飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百十八弾:四国圏城・城下町巡り
2012年12月22ー24日
 

四国の9か所の城・城下町(徳島城・高知城・宇和島城・大洲城・松山城・湯築城・今治城・丸亀城・高松城を巡りました。

22日13:00車で出発、阪神淡路自動車道経由して徳島に向かう。
15:30徳島到達。

徳島駅北東に広がる公園で、明治維新まで阿波の領主・蜂須賀家の居城だった。往時の建物はないが、石垣と桃山様式の旧徳島城表御殿庭園がかつての面影を伝える。2006年1月、徳島城跡が国の史跡に指定された徳島中央公園を散策する。

徳島中央公園内の徳島城御殿跡にあり、徳島藩と藩主・蜂須賀家に関する美術工芸品や歴史資料を中心に収蔵・展示している博物館。現存する最古の和船、徳島藩御召鯨船(重要文化財)をはじめとする徳島藩水軍についての貴重な資料、徳島城御殿の精巧な復元模型や城下町の暮らしぶりなども常設展示する徳島市立徳島城博物館[徳島中央公園]を見学。

徳島中央公園の徳島市立徳島城博物館に隣接。茶人武将・上田宗箇が関ケ原合戦後に作庭したとされる回遊式の大名庭園。枯山水庭と築山泉水庭からなり、阿波特産の青石(緑色片岩)を大胆に用いた豪壮なつくりが特徴。全長10mを超える大石橋や池畔の石組みは鮮やかで一見の価値がある旧徳島城表御殿庭園[徳島中央公園]を訪れる。

16:30高松高知自動車道経由して高知に向かう。
18:30高知到着、市街地のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

23日7:00車で高知城に向かう。

三層6階の天守閣をもつ平山城。初代土佐藩主・山内一豊が1601年(慶長6)に築城を開始。1611年(慶長16)、二代藩主・忠義の時に完成した。その後焼失したが、1753年(宝暦3)に再建。天守閣をはじめ、詰門[つめもん]や東西の多聞櫓、黒鉄門は、いずれも重要文化財に指定されている。天守閣のある本丸は、全国で唯一天守・御殿などの建造物がセットで残る。追手門そばの板垣退助像や山内一豊像、その妻の千代像も見逃せない高知城を散策する。

8:30宇和島に向かう。
10:30宇和島到達。

リアス式海岸の続く海に面し、四国百名山に数えられる1000m級の山々を背に、海抜80mの緑深い城山に白亜の天守がそびえる姿から鶴島城の別称を持つ優美な城。1601年(慶長6)に藤堂高虎が築城し、1615年以降伊達家9代の居城だった。10haの城山は国史跡、天守は現存12天守の1つで国重要文化財に指定されている。400種の草木が繁茂する照葉の森に、苔むす石垣が佇む幽玄の美が楽しめる宇和島城を散策する。

宇和島の中心部の緑深い城山の頂にそびえる。国の重要文化財で現存12天守の一つ宇和島城天守を訪れる。

大洲に向かう。

慶長年間(1596〜1615)の築城とされ、後に大洲藩主・加藤氏が13代居城した。町の西の高台にあり、天守閣は1888年(明治21)に取り壊されたが、高欄櫓、台所櫓が残る。市内の芋綿櫓、南隅櫓とともに重要文化財に指定する大洲城を訪れる。

松山に向かう。

標高132mの勝山山頂に立つ松山城(史跡)は、大天守に複数の小天守が連結する連立式天守をもつ平山城。1627年(寛永4)、加藤嘉明によって完成。乾櫓、野原櫓、隠門など築城当時から残るものはすべて重要文化財に指定されている。1854年(安政元)に再建された天守(重要文化財)からは、石鎚山から伊予灘までが一望。小天守内部には松山城の歴史を展示している松山城を散策する。

湯築城を訪れる。二重の掘と土塁を巡らせ、その中に居住空間を持つ先駆的な「平山城」の形態をなす。中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として、約二五〇年間存続しました。南北朝時代の初め頃(十四世紀前半)、河野通盛によって築かれたといわれています。通盛の祖先には、十二世紀末の源平合戦の際、水軍を率いて活躍した通信。十三世紀後半の蒙古襲来の際活躍した通有がいます。通盛は、それまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷(現在の北條市)からこの道後の地に移りました。河野氏は、その後讃岐から攻め入った細川氏との戦いに敗れ、湯築城は一時占拠されましたが、守護職とともに湯築城を奪い返しました。しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、お家騒動(惣領職の継承をめぐる分裂)や内紛(家臣の反乱)を繰り返し、その地位は決して安泰ではありませんでした。天正十三年(1585年)、全国統一を目指す羽柴(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景に湯築城は包囲され、河野通直は降伏し、やがて湯築城は廃城となりました。

今治に向かう。

1602年(慶長7)藤堂高虎が着工し、2年後に完成。海水を引き入れた三重の堀をもつ海岸平城は、全国でも珍しい。当時のまま残るのは城塁や内堀だけだが、明治維新前までの規模は現在の10倍と記録に残る。5層6階建ての天守閣は、1980年(昭和55)に市制60周年を記念し再建。2〜5階は展示室で、武具・甲冑・刀剣など約250点を常設展示。御金櫓、山里櫓は美術品の展示館になっている。2007年(平成19)には鉄御門を再建。築城当時の雄姿を再現している今治城を訪れる。

丸亀に向かう。
丸亀市内のホテル到着後近くの居酒屋で食事を済ませて就寝。

24日8:30車で出発。

亀山に築かれた平山城。内堀から天守閣へ幾重にも積み上げられた石垣は、扇の勾配と呼ばれる美しい曲線を描く。現在の城の大部分は、1641年(寛永18)に丸亀藩主になった山崎家治[やまざきいえはる]が造営。その後、明治維新まで城主だった京極家に受け継がれた。天守、大手一の門は国指定文化財、二の門と東西の土塀は重要文化財。天守は全国に現存する12の木造天守のうちの一つの丸亀城を訪れる。

高松に向かう。

潮の香りが漂っている。城の北側は海に面し、残り三方の堀には海水を引き入れた日本三大水城の一つ。堀が海とつながっているため、潮の干満による水位調整のための水門があるのも、海城ならではの遺構。高松城の天守台にかつて「南蛮造り」と呼ばれる三層四階の天守があった。高松市ではこの天守の復元を計画している。松平氏によって東の丸が増築された時に築かれた三層の月見櫓・続櫓・水手門・渡櫓が高松港のすぐ側に残っている。 かつては石垣が海の波に洗われていた。今は太鼓櫓の跡に均整のとれた三層三階の艮櫓が移築されている。 東の丸の石垣が、県民ホールから歴史博物館にかけて残っていて、ここに艮櫓の櫓台も残っていた高松城(玉藻公園)を訪れる。

帰路に向かう。

今回の旅行、中国圏の城めぐりを予定していましたが、西高東低の冬型の気圧配置、日本海沿いは雪とのことで急遽、四国圏の城めぐりに変更いたしました。

寒波厳しく、寒さと強風に耐え凌ぎながら9つの城と城下町を巡りました。

四国には現存する天守閣のある城が多く歴史を感じさせられました。

歴史学習できた四国の城・城下町巡りドライブ観光でした。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百十七弾:愛媛県忽那諸島巡り
2012年12月15ー16日

有人島9島を含む30島以上で構成される愛媛県忽那諸島に足を運び、松山の西約5kmに浮かぶ小島、斎灘と伊予灘を結ぶ交通の要衝であることから、この島に洋式石作りの灯台が明治6年(1873年)に建設された釣島、忽那諸島の南西端にある島、昭和47年(1972年)、世界的権威をもつ地理雑誌「ナショナル・ジオグラフィック マガジン5月号」に26ページにもわたって紹介された二神島、忽那諸島の西部に位置、近海のクダコ付近の海は、誰もが認識する瀬戸内海最大のジギングの難所だがハマチやタイの漁場として有名の怒和島、忽那諸島の西端に位置し、西隣の山口周防大島町の諸島とはわずか700mを隔てるだけの県境の島、かつては瀬戸内海航路の要衝として、参勤交代に向かう松山藩主の御茶屋が港に置かれていた津和地島を訪れました。

15日14:15伊丹空港出発
15:10松山空港到達、タクシーで高浜港に向かう。
16:05高浜港到達
16:55高浜港フェリーで出発
18:33津和地港到達、近くの旅館で食事を済ませて就寝。
16日6:56津和地港フェリーで出発、釣島に向かう。
8:08釣島到達、散策。

釣島は松山港の自然防波堤、興居島の西約2kmに浮かぶ有人島です。周囲3kmほどの小島ですが、標高は152mと小高く、こんもりした感じの島で、北側の僅かな平地に集落があります。周囲の海は好漁場として知られ釣り船の姿をよく見かけ、釣島という名とマッチしていますが、もともとは小学校脇にある明神池(めだか池)に鶴がたくさん飛来していたことから“つるしま(鶴島)”と呼ばれていたようです。昔の明神池はもっと広い潟湖になっていて、小学校の校庭にするため多くの部分は埋め立てられ一部が残ったものです。定住の始まりは、元治元年(1864)、興居島から5人の移住によるものだと伝えられています。興居島は古来より柑橘類の栽培が盛んだったことから、耕作地を求めての移住だったと思われ、現在、釣島の山の斜面にはたくさんのみかん(伊予柑)畑が広がっています。このように農業が島の主産業になっていますが、近海でのアワビやサザエ、天草の採集、タコ漁も盛んです。特にタコは昔から良質なことで知られ、「釣島のタコ」と名指しで取引きされています。
松山市の沖合いに浮かぶ興居島と中島の間は釣島海峡(水道)と呼ばれ、昔から海上交通の要衝として捉えられてきました。そして、釣島はその西側の出口に当たることから明治6年(1873)に灯台が建てられています。明治政府は幕末に幕府と諸外国の間に交わされた条約に基づいて、関東と関西に灯台建設を進めていましたが、その流れでこの釣島にも御影石造りの洋式灯台が建設されたものです。日本の灯台の父と言われるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計によるもので、愛媛県で最も古い洋式灯台です。

9:50釣島フェリーで出発、二神島に向かう。
10:43二神島到達、散策。

忽那諸島の有人島の一つで、怒和島や津和地島から見るとひょうたん島と呼びたくなるような形をしています。もともとは松がたくさん茂っていたため松島と呼ばれていたようですが、いつの頃から二神島と呼ばれるようになったのか定かではありません。14〜15世紀に長門国(山口県)の豊田氏の支流がこの島に移り住み水軍として勢力を誇ったことにより注目されていました。二神氏(水軍)の拠点の島です。現在は小規模な漁業とだんだん畑での柑橘類の栽培が行なわれており、ミカンや伊予柑が島の経済を支えています。二神港の近くにビャクシンの自生が見られ県の天然記念物に指定されています。またその近くの民家には高さ5mを超える巨大サボテンもあります。

12:21二神島高速艇で出発
12:54上怒和港到達、散策。

怒和島は松山市の北西海域に点在する忽那諸島の有人島の一つで、津和地島中島の間に位置しています。東側に上怒和、西側に元怒和と2つの集落があり、それぞれ「陶器の里」、「レモンの里」というキャッチフレーズがあるようです。全体的に山がちで斜面ではレモンやみかん等の柑橘類の栽培が行われ、北側の宮ノ浦の平地には畑があります。かつてはこの宮ノ浦に集落がありましたが、耕地を増やすために住家を南側に移し、比較的なだらかな北側の土地を耕作地として広げたようです。平成12年に宮ノ浦で行われた発掘調査では、奈良時代から平安時代にかけての土器や中世の遺構などが見つかっており、古くからこの地に集落があったことを窺わせています。産業は柑橘類の栽培と漁業が主で、周囲の海は釣りのポイントとして知られており、入り江を生かしてヒラメやアワビの養殖も行われています。

14:23元怒和港フェリーで出発


14:34津和地港到達、散策。

西側はすぐに山口県の諸島、情島、屋代島と続く。津和地島は県境の島です。江戸時代には風待ち・潮待ちの港として幕府御用船や朝鮮通信使も寄港し栄えていました。当時、港には接待所として松山藩の「御茶屋」が置かれ、現在は御茶屋跡の碑が建てられています。島の産業はミカン栽培、漁業はタコ、タイ、ヒラメなどが水揚げされています。この島出身に金子正次(1949〜1983年)という人がいた。脚本家・俳優。33歳の時に自主映画「竜二」を完成させ、ブルーリボン賞、日本アカデミー新人俳優賞を受賞。同映画公開中に胃癌性腹膜炎により、松田優作らに看取られながら33歳の若さで死去した。

16:29津和地島高速艇で出発
17:23高浜港到達、タクシーで松山空港に向かう。
17:58松山空港到達
19:25松山空港出発
20:15伊丹空港到達。

今回の旅行、愛媛県の忽那諸島の4つの島(釣島、二神島、怒和島、津和地島)に足を運びました。

松山に近い島でもあり、フェリーが整備され、本数も多い、それぞれの島には住民も住居も多く、他の瀬戸内海の島々と違って活気に満ちていましたが観光名所はほとんどなく、ただ歩くのみの島めぐりとなりました。

昨年は忽那諸島の他の島を訪れ、今回で忽那諸島を制覇しました。

今までの旅行中の宿は、ほとんどビジネスホテルで食事は近場の居酒屋のパターンでしたが、今回は津和地島の旅館、宿泊費は庶民的で安価でしたが料理は素晴らしい、お造り、鍋、てんぷら、鯛の塩蒸し焼き、美味しかったですね。これからの宿の選択、見直さなければいけないですね。但し当たり外れがありますね。今回は大当たりでした。最後に出た一匹の鯛の塩蒸し焼き、柔らかくて最高でしたね。

食事も楽しめた愛媛県忽那諸島巡りでした。















静岡県大井川鉄道SL&南アルプスあぷどライン観光
2012年12月9日
 

静岡県大井川沿いエリアに足を運び、静岡県榛原郡を大井川に沿って南北に駆け抜ける路線。「C11227」(昭和17年製造)の他「C108」等のSLも現役で走行中。河川や茶畑、山々など、車窓を流れる景色の多彩な変化を楽しめる大井川鉄道SL、大井川の上流部奥大井の渓谷を、ゆっくりと走る鉄道で、千頭〜井川までの25.5kmを結びます。井川線区間は、水力発電所建設の資材運搬用トロッコとして建設され、山あいを縫うようにカーブ箇所が多く、トンネルも小型です。列車サイズもそれに合わせて、小さな車両を使用しています。
また、一部区間では「国内唯一のアプト式機関車」を使い、「鉄道日本一の急勾配」を登り降りしています南アルプスあぷとラインを訪れる

8:40新大阪駅新幹線ひかりで出発
10:05浜松駅到達
10:10浜松駅JR東海道線で出発
10:49金谷駅到達
11:01金谷駅大井川鉄道で出発
12:15千頭駅到達

千頭駅に付属した大井川鐵道の資料館。SL模型や鉄道ジオラマのほか、ピストンリングなどの部品類を陳列しているSL資料館を見学。

13:15バスで長嶋ダムに向かう。
13:34長嶋ダム到達
13:42長嶋ダム駅南アルプスあぶとラインで出発
14:32千頭駅到達
14:50千頭駅大井川鉄道SLで出発
16:10新金谷駅到達
16:32新金谷駅大井川鉄道で出発
16:37金谷駅到達
17:16金谷駅JR東海道線で出発
17:30掛川駅到達
17:42掛川駅新幹線こだまで出発
18:43名古屋駅到達
18:53名古屋駅新幹線のぞみで出発
19:43新大阪駅到達

今回の旅行、日帰りで静岡県の大井川沿いに走る大井川鉄道に足を運び、大井川鉄道SLと南アルプスあぷとラインに乗車し大井川の上流部奥大井の渓谷に接し、秘境大自然に接し楽しめました。

当日寒波で雪もちらつき、かなりの寒さを耐えしのぎながらの静岡県大井川沿いに走る大井川鉄道SLと南アルプスあぷとライン乗車でした。








SL北びわこ号湖北を走る
2012年12月2日

滋賀県湖北に足を運び、湖北路、米原−長浜−木ノ本間を季節運行する蒸気機関車。昭和10年〜14年にかけて作られ、ポニーの愛称で有名な「C56形160号機」が牽引します。運転日は平成24年11月4日(日)、11月11日(日)、11月18日(日)、11月25日(日) 、12月2日(日) の5日間 で今回は最終の運行であるSL北びわこ号に乗車しました。

11:10大阪駅新快速で出発
11:30米原駅到達、昼食
13:16米原駅SL北びわこ号で出発
14:00木ノ本駅到達、散策

戦国時代に重要な役割を果たす。戦国時代の前半、この地域を支配したのは京極氏で、その本拠は上平寺城であり、脇往還は領国統治の基幹道であった。戦国時代の後半、この地域を支配した戦国大名浅井氏の本拠である小谷城も、往還沿いの伊部・郡上を城下町としている。浅井長政の正室・お市が、織田信長の居城である岐阜から嫁いだのもこの脇往還である。織田信長や徳川家康はこの街道を辿って近江に攻め込んだ。小谷落城後、城から脱出したお市と浅井三姉妹が美濃方面に向かった経路もこの街道と考えられる。さらに、賎ヶ岳合戦時、秀吉が大垣から52Kmを5時間で駆け抜けた「秀吉の大返し」の経路でもある北国脇往還を散策する。

古くから眼の仏として信仰を集める寺。寺には眼を患った人の身代わりに片目を閉じたカエルが棲むといわれ、境内のいたるところに「身代わり蛙」というカエルのお守りが奉納されている。境内の大地蔵は本尊の地蔵菩薩(秘仏)を写したものの木之本地蔵院を訪れる。
15:14木ノ本駅新快速で出発
17:12大阪駅到達。

今回は近場の滋賀県湖北に足を運び、昭和10年〜14年にかけて作られ、ポニーの愛称で有名な「C56形160号機」が牽引するSL北びわこ号に乗車しました。

到着駅の木ノ本駅周囲の北国脇往還をも散策し楽しめました。