大阪府東大阪市神社巡り
2011年6月29日


大阪府中河内地域に位置する市。大阪市、堺市の両政令指定都市に次ぐ、大阪府内で第3位の人口規模の市であり、中核市に指定されている。近鉄花園ラグビー場を擁する「ラグビーのまち」として、また、技術力の高い中小企業が多数立地するものづくりのまちとして全国に知られ、それらをアピールする形でまちづくりを行っている東大阪市の神社を巡りました。

12:30車で出発、石切方面に向かう。

当社は善根寺の旧村社で、『大阪府全志』によると「768年(神護景雲2年)枚岡明神を分霊して大和の春日に遷座するのに供奉した一行のうちの、25人が河内に立ち帰り、この地に春日4神を勧請したのが当社の起源である」と伝える。この春日25人衆が春日神社の屋根葺替えなどに奉仕し、宮座へと発展したという。
1872年(明治5年)に枚岡神社に合祀されたが、1881年(同14年)復社し、現在に至っている善根寺春日神社を訪れる。

今から約六十年前、時は正徳三年(1713)池之端が戸数次第に増加し村が繁栄するにつれ、信仰厚き村民が村独自の天神を勧請し村の興隆を図るべく、時の大阪奉行に願い出て池ノ端に春日神社を建立、前記の四神が鎮座せるものなり。正徳の次の年号、享保の時代かの名君の名高き将軍吉宗公のとき、「享保」の銘の則の篭灯が奉納され数基現在も残る池之端春日神社を訪れる。

この神社は、江戸時代に大阪西町奉行で日下村の領主となり、この地で没した曽我丹波守古祐をまつっています。歴史上実在した人の霊位を神として奉斎したもので、丹波守の遺徳を偲ぶ村人たちが25回忌の時墓を立て、後年その墓碑の上に社殿が建てられ神社となりました丹波神社を訪れる。

今から約2660余年前(神武天皇2年)上之社として創建されたとのことで、現在の本社(下之社)よりも歴史的に古いことになる。江戸時代1765年(明和2年)の覚書には社内の除地として石切劔箭大明神と共に上之社石切劔箭大明神が見える。また『河内名所図会』〔1801年(享和元年)刊行〕には石切劔箭神社は『社説に云、上ノ社は哮峯にあり、下ノ社は当地也』とあり、近世には上下2社が存在していた。1907年(明治40年)上之社は下之社に合祀され、跡地に記念石が建てられ、「奥の院」と称していたが1972年(昭和47年)に上之宮として再興され、現在に至っている石切劔箭神社を訪れる。

大阪府東大阪市にある神社である。式内社(名神大)、河内国一宮で、旧社格は官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。枚岡梅林でも有名であり、一帯はかおり風景100選(枚岡神社の社叢)に選定されている。社紋は春日大社と同じ「下がり藤」である。 鳥居から、坂道を上り、また46段ほどの階段をのぼり、やっと拝殿にたどり着く枚岡神社を訪れる。

当社は俗に瓢箪山古墳と呼ばれるひょうたんの形をした6世紀末のものとされる双円墳の西側に鎮座。その創起は社伝によると1584年(天正11年)豊臣秀吉が大坂城築城に当たり、片桐且元に命じて巽の方向に当たるこの地に金瓢を埋め、伏見桃山城からふくべ稲荷を勧請したのに始まると伝わる。1688年(貞享5年)の四条村古絵図には古墳は「旧跡字大塚」と記され、元は大塚と呼ばれていたらしいが、瓢箪形の山を描いたわきに「瓢箪山」「いなり」とも記され、古くから稲荷社が祀られ、瓢箪山と呼ばれていたことがわかる。また、当社は江戸時代より、門前の東高野街道沿いにおいて、往来者の話し言葉や持ち物などから吉凶を判断する「辻占い」の風習があり、明治時代初め頃に当時の宮司が「辻占」を創始し、全国にその名を知られるようになった。現在も「辻占総本社」としてその歴史と伝統を受け継いでいる瓢箪山稲荷神社を訪れる。

生駒山の南、鳴川峠から西へ下る途にある六萬寺山の西麓街中に鎮座している。社の西約200mを、東高野街道が南北に通じている。社伝によると、神武天皇孔舎衛坂の戦いに利なくこの地に回幸したが風強く波高くして梶折れ、舟は水上を漂流して小丘に着き、暫し舟をとめさせられてこの船山の地に祖神である瓊瓊杵尊を祀られたと伝えられている。到着の地は現在の六万寺町3-3-6.7の地(字梶無)とされている
梶無神社を訪れる。

横小路町の氏神で宇台風の大賀世古墳の上に鎮座する風神である。延喜式 の神明帳に、大和国平群郡 龍田坐 天御柱国御柱神社 二座 並名 神大 月次 新當 と載る。今の奈良県生駒郡三郷村大字立野に鎮座する旧官幣大社龍田神社の祭神と同じで絵おそらくその分祀である。明治五年六月二十六日枚岡神社へ龍田社の名で合祀されたが、同十三年三月二十七日に復し今日に至る大賀世神社を訪れる。

花園方面に向かう。

江戸時代は山王権現、明治初期は日吉神社と称していました。明治五年、字南口にあった八坂神社、字中島にあった水神社とともに枚岡神社に合祀されましたが、明治十八年、以上の三社ともに旧日吉神社の地に合わせて復社して池島神社となりました。祭神は、大山咋命・素盞鳴命・磐長姫です池島神社を訪れる。

古代河内湖への旧大和川(玉串川)の船着き場付近に鎮座。市場が立ち、市場村であった。 平野の旭神社摂社若宮八幡宮に伝わる縁起によれば、当時水害激しく、八幡宮の神託があつて、「櫛司と橘とを川上から流し、その漂着した処に神を祀れば、水難を止め、農民を安穏にしよう」とのことで、早速、大和・河内両国の境から、その二品を流し、櫛司の止まつた処に玉櫛明神を、橘の止まつた処に若宮八幡宮を祀つたという。旧大和川の河畔に鎭座する社で、現在の社地の西約200mを南北に蛇行する道は、旧大和川の分流玉串川のなごりである。花園北小学校の南、街中の社。生駒の山を臨み。本殿背後に御神体とされている津原池がある津原神社を訪れる。

街中の平地に鎮座する。当社は若江氏の氏神を祀るとも思えるが、若江氏はこの地に存在したかは不詳(若江は単なる地名という)。「鏡」から若江鏡神社は天火明命を祀る神社であつて、鏡作に関係する氏族の氏神ではなかつたかと考えることができる。中世若江城城主畠山政長より三好左京大夫源義継までの代々の城主の崇敬するところであった。平安時代に石清水八幡宮領の若江莊がこの地域にあつたことから八幡神を祀るようになり、元禄ごろには若江鏡神社というとともに、塚本神社という社名でも呼ばれたようである若江鏡神社を訪れる。

長瀬方面に向かう。

神社は旧大和川支流の東岸近くに位置し、もとは牛頭天王と称されていました。創建年代は不明ですが、祭神は須佐之男命です。伝えによれば、天正の頃、石山合戦により村落とともに消失したと伝えられています。その後、慶長5年に片桐且元(かたぎりかつもと)より社地を拝領し社殿を再建したと宮の記録に記されています。明治5年に現在の社名に変わりました。境内には文化2年(1805)の手水鉢、旧社名の牛頭天皇宮と刻む享保十三年(1728)の燈籠、文政十一年(1828)の狛犬等があります。また、境内には旧大和川支流の堤防上に生えていた樹木が数本残り、いずれも堤防の土が取り去られたため、土中にあった根が浮き上がっています中小阪彌榮神社を訪れる。

同じ字を書く彌榮(弥栄)神社(いやさかじんじゃ)から南へ1km程の場所にあるのですが、読み方も違います。いずれにしろ由緒も何も解りませんが、ここにも神社があるということはこの地域の氏神を祀っているということなので何らかの由緒があると思います彌栄神社(やえじんじゃ)を訪れる。

八幡神を祀る神社は八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという上小阪八幡神社を訪れる。

弥刀小学校北西街中に鎮座する。鎮座地は古大和川の自然堤防の微高地にある。水上の安全を所るために祀られた神であつたと思われる。天平宝字6年(762)6月、大和川の大洪水で長瀬堤が決潰した際、近江堂の字切所・切下・切の浦などからの激流のために、社殿ことごとく流失したとのことである。地名は「大水戸」→「おおみと」→「近江堂」と変化した弥刀神社を訪れる。

古来の事歴は判明しがたいが、約九百八十三年前(平安中期)には友井四丁目の現在「法敬寺」の東北方に牛頭天王を創祀せられていたことが確認される。江戸中期享保元年(293年前)九月二十日の日に菅原道真公を合祀して現在の友井三丁目十一番地に遷座させられた御剣神社を訪れる。

当神社の氏地である旧長P村は、明治22年の町村制施工に際して、現在の大蓮、衣摺、柏田、渋川町、寿町、長瀬町、俊徳町、横沼、吉松、金岡を併合し一村としたものです。従来の村々には、各鎮守神を奉斎し、長P村成立後も従来のままでありましたが、明治41年現在の社地に、各大字の8神社の御神霊を合祀して長P神社として創建されました長瀬神社を訪れる。

波牟は蛇であり許曽は社の義という。日本古来の「蛇神」を祀っていたのであろう。鎮座地の地名は河内国渋川郡北蛇草村字大ケであり、地名から社名が起こったとされている。明治27年4月、近隣七ケ村が合体して長瀬村となり、大正元年12月28日各村に鎭座していた八社が合併移転し、「長瀬神社」となった。式内社波牟許曽神社の旧地は、昭和の初年は、僅かに数株の松を存するのみと記録されていたが、北蛇草地区の氏子住民の努カにより、旧地に還座し、旧社以上の結構をもつ本殿・拝殿・社務所が建立された波牟許曽神社を訪れる。

1954年(昭和29年)、西宮神社から戎大神の御霊代を勧請申し上げ、布施戎神社の祭祀がはじまった。周辺地域が商業地として発展するに伴い、さらに1988年(昭和63年)には、大阪の今宮戎神社から事代主命を勧請申し上げ、以来厳粛な祭祀を執行し、広大な御神徳を仰いでいる布施戎神社を訪れる。

明治43年布施村足代に在った神社を現社地の鹿島時神社に合祀し都留彌神社の社名を継承した都留彌は都留美島の省略で旧大和川につるむ(交尾の意)一対の美しい島があり、これが神名となり豊漁を祈ったものとの説がある都留彌神社を訪れる。

元禄年間、下小坂の原野を開拓した移住者達が水利至難のため大和の国吉野の水分大神と袖振山の受◆神を祀ったのに始まるとされています。もと子守勝手明神といわれてましたが、明治5年に改称されました小坂神社を訪れる。

高井田方面に向かう。

当社は鴨(賀茂)氏の一族が673年(白鳳2年)に創建したと伝えられる延喜式内社で、祭神に速須佐之男命及び大鴨積命(素盞鳴命の十一世孫で、鴨氏の開祖)を祀ったのが当社の始まりで、中世に入り、岩清水八幡宮領となり、神功皇后、応神天皇を合祀し、「八幡宮」と称される様になった。1615年(元和元年)大坂夏の陣にはこの付近が戦場となり、当社も兵火にかかり、社殿はことごとく烏有に帰したが、後数年を経て、再建されている。隣接している長栄寺とは掛かり合いが深く、江戸時代の案内書「河内名所図会」には、『長栄寺の鎮守となり、今八幡と称される』とある。1868年(明治元年)の神仏分離後、1872年(明治5年)郷社に列せられた。現在の社殿及び拝殿は1907年(明治14年)の再建である鴨高田神社を訪れる。

字宮の町と呼ばれる所に鎮座し、仲哀天皇、神宮皇后、応神天皇の三神を祭神としています。稲田は、南町、中町、橋本町、北町、旭町の五町に分かれ、秋祭り(宵宮10月21日、本祭り22日)の宵宮には、各町内から伊勢音頭を歌いながら、長提灯の宮入が盛大に行われます稲田八幡神社を訪れる。

東大阪市森河内西に鎮座する森河内西の長瀬川を渡って真正面の突き当たりにあります森河内八幡神社を訪れる。

創建は不詳となっていますが、宮司さんのお話によると、古くはない。この辺りは、ごくごく最近まで沼だったそうで、そこに村ができた時に、「産土神」として、この神社ができたのだそうです。「この辺り一帯、蓮根畑だったんです」の徳庵神社を訪れる。
河内国若江郡の式内小社意支部神社の論社。他に南西数百メートルの天神社。どちらにも決定打はない。 長田神社の北に意伎宮屋敷、弓場などの地名があり、社前掲示『長田神社と子安地蔵』によれば、神社焼失により当地に遷座したと伝えられている。八幡宮とする永代常夜燈(延享三年 1746年)がある。江戸時代には八幡宮だった。流石の『河内志』にも意支部神社の比定はない長田神社を訪れる。

東大阪市新家に鎮座し、、暗越奈良街道の北側にあります新家菅原神社を訪れる。

旧御厨村の中央に位置し、大名持命、少彦名命の二神をおまつりしています。創建年代は文献が無く解りませんが、延喜式神名帳にみえる意岐部神社がこの神社であるとも伝えられています。古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名が使われるようになりました。また、大正4年には新家村の菅原神社と菱屋東の稲荷神社と山科神社、荒本の荒本神社の4社が合祀されました天神社を訪れる。

18:30終了。

今回の名所巡り、近場の大阪府では三番目の人口を誇る東大阪市に足を運び、点在する30の神社を訪れ結構マニアックな歴史学習でした。


















三重県櫛田川カヌー
2011年6月26日


三重県中部の中央構造線沿いを西から東に流れ伊勢湾に注ぐ一級水系の本流。倭姫命世記では倭姫命が櫛を落とした地を櫛田と名付けたとあり、川名の由来ともなったのではないかとされる櫛田川に足を運び、奥香肌狭付近の3,5kmをカヌーで下りました。

8:00大阪駅集合出発、車で阪神近畿南阪奈自動車道経由して
10:00奥香肌狭付近の櫛田川上流到達、準備して
11:00出発、3級まで瀬が所々有り、長い瀬、落差のある瀬、いろんなタイプの瀬を越える。
12:00河原で昼食
13:00出発、昼からも同じようなタイプの瀬をいくつかクリアして休憩も交えて
16:00毛原橋到達、あとかたずけして
16:50出発
17:10天然温泉香肌の湯に浸かり
18:00出発、途中道の駅で食事を済ませて
20:30大阪駅集合解散。

今回のカヌーイベント、二回目のチャレンジである三重県櫛田川に足を運び、3.5kmと距離は短かめでしたが、水の綺麗さ抜群、水量十分、川の流れも申し分なく、天候も快晴、抜群の川下り条件で、いろんなタイプの瀬を超え、4時間かけてゆっくり周りの景色を景観しながらカヌー活動を楽しめました。

三重県櫛田川、今回のコースは距離は短めでしたがいろんなタイプの瀬が多く存在し、清流でいままでおとずれた川では上位に位置する川で又訪れてみたい川でした。





大阪府四条畷市寺社巡り
2011年6月25日


大阪府北河内地域に位置する市、緑の文化園や飯盛山などの緑溢れる豊かな自然や、楠木正行ゆかりの四條畷神社、平成14年に出土した田原レイマンの墓碑に代表される歴史的遺産など、多くの観光資源があります四條畷市の寺社を訪れました。

12:30車で出発、田原方面に向かう。

念法眞教生駒別院 、経王寺、隆昌寺、月泉寺、正伝寺、住吉神社、法元寺を訪れる。

清滝方面に向かう。

如在寺、四条畷大黒天を訪れる。

四条畷駅方面に向かう。

『延喜式』神名帳の讃良郡に載る同名神社(官幣小社)に比定される。江戸時代の地方文書には天神宮、天満宮、大蛇宮の名称で見え、「大蛇宮」は水の化身といわれる龍を祀る神社で、農業神として村内の信仰を集めていた思われるが、1882年(明治15年)の中野村地理誌は祭神、由緒不詳としている。現在の神社名は(明治4年)村社に列せられたのを機に、『延喜式』神名帳に載る「国中神社」の名を復活させ、1917年(大正6年)逢坂の大上宮を合祀した国中神社を訪れる。

当社は『延喜式』神名帳に載る官幣小社で、四條畷市にある式内3社のうちの1社である。元は現在地を更に山中を東に行った室池の近く、字宮谷に有った。創祀年代は不明だが、この地からは奈良時代の古瓦が拾集され、神社の起源として奈良時代には鎮座されていたものと推測される。文禄年間(1952〜6年)に清滝字城の堂山に移し、更に1700年(元禄13年)に現在地に遷座した。1560年(永禄3年)三好長慶が飯盛山に居城した頃には飯盛城鎮護の神として崇敬も厚かったといわれる。文禄年間の城の堂山への遷座は三好長慶の動向と何らかの関連があるのかもしれない。当社は平安期の神仏習合により「牛頭天王社」と称し、豊作を祈る水神信仰に基づく神として祀られ、この名称が江戸時代の終わりまで続いた。社名を『延喜式』神名帳にのる旧名に復興したのは1871年(明治4年)で、明治政府の神仏分離令の結果による。現在の社殿は(明治14年)に建てかえられたものだが、近年修復されている御机神社を訪れる。

当社の創建は『神社由緒記』には「平安初期の寛平・延喜年間(889〜923年)の頃、飯盛の麓に鎮座したとあるが、往昔のことは不詳である」としている。1815年(文化12年)の『南野村改邑鑑』には「(住吉吉田神社は)現在まで三牧大和とその子伊織、孫大和と3代神職が続いているが、それまで社家がなかったので(三牧家が神官となった)元文年間(1736〜41年)住吉大明神の神主吉田家に願い出て受領したので、これを機に住吉神社と平田神社とが合祀した」との記録が残る。「住吉神社」は往時より飯盛山麓にあり、その時期や、海の神である住吉社がこの地に祀られた理由などは不詳であるが、「平田神社」はもとは南野村字平田にあり、1853年(嘉永6年)の『南野村庄屋重右衛門扣帳』には「慶長年中(1596〜1615年)の頃、この地で打死した平田という人の御霊を祀る祠があった」とある。慶長年間に打死(討死?)と言うことは大坂の陣の戦死者を祀ったものか住吉平田神社を訪れる。

当社は1348年(正平3年)四条畷の戦いで殉死した楠木正行を主神に、弟正時以下24柱が祀られている。社務所で買い求めた「略記」によれば、神社の歴史は比較的新しく、地元の「住吉平田神社」の神主、三牧文吾らの願い出により、1889年(明治22年)勅許が下り、「四条畷神社」という社号も賜り、別格官幣社に列格された。社殿が完成し御鎮座祭が執り行われたのは、1890年(明治23年)のことである。なお、「太平記」で語られている、「四條畷古戦場」と「楠木正行戦死地」は、大東市四條から四條畷市附近にわたるという説と、東大阪市四條の戦場説とがある四条畷神社を訪れる。

龍尾寺、正願寺、 当山の開基は明らかではないが、中興開山として雲上上人の名が知られている。雲上は1697年(元禄10年)に没しており、17世紀には寺容が整ったと考えられる。現在の宗旨は西山浄土宗であるが、1736年(元文元年)の南野村旧記帳には弥勒寺は「河州茨田郡佐太来迎寺末寺也」とあり、もとは大念仏宗来迎寺末であった。南野村に残る記録によると、この弥勒寺は1765年(文化12年)に再建、1786年(天明6年)に水害に遭い、石垣が壊されたことなどが記されている。当寺に祀られている高さ30cmの一木造聖観音像立は「舎利吹観音」と通称され、悪瘡治癒に効験が有るとして信仰を集めている弥勒寺を訪れる。
西明寺、法念寺、本泉寺、江戸初期の承応年間(1650年頃)設立の真宗道場に始まり、享保三(1718)年に寺号宣下をうけ、山号を地域名にとり、甲可山西敬寺を称す。現住職は24代目に当たる。寺院活動としては真宗教義に従って葬儀・法事・月忌参詣などは鄭重に行い、春の永代経法要・秋の報恩講は盛大に行う。仏教婦人会も盛んに活動しており、寺院活動を推進している。住職、門信徒共に歩んで、明るい寺院を目指している西敬寺を訪れる。

聖武天皇の勅願により、行基菩薩が建立したの49院の1つという。元は清滝地区字正法寺にあったが、元和年間(1615〜24年)に当地に移転、再興したと伝える。清滝の正法寺跡は1969〜70年(昭和44〜5年)に発掘調査が行われ、東塔跡などが検出されると共に、出土した瓦から奈良時代前期に創建されたことが明らかになった。当山の縁起を記した鐘銘には「創建時より仏殿、塔婆、僧房、門廊、鐘楼、浴室などを備え、弘仁年中(810〜24年)広智上人のもと大寺院となる。その後衰微したが天正年間(1573〜92年)に観海上人が再興し、元和年間(1615〜24年)円明上人が浄土宗に改宗した」と伝える。しかし、境内に『南無阿弥陀仏』と刻まれた「六字名号」には「天文5年(1536年)」の銘があり、改宗の時期は元和より早い時期だったと思われる正法寺を訪れる。

忍ヶ丘方面に向かう。

大阪府四條畷市砂360番地にあり、四條畷では戦前から存在した唯一の日蓮系寺院であり、現在は京都の妙蓮寺を本山とする末寺です。創建当時は、七堂の伽藍を誇っていたようですが、およそ今から290年前の正徳年間(1710年代)に近隣の大火に罹り、惜しくもすべて烏有に帰しました。その後、235年前の明和6年(1769年)5月、当寺12世日孝上人の時に本堂を再建、以来198年を経過し、昭和42年(1967年)夏、先代住職27世日孝上人が本堂を改築されました。また、元和3年創建以前はキリシタンの寺院ということで当時のヤソ会(キリスト教)伝道師が本国に報告され、それが現存しているようで、10年に1度ぐらいの割合でキリスト教徒の方が来寺される事があります妙法寺を訪れる。

光円寺、 当山は松風山岡山院と号し、一名讃良寺。もとは大聖寺と記したといい、隣寺の見性寺(現在は廃寺)との間で、讃良寺継承問題をめぐって紛争が起こり、当寺の主張が大いに正しいとされたことから大正寺になったという。1619年(元和5年)に書かれた『大正寺縁起』によれば、1174年(承安4年)頃、津桙(つほこ)神社(現忍陵神社)付近に1人の尼長者がおり、氏神の津桙神を奉っていたが、法然の弟子の西仙房が当地に行脚し、尼長者に易行念仏の法を説いた。西仙房は近くの森に草庵を寄進され修行、この庵を讃良寺と呼んだ。 時代を経て1605年(慶長10年)、京都清浄華院の良光が堺への途次、西仙房の古跡を尋ね衰退した寺を再興、仏堂を建立し安阿弥作の阿弥陀如来を安置した。これが現在の大正寺という。1615年(慶長20年)大坂夏の陣の戦火を避け、一時大和生駒に移ったが、翌年再びこの地に戻って来たという大正寺を訪れる。

前身は、『延喜式』神名帳に見える讃良郡の「津桙神社」という。もとは現在地より東方約900mの岡山村坪井の通称赤山と呼ばれるところに鎮座していたが、江戸時代中期に現在地に移建された。1882年(明治15年)の『岡山村誌』に「津桙神社 式内村社、八幡宮・新宮太神・藤原鎌足を祭る」とあり、津桙神社に砂の馬守社・大将軍社の2社を合祀した1911年(明治44年)現在の社名に改称している。社名変更の際、おかの字に陵を充てているように、ここは古くからこの丘は古墳であると認識されていたらしく、当初は「しのびのみささぎ神社」とよんだとも伝わる。1935年(昭和10年)前年に台風の被害を受けた社殿の修復工事中、前方後円墳の竪穴式石室が発見され、社殿の横に覆屋を建て、「忍岡古墳」として保存されている。また、この丘陵を利用して、戦国時代に三好長慶が飯盛山城を居城とした頃に、支城として岡山城が築かれたと伝えられており、フロイスの『日本史』には、城主一族の結城山城守忠正(アンリケ)やその息子の左衛門尉忠正(アンタン)などがキリシタンとして登場する。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、徳川秀忠の本陣として同地が使われ、徳川方が勝利した事から縁起の良い所として御勝山とも称されるようになったという。この話は大阪市生野区にある岡山(御勝山)との話と共通しており、偶然が重なったものか。ついでながら、このとき家康は交野の星田に陣を設けたという。なお、この岡山城の遺構は殆ど破壊されており、その名残を見る事は出来ない忍陵神社を訪れる。

17:00終了。

今回の名所巡り、近場の大阪府四条畷市の点在する比較的マイナーな6つの神社、20寺院を訪れ歴史学習できました。











滋賀県竹生島観光
2011年6月22日


日本最大の湖、びわ湖がある滋賀県に足を運び、琵琶湖の長浜市葛籠尾崎沖約2kmに位置し、周囲約2kmの針葉樹で覆われた島です。西国第三十番札所の竹生島宝厳寺や都久夫須麻神社(竹生島神社)があり、古くから「神を
く島」として信仰されてきました。また、琵琶湖八景(深緑)の一つとしても数えられています竹生島を訪れました。

12:30車で第二京阪名神北陸自動車道経由して長浜インター下車
13:55長浜港到達
14:00長浜港フェリーで出発
14:30竹生島到達、散策

竹生島には、南側にこの島唯一の港があります。港に着いて上陸すると、琵琶湖周航の歌の一部を記した石碑があり、それを横目に進むと土産物店の気さくな店員さん達に迎え入れられました。

今から450年前、豊臣秀吉が寄進しました伏見桃山城の束力使殿を移転したもので、国宝となっています。本殿内部は桃山時代を代表する、優雅できらびやかな装飾が施されています都久夫須麻神社(竹生島神社)を訪れる。

祭神は湖水を支配する浅井姫命。明治4年(1871)の神仏分離以前は、竹生島明神、または竹生島弁財天社と呼ばれ、宝厳寺を別当としました。現在の本殿は、総桧皮葺、入母屋造り。正面には向殿が設けられています。創建以来、度重なる火災で焼失しましたが、戦国時代に再建されました。その後、豊臣秀頼が伏見城の日暮御殿(一説には豊国廟とも伝えられています)を移築し、改修を施しました。そのため、前後の軒に唐破風、周囲に庇(ひさし)をめぐらした複雑な建築になっています。内部には狩野光信筆の襖絵や絵天井があり、特に60の格間を持つ格天井は、金地の濃淡に四季の花弁を繊細なタッチで描いた秀作です。また、柱、床、長押には、黒漆地に花鳥文様の蒔絵が施され、豪華絢爛な桃山文化を現在に残しています。

その昔、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せ よ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりだそうです。そ の後、伝教大師、弘法大師なども来島し修業されたと伝えられています竹生島宝厳寺を訪れる。

唐門(国宝) 船廊下(重文) 観音堂(重文) 三重の塔 五重石塔(重文) 宝物殿 モチノ木 を見学する。

真言宗豊山派、厳金山の号を持つ、西国三十三観音霊場第30番札所。本尊の大弁財天は、江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁財天」の一つです。、都久夫須麻神社に続いている船廊下は、豊臣秀吉の御座船を利用して作られたもので、国の重要文化財になっています。その入り口に立つ唐門は国宝であり、こちらは京都東山の豊国廟から移築されたものです。奈良時代、聖武天皇の勅命を受けた高僧行基が、国内安穏、国家鎮護の祈りを込めて小堂に四天王像を安置したのが始まり、と伝えられています。

15:50竹生島フェリーで出発
16:20長浜港到達、帰路に向かう。

今回の名所巡り、滋賀県のびわ湖に浮かぶ竹生島に足を運び、歴史深い由緒ある神社と寺院を訪れました。

ボートで何回か訪れたことのある竹生島、上陸は初めてで、観光も今回初めての体験でした。

小さな島に密集した多くの歴史的建造物、驚きました。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十八弾:広島県宮島&三次&帝釈峡観光
2011年6月18−19日


中国・四国地方の中心地、広島県に足を運び、丹波の天橋立、陸前の松島と並んで日本三景のひとつに数えられ、世界遺産の宮島、日本五大名狭の帝釈峡、スケールの大きな自然を体験できる三次・世羅高原を訪れました。

18日13:09新大阪駅新幹線のぞみで出発
14:38広島駅到達、山陽本線に乗り換えて
15:11宮島口到着、歩いて宮島口港に向かう。
15:25宮島口港フェリーで出発
15:35宮島港到達、散策

弥山原生林の麓にある公園で、宮島の紅葉の名所。モミジ、カエデの古木が多く、11月ごろになるとあたり一面が美しく紅葉したカエデに包まれる。なかでも紅葉谷周辺は最も美しいスポットの一つ。休憩施設も整っており、渓谷の流れに沿って散策出来る紅葉谷公園を訪れる。

江戸末期の豪商・旧江上家の母屋(登録有形文化財)と土蔵を利用した資料館。宮島の年中行事や人々の衣食住などを紹介している。弥山頂上の霊火堂から分火した不消の火も必見の宮島歴史民俗資料館を訪れる。

海を敷地に見立てた奇想天外さや、寝殿造の粋を極めた建築美を誇る壮麗な古社。593年(推古元)、推古天皇即位の年の創建と伝えられ、1168年(仁安3)平清盛が、現在ある寝殿造の様式を取り入れた社殿を造営した。本社を中心に、海へ突き出した平舞台(国宝)、高舞台(国宝)、能舞台(重要文化財)、客人神社(国宝)など20棟が、総延長約280mにも及ぶ朱塗りの回廊で結ばれている嚴島神社を訪れる。

平家一門をはじめ、時の権力者が奉納した太刀などの武具、舞楽面、楽器など3500点の美術工芸品を収蔵。なかでも清盛自筆の願文を含む平家納経33巻(国宝)は、一部を秋の特別展で公開するのでぜひ見ておきたい嚴島神社宝物館[嚴島神社]を訪れる。

宮島のシンボルにもなっている高さ約16m、支柱の周囲約10mの朱塗りの大鳥居(重要文化財)。楠の四脚造の鳥居は海中に自重で立っている。本社拝殿から200m先の海中にあり、干潮時は歩いて渡れる。嚴島神社入口・拝観受付に干満時刻表がある。海側の額には厳嶋神社、裏に伊都岐島神社と大書されている大鳥居[嚴島神社]を訪れる。

豊臣秀吉が建立した入母屋造の大経堂。工事の途中で秀吉が死去したため、天井の板張りや壁、正面入口が未完成のまま現在に至っている。畳を敷けば、857畳あるといわれるそのスケールの大きさから、通称千畳閣とよばれている豊国神社(千畳閣)[嚴島神社]を訪れる。

緑の木々を背景に、朱の色も鮮やかにそびえる五重塔の創建は、応永14年(1407)と伝えられている。高さ27m、唐様と和様の建築様式が美しく調和し、ひときわ目を引く。初層の内部は完全な唐様で、柱の上部には、金襴巻きの装飾画、壁には、極彩色の仏画が描かれている五重塔[嚴島神社]を訪れる。

18:30宮島港フェリーで出発
18:40宮島口港到達
18:55宮島口駅出発
19:20広島駅到達、レンタカーで平和公園付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

19日6:30レンタカーで出発

三次・世羅高原方面に向かう。

地元特産のブドウを使った、三次ワインの製造工程が見学できる。試飲も楽しめ、バーベキューハウスではワインとともに広島牛を堪能できる広島三次ワイナリーを訪れる。

庄原・帝釈峡に向かう。

30ほどある帝釈峡の鍾乳洞のなかで神龍湖下流の天川洞と並ぶ規模をもつ。入口は狭いものの奥行き200mの見学路が整備され鍾乳石、石筍、石柱がライトアップされる白雲洞を訪れる。

帝釈にあるアーチ状の天然橋(天然記念物)。帝釈川の浸食作用で地底にも川ができ空洞が広がって下の川床が陥没、残った部分がアーチ状の橋になった。長さ90m、幅19m、高さ40mの壮大さで神の橋ともいわれ、昔は橋として実際に使用されていた雄橋を訪れる。

石灰岩が帝釈川に浸食され、約3億年前に形成された帝釈峡唯一の急流。激流が岩を噛み、渦巻く様が壮観の断魚渓を訪れる。

周囲24km、全長8kmの人造湖。両岸に高さ100mもの岸壁がそびえ、春の新緑、秋の紅葉の時期には観光客で賑わう神龍湖を訪れる。

福山駅に向かう。

17:50福山駅到達
18:31福山駅新幹線のぞみで出発
19:35新大阪駅到達

今回の旅行、中国・四国地方の中心地、広島県に足を運び、世界遺産の宮島、自然のエリア、三次・世羅高原・庄原・帝釈峡をドライブ観光してきました。

さすが世界遺産の宮島、観光名所多く、多くの観光客が訪れ、他の離島のようなのんびりした、素朴なイメージ無く、何回か訪れたことがありますが、派手さのある立派な観光名所でした。

広島は観光名所が多く、北部の自然エリアをはじめて訪れ、ワインや地ビールなどの数多くの産物、430年以上の歴史を持つ鵜飼の三次、古くから園芸が盛んな世羅高原、日本を代表する名狭、国定公園帝釈峡などを訪れ、広範囲のドライブ観光楽しめました。









兵庫県家島諸島家島本島観光
2011年6月15日


兵庫県の小さな島も合わせれば、四十四あるとも言われて、名前の由来は、神武天皇が遠出のさいに嵐にあい、避難された時、湾の中に入ると、その嵐が嘘のように静かになり、「まるで家のなかにいるようだ」と言われたことから、なずけられた家島諸島に足を運び、ひなびた離島をイメージして来ると覆されますが急斜面に、ぎっしりと建つ家々を見ていると、まるでここは地中海のように統一性はありませんが、独特の景色をかもしだしています。港は活気あふれ、大きな海運業の船や、漁師船の姿も見られます。入り組んだ迷路のような路地裏を散策するのも楽しい家島本島を訪れました。

12:30車で近畿中国山陽自動車道経由して
13:50姫路港到達
14:00姫路港高速艇で出発
14:25坊勢島到達
14:35坊勢島出発
14:50家島本島到達、散策する。

家島本島の南端にある観音崎にかかる月の美しさを詠んだものです。赤坂清水を発見した法道仙人は観音崎に 住み、観音像を刻んだとも伝えられています。近くには法道仙人にゆかりがあり、形が魚の鰈に似ていることから「鰈岩」と呼ばれている 奇岩があります。この周辺は、変化に富んだ海岸線が楽しめる絶好の景勝地です。 宮港より徒歩で約32分の観音崎を訪れる。

家島本島の宮の南端、観音崎近くの海岸線にある奇岩です。この奇妙な名前はある伝説に由来しています。昔、観音崎に住んでいた法道仙人が、そばを通りかかった船に食べ物を求めたところ、 漁師は食べ残した鰈を与えました。怒った仙人が鰈を海中に投げ捨てると、にわかに嵐が起き、漁船は沈没してしまいました。その後、 鰈を捨てたところに鰈の頭そっくりの岩ができ、鰈岩と呼ばれるようになったということです。鰈岩の周辺は入り組んだ海岸線の奇観が 楽しめます。
宮港より徒歩で約32分の鰈岩を訪れる。

瀬戸内海を飛来する渡り鳥が多く見られ、バードウォッチングが楽しめます。野鳥の森から海底送水管送水 ルートにかけて続く遊歩道を散策するのも一興です。
真浦港より徒歩で約23分の野鳥の森遊歩道を訪れる。

家島事務所から約600m南の破風と呼ばれる地区にある湧水と、櫻谷に降る雪景色を指しています。赤坂清水 は「破風の井戸」の名でも親しまれています。昔、伝説上の人物として知られる法道仙人が島に来遊したときにこの井戸を発見され、どんな干ばつのときにもかれない井戸と伝えられています。ちなみにこの井戸は、水道が引かれるまで地区の貴重な飲み水として利用されてい ました。
真浦港より徒歩で約17分の赤坂清水・櫻谷雪景を訪れる。

家島本島の宮港の入江に船を寄せ、一夜を明かす興趣を指しています。「播磨鑑」の漢詩では、当時の停泊の 様子を「入江のほとりは小さな山に囲まれて、青く澄んだ海は穏やかだ。高い帆柱を横にして小さな流れに舟をつないでいる」と表現して います。 この社はその昔、滋賀県高島町にある白髭神社から勧請されたものと伝えられています。 「播磨鑑」の漢詩は「神のご威光はおごそかで、全ての悩みを助けてくださる。周囲の緑がお霊屋を隠しているが、付近の港を率いているようだ。世の中が順調なのは仏が姿を変えて助けてくださるからだろう。風景は麗しく輝き、年々咲く花も美しい」と意訳されます。 宮港より徒歩で約7分の宮浦夜泊・宮浦神社を訪れる。

家島本島・宮港の東の天神鼻にあり、神社の周囲は島唯一の原生林に囲まれています。平安時代、時の右大臣、 菅原道真公が左遷により太宰府に向かう途中、島に立ち寄り、休憩した跡に小さな社を建て、その後、社殿を新築したと伝えられていま す。また、「続日本後記」には、承和7年(840)に、宮社になったことが記されています。祭神は大己貴命、小名彦命、天満天神で、毎年7月25日に行われ、壇尻船が出る勇壮な夏祭りは、家島神社の例祭です。
宮港より徒歩で約13分の家島神社を訪れる。

家島本島の天神鼻にある家島神社付近の美しい樹林です。その昔、菅原道真が平安京から太宰府に配流される 途中に立ち寄ったと伝えられています。「播磨鑑」の漢詩では「光り輝く道真公の霊廟がある嶮しい崖は晴れわたり、銀色をした入り江は、 冠の紐を洗うことができるほどだ。梅の花はまるで雲のように見え、その香りと色は十分だ。天神の森の評判の高まるのは当然だ」と訳さ れています。
宮港より徒歩で約13分の天満霊樹を訪れる。

海が作り出した自然名勝です。宮港より徒歩で約13分の天神鼻を訪れる。

寛永16年(1639)、海上警備のために江戸幕府が設けた番所(見張所)からの素晴らしい眺めのことで す。家島本島にある清水公園がかつての番所の位置にあたります。「この場所から見る入江の風景は周囲を圧し、夕日にひときわ映える光 景は煙霧の中に見える対岸の姫路城の天守閣だ」と「播磨鑑」には記されています。 宮港より徒歩で約12分の監館眺望を訪れる。

家島本島、宮の山上にあります。苑内には多くの伽藍が並び、無数の地蔵尊が奉納されています。周囲の眺望も 素晴らしく、家島港内はもとより男鹿島や瀬戸内海が一望できます。また、春には桜の名所として親しまれています。
宮港より徒歩で約18分の万体地蔵苑を訪れる。

家島本島・真浦区民総合センターの隣にある亀の形をした岩です。主人の帰りを待ち続けた亀が石になったと 伝えられるこの岩は、水天宮として地元の信仰を集めています。 真浦港下船後すぐのどんがめっさんを訪れる。

家島本島・真浦港の近くにある標高約70mの城山のことを指します。城山という名前は、中世の頃、この山頂 に城郭が築かれていたことに由来します。当時、飯盛山と呼ばれていたこの山に城を築いたのは、苦瓜助五郎本道と伝えられ、現在も構居 (砦)跡と老松数本が往時の様子をしのばせます。ここから見下ろす家島湾の眺望も必見です。 真浦港より徒歩で約5分の城山公園を訪れる。

間浦は、現在の家島本島の真浦です。「間浦古郭」は室町時代、京都の石清水八幡宮の所領だった頃、苦瓜助五郎本道という役人が、家島諸島に赴任し城山(飯盛山)に築いた城跡のことだと伝えられています。ここからの海の眺望には素晴らしいものがあります。 真浦港より徒歩で約5分の間浦古郭を訪れる。

18:15真浦港フェリーで出発
18:45姫路港到達、帰路に向かう。

今回の名所巡り前回の続きで兵庫県の家島諸島に足を運び、家島諸島で最も栄えた家島本島を訪れ点在する自然と歴史的建造物にふれ楽しめました。

離島といえば過疎地、しかし家島本島は姫路から近いこともあり人口が多く、家並みも多く立派でした。他の離島では考えられない若い方が多かったのが驚きです。家島本島内での仕事はたくさんあるのでしょうね。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十七弾:熊本県熊本タウン&山鹿・菊池観光
2011年6月11−12日


九州の中央に位置する熊本県に足を運び、県のほぼ中央に位置する都市、江戸時代に肥後54万石の城下町として栄え、日本三名城の熊本城がシンボル、九州を代表とする商業都市でもある熊本タウン、800年以上の歴史を誇る温泉街、明治期の芝居小屋や大正期の銀行などが建つレトロな雰囲気が漂う山鹿、自然休養林に指定されている菊池渓谷をはじめ、豊かな自然が残るエリア、菊池を訪れました。

11日熊本行き飛行機が17:00発と遅出の為、リニューアルしてビッグになった大阪駅周辺を散策して時間を費やしました。

駅整備とまちづくりの視点に立って、「抜本的な駅改良」「広場・通路の整備」「新北ビルの開発」「アクティ大阪増築」を4つの柱としています。「駅とまちがひとつに。感動と発見にあふれた、新しい大阪駅の創造」を目指す大阪ステーションシティを訪れました。

17:00伊丹空港出発
18:05熊本空港到達、レンタカーで熊本タウンに向かう。
19:00熊本市街地のホテル到着後、市街地を散策し食事を済ませて就寝。

12日6:30レンタカーで熊本タウン周辺を巡る。

かつて藩主細川家の菩提寺泰勝寺だった場所が、市民の憩う公園になっている。歴代当主やガラシャ夫人の御廟のほか、細川家ゆかりの宮本武蔵の供養塔がある。茶室仰松軒は寄棟造の茅葺屋根。園内は老木が鬱蒼と生い茂り静寂が保たれている立田自然公園を訪れる。

室町期に元の高僧によって創建された雲巌禅寺の奥にある洞窟。洞窟内に石造りの岩戸観音が祭られている。宮本武蔵が籠もり、兵法書『五輪書』を書いた所でもある霊巌洞を訪れる。

玉名・荒尾方面に向かう。

古くから港町として栄えた玉名の歴史と文化を紹介する。館内には、貿易に関する古文書や肥後米の積出しに使った千石船の模型、約1600年前の舟形石棺などを展示している玉名市立歴史博物館こころピアを見学。

真言律宗別格本山蓮華院誕生寺の奥之院。五重塔内で写経や座禅ができる。素焼の皿を投げ、厄を落とす厄皿投げの展望台もある蓮華院誕生寺奥之院を訪れる。

山鹿方面に向かう。

方保田東原遺跡(史跡)と湯の口横穴群から出土した遺物を中心に、旧石器時代から近世までの資料を展示。敷地内には移築復元しためがね橋や、1840年(天保11)に建てられたかや葺き民家、菊池川流域に多い装飾古墳壁画の実物大レプリカがある「古墳の森」など、野外展示施設もある。1500年前の装飾古墳・チブサン古墳(史跡)、近くにオブサン古墳、鍋田横穴もある山鹿市立博物館を見学。

1910年(明治43)に建てられた国の重要文化財。江戸時代の歌舞伎小屋の様式を今に伝える。斜め向いに立つ資料館夢小蔵では明治期の芝居の小道具やチラシなど貴重な史料を多数展示する八千代座を訪れる。

温泉街の中心に立つレトロな建物に金灯籠や宮造り、座敷造りなどさまざまな種類の灯籠を展示。制作工房では灯籠の製作過程を見学できる山鹿灯籠民芸館を見学。

菊池方面に向かう。

1870年(明治3)、明治天皇の勅命で菊池氏の居城跡に創建された。境内に立つ菊池神社歴史館には、松囃子能(重要文化財)など貴重な文化財を収蔵する菊池神社を訪れる。

菊池渓谷の近く、標高650mの菊池高原に広がる花の楽園。50万平方mの広大な敷地には、春は芝桜・チューリップ・ポピー・バラ、夏はヒマワリ・ユリ、秋はダリア・コスモスと、季節ごとにさまざまな花々が咲き誇るフラワーヒル菊池高原を訪れる。

17:00終了、熊本空港に向かう。
17:40熊本空港到達、
19:20熊本空港出発
20:25伊丹空港到達

今回の旅行、九州の中央に位置する熊本県に足を運び、城下町熊本タウンから北部のエリア、800年以上の歴史を誇る温泉街、明治期のレトロな雰囲気が漂う山鹿、豊かな自然が残るエリア菊池を訪れドライブ観光楽しめました。

熊本は最近では4回目の訪れ、訪れたことの無い熊本北部を重点的に回りました。

生憎大雨で河川の氾濫、がけ崩れを心配しながらリスクの高い危険な場所をあえて避け、比較的安全な場所を選んで巡りました。

これで熊本県はほぼ制覇できました。









滋賀県高月・木之本&奥びわ湖観光
2011年6月8日


滋賀県に足を運び、里人に守られてきた観音の里、戦国大名浅野氏のふるさと高月・木之本、美しいびわ湖風景が望める奥琵琶湖周辺を訪れました。

12:30車で第二京阪名神北陸自動車道経由して
14:00木之本インター下車

江戸中期、朝鮮半島との外交や貿易に尽力した高月町出身の儒学者・雨森芳洲の業績を顕彰するため、芳洲の生家跡に建てられ、彼の著書の『交隣提醒』など、300点以上の貴重な資料を収蔵している雨森芳洲庵を訪れる。

固く結んだふくよかな唇に、わずかに朱が残っている愛らしい姿の十一面観音立像(重要文化財)を本尊として安置している。作家・井上靖が、小説『星と祭』の中で当時の観音像の姿を村の若い娘にたとえたことで有名な石道寺を訪れる。

滋賀県内で唯一、国宝に指定されている十一面観音立像(平安初期作)(国宝)を祭る。頭に配置された菩薩の配列や、鼓胴形の大きな耳飾りが特徴的。736年(天平8)に僧泰澄が、都に流行していた疫病除けの奇岩を込めて刻んだと伝えられる。織田信長の小谷攻めのときに堂宇は焼失したが、観音像は村人らが運び出して難を逃れたという向源寺を訪れる。

己高閣は、1963年(昭和38)に県が建てた文化財収蔵庫。かつて山岳信仰の霊場として栄えたが無住・廃寺となった、己高山諸寺の寺宝を安置。素朴な容姿の鶏足寺十一面観音立像(重要文化財)をはじめ、七仏薬師など約90躯の貴重な仏像と資料が収められている。世代閣には、戸岩寺本尊薬師如来立像や十二神将像など5体の重要文化財を収蔵。紅葉の名所として人気がある己高閣・世代閣を訪れる。

高時川を見下ろす静かな山間に立つ無住の観音堂内に、細い目と薄い唇の端正な顔立ちが印象的な十一面観音立像(重要文化財)がある。平安時代後期の作で、像高145.4cm、クスノキの一本造り。井上靖の小説『星と祭』に、「清純な乙女の姿をモデルにした観音さま」として紹介されている医王寺を訪れる。

古くから眼の仏として信仰を集める寺。寺には眼を患った人の身代わりに片目を閉じたカエルが棲むといわれ、境内のいたるところに「身代わり蛙」というカエルのお守りが奉納されている。境内の大地蔵は本尊の地蔵菩薩(秘仏)を写したものの木之本地蔵院を訪れる。

大箕山山中にある真言宗の寺。余呉湖に残る伝説の天女が産んだ子といわれる菅原道真が、京に上る11才まで勉学に励んだと伝えられている。山門の前には道真が植えたという樹齢1000余年、高さ約15mのケヤキの大木がそびえている。境内にある銅鐘(重要文化財)は鎌倉時代のもの菅山寺を訪れる。

江戸時代に湖上水運の主役を務めた丸子船。2つに割った丸太を船の胴の両側に付けた琵琶湖独特の木造船。館内では丸子船の実物を展示し、ジオラマや古文書などで当時の様子を紹介している北淡海・丸子船の館を訪れる。

琵琶湖に突き出た、葛籠尾半島北東の入り江に位置。三方を山に囲まれた、陸の孤島を思わせる環境にある集落で、かつては警察や軍事など自立的に秩序を保つ村落共同体「惣村」を組織していた。その歴史は平安時代以前までさかのぼり、鎌倉時代〜明治初期の村の様子を記す『菅浦文書』という古文書が残る。集落の東西には、出入りの検札を行っていた四足門と呼ばれる2つの門がある歴史の里菅浦を訪れる。

琵琶湖の最北に突き出した葛籠尾半島の山並みを縫うように走る、全長18.8kmのドライブウェイ。四季折々の美しいパノラマが楽しめるが、沿道の約4000本の桜が咲き誇る春は特に美しい奥琵琶湖パークウェイを走行する。

長浜市の湖岸から約6km沖合に浮かぶ、周囲約2kmの島。巨岩の上に繁った緑の樹木が青い湖面に映えた姿は、「深緑 竹生島の沈影」として琵琶湖八景の一つに挙げられている。湖北地方の荒波を鎮める神の島としても信仰され、桃山文化の粋を集めた入母屋造りの本殿(国宝)がある都久夫須麻神社と、唐門(国宝)や五重石塔(重要文化財)など多くの文化財を有する西国三十三カ所30番札所宝厳寺があり、多くの参拝客が訪れる竹生島を望む。

奥琵琶湖パークウェイの入口に位置し、古代から奥琵琶湖を望む景勝の地として愛でられてきた。古くは「鐘引坂」と呼ばれ、山と湖が織りなす美しい風景は、南北朝時代に編纂された『新拾遺和歌集』にも詠まれている月出峠を訪れる。

琵琶湖八景の一つとして有名な「暁霧・海津大崎の岩礁」。天狗の鼻に似た天狗岩や八畳敷の広さを誇る八畳岩など、紺碧の湖面から突き出る奇岩群と岩壁に生い茂る緑が織り成す風景は豪快。また湖岸沿い約4kmにわたって約600本の桜並木が続き、その見事な様は「日本のさくら名所100選」にも挙げられるほどで、奥琵琶湖に春の訪れを告げる代表的な風物詩となっている海津大崎を訪れる。

18:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、近場の滋賀県に足を運び、美しいびわ湖が望める奥びわ湖周辺、湖北の古刹、観音の里、高月・木之本を訪れ、自然と文化遺産に接し、楽しめました。

最後に訪れた海津大崎は落石のため通行止め、西端のみしか確認できず、残念でした。

今回でほぼ滋賀県は制覇しましたが、びわ湖に浮かぶ島々が残っています。
次回訪れたいと思います。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十六弾:愛媛県松山道後&石槌四国カルスト観光
2011年6月4日ー5日


四国の北西部に位置し、北側は瀬戸内海、南側に西日本最高の石槌山がそびえる愛媛県に足を運び、四国最大の人口を擁し松山城や坊ちゃん列車など観光資源の多い松山タウン、日本最古の温泉といわれる道後温泉、西日本最高峰を誇る石槌山や面河渓などの豊かな自然が広がる石槌、石灰岩台地が広がる四国カルストを訪れました。

4日14:25伊丹空港出発
15:25松山空港到達、レンタカーで出発、松山タウンに向かう。

市制100年を記念して造られた公園。松山市街の眺めを楽しめる絶好のビューポイントで、標高126mの大峰ケ台全体が公園として整備されている。ヨーロッパの古城を思わせる松山総合公園を訪れる。

山口県生まれの自由律の俳人、種田山頭火の終の住処。山頭火の句にちなんだ樹木が植えられた庭には、4基の句碑が立つ。1年を通して庵の外観見学は自由。庵に隣接して新設された休憩所には、山頭火に関する資料を展示する一草庵を訪れる。

小林一茶とも交友のあった、江戸時代の俳人・栗田樗堂が1800年(寛政12)に結んだ庵。樗堂52歳の時に、市中の隠を楽しむために作った俳諧所。昭和24年に愛媛県の史跡に指定、平成12年から3年間をかけて改修・復元された庚申庵史跡庭園を訪れる。

正岡子規が17歳まで暮らした家を復元した記念堂。子規の菩提寺である正宗禅寺境内に立つ。直筆原稿や遺墨、遺品などの展示品から筆まめで鋭敏な子規の性格を感じとることができる。愛用の机や座布団もみもの。境内には子規埋髪塔や漱石が小説の中で「マッチ箱のような汽車」と評した通称坊っちゃん列車の客車もある子規堂を訪れる。

松山タウンにあるホテル到着後、市街地散策。

標高132mの勝山山頂に立つ松山城(史跡)は、大天守に複数の小天守が連結する連立式天守をもつ平山城。1627年(寛永4)、加藤嘉明によって完成。乾櫓、野原櫓、隠門など築城当時から残るものはすべて重要文化財に指定されている。1854年(安政元)に再建された天守(重要文化財)からは、石鎚山から伊予灘までが一望。小天守内部には松山城の歴史を展示している松山城を訪れる。

松山城藩主の邸であった二之丸邸の間取りを流水や草木で表現した庭園。表御殿跡の柑橘草花園と奥御殿跡の流水園を中心に林泉庭や大井戸遺構、3つの茶室などみどころも多い松山城二之丸史跡庭園[松山城]を訪れる。

国内外の優れた作品を収蔵する美術館。年間4〜6回、企画展を開催。常設展示室では、地元作家の作品を中心に、2〜3カ月ごとにさまざまなテーマを設けて展示している。企画展に合わせて講座も開催。参加創造型の美術館として親しまれている。展望ロビーから見える松山城もおすすめの愛媛県美術館を訪れる。

食事を済ませてホテルに戻り就寝。

5日7:00レンタカーで出発、道後温泉に向かう。

横山大観や小磯良平など、近代・現代画家の作品約80点を展示する小さな美術館。6つある部屋のうち、ロダンの部屋にあるオーギュスト・ロダンの彫刻『ファウナ(森の妖精)』はぜひ見ておきたいセキ美術館の前で記念撮影。

松山出身の正岡子規の資料や作品、遺品などを展示している博物館。道後・松山の歴史、子規とその時代、子規のめざした世界と3つのコーナーで構成され、松山の風土や子規の交友関係などを詳しく紹介する。愚陀仏庵の一室も再現されている松山市立子規記念博物館を訪れる。

創建は平安時代にさかのぼる古社。現在の社殿は1667年(寛文7)に当時の藩主松平定長が江戸城で行われた流鏑馬の必中祈願成就のお礼に建て替えたもの。京都の石清水八幡宮を模したもので、金箔貼りの柱と細密な彫刻が施された総檜皮葺の本殿など八幡造りの社殿(重要文化財)は、安土桃山時代の建築様式を現代に伝えている。重要文化財の太刀も所蔵する伊佐爾波神社を訪れる。

665年(天智天皇4)創建と伝わる古刹。時宗の開祖、一遍上人の誕生地として知られ、本堂には室町時代作の一遍上人立像(重要文化財)がある。境内には、子規が詠んだ「色街や 十歩はなれて 秋の風」の碑が立つ宝厳寺を訪れる。

3,000年の歴史を誇る日本最古の道後温泉。明治27年に建築された木造三層楼の建物で国の重要文化財に指定されています。夏目漱石の「坊っちゃん」に登場して、一躍有名になった。泉質はアルカリ性単純泉で神経痛や筋肉痛に効く道後温泉本館を訪れる。

レトロな和製ガラスを集めた、懐かしい雰囲気の美術館。江戸時代のびいどろ・ぎやまんから、明治時代のランプや大正時代の色鮮やかなカップまで約300点を展示している。日没後は、玄関や中庭の幻想的なイルミネーションも楽しめる道後ぎやまんガラス美術館を訪れる。

道後温泉駅前にある放生園のシンボルになっているカラクリ時計。道後温泉本館の振鷺閣を模したもので、道後温泉本館100周年を記念して、平成6年に作られた。8〜22時の1時間ごとに、定時になるとせり上がり、小説『坊っちゃん』の登場人物の20体の人形が次々に現れる。春・夏休みと年末年始は30分ごとに人形が出る坊っちゃんカラクリ時計を訪れる。

石槌山方面に向かう。

石鎚山や面河渓の成り立ちのほか、登山の歴史などが学べる博物館。2階は周辺に生息する昆虫の標本や高山性植物の模型を展示。哺乳類や鳥類はジオラマで紹介。3階は石鎚山の山岳信仰や登山の歴史を紹介。細密に作られた、面河の地形模型も興味深い面河山岳博物館を見学。

深山に展開する四国最大の渓谷で、県内きっての観光名所。清冽な流れを取り巻く大樹海の間には、いたるところに断崖が突出。アーチ橋が美しい五色河原、高さ100m、幅200mの深層花崗岩・亀腹岩までは車で行くことも可能。ここから本流ルートと鉄砲石川ルートの2つの遊歩道が分岐する面河渓を散策する。

日本七霊山に数えられ古くから信仰登山が続く、西日本最高峰。一般登山ルートは、バス停:石鎚土小屋から尾根伝いに歩く土小屋コースと、西条市側から石鎚登山ロープウェイ山頂駅から頂上まで歩く表参道コース。二ノ鎖小屋で合流し、2つの鎖場を登ると石鎚神社の頂上社がある山頂の弥山(1974m)。ここからは瀬戸内海や中国、九州の山々を見渡せる。最高峰天狗岳(1982m)まではさらに15分の石鎚山を訪れる。

石鎚国定公園に含まれる標高1897mの名山。石鎚山(天狗岳1982m)の眺めは、瓶ケ森の女山からが最も美しいといわれている。登山口から右へ登ると約20分で男山の山頂。子持権現山見下ろせる。左の女山(主峰)へは登山口から所要1時間10分。稜線に笹原が広がり貴重な高山植物も多く見られる。笹原を西に下ると瓶ケ森ヒュッテがある瓶ケ森を訪れる。

四国カルスト方面に向かう。

東西約25km、南北約3kmのカルスト台地は、ハンカイソウなどの高山植物が群生するところや貴重な石灰岩植物が見られるところもある四国カルストを訪れる。

四国カルスト中央に位置する生之越の周辺をいう。比較的平坦な山頂部の見渡す限り広がる牧草地では、春から秋まで牛の放牧が行われ、牧歌的な風景を楽しめる。夏には高山植物の花も咲く姫鶴平[四国カルスト]を訪れる。

四国カルスト中央に位置する姫鶴平から石灰岩の風景を楽しみながら歩いて行ける高原。頂点は五段城とよばれ、標高1456m。天気がよいと石鎚山や土佐湾全域が見渡せる。近くには巨人の足跡という大小のドリーネ(くぼ地)もある五段高原[四国カルスト]を訪れる。

四国カルスト中央に位置する五段高原から東に歩いて行ける平原状の草原。標高1485mは四国カルストの最高地点。国民宿舎天狗荘の周辺はシラカバやアカマツの自然林が生い茂り、放牧地となっているほかのエリアとは違った景観を見ることができる。尾根筋の道路にある天狗トンネルを抜けると高知県。四国カルスト台地の東端も近い天狗高原[四国カルスト]を訪れる。

四国カルスト台地西端にある大野ケ原高原南部の尾根筋をいう。標高1402mの頂点付近は石灰岩のカーレンが点在している。源平合戦のころ、逃れ着いた源氏の落ち武者を追ってきた平家軍が、石灰岩を白馬に乗った源氏の大群と間違えて退散したという故事から名付けられた。県境にある山頂には、四国カルスト大師という石像が安置されている源氏ケ駄場[四国カルスト]を訪れる。

四国カルスト台地の西端にある高原酪農地帯。1950年(昭和25)から開拓され、現在は公共牧場も置かれている。数軒の店舗も点在し、自家製アイスクリームや牛乳を販売。羅漢穴(県指定天然記念物)など、ドリーネと呼ばれるくぼ地が発達した鍾乳洞が多いが、観光地化はされていない大野ケ原高原[四国カルスト]を訪れる。

松山に戻る。

約180種900点を飼育する大規模な動物園。生息地や種類ごとに10のゾーンに分かれ、順路通りに進むと動物の国の世界一周ができる。檻ではなく、堀を使ったパノラマ展示で見るライオンやトラは迫力満点。日曜と祝日には、動物とふれ合える週替わりのイベントもある愛媛県立とべ動物園を訪れる。

高校時代を松山で過ごした伊丹十三の記念館。常設展示では、映画監督やエッセイストなどの多彩な才能や、乗り物マニアや猫好きなど趣味人としての一面を13のコーナーで紹介。企画展示室では、仕事や人柄をより深く知ることができるテーマ展示を行なっている。伊丹十三が好んだ飲み物を揃えたカフェ、十三饅頭などのオリジナル商品を販売するショップも併設される伊丹十三記念館を訪れる。

18:00松山空港到達。
19:15松山空港出発。
20:15伊丹空港到達。

今回の旅行、四国の愛媛県に足を運び、かつて松平十五万石の城下町として栄えた、市内には3000年の歴史を持つ名湯・道後温泉があり、夏目漱石をはじめとする多くの文人墨客が訪れていることでも有名。「チンチン電車」の愛称で親しまれるレトロな路面電車も市民の足として活躍している。その一方で、四国を代表する近代都市としての顔を持っているのも魅力の松山・道後、

標高1982メートル、西日本一の高さを誇る名山。古くから信仰登山で開け、修験道の聖地として親しまれてきた石槌山。石鎚の山々に源を発する面河川の上流は、変化に富んだ景観が展開する名所。アーチ橋が美しい五色河原をはじめ、亀腹岩、蓬莱渓、紅葉河原など、岩と清冽な水が織りなす渓谷歩きが楽しめる面河渓、

高知県との県境に広がる標高1200〜1500mの日本最大級のカルスト台地。中心部の姫鶴平から五段高原、天狗高原にかけては羊の群のような石灰岩が点在し、牛がのどかに草をはむ牧歌的な雰囲気が楽しめる四国カルスト、南北に広範囲の文化有り、自然ありのドライブ観光楽しめました。

あいにく天候が芳しくなく四国カルストは霧が多く全景を望むことが出来ず、部分的にか確認できず残念でした。
次回天候のよい視界が鮮明なとき、再度訪れたいと思います。

文化の町松山からスタートして、南の大自然の石槌山・面河渓、四国カルストまでの広範囲のドライブ観光楽しめました。


















兵庫県家島諸島坊勢島&男鹿島観光
2011年6月1日


兵庫県の瀬戸内海の東部に位置する諸島、淡路島・香川県の小豆島・本州に囲まれ、本州の姫路市の沖合い 18km に位置し播磨灘の海域に属す。東西26.7km、南北18.5kmにわたり大小40余りの島嶼で構成される家島諸島に足を運び、漁師の島、国内屈指のとても漁師の多い町で、港には至るところで、若い漁師達の力強さを感じとることができる。八月の第一土曜には、ぺーロンフェスタが開催され、各地から多くの参加者が集い、熱戦を繰り広げます。また、展望台からは、360度の風景が見渡せます坊勢島、まるでグランドキャニオンに来たかのような、砕石場の断崖絶壁は圧巻!!また、砕石場の跡地を利用して建てられたダチョウ牧場や鹿公園などもあります。そしてなんと言っても砂浜が綺麗。毎年八月の第一土曜日には、立ての浜海水浴場で地引網も行っています男鹿島を訪れました。

12:30車で近畿中国山陽自動車道経由して
13:50姫路港到達
14:00高速艇で出発、坊勢島に向かう。
14:30坊勢島到達、散策する。

坊勢島奈座港の入り口に、海からぽっかり突き出した岩山で、弁天島とも「神権さん」とも呼ばれて親しまれ、 岩の上には漁師の守護神である弁財天がまつられています。この島は、伝説の島としても知られています。昔、掟破りの漁ばかりする漁師とその娘が、漁に出たところ、珍しく大漁となり、喜び勇んで港を目指しましたが、途中で、激しい嵐に 見舞われ、船が転覆寸前になりました。娘は父に、「嵐は無法な漁のたたりだから、魚を海に返すように」と説得しましたが、父は聞き入れません。娘は自分を身代わりにと、自ら海に身を投じたところ、嵐はおさまり、水煙がみるみる固まって岩になりました。この娘の心が まるで弁天様のようだということから、この岩が弁天島と呼ばれるようになったということです。 坊勢島港よりすぐの神権伝説の島(弁天島)を訪れる。

坊勢島の「海の公園」づくりのために、平成元年に完成しました。 坊勢島港より徒歩で18分の坊勢海水浴場を訪れる。

坊勢島の奈座地区にある坊勢寺跡で往時を偲ぶ漢詩です。その昔、島に比叡山西塔実相院の高僧、覚円が配流さ れました。その後、覚円を慕って比叡山の若い僧が大勢島に渡ってきたと言われています。ちなみに坊勢という島名は覚円にちなむとも、 百済の王子の子孫で、坊勢法師と名乗る海の軍人の首領にちなむとも言われています。 坊勢島港より徒歩で約6分の坊勢寺跡を訪れる。

坊勢島奈座港西端の山頂にあり、瀬戸内の眺望が楽しめます。建立は元慶7年(883)以前と伝えられていま すが、詳しい年次は不明です。蛭子大神を祭神とし、例祭として坊勢の秋祭りが毎年行われます。
坊勢島港より徒歩で約12分の恵美酒神社を訪れる。

瀬戸内に開けた港や灯台など、島ならではの情緒が楽しめます。坊勢島港より徒歩15分の坊崎を訪れる。

16:00高速艇で男鹿島に向かう。
16:09男鹿島到達、散策する。

毎年、海開きの7月初旬を待ちかねるように、美しい海を求めて、京阪神から大勢の海水浴客が家島諸島に 集まります。澄んだ海、白い砂浜に恵まれ、マリンスポーツや、日光浴が楽しめます。 男鹿島港下船後すぐの立ノ浜海水浴場を訪れる。

新たな憩いの場をと、町では2番目の鹿公園として平成4年完成しました。 男鹿島港より徒歩で約3分の男鹿島鹿公園を訪れる。

男鹿島の淡賀楯崎の岬から望む播磨灘の眺めれる場です。古来、楯崎は月の眺めが良い場所と言われ、林の中にはお地蔵様がまつられてきました。近年、この場所には島名にちなんで鹿公園がつくられ、新しい観光地になっています。 男鹿島港より徒歩で約3分の淡賀楯崎を訪れる。

男鹿島の北東に位置し、立ノ浜と並ぶ海水浴場です。毎年、海開きの7月初旬になると、美しい海を求めて、京阪神から大勢の海水浴客が訪れます青井ノ浜海水浴場を訪れる。

17:49高速艇で姫路港に向かう。
18:10姫路港到達、車で帰路に向かう。

今回の名所巡り、兵庫県の家島諸島に足を運び、坊勢島、男鹿島の2つの島を訪れ散策し史跡巡りしました。

以前クルーザーで何回も訪れた家島諸島、海水浴兼バーベキューでしたが今回は初めての観光、離島も歴史があり史跡が点在しています、楽しめました。