飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百二十一弾:福岡県小倉沖玄界灘離島巡り
2013年1月19ー20日
 

九州福岡県の九州の玄関口として重要な拠点とされてきた町、江戸時代には豊前小倉藩を細川氏と小笠原氏が始め、多いに栄えた小倉に足を運び、小倉から北10−20km沖にある藍島と馬島を訪れました。

19日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
15:56小倉駅到達、駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
20日9:00小倉港渡船で出発藍島に向かう。
9:35藍島到達、散策。

世帯数約100、人口約300人の小さな島です。民宿も数軒あるようです。江戸時代には密貿易船を見張る、見張番所が置かれていて、密貿易船を見つけると大きな旗を掲げて小倉の番所に知らせたという石の旗柱台が残っています。この藍島は全体がフラットであり、高い山はなく道もアップ・ダウンが少なく歩き易いですね。島南端と北端の景色は良く、南端には砂浜も少しばかりあり海水浴やキャンプに適しているが、公共の水道設備等はなく、水は自前で用意する必要があります。

連絡船が着く港から島の最北端までは、寄り道をしなければ、だいたい歩いて30分程度で行けます。途中で遠見番所旗柱台などに寄り道をして、ぶらぶら行けば1時間くらいですね。道はフラットなので歩き易いです。藍島で人家が多いのは大泊地区、そして本村地区、そして寄瀬浦地区です。この3ヶ所に集落があります。島の北部に行く道沿いにも、ちらほら数軒あります。島北部に行く道を行くとNTTの中継タワーがあります。そのNTTの中継タワーの手前から海が見えますが、そこから遠くに白州灯台が見えます。この灯台は砂でできている小さな島(白州)に、明治6年に建設され「日本の灯台50選」にも選ばれている灯台です。

史跡 藍島遠見番所旗柱台を少し先に行くと水道タンクが右に見えます。ここの島の水は遠賀川の水を送ってきているそうです。延々、全長26.4qの距離を陸と海底に水道管を敷設しているようです。その水道タンクの場所を過ぎてしばらく行くと道が2手に分かれています。左が寄瀬浦地区に行き、右は島北端の千畳敷に行きます。その分かれている道の左の道を約100mばかり行くと島北部の寄瀬浦地区があります、ここは漁港を囲むように家が7〜8軒あります。

藍島で一番風光明媚な場所は島の北端の千畳敷の場所です。潮が引くと広い平らな岩が現れます。まさに千畳敷ですね。正面には貝島が見えます。この島は潮が引いた時に歩いて渡れます。渡れるといっても、大潮でなければ少し水が残るので、ひざ小僧くらいまで水に浸かって歩いて渡ることになります。この貝島には6世紀前半から後半にかけて造られた古墳群が14基あるそうです。6世紀と言えば西暦500年代ですから約1500年前から、藍島には人が住んでいたんですね。釣り針や鉄製の漁撈具が多く出土していることから、海人族の墳墓と推定されているようです。

14:30藍島渡船で出発、馬島に向かう。
14:40馬島到達、散策。

馬島は福岡県内の有人島では面積も一番小さな島で人口も一番少なく、民宿等の宿泊施設や店も無いです。あるのは港のそばに飲料水の自動販売機があるだけです。島全体はフラットで山らしいものはなく、あるのはこんもりした丘程度です。島の大きさは周囲約2キロ程度です。馬島港の沖合いに和合良島という小さな無人島があります。また、馬島の西側には片島がありこの近辺の風景もなかなか良い。島の北部には海蝕された海岸岩が続き磯遊びに良いところです。そこからは、目と鼻の先に隣の六連島(山口県)が見えます。

馬島の集落の北部の高台に大山祇神社があります。その入口の鳥居の左になにか、祀ってありましたが、ここの名前は分かりません。この大山祇(おおやまづみ)神社の拝殿の左には、狛犬の代わりに砲弾がありました。この砲弾は、先の大戦のときに空から降って島に落ちたらしいです。島には川が無いので水田はありませんが畑はけっこうあります。その畑は、ほとんどネギ(わけぎ)が植えてありました。家庭で消費するには多すぎるので、出荷しているのだと思います。ネギは水が無くても育つのでしょうかね?
また、診療所の裏に墓地があります。墓地には花が添えてあり綺麗に掃除もされています。この墓地の墓を良く見ると寛政、大化、文政などの古い年号も見えます。ちょっと調べてみると寛政は1789〜1801年となっています。今のように連絡船の無かった時代から自給自足の生活をしてきたのでしょうね。「水はどうしたのかな?」 とか、そうとう苦労してきたであろうことが想像できます。

渡船場からほぼ真っすぐ北に行くと島の北部の海岸に行きます。まあ、小さな島ですから距離としては400mくらいです。そこの海岸からは正面に山口県下関市の六連島が見えます。この島との間が福岡県と山口県の県境になっているわけですね。そこの海岸には少しですが砂浜もあります。マイビーチとして自分たちのみの海岸として遊ぶには良い場所です。そして、この海岸の岩はボコボコに穴が開いており、たぶん溶岩が固まるときに水蒸気が抜けた穴なのだと思います。なにかアールヌーボー風の建築で有名なスペインのガウディ作品にも似た感じがします。崖も海岸の岩も、その溶岩でできた岩が侵食されて、不思議な模様をしています。よくよく見ると貝殻らしい物の化石もありました。いや、ゾウリムシのような虫らしき物も含まれていましたね。

16:43馬島渡船で出発、小倉に向かう。
17:05小倉港到達。
18:17小倉駅新幹線のぞみで出発
20:35新大阪駅到達。

今回の旅行、九州福岡県小倉沖玄界灘に浮かぶ2つの島(藍島、馬島)訪れ、ほぼ全域を歩いて巡りました。
大都市小倉沖の島でもあり、釣り人が多く、藍島は結構民家も住民も多く、活気に満ちておりました。また猫の多いのに驚き、一般的に魚等餌に不自由しない猫が多い離島、他の離島よりはるかに猫が多かったですね。20−30匹が重なり合って遊んでいましたね。のどかさを感じました。

マイナーな史跡がいくつか見かけましたが、やはり離島、素朴で長閑な離島めぐりでした。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百二十弾:九州圏城・城下町巡り
2013年1月12ー14日
 

九州に足を運び九州圏の16か所の城・城下町(小倉城、中津城、杵築城、府内城、臼杵城、岡城、飫肥城、鹿児島城、人吉城、熊本城、柳川城、佐賀城、吉野ケ里、秋月城、大野城、福岡城)を巡りました。

12日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
15:56小倉到着、小倉城に歩いて向かう。

16:30 1602年(慶長7)細川忠興により築城されたが、戦乱により焼失した。現在の天守閣は1959年(昭和34)に復元されたもの。内部は、1500体の和紙人形を使った城下町のジオラマや、からくりシアターなどハイテクを駆使した資料館。隣に小倉城庭園がある小倉城散策。

17:30レンタカーで中津に向かう。
18:30中津駅前のホテル到着、繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
13日7:00レンタカーで中津城に向かう。

1588年、黒田官兵衛孝高(如水)が、山国川河口の地に築城し、その後、細川家、小笠原家と続き、1717年から奥平家の居城となり、廃藩置県まで統治した。奥平家は産業振興、蘭学振興等を行い、前野良沢や福沢諭吉等を輩出する土壌となった。現在の城は、昭和39年に奥平家が中心となって中津市民の協力のもと、再建したもので、五層の天守閣と二層の櫓からなっている。内部は歴史資料館となっており、徳川家康拝領の白鳥鞘の鑓や歴代当主の甲冑や古文書等数多くの奥平家所蔵の品々を展示している中津城(奥平家歴史資料館)を訪れる。

杵築に向かう。

市街の東端、守江湾に臨んで立つ。1394年(応永元年)、木付氏4代頼直が築城、江戸時代は松平氏が城主となった。3層の天守閣は1970年(昭和45)に復元されたものだが、本丸跡、二の丸跡などは往時のまま。城内には鎧兜などが展示されている杵築城を訪れる。

大分に向かう。

1597年(慶長2)、石田三成の妹婿である福原直高が築いた荷揚城が始まり。その後、竹中重利が未完成だった城内に4層の天守閣や楼閣などを建築し、名を府内城と改めた。現在は城址公園になっており、戦後復興された櫓や城門、城内には大分文化会館や復元された廊下橋がある。桜の名所としても有名な府内城跡を訪れる。

竹田に向かう。

185(文治元)、緒方三郎惟宋が源義経を迎えるために築城した。四方を断崖絶壁の深い谷に囲まれた難攻不落の城として知られ、1586年(天正14)には4万人近い島津軍を1000人で守ったといわれる。名曲『荒城の月』のモデルとなった城でもある岡城阯を訪れる。

日南に向かう。

かつて伊東氏五万一千石の城下町として栄え、九州の小京都ともよばれる飫肥。碁盤の目状に整備された町中に、古い石垣や武家屋敷が見られる。観光の中心となるのは、伊東氏14代の居城・飫肥城。当時は、松尾の丸、中の城、本丸など9つの城を配した平山城だった。難攻不落の城としても知られ、1484年(文明16)から始まった島津氏との城争奪戦は、日本史上最長の84年間にも及んだ。城跡には、石垣や大手門前の石段などが1693年(元禄6)の改築時のまま残っている。1978年(昭和53)には現在の大手門、1979年(昭和54)には松尾の丸が、樹齢100年以上の飫肥杉を使って復元された飫肥城跡を訪れる。

鹿児島に向かう。
19:00鹿児島市内のホテル到着後市街地を散策し食事を済ませて就寝。
14日7:00レンタカーで出発、

慶長7年(1602)に、島津家18代家久が築いた平城です。「人をもって城と成す」という精神に基づいてつくった天守閣のない質素な屋形でした。天然の要塞で、その地形から鶴丸城と呼ばれるようになりました鹿児島城(鶴丸城)を訪れる。

人吉に向かう。

1199年(正治元)改修後、相良氏700年の居住だった城跡。かつては繊月城と呼ばれた。現在は石垣を残すのみだが、石垣の上に長塀、角櫓、多聞櫓を復元。多聞櫓の中には天保時代の絵図(複製)等が展示されている。高台に立つ城跡からは、球磨川や人吉の町並みを一望。隣接して、地下遺構を保存・展示する人吉城歴史館もある。日本百名城の一つの人吉城跡を訪れる。

熊本に向かう。

日本三名城のひとつといわれ、国の特別史跡に指定されている。加藤清正が1601年(慶長6)から7年の歳月をかけて築城。城郭は広さ約98万平方m、周囲5.3kmにも及ぶ。1877年(明治10)の西南戦争の際、大部分を焼失したが、石垣や宇土櫓(重要文化財)をはじめとする各櫓が往時を伝える。今の3層6階の天守閣は1960年(昭和35)に再建され、加藤清正や細川氏らの歴代藩主や西南戦争に関する史料や遺品を展示している。周辺には、県立美術館・熊本博物館・県伝統工芸館などの文化施設がある熊本城を訪れる。

柳川に向かう。

福岡県柳川市本城町にあった城で、江戸時代には柳川藩の藩庁が置かれた。本丸は国の史跡に指定されている。城は、蒲池治久により築城されたもので、並郭式に本丸と下段の二の丸を並べ、三の丸の代わりに中堀を廻らす広大な内郭と市街地を総構えとする平城であった。掘割に包まれた天然の要害をなし、城内、市街には無数の堀が縦横に交わり、今も柳川の堀川として現存する。蒲池氏の城主時代に「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と大友氏陣中で歌われた戯歌にもあるように、攻略には3年かかるという難攻不落の城と謳われた柳川城を訪れる。

佐賀に向かう。

鍋島三十六万石の拠点だった佐賀城。周囲に幅70mもの濠を巡らし、5層の天守閣を誇る名城とされたが、明治初頭の佐賀の役でほとんどを焼失。今も残る鯱の門と続櫓は国指定の重要文化財だ。また本丸跡には
、幕末期の佐賀城本丸御殿の一部を忠実に再現した県立佐賀城本丸歴史館が立つ佐賀城を訪れる。

弥生時代最大規模の環壕集落跡を復元整備した公園。神埼市・吉野ケ里町にまたがり、多数の竪穴住居跡や高床倉庫跡、甕棺墓などが出土。集落の様子が、『魏志倭人伝』に記述された邪馬台国に似ているので話題になった。見学できるのは、北内郭・倉と市、北墳丘墓、出土品の展示室など。高さ10m以上の物見櫓、直径40〜50cmの柱を使った巨大な主祭殿など、その規模に驚かされる野ケ里歴史公園を訪れる。

秋月に向かう。

1624(寛永元)年に黒田長政の三男長興が秋月五万石を与えられて築城した。現在は秋月中学校の敷地となり、大手門として使われた黒門や石垣、長屋門が当時の栄華を物語る。県指定史跡の秋月城址を訪れる。

博多に向かう。

大宰府の北の守りとして築かれた大野城跡。665年(天智4)、朝鮮から渡来した技術者の指導で約8kmにわたる土塁や石垣で山や谷を囲み、その中に建物を造ったとされる。現在、倉庫跡と思われる約70棟分の礎石が点在している大野城跡を訪れる。

初代福岡藩主・黒田長政が1601年(慶長6)から7年がかりで築城した福岡城は、大中小の天守台と47の櫓を配した壮大な平山城だった。現在は多門櫓(重要文化財)と大手門、潮見櫓などが当時の面影をとどめている。周辺は舞鶴公園として整備。高台には展望台が設置され、福岡タワーや福岡ドームまで見渡せる福岡城を訪れる。

18:00博多駅到達。
18:30博多駅新幹線のぞみで出発
20:58新大阪駅到達。

今回の旅行、九州に足を運び、時計回りで九州圏の16か所の城・城下町(小倉城、中津城、杵築城、府内城、臼杵城、岡城、飫肥城、鹿児島城、人吉城、熊本城、柳川城、佐賀城、吉野ケ里、秋月城、大野城、福岡城)を巡りました。

残念ながら時間の都合で長崎県の城は巡れず、次回持ち越しとなりました。

広い九州、二泊三日のドライブ城めぐり観光楽しめました。

尚走行距離は1056kmでした。


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百十九弾:アルゼンチン&ブラジル&ドバイ観光
2012年12月29ー2013年1月6日
 

飛行機で30時間かかり、日本から最も遠い南米に足を運び、北は亜熱帯から南は寒帯まで、南北数千kmにわたり、南部はパタゴニアの大氷河、膨大な水に圧倒されるイグアスの滝、アンデス山脈のさまざまな景観を魅了するアルゼンチン、広大な面積とさまざまな地勢をもち、南米の大部分を占め想像を超えたスケールの大きな自然があり、大瀑布、大河、大湿原、大砂漠とが位置するブラジルを訪れました。

29日23:40関西国際空港エミレーツ航空で出発、ドバイに向かう。
30日5:45ドバイ到達
7:10エミレーツ航空でドバイ出発、アルゼンチンに向かう。
19:30エミレーツ航空リオデジャネイロ経由してアルジェンチンブエノスアイレスエセイサ国際空港到着、バスで市内のホテルに向かう。
21:05ホテル到達、ホテルで夕食を済ませて就寝。
31日9:30ホテルバスで出発、ブエノスアイレス市内観光。

都市圏人口1300万人を誇る、南米有数の大都市。スペイン様式や、フランス様式の建物が多く見られ、南米のパリとも呼ばれる美しい町並みが続きます。2005年には、ユネスコの世界デザイン都市に選定されましたブエノスアイレスを訪れる。

ブエノスアイレスは、48区にわけられ、魅力あふれる地区(バリオ)が多くあります。それぞれのバリオで、雰囲気や町並みに大きな違いがあります。モンセラート地区、サンニコラス地区からなるセントロ(中心街)。レティロ地区、レコレータ地区、パレルモ地区などからなる、北部の地域。サンテルモ、ボカ地区など、セントロから南方面の地域と分けられ、その他、再開発されているプエルト・マデロ地区も見どこ。

ブエノスアイレスでは、アルゼンチン発祥の音楽 タンゴ を鑑賞でき、毎年8月には、タンゴの世界選手権も行われます。そのほか、熱気あふれる アル ゼンチンサッカー をご覧いただ くことも可能。ボカ・ジュニオールスや、リバー・プレートなどのチームが有名です。また、アルゼンチンの美味しい肉料理や、ワインをお楽しみいただけるレストラン、歴史のある雰囲気の良いカフェ、レコレータやパレルモなどでセンスの良いお店をめぐるのも、ブエノスアイレスの過ごし方の一つ。モンセラート地区は、ブエノスアイレスの中心部にあります。5月広場の周りには、大統領府(カサ・ロサダ)、カビルド、カテドラル(大聖堂)の3つの重要な建物があります。そのほか、国会議事堂などの政府関係機関の建物も多くあります。その他にも、5月大通り沿いやなどを中心に、この地区を散策されれば歴史のある建物 や、古くからの教会など、昔からのブエノスアイレスの姿をご覧出来ます。サン・ニコラス地区は、ブエノスアイレスの中心部に位置します。オフィス、商店などが立ち並び、ブエノスアイレスの経済、商業の中心となっております。観光名所といたしましては、世界3大劇場のひとつ、コロン劇場をはじめ、セルバンテス劇場をはじめ多くの劇場があります。商店の並ぶフロリダ通り、映画館の並ぶラバジェ通り、劇場、本屋の並ぶコリエンテス通り や、レストランなどが多くならぶ、レコンキスタ通りなどの重要な通りがあります。ボカ地区は、ブエノスアイレスの南部にある、昔からある港湾地帯です。19世紀終わりごろには、大勢の移民たちでにぎわいました。そのとき生まれた音楽は、タンゴとして 多くの人々に親しまれています。サッカーチーム、ボカジュニオールスの本拠地でもあります。 見どころとしましては、カラフルな色の建物がならぶ、カミニート通りがあります。レコレータ地区には、ブエノスアイレス北部に位置する、高級住宅地で、高級マンションなどが立ち並び、センスの良いレストランや、お店なども多くございます。レコレータの中心にある、レコレータ墓地にはエビータの墓をはじめとして、アルゼンチンの歴代大統領のお墓もあります。そのほか、国立美術館や、ピラール教会などの見所があります。

ブエノスアイレスでも有数の高級住宅地にあるこの墓地には、アルゼンチン史上著名な権力者や大富豪一族が眠っている。上品に立ち並ぶ石造りの、まるでチャペルのようなお墓や彫刻の数々は、建築学また芸術的観点から見ても価値が高いといわれる。この墓地の一角に、「エビータ」の愛称で知られているエバ・ペロンは葬られており、現在でも彼女を慕う人々によって絶えることなく花が捧げられているレコレータ墓地を訪れる。

世界でもっとも音響効果の良い劇場の一つといわれ、ヨーロッパがシーズンオフとなる5〜11月には世界的に有名なオーケストラや音楽家が訪れ、公演を行う。また、コロン劇場自体も国立オーケストラや国立バレエ団、舞台装置や衣装を作る工房などを有しており、まさにブエノスアイレスの高い文化レベルの象徴的存在である。当初、五月広場の一角に位置していたが、1880年代の移民増加を機に、現在の建物が新設された。建設は約20年の歳月を経て1907年に完成。1908年5月25日、ヴェルディのオペラ『アイーダ』でこけら落としとなって以来、ルシアーノ・パバロッチ、マリア・カラスなど数々の有名オペラ歌手、有名オーケストラがその舞台を踏んでいる。正面玄関から入ると白大理石のモザイクがほどこされた床、紅大理石や黄大理石の荘厳な手すりや柱、色鮮やかな天井のステンドグラスと、玄関ホールの美しさに息をのむ。大ホールは、真紅の垂れ幕に縁取られた舞台を正面に、蹄型に7階建ての観客席が広がり、定員は2450名、立ち見を合わせると約3000名を収容できるようになっている。天井ドームにはラウル・ソルディによって描かれた歌い手や役者、踊り子、楽器を表現した壁画があり、その中央には直径7mになる巨大なシャンデリアが輝くコロン劇場 を訪れる。

アルベアール通り周辺には、昔からの屋敷や、格式の高いホテルやレストランなどが多く位置します。まるきっかけとなった「五月革命」(1810年5月25日)に由来する。大統領府、カビルド、大聖堂などの史的重要建築物に囲まれ、しばしば抗議デモの中心部ともなる。大統領府正面にある、旗を持ち馬にまたがった勇士の像は、10ペソ札の肖像でも親しまれているマヌエル・ベルグラーノ将軍で、アルゼンチンの国旗は彼によって創られた。広場中央には「五月のピラミッド」と呼ばれる、五月革命1周年を記念して1811年に建てられた白い塔があり、バラ色の大統領府に重なって涼しげなコントラストを生んでいる。広場の西側からは五月通りが大統領府と国会議事堂間を結んでおり、同広場から通りを進んでいくと、まっすぐ続く道の向こうに悠々たる国会議事堂が見えてくる五月広場を訪れる。

1862年から現在まで歴代大統領の行政の場として役割を果たしてきた。建物がバラ色に塗られた理由は、サルミエント大統領が、国のまとまりの象徴として、当時の2大政党、連邦主義派と中央集権主義派のイメージカラー(それぞれ赤と白)を合わせたバラ色を選んだことによるという。しかし当時は非常に塗料の種類が少なかった時代。苦心の末、石灰と牛の獣脂、血を混ぜて紅茶色ともつかぬバラ色を作り出した。その後塗りかえられて現在の色はオリジナルではないが、青いブエノスアイレスの空に映えて立つバラ色の大統領府は独特の華やかさを湛えている大統領府 別名「カサ・ロサーダ(バラ色の家の意)」を訪れる。

市内で最も歴史ある建物の一つ。コロニアル調のシルエットが美しい建物である。ブエノスアイレスが市として機能するようになった1580年代から1800年代まで市議会として、数々の重要決定がここでなされた。1810年5月25日、五月革命の舞台となったのも、ここである。もとは左右それぞれに五つのアーチを持ち、五月広場の一画全てを占めるほど大きな建物だったが、1880年代、五月通りをつくる際に一部が取り壊され、その後も縮小されて現在の大きさになった。現在は博物館として植民地時代の家具、調度品等が展示されているカビルドを訪れる。

1593年に原型となる聖堂が造られ、幾度にも渡る立て直しの末、現在の建物が1827年に完成された。同大聖堂には、アルゼンチンを独立へと導いたサン・マルティン将軍の眠る霊廟が安置されており、多くの観光客がそれをひと目見るため訪れる。大聖堂入り口に毅然と並ぶ12本の円柱はイエス・キリストの12使徒を表現し、その上壁にほどこされた彫刻は、エジプトの総督となったヨセフとその父ヤコブの対面という旧約聖書の一場面を表している。また、入り口向かって右側の壁に掲げられている「永遠の炎」はサン・マルティン将軍を記念して燃え続けているものである。中に入ると、ひんやりと静寂な空気が身を包み、広い会堂が天窓から差しこむ淡い光の中おごそかに浮かび上がる。主祭壇からは黄金色に輝く荘厳な「我らの聖母ブエノスアイレス」が祈りに来る人たちを優しく見下ろしている大聖堂 を訪れる。

国会議事堂前に広がる大広場。国会議事堂の正面にあるモニュメントは、「二つの国会の記念碑」と呼ばれ、奴隷制を廃止した1813年の憲法制定議会と、スペインからの独立を宣言した1816年のトゥクマン国会の2つを記念したもの。また広場の反対側には、世界に6つしかないと言われるロダンの彫刻「考える人」のレプリカがある。この「考える人」のそばにある一本石の碑は、"ゼロキロメートル地点"を示しており、ブエノスアイレスから始まる国道はこの地点から距離を数え始める国会議事堂広場の前を通過する 。

アルゼンチンの立法最高機関。8年もの年月を経て建築され、1906年にフィゲロア・アルコルタ大統領によって落成された。そのグレコ・ローマン様式は民主主義の恒久価値を表し、建物中央上部の銅像は国家権力を象徴する。ドームの緑色は建築当初の予定にはなかったが、青銅製であるため時が経つにつれて現在の色になっていったという。内部は、大理石や銅の彫刻、赤い絨毯、絹のカーテンに彩られた絢爛な造りになっており、南に上院、北に下院がある。中でも素晴らしいのが、ドームのちょうど真下に位置する中央ホール「青の広間」と、「足跡の間」。青の広間にある重さ2トンのシャンデリアはガラスと銅でできており、アルゼンチンの各州を表現している。また、同建物内には図書館もあり、一般の人も利用可能となっている。この図書館は約2百万冊もの書物を有し、アルゼンチンで最も在庫図書数のおおい図書館の一つである国会議事堂の前を通過する。

大統領府と国会議事堂を結ぶ五月通りと交差して市の中心を走る大通り。南北4km、最大幅約140m、16車線の規模を誇る。アルゼンチン人曰く、世界で一番幅の広い道路であり、1回の青信号で渡り切るのは難しい。その名はアルゼンチンが独立を果たした1816年7月9日に由来する。同通りができる以前、この一帯にはフランス様式の家々が立ち並んでいたが、1936年、この通りを作るためそれらは全て取り壊された。唯一フランス大使館のみが取り壊しを免れ、通りがリベルタドール通りに合流する部分に今でも美しくそびえ立っている7月9日通り を通過する。

7月9日通りとコリエンテス通りの交わる部分に位置。1936年にブエノスアイレス創設400周年を記念して建てられた、ブエノスアイレスの視覚的シンボルである。高さ68m、底辺7mX7m。オベリスクが立つ広場は共和国広場といい、しばしば市民の集会の場となるオベリスクの前を通過する。

ブエノスアイレスでもっとも歴史ある地区の一つ。石畳の通りや古めかしい家々が一昔前のブエノスアイレスの人々の生活を彷彿させる。 同地区は18世紀当時、市場のあった五月広場からリアチュエロ川沿いの倉庫へと向かう商人たちの休憩の場として栄えた。その後、19世紀初めには裕福な人々が家を並べるようになり、高級住宅区となった。しかし、1870年代、黄熱病の大流行があり、多くの住民はブエノスアイレスの北の地域へ逃げ移った。現在は、サン・テルモ地区が高級住宅区であった時代の調度品や家具をおく骨董屋が軒を並べ、毎週日曜日にはドレーゴ広場を中心に骨董品や古美術品の露天市が華やかに行われる。また有名なタンゴ・ショーの店が多いことでも知られているサン・テルモ地区のスーパーマーケットを訪れる。

一説にてタンゴ発祥の地といわれるこの地区は、市中心部から南に位置する旧港町である。一角には、タンゴ不朽の名作「カミニート(Caminito−小路の意)」に関連づけて画家キンケラ・マルティンが創作したという、カラフルな家々にはさまれた100mほどの小路があり、観光名所となっている。キンケラ・マルティンはボカ地区に育ち、ボカ港や労働者の生活の様子を描き続けた。力強い筆致、鮮やかで大胆な色遣いが非常に特徴的な画家である。このキンケラ・マルティンの影響もあり、毎週週末になると、小路「カミニート」周辺には蚤の市がたち、地域の画家たちがそれぞれの作品を売りに出す。キンケラ・マルティン美術館で様々な絵画を見ることが出来る。また同地区には、ブエノスアイレスで圧倒的な人気を誇るサッカーチームの一つ、ボカ・ジュニアーズのホームグランドがあり、その競技場はこぢんまりとした規模から愛称「ボンボネラ(ボンボンの小箱の意)」と呼ばれる。1986年のサッカー・ワールドカップでアルゼンチンを優勝に導いたディエゴ・マラドーナも同チームの出身であるボカ地区を訪れる。

昼食はアルゼンチン名物のアサードを召し上がる。

14:30ブエノスアイレスエセイサ国際空港空港到達
16:45ブエノスアイレスエセイサ国際空港空港出発
18:30イグアス空港到達、
20:30バスでホテルに向かう。
21:00プエルトイグアスのホテル到達
22:00ホテルで食事
23:30就寝
1日8:30ホテルバスで出発

アルゼンチン・ブラジル・パラグアイの3国国境地帯モニュメントを訪れる。

9:30イグアス国立公園入り口到達

イグアスの滝はアルゼンチンとブラジル、パラグアイの国境に接する世界有数の大瀑布。イグアスとは先住民グアラニー族の言葉で「大いなる水」という意味。滝の数は大小合わせて300以上あり、世界遺産に登録されている。おすすめは最大落差80m以上もある瀑布「悪魔の喉笛」。ボートで滝壷に近寄るツアーもある。イグアス国立公園にはジャガーやアメリカバクを始め、様々な鳥類や蝶が多数生息している。
ものすごい水量が落ち込んでいく、滝の迫力はもちろん、ジャングルの緑との素晴らしい調和の風景を作り上げております。イグアス の滝周辺は、アルゼンチン側、ブラジル側ともに、国立公園に設定されており、滝とともに、周囲の自然環境が守られております。1984年には、 アルゼンチン、両側の国立公園が、ユネスコの世界自然遺産に登録されました。イグアスの滝観光には、通常、アルゼンチン側で1日、ブラジル側で半日かかります。アルゼンチン側では、イグアスの滝を、すぐ近くから観察でき、非常に迫力があります。また、遊歩道も多く、観光に時間がかかります。ブラジル側では、イグアスの滝の全景を眺めることが出来ます。。イグアスの滝へは、アルゼンチンのプエルト・イグアスの町、もしくは、ブラジルのフォズ・ド・イグアス市を基点として行うのが一般的です。

カタラタス駅でトロッコ列車に乗車して悪魔の喉笛に向かう。

悪魔の喉笛駅トロッコ列車下車し、遊歩道で悪魔の喉笛を訪れる。

最大落差80m以上もある瀑布「悪魔の喉笛」を展望台から望む。

トロッコ列車で戻り、カタラタス駅下車、滝の上の遊歩道を散策する。展望台からイグアスの滝とサン・マルティン島を望む。

13:30昼食。

14:30滝の上の遊歩道を散策し、スピード・ボート乗り場に到達。

スピード・ボートに乗船して、イグアスの複数の滝を望め、又滝壺にボートが飛び込む体験をする。

15:00オープントップの4WD車(グラン・アベントゥラ)に乗車してジャングル内8kmを走行して国立公園入り口に向かう。
15:30国立公園入り口到達
16:00立公園入り口をバスで出発
17:00ホテル到達
19:00夕食、就寝。

2日9:30プエルトイグアスのホテルをバスで滝遊覧飛行のヘリポートに向かう。

10:30ヘリコプターでイグアスの滝遊覧飛行し、イグアス滝の全景を上空から望む。

11:00バスでイグアス滝に向かう。

11:30遊歩道を散策していくつかの展望台からイグアス滝をブラジル側から望む。

12:30レストランで昼食

13:00バスでフォス・ド・イグアス国際空港に向かう。

15:15フォス・ド・イグアス国際空港出発

17:13リオデジャネイロ空港到達、バスでホテルに向かう。
ホテル到着後ホテル内で夕食、就寝。
3日8:30バスで出発、オデジャネイロ市内観光。

リオ・デ・ジャネイロは、世界的に有名なリオのカーニバル 。リオのカーニバルはサンバの大きなパレードで、サンボドロモというサンバパレードのための会場で行われます。リオ・デ・ジャネイロの名前の由来ですが、ポルトガル語で 【 RIO 】リオ ( 川 )、【 DE 】デ ( 〜の )、【 JANEIRO 】ジャネイロ ( 一月 )となり、 リオ・デ・ジャネイロは《 1月の川 》という意味になります。
この名前の由来はポルトガル人のGASPAR DE LEMOSが1502年の1月にリオ・デ・ジャネイロの広大な湾に入ったときに、そこを川と間違ったことに発します。 フランスも1555年にリオのGUANABARA湾にANTARCTIC FRANCEという移住地を作りますが、1560年にはポルトガルによって撃退されます。 リオ・デ・ジャネイロはそれから黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションによって大きな港町に発展していきます。 18世紀にはミナス・ジェライス州のゴールドラッシュによって益々発展していきます。 1763年には人口は5万人を超えて、サルバドールからリオ・デ・ジャネイロに首都が移転されます。 19世紀までに、コーヒーブームなどの影響でヨーロッパからの移民が増えて、人口は80万人まで膨れ上がります。 現在のリオの人口は600万、700万といわれています。 1920年代から1950年代にリオは黄金時代を迎えます。1960年にブラジリアに首都が移ってからも、リオは文化と観光の中心地となっています。 観光面ではリオのカーニバルだけでなく、 GUANABARA湾は世界三大美港のひとつといわれ、 30メートルのキリスト像が立つ、標高710メートルの コルコバードの丘からの眺めは絶景です。 また、突起状に突き出したポン・ジ・アスーカルの光景も一見の価値があるでしょう。 美しい砂浜とブラジル女性の美尻で有名な コパカバーナビーチもリオで忘れてはならない観光地です。 高級ホテルが立ち並んだコパカバーナですが、現在は庶民化が進み、イパネマビーチのほうが人気があるようです。

標高710メートルの位置に、台座が8メートル、像の大きさだけで30メートルという巨大なキリスト像が頂上に立っています。 世界的に有名な観光地なので誰もが一度はテレビや本で見たことがあるかもしれません。 このコルコバードの丘に登るとリオ・デ・ジャネイロの町を全て見ることができます。 非常にすばらしい景観なコルコバードの丘を訪れるが残念ながら雨で視界悪くリオ・デ・ジャネイロの町を全て見ることができませんでした。

リオ・デ・ジャネイロのコルコバードの丘につぐ観光地です。コルコバードの丘は夜7時までと早い時間に終わってしまいますが、ここは夜10時までなので、リオの夜景を充分に楽しむことができます。リオの夜景はすばらしいので、恋人と一緒にいってロマンティックな気分を楽しむというのがよいかもしれません。しかし、注意しなくてはならないのは天候です。 カーニバルの時期は雨期なので、登ったまではよかったが雲のような霧に隠れて何も見えなかったというのでは涙がでてしまいます。 ポン・ジ・アスーカルへの観光は雨期は天候と相談となります。 内容としては、ゴンドラは2段階になっており、まずプライア・ベルメーリャ駅から、575メートルの距離を海抜220メートルのウルカの丘までの登ります。 その次にゴンドラを乗り換えて、海抜396メートルの突起部の頂上まで登ります。ポン・ジ・アスーカルを訪れるが 雨で視界悪く残念でした。

12:30昼食

リオ・デジャネイロは1763年から、1960年にブラジリアに首都が移るまで、ブラジルの首都でした。ということで、セントロ ( カリオカ駅を中心に )にチラデンチス宮殿などの見所があります。 セントロで、面白い建物、それはCATEDRAL ( 大聖堂 )です。円錐形の先端部を切り取った建物でとても、教会には見えません。 ピラミッドのような形から、大きな劇場のようで外側はまるでビルのようなかんじですが、中側は紫色のステンドグラスの輝き、綺麗なメトロポリタン大聖堂を訪れる。

コパカバーナと同様に多くのものを提供していますがどちらかというと観光地としてではなくファミリーや同性愛者など地元の人々が多く訪れます。ここではサッカーもよく行われ、ビーチ全体にわたって飲料や軽食を出しているスタンドが賑やかな板道の後ろに並んでいますイパネマビーチを訪れる。

高級ホテルが立ち並び、昔はかなり美しい海岸として人気があったようです。現在はかなり庶民化しています。 家族連れなどもいるということです。 現在は主流はイパネマ海岸のほうだといいますが、まだまだ旅行者には人気のあるコパカバーナビーチを訪れる。

収容人数11万5000人を誇る巨大サッカースタジアム、1950年、リオで開催された第4回ワールドカップのために造られたマラカナン・スタジアムを訪れる。

リオ・デ・ジャネイロは、世界的に有名なリオのカーニバル 。リオのカーニバルはサンバの大きなパレードで、サンボドロモというサンバパレードのための会場で行われます。その会場を訪れる。

19:00夕食
20:00ホテルのロビーでゆっりして
21:00リオデジャネイロ空港に向かう。
4日3:10リオデジャネイロ空港出発、ドバイに向かう。
22:50ドバイ到着、バスでホテルに向かう。
ホテル到着後就寝。
5日12:00ホテル出発
12:30昼食
14:00ドバイ観光

観光情報ビーチと砂漠の町ドバイ。ビーチ沿いには7ツ星ともいわれる豪華リゾートが軒を連ね、小さな町の中だけでも5ツ星ホテルが30件以上も存在する。ビーチリゾートから1時間も車を走らせれば、そこは砂漠の世界。ラクダの背に揺られながら砂漠をトレッキングしたり、サンドボードで砂漠をスノーボードのように滑ったり、4WDで砂漠の中を駆け抜けるデザートサファリを楽しんだりと、遊び方はさまざま。敬虔なイスラムの国のため黒いマントに身を包む女性たちや、東西貿易の中継地点として栄えた背景から各国の色が混ざっているアラブ料理、地元の人々が集まるスーク(市場)など、アラブの雰囲気を味わえるのもドバイの魅力のひとつ。2000年前半から始まったドバイの大型プロジェクト、建設ラッシュ、インフラ整備……。その中でも日本人の確かな技術を中東世界にも認知させたのが、全長75kmのドバイメトロプロジェクト。三菱重工、三菱商事、大林組、鹿島建設など日本の企業4社とトルコの企業1社が作り上げたドバイ初の鉄道です。2005年夏に着工し2009年9月9日にドバイ首長のモハメッド殿下を乗せ初運行、あっと言う間にこれまでタクシー社会だったドバイの交通インフラを180度改善するきっかけを作りました。ドバイメトロの各駅は、地球・水・火・空気と4つのテーマを持ちデザインされています。地球をイメージした駅は、こげ茶色にコーディネートされ、水は青と白、火はオレンジと赤、空気は緑となっています。日本の駅と違って、テーマパークに来たのかしらと思わせるワクワクするデザインは観光要素としても一見の価値アリ! それぞれの駅に到着したら、「この駅のテーマは●●だな!」と楽しめるドバイメトロを利用して移動。

バスでオールドドバイに向かう。

真の旅情緒が味わえる魅力的な場所であり、特別で貴重な経験となるでしょう。マクトゥーム橋北側のクリークの河岸沿いに美しく伸びる、歴史情緒あふれる波止場では、キーキーと音を立てる無数のダウ船が昔からの方法で係留され、あらゆる地域からの多種多様な積荷の積み下ろしが行われています。河岸では雑然とした中に秩序を保ちながら、ありとあらゆる商品や食料品を載せたパレットが次々と運ばれ、すべてがドバイを中継として最終目的地に向けて入荷または出荷されていきます。色、活動、個性が爆発するダウ波止場地区は、ドバイの初期の時代から損なわれずに残る暮らしの原点のドバイのダウ波止場を訪れる。

最初は何の秩序もなさそうな印象を受けますが、この波止場でのゆっくりとした満ち引きのような活動は昔ながらの慣習から生まれたものです。親切な船員が船上での美味しいお茶やダウ船でのツアーに招待してくれるので、徒歩で訪れることをお勧めします。よい写真を撮るチャンスはダウ波止場地区でも沢山ありますが、伝統的なアブラ船やクリークのフェリーに乗ってみると、さらにすばらしい写真を撮ることができるアラブ船乗船を体験する。

特にドバイ・ゴールド・スークと昔ながらの多様な電化製品、魚、食肉、野菜、香水、スパイスなどのスークは必見です。これらすべてのスークは、活気にあふれたドバイのデイラ地区に集まっています。以前と比べると迷路のような雰囲気は薄れましたが、歴史的に有名な市場であるスークでは親切な取引や好意的な交渉が今でも行われています界的に有名なドバイのスークを訪れる。

感覚に対する真の攻撃です。この世で思い浮かべることができるありとあらゆるスパイスの袋がはじけて狭い通りにこぼれ落ちていますスパイス・スークを訪れる。

ドバイと金を切り離すことはできません。実際、多くの人々がこのスークのためにドバイを訪れます。どの店のウィンドウにも目を見張るようなディスプレーが飾られていますゴールド・スークを訪れる。

メトロ、バスでニュードバイに向かう。

2008年11月にオープンした、世界最大級! 東京ドームが23個入ってしまうほどの広さ111.5万平方メートルの敷地内(屋内面積55万平方メートル)にデパート、ショップ、レストラン、カフェ、スパ、エンターテイメント施設など約1,200店舗が出店しています。オープン当初は工事の遅延やテナントとの契約の関係で開店していなかったお店も続々とオープンし、2012年現在では空港以外の施設で、ドバイ一の集客率を誇るほど。平日でも地元の人間や観光客で大賑わい。駐車場も14,000台が収容できるほどのドバイモールを訪れる。

近代史上で人々の興味と好奇心をかき立てる建築物は、いまだかつてありませんでした。ブルジュ・ハリファの「アット・ザ・トップ」に足を運べば、そのわけも納得です。世界一の超高層ビルの124階にある展望台から、この驚異的な現代建築技術の粋がじかに体感できます。この圧倒的な高さから世界を見渡す快感をご自身の目でぜひ実感できる。「アット・ザ・トップ」訪問は、ドバイ・モールの1階にあるレセプション・エリアから始まります。展望台に上る間、ドバイの魅力的な歴史や、ブルジュ・ハリファの建築にまつわる興味深い物語を紹介する、マルチメディア技術を駆使したプレゼンテーションが紹介されます。この驚愕的なテクノロジーを駆使した建築物とともに、ドバイの街を発展させてきた人々の卓越した洞察力に深い英知を感じるブルジュ・ハリファを訪れる。

世界最大のアクリルパネルの水槽でギネス世界記録を達成した、巨大な水族館です。ドバイショッピングモール内にあるのですか幅32.88メートル、高さ8.3メートル、厚さ75センチ、重量約245トン。これまでのギネス世界記録である日本の沖縄美ら海水族館の幅22.5メートル、高さ8.2メートル、厚さ60センチを大きく上回ったらしい。3万3000種以上のお魚たちがいますドバイ水族館を見学。

長275メートル(ラスベガスの噴水より25%大きい)、最高で150メートルの高さまで上がる水柱が、音楽に合わせ華麗に形を変化させる。オペラやアラブのヒットソングなどそれぞれ5分程度、7種類のレパートリーがあり、夜6時から10時(または11時)まで20〜30分毎に行われる。ドバイ・モール、Souk Al Bahar、The Palace-Old Town、The Address Downtown Burj Dubai、Burj Dubaiから鑑賞することができるラスベガスで有名なベラッジオホテルの噴水ショーを手がけたカリフォルニアの会社「WET」による噴水ショー。Burj Dubai(高さ800メートル以上の超高層ビル)の麓にある池「Burj Dubai Lake」にて毎日夜に開催される迫力満点なこのショーは、ドバイに来たら必見のバイ・ファウンテン(噴水ショー)を見学。

21:20バイショッピングモール内での夕食後メトロ、バスでホテルに戻り荷物を確保してからバスでドバイ国際空港に向かう。
21:40ドバイ国際空港到着
6日3:00ドバイ国際空港エミレーツ航空で出発
16:50関西国際空港到達

今回の旅行、ペルーに続いて2回目の訪れである南米に足を運び、日本からは最も遠い、飛行機で30時間かかるアルゼンチン、ブラジルを訪れ9日間の観光旅行楽しめました。

アルゼンチンの首都、ブエノスアイレスに点在する歴史的建造物の訪れ、アルゼンチンとブラジルの境に位置する世界三大瀑布の一つイグアスの滝を2日間に掛けてアルゼンチン側からの遊歩道散策でのイグアスの滝の眺望、ブラジル側からの遊歩道散策でのイグアスの滝の眺望、ヘリコプター遊覧飛行でのイグアスの滝の上空からの眺望圧巻で堪能いたしました。

ブラジルの歴史的意義の深い都市リオデジャネイロの訪問は、生憎天候が悪く、コルコバードの丘とポン・ジ・アスーカルの山頂からの町並みの眺望は視界が悪く確認できず残念でした。

ドバイ観光はドバイは2回目の訪れですが、前回は6時間しか滞在できず、十分な観光はできませんでしたが、今回は1泊してゆっくりオールドドバイとニュードバイの観光名所を納得のできる観光となりました。

南米アルゼンチン首都ブエノスアイレス、イグアスの滝、ブラジルの歴史的意義のある都市、リオデジャネイロ、急速に進化している未来都市ドバイ、9日間の観光旅行満喫しました。