飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百十二弾:山口県周防沖離島観光 2012年10月27ー28日 本州最西端の山口県に足を運び、岩国の南に位置する古市・金屋白壁の街並みとして重要伝統的建造物群保存地区に選定されている周防柳井沖の離島(佐合島、馬島、牛島、祝島)を訪れました。 27日13:45新大阪新幹線のぞみで出発 15:06広島駅到達 15:21広島駅新幹線こだまで出発 15:37新岩国駅到達、レンタカーで錦帯橋に向かう。 16:05岩国城ロープウエイ到達 16:20岩国城ロープウエイ出発 16:26岩国城到達 吉香公園背後、標高200mの城山山頂にそびえる白亜の天守は、桃山風南蛮造で3層4階の上に物見を置く珍しいもの。初代藩主・吉川広家が1608年(慶長13)に築城したが、1615年(元和元)幕府の一国一城令により、完成からわずか7年で取り壊された。現在の城は1962年(昭和37)に再建されたもの。内部は武具、甲冑類が展示されており、4階は展望台。城山山頂までロープウェイが通う岩国城を訪れる。 17:00岩国城ロープウエイ出発 17:06岩国城ロープウエイ乗り場到達、レンタカーで岩国駅付近のホテル到達、食事を済ませて就寝。 28日5:30レンタカーで柳井方面に向かう。 6:30麻里府港到達 7:05麻里府港渡船で出発 7:13熊毛郡田布施町の尾津漁港から南へ約1kmの瀬戸内海海上に位置し、瀬戸内海国立公園の区域に指定されています。島の名の由来については、平安時代から馬を飼育する馬牧として島が利用されていたため「馬飼い島」と呼ばれたといわれていますが、異説もあります。本土とは、公営渡船で約10分間の距離で、比較的便数も多く、気軽に楽しめるレジャーの島として人気があります。島内には、炊事場などを含めたキャンプ場やゲートボール場、遊歩道、海水浴場などのレジャー施設が整備され、多くの来島者を集めています馬島到達。 7:20馬島出発 7:31熊毛郡平生町佐賀から南西へ約2kmの瀬戸内海海上にあり、瀬戸内海国立公園の区域に指定されています。小さい島にもかかわらず北と南に100mを超える山があり、丘陵地が多く、平坦地はわずかでが、島全体が自然が豊かで、東側海岸線では 潮干狩りが、岩場では釣りが楽しめます。また海岸線に沿ってはハマボウフ、ツルナ、アシタバ、オカヒジキなどの薬草が自生しています。本土とは、渡船で約10分間の距離で、比較的船便も多く、島内へはUターン者や都会からの移住者もあります佐合島到達。 7:35佐合島出発 7:43佐賀港到達 7:50佐賀港出発 8:33麻里府港到達、レンタカーで長嶋方面に向かう。途中名所を2か所巡る。 田布施川河口に面した標高39mの神花山の頂上部に築かれた前方後円墳です。五世紀後半のもので全長30.3mです。後円部石棺の中から、ほぼ全身の女性人骨が発見されました。古墳の女性被葬者の埋葬例は少なく、古墳時代にこの地方に君臨していた豪族の首長であったと考えられます神花山古墳を訪れる。 飛鳥時代、聖徳太子の師・恵慈和尚の開山とされる真言宗の古刹。用明天皇の勅願で恋人般若姫の菩提寺として建立された。本堂には鎌倉時代初期の仁王尊像も安置する般若寺を訪れる。 10:00四代港到達 10:25四代港渡船で出発 10:40瀬戸内海有数の漁場とされる周防灘と、伊予灘の境界に位置する山口県熊毛郡上関町の島である。瀬戸内海の海上交通の要衝に位置し、万葉集にも登場、古代から栄えた歴史を持つが、高度経済成長期から人口が流出。現在は漁業と有機農業で生計を立てる過疎地域。対岸・上関町四代田ノ浦に建設が予定されている上関原子力発電所(上関原発)に反対する島民がいる祝島到達、散策。 12:30祝島出発 12:45四代港到達、レンタカーで室積方面に向かう。 13:35室積港到達 14:00室積港渡船で出発 14:20光市室積漁港から南東約8.4kmの瀬戸内海海上にある島です。島の名の由来は、平安時代に垣島牛牧として牛が放牧されていたことから「牛島」と呼ぶようになったといわれています。このためか島内には牛に関連した民話がいくつか残されています。島内には、豊かな自然が残されており、瀬戸内海では唯一のカラスバトの生息地として、島の全域が鳥獣保護区特別保護地区に指定されるとともに、島の南側には天然記念物に指定されているモクゲンジが群生しています牛島到達、散策。 16:30牛島出発 16:50室積港到達、レンタカーで岩国に向かう。 17:45新岩国駅到達 18:36新岩国駅新幹線こだまで出発 18:51広島駅到達。 18:56広島駅新幹線さくらで出発 20:27新大阪駅到達。 今回の旅行、本州の最西端の山口県に足を運び、周防沖の離島(佐合島、馬島、牛島、祝島)訪れました。 瀬戸内海の島々は過疎化が進み、島の住民は数十人、ほとんどがお年寄り、学校は閉校、空き家が多いが人は少ない、近い将来無人化する島が増えるでしょうね。 瀬戸内海の島々、派手さはなく素朴であるが、本土から離れ、雑踏から逃れられる離島めぐり満喫しました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百十一弾:長野県松代&上田&小諸観光 2012年10月20ー21日 本州の中央に位置し、歴史ある明湯や大自然、そばの名産地などが点在する長野県に足を運び、江戸時代には真田氏が治める松代藩十万石の城下町として栄えた松代、豪族・真田氏発祥の地、江戸時代には城下町として栄え、柳町をはじめ、ノスタルジックな町並みが旅情を誘う上田、浅間山と千曲川に挟まれる自然豊かな土地、城下町として栄え、島崎藤村ゆかりの地として知られる小諸を訪れました。 20日14:00新大阪新幹線のぞみで出発 14:51名古屋駅到達 15:00名古屋駅ワイドビューしなので出発 17:53長野駅到達、駅付近のホテル到着後、繁華街を散策し食事を済ませて就寝。 21日6:00レンタカーで出発、松代方面に向かう。 川中島の戦いは、武田信玄と上杉謙信の北信濃覇権をめぐる合戦。5回にわたる合戦の中で、両軍の将だった2人が一騎討ちしたと伝えられるのが、1561年(永禄4)の4回目の戦い。乱戦で武田本陣が手薄になった時、謙信ただ一騎、信玄目がけて隼のごとく駆け寄り太刀を振り下ろしたのを、信玄が軍配で受けたという劇的なシーンの像が立つ川中島古戦場(八幡原史跡公園)を訪れる。 長野市の出身で、版画家、画家、彫刻家、陶芸家として国際的に活躍したほか、芥川賞作家、映画監督として、多方面に才能を発揮した池田満寿夫。最後の彫刻連作『美貌の青空』『土の迷宮』シリーズをはじめ、西陣織の打ち掛けによる巨大コラージュ『天女乱舞』など、1997年に63歳で急逝するまでの多彩な作品をじっくり鑑賞できる池田満寿夫美術館を訪れる。 戦国時代、武田信玄によって築城されたといわれる城。1622(元和8)年に真田信之が上田から移封されて以来、10代約250年にわたって真田氏が城主をつとめた。明治の廃城後、建物は取り壊されたが、櫓門や橋などが復元され一般公開されている松代城跡を訪れる。 文武を奨励した8代藩主・幸貫は、佐久間象山等の意見を取り入れ、藩士の子弟のために文武両道の学校の建設を計画し、1855(安政2)年、9代藩主・幸教の時に開校。ここでは文学や武術のほかに西洋の軍学などの授業も行なわれた。文学所、御役所、教室2棟(東序・西序)、剣術所、柔術所、弓術所、槍術所、文庫蔵など、藩校を完全な形で残す全国でも貴重な建物の文武学校を訪れる。 象山神社の境内にある木造2階建て、寄棟の屋根を持つ建物で、長野市の指定文化財。佐久間象山が借り、書斎や客間として使用していたため、長州の高杉晋作、久坂玄瑞、土佐藩の中岡慎太郎など幕末の志士が多く訪れた高義亭[象山神社]を訪れる。 第2次大戦末期の1944年(昭和19)、本土決戦最後の拠点として大本営、政府各省を松代に移すという極秘の計画のもと、象山、舞鶴山、皆神山の三カ所で碁盤の目状に、全長約10kmの地下濠が掘られた。当時で約2億円の資金と、延べ300万人の労働者を動員したが、全行程の75%まで進んだところで終戦を迎え、工事は中止された。現在は長野市が管理し、その一部500mの区間が見学コースとして整備され、戦争の歴史を語っている松代象山地下壕を訪れる。 江戸時代、真田家家臣として150石の禄を受け、郡奉行などを勤めていた横田家の武家屋敷。製糸工場の女工の姿を記録した、『富岡日記』の著者・和田英の生家でもある。約3340平方mの敷地に主屋・表門・隠居屋・土蔵、泉水を配した庭園などがあり、式台付玄関や石製流しを備えた勝手などからは、江戸時代の中級武士の住宅の様子がよくわかる旧横田家住宅を訪れる。 1862(文久2)年、参勤交代制が緩和されたのに伴い、9代藩主・幸教[ゆきのり]が、江戸から松代へ帰ることになった母・貞松院のために建てた城外御殿。敷地約8000平方m。長土塀・冠木門・長屋・土蔵など、大名屋敷の様子を今に伝える貴重な建物だ。部屋数は53室にも及び、藩主より「水心秋月亭」と名づけられた庭には心字池がある真田邸を訪れる。 科野の里歴史公園にある。4世紀代に造られた全長100mの前方後円墳、森将軍塚古墳[科野の里歴史公園]を訪れる。 戸倉上山田温泉方面に向かう。 戦国時代の山城・荒砥城を再現したもの。受付のある四の郭から頂上の本郭まで、連郭式でつくられている。二の郭には櫓・兵舎があり、兵舎内の映像室では荒砥城の歴史をビデオ上映しているほか、展示室では戦国時代の出土品などを展示している。櫓や本郭からは雄大に流れる千曲川と戸倉上山田温泉街、善光寺平までのすばらしい眺めが楽しめる。また、NHK大河ドラマ「風林火山」での舞台となり、施設内で撮影もおこなわれた城山史跡公園 荒砥城跡を訪れる。 上田方面に向かう。 直木賞作家・池波正太郎と、その著作『真田太平記』の世界を紹介するテーマミュージアム。氏の愛蔵品や自筆画などを展示。映像シアターやギャラリー、喫茶コーナーもある。池波ワールドにどっぷり浸ることのできる施設の池波正太郎真田太平記館を訪れる。 天正11年(1583)に真田昌幸が築城した実戦用の堅固な平城で知られる。関ケ原の合戦後、徳川方に接収され、本丸の櫓などが破壊されたが、その後、上田に移封になった仙石忠政によって再建。近世後期には松平氏の居城となった。現在は上田城跡公園として整備され、隅櫓と石垣などが往時の面影を伝える上田城跡を訪れる。 万物を生成させる生島神と、万物に満足を与える足島神を祀る信濃の古社。池に囲まれた神島に鎮座する本殿の内殿には床板がなく、土間の大地そのものが御神体とされている。武田信玄公の願文をはじめとする戦国武将の起請文(重要文化財)など、貴重な文化財も多数。回り舞台の装置を備えた歌舞伎舞台、摂社の諏訪神社社殿は長野県宝に指定されている。諏訪神社脇の夫婦欅は、良縁子宝・安産子育・夫婦円満の御神徳がある生島足島神社を訪れる。 第二次世界大戦で戦没した、東京美術学校(現東京芸大)などで学んだ学生や、独学の画学生42人の遺作85点ほどを展示している。彼らが愛用したイーゼルや画材、書簡なども収集しており、志半ばにして散った画学生の思いを今に伝え、心を打たれる。第2展示館ある没画学生慰霊美術館「無言館」を訪れる。 弘法大師が修行霊場として開いた古刹。三重の塔は重要文化財に指定。縁や匂欄(手すり)などが付いていない。未完成となるがゆえに、その姿がすっきり美しいことから、「未完成の完成塔」と呼ばれ親しまれている前山寺を訪れる。 塩田北条氏の菩提寺で、1282年(弘安5)塩田城主だった北条国時が開基した。参道の横、塩田平を一望する場所にある無銘の墓「お開基様」は北条義政のものとも、国時のものともいわれている龍光院を訪れる。 延喜元年(901)に成立した歴史書『日本三代実録』にも名前が出てくる由緒ある神社。武田信玄がこの塩野神社に朱印状(上田市指定文化財)を奉って武運長久を祈ったという。杉林の中に立つ拝殿は江戸時代に建立されたもので、2階建ての楼門造。拝殿の前にかかっている橋は、太鼓の一部のような曲線を帯びているため「太鼓橋」の名が付いている塩野神社を訪れる。 独鈷山の麓、標高600m。空海によって開山されたと伝わるこの地方で最も古い寺。独鈷山への信仰から創建されたと伝えられる中禅寺を訪れる。 別所温泉方面に向かう。 本尊は千手観音菩薩。かつては別所三楽寺の一つ、長楽寺が護っていたが、現在の本坊は常楽寺。長野の善光寺と一対の厄除観音として広く信者を集めている。一般に寺社は東か南(極楽浄土の方向)に向かって立つものだが、ここは観音堂も観音像も、文字通り北の方角を向き、南を向く善光寺と向かい合うように立てられていることから「北向」の名が付いた。来世の利益を願う善光寺と現世利益を求める北向観音の両方に参ることで、現世と来世の幸福が約束されるという信仰があり、片方だけにお参りすることを「片参り」という。多くの著名人が訪れ、北原白秋の歌碑、新派の俳優花柳章太郎の供養碑などが残る北向観音を訪れる。 常楽寺、長楽寺(現存しない)と共に、別所三楽寺と称されていた古刹。天長年間(824〜834)に開かれ、鎌倉時代に再興されたという歴史ある禅寺。鎌倉時代には鎌倉の建長寺と並ぶ格式が与えられ、北条氏の保護もあって、信州の仏教の中心地となっているという意味の記事が書物に残っている。本堂近くの伝芳堂(開山堂)に安置されている開山・樵谷惟仙和尚坐像(重要文化財)と、二世・幼牛恵仁和尚坐像(重要文化財)は、玉眼でまるで生きているかのように威厳がある。ともに1329年(嘉暦4)造の安楽寺を訪れる。 北向観音の本坊となっている天台宗の古刹。別所三楽寺の一つで、天長年間(824〜834)円仁慈覚大師によって開かれた。本堂裏には石造多宝塔(重要文化財)がある。葺吹きの屋根の本堂、樹齢300年の「御舟の松」に心打たれる。併設の美術館に展示されている葛飾北斎の絵馬や聖観音像、古瓦のコレクションなども必見の常楽寺を訪れる。 鹿教湯温泉方面に向かう。 内村川にかかる屋根つきの木造橋。新緑や紅葉の時期は特に美しい五台橋を訪れる。 温泉街から五台橋を渡った対岸にある、江戸中期の雰囲気を伝えるお堂。元禄年間(1688〜1704)に建立。谷文晁作と伝わる天井画の竜が、夜な夜な川へ水を飲みに出かけたという伝説が残る。長野県宝指定の文殊堂を訪れる。 東御方面に向かう。 中世東信濃一の豪族・海野氏の城下町であったこともあり、頻繁に市が立つなど活気のある町で、北国街道の交通・商業の中心として賑わった。養蚕に適していたことから、明治以降には宿場時代に使われていた広い部屋を利用し、養蚕・蚕種業の町となった。また、鉄道や国道の幹線からはずれたため、現在でも江戸時代さながらの風景が見られる。重要伝統的建造物群保存地区に選定されている海野宿を訪れる。 寛政年間(1789〜1801)に旅籠として建てられ、明治になって宿場の機能が失われた後には養蚕農家として使われた建物。馬屋、帳場、座敷、味噌部屋、土蔵、桑屋、井戸などが見学できる。海野の住民から寄贈された民俗資料も多数展示されていて、宿場の庶民の暮らしや養蚕農家の生活を知ることができる海野宿歴史民俗資料館[海野宿]を訪れる。 小諸に向かう。 白鶴城や酔月城ともよばれた小諸城は、城下町より低い位置に築かれた全国的にも珍しい穴城で、西側には天然の要塞になる千曲川が流れている。1880年(明治13)、その跡地に造られた懐古園は、藤村記念館をはじめ、小山敬三美術館、動物園、遊園地などが集まった、小諸の代表的な観光スポット。藤村の『千曲川のスケッチ』にも登場する。入口には、「懐古園」の大額が掲げられた寄棟造の城門、三の門(重要文化財)が立つ懐古園を訪れる。 手門は1612年(慶長17)、藩主・仙石越前守秀久が小諸城を築いた時代の建築で、当時としては瓦葦の門は珍しかったため、瓦門と呼ばれていたと伝えられる。実戦的な城門で、華美な装飾をはぶいた質実剛健な建設は、東日本を代表する大手門建築のひとつで、日本の城門発展の過程を知る重要な建物として青森県の弘前城とともに大手門の双壁といわれている小諸城大手門を訪れる。 懐古園内にある。明治32年(1899)に恩師・木村熊二に小諸義塾の教師として招かれ、以来小諸で7年間を過ごした島崎藤村。小諸滞在中に『水彩画家』『雲』『落梅集』『藁草履』など数々の作品を発表した。館内では藤村の小諸時代を中心とした著作や原稿、書簡などが展示され、英訳の『千曲川旅情のうた』など珍しい資料も見られる。建物は、建築家・谷口吉郎の設計の小諸市立藤村記念館[懐古園]を訪れる。 17:30長野駅到達。 18:11長野駅ワイドビューしなので出発 21:20名古屋駅到達 21:33名古屋駅新幹線のぞみで出発 22:23新大阪到達。 今回の旅行、本州の中央に位置する長野県に足を運び、南部から東部のエリアである松代・上田・小諸を訪れ真田家が支配していた多くの歴史的建造物に触れ癒されました。 数多くの城下町(松代・上田・小諸)、信州の鎌倉として親しまれている塩田平、江戸と北陸を結ぶ北国街道の宿場町海野宿、信州最古の湯、別所温泉や鹿教湯温泉、信州最大級の温泉街戸倉上山田温泉を訪れドライブ観光満喫しました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百十弾:立山黒部アルペンルート 2012年10月13ー14日 富山県に足を運び立山は古来、富士山、白山とともに日本三霊山の一つとして栄えました。 1971年に立山黒部アルペンルートが全線開通したことにより、長野県大町市と富山県立山町を縦貫する世界でも有数の山岳観光地となり、四季折々の変化に富んだ雄大な自然が人々を魅了し、脚光を浴びています。 3,000m級の山々が連なる立山連峰と後立山連峰の峡間に、山と水の相対する自然の妙を一つに貫き、今、立山黒部アルペンルートが走っています。トロリーバス、ケーブルカー、ロープウェイなどアルペンルートならではの乗り物を乗り継ぎ、安全で快適な体験をお届けできるようになりました立山黒部アルペンルートを訪れる。 13日14:00新大阪新幹線のぞみで出発 14:51名古屋駅到達 15:00名古屋駅ワイドビューしなので出発 17:03松本駅到達 17:56松本駅大糸線で出発 18:53信濃大町到達、駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。 14日6:15信濃大町をバスで出発 6:45扇沢到達 7:30関電トロリーバスで出発 黒部ダム到達、散策。 黒部ダム駅からトンネル内の220段の階段を上ると、標高1508mの展望台に出る。展望台からは黒部ダムが、眼下に広がり、正面には立山の雄姿が迫る。このすぐ下には、放水をより間近に見られる黒部ダム新展望広場がある黒部ダム展望台[黒部ダム]を訪れる。 黒部ダムレストハウスの3階にあり、ダムの縮尺模型、断面立体図のほか、地下水が多量に吹き出す破砕帯の掘削風景のジオラマなどを展示している。掘削工事の現場を模した映写室では、ダム建設の記録映画『くろよん物語』(所要11分)が常時上映され、黒部ダムが完成するまでの苦闘の歴史を語るくろよん記念室[黒部ダム]を見学。 186mの高さを誇るアーチ式ドーム越流型ダム。展望台から眺める観光放水は見もの。黒部湖を周遊する湖上遊覧船や黒部湖左岸からブナの原生林を通りぬけて岬へ出る黒部湖畔散策道なども観光ポイントの黒部ダムを訪れる。。 北アルプスの雪解け水を集める黒部湖はブナなどの原生林に囲まれ、エメラルドグリーンの湖水が印象的。西岸からは湖を30分で一周する黒部湖遊覧船ガルベが運行している。湖面標高は1448mあり、湖を渡る風は夏でも冷たい。9月末〜10月上旬は湖畔のブナ林が黄色となり、神秘さに鮮やかさを加える黒部湖を訪れる。 黒部湖黒部ケーブルカーで出発 黒部平到達、散策。 黒部平駅の前に広がるテラスのような小平地が黒部平庭園。東側には黒部湖を見下ろし、赤沢岳、スバリ岳、針ノ木岳といった後立山連峰が堂々とした姿で控える。西側には立山連峰が屏風のように迫り、大観峰に向かって吸い込まれるように上るロープウェイが眺められる。広場にはベンチや湧き水があり、記念撮影や休憩によい黒部平庭園を訪れる。 黒部平庭園から階段を降りた一角にある。遊歩道沿いにはクルマユリ、ミヤマキンポウゲ、ハクサンフウロ、ゼンテイカ(ニッコウキスゲ)など約100種の高山植物が植えられている。花は6〜9月にかけて咲き、一番の見ごろは7月。名札が付いているので、花の名前を覚えることもできる高山植物観察園[黒部平庭園]を訪れる。 立山連峰東面のなだらかな大斜面がタンボ平とよばれる。黒部平から全景が見渡せるが、より印象的なのはロープウェイからの眺めだ。ダケカンバ、ナナカマド、ミネカエデなどの落葉樹林が季節ごとに彩りをみせる。特に6月のみずみずしい新緑、10月上旬の鮮やかな紅葉は見逃せない。また、その年の気候によって冠雪と紅葉、緑の三段染めが見られることもあるタンボ平を望む。 黒部平立山ロープウエイで出発 大観峰到達、黒部湖を望む。 後立山連峰に対峙するようにそびえる、立山東絶壁で、標高2316m。ここに立つ立山ロープウェイ駅舎の屋上からは、赤沢岳や黒部湖を一望できる。立山ロープウェイは動く展望台とも呼ばれ、後立山連峰をバックに黒部湖を見下ろす景観は壮大な大観峰を訪れる。 黒部平からロープウェイで上った大観峰駅は急斜面の岩峰に張り付くように立ち、屋上が展望台になっている。標高2316mからの展望はアルペンルート随一で、はるか眼下に黒部湖、正面に北アルプスの後立山連峰、四季折々の彩りが美しいタンボ平が広がる。中央の赤沢岳やスバリ岳、針ノ木岳をはじめ、その右には燕岳、大天井岳、左には爺ケ岳、鹿島槍ケ岳、五龍岳といった名だたる山々の大パノラマを一望にできる。ここから眺める御来光もすばらしい大観峰展望台を訪れる。 大観峰立山トロリーバスで出発 室堂到達、散策。 アルペンルートの最高所で、標高2450m。立山登山の基地で、眼前に主峰雄山[おやま](標高3003m)がそびえる。一般的な室堂一周ハイキングコースは、湖畔にお花畑の広がる周囲631mの火山湖みくりが池や、地獄谷などを回り約2時間30分。スニーカーが必要な室堂平を訪れる。 過された水は、2〜5度と冷たく、飲みやすい。全国名水百選にも選ばれる立山玉殿の湧水を訪れる。 立山の火山活動で生まれた火口跡に水がたまった湖。周囲631m、深さ16mと室堂平では最大。一年の半分は氷結しており、初夏でも残雪を浮かべている。名前は、「神様の台所」という意味の「御厨」から。法師が池を泳いでいて、三周したところで水底に引き込まれてしまったという伝説もある。池の縁に整備された遊歩道は、約1時間で一周可。池の周囲に生えたハイマツの間に、クロユリ・コバイケイソウなどの高山植物が見られ、ライチョウが姿を現すこともあるミクリガ池を訪れる。 りが池を出て石畳を下れば、緑のない灰色の地肌に覆われた別世界。荒涼とした地肌から硫黄の臭気、白い噴煙が噴き上がり、火山活動の様子を垣間見ることができる。鍛冶屋地獄や地下から湯が湧く紺屋地獄など136もの「地獄」がある地獄谷を訪れる。 立山地獄の1つで血の池地獄ともいわれる。伝説では、ここは女性が落ちる地獄で、池にたまった血を飲み干すよう、地獄の鬼に責められると恐れられていた。池とはいっても、湿地帯の水たまりのようなもので、水深は浅く、水の色は酸化鉄によって赤味がかっている。池のそばまで近付くことはできないが、遊歩道から眼下に一望できる血の池を訪れる。 カール(圏谷)とは氷河の浸食でできた谷状の地形で、スコップでえぐったような丸い底が特徴。雄山山頂の西側にある山崎カールは幅約400m、長さ約600mの小さな圏谷。1905年(明治38)、地理学者山崎直方博士により日本で初めて発見され、日本に氷河時代が存在したことが証明された。圏谷内は立入禁止だが、エンマ台から眺めるとその形がよく分かる山崎カールを望む。 みどりが池よりも小さな池で、水深は1m、湖底の岩が水面の所々に露出している。その名が示すように、周囲の斜面には7月中旬〜8月末になると、リンドウの花が咲くりんどう池を訪れる。 みくりが池の東側にある火口湖。水深は浅く、約1.6m。岸に立つと水底の岩が見え、透明度の高さを実感することができる。静かな水面には立山の姿がくっきりと映り、残雪や紅葉の頃はさらにその美しさを増す。また、この水で、修行者たちが写経に使う墨を摺ったと伝えられている。池のほとりに遊歩道が通り、山の展望図やベンチを設置した園地もある。周辺にはイワイチョウやヨツバシオガマなどの湿生植物、高山植物も見られるミドリガ池を訪れる。 立山信仰登山の基地となった、古い宿泊・礼拝施設(重要文化財)で、信者はここから雄山山頂の神社を目指した。日本最古の山小屋ともいわれ、最初の建物ができたのは、少なくとも15世紀末より以前と考えられている。建物は2棟に分かれ、北室は1726年(享保11)、南室は1771年(明和8)に再建されたものを、1992〜94年の解体調査後に復元した。屋根は切妻造で、柱はタテヤマスギの太い角材を等間隔に並べた堅牢な構造。内部には解体調査で出土した陶器などの貴重な遺物を展示する立山室堂を訪れる。 室堂平の西端、雄山を望む岩場に口を開けた洞窟。玉殿岩屋は立山開山伝説の聖地で、佐伯有頼が阿弥陀如来と不動明王に立山の開山を命じられた場所とされている。立山室堂が建設される前は、宿泊にも使用されたともいわれる。洞窟の天井は低く、奥行きも4m程度と狭い。薄暗い奥に小さな石仏が数体安置されている。虚空蔵窟とよばれる洞窟も隣接し、内部には石地蔵や十六羅漢が十数体祭られている玉殿岩屋・虚空蔵窟を訪れる。 室堂高原バスで出発 弥陀ヶ原到達、散策。 立山の西麓に広がる溶岩台地の高層湿原。1周約2時間の遊歩道沿いには、大小3000もの池塘が点在、ワタスゲなどの群落がみられる。バス停から500mの地点に、旧火口とカルデラを一望する、立山カルデラ展望台がある弥陀ケ原を訪れる。 弥陀ケ原のおだやかな風景とは対照的な立山カルデラを一望できる展望台。立山カルデラとは、立山連峰の南東側の斜面が、南北4.5km、東西6.5kmにわたって大きくえぐれた地形。一般的なカルデラは火山活動でできる地形だが、立山カルデラは常願寺川の浸食によって土砂が大量に流出してできた浸食カルデラと考えられている。この浸食は現在も進行しており、下流の富山平野を水害や土砂災害から守るために、砂防事業が明治時代から現在も行われている立山カルデラ展望台を訪れる。 弥陀ヶ原高原バスで出発 日本一の落差を誇る滝で、国の名勝・天然記念物。落差は350mで、上から70m、58m、96m、126mと4段に分かれている。エメラルドグリーンの水をたたえる滝壺は深さ6m、直径60m。この巨大な滝の豊富な水は弥陀ケ原から流れてくるもので、雪がとける春から初夏の頃が最も多くなる。立山を訪れていた法然上人が迫力満点の滝の轟音のなかに、「南無阿弥陀仏」という称名念仏を聞いたことから、称名滝と名付けられたという滝をバスから望む。 称名滝の右側に春から初夏の雪どけの増水時に現れる滝で、真夏や秋の渇水期には涸れてしまう。ネハンの滝、阿吽の滝ともよばれる。この滝の最大落差は、増水時には500mに達し、称名滝以上の落差となる。称名滝と同じ滝壺に流れ落ち、称名滝とともにVの字を描く姿は壮観なハンノキ滝をバスから望む。 美女平到達、散策。 美女平駅の駅舎の前に立つタテヤマスギの大木で、根元には石仏が安置されている。この木に伝わる伝説は立山の女人禁制にまつわるもので、掟を破って立山に向かったお姫様がここで動けなくなり、杉の木に変わってしまったとも、若狭の止宇呂という尼の侍女が変身してしまったとも伝えられている美女杉を訪れる。 美女平立山ケーブルカーで出発 立山駅到達 立山駅富山地方鉄道で出発 富山駅到達 17:47富山駅サンダーバードで出発 21:08大阪駅到達 今回の旅行、富山の標高2000mの行程を6つの乗り物を乗り継いで横断する立山黒部アルペンルートを訪れました。 アルペンルートは5回目の訪れですが今回は各名所を時間をかけて散策し大自然を深く触れることができました。 迫力のあるビッグな黒部ダム、大観峰からの黒部湖とタンボ平の眺望、室堂の絶景、弥陀ヶ原の湿原散策、美女平の立山杉やブナ林の散策、どれをとっても大自然でスケールが大きい、何回も訪れたい立山黒部アルペンルート巡りでした。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九弾:中部圏城と城下町巡り 2012年10月6ー8日 中部圏の18城と城下町(大垣城、岐阜城、犬山城、掛川城、浜松城、吉田城、岡崎城、名古屋城、郡上八幡城、高山城、富山城、高岡城、金沢城、大聖寺城、丸岡譲、福井城、一乗谷城、越前大野城)を訪れました。 6日12:30車で第二京阪京滋バイパス名神を経由して大垣に向かう。 1535年(天文4)に築城。関ケ原合戦では西軍の本拠地となった。4層4階建て総塗りごめ様式の優美な天守閣からは大垣市内を一望できる大垣城を訪れる。 岐阜の向う。 戦国時代、斎藤道三の居城だった稲葉山城が、織田信長の占領によって岐阜城と名を変えたのは1567年(永禄10)。その後、関ケ原の合戦の前哨戦で落城。金華山に現在立つ岐阜城は、1956年(昭和31)に再建されたものだ。三層四階構造で、内部には甲冑や文献を展示。最上階は展望台になっている岐阜城[金華山]を訪れる。 犬山に向かう。 1537年(天文6)、織田信康により築城。天守閣の美しさは荻生徂徠が李白の詩を引用し、「白帝城」と讃えたほど。展望台からは濃尾平野を一望できる国宝・犬山城を訪れる。 東名高速を経由して掛川に向かう。 掛川駅の南のホテルに到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。 7日7:00車で出発。 1994年、全国初の木造天守閣として復元された3層4階建ての城。戦国時代に今川氏の家臣・朝比奈泰熈によって築城され、天守閣は山内一豊の時代に築かれた。城内では鎧兜や装身具などを展示。最上階の天守台からは周囲が一望できる掛川城(雲霧城)を訪れる。 浜松に向かう。 1570年(元亀元)、徳川家康が遠州攻略の拠点に築城。徳川の治世はここから始まったともいえ、その後代々の譜代大名が居城としたことから別名「出世城」とも呼ばれる。城跡は浜松城公園として整備。築城当時の姿を残す石垣の上には、1958年(昭和33)再建の天守閣がそびえる。天守閣内部では鎧や刀剣などを展示。最上階の展望回廊は浜松市内が一望できるビュースポット。桜の名所でもある浜松城を訪れる。 豊橋に向かう。 吉田城は、永正2年に牧野成時(古白)によって築かれ今橋城と称した。 その後松平氏と戸田氏の争奪戦が続くが、天文15年に今川義元が攻略して城代を置いた。永禄3年、桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康は永禄7年には吉田城を攻略して、酒井忠次を城主にしている。今は豊橋公園となっている。 本の丸には復興隅櫓(鉄櫓)が建ち、この城のシンボルとなっている吉田城を訪れる。 岡崎に向かう。 岡崎公園内にある、徳川家康出生の城として知られる名城。1531年(亨禄4)に家康の祖父・松平清康が入城して以来岡崎城と称されるようになり、家康の天下統一の拠点となった。明治時代に取り壊された天守閣は1959年(昭和34)に復元され、歴史資料館になっている岡崎城[岡崎公園]を訪れる。 名古屋に向かう。 金鯱で有名な城。1612年(慶長17)、徳川家康が築城。天守閣と本丸御殿が隅櫓・多聞櫓で囲まれた豪壮堅固な造りで、尾張徳川家約六十二万石として栄えた。1945年(昭和20)の空襲で大部分が焼失し、1959年(昭和34)に天守閣と正門を再建。三つの隅櫓(重要文化財)と表二之門(重要文化財)・石垣は、ほぼ原型を残している。再建された天守閣は、1〜5階が旧本丸御殿の障壁画などを観賞できる展示室で、最上階は展望室がある名古屋城を訪れる。 郡上八幡に向かう。 標高354mの八幡山山頂に立つ、4層5階の城。1559年(永禄2)、遠藤盛数により築城。現在の城は、1933年(昭和8)に再建されたものだ。木造再建城としては、全国で最も古い。天守閣からは郡上八幡の町並みを一望。貴重な収蔵品も展示されている郡上八幡城を訪れる。 高山に向かう。 1588年(天正16)、金森長近がこの地に築城して城下町を開き、107年間にわたって支配。6代目の頼時が出羽国(現在の山形県)に転封となり、1695年(元禄8)に取り壊された。当時全国でも有数の規模を誇る山城だったが、今は2万平方mの敷地に三の丸堀、二の丸石垣、天守閣跡が昔の面影を残している。園内の広場からは市街の眺め、金竜ケ丘からは乗鞍岳など北アルプスの眺望がすばらしい。春は桜、秋は紅葉の名所で、遊歩道を散歩しながら森林浴やバードウォッチングも楽しめる高山城跡を訪れる。 東海北陸道を経由して富山に向かう。 富山駅付近のホテルに到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。 8日6:00車で出発。 佐々成政、そして富山前田家230年間の居城だった富山の必見スポット。戦国時代には佐々成政の居城であり、江戸時代には富山前田家の居城として、富山藩政の中心であった。この城跡が「富山城址公園」として整備され、市民の憩いの場となっています富山城を訪れる。 高岡に向かう。 第2代藩主前田利長の隠居城で日本100名城に選ばれています。城は、高岡市のほぼ中心部にあり、その総面積は約21万u。前田支藩の一つである富山前田家居城(10万石)の富山城の22万uに匹敵する大きさの高岡城を訪れる。 金沢に向かう。 天文15(1546)年、本願寺による金沢御堂の創建に始まります。天正11(1583)年に前田利家が入城し、本格的な城づくりが始まり、加賀藩前田家百万石の居城として発展しました。 明治以後は陸軍の拠点として、終戦から平成7(1995)年までは金沢大学のキャンパスとして利用され、金沢大学の移転後、平成13(2001)年9月に「金沢城公園」として、金沢御堂の創建から450余年を経て、一般に開放されました金沢城を訪れる。 |