飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十五弾:長崎県長崎タウン観光
2011年5月28日ー29日


九州の長崎県に足を運び、江戸時代の鎖国の間、日本唯一の貿易港として中国やオランダとの文化交流が盛んに行われていた町、石畳の坂道を歩けば、洋館群やグルメなど、街中でその名残を感じることができる長崎タウンを訪れました。
28日16:10伊丹空港出発
17:25長崎空港到達、レンタカーで長崎タウンに向かう。
18:20長崎市内のホテル到着後、市街地を散策し食事を済ませて就寝。
29日6:30長崎タウンを散策する。

横浜・神戸と並ぶ三大中華街の一つ。江戸中期に唐船荷役の倉庫を建てるために埋め立てられた地域で、現在は多くの中国料理店や商店が並ぶ。中華街の東西南北には、それぞれ龍や白虎をあしらった朱塗りの中華門が立っていて、異国情緒をさらにかき立てている長崎新地中華街を訪れる。

長崎新地中華街の四方の入口に立つ朱塗りの門が「牌楼」、すなわち中華門。1985年(昭和61)、長崎新地中華街商店街組合により建てられた。それら4つの青竜門、白虎門、朱雀門、玄武門は正確に東西南北を示す位置にあり、それぞれ裏側に龍や朱雀など四方の守護神である中国伝説上の動物が彫られている中華門を訪れる。

1689年(元禄2)、江戸幕府が密貿易を防ぐことなどを目的として、唐人を集め、住まわせた屋敷の跡地。唐館ともよばれた建物群には約2000人が住み、周囲は塀や堀で囲われ外界から隔離されていた。現在、土神堂、天后堂、観音堂、福建会館が市の文化財に指定されている唐人屋敷跡を訪れる。

かつては外国人居留地にある坂道はすべて「オランダ坂」とよんでいた。現在では、活水女子大右横の坂道が特に有名。レンガ塀が残る石畳の坂道は、雨に濡れるとなお一層情緒を増すオランダ坂を訪れる。

1868年(明治元)に建設された三角屋根が目印のこの洋館は、ロシア領事館として使用されていたもの。当時の領事館で現存する最古の建物であり、その後はアメリカの領事館やアメリカ宣教師の住宅に使用された。幅の広い廊下やゆったりとしたベランダなどに、領事館時代の面影を見ることができる。現在は私学歴史資料館となっていて、居留地時代の私学の歴史を今に伝えている東山手十二番館を訪れる。

オランダ坂に面して並ぶ、7棟の洋館。明治20年代後半に外国人用の賃貸住宅として建てられたもので、7棟のうち5棟が資料館として見学できる。東山手地区町並み保存センターでは、外国人居留地時代の様子を写真やビデオで紹介。古写真資料館は、写真の開祖・上野彦馬の資料や明治・大正期の長崎に関する写真を多数展示している。埋蔵資料館では、江戸時代の遺跡の出土品などが見学可の東山手洋風住宅群を訪れる。

東山手洋風住宅群にある資料館。写真の開祖上野彦馬の資料や明治・大正期の長崎に関する写真を多数展示する古写真資料館[東山手洋風住宅群]を訪れる。

東山手洋風住宅群にあり、江戸時代の遺跡の出土品などが見学できる埋蔵資料館[東山手洋風住宅群]を訪れる。

1893年(明治26)、中国政府の多大な協力を得て華僑らによってつくられた、孔子を祭る聖廟。中国人が海外に建立した唯一の孔子廟としても知られる。廟全体が中国特有の雰囲気を醸し出す華やかな極彩色で飾られており、朱は魔除けと慶びを、黄色は皇帝を表す色として随所に用いられている。門をくぐり敷地内に入ると正面奥に大成殿がそびえ、その前庭には72体の賢人石像が左右にずらりと並んでいて壮観な孔子廟を訪れる。

孔子廟に隣接する施設。兵馬俑・陶磁器など、北京故宮博物館所蔵の宮廷文化財や中国国家博物館所蔵の出土文化財を多数展示。そのどれもが国宝級という貴重なものばかりだ。中国5000年の歴史の重みを感じさせる文化遺産が年代・王朝別にわかりやすく解説されていて、一見の価値がある博物館。1階には中国のみやげ品が買える売店も併設されている中国歴代博物館[孔子廟]を訪れる。

1864年(元治元)、フランス人プチジャン神父の尽力によって完成した現存する教会では日本最古の天主堂(国宝)。正式名称は日本二十六聖人殉教聖堂。建立の翌年、キリシタン弾圧の250年間(7世代)を耐え抜いた隠れキリシタンが「マリア像は何処」と訪れた話は世界のキリスト教史上名高く、そのマリア像も現存する。フランス製ステンドグラスは145年前のものの日本二十六聖殉教者天主堂(大浦天主堂)を訪れる。

約3万平方mの敷地内に、居留地時代から現存する国指定重要文化財の旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅のほか、市内に点在していた6棟の洋館を移築・復元。なかでも1863年(文久3)に建てられた旧グラバー住宅は現存する日本最古の木造洋館で、上から見ると四つ葉のクローバー型の屋根が特徴的。スコットランド出身の貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの旧邸で、現在は遺品を展示している。坂本龍馬と密談したといわれている隠し部屋も見どころ。園内の展望台からは長崎港を一望でき、夜のライトアップも美しいグラバー園を訪れる。

南山手乙9番館を利用した美術館。須加五々道画伯の作品を鑑賞できる。須加五々道画伯は、新日本画と呼ばれる水墨画の技術を基調に西洋の遠近法をとり入れた独特の画法で知られる。作品『農婦』は、1999年(平成11)にフランセーズ大賞を受賞。20数点の作品のほか、画伯が使用している筆も展示する長崎市須加五々道美術館を訪れる。
1904年(明治37)に建てられた洋館(重要文化財)。レンガと石造りの3階建てで市内の洋館の中でも最大級だ。4年の改修工事を終え、1996年から一般公開されている。1階は銀行業務に関する資料、2階に明治期の居留地での生活について、3階は諸外国との貿易の歴史に関する展示がある旧香港上海銀行長崎支店記念館を訪れる。

運河を挟んで、スペイン美術や長崎ゆかりの美術を展示する美術館棟と、ミュージアムショップや情報コーナーなどがあるギャラリー棟の2棟が立つ。2つの建物を結ぶ空中回廊にはカフェも併設。運河を眺めながらゆっくりとお茶を楽しめる。長崎水辺の森公園につながる屋上庭園からは長崎港が一望の長崎県美術館を訪れる。

鎖国の際に平戸より移され、約200年間唯一の西洋との貿易の窓口だった商館の跡地。近代の港湾埋立によって市中に埋もれてしまったが、現在19世紀初頭の出島を復元する事業が進行中。10棟の復元建物を見学できる。約15分の1のサイズのミニ出島、出島の歴史やオランダ商館員の暮らしを映像で紹介する出島シアターなどもある出島(出島和蘭商館跡)を訪れる。

川原慶賀が描いた『長崎出島之図』を参考に、1820年(文政3)ごろの出島を15分の1の大きさで再現したもの。出島和蘭商館跡地にある。幕府のキリスト教禁止政策により、新教国で布教活動を行わないと誓ったオランダが貿易権を獲得。1641年(寛永18)、平戸からオランダ商館が移されて1859年(安政6)の開国まで218年間、西洋への唯一の窓口となった。1904年(明治37)に埋め立てられるまでの出島の姿を今に伝えるミニ出島[出島]を訪れる。

1629年(寛永6)、明の僧・超然が創建した黄檗宗の寺院。竜宮城を思わせる朱塗りの山門が印象的。黄檗天井と称されるアーチ型天井をもつ入母屋造の大雄宝殿(国宝)や第一峰門(国宝)、鐘鼓楼(重要文化財)などの唐様の堂宇が立ち並ぶほか、境内には飢饉の際、住民を救うため作られた大釜などもある。毎年旧暦の7月26〜28日には中国盆会が行われ、賑わいを見せる崇福寺を訪れる。

1634年(寛永11)、唐僧・黙子如定によって架設。中島川石橋群の中では唯一の双円アーチ型で、水に映った姿が眼鏡のように見えるためこの名が付いている。眼鏡橋のビューポイントは2つ隣の東新橋。アーチが高いので、眼鏡橋を正面から見下ろす角度で見ることができる。橋の向こうに夕日が沈む景色は一見の価値あり。河畔は中島川公園として整備され、枝垂れ柳が風情を感じさせる眼鏡橋を訪れる。

1620年(元和6)創建。日本の唐寺では最も古く、長崎三福寺の一つ。2代目住職は眼鏡橋を造った如定で、黄檗宗開祖・隠元禅師が最初に入山した寺でもある。威風堂々とした寺が立ち並ぶ寺町通りのなかでも、総朱丹塗りの大きな山門が際立つ。鮮やかな色彩の彫刻が施された大雄宝殿(重要文化財)や唐人屋敷門(重要文化財)、孔子を祭った中島聖堂などみどころは多い興福寺をおとずれる。

長崎の街を見渡せる風頭山山頂にあるこの公園は、坂本龍馬の銅像や司馬遼太郎の記念碑が立つことでよく知られており、毎年それぞれのファンが多く訪れている。また、この公園は長崎では「ハタ」とよばれる凧をあげて「けんか凧」を楽しむ場所としても有名。カラフルで大胆なデザインの凧を、空中でお互いにからませて相手の糸を切る戦いは、勇壮で美しい風頭公園を訪れる。

長崎奉行所立山役所の建物を同じ場所に復元・整備。長崎奉行所の役割と近世長崎の海外交流史を、歴史・美術・工芸資料や映像などを通して紹介している。解体新書や踏み絵、シーボルトが実際に使用した医療器具などを常設展示している長崎歴史文化博物館を訪れる。

豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって捕えられた26聖人が1597年(慶長元)に処刑された場所。キリストが十字架に架けられたゴルゴダの丘と似ているため、彼らはこの西坂の丘を自らの希望で処刑地に選んだという。なかには12歳の少年もいた。ここにはその26名のレリーフ像が長崎港に向かって立っている。キリシタンに関する資料が豊富な日本二十六聖人記念館も併設されている日本二十六聖人殉教地を訪れる。

標高333m。市内屈指の夜景スポット。山頂には稲佐山展望台があり、港や市街地を一望できる稲佐山を訪れる。

標高333mの稲佐山に整備された展望公園。山頂の展望台からは港や市街地が一望で、360度のパノラマが楽しめる。1000万ドルの夜景は必見。中腹にはサル舎や鹿舎、野外音楽堂などもある稲佐山公園を訪れる。

山王神社の鳥居。原爆の爆心地から南東約800mに位置したため、強烈な熱線で上部が黒く焼け、爆風によって片方の柱と鳥居上部が破壊された。残った笠石の半分を一本柱で60年以上も支えている山王神社二の鳥居(一本柱鳥居)を訪れる。

被爆10周年の1955年(昭和30)に長崎国際文化会館として開館、被爆50周年の記念事業として改築された。展示室では被爆資料や再現模型で原爆投下直後の惨状を再現するほか、記録映画が見られるビデオルームもある長崎原爆資料館を訪れる。

近代日本の代表的洋画家・野口彌太郎の作品を約30点展示。『長崎の情緒』『長崎の風』など、長崎を描いた作品もある長崎市野口彌太郎記念美術館を訪れる。

キリシタン弾圧に耐え、明治維新後の禁教令廃止によって信仰の自由を与えられた信者らが、明治28年から30年をかけて建てた東洋一の大聖堂だったが被爆。堂の前にある被災した天使像が原爆の脅威を物語る。奇跡的に残ったアンジェラスの鐘は今でも現役の浦上天主堂を訪れる。

『長崎の鐘』『この子を残して』などを著した医学博士・永井隆が、晩年「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉から「如己堂」と命名した住居。自らも被爆しながら、被爆者の救護に尽力した。隣接の長崎市永井隆記念館では原稿など遺品を展示する如己堂・長崎市永井隆記念館を訪れる。

北村西望作の平和祈念像が中央に位置する公園。像の高く掲げた手は原爆の脅威を、水平に伸ばした手は平和を象徴、閉じた目は戦没者の冥福を祈っている。園内には平和の泉があり、周りには世界各国から寄贈された平和を象徴するモニュメントがある。原爆投下時、この地にあった浦上刑務所の壁も残っている平和公園を訪れる。

原爆落下中心地に立つ黒御影石の石柱の碑。この碑の約500m上空で原爆が炸裂、半径2.5kmに及ぶ地域を壊滅させた。そばには爆心地から北東約500mの場所にあって壊滅した浦上天主堂の遺壁の一部が移築されている原子爆弾落下中心地碑を訪れる。

外海方面に向かう。

『白い人』『沈黙』『深い河』などで知られる、遠藤文学をしのぶ記念館。館内には生原稿やペンなど、遠藤氏の遺品約3万点と蔵書約7000点を収蔵している長崎市遠藤周作文学館を訪れる。

16:00長崎空港に向かう。
17:00長崎空港到達。
17:55長崎空港出発
19:20伊丹空港到達

今回の旅行、長崎県の島々、軍艦島、伊王島を訪れる予定でしたが、台風に悪影響でフェリー欠航、急遽長崎タウンと長崎郊外の名所観光に変更しました。

何回も訪れたことのある長崎タウンの教会群や寺社等の点在する歴史的建造物は立派、近い将来世界遺産に登録されるでしょうね。

豊富な観光名所が点在する長崎タウンドライブ観光でした。
















滋賀県伊吹山周辺・長浜観光
2011年5月25日


近畿の水瓶、日本一のびわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、花々が咲く伊吹山周辺の自然に囲まれたエリア、城下町でレトロモダンな町並みの長浜を訪れました。

12:30車で第二京阪名神自動車道経由して米原インター下車
13:30伊吹山周辺に到達。

聖徳太子が創建し、後に一向上人が再興した。鎌倉幕府崩壊とともに自刃した北条仲時と家臣の墓(史跡)が境内にあり、彼らの名前を記した「陸波羅南北過去帳」(重要文化財)も残る。長谷川伸作の『瞼の母』で有名な、「番場の忠太郎」の地蔵も祀られている蓮華寺を訪れる。

明治維新まで大名として続いた京極氏の菩提寺で、京極家墓所(史跡)に歴代34基の宝篋印塔が並ぶ。また、小堀遠州作といわれる回遊式庭園が見事である清滝寺徳源院を訪れる。

鎌倉時代に農業池として造られた広さ約3万9000平方mの池。マガモの自然繁殖池としても知られる。マガモ、ヒドリガモ、オシドリなどさまざまな水鳥が飛来し、野鳥観察も楽しめる三島池を訪れる。

長浜方面に向かう。

正式には真宗大谷派本願寺別院大通寺といい、「ごぼうさん」の名で親しまれている。桃山建築の本堂(重要文化財)と大広間(重要文化財)、伊吹山を借景にした枯山水庭園の含山軒庭園(名勝)、円山応挙や狩野山楽・山雪が描いた障壁画などみどころが多い大通寺(ごぼうさん)を訪れる。

長浜市内にある秀吉ゆかりの6社寺(長濱八幡宮、豊国神社、知善院、総持寺、舎那院、神照寺)を巡って、無病息災と開運招福を祈り、祈祷された瓢箪各400円を集める。「6つの瓢箪=むびょうたん」ということから、無病に通じ縁起がよいものとして広く親しまれてきた六瓢箪巡りする。

六瓢箪巡りの一つ。運慶作と伝えられる十一面観音坐像(重要文化財)が、境内の観音堂に安置されている知善院[六瓢箪巡り]を訪れる。

19世紀末から20世紀初めに活躍した、フランスのガラス工芸作家ルネ・ラリックの作品を集めた私設美術館。館長が50年以上かけて世界各地で収集した約200点以上の作品のうち、花瓶や鉢など50〜70点を展示する成田美術館を訪れる。

将軍足利義晴の命で1544年(天文13)に初めて鉄砲を製造して以来、鉄砲鍛冶の村として発展してきた国友の里。展示室には鉄砲鍛冶の仕事ぶりを再現したジオラマや、実物の火縄銃に触れられる体験コーナーがある国友鉄砲の里資料館を見学。

正式には真宗大谷派本願寺別院と呼ばれ、1597年(慶長2)に地元出身の郷士大村刑部らが教如上人(東本願寺開創の上人)のために堂宇を建立したことに始まる。1674年(延宝2)建立の表門(重要文化財)、入母屋造の本堂(重要文化財)をはじめ、教如上人の分骨を納めた廟所、鐘楼などがある五村別院を訪れる。

1570年(元亀元)、約3万の兵力を誇った織田信長・徳川家康連合軍に対して、1万8000人の浅井長政・朝倉景健連合軍が挑んだ。姉川付近で激闘が繰り広げられ、結果は信長の勝利に終わった。現在の野村橋が架かる姉川一帯は血に染まったといわれ、今も供養塔が残る。多数の戦死者を出した浅井方はこの戦いの後、1573年(天正元)の小谷城落城とともに終焉を迎えることになる姉川古戦場を訪れる。

茶道や造園で有名な小堀遠州の菩提寺。息子・宗慶が1653年(承応2)に建立した。近江八景を模した池泉回遊式の庭園や、枯山水に石組を施した五老峰を配した趣深い庭園がある。秋の紅葉も見事の孤篷庵を訪れる。

能装束や能面など多彩な能楽資料を展示。この地は江戸時代、養蚕業が盛んだったことから、光沢のある良質の絹糸で将軍家の能装束や衣服が織られたという浅井能楽資料館を訪れる。

1524年(大永4)、小谷山の山頂付近に築かれた山城。浅井氏三代の居城である小谷城は、3代長政が姉川の戦いに敗れた後に落城。今では石垣や土塁、礎石などを残すのみの小谷城跡を近くで望む。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、滋賀県の湖北、伊吹山周辺と長浜エリアを訪れ、点在する寺社や史跡を訪れ楽しむことが出来ました。

湖北は道が広く、車も少なく、ドライブ観光に適しています。なかなか癒されますね。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十四弾:岡山県笠岡諸島観光
2011年5月21日ー22日


生きた化石、カブトガニの養殖で有名な岡山県笠岡に足を運び、岡山県の西端、笠岡市に属し、高島・白石島・北木島・真鍋島・小飛島・大飛島・六島の7島で構成されている。主産業は、漁業、石材加工業、観光である。近年、漁業ではノリの養殖が盛んである笠岡諸島を訪れました。

21日12:30車で近畿中国山陽自動車道経由して笠岡インター下車
15:00神島外浦港到達。
15:22神島外浦港フェリーで出発
15:29高島港到達

笠岡市笠岡港から約12km、瀬戸内海の中央に飛び石状に浮かぶ笠岡諸島の最北端に位置し、国の名勝に指定されている風光明媚な島。古くから瀬戸内海航路の要衝として栄え、「古事記」に記されている神武天皇東征の際の高島行宮が置かれたのがこの島という説がある。かつては採石業と海運業が盛んだったが、民宿が増え、今では観光と漁業の島となっている。島の南側には、尾根伝いに延びる遊歩道があり、登っていくと、途中の展望台からは360度、瀬戸内の穏やかな風景が見渡せる高島を散策する。

陰石としては日本屈指の巨石。昔から良縁、子授け、安産、婦人病の霊神として崇められている。山の頂にあり、展望も素晴らしい
子はらみ石を訪れる

笠岡諸島を望みながら、海水浴が楽しめる
高島海水浴場を訪れる。

島の南側に瀬戸内海の眺望を楽しみながら散策できる全長2kmの遊歩道がある。途中の展望台からは、晴れた日には瀬戸大橋まで望める遊歩道展望台を訪れる。

神武天皇が高島滞在の折、吉凶を占った山と伝えられ、山頂には「高島行宮遺趾」と題した自然石の巨碑がある。展望台からは笠岡諸島をはじめ、瀬戸内海の大パノラマが広がる。また、神卜山へ向かう遊歩道沿いには、神武天皇が天つ神にお供えする水を汲んだと伝えられる「眞名井」が残っている神卜山を訪れる。


神武天皇が滞在した吉備高島行宮跡と伝えられる神社、高島神社を訪れる。

17:13高島港出発
17:19神島外浦港到達、車で水島方面に向かう。
18:30水島市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日6:10車で出発、笠岡港に向かう。
7:00笠岡港到達。
7:25笠岡港高速艇で出発、白石島に向かう。
7:47白石島到達、散策する。

笠岡市笠岡港から約16km、笠岡諸島の中では比較的本土に近い島。花崗岩の地肌が遠くから白い雪をかぶったように見えることから、白石島と呼ばれるようになったといわれており、国の名勝にも指定されている。江戸時代には備後鞆と備前下津井を通る内海の沿岸航路の中継地として栄えた。備後福山藩時代に干拓が行われたため、笠岡諸島の中では平地が多い島となっている。主産業は漁業で、底引網や定置網、ノリの養殖などが営まれている。島には観光資源が多く、海水浴場もあるため、特に夏場には多くの観光客でにぎわう白石島を訪れる。

瀬戸内海国立公園の自然景観美が楽しめる海水浴場、白石島海水浴場を訪れる。

弘法大師が唐から帰朝の途中に立ち寄り、一寸八分の尊像を刻んで島に残した。島民は、尊像をまつる大師堂を建て、笠岡市神島に開いた八十八箇所の奥の院としたという。元暦元年(1184年)、源平水島合戦での平家の戦死者を弔うため、慈眼寺が建立され、寛永2年(1625年)に開龍寺として再建された。昭和43年には、タイ・バンコクの名刹ワットパクナム寺院から仏舎利と釈迦如来像が奉納され、同45年にはタイ式仏舎利塔が日本で初めて建立された弘法山開龍寺を訪れる。

8:45白石島フェリーで出発
9:20真鍋島本浦港到達、散策。

笠岡市笠岡港から約31kmにある島。年間を通して霜のおりない温暖な気候で、秋から冬にかけて穏やかな斜面の畑は、寒菊などの花でいっぱいになる。西行法師の「山家集」に詠まれており、民俗行事もいくつか残っていて、歴史を今に伝える島である。島名は、真南辺の島、つまり備中国小田郡の南端にある島という意味で、後に真鍋の字をあてたと考えられている。平安時代末期に藤原氏の一族が水軍の根拠地を置いて真鍋氏を名乗り、全盛期には付近の島々をことごとく支配下に治めていたという。島には、源平合戦で平家方に属した真鍋氏の城趾や供養のために建てたと伝えられる石造宝塔などの史跡がある。港には石積みの堤防があり、のどかな漁村の佇まいを残している島として、岡山県が「ふるさと村」に指定しており、「瀬戸内少年野球団」など映画のロケ地にもなっている真鍋島を訪れる。

花の広場とフィールドアスレチック。花畑と展望休憩施設もある真鍋島ふれあいパークを訪れる。

笠岡市北木島や飛島をはじめ、福山市の島々を一望できる天神鼻展望台を訪れる。

天神鼻にある菅原道真公をまつる神社。境内からは弥生式土器が出土している天神社を訪れる。

延暦14年(795年)に弘法大師が開いたと伝えられる真言宗の古刹、円福寺を訪れる。

真鍋島の鎮守社で、応神天皇・神功皇后のほか三女神をを祭神とする。元禄時代(1688年から1703年)の創建と伝えられる八幡神社を訪れる。

11:00真鍋島本浦港フェリーで出発
11:15北木島大浦港到達、歩いて豊浦方面に向かう。

笠岡市笠岡港から約26kmの笠岡諸島の中央に位置する、笠岡諸島の中で最大の島。島のほぼ中央の笠岡諸島最高峰の葩栗山を中心に急峻な山々が連なっている。かつては柴島と呼ばれていたが、「柴」の字を「北木」の2字に置き換えたのが島名の由来といわれる。戦国時代には真鍋島の真鍋氏の支配下にあり、江戸時代には備後福山藩の所轄となった。古くから「北木御影石」で知られる「石の島」として有名で、江戸初期の大阪城修築の際には、大量の石垣石を送り出している。明治以降、石材の採掘が本格化し、東京の日本銀行本店、三越本店、日本橋、靖国神社大鳥居をはじめ、多くの構築物に北木石が使用されている北木島を訪れる。

東京オリンピックの時、代々木第2体育館の地下回廊を飾る彫刻を製作するために来島した彫刻家・水井康雄氏が島に残した作品で、北木中学校の校庭にある北木島山水を訪れる。

北側・南側に砂浜があり、中央部には松林が広がる。楠海水浴場・キャンプ場がある松原の白砂青松を訪れる。

元和6年(1620年)に始まった大阪城修築工事にあたり、石垣に用いる巨石が切り出された跡。大岩の下半分のみが波に洗われる状態で残っている矢倉の磯を訪れる。

北木石を使った彫刻作品を展示する第1回石彫シンポジウムの作品のひとつメビウスの輪を訪れる。

15:45北木島豊浦港フェリーで出発
16:05小飛鳥経由して
16:10大飛鳥洲港到達

笠岡市笠岡港から約30kmにある島。大飛島、小飛島をあわせて「飛島」と呼ぶことが多い。笠岡諸島は古くから瀬戸内海の交通の要衝で、中でも大飛島付近は瀬戸内海の東西の潮が離合する場所といわれ、往来する船がこの地で潮待ちをしていたと考えられている。奈良時代から平安時代にかけての祭祀遺跡が発見され、おびただしい数の奉献品が出土したことからも、重要な地であったことがうかがえる。平安時代から真鍋島の豪族・真鍋氏の支配下にあったとされ、元禄時代(1690年代)に移住したのが開拓の始まりといわれている。かつては、大飛島の南東にある大浦港の近くから、東に砂洲が鳥のくちばしのように小飛島に向かって延び、大飛島と小飛島を結ぶ海中の架け橋ともいわれていたが、潮流の変化もあって、現在ではほとんど見ることができない小飛島・大飛島を訪れる。

小飛島にある飛島の氏神様、嶋神社をフェリーから望む。

干潮時には小飛島に向かって幅30m、長さ350mの砂洲が現れていたが、最近は昔のように立派な砂洲は現れなくなった。笠岡市指定の天然記念物の大飛島の砂洲を訪れる。

昭和37年、飛島中学校の生徒が土器片数個を発見し、発掘調査で奈良三彩の壺、宋銭、銅鏡、装身具など、奈良時代から平安時代にわたる数百点の遺物が出土した。国指定重要文化財。海路の安全を祈願した祭祀遺跡とみられている。笠岡市指定の史跡の大飛島洲の南遺跡を訪れる。

17:00大飛鳥洲港フェリーで出発。
17:57笠岡港到達、車で帰路に向かう。

今回の旅行、得意な離島巡り、岡山県笠岡に足を運び、岡山県の西端、笠岡市に属し、高島・白石島・北木島・真鍋島・小飛島・大飛島・六島の7島で構成されている笠岡諸島を訪れ、意外と歴史深い史跡が点在しもっぱら散策して巡り楽しめました。

残念ながら船の便の時刻に合わず六島を訪れることが出来ませんでした。次回期待したいと思います。

いつもながら素朴でのどかな離島、今回も同様で村人は若い人は皆無、老年の方のみしかお会いできない。島内では仕事が無いので若い方は都会に向かい島から出て行く有様。年々人口が減り過疎地となる。離島の将来はどうなるんでしょうね。心配です。















京都府洛北観光
2011年5月18日


文化遺産の宝庫、京都に足を運び、都人がひっそりと隠遁した閑雅なエリアから穏やかな山里の大原、神秘的な伝説が数多く伝わる山深い鞍馬や貴船などのエリアの洛北を訪れました。

12:30車で第二京阪阪神京都線経由して
13:30洛北エリア到達。

鞍馬・貴船から市街地に戻る途中の鞍馬街道沿いに、市原野と呼ばれる集落がある。このあたりは古くから小野氏の領地で、小野小町と深草少将の亡霊が僧侶に百夜通いの物語をする、謡曲『通小町』の舞台でもあった。この寺も正式には補陀洛寺というが、通称の小町寺で知られる。本堂内には、美女の姿からはかけ離れた小野小町老衰像を安置。境内には小野小町塔や深草少将塔、小野小町姿見の井戸なども残る補陀洛寺(小町寺)を訪れる。

大原方面に向かう。

三千院からさらに東、呂川沿いに山道を少し上った地にひっそり佇む。最澄の直弟子の慈覚大師円仁が中国の五台山を模して建立、その後衰微したが1109年(天仁2)に融通念仏宗の祖良忍上人が再興した。円仁は唐への留学で、独特の節回しで唱えるお経である声明を持ち帰ったため、ここが日本での声明の発祥地とされる。本堂には藤原時代の本尊薬師如来像(重要文化財)を中心に、釈迦如来像(重要文化財)、阿弥陀如来像(重要文化財)を安置する来迎院を訪れる。

来迎院から東北に300mほどの小野山山中に分け入った所、律川の上流に位置する。滝の音で声明を乱されるのを恐れた良忍上人が呪文を唱えると、ごうごうと流れる滝の水音がぴたりと止まったとの伝説が残る。風情ある滝は、かなわぬ恋に袖を濡らす涙にも例えられ、多くの歌にも詠まれている音無ノ滝を訪れる。

天台声明の根本道場として開山された寺。1188年(文治2)、浄土宗祖法然上人が諸学の学僧と宗論をした、「大原問答」の舞台として有名。この問答で、阿弥陀仏の名を唱うれば仏様の願力によって衆生が救われると法然が説いたところ、阿弥陀如来が手から光明を放ったといわれる。このことから、本尊を「証拠の阿弥陀」と呼ぶようになった。また、当時をしのばせる問答台が2つ本堂に残っている。子院に実光院と宝泉院がある勝林院を訪れる。

大原の里からさらに北に2kmほど行った古知谷山中にある寺。1609年(慶長14)に木食上人弾誓[もくじきしょうにんだんせい]が、如法念仏の道場として開いた寺。参道の坂を登り切った所に本堂が佇み、その背後に弾誓上人が即身成仏したミイラ仏を収めた開山窟がある。上人は1613年(慶長18)に生きながら石棺に入ったと伝えられ、今も端座合掌の姿勢のまま安置されているという。本堂には、弾誓自身の髪を植え込んだ上人像や、鎌倉時代の阿弥陀如来坐像(重要文化財)が祭られている阿弥陀寺(古知谷阿弥陀寺)を訪れる。

花背の山中にある古刹。仁王門(重要文化財)から15分登った崖上に、日本最古の舞台造りの本堂(重要文化財)が立つ。奈良・大峰山に対し北大峰と呼ばれる修験道場の峰定寺を訪れる。

1362年(貞治元)、権争の過中を出て禅の道に入った光厳天皇が庵を結んだのが始まり。仏殿、舎利殿、が立つ境内は桜で埋まり、なかでも細い枝を幾重にも垂らす樹齢600年余の九重桜(天然記念物)は、特に美しい枝垂桜。このほか、江戸時代に京都御所左近の桜を株分けしたとされる左近桜、その美しさに感動して後水尾天皇が御車を返したとされる御車返しの桜もある常照皇寺を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、近場の文化遺産の宝庫、京都に足を運び、京都北部の洛北エリアの点在する歴史的建造物を訪れ、ほぼ京都を制覇しました。





飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十三弾:福井・石川県武生&越前&加賀温泉郷観光
2011年5月14日ー15日


福井県から石川県南部まで足を運び、白壁の続く蔵の辻散歩を楽しみたい武生、眼鏡生産で有名な鯖江、話題のグリーンツーリズムが盛んな今立、越前ガニ、奇岩で有名な越前、山代、山中、粟津、片山津の4つの温泉地が揃う加賀温泉郷を訪れました。

14日12:30車で第二京阪京滋名神北陸自動車道経由して
14:30今庄インター下車、今庄に向かう。

京都と北陸、若狭と越前をつなぐ交通の要衝として、また、江戸期には北国街道の宿場町として栄えた。JR今庄駅の西側を南北に延びる道沿いには、大名や幕府役人など位の高い人が宿泊した江戸後期建築の本陣や商家、旅籠など往時の面影が色濃く残っている。なかでも、京藤甚五郎家は、赤みの強い越前瓦の屋根と卯達が、ひときわ異彩を放っている。通りのあちこちに史跡や建物の特徴を解説した立て札がある今庄宿を散策する。

今立方面に向かう。

開創は719年(養老3)。檜皮葺屋根の本殿は入母屋と唐破風が重なった造りで、国の重要文化財にも指定されている。背後の山には、大滝神社奥の院と並んで、1500年前にこの里に紙漉きの技を伝えた川上御前を全国で唯一紙祖神として祭る、岡太神社の本殿もある大滝神社を訪れる。

鯖江方面に向かう。

親鸞の孫の如覚上人が1279年(弘安2)に開基した寺で、浄土真宗越前四箇寺本山の一つに数えられる。みどころは左甚五郎作と伝えられる駆け出しの竜が彫られた寺内最古の山門。あまりの精巧さに、鳥が恐れて近寄らないことから鳥不棲門とよばれている鯖江本山誠照寺を訪れる。

鯖江市のほぼ中央の丘陵地に広がる約56万平方mの公園。日本歴史公園百選に選定されている。ツツジの名所でもあり、5月上旬には約4万3000株ものツツジが園内を彩り、華やか。また、桜や花菖蒲、紅葉なども美しく、四季折々の自然を楽しめるのも魅力。敷地内にはレッサーパンダで人気の「西山動物園」があるほか、デートスポットとして注目の「結びのチャイム」があり、ここから市街地が一望できる西山公園を訪れる。

瓜生家は1129年(大治4)以来、神明社の宮司を務めた由緒ある家柄。その住宅を神明社境内に移築したものだ。1699年(元禄12)に建てられた建物は入母屋妻入りの茅葺きで、柱や梁は木割が太く、堂々とした造り。福井県内に現存する民家では最古級といわれ、国の重要文化財に指定されている旧瓜生家住宅を訪れる。

武生方面に向かう。

武生内のホテル到着後武生市街地を散策する。

1488年(長享2)に建立された、天台真盛宗別格本山。十六羅漢や滝上りする鯉など、彫刻が施された総ケヤキ造りの山門は一見の価値がある。広々とした境内には笏谷石に彫られた30体の石仏、高さ3mもある不動明王と地蔵菩薩があり、寺宝として鎌倉時代に書かれたという『往生要集』を所蔵している引接寺を訪れる。

「おそんじゃさん」とよばれて親しまれている越前国の総社。古代の国司の仕事に、その国にある主な神社を毎年巡拝するというのがあったが、総社は神々を一ヵ所に集めて祭り、そこを参拝することで国内巡拝に代えようとしたもの。国府のあるところには必ず置かれていた神社で、境内には越前国府の石碑が立つ。古来から越前の代表的な神社として信仰を集め、その賑わいの様子は鎌倉時代の『一遍上人絵伝』に描かれている総社大神宮を訪れる。

父の藤原為時の赴任に伴い、武生で1年半を過ごした『源氏物語』の作者紫式部にちなんで造られた公園。平安時代の貴族の住居を模した全国で唯一の寝殿造庭園で、日野山をバックに池や築山が配されている。隣接の藤波亭では、十二単衣の着付け体験可。朱塗りの橋、黄金の紫式部像などが調和する優雅な雰囲気の中を十二単衣で散歩できる紫式部公園を散策する。

食事を済ませてホテルに戻り就寝。

15日6:30車で越前に向かう。

北前船の船主として栄華を極めた右近家の屋敷を利用した館内には、船幟や八幡丸の模型、航海に使われた道具などが展示されている。1901年(明治34)に建てられた母屋は、上方風切妻造瓦葺き2階建て。建築資材は北前船が各地から運んだものを使用している。屋敷裏には別荘の西洋館があり、ここから眺める日本海がすばらしい北前船主の館・右近家を訪れる。

越前ガニのすべてを紹介する施設。カニに関する立体映像を見られる海中シアターや、越前沖のカニや魚がすむトンネル水槽、潜水艦に乗った気分で越前ガニの生態を見ることができる海図ホールなど、カニ情報が詰まっている越前がにミュージアムを訪れる。

土のもつ素朴な温かみと使いやすさ、飽きのこないデザインで人気の越前焼。紐状の粘土を積み上げていく独特の技法が特徴で、1986年(昭和61)に伝統的工芸品の指定を受けた。越前焼の始まりは古く、800年前にさかのぼる。平安時代の末期から焼かれ、現在までに約200基の古窯が見つかっている。越前陶芸村は越前焼の発祥地といわれる越前町小曽原にあり、越前焼の魅力にふれることができる。中心となるのは福井県陶芸館で、そのほか陶芸家たちの作品を展示販売する直売所や、越前焼のオブジェが点在する広場、宿泊施設などがある。村内の食事処や喫茶店では、越前焼の器で料理やお茶を楽しめる越前陶芸村を訪れる。

越前陶芸村の中心的存在で、平安末期の古越前から現代の作品まで約200点と関係資料を展示。越前焼の茶碗で抹茶が飲める、茶苑がある福井県陶芸館[越前陶芸村]を訪れる。

強い風と荒波が岸壁を浸食してできた海食洞が多い越前海岸。なかでもトンネル状になった呼鳥門は高さ約15m、幅30mと、規模が大きい。周囲には遊歩道が整備され、間近に見ることができる呼鳥門を訪れる。

越前水仙とは、越前海岸に咲く日本水仙の総称。越廼の居倉町は、越前水仙の発祥の地でもあり、群生地として名高い。その居倉の海岸沿いに造られた公園で3つの施設からなり、可憐に咲く水仙の花を一年中楽しめる越前水仙の里公園を訪れる。

加賀温泉郷に向かう。

大聖寺川が造る渓谷で、黒谷橋から情緒ある総檜造りのこおろぎ橋の間の約1.3kmをいう。遊歩道が整備され、水面に映える新緑、秋の紅葉など四季折々の変化に富んだ景観を見せている鶴仙渓を散策する。

鶴仙渓遊歩道をたどってこおろぎ橋まで来たら、そこから少し坂を上って無限庵にも立ち寄ってみたい。加賀藩の家老・横山家の書院を移築したもので、当時の建築技術の粋を集めた武家書院造といわれている。加賀蒔絵や古九谷、また、千利休ゆかりの茶道具なども展示され、静かな空間を演出している無限庵を訪れる。

天正年間(1573〜92)から続く山中漆器。越前からこの地に移住した木地師が京都から塗りや蒔絵の技術を取り入れ、今日に至っている。ここではロクロ挽きの技術をビデオで上映。わずか3mmの間に10本以上の線を挽く千筋、木目の間が透けて見えるほどの薄挽きといった技が見られる。山中出身の人間国宝・川北良造作の盛器・盆・棗の展示、日常漆器などの販売も行う山中漆器伝統産業会館を訪れる。

山代温泉の守護寺。観音堂には平安時代初期作の十一面観音菩薩が祭られているほか、境内には五十音図の創始者・明覚上人を供養した国の重要文化財の五輪塔がある薬王院温泉寺を訪れる。

北陸屈指の真言宗の古刹。717年(養老元)、泰澄大師が岩窟に千手観音を安置したのが始まりという。苔むした境内には、本尊千手観音を安置する本堂、十二支や牡丹などの彫刻を施した護摩堂、檜皮葺きの三重塔など、国重要文化財の堂宇が立ち並び、厳かな雰囲気に包まれている。そそり立つ岩に春の桜や初夏の新緑、秋の紅葉が彩りを添える奇岩遊仙境は見ごたえ充分。小堀遠州の指導のもとに作庭された庭園(名勝)や、前田利常の休憩所として建てられた書院も見ておきたい。本殿の岩屋内は胎内くぐりの聖地である那谷寺を訪れる。

森の中に立つ赤レンガ、ゴシック風の建物で、クラシックカーをはじめ、二輪車やトラックなど国産車300台、外車200台の自動車が展示されている。これだけの自動車の展示は国内でも最大級。黎明期から第二次世界大戦後までの自動車を見ることができ、その歴史も学ぶことができる日本自動車博物館を訪れる。

朝日や夕日をうけて1日に7度も湖面の色を変える周囲約7kmの湖。湖中央には高さ70mまで吹き上げる大噴水、湖畔には竜神と娘の伝説にちなむ浮御堂うきうき弁天がある柴山潟を訪れる。

世界で初めて人工的に雪の結晶を作った中谷宇吉郎の業績を、映像やパネルで紹介し、人口雪の実験装置を展示している。また、雪や氷の実験コーナーがあり、楽しく学べる。ティールームからの眺望は美しく、柴山潟から望む雄大な白山は見ごたえがある中谷宇吉郎雪の科学館を訪れる。

歌舞伎『勧進帳』の舞台として有名。源頼朝の追っ手を逃れて奥州に逃げ延びる義経一行は、ここで守護の富樫の尋問に合う。芝居を打って白紙の勧進帳を読み上げ、義経を打擲して主人の身を守ろうとする弁慶。それに心打たれた富樫は一行を通したという。源義経・弁慶・富樫左衛門尉の像が立ち、近くには勧進帳ものがたり館や安宅住吉神社、休憩・飲食施設を備えた安宅ビューテラスもある安宅の関を訪れる。

九谷焼の美術館や資料館をはじめ、工房や技術研修所からなる。制作現場に近いところで九谷焼を鑑賞できる。九谷焼卸団地では16のショールームが軒を並べ、ゆっくりとショッピングを楽しめる九谷陶芸村を訪れる。

九谷陶芸村内にある美術館。能美市出身で、文化勲章も受章している陶芸家・故浅蔵五十吉の作品を展示している。五十吉は自然をテーマにした色絵を焼き続け、常に新しい作風にチャレンジしてきた作家。作品は全体の色遣いが昭和20年代は明るい黄色だったのが、やがて渋い黄色、緑、銀彩、1993年からは白釉と年代によって変化していて興味深い。「全国公共建築百選」に選ばれた建物にも注目したい浅蔵五十吉美術館[九谷陶芸村]を訪れる。

湯湧温泉方面に向かう。

竹久夢二の世界を彼が愛した旅、女性、聖書をテーマに紹介。彼を取り巻くたまき、彦乃、お葉といった女性たちや金沢に関わる資料、夢二の作品なども多数展示する金沢湯涌夢二館を訪れる。

湯ノ川をせき止めて造られた1周約500mの小さな湖。湖畔には数千株のミズバショウと菖蒲が植えられ、格好の散策コースになっている玉泉湖を訪れる。

16:30終了、帰路に向かう。

今回の旅行、福井県の武生・鯖江・越前海岸から石川県の南部、加賀温泉郷までの広い範囲の自然と歴史的建造物に触れて1泊2日のドライブ観光堪能しました。

福井県は人も車も少なくのんびりしている町のようです。車では時間のロスは少なく多くの観光名所を訪れることが出来ました。

一方石川県は観光地としては有名で全国各地から観光客が訪れ賑わっていました。

対照的な北陸地方福井・石川県ドライブ観光でした。















兵庫県淡路島沼島観光
2011年5月11日

大阪湾、播磨灘、紀伊水道に囲まれた国内第7位の規模の淡路島に足を運び兵庫県淡路島の南方、紀伊水道に浮かぶ島。南あわじ市に属し、淡路島の南方4.6キロメートルにあり、結晶片岩からなり、奇岩と断崖が連続し、瀬戸内海国立公園の一部である。縄文後期からの土器片も出土し、古代の海人族が居住した地とされる。『古事記』の国生み神話にみえる淤能碁呂島とされ、伊邪那岐信仰の厚い漁業専業の島、沼島を訪れました。

12:30車で阪神第二神明淡路鳴門自動車道経由して西淡三原インター下車
14:30土生港到達
15:00土生港フェリーで出発
15:10沼島到達、散策。

元慶四年(880年)に開基された由緒あるお寺です。宮寺であるのでこの寺の僧が、神官とともに沼島八幡神社の守護にあたりました。梶原氏の菩提寺でもあったので、厨子、紺紙金泥経、曼陀羅など、数々の宝物は梶原氏の寄進と伝えられます。本堂の裏の傾斜地を利用し、岩盤を生かした「築山式枯山水庭園」は市指定史跡名勝天然記念物の神宮寺を訪れる。

永享8年(1436)梶原俊景が京都石清水八幡宮の分霊を阿万八幡宮を通じて勧請し創建したと伝えられます。かつては水軍の拠点であり、昔から海を生活のより所としてきた沼島の生活をうかがいしれる絵馬13額が掛けられ、全国的にも珍しい逆羅針盤が天井に奉納されています沼島八幡神社を訪れる。

松香石という特殊な石でつくられている。古くから梶原景時の墓と伝えられており、この塔の造立年代も鎌倉初期のものと見られている 梶原五輪石(梶原景時の墓)を訪れる。

室町時代に10代将軍足利義稙によってつくられたという説が一般的に通っているが、作庭手法や歴史的考察から見て、江戸時代初期ではないかという説もある。沼島の特徴である緑色片岩を利用し、地層を生かして作庭している力強さあふれる石組の庭の沼島庭園(伊藤邸の庭)を訪れる。

沼島庭園の入り口にある井戸。沼島では井戸のことを「川」と呼び、この井戸も別名・王川と呼ばれている。現在も枯れることなくきれいな地下水が湧き、汲みにくる地元の人も多い八角井戸を訪れる。

小高い山の上、まるで天に届くかのようなまっすぐな階段を上ると、到着する。この山全体が「おのころさん」と呼ばれる神体山だ。天地創造の神であるイザナギ、イザナミの二神を祀っているおのころ神社を訪れる。

17:10沼島フェリー乗り場到着
17:40沼島フェリーで出発
17:50土生港到達、車で帰路に向かう。

今回の名所巡り、淡路島の国生み神話に伝わる、神々がつくり出した最初の島「おのころ島」だという伝説が残り、今もなお自然のままの姿を残す、神秘の島・沼島を訪れ点在する社寺と史跡を巡りました。

ヨット、クルーザーで何回か訪れた沼島、マリンスポーツでの楽しみと島周囲の点在する神岩を確認したことがありますが島内部陸地の観光は初めてで、散策して、由緒ある島であり、歴史深い島であることが改めて知ることが出来ました。






飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十二弾:島根県津和野&益田&浜田観光
2011年5月7日ー8日


中国地方島根県に足を運び、山口県との県境、津和野川に沿って細長く開けた山間の城下町、山陰の小京都と呼ばれる白壁と赤瓦の家並みが続き、風情たっぷり、史跡や美術館、文豪や芸術家ゆかりの名所が点在する津和野、古くから石見地方の中心として栄え、万葉歌人・柿本人麻呂と画僧・雪舟ゆかりの地の益田、天然の良港に恵まれた立地は、山陰有数の漁港として活気に溢れ、 天然記念物に指定されている石見畳ヶ浦、海洋館AQUASなど、観光レジャーにも最適の浜田を訪れました。

7日13:09新大阪新幹線のぞみで出発
14:30広島駅到達、レンタカーで津和野に向かう。
16:00津和野到達。

手回し式の計算機や、写真機、蓄音機など、明治〜昭和初期の各時代を物語る生活道具を展示する資料館。ほとんどの展示物が自由にさわれ、実際に使えるダイヤル式公衆電話もある津和野今昔館を訪れる。

森鴎外旧宅に隣接して立つ記念館。軍医であり、文学者でもあった鴎外の生涯を、遺品や直筆の原稿、ハイビジョン映像などで紹介している。鴎外は、幼くして『論語』や『孟子』を学び、天才少年の誉れ高かった。7歳から2年間、養老館で学び、10歳で上京し、その後、鴎外は陸軍軍医となり総監に就任。そのかたわら『舞姫』『山椒大夫』『阿部一族』など多くの小説を著した。鴎外が妻や子どもたちに宛てた書簡や、日記も展示されており、家族思いの鴎外という一面も垣間見ることができる森鴎外記念館を見学。

明治の文豪・森鴎外が1862年(文久2)に生まれ、10歳まで過ごした家。父は藩の御典医で、玄関から入って左の3畳間が父の調剤室。その奥の4畳半が鴎外の勉強部屋だったという。1909年(明治42)に発表された『ヰタ・セクスアリス』の中に「このへんは屋敷町で、春になっても柳も見えねば桜も見えない」と書いているのはこの家のことだ。前庭に鴎外の詩『釦鈕』を佐藤春夫の筆で刻んだ碑が立つ森鴎外旧宅を訪れる。

城山の南西麓にある津和野城の鎮守社。建物が一直線上に並ぶ山口独特の神社形式で、社殿は1568年(永禄11)の再建。楼門、本殿とも室町から桃山期の特徴が見られる。境内には鎌倉の鶴岡八幡宮を模した、わが国で唯一原形を留める流鏑馬馬場があり、4月に流鏑馬が行われる鷲原八幡宮を訪れる。

1829年(文政12)、津和野藩の医師の家に生まれ、わが国に西洋哲学を初めて紹介した哲学者。ペリー来航に触発されてオランダに留学し、法学と西洋哲学を学び帰国した。帰国後は15代将軍慶喜の政治顧問を務め、維新後は陸軍・文部・内務省の官僚を歴任。山県有朋のもとで明治憲法の草案作成に関わるなど、多方面で活躍した。森鴎外の森家とは親戚にあたり、家も近い。旧居は津和野川をはさんで鴎外旧宅と相対して立つ。1854年(安政元)再建の茅葺きの母屋と、周の勉強部屋があったという土蔵はともに史跡に指定の西周旧居を訪れる。

「三本松城」「蕗城」ともよばれる津和野城は、鎌倉時代に吉見頼行が30年かけて築城した山城。当時は土塁だけであったが1601年(慶長6)に入城した坂崎出羽守が石垣を築き、出丸として織部丸を増築するなど強化に努め、亀井氏に受け継がれた。建物は1874年(明治7)に取り壊され、現在は東門、天守台、出丸などの石垣が往時の堅固な城の面影を伝え、史跡に指定されている。一帯は木々に覆われて散策によく、秋はモミジの紅葉が美しい津和野城跡を近くで眺望する。

1773年(安永2年)、津和野藩主7代亀井矩貞公が京都の伏見稲荷大神を勧請したもので、日本五大稲荷のひとつ。稲成とあるのは、大願成就の意味が込められているためといい、商売繁盛・開運・厄除け・福徳円満のご利益を求めて多くの参詣者が訪れる。山腹には成就御礼と御祈願のために奉納された約1000本の鳥居が九十九折れのトンネルとなり、朱塗りの社殿とともに美しい景観を造り出している太皷谷稲成神社を訪れる。

津和野独特の赤瓦と白壁が美しい、江戸時代の筆頭庄屋の屋敷を修復した個人美術館。館内には津和野出身の山岳画家・中尾彰と夫人の吉浦摩耶の作品を展示している。太い梁が組まれた民芸調の広い展示室には中尾の連作『林の女人たち』、吉浦の200号の大作『セーヌの女たち』などが並び、スペインの画家、ゴヤの銅版画『闘牛シリーズ』も見られる杜塾美術館を訪れる。

津和野の縄文時代〜現代の歴史資料、約1000点を展示している。特に旧藩政時代〜近代の資料が充実しており、藩校養老館の教科書や武芸書、西周がオランダで買い求めたという顕微鏡など、歴史を物語る資料が揃う。国の登録有形文化財の津和野町郷土館を訪れる。

1420年(応永27)に津和野城主吉見頼弘が創建した、歴代津和野城主の菩提寺。江戸時代は曹洞宗の永平寺本山として栄えた。どっしりとした茅葺き屋根の本堂や経蔵、書院などの建物は、1720年(享保14)に再建されたもの。山門にかかる「覚皇山」の額は、明の帰化僧で水戸光圀に迎えられた心越禅師の書。山門左手に森鴎外、本堂裏には大坂夏の陣で徳川家康の孫娘千姫を救出した坂崎出羽守の墓がある永明寺を訪れる。

津和野駅の西、乙女峠に立つ小さな聖堂。1868年(明治元)新政府はキリスト教を禁じ、長崎県浦上の隠れキリシタン3600人余を全国20ヵ所に流罪とし、拷問により改宗を強制した。このうち153人が乙女峠の光琳寺跡に収容され、36人が殉教した。彼らの霊を慰めるため、1951年(昭和26)にドイツ人神父ネーベルが建てたのがこの聖堂だ。堂内には殉教者を描いたステンドグラスがはめこまれている。5月3日には乙女峠まつりが行われる乙女峠マリア聖堂を訪れる。

17:30津和野駅付近のホテル到着後、津和野を散策。

津和野町出身の画家、安野光雅の美術館。漆喰の白壁に瓦を葺いた酒蔵のような外観が目印。館内は展示室のほか、昭和初期の学校の教室を再現した「昔の教室」や、安野作品をはじめとした絵本、美術書を自由に閲覧できる図書室などがある。壮大な宇宙空間や、津和野の四季の夜空を映し出すプラネタリウムも設置。また、自宅のアトリエもそのまま再現されており、ファン必見のポイントとなっている。玄関ロビーの壁面には、安野氏デザインの魔方陣タイルで装飾されている津和野町立安野光雅美術館の前で記念撮影。

津和野には掘割の水を庭に引き込んでいる家が多い。なかでもここの店は裏の池に300尾もの錦鯉や真鯉を飼っており、「鯉の米屋」とよばれている吉永米穀店を訪れる。

浮世絵師・葛飾北斎とその門下生たちの版画、版本、肉筆画約1000点を収蔵する。ほぼ1カ月ごとに作品の一部を展示替えしており、『北斎漫画』や、代表作『冨嶽[ふがく]三十六景』など貴重な作品が並ぶ葛飾北斎美術館を訪れる。

乙女峠のキリシタン迫害の悲劇を繰り返さないようにと1931年(昭和6)、ドイツ人シェーファー神父が建てた教会。重厚なゴシック建築だが、礼拝堂内部は教会には珍しい畳敷きで、色鮮やかなステンドグラスが印象的だ。隣接する乙女峠展示室では、カトリックの殉教に関する歴史資料を展示している津和野カトリック教会を訪れる。

白壁と格子窓の残る藩校跡や武家屋敷門が立ち並び、掘割には町のシンボルである鯉が戯れ遊ぶ。これらの鯉は、もともと江戸時代に飢餓のための非常食用として飼われていたものの殿町通りを通過する。

亀井家8代矩賢が1786年(天明6)に創設し、西周や森鴎外など多くの人材を輩出した藩校跡。儒学・兵学・医学・数学と、幕末には蘭学も教えていた。当初は下中島堀内にあったが、津和野の大火で焼失、1855年(安政2)にこの地に移された。現在残っているのは武道場と、槍術場・文庫のみ。武道場は、津和野町民俗資料館として利用されている。江戸〜大正時代の武家や農家の生活用具、衣装など約2000点の資料が見られ、当時の生活を知ることができる。県指定史跡の藩校養老館(津和野町民俗資料館)を訪れる。

19:00食事を済ませてホテルに戻り就寝。

8日7:00レンタカーで出発。

津和野市街から西に約8kmの郊外にある旧家の庭園で、江戸時代に銅山年寄り役を務め、明治時代には鉱山王として知られた15代堀藤十郎が作庭した池泉回遊式庭園だ。滝や雪見灯籠などを配した庭園の中央には樹齢300年の楓の古木がそびえ、新緑や紅葉期は格別の風情。桜や梅など四季の花も美しい堀庭園を訪れる。

益田方面に向かう。

高津柿本神社と蟠龍湖に接した、小高い丘を整備した公園。園内にはアセビ・カタクリ・カキツバタなど万葉集に登場する植物153種類が植え込まれた万葉植物園や、曲水をイメージした流れがあるまほろばの園、アスレチック広場、広大な芝生広場、200mの藤園、オートキャンプ場などがある島根県立万葉公園を散策する。

万葉の歌人で、益田沖の鴨島で没したと伝わる柿本人麻呂を祭る古社。ツツジや桜に囲まれた石段を登りつめると拝殿があり、その奥に弊殿と変形春日造の本殿が立つ。拝殿脇に人麻呂像がある柿本神社(人麻呂さん)を訪れる。

雪舟終焉の地に立つ記念館。1479年(文明11)に描かれた『益田兼堯像』(重要文化財)をはじめ、右隻に鶴と松、左隻に梅の古木と白鷺を描いた傑作『花鳥図屏風』(重要文化財)(複製)などの雪舟の作品と資料を所蔵している。ロビーからは『花鳥屏風図』をモデルに、石組みや白砂で益田の名勝地を表わした枯山水庭園「八景園」が眺められる雪舟の郷記念館を見学。

益田氏の菩提寺。応安7年(1374)に建てられたという本堂(重要文化財)は7間四方、寄棟造で、力強い屋根の線に鎌倉時代の特徴がよく表れている。鎌倉時代の『絹本着色二河白道図』(重要文化財)や本堂の棟札(重要文化財)、藤原時代の仏像など寺に伝わる貴重な文化財や雪舟作庭の石庭(史跡・名勝)がある萬福寺を訪れる。

1363年(貞治元)創建の崇観寺が前身。戦国時代に衰退し堂宇が焼失したため、益田宗兼が医光寺と合併した。総門はかつての益田城(七尾城)の大手門を移したもの。本堂裏には、5代目住職を務めた雪舟が文明年間(1469〜86)に造った池泉鑑賞半回遊式庭園(史跡・名勝)がある。鶴をかたどった池に亀島を浮かべた武家様式庭園で、裏山の斜面に配したツツジの刈込みや石組の直線的な構図が雪舟の水墨画を思わせる。春は枝垂れ桜が美しい医光寺を訪れる。

浜田方面に向かう。

浜田の美しい海岸線に立つ水族館。飼育生物数は約400種1万点にのぼり、総水量3000トン、延べ床面積は1万300平方mと中四国最大級を誇る。サメなど大型魚類が泳ぐ海底トンネル、タッチプール、アシカ・アザラシプールなど、施設はバラエティー豊か。屋外にはアクアス広場や滝・温室を配した庭園が広がり、1日たっぷり楽しめるしまね海洋館アクアスを訪れる。

芸北・三段峡方面に向かう。

中国山地に深く切れ込んだ約13kmに及ぶ渓谷。原生林を縫う全長約13kmの遊歩道沿いに黒淵、猿飛、二段滝、三段滝、三ツ滝が点在しており、三段峡の五大景観と呼ばれている。静寂の中、野鳥のさえずりがこだまする清流沿いを散策すれば森林浴が楽しめる三段峡を訪れる。

広島駅に向かう。

17:00広島駅到達。
18:44広島駅新幹線のぞみで出発
20:26新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の島根県に足を運び、今も城壁が残る城山と青野山の山並に包まれた盆地に開かれた城下町、武家屋敷や商家が立ち並ぶ通りには堀に鯉が群れ泳ぎ、山陰の小京都と呼ばれる風情のある町並みが残されている津和野、

古くから石見地方の中心として栄え、万葉歌人・柿本人麻呂と画僧・雪舟ゆかりの地の益田、

山陰有数の漁港として活気に溢れ、 天然記念物に指定されている石見畳ヶ浦、海洋館AQUASなど、観光レジャーにも最適の浜田、

日本五大名狭の一つであり、五大壮観と呼ばれる景勝地が続く三段峡を訪れ、多くの歴史的建造物、博物館、大自然に触れ堪能しました。

広島から島根県西部までの広い範囲のドライブ観光楽しめました。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十一弾:キプロス&マルタ島観光
2011年4月28日ー5月5日


ヨーロッパ地中海の2つの島国、国土の4割近くが森で、中央にはオリンポス山を中心に山岳地帯が広がり豊かな大地と海の幸に恵まれ、人々の生活水準は高く、ギリシア神話に登場するアフロディテが生まれた場所で、1万年の歴史を刻む遺跡の数々のキプロス、

イタリアとアフリカ大陸に挟まれ、地中海のヘソと呼ばれ、先史時代に築かれた謎の多い巨石神殿が点在し、この長い歴史から地中海文明のゆりかごとも称され、この好立地ゆえに数多の民族の侵略を受け、抵抗の歴史であり、マルタの町の基礎を築いた聖ヨハネ騎士団を語らずには、言えないマルタ共和国を訪れました。

4月28日23:35関西国際空港エミレーツ航空で出発
29日5:05(時差ー5時間)ドバイ空港到達
8:35ドバイエミレーツ航空で出発
11:15(時差ー6時間)キプロスラルナカ到達、バスでニコシアへ移動
12:40ニコシア到達、昼食

14:00キプロスの首都であり、起源は、新石器時代にさかのぼるという歴史の町、現在はベネツィア時代の城壁に囲まれた旧市街地と、その外側に広がる新市街地に分かれている歴史的な建物が今も多く残るニコシア市内観光。

キプロスの歴史と文化を深く知る上で欠かせないニコシアにある博物館。紀元前5800年の新石器時代から、ビザンチン前期までのキプロスの貴重なコレクションが展示されていますキプロス博物館を見学。

1662年に建てられた教会。聖書などを題材とした、保存状態の良い18世紀の壁画と、木に彫り込まれたイコンが素晴らしい聖ヨハネ大聖堂を訪れる。

9〜18世紀にかけてのイコンのコレクションが特に有名。美術館には絵画や地図、リトグラフなどが展示されていますビザンチン美術館を見学。

かつて市内へ入るための門として建てられたベネチア時代の遺構。この頃のニコシアは城壁と砦に囲まれており、現在でも旧市街には当時の町並みが残されていますファマグスタ門を訪れる。

キプロス島にある南部のギリシャ系住民が支配する地域と、分離独立を求めている北部のトルコ系住民との衝突を抑止するため1974年に国連が引いた緩衝地帯(停戦ライン)のグリーンラインを訪れる。

18:00旧市街地内のホテル到着
19:30夕食、就寝
30日8:30バスで出発、リマソールからパフォス方面に向かう。

キプロス第2の都市で、商業の中心地であり、またリゾート地でもあるリマソールを訪れる。

紀元前14〜13世紀、ギリシアのペロポネソス半島から渡ってきたアカイア人の植民都市として発展。考古学上、最も重要な遺跡の数々が残されていますクリオン遺跡を散策する。

13世紀に建てられたこの城は、十字軍遠征の際、教会騎士団の本拠地でしたコロッシ城を訪れる。

リマソールのクリオン遺跡より西へ3キロのところに、神殿とその聖域の遺跡があります。森の神アポロはクリオンの守護神として信仰され、ここに祭られていましたアポロ神殿を訪れる。

12:15昼食

13:00出発、愛と美の女神アフロディーテは、現在のパフォスの町より25キロ東にある、岩が海より突き出したペトラ・トゥ・ロミウと呼ばれる海岸で誕生したとされています。その近郊には、紀元前1200年頃造られた神殿の跡があり、かつてパフォスといえばこの辺りを指していました。ここは女神アフロディーテ伝説発祥の地でもあり、多くの巡礼者が後を絶たなかったといいますアフロディーテ神殿を訪れる。

15:30古代ギリシアの伝説上の人物。キプロス島の南西部にあってアフロディテ崇拝で有名な都市パフォス到達

パフォスの港を守るためのビザンチン時代の砦。13世紀に城として再建されましたパフォス城を訪れる。

港の近くのカトパフォスには、非常に精巧なモザイク画があることで有名。その美しさは東地中海の中でも指折りのディオニュソス、テセウス、エイオン館を訪れる。

17:00リマソルに戻る。
18:20リマソルのホテル到達
19:30夕食、就寝。
5月1日8:30バスでトロードス方面に向かう。

9:30標高2000メートル近いオリンポス山を最高峰とした緑の別天地だ。夏は多くの島民が避暑に訪れる。そんな山々の間に、11〜12世紀のギリシア正教の小聖堂が数多く残され、7世紀のアラブ人の侵攻以来、カトリック、イスラム支配が長く、正教徒の受難の時代が続いたが、トロードスの深い山中では正教の伝統が耐えることなく続いた。その結果、世界的にも貴重な中世初期の沢山のビサンティンのフレスコ画が残ることになったトロードスを訪れる。アシヌ教会、ボディトゥ教会、聖ニコラオス教会を巡る。

12:00昼食
13:00出発

14:00 900年の歴史を誇るキプロスでも名高いトロードス山中の修道院。12世紀に発見された聖母マリアのイコンは、聖ルカにより描かれた3つのイコンのひとつといわれていますキッコー修道院を訪れる。

16:30トロードス南部にある「クラソコリア(ワイン村)」のひとつ。細い路地と伝統的な石造りの家々が建ち並ぶ、独特の風情に包まれた美しい村のオモドス村を訪れる。

17:15リマソルに向かう。
18:30リマソルのホテル到達
19:30夕食、就寝

5月2日8:30バスで出発、キプロス共和国の都市、キプロス第二の商業港湾都市で、ラルナカ国際空港があり、夏の間リゾートでにぎわうラルナカ方面に向かう。

ラルナカに向かう途中、新石器時代に形成された農耕民族の集落の跡で、東地中海で最も価値のある遺産のひとつに数えられます。ラルナカから西へ約30キロ、キプロス南部の海岸に近い山麓の川沿いに位置しています。住居跡には直径2、3メートルから、10メートルにまで及ぶ円形の住居基台が多く残っており、かつてこの上に円筒状の住居があったことを物語っています。日干しレンガで作られた壁には塗装の跡が見られるほか、集落の周辺には外壁があった形跡もあります。狩猟、農耕、家畜の飼育が行われていたと共に、埋葬の習慣があったことも確認できますヒロキティアを散策する。

10:30ラルナカ国際空港到達。
12:15ラルナカ空港エミレーツ航空で出発

14:10(時差ー7時間)マルタ島到着、バスで、マルタ共和国の首都。マルタ島東部に位置し、港を見下ろすシベラスの丘の上にある。ホスピタル騎士団(Knights Hospitaller)の時代以降の多くの建造物が残る。一部の地域では、バロック建築・マニエリスム建築・近代建築・新古典主義建築など多様な要素も見られる。第二次世界大戦で戦禍に巻き込まれたが、1980年にユネスコの世界文化遺産に選定されたバレッタを訪れる。

マルタバレッタにあるカトリック教会の聖堂。1573年から1578年にかけ、マルタ騎士団によって建てられた。1572年、騎士団総長ジャン・ド・ラ・カシエールが、聖ヨハネ騎士団の修道会教会堂として建設を命じたことによる。1565年のマルタ大包囲戦終結後ただちに建設が始められたため、かつての軍事要塞の名残を残している。外観は、マルタ石の名で知られるマルタ島産の石灰岩を使用している。バロック様式の内装は、カラブリア出身のマルタ騎士団員で画家のマッティア・プレッティの手によるものが大部分を占めている。プレッティは精巧に刻まれた石の壁を設計し、ヴォールト天井と祭壇の両側を聖ヨハネの生涯を描いた絵画で埋めつくした。教会の本堂には、重要な騎士たちが眠る、大理石でできた墓石が並んでいる。最重要の騎士たちは教会の全面近くに埋葬されている。これらの墓石は豊かな装飾がなされ、石の下に埋葬されている騎士の似姿と同様にその紋章が彫られ、時には戦勝の物語を記している。聖堂内の礼拝堂は、騎士団を構成した騎士が8言語ごとの騎士館に分けられていたのにならい8つあり、小礼拝堂に展示されている絵画、カラヴァッジオ作『洗礼者ヨハネの斬首』は、教会内で最も有名な作品である。カラヴァッジオの傑作の一つで、画家本人の署名がされた唯一の作品である聖ヨハネ大聖堂美術館を見学。

マルタの巨石文明遺跡からの重要な発掘品を所蔵する博物館。建物は16世紀に建造されたもので、かつての聖ヨハネ騎士団のプロヴァンス地方出身者の宿舎であった。有名な所蔵品に『マルタのヴィーナス』と『眠れる女神 』がある国立考古学博物館を見学。

カスティル・プレイスの近くにあり、スリーシティーズ越しのグランド港の比類ない眺望を誇っています。起源は1661年にさかのぼり、当時は居住の宿(オーベルジュ)がすぐ近くにあるイタリアの騎士のプライベートガーデンでした。パブリックガーデンとしてオープンしたのは1824年以降のことで、第二次世界大戦の間は、多くの破壊を受けました。経路には、マルタの歴史上の様々な人物や他の重要な出来事を表す、胸像、彫像や碑が並んでいますアッパー・バラッカ・ガーデンズを散策する。

17:30バスでバレッタ北西に位置するホテルに向かう。

18:00ホテル到達

19:30夕食、就寝。

5月3日8:00バスでゴゾ島行きのフェリー乗り場に向かう。
9:30フェリー出発

10:00マルタ島の北西6キロメートルにある、緑豊かな島。有史時代から、さまざまな民族がこの島を襲ったため、島の中心の町ビクトリアにはグランカステロと呼ばれる大城塞がある。島民はいつもこの中に避難し、自らを外敵から守っていたゴゾ島到達。

城塞都市への入り口に1697〜1711年にかけて建てられたバロック様式の大聖堂。資金不足から聖堂にはドームが造られなかったが、イタリア人画家アントニオ・マヌエル作の遠近法を駆使した“だまし絵”によって、人々が見上げる天井にはあたかもドームがそこにあったような錯覚を与えるようになっている。内部は見事なバロック装飾だ。また、金や銀の宗教具や絵画が展示されている博物館もあるゴゾ大聖堂。

ヴィクトリアの東に通称「巨人の塔」と呼ばれる神殿跡がある。先史時代の神殿の中で最大の規模を誇り、保存状態がよいといわれている。紀元前3500年ごろの建造物で、伝説によると、巨人女性サンスーナ(Sansuna)によって建造されたものといわれている。1826年に発見されたこの神殿は、連結していない2つの中庭に9つの巨大なアプシス(ロマネクス、ビザンティン様式の教会礼拝堂に見られる外部に張り出した半円形ドーム)を持つ建物だ。長さ約23m、壁の高さも約8mにも及ぶ石積みの壁で囲まれている。積み上げた石は数トンにも及ぶ巨大な石灰岩などからなり、風化した石灰岩はかなり崩れかけている。内部は、荒削りの石とは異なり表面がなめらかな石で、いくつもの室に仕切られている。生け贄を洗ったといわれる丸くくり抜かれた石や、ヘビを描いた石などが発見された。ここでは鎮魂の儀式が行われたと考えられているジュンガンティーヤ神殿を訪れる。

シャーラ村の北には、ホメロスの叙情詩「オデッセイア」で詠われた美しい妖精カリプソが、7年間オデッセウスを虜にした伝説の愛の洞窟。カリプソはオデッセウスに不死の命を約束、その条件はオデッセウスが永遠に私(カリプソ)のもとに留まることだった。ところがゼウスの介入で、彼はこの島から出て、妻ペネローペのもとへ戻ることができた。「オデッセイア」の中で語られたカリプソの住み家とは不明だが、洞窟の入り口から巨大神殿ジュガンティーヤ時代のテラコッタが発掘されている。美しいラムラ湾の景色を楽しむことができるカリプソの洞窟を訪れる。

ゴゾ島の代表的景観ともいわれ、数千年の風と波の浸食によって造られた岩のアーチ。アーチは高さ20m、幅100m、奥行き40mという岩に開いた自然の窓である。褐色の岩のアーチを通して見える紺碧の海の美しい景観は、観光バスがやって来る数少ないゴゾ島の人気スポットでもあるアズール・ウィンドーを訪れる。

12:00ビクトリアに戻り昼食
13:00昼食後市街地を散策
14:15バスでフェリー乗り場に向かう。
15:00フェリー出発
15:30マレタ島に戻る。

16:00バスでバレッタを望める市街地到着、散策

17:30市街地のレストランで夕食
19:00バスでホテルに向かう。
19:30ホテル到達、就寝。

5月4日9:00バスで出発、南の河岸方面に向かう。

9:30「青の洞門」の船着き場に行く少し手前に丘の上から海を眺める所に到着。丘の上から少しだけ洞門の感じや海の蒼さなど見ることが出来る「青の洞門」を丘の上から眺望する。

10:00 8-9名乗りの遊覧ボートで、船乗り場を出て海上を岸に沿って走っていくと岸辺の断崖の麓に切り込んだ割れ目が見えてくるこれが洞門で奥行きは10m-30mくらいあろうかその中に入って行くと海の底に反射した光が水の蒼さをクッキリと浮き上がらせる。実に美しい!神秘的な色合い、コバルトブルー、エメラルドブルー、いやマルタブルーと云うか、波に揺らめいて光り輝くのである。波際の岩にはオレンジ色の珊瑚が帯になって見え隠れする。これも美しい!こんな調子で次から次へと洞門を巡っていく青の洞門を巡る。

10:40バスでバレッタに向かう。

11:00バレッタ到着。

歴代の騎士団長の公邸であり、現在は国会議事堂としても使用されている。聖ヨハネ大聖堂の設計士カサールにより1574年に完成。大ホールには兵器庫もあり、様々な時代の武器のコレクションが展示されている騎士団長の宮殿を訪れる。

12:00昼食を済ませて
13:00マルタ空港に向かう。
13:30マルタ空港到達。
15:45エミレーツ航空でマルタ空港出発。キプロスラルナカ空港経由して
5月5日00:40ドバイ空港到達
03:00ドバイ空港エミレーツ航空で出発
17:10関西国際空港到達。

今回の旅行、ヨーロッパ地中海の2つの島国、国土の4割近くが森で、中央にはオリンポス山を中心に山岳地帯が広がり豊かな大地と海の幸に恵まれ、人々の生活水準は高く、ギリシア神話に登場するアフロディテが生まれた場所で、1万年の歴史を刻む遺跡の数々のキプロス

イタリアとアフリカ大陸に挟まれ、地中海のヘソと呼ばれ、先史時代に築かれた謎の多い巨石神殿が点在し、この長い歴史から地中海文明のゆりかごとも称され、この好立地ゆえに数多の民族の侵略を受け、抵抗の歴史であり、マルタの町の基礎を築いた聖ヨハネ騎士団を語らずには、言えないマルタ共和国を訪れ、多くの文化遺産、世界遺産と美しい海岸線の自然遺産を巡り、7泊8日の旅、堪能しました。

全行程、夕立はあったもの、ほぼ満足できる天候に恵まれ、快適な観光旅行を満喫できました。

特に、2つの自然遺産、アズール・ウインドー、青の洞門をボートで訪れることが天候に左右され難しいが、運良く2つとも訪れることができたのはラッキーでした。

2つの地中海の島国、キプロス、マルタ島は小さな島ですが歴史が古く、多くの点在する史跡の歴史学習でき、充実した日々を送ることができました。

歴史深い2つの地中海の島国、キプロス、マルタ島歴史学習観光でした。