固さを今も保っている穴太衆積みの石垣を訪れる。

聖徳太子の創建と伝えられる天台真盛宗の総本山。信長の比叡山焼き打ち後、坂本城の城主となった明智光秀の尽力により復興した。入母屋造の本堂(重要文化財)、桃山様式を伝える客殿(重要文化財)、小堀遠州作庭の客殿の庭などみどころも多い西教寺を訪れる。

応永年間(1394~1427)、華叟禅師が創建したと伝えられる臨済宗大徳寺派の禅寺。トンチで有名な一休和尚が若きころ華叟禅師の弟子として修行に励んだ寺院としても知られる。開山堂には2僧の木像が安置されている。俳人・松尾芭蕉が訪れたこともあり、1690年(元禄3)の秋に詠んだ句「朝茶飲む僧静かなり菊の花」が句碑として残されている祥瑞寺を訪れる。

1964年(昭和39)、大津市と守山市との間に開通。長さ1350m、最大高さ26.3mのアーチ型の橋で、琵琶湖の東西岸を結んでいる。両側には自転車、歩行者道が併設する琵琶湖大橋を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、何回も訪れたことのある近場の滋賀県大津周辺を巡り、多くの寺社を回り、歴史学習できました。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第百二十七弾:沖縄本土&水納島&津堅島観光
2011年1月8ー10日


大小160の島々からなり、わが国唯一の亜熱帯性気候で年平均気温は約23℃、日本の南国リゾート沖縄に足を運び、その形からクロワッサンアイランドとも呼ばれ、周囲をサンゴ礁とエメラルドグリーンの海が取り巻く美しい島、水納島、勝連半島の先端からわずか4kmほど先にある平坦で土が根菜類の栽培に適しているためニンジン栽培が盛んでニンジン島として有名な津堅島を訪れました。

8日15:10関西国際空港出発
17:30那覇空港到達、レンタカーでコザに向かう。
18:30コザのホテル到達後、

嘉手納空軍基地の第2ゲートへ続くことから、通称ゲート通りともよばれる。横文字看板を掲げるテーラーや飲食店が立ち並ぶ通りの様子は、中央パークアベニューと違い、今もアメリカ統治時代の面影を強く残すコザゲート通りを散策して食事を済ませて就寝。

9日7:00レンタカーで出発、北部に向かう。

那覇から国道58号を北上すると、ひときわ目立つ観覧車が目印。人気のアミューズメント施設やショップ、レストラン、映画館、ライブハウスなどが立ち並び、昼夜問わず観光客や地元客で賑わっている。天然温泉やプールが楽しめる「ちゅらーゆ」、サンセットビーチも隣接しており、色々な楽しみ方ができる人気のエリア美浜アメリカンビレッジを訪れる。

標高127mの高台にある城跡で、15世紀初めに名築城家として知られる護佐丸によって築城された。2つの郭からなる連郭式。沖縄に現存するものでは最古といわれるアーチ門の優美な姿や、高さ14m・延長360m余りの城壁の堂々たる構えは見応え充分。沖縄戦の際には旧日本軍の高射砲陣地となり、戦後には米軍のレーダー基地が置かれていたが、現在では戦争の面影は見られず静けさを取り戻している。城壁の上からは、東シナ海の島々や那覇から本部半島までの沖縄本島西海岸を一望することができる座喜味城跡を訪れる。

高さ30~40mにおよぶ隆起サンゴ礁の絶壁が、2kmにわたって続く景勝地。かつては航海の難所だったといわれるだけあって周辺の海は波が荒く、崖壁に当たって砕け散る白い波しぶきは豪快そのもの。ダイビングや釣りのスポットとしても人気が高い。岬の先端からは慶良間諸島や伊江島が望め、特に夕暮れ時の景観が美しい。岬の手前には、残波岬いこいの広場が整備されており、7mの巨大な残波大獅子がランドマークとして訪れた人々を迎えてくれる。敷地内一面に芝生が敷きつめられた公園は、レストランやレジャー施設も完備。海岸沿いにはエメラルドグリーンの海が美しい残波ビーチもあり、夏には海水浴を楽しむ多くの人で賑わう残波岬を訪れる。

隆起サンゴの岩礁でできた断崖切り立つ景勝地で、ダイビングや釣りのスポットとしても人気が高い。先端の展望台に立つと、西に残波岬、北東に万座毛、遠くには北部やんばるの山々が見渡せる。断崖の東側には海岸へ下りていく階段があり、間近で見る隆起した岩礁と透き通った海とが織りなす景観がすばらしい真栄田岬を訪れる。

東シナ海に突き出す万座毛は、高さ20mの琉球石灰岩の断崖と、その上に広がる芝生の公園で、沖縄きっての名勝。遊歩道を進んでいくと、万座毛のシンボルである象の鼻を連想させる隆起サンゴが現れる。1726年(享保11)、ここに立ち寄った琉球王尚敬が、「万人が座するに足る毛(野原)」と賞賛したのもうなづける景観だ。この言葉は地名の由来にもなっている。駐車場の入口には、18世紀の沖縄の代表的女流歌人、恩納ナベが王一行を歓迎して詠んだ「波の声もとまれ 風の声もとまれ 首里天加那志美御機拝がま」の歌碑が立つ万座毛を訪れる。

10:30渡久地港到達
11:00渡久地港高速艇で出発
11:15水納島到達、散策する。

本部半島の西方約7kmに位置する標高12mと平坦な隆起環礁状の島。島の形から、「クロワッサンアイランド」と呼ばれ、島の東から北にかけて連なる純白の砂丘、島を取り巻くように発達したサンゴ礁、エメラルドグリーンの海の美しさは、沖縄観光のキャッチフレーズ「海と空の美しさ」を象徴する景観で、かつては、島全体がメンナノ御嶽として聖域となっていました。明治23年、瀬底島の製糖組が開拓するまでは無人の島であり、同36年ごろ瀬底島から13戸が移住、集落が形づくられました。現在は、ニンジン、スイカ等の栽培と畜産が営まれています。島名は、文献によると「井戸皆無なり、島名これによっておこるか」とあり、水のない島ということから名づけられた水納島を散策する。

14:00水納島高速艇で出発
14:15渡久地港到達、レンタカーでやんばる方面に向かう。

宜名真の集落から山道を上る旧道沿いに続く、高さ80mもの切り立つ断崖。バンタとは崖の意で、束ねた茅を崖から投げ込むと、強風に打たれてバラバラになることからこの名がついた。茅打ちバンタに向かう道は、曲がりくねった急な坂道で、ここで行き会うとどちらかが下がって道を譲らなくてはならなかったので、戻り道とも呼ばれていた。崖の上の展望台から眼下を見下ろせば、思わず目もくらむ高さを実感できる。先に目を向けると、澄んだ海原に浮かぶ伊平屋島や伊是名島が見渡せる茅打バンタを訪れる。

沖縄本島最北端の地で、隆起サンゴの断崖がそそり立つ景勝地。岬の先端に立つと、左手に伊是名島や伊平屋島、北の海上には与論島も見渡せる。与論島を含む奄美諸島は1953年(昭和28)に本土に復帰したが、沖縄の本土復帰が実現するのは、1972年(昭和47)。先端付近には米軍統治時代に、与論島とこの岬でかがり火を焚き、本土復帰を訴えた海上集会を記念して立てられた祖国復帰闘争の碑がある。岬の背後にそびえる岩山は、辺戸岳。辺戸御嶽ともいわれ、琉球の祖先アマミキヨが沖縄の島々を創ったときに最初にこしらえたという伝説が残る霊地がある辺戸岬を訪れる。

17:00コザ方面に戻る。
20:00コザホテル到達就寝。

10日6:30レンタカーで出発、平敷屋港に向かう。
7:00平敷屋港到達
7:30平敷屋港高速艇で出発
7:45津堅島到達

与勝半島から南東約4km沖に浮かぶ周囲7kmの平坦な島。島の特産物であるニンジン畑が島一面に広がり、別名・キャロットアイランドとも呼ばれる。緑深いモクマオウの林を抜けると、白砂のビーチが1kmにわたって続くトマイ浜。シュノーケリングなどが楽しめ、干潮時には歩いて渡ることができる無人島、アフ岩もぜひ訪れてみたい。近くにあるキャロット愛ランドは、キャンプ場や展望台を備える憩いの場もある津堅島を散策する。

10:00津堅島フェリーで出発
10:30平敷屋港到達、レンタカーで北に向かう。

与勝半島の付け根付近、標高100mほどの高台に立つ梯郭式の城。高さが段違いになった5つの郭で構成されている。12世紀前後にかけて築城されたといわれ、農民の出身ながら勝連城主に登りつめた15世紀の阿麻和利の時代に増築された。傾斜を利用し、美しく積み上げられた城壁がかつての繁栄を今に残している。石畳の階段を上ってたどり着く一の曲輪からは、周辺の島々を一望できる勝連城跡を訪れる。

16世紀に日秀上人によって建立されたといわれる真言宗の寺。境内には樹齢350年を超えるフクギの大木をはじめ、アカギ、デイゴなどの木が立ち並ぶ。境内右側には大蛇退治の伝説が残る長さ270mの鍾乳洞、日秀洞がある金武観音寺を訪れる。

金武観音寺境内にある長さ270mの鍾乳洞。大蛇退治の伝説が残り、琉球八社の一つ、金武宮が祭られている。現在は、天然の泡盛貯蔵庫として活用されている金武鍾乳洞[金武観音寺]を訪れる。

慶佐次川河口の慶佐次橋周辺から上流約1kmにわたって、本島最大規模のヒルギ林が広がっている。メヒルギ、オヒルギ、ヤエヤマヒルギの3種類からなり、なかでもヤエヤマヒルギはここが分布の北限地となる。タコの足のような根を張るマングローブが延々と連なるさまはなかなかユニークの慶佐次湾のヒルギ林を散策する。

沖縄自動車道経由して那覇方面に向かう。
西原インター下車

那覇市を見下ろす標高約120mの高台に立つ琉球王国の象徴。1429年(永享元)から始まる琉球王朝の居城であるとともに、政治や文化、外交、祭礼の場でもあった。創建は14世紀末初め~中期と推定され、地勢面、軍事面はもちろん、風水上も理想的な立地だった。城内の構成は、北京の紫禁城、ソウルの景福宮や昌徳宮との類似点も多く見られ、アジア各国との交易が盛んであったことがうかがえる。沖縄戦により焼失したが、1992年、本土復帰20周年を期に、1768年(明和5)の工事記録として残る資料をもとに復元された首里城公園(首里城)を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)の上郭の外に立つ楼門。中国の三間牌楼形式を基本に2層の赤瓦を葺いた屋根は、入母屋造といった独自の建築工法で造られている。門中央に掲げられた扁額にある「守禮之邦」は、「琉球は礼節を重んずる国である」という意味。1527年(尚清王時代)に創建されたが沖縄戦で破壊。現在の門は1958年(昭和33)に復元されたもの守礼門[首里城公園]を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)の守礼門をくぐって、左手にある石門で国王が行幸(旅)する際道中の安全を祈願したという拝所だったと伝えられる。現在も敬けんな沖縄の人々の祈りが絶えない園比屋武御嶽石門[首里城公園]を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)第一の門。中国から来た冊封使や国王が出入りした正門で、日本では珍しい中国風のアーチ式城門と両脇の石獅子が目を引く歓会門[首里城公園]を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)第二の門。歓会門をくぐり階段を登って行くと現れる。門の手前の右側には、国王や冊封使の飲み水となる清水を注ぐ石彫りの龍樋がある。この琉球一と謳われた清水が門の名前の由来となっている瑞泉門[首里城公園]を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)第三の門。楼内の水時計で時間を計り、太鼓で時間を報じていたことから名前がついたという。駕籠での入場を許されていた高官も、この門からは下りて歩いたと伝えられる漏刻門[首里城公園]を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)第四の門。現在は首里城正殿の入場券売り場となっている。王朝時代は門の両側が役所になっていて、東側が士族の財産争いを調停する大与座、西側は社寺仏閣関係を扱う寺社座だったという広福門[首里城公園]を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)正殿に入る最後の門で、広福門を抜け下之御庭と呼ばれる広場の左側にある。出入口は3カ所あり、中央の高い門は国王や賓客が、左右の門は家臣たちが利用したといわれる奉神門[首里城公園]を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)の正殿前に広がる広場が御庭。赤白の鮮やかなラインは役人が位順に並ぶための目印といわれる。磚という敷き瓦が敷きつめられている首里城のほぼ中央に位置する東西約40m、南北約44mの空間は、中国からの冊封の式典や儀式、芸能などの舞台として利用された重要な空間であった。また、奉神門から正殿に通じる道は浮道といわれ、国王や冊封使などのみが通ることができた御庭[首里城公園]を訪れる。

首里城正殿に向かって右側に位置する建物で、平屋建て部分が城内の行政施設の表玄関・番所。2階建て部分が行催事を行う南殿。薩摩藩の役人の接待所でもあった。2つは廊下でつながり、現在は王朝時代に制作された絵画や漆器などの美術工芸品などが展示されている南殿・番所[首里城公園]を訪れる。

琉球王国最大の木造建築物で首里城(世界遺産・史跡)の顔。2重3階建ての建物や装飾化した龍柱、屋根に横たわる龍の棟飾などは、琉球独自の形式といわれる。1階の下庫理は、国王や重臣たちが重要な儀式や会議を行ったところ。また、王家の行事が催された2階の大庫理には、国王や女官が国家安泰や子孫繁栄を祈願したおせんみこちゃの間もある。華麗な彫刻で飾られた正殿のなかでも目につく龍は国王のシンボルで、たくさんの龍が首里城には棲んでいる正殿[首里城公園]を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)正殿に向かって左側の平屋の建物で、通常は重要案件を審議したり、表15人衆や里之子と呼ばれる役人が働く行政施設だったが、冊封使(中国皇帝の使節団)が訪れると接待所として使われた。1853年(嘉永6)に上陸したペリー提督ともここで応接を受けた北殿[首里城公園]を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)北殿北側の坂道つきあたりにあるのが右掖門。国王のプライベートな空間、御内原への通用門だった門の右掖門[首里城公園]を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)北側城壁にあり、主に女性たちが使用していた通用門。歓会門と同様、石造アーチ門で、現在は一般見学コースの出口になっている久慶門[首里城公園]を訪れる。

首里城外郭に設けられた門で、城の修理工事の際に使用されていた。現在は常時開いていて、車イス利用者などバリアフリーコースの出入口になっている木曳門[首里城公園]を訪れる。

首里城公園の北、円鑑池周辺の一角に架かる龍淵橋の奥に広がるのが龍潭。この大きな池は尚巴志王時代の1427年(応永34)、冊封使を歓待するために造られたもの。池のほとりの花と、水面に映る首里城を眺め、龍船を浮かべてハーリー船競漕を楽しんでいたという往時が偲ばれる龍潭を訪れる。

首里城公園の北側にある大小の人工池。円覚寺総門の西側にある小さな円い池が円鑑池。池には弁財天堂のある中之島に琉球石灰岩の切石が積まれた天女橋(重要文化財)とよばれる橋が架かかっている。弁財天堂は1502年(文亀2)、朝鮮国王から贈られた方冊蔵経を納めるための経堂だったが、1609年(慶長14)の薩摩藩侵入で蔵経が焼失、代わって円覚寺にあった弁財天像を移したことからついた名前だという弁財天堂と円鑑池を訪れる。

1494年(明応2)、第二尚氏の第3代尚真王によって3年かけて造られた第二尚氏王家の菩提寺。鎌倉の円覚寺を模して建てられたもので、かつて広い寺域には総門、放生橋(重要文化財)、山門、仏殿、龍淵殿が一直線に並び、優美な姿を誇っていたという。先の沖縄戦で破壊され、現在は総門と放生橋のみが復元された。放生橋は沖縄最古の石橋で、獅子や鶴亀、牡丹などが彫られている。その緻密で豪放なレリーフは、沖縄石彫美術の最高峰と謳われるほどの円覚寺跡を訪れる。

1501年(文亀元)、尚真王により父尚円の遺骨を改葬するために建てられた第二尚氏歴代の墓。首里城の西側に位置する壮大な石造建築物。板葺き屋根の宮殿を模した切妻屋根型の墓室が東室・中室・西室の3基連なり、東室には国王、王妃の遺骨、西室には王族の遺骨、中室には洗骨前の遺骸を安置したとされる玉陵を訪れる。

首里城の南側、日本の道100選にも名を連ねる城下町の風情漂う散策道。約300mわたって続く石畳道は1522年(大永2)に造られた首里城から国場川に架かる真玉橋まで4km続く南部への幹線道路(真珠道)の一部だった。沖縄戦で真珠道のほとんどを失ったが、金城町は死角であったため、奇蹟的に戦禍をまぬがれた金城町の石畳道を訪れる。

首里城(世界遺産・史跡)の南に位置する琉球王家最大の別邸で、中国の冊封使の接待に利用されていた。約4万2000平方mの園内は、池の周りを歩きながら景色の移り変わりを楽しむことを目的とした庭園となっていて、フクギやガジュマルが生い茂る。基本的には日本庭園だが中国式のデザインも取り入れられ、琉球独特の雰囲気が漂う。池に架かる橋からの眺めも情緒豊か。写生を楽しむ人の姿も見られ、沖縄ならではのゆっくりとした時間の流れを感じることができる識名園を訪れる。

14:30終了、空港に向かう。
17:00那覇空港到達
18:15那覇空港出発
20:05伊丹空港到達

今回の旅行、何回も訪れたことのある日本の南国リゾート沖縄に足を運び、沖縄諸島の最後の訪れとなった周囲をサンゴ礁とエメラルドグリーンの海が取り巻く美しい島、水納島、ニンジン栽培が盛んでニンジン島として有名な津堅島の2つの離島と本土の観光名所2泊3日で訪れました。

素朴な2つの離島と主に中部から北部の広範囲の本土の多くの自然遺産・文化遺産のドライブ観光、満喫しました。

最終日の午後からは過去に何回も訪れたことのある首里公園、今回は時間を掛けてガイドブックを詠みながら巡り、琉球王の偉大さを感じ、歴史学習できました。

今回の旅行で沖縄本土含めて沖縄諸島をほぼ制覇できました。























飛行機で国内&海外の観光地巡り第百二十六弾:ケニアサファリ観光
2010年12月28ー2011年1月4日


世界で最もたくさんの種類の陸上哺乳類が見られる東アフリカケニアに足を運び、アフリカ最高峰キリマンジャロ山の山麓の北に広がる原野を国立公園としたアンボセリ国立公園、ケニア南西部、ビクトリア湖とグレート・リフト・バレーの間に位置している野生動物の多さではケニア国内で第一位の地区であるマサイ・マラ国立保護区、ケニア南西部に位置するフラミンゴの大群が見られるナクル湖、ナイロビからナクル、エルドレットへと続く道路を北上すると大地溝帯の一端に横たわり、周囲のみひときわ緑が濃いのが印象的で絶好のバードウオッチングのポイントであるナイバシャ湖を訪れました。

12月28日23:50関西空港カタール航空で出発
29日5:10ドーハ到達
7:10ドーハー出発
12:30ナイロビ到達、バスでアンボセリ国立公園に向かう。
17:30アンボセリロッジ到達

19:30マサイ族のダンス鑑賞

20:00夕食
21:00就寝

30日7:00ゲームドライブ出発

キリマンジャロ山麓の東側に位置する面積392平方キロメートルの国立公園、キリン・シマウマ・ゾウなどの草食動物が比較的多く生息するアンボセリ国立公園をサファリする。アフリカゾウ、ツキノワテルムク、シロサギ、ハゲノドシャコ、ダチョウ、シロクロゲク、カンムリツル、シマウマ、ハイガシラショウビン、クロトキ、エジプトガン、ヌー、グランドガゼル、ヘビクイイワシを確認する。

9:00ロッジに戻り朝食
10:30マサイ村に向かう。

伝統的な生活を守って暮らしているケニアの先住民族、非常に勇敢で、草原の貴族と呼ばれ、たくましく生きる民族は新鮮な感動を感じさせてくれるマサイ族を訪れる。

12:00ロッジに戻り
13:00昼食

15:30ゲームドライブに出発。アンボセリ公園に向かう。

公園内で唯一車から降りて歩ける、徒歩で登れる、高さ数十メートルの丘で、この丘の上からの見晴らしは、すばらしく、天候に恵まれれば、キリマンジャロ山がくっきり見え、そのはるか右側にはタンザニアのメルー山が見える。山を背にすると眼下に緑のベルトを敷いたような湿地帯が広がるアンボセリの展望台を訪れる。シマウマ、ヌー、キリン、トムソンガゼル、ゾウ、ダチョウ、カバ、ライオン、カンムリツルを確認する。

17:30ロッジに向かう。
19:00ロッジ到達。

19:30マサイ族のショウ鑑賞。

20:00夕食

21:30ナイトサファリに向かう。

昼に訪れたアンボセリ公園を夜の野生動物をナイトサファリする。ウサギ、ゾウ、グランドガゼルを確認する。

22:30ロッジ到達、就寝。

31日5:15起床
6:00朝食

6:45出発、ゲームドライブしながらナイロビに向かう。ダチョウ、グランドガゼル、ヌー、ジャッカル、カンムリツル、クロトキを確認する。

12:00ナイロビで昼食。マサイマラ国立保護区に向かう。

大阪府ほどの広さがあり、ケニアでは本格的なサファリができる地として有名で、動物の種類の多さと変化に富んだ環境など、ケニアで一番の人気の地と言われビッグファイブ(人気の5大動物:ゾウ・サイ・ライオン・バッファロー・ヒョウ)が生息しているマラサイマラ国立保護区を訪れる。インパラ、ホロホロ鳥、バッファロー、トピ、イボイノシシ、ウオーターバックを確認する。

19:00ロッジ到達。
20:00夕食
21:30就寝。
1日6:00起床
7:00朝食

7:30出発、タンザニア国境やマサイマラの奥地・マラ川に向かう。

マサイマラ国立保護区をゲームドライブする。キリン、インパラ、トムソンガゼル、ライオン、ウオーターバック、トピ、シマウマ、ヌー、オウカンゲリ、ホロホロ鳥、マングース、チーター、オリックス、ヒョウ、アフリカオオノガン、イボイノシシ、アフリカンハゲコウ、ライラックニシブッポウソウ、ヘビクイワシ、ハートビースト、ワシ、ゾウ、バッファロー、セネガルショウノガン、オスライオン、ミナミジサイチョウを確認する。

17:00ロッジ到達。
19:30夕食
21:00就寝
2日6:00朝食

6:45出発、ナクル湖へ向かう。

途中マサイマラ保護区ゲームドライブ。トピ、トムソンガゼル、シマウマ、イボイノシシ、ハイエナ、バッファロー、ディクディクを確認する。

14:00ナクル湖近郊で昼食

15:00ピンク色のフラミンゴで有名で、野鳥の宝庫として知られ、ペリカン、カモなどの野鳥の他、カバなどが生息しているナクル湖国立公園をゲームドライブする。コロンブスモンキー、バッファロー、ヒヒ、サイ、ウオーターバック、シマウマ、インパラ、ペリカン、タカ、フラミンゴを確認する。

17:30ナイバシャ湖畔のロッジ到達
20:45夕食
23:00就寝
3日7:00朝食

8:45出発、ナイロビの北88kmにあり、面積177平方キロメートルの真水の湖でペリカンやウなどの水鳥が多く生息し、絶好のバードウオッチングのポイントであるナイバシャ湖に向かう。

ナイバシャ湖でボートサファリし湖上から陸と違った、低い目線からの動物の姿を楽しむ。カバ、クロトキ、エジプトガン、ズアオカモメ、アフリカンハゲコウ、ヒメヤマセミ、キイロクチハシコウ、キリンを確認する。

11:00ナイバシャ湖からナイロビに向かう。
13:00昼食、昼食後近くのスーパーマーケツトで買い物。
14:30出発
15:00ナイロビ空港到達
18:50ナイロビ空港出発
23:45ドーハ到達
4日01:10ドーハ出発
16:20関西国際空港到達。

今回の旅行、世界で最もたくさんの種類の陸上哺乳動物が見られる東アフリカに足を運び、多くの動物が生息するサバンナが存在するケニアを訪れ、サバンナでのゲームドライブ・サファリを毎日行い、サファリ三昧の8日間でした。

普段日本では動物園でしか見られない多くの動物たちを広大なサバンナにある国立公園・保護地区でのサファリでの野生動物の探索ウオッチング癒されました。

アフリカゾウの大群、目の前でのキリンの親子、ライオンの群れ、数多くのカバの水浴、バッファローの大群、どれをとっても迫力があり、圧巻でした。

広大なサバンナをドライブし、サファリする。今までにないはじめての体験、感動の毎日でした。できればレンタカーで自分で車を運転していろんなサバンナを訪れて、多くの動物に接し、サファリしたいですね。