飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百弾:佐賀県唐津沖離島観光
2012年7月28ー29日
 

東は福岡県、西は長崎県に接し、玄界灘と有明海の2つの海に面する佐賀県に足を運び、唐津城や唐津湾沿いに100万本の老松が見事なトンネルをつくる虹の松原で有名な唐津の沖の離島、唐津市から北に1キロに浮かぶ島、宝くじで有名な宝当神社のある高島、唐津市街地から国道204号線を呼子方面へ10kmほど北上した所に綺麗な砂浜が続く“相賀の浜があります。夏になると多くの人が訪れる人気の海水浴場で、その海岸から目の前に見える島で、上が平らで台形をしていることから、見る位置によっては軍艦のようにも見えるため軍艦島と呼ばれたりもします神集島を訪れました。

28日13:07新大阪新幹線のぞみで出発
15:45博多駅到達、レンタカーで博多港に向かう。
16:15博多港到達
16:45博多港高速艇で出発
17:20玄海島到達、散策。

玄界島は最高海抜が218mのお椀をふせたような島です。周囲約4キロで普通に歩いて約1時間で一周できます。この島は2005年3月20日午前10時53分におきた福岡県西方沖地震により大きな被害を受けました。

豊後の国守百合若は筑紫警備の帰路、この島で休憩しましたが、家来の別府兄弟の裏切りで島に置き去りにされたのです。兄弟は国守の地位につき百合若の妻にまで手をかけようとしました。2年を過ぎたある日、百合若の愛鷹みどり丸が飛来し百合若は手紙を託しました。1ヶ月後にみどり丸はすずりと手紙を運んでくるが精根尽きて死んでしまいました。その後百合若は漂着船に助けられ、姿を変えて別府兄弟に復讐する、という話です。「みどり丸」を奉ったものであると言われています小鷹神社を訪れる。

17:35玄海島高速艇で出発
18:10博多港到達、レンタカーで唐津方面に向かう。
17:30唐津駅付近のホテル到着後、市街地を散策し食事を済ませて就寝。

29日7:20レンタカーで高島行きの渡船場に向かう。
7:50渡船場高速艇で出発
8:00高島到達、散策。

宝くじが当たるという評判の神社があり、宝くじのシーズンには多くのファンが訪れる宝当神社を訪れる。

宝当神社から左の細い路地を通り、後は順路の看板通りに進み、高島保育園から左に、宝当神社から徒歩10分程度である塩屋神社を訪れる。

9:00高島高速艇で出発
9:10渡船場到着、レンタカーで神集島方面に向かう。
9:40湊港到達
10:00湊港高速艇で出発
10:08神集島散策

島の北部には、鬼塚古墳群と呼ばれる古墳時代後期の横穴式古墳群を訪れる。

11:50神集島高速艇で出発
11:58湊港到達、レンタカーで唐津観光する。

九州のサーフィン発祥の地として有名。湊地区の海岸沿いに林立する巨石奇岩の中の一つで、高さは30m。2つの岩が寄り添うように立つ姿から夫婦岩の別名をもつ。オレンジ色に染まる夕暮れ時は美しい立神岩を訪れる。

海面から高さ26mの断崖に7つの巨大な洞窟が並んでいる海食空洞。長い歳月をかけて、玄界灘の荒波によって形成された。最も大きなもので間口3m、高さ3m、奥行110mほど。遊歩道を歩いていくと、玄武岩の柱状節理とともに、東松浦半島の雄大な絶景を一望できる七ツ釜を訪れる。

唐津城三の丸の西側出入口にあたるこの場所が西ノ門路とよばれていたことから名が付いた。館内では唐津市内から出土された江戸時代の唐津焼などの出土文化財の展示や、若手作家中心の唐津焼の展示販売を行う唐津市西ノ門館を訪れる。

唐津藩の初代藩主、寺沢志摩守広高[てらさわしまのかみひろたか]が7年の年月を費やして1608年(慶長13)に完成させた。現在の天守閣は1966年(昭和41)に完成したもの。内部は郷土博物館で、古い絵図や武具、刀剣類などを展示する唐津城(舞鶴城)を訪れる。

「唐津くんち」の主役である、曳山14台が収められている展示場。古いものでは文政2年(1819)に作られた赤獅子がある。数百枚もの和紙を重ねて漆を塗り、金銀を施した曳山は芸術品のよう。祭りを記録したビデオコーナーもある曳山展示場を訪れる。

旧藩主・小笠原家の菩提寺で、正面の山門は名護屋城中の門を移築したもの。江戸時代の浄瑠璃作家・近松門左衛門が幼少の頃にここで学んだといわれ、その分骨の墓石がある。境内には、小笠原家に関する資料を展示した小笠原記念館も立つ近松寺を訪れる。

防風と防潮のため、初代唐津藩主の寺沢志摩守広高が植林した松林。静岡・三保の松原、福井・気比の松原と並び日本三大松原の一つに数えられ、国の特別名勝に指定されている。約5kmにわたって100万本のクロマツが群生し、夏場は海水浴に訪れる人で賑わう虹の松原を訪れる。

虹の松原の後方にそびえる標高284mの山。ここから佐用姫が大伴狭手彦の船出を見送ったと伝えられる。またその時、力の限り領巾を振ったという伝説から「領巾振山」ともよばれている。登山口の鳥居をくぐり山頂までは約5km、頂上に唐津湾や遠く壱岐まで一望できる展望台がある。周辺には芝生公園も整備され、地元で人気のドライブコースになっている鏡山を訪れる。

姫島船着き場方面に向かう。

15:40船着き場到達
16:00高速艇で出発
16:16姫島到達

勤王の志士達をかくまった罪で島流しにな った野村望東尼の、かっての牢獄が今はお堂として残っています野村望東尼牢獄と野村望東尼の像を訪れる。

17:10姫島高速艇で出発
17:26姫島船着き場到達、レンタカーで博多に向かう。
18:20博多到達
18:55博多駅新幹線のぞみで出発
21:17新大阪到達。

今回の旅行、福岡と佐賀の玄界灘に点在する離島をめぐりました。

このあたりの島はアジア大陸の文化の伝来の中継場となった島が多く歴史深いものがあり、新しい発見を感じさせられた玄界灘沖の離島めぐりでした。



































飛行機で国内&海外の観光地巡り第百九十九弾:青森十和田&八戸&三沢観光
2012年7月21ー22日
  

本州の最北端、青森県に足を運び、秀峰八甲田の裾野に拓け、神秘の湖「十和田湖」、千変万化の美しい流れを織りなす「奥入瀬渓流」、近代都市計画のルーツといわれ整然と区画された街並みなど、豊かな自然と近代的な都市機能が調和した美しいまち十和田、青森観光東の玄関口、新鮮な魚介、風光明媚な海岸線で有名な八戸、世界的に重要な湿地としてラムサール条約に登録された「仏沼」を始めとする豊かな自然に恵まれ、全国有数の航空施設がある大空のまちとして、約4万3千人の人口に加え9千人弱の米軍人、軍属及びその家族が暮らし、異国情緒漂う国際都市として独自の発展を続けています三沢を訪れました。

21日16:05伊丹空港出発
17:35青森空港到達、レンタカーで十和田市方面に向かう。
20:20十和田市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日6:30レンタカーで出発、八戸方面に向かう。

古くから南部氏の加護を受けた南部藩の総鎮守。1222年(貞応元)に遷宮されたといわれている。現在の本殿は1648年(慶安元)南部重直が建立したもので、本殿、旧拝殿、正門、神明社、春日社は国の重要文化財に指定されている。境内の国宝館では、鎌倉末期作の赤糸緘鎧兜(国宝)や、紫糸威肩白浅黄鎧(重要文化財)などを展示する櫛引八幡宮を訪れる。

八戸の考古歴史、民俗資料を展示。市内にある縄文時代後期の風張遺跡で発見された「合掌土偶」は必見。民謡、民話など言葉に関する資料も揃う八戸市博物館を訪れる。

竪穴住居跡や中世の城郭跡などが発見された場所。築城は1334年(建武元)、南部師行による。安土桃山時代の本丸を復元。主殿や馬屋が立ち並び、内部では当時の様子を再現している史跡根城の広場を訪れる。

ウミネコの繁殖地として、国の天然記念物に指定されている島。約4万羽のウミネコが3月ごろ飛来し、8月上旬頃に南へ飛び立つ。遠くから蕪島を見ると、まるで白い花が咲いているかのよう。5月ごろには蕪の花が咲きはじめ、白と黄色のコントラストは見事。間近でヒナを見ることもでき、ウミネコの群れが乱舞する様は圧巻の蕪島を訪れる。

蕪島のすぐ近くにあり、八戸の海やウミネコを紹介している。八戸近海の魚類が泳ぐ大水槽を中心に、ウミネコシアターなどがあり、展望ホールから八戸港が一望できる八戸市水産科学館マリエントを訪れる。

蕪島から南東へ約12kmにかけて続く、美しい海岸線。青々とした天然芝、白浜青松の砂浜、大小の岩が、変化に富んだ景観を作り上げている。春から秋にかけてはハマナスなどの海浜植物が咲き誇り、夏はキャンプや海水浴が楽しめる。国の名勝に指定されている種差海岸を訪れる。

三沢方面に向かう。

宿泊施設だけでなく、四季を感じられる公園めぐり馬車や、イベントが楽しめる広大な公園などが22万坪の敷地内に点在する温泉リゾート。青森3大祭りが楽しめる体感レストラン「みちのく祭りや」や、約80種類の青森の郷土料理が食べられる「のれそれ食堂ぬくもり亭」などの食事処もある。まるで池の中に浮かんでいるような錯覚を覚える露天風呂「浮湯」も好評の古牧温泉渋沢公園を訪れる。

「大空と飛翔」をテーマにした航空科学館。戦後初の国産機YS-11の勇姿が見られる。また、野外展示スペースの大空広場にはF16などの戦闘機も展示されている青森県立三沢航空科学館を訪れる。

小川原湖畔の高台に立ち、三沢で幼年期を過ごした寺山修司の遺品を約1万2000点展示。寺山は詩や演劇、映画などの分野で奇才・天才と呼ばれ、独自の世界を確立し、横尾忠則らと演劇実験室「天井桟敷」を設立した。木製机の引き出しの中に作品資料が収められるなど、展示方法がユニークな寺山修司記念館を訪れる。

十和田市に戻る。

現在の十和田市の礎を築いた南部盛岡藩士・新渡戸傳の偉業を紹介する記念館。1855年(安政2)、傳は不毛の原野だった三本木原の開拓に着手し、私財を投じて奥入瀬川の水を引き入れ、田を拓いた。また、明治から昭和にかけて国際平和に貢献した孫の稲造に関する資料や、開拓に使用した道具類、新渡戸家に伝わる武具や蔵書も展示する十和田市立新渡戸記念館を訪れる。

国内外12カ国・21名の作家による22点の作品を常設展示。大きな特徴は、作品それぞれがこの美術館のために制作されており、設計段階から館内の空間全体を使って表現した作品が多いこと。作品は巨大な女性像であったり、外観を照らす照明であったりと楽しい。「官庁街通りという野外空間を舞台に、通り全体を美術館に」という計画も進んでいる十和田市現代美術館を訪れる。

市街中心部の国道102号から西へ1.1km、幅36mの道に156本の桜と165本の松が植えられている。車道より歩道が広く、桜の開花時期の4月下旬〜5月初旬にはライトアップされ、幻想的な夜桜を楽しめる官庁街通り(駒街道)を訪れる。

八甲田山方面に向かう。

蔦温泉の北に点在する神秘的な沼。少し離れた赤沼以外の6沼を結ぶ自然教育路は1周約1時間。付近は蔦野鳥の森になっている蔦七沼[蔦温泉]を訪れる。

標高1040mの傘松峠のすぐそばにある。高山植物の宝庫で、6月上旬にはミズバショウが一面に咲くほか、10月には紅葉が見られる睡蓮沼を訪れる。

約200万年前の火山活動でできたカルデラ湖の跡。一帯はさまざまな植物が群生し、市の天然記念物に指定されている。6〜7月にはヒメシャクナゲ、ワタスゲ、レンゲツツジなどが花を咲かせる。夏にはニッコウキスゲ、ネバリノギラン、8月にはウメバチソウが咲く。湿原の中には3つの木道が整備されている田代平湿原を訪れる。

1902年(明治35)1月に、旧陸軍の青森歩兵第5連隊第2大隊210人が吹雪に遭い八甲田山で遭難。その際、捜索隊の目印になるよう雪のなかに仮死状態で立ち続けた後藤房之助伍長の像。周囲にはダケカンバが広がり、大岳を望むことができる雪中行軍遭難記念像を訪れる。

八甲田山は南八甲田、北八甲田両連峰の総称。青森市街から見えるのは1585mの大岳を主峰とする北八甲田だ。田茂萢[たもやち]岳にはロープウェーがかかる。ブナやミズナラの天然林は新緑、紅葉が美しい八甲田山を訪れる。

青森空港に向かう。

16:50青森空港到達
18:05青森空港出発
19:30伊丹空港到達。

今回の旅行、4回目の訪れである、本州最北端の青森県に足を運び、風光優美な八戸の海岸線をドライブし、全国有数の航空施設がある大空のまちとして有名な三沢市、豊かな自然と近代的な都市機能が調和した美しいまち十和田市、大岳、赤倉岳などの北八甲田連峰と櫛ヶ岳、駒ヶ嶺などの南八甲田連峰の総称で、森や湿原など、豊かな自然が広がっている八甲田山を訪れ満喫しました。

大阪は猛暑、こちらは20度前後の気温で過ごしやすい、避暑を兼ねてのドライブ観光楽しめました。




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第百九十八弾:中国大連&旅順観光
2012年7月14ー16日
 

中国東北地方に足を運び、北方の香港と呼ばれる東北有数の先進地域で、港湾都市でもあり、東北隋一のビーチリゾート金石灘にはテーマパークもあり、経済技術開発区には日本の企業も多く進出している、旧ロシア人街や旧日本人街などがあり、帝政ロシアの不凍港として町ができた大連、日露戦争の激戦地である旅順を訪れました。

14日16:30関西国際空港中国国際航空で出発
18:00大連周水子国際空港到達、タクシーで大連中心部に向かう。
18:30大連駅近くのホテル到着、後繁華街を散策し海鮮料理を召し上がってから就寝。

15日7:00市街地を早朝散策する。

ロシア占領時代につくられた広場。当時は「ニコライ広場」と呼ばれ、その後の日本占領時代に「大広場」となった。解放後、革命家・孫中山を記念して「中山広場」と命名された。直径200メートルの円形で、広場を中心に10本の道が放射状に走る。周囲には欧州の雰囲気を伝える建築物が並んでいる中山広場を訪れる。

周囲の建造物のなかで、重厚なたたずまいを見せているのが旧大連大和ホテルの大連賓館。1914年の建設。館内には日本料理店もある大連賓館を訪れる。

中国工商銀行大連分行、中国銀行大連分行、中信銀行中山支行、交通銀行大連市分行、花旗銀行大連分行、大連市郵政局、中国工商銀行中山広場支行、大連人民文化倶楽部、大連金融大厦、大連満鉄旧跡陳列館を訪れる。

水晶球を中心にしたロータリー。中ソ友好の象徴としてつくられた友好広場を訪れる。

大連駅の正面一帯に広がるショッピングゾーン。勝利広場は2つの円形ビルの間にあるローマ式広場で、台湾と大連の合資でつくられた。さらに南側には大きな百貨店街が続く。日中合資のマイカルもその一つで、香港合資で建てられた「百年商城」とともに高級店となっている。平日でも買い物客でにぎわい、週末にはファッションショーやバンド演奏なども行われる勝利広場を訪れる。

ロシア占領時代の1903年に建設され、当時は支線の小さな駅に過ぎなかった。現在の駅舎は日本占領時代の1937年、上野駅を模して建てられ、路線も東北地方の各都市や天津、北京、上海と結ばれた。年々、乗降客が増加して手狭になったため、2001年から増改築工事は始まり、100周年の2003年8月に完成した。面積は2.4万平方メートル、駅舎の収容人数は6000人の大連駅を訪れる。

8:00ホテルに戻る。
8:15観光バスで旅順に向かう。
9:00旅順到達

旅順口区市街の東北部に位置して、この山は鶏冠に似ているために東鶏冠山と呼ばれています。日露戦争の時、ここは帝政ロシアの旅順東側の陸防御線としての重要な工事となっており、主に北側の土地を制御していました。士官室や兵舎・食堂・弾薬庫などを設けています。当時の構造がそのまま残されており、壁は砲弾・銃弾の弾痕が残っており、当時の戦いの激しさを物語っています東鶏冠山を訪れる。

東鶏冠山から望台山砲台を望む。

旅順の白玉山は海抜が130メートル、もともとの名前は"西官山"ですが、李鴻章が醇親王と旅順口を視察する時、旅順には「黄金山」があるため、「白玉山」もあるべきだと言い、その後この山を白玉山と呼ばれてきました。山頂には蝋燭のような形をした「白玉山塔」があります。この塔は日露戦争が終結後、日本海軍大将東郷平八郎と陸軍大将乃木希典の提案で造った「表忠塔」で、当時2万人の労力を用いて、1907年6月に着工し、1909年11月に完成しました。「表忠塔」の高さは66.8mで、塔内には24階の旋転階段があり、21個の窓を設けられました。塔の基盤に使った石は殆ど乃木希典の故郷である山口県徳山から運んできた花崗岩です。現在は「表忠塔」は『白玉山塔』と改称されました。山を曲がりくねった南北2本の道路があり、また、山の東坡側に、山頂に直行する496級であるセメント石段が1本あります。南麓側には、山頂に直行する空中ロープウエーもあり、山頂で旅順口軍港と市街区の風景を一望できます白玉山塔
を訪れる。

旅順新市街に位置しています。1955年9月3日に落成しました。ちょうど前ソ連軍が旅順から撤退する年、第二次世界大戦終戦10周年にあたる年で建てられました。塔高は45メーターで、1945年の終戦記念をイメージしています勝利塔を訪れる。

白玉山景区西部に位置する旅順駅は、特別な造りの駅舎で、ロシアの風格を持つ建築物です。市級文物保護単位に指定されています。麦わら帽子のような楕円形の屋根、羽毛のような細かさで嵌め込まれた小さなタイル、精巧な細部の彫刻、ロシアスタイルの白い壁、緑の窓など独特な外観は、異国情緒を感じさせます。1898年、帝政ロシアが旅順と大連を借りうけた際、軍港を拡張し、鉄道を敷設しました。旅順駅は、帝政ロシア占領時代の南満州鉄道支線の終点でした。1903年から運行を始めました旅順駅を訪れる。

旅順博物館は歴史博物館です。この建物はもともと帝政ロシア時代に「将校クラブ」として使われていたものです。1917年に関東都督府によって「関東州満蒙物産館」が設立しました。1954年になって、「旅順博物館」と改称されました。旅順歴史博物館という題字は郭沫若先生がしました。今の総面積は2.5万平方メートル、建築面積は6000平方メートルの旅順博物館を見学。

日露戦争中、203高地は旅順西部の最激戦地です。海抜206m、軍事地図の中で203番なので、「203高地」と呼ばれています、一説では、戦争前の海抜は206メータで、戦争により3メータが削られ、高さは203メータになった、そこから、203高地で命名されました。203高地はロシア軍後方防衛線の西側の最高陣地です。この山の頂上から旅順港の全体が見えます203高地を訪れる。

日露戦争が終了、1905年1月5日、乃木大将とステッセル将軍が水師営にてロシアの降伏調印を結びました。ここの家はもともと劉さんという農民の家で、現在復元しているこの家の屋根の上に草がぼうぼうと生えてます。入り口の小部屋とその左右両側に部屋が二つあります。左側の部屋で、1905年1月5日、乃木希典とステッセルの間で会見が行われました水師営会見所を訪れる。

14:00大連に戻る

14:30日本占領時代の1909年に開設され、解放後に観光、水泳、療養、娯楽などの総合型公園として市民に開放された。面積は16万平方メートル。海水浴場は長さ800メートル、多いときには10人の観光客、市民が訪れる。高さ55メートルの塔から水面に降下するバンジージャンプ、長さ510メートルの海上を渡るリフトもある。水族館「聖亜海洋世界」も併設する星海公園を散策する。

大連を代表する広場。広さは12.5万平方メートルもあり、緑鮮やかな芝生は4万平方メートルにも及ぶ。北側の正面には市人民政府、東西には法務院、検察院、公安局が配置され、行政の中心部になっている。広場の南側には噴水が備え付けられ、毎日12、19、20、21時に30分間、見事な水の芸術を見せてくれる。名物になっているのが、中央を横切る中山路で交通整理をする婦人警察官。さっそうとした姿は、格好の被写体の人民広場を訪れる。

旧日本橋と言われた橋です。この橋を渡るとロシア街で今もロシア建築物が多く残っています。橋の下は鉄道の線路となっており、手前側が大連駅となります勝利橋を通過する。

ロシアが大連を占領した1897年冬以降、市内各地にロシア様式の建物が建てられた。当時、ロシアは市内を欧
州区、行政区、中国区の3地区に分けて整備。ロシア街の勝利橋北側一帯は当時の行政区として、ロシア市政府など各行政機関が集中立地された。大連市人民政府は歴史、文化を守るため、2000年9月に古い建物を保存し、新たな建物を復元したロシア街をオープンさせた。総工費は1.8億元の旧ロシア人街を散策する。

16:30ホテル到達、休んでから市街地散策、食事を済ませて就寝
16日8:00大連中心部を散策。

戦前中国東北部(満州)への玄関口として活躍しました。現在では工業都市でもある大連の輸出入港で中国有数の貿易港の一つでもあります大連港を訪れる。

ロシア人が1898年に開設、当時は「西公園」と呼ばれた。その後の日本占領時代にゴルフ場、相撲場、プール、乗馬倶楽部がつくられ、「中央公園」に。現在は、大連市中心部で最大の公園となり、面積は102万平方メートル。一各種植物が植栽されているほか、ゴルフ場、テニス場、スケート場もある体育と娯楽施設もある。さらに小動物園、遊園地もある労働公園を散策する。

労働公園の南側、山頂に位置し、海抜280mの展望台からは大連市内を一望できます。日本の鉄鋼メーカーの協力により建てられました大連観光タワーを眺望する。

南山の北側一帯の住宅街。ロシア占領時代は欧州区となり、日露戦争後の日本占領時代に日本人街となった。ロシア占領時代の建物を使うなどしたため、純日本風というより、欧州の雰囲気を残した地区となった。2000年に新たな保存地区として整備され、石畳の両側には日本占領時代を復元した豪邸が建ち並んでいる。総面積は9万平方メートル、道の長さは700メートル。地区内には別荘80棟、商店30棟がある旧日本人街(中山区南山路)を散策する。

10:00ホテルタクシーで出発
10:20大連周水子国際空港到達
12:20大連周水子国際空港出発
15:30関西国際空港到達

今回の旅行、中国東北地区に足を運び、1898年に帝政ロシアが清朝からこの地を租借したことから始まり、1905年の日露戦争以降、日本の租借地となり、市内にはロシアと日本の統治時代の遺構が今も数多く残っている大連、日露戦争の激戦地になったことで印象深い場所、その舞台となった203高地へと向かう日本旅行客は今も後を絶たない旅順を訪れ、歴史学習できました。

広い中国大陸、東北区にも経済成長著しい大連、人口600万人、いたるところで高層ビル建設ラッシュ、道路の整備拡張、延長、線路の延長、日増しに町が急速に発展変貌している様子がうかがえます。

数年前までは自転車が交通手段の主力でしたが、今は自転車、バイクはほとんどみられず、軽自動車も少なく、多くの普通自動車が走っているのが目に移り、まだまだ高度成長の真っただ中と感じられた中国大連・旅順観光旅行でした。

























三重県伊勢志摩離島観光観光
2012年7月18日
 

風光明媚なリアス式海岸が有名な三重県伊勢志摩に足を運び、島の離島で賢島に次ぐ面積の大きな間崎島、周囲約7km、面積は約0.7平方キロメートルを持ちリアス式海岸の湾のひとつ的矢湾の奥に位置し、的矢湾深部の外海から隔てられた島の西側海域は波が穏やかな海面となっている。そのため古くより荒天時の避難場所・風待港として使われていた渡鹿野島を訪れました。

9:00車で第二京阪京滋新名神伊勢自動車道経由して
12:10賢島港到達
12:40賢島港出発、高速艇で間崎島に向かう。
12:50間崎島到達、散策する。

英虞湾の中央部に浮かぶ島で、賢島から定期船で15分である。周囲は7.4km、島民の多くが真珠養殖業を営んでいる。この島は普通の離島と違った雰囲気を持っている。近隣の離島は、概して貧しく、港の付近に小さな家が密集しているが、ここではどこもゆったりしていて、奥深くまで大きな家が建っている。これが真珠の恵みを受けた、豊かな島だったかららしい間崎島を訪れる。

13:15間崎島高速艇で出発
13:25賢島到達、渡鹿野島渡船乗り場に向かう。
14:05渡鹿野島渡船乗り場到達
14:30渡鹿野島渡船乗り場渡船で出発
14:37渡鹿野島到達、散策

古くは伊雑宮の神領であったとも言われ、江戸時代には、江戸と大坂を連絡する菱垣廻船・樽廻船が増えたこともあり避難・風待をする港としての重要性が高まった。船乗りなどのための宿のほか、風待ちの船乗りを相手とした、把針兼と言われた水上遊女なども集まり、遊郭街としても大いに栄え女護ヶ島といった別名を持つこととなった渡鹿野島を散策する。

15:05渡鹿野島渡船で出発
15:12渡鹿野島渡船乗り場到達、車で岐路に向かう。

今回の名所めぐり、三重県伊勢志摩の離島、島民の多くが真珠養殖業を営んでいる間崎島、江戸時代には、江戸と大坂を連絡する菱垣廻船・樽廻船が避難・風待をする港としての重要性が高まり船乗りなどのための宿のほか、風待ちの船乗りを相手とした、把針兼と言われた水上遊女なども集まり、遊郭街としても大いに栄え女護ヶ島といった別名を持つこととなった渡鹿野島を訪れました。