飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十五弾:長崎県玄界灘沖離島青島&黒島観光
2013年11月30-12月1日
  

九州の最西端長崎県に足を運び、玄界灘に浮かぶ離島、鎌倉時代中期に起きた元寇襲来での激戦地となったところで、今では当時の喧騒を思い起こすことが困難なほど静かで長閑な風景が広がっています青島ともともとは石の採掘加工などが営まれていて、墓石では黒島石として名が知られている黒島を訪れました。

30日14:20伊丹空港出発
15:40長崎空港到達、レンタカーで松浦方面に向かう。
18:00松浦市内のホテル到着後、周囲を散策して食事を済ませて就寝。
1日7:00レンタカーで出発
7:15御厨港到達
7:50御厨港フェリーで出発
8:10青島港到達散策

長崎県の青島は松浦市の御厨港から定期船で約20分、北松浦半島の先端から北東へ1.3kmの位置に浮かぶ有人島です。3kmほど東にある鷹島やその南にある飛島、そしてこの青島は鎌倉時代中期に起きた元寇襲来での激戦地となったところです。今では当時の喧騒を思い起こすことが困難なほど静かで長閑な風景が広がっています。昔は満潮になると低い部分は海に沈み、3つの島に分かれていたといいます。北から「崎の島」、「中の島」、「南島」と呼ばれ、島民と河童の河太郎一族が力を合わせて一つの島にしたという民話(長者と河太郎)が残されていたり、江戸時代の干拓事業で人柱の代わりに犬柱を立てたことで犬を尊び飼わなくなったという話があり、実際に河童の手助けはなかったとは思いますが、その後の島の発展に繋がる島民総出の干拓事業があったようです。東側の入り江に小型漁船が並ぶ港とそれを囲む集落があります。階段を登ったところに古さを感じる七郎神社、南側の高台に大きな子安観音像があります。青島子安観音は子供の成長と安全を願って建てられたもので、高さが15mある大きな観音様として知られ、島のシンボルになっています。集落の反対側には緩やかに弧をなす宝の浜海岸があります。300m続く白い砂浜とコバルトブルーの海、夕陽に染まる美しい浜辺は青島の自慢です。東海岸沖約2kmにある小島は魚固島という珍しい名前の無人島で南端には灯台があります。青島の南に砂州で繋がる松島とともに冒険心をくすぐる風景です。

10:22青島港フェリーで出発
11:02黒島港到達散策

松浦市御厨港→青島港(30分)→鷹島・船唐津(ふなとうず)港(15分)→黒島(30分)鷹島の船唐津から30分。一番高いところで73mと平坦な感じだが、海岸線は50m程の断崖が続いている。黒島には病院も学校も無い。小学校の分校はあるようだが、休校中のようです。もともとは石の採掘加工などが営まれていて、墓石では黒島石として名が知られているようです。現在では細々とういう状態のようです。他は農業と漁業、出稼ぎに出てる人も多い。空き家がそこそこあるようで、希望があれば安く貸してくれそうです。

12:25黒島港フェリーで出発
13:25御厨港到達、レンタカーで長崎空港に向かう。途中西彼杵半島をドライブする。
17:20長崎空港到達。
18:55長崎空港出発
20:05伊丹空港到達。

今回の旅行、九州最西端長崎県に足を運び、日本海沿いの玄界灘に浮かぶ離島、青山&黒島を訪れ散策し癒されました。
やはり他のほとんどの離島に共通する、素朴で住民も少なく長閑な島々でした。




 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十四弾:四国八十八か所巡り第二弾(第37番札所ー第60番札所)
2013年11月22-24日
 

四国八十八か所巡り第二弾、1200年昔、弘法大師が42歳のときに人々に災難を除くために開いた88の霊場。弘法大師の亡き後、弟子たちがその遍路を辿ったことが、四国八十八ヶ所お遍路の始まりと伝えられています。様々な願いとともに心の修行を重ねる旅は、今も変わらぬ姿で四国に存在しています四国八十八か所巡り第37番札所ー第60番札所を訪れました。

22日7:30車で阪神淡路鳴門高松道経由して
10:30高松市内のホテル到着就寝。

23日7:00車で出発、高松高知道経由して
9:20窪川到達
岩本寺を訪れる。
清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に、五尊の本尊を祀る岩本寺は建立されている。歴史は天平の世まで遡る。寺伝によれば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して、現在地より北西約3kmの付近にある仁井田明神の傍に建立したと伝えられる末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であったことから、仁井田寺とも呼ばれていた。弘法大師がこの寺を訪ねたのは弘仁年間。大師は一社に祀られていた仁井田明神のご神体を五つの社に別け、それぞれの社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は、さらに末寺五ヶ寺を建立された。このことから、福圓満寺等は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。

足摺に向かう。
金剛福寺を訪れる。
四国の最南端、国立公園の足摺岬を見下ろす丘の中腹にあり、境内は120,000平方メートルを誇る大道場。弘法大師はその岬突端に広がる太平洋の大海原に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得した。ときの嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上、勅願により伽藍を建立、開創したと伝えられる。弘仁13年、大師49歳のころといわれる。
岬は、濃緑の樹海と白亜の灯台、それに断崖に砕ける波涛、観世音さんの浄土を連想させ、自然の大庭園に圧倒させられるのだが、ここにたどり着く遍路の旅もまた壮絶を極める。前の三十七番札所から80余km、いまは車で約2時間余、歩いたら約30時間、3泊4日はかかり、四国霊場の札所間では最長距離で、まさに「修行の道場」である。

宿毛に向かう。
延光寺を訪れる。
土佐路の西南端、「修行の道場」最後の霊場である。現在の山号、寺名の由来にかかわる竜宮城の縁起からひも解こう。時代は平安中期、延喜11年(911)のころ、竜宮に棲んでいた赤亀が背中に銅の梵鐘を背負ってきたという。僧たちは早速これを寺に奉納して、これまでの山号、寺名を「赤亀山延光寺」に改めた。この梵鐘には、「延喜十一年正月…」の銘が刻まれ、総高33.6cm、口径23cmの小柄な鐘で、明治のはじめ高知県議会の開会と閉会の合図に打ち鳴らされていたともいわれ、国の重要文化財に指定されている。
縁起を寺の起源にもどそう。神亀元年に行基菩薩が聖武天皇(在位724〜49)の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、これを本尊として本坊のほか十二坊を建立したのが開創とされている。当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、また、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782〜805)で、桓武天皇(在位781〜806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。

観自在寺を訪れる。
愛媛県は「菩提の道場」。その最初の霊場で、一番霊山寺からもっとも遠くにあり、「四国霊場の裏関所」とも呼ばれる。寺があるこの町は、美しいリアス式海岸の宇和海に面した最南端で、海洋レジャーの基地、真珠の生産地としても知られる足摺宇和海国立公園の景観を存分に楽しむことができる。縁起をひも解くと、弘法大師が大同2年に平城天皇(在位806〜09)の勅命を受けてこの地を訪れ、1本の霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三尊像を彫造して安置し、開創したとされている。このとき、残った霊木に「南無阿弥陀仏」と6字の名号を彫り、舟形の宝判を造って庶民の病根を除く祈願をなされた。
平城天皇はまた、勅額「平城山」を下賜し、次の嵯峨天皇(在位809〜23)とともに親しく行幸され、御朱印を下されて『一切経』と『大般若経』を奉納し、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修された。こうしたことから、この地方を「御荘」と称し、また勅額の山号に因んで「平城」とも呼ぶようになっている。寛永15年(1638)、京都・大覚寺の空性法親王が四国巡拝の折に宿泊され、「薬師院」の院号を授かっている。このころは七堂伽藍がそびえ、末寺48坊、寺領二千数百石という隆盛を誇っていたという。だが、火災によりすべての堂塔を焼失、その後は宇和島藩主・伊達家の祈願所として旧観の回復につとめ、法灯を守っている。

宇和島に向かう。

龍光寺を訪れる。

宇和島は伊達家十万石の城下町、その市街地から北東に10kmほどのところが三間平野。地元では「三間のお稲荷さん」と呼ばれ、親しまれているのが龍光寺で、往時の神仏習合の面影を色濃く伝えている霊場である。その象徴ともいえるのが、山門は鳥居であること。この山門をくぐると仁王像に代わる守護役・狛犬が迎えてくれる。境内には狐とお地蔵さんの石像が仲良く並んでおり、仏と神が同居している。縁起によると、大同2年に弘法大師がこの地を訪ねた際に、稲束を背負ったひとりの白髪の老人があらわれ、「われこの地に住み、法教を守護し、諸民を利益せん」と告げて、忽然と姿を消した。大師は、この老翁が五穀大明神の化身であろうと悟り、その明神を勧請して稲荷明神像を彫造、堂宇を建てて安置した。このとき、本地仏とする十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像して一緒に安置し、「稲荷山龍光寺」と号して四国霊場の総鎮守の寺とされ、開創したと伝えられる。
創建のころから神仏習合の寺であった龍光寺は、稲荷寺として信仰され維持されてきたが、明治新政府の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となった。新たに本堂が建立されて、ここに稲荷の本地仏であった十一面観世音菩薩像が本尊として安置され、その隣に弘法大師勧請の稲荷明神像も一緒に祀られて鎮座している。
三間平野は四季折々の草花が美しく、毎年11月ころにはコスモス祭りが開かれる。


佛木寺を訪れる。

牛の背に乗った弘法大師の伝説が語り継がれる仏木寺には、境内に家畜堂という小さなお堂がある。ミニチュアの牛や馬の草鞋をはじめ、牛馬の陶磁器、扁額などがところ狭しと奉納されている。近隣の農家では、田植えが終わったころに参拝に行き、牛馬の守護札を受けて帰り、畜舎の柱に貼っていた。往時は農耕をともにした家畜たちの安全を祈願していたが、最近ではペットなども含めて動物一般の霊を供養したり、また、闘牛の飼育者の間にも信仰が広がっているという。
大同2年のころ、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会った。誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に一つの宝珠がかかって、光を放っているのを目にした。よく見ると、これは唐から帰朝するときに、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方に向かって投げた宝珠であった。大師は、この地こそ霊地であると感得、堂宇の建立を決心した。大師は自ら楠で大日如来像を彫造、眉間に宝珠を埋めて白毫とした。これを本尊として安置し、「一山仏木寺」と名づけ、草字体で書写した『般若心経』と『華厳経』一巻を奉納されたと伝えられる。

明石寺を訪れる。
明石寺が所在する宇和町には、愛媛県歴史文化博物館をはじめ、宇和文化の里の開明学校、申議堂のほか、高野長英の隠れ家、多くの古墳など古代の遺跡が残されている歴史と文化の町である。明石寺にもまた奇逸な歴史の縁起が残されている。
まず、この地は乙女に化身した千手観音菩薩がこもった霊地とされて、古来尊崇されてきた。6世紀の前半、欽明天皇(在位532〜71)の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。のち、天平6年(734)に寿元という行者(役行者小角から5代目)が紀州熊野から12社権現を勧請し、12坊を建てて修験道の中心道場として法灯を伝承した。
弘仁13年(822)には弘法大師がこの地を訪ねている。荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809〜23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になってから再び荒れ果てた伽藍の修復に当たったのは、源頼朝である。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。

松山方面に向かう。

大寶寺を訪れる。
四十三番明石寺からの道のりは約80km、峠越えの難所がつづき、歩けば20時間を超す「遍路ころがし」の霊場。四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」といわれる。標高四90mの高原にあり、境内は老樹が林立し、幽寂な空気が漂う。縁起は大和朝廷の時代まで遡る。百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していた。飛鳥時代になって大宝元年のこと、安芸(広島)からきた明神右京、隼人という兄弟の狩人が、菅草のなかにあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀った。ときの文武天皇(在位697〜707)はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建された。弘法大師がこの地を訪れたのは、およそ120年後で弘仁13年(822)、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定められ、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めた。

仁平2年(1152)、全山を焼失。だが、直後の保元年間(1156〜59)に後白河天皇(在位1155〜58)が病気平癒を祈願して成就され、ここに伽藍を再建し、勅使を遣わして妹宮を住職に任じて勅願寺とした。このときに「菅生山」の勅額を賜り、七堂伽藍の僧堂を備え、盛時には山内に48坊を数えるほどであった。
その後「天正の兵火」で再び焼失、松山藩主の寄進で復興し、江戸中期には松平家の祈願所にもなったが、さらに明治7年には3度目の全焼、火災との苦闘を宿命にした。


岩屋寺を訪れる。
標高700m。奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場である。神仙境をおもわせる境内は、むかしから修験者が修行の場としていたようで、さまざまな伝承が残されている。弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年とされている。そのころすでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、空中を自在に飛行できる神通力を身につけ、法華仙人と称していたという。だが仙人は、大師の修法に篤く帰依し、全山を献上した。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、また、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされた。
一遍上人(1239〜89)が鎌倉時代の中期にこの古刹で参籠・修行したことは、『一遍聖絵』にも描かれており、13世紀末ごろまでにはこれらの不動尊像をはじめ、護摩炉壇、仙人堂、49院の岩屋、33の霊窟などがそのまま残っていたと伝えられる。いつの頃からか、四十四番大寶寺の奥の院とされていたが、明治7年に第一世の住職が晋山した。だが、同31年(1898)に仁王門と虚空蔵堂をのこし諸史料ともども全山を焼失した。大正9年に本堂より一回り大きい大師堂を再建、その後、昭和2年に本堂、同9年に山門、27年鐘楼を復興、宿坊遍照閣は38年、逼割不動堂・白山権現堂は同53年にそれぞれ建立されている。大師堂は国指定重要文化財、寺域は国の名勝、県立自然公園の指定地でもある。

浄瑠璃寺を訪れる。
浄瑠璃寺は松山市内八ヶ寺の打ち始めの霊場である。参道入口の石段左に「永き日や衛門三郎浄るり寺」と彫られた正岡子規の句碑があり、お遍路を迎えてくれる。このあたりは遍路の元祖といわれる右衛門三郎のふる里として知られる。縁起を辿ってみると、行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立した。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号もまた医王如来に因んだ。
約百年後の大同2年(807)、唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、荒廃していた伽藍を修復し、四国霊場の一寺とした。室町時代の末期に足利幕府の武将、平岡道倚が病に苦しみ、本尊に祈願したところ、ご利益で全快したのに感激し、寺塔を再興して厚く帰依した。江戸時代の正徳5年(1715)に山火事で本尊と脇侍をのぞいてほとんどの寺宝、伽藍を焼失したが、70年後の天明5年(1785)、地元の庄屋から住職になった僧・堯音が復興に尽力した。堯音は、托鉢をしながら全国を行脚してその浄財で現在の本堂その他の諸堂を再興している。また、社会事業家としても知られ、岩屋寺から松山市にいたる土佐街道に、苦難の末に8つの橋を架けている。境内の樹齢1,000年を超す大樹イブキビャクシン(市天然記念物)が、信仰を得ている。

八坂寺を訪れる。
浄瑠璃寺から北へ約1キロと近い八坂寺との間は、田園のゆるやかな曲がり道をたどる遍路道「四国のみち」がある。遍路の元祖といわれる右衛門三郎の伝説との縁も深い。修験道の開祖・役行者小角が開基と伝えられるから、1,300年の歴史を有する古い寺である。寺は山の中腹にあり、飛鳥時代の大宝元年、文武天皇(在位697〜707)の勅願により伊予の国司、越智玉興公が堂塔を建立した。このとき、8ヶ所の坂道を切り開いて創建したことから寺名とし、また、ますます栄える「いやさか(八坂)」にも由来する。
弘法大師がこの寺で修法したのは百余年後の弘仁6年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。本尊の阿弥陀如来坐像は、浄土教の論理的な基礎を築いた恵心僧都源信(942〜1017)の作と伝えられる。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となり、「熊野八坂寺」とも呼ばれるようになった。このころは境内に12坊、末寺が48ヶ寺と隆盛をきわめ、僧兵を抱えるほど栄えた。だが、天正年間の兵火で焼失したのが皮切りとなり、再興と火災が重なって末寺もほとんどなくなり、寺の規模は縮小の一途をたどった。現在、寺のある場所は、十二社権現と紀州の熊野大権現が祀られていた宮跡で、本堂、大師堂をはじめ権現堂、鐘楼などが建ちならび、静閑な里寺の雰囲気を漂わせている。本堂の地下室には、全国の信者から奉納された阿弥陀尊が約8,000祀られている。

西林寺を訪れる。
寺の前に小川があり、きれいな水が流れている。門前にはまた正岡子規の句碑があり、「秋風や高井のていれぎ三津の鯛」と刻まれている。「ていれぎ」は刺し身のツマに使われる水草で、このあたりの清流に自生し、松山市の天然記念物とされている。縁起によると、聖武天皇(在位724〜49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立した。その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置した。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留した。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされた。
このころ村は大旱魃で苦しんでおり、弘法大師は村人を救うために錫杖を突き、近くで清水の水脈を見つけた。寺の西南300mにある「杖の淵」はその遺跡とされ、水は涸れたことがなく土地を潤し、昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。時代は江戸・寛永年間(1624〜44)、火災で堂塔を焼失した。元禄13年(1700)に松平壱岐守はじめ、家老、奉行など諸役人の手により一部を再建、宝永4年(1707)には中興の祖、覚栄法印が村民の雨乞い祈願を成就して松山藩に帰依され、本堂と鐘楼堂の再興に尽力、さらに江戸末期に大師堂と仁王門を復興している。

浄土寺を訪れる。
境内入口に正岡子規の句碑「霜月の空也は骨に生きにける」が立つ。浄土寺は空也上人(903〜72)の姿がいまに残る寺である。腰のまがったやせた身に、鹿の皮をまとい、ツエをつき鉦をたたきながら行脚し、「南無阿弥陀仏」を唱えるひと言ひと言が小さな仏となって口からでる姿が浮かぶ。道路を補修し、橋を架け、井戸を掘っては民衆を救い、また広野に棄てられた死体を火葬にし、阿弥陀仏を唱えて供養した遊行僧、念仏聖である。この空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749〜58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。そのころから寺運は栄え、寺域は八丁四方におよび、66坊の末寺をもつほどであった。
空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期で、天徳年間(957〜61)の3年間、村人たちへの教化に努め、布教をして親しまれた。鎌倉時代の建久3年(1192)、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。だが、応永23年(1416)の兵火で焼失、文明年間(1469〜87)に領主、河野道宣公によって再建された。
本堂と内陣の厨子は当時の建造で、昭和36年に解体修理をされているが、和様と唐様が折衷した簡素で荘重な建物は、国の重要文化財に指定されている。

繁多寺を訪れる。
寺は松山城をはじめ、松山の市街、瀬戸内海まで一望できる高台にあり、のどかな風情の境内周辺は、美しい自然の宝庫として景観樹林保護地区に指定されている。縁起によると、天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号された。弘仁年間(810〜24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山・繁多寺」と改め、霊場とされた。その後、寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274〜87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷している。また、時宗の開祖・一遍上人(1239〜89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されている。
また、天皇家の菩提寺である京都・泉涌寺とのゆかりも深く、応永2年(1395)には後小松天皇(在位1382〜1412)の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となっている。こうした縁から寺には16弁のご紋章がついた瓦が残っている。さらに江戸時代には徳川家の帰依をうけ、四代将軍・家綱が念持仏としていた3体のうちの歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えた。

石手寺を訪れる。
日本最古といわれる道後温泉の近く。参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並ぶ。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場である。そのもう一つの要因は、境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院である。まず、一部を簡略にふれておこう。国宝は二王門で、高さ7m、間口は三間、横4m、文保2年(1318)の建立、二層入母屋造り本瓦葺き。重要文化財には本堂をはじめとして、三重塔、鐘楼、五輪塔、訶梨帝母天堂、護摩堂の建造物と、「建長3年」(1251)の銘が刻まれた愛媛県最古の銅鐘がある。
縁起によると、神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となった。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称した。
「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされる。
鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられた考証もある。

太山寺を訪れる。
開基とされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起は興味深い。長者は豊後(大分)でふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、いらい運が開けて大富豪となった。用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。いらい「一夜建立の御堂」と伝えられている。
その後、天平11年(739)に聖武天皇(在位724〜49)の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。寺が隆盛したのは孝謙天皇(在位749〜58)のころで、七堂伽藍と66坊を数えるほど壮観であった。弘法大師は晩年の天長年間(824〜34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。のち、後冷泉天皇(在位1045〜68)をはじめに、後三条、堀河、鳥羽、崇徳、近衛の6代にわたる各天皇が、十一面観音像を奉納されている。いずれも像高は150cm前後で、本尊の十一面観音像とともに国の重要文化財。本堂内陣の厨子に安置されている。なお現本堂は長者の建立から3度目だが、真言密教では最大規模を誇り国宝である。

円明寺を訪れる。
圓明寺には、アメリカ人巡礼者が発見した四国霊場最古の銅板納札が保存されている。大正13年3月、シカゴ大学のスタール博士が四国遍路をしている途次、寺の本尊・阿弥陀如来像を安置している厨子に打ち付けてあったのを見つけた。江戸時代の初期にあたる慶安3年(1650)の銘があり、縦24cm、幅が9.7cm、厚さ約1mmで破損のない納札としては、現存最古で例のない銅板製である。奉納者の樋口平人家次は、京都・五智山蓮華寺の伽藍を再興して、五智如来石仏を造立したことなどで知られるが、この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていることでもある。
縁起によると天平勝宝元年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615〜24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。 圓明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。


今治方面に向かう。

延命寺を訪れる。
今治の市街地から西北へ6kmほどのところに、延命寺の山号にもなっている近見山という標高244mの山がある。この山頂一帯に七堂伽藍の甍を連ねて、谷々には100坊を数えていたのが延命寺であったと伝えられる。縁起によると、養老四年に聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基菩薩が大日如来の化身とされる不動明王像を彫造して本尊とし、伽藍を建立して開創した。弘仁年間(810〜24)になって、弘法大師が嵯峨天皇(在位809〜23)の勅命をうけ、伽藍を信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ、勅願所とした。この「圓明寺」の寺名は、明治維新まで続いたが、同じ寺名の五十三番・圓明寺(松山市)との間違いが多く、江戸時代から俗称としてきた「延命寺」に改めている。
その後、再三火災に遭い堂宇を焼失しているが、再興をくり返し、享保12年(1727)に難を免れた本尊とともに現在地の近見山麓へ移転した。この間、鎌倉時代の文永5年(1268)、華厳宗の学僧・凝然(1240〜1321)が寺の西谷の坊に籠り、初学者の仏教入門書といわれる『八宗綱要』を著述した。「八宗」とは倶舎・成実・律・法相・三論・天台・華厳の各宗と新しく興った浄土宗で、上下2巻に記されている。寺にはまた、四国で2番目に古い真念の道標が残されており、境内に馬酔木の木があって、春の彼岸ごろから1ヵ月ほど可憐な白い花をつけている。


南光寺を訪れる。
四国霊場のうち「坊」がつく寺院はこの南光坊だけである。正式には光明寺金剛院南光坊という。今治市の中心街にあるが起源は古く、航海の神、総鎮守・伊予一の宮の大山祇神社と深くかかわる歴史を有する。縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。
のち、伊予全土におよんだ「天正の兵火」により、社殿・伽藍はことごとく焼失したが、南光坊だけが別宮の別当寺として再興された。慶長5年(1600)には藤堂高虎公の祈願所として薬師堂を再建、また江戸時代には藩主・久松公も祈祷所にして信仰し、祭祀料を奉納している。さらに時代がさがり、明治初年の廃仏毀釈では本地仏として社殿に奉安していた大通智勝如来と脇侍の弥勒菩薩像、観音菩薩像を南光坊薬師堂に遷座し、別宮大山祇神社と明確に分離した。太平洋戦争最末期の昭和20年8月、空襲により大師堂と金比羅堂を残して罹災した。現在の本堂は昭和56年秋、薬師堂は平成3年春に、山門は同10年に再建されている。

泰山寺を訪れる。
泰山寺には、水難で人命を失う悪霊のたたりを鎮めた伝説が根強く残っている。弘法大師がこの地を訪れたのは弘仁6年のころ。蒼社川という川がこの地方を流れており、毎年梅雨の季節になると氾濫して、田地や家屋を流し、人命を奪っていたため、村人たちは恐れ苦しみ、人取川といって悪霊のしわざと信じていた。この事情を聴いた大師は、村人たちと堤防を築いて、「土砂加持」の秘法を七座にわたり修法したところ、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し、治水祈願が成就したことを告げた。大師は、この修法の地に「不忘の松」を植えて、感得した地蔵菩薩の尊像を彫造して本尊とし、堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は、『延命地蔵経』の十大願の第一「女人泰産」からとったと伝えられる。「泰山」にはまた、寺があった裏山の金輪山を死霊が集まる泰山になぞらえ、亡者の安息を祈り、死霊を救済する意味もあるという。
寺はその後、淳和天皇(在位823〜33)の勅願所となり、七堂伽藍を備えて、塔頭に地蔵坊、不動坊など10坊を構えるほどの巨刹として栄えた。だが度重なる兵火により寺の規模は縮小し、金輪山の山頂にあった境内が麓の現在地、大師お手植えの「不忘の松」があったところに移ったと伝えられている。泰山寺の右約300m「塔の元」という場所は、鎌倉時代の学僧で、『八宗綱要』を撰述した凝然(1240〜1321)が誕生した地とされている。


永福寺を訪れる。
瀬戸内海沿岸のこの近海では、海難事故が絶えなかった。栄福寺は、弘法大師が海神供養を修したことから、海陸安全、福寿増長の祈願寺として往古から信仰されている。縁起によると、嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願により、大師がこの地を巡教したのは弘仁年間であった。内海の風波、海難の事故の平易を祈って、府頭山の山頂で護摩供を修法された。その満願の日、風波はおさまり、海上には阿弥陀如来の影向が漂った。この阿弥陀如来の尊像を府頭山頂まで引き揚げて堂宇を建て、本尊として安置したのが創建といわれ、勅願寺とされた。
栄福寺には、神仏混合の歴史もあり、その由来も平安時代に遡る。貞観元年(859)、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡(大分)の霊告をうけて、その分社を山城(京都)の男山八幡(石清水八幡)として創建するため、近海を航行中に暴風雨に遭い、この地に漂着した。ところが府頭山の山容が山城の男山と似ており、しかも本尊の阿弥陀如来は八幡大菩薩の本地仏でもあることから、境内に八幡明神を勧請して社殿を造営、神仏合体の勝岡八幡宮を創建したと伝えられる。この八幡宮は「伊予の石清水八幡宮」とも呼ばれ、「四国五十七番」と仲良く寺社名を刻んだ石塔の道標が立っている。明治新政府の神仏分離令により、寺は旧地から山の中腹になる現在地に移転し、また神社と寺はそれぞれ独立した。現在の大師堂は、山頂にあった堂舎を移築した由緒がある。

仙遊寺を訪れる。
境内は、山号になっている作礼山の山頂近い標高300mの高台にあり、今治の市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望める。その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通した「しまなみ海道」も一望できる眺望豊かな地にある。
創建は天智天皇(在位668〜71)の勅願により、伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がってきた竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。このことから「作礼山」が山号となり、竜宮から届けられたという伝説もある。

さらに仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残っている。寺名はその阿坊仙人に由来している。弘法大師が四国霊場開創の折にこの寺で修法をされたとき、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り、また荒廃していた七堂伽藍を修復して再興、寺運は興隆した。この井戸は旧参道の脇に残り、「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されている。江戸時代には荒廃して本堂と12社権現だけとなっていたが、明治時代の初期、高僧・宥蓮上人が山主となり、多くの信者とともに再興に尽力した。宥蓮上人は明治4年、日本最後の即身成仏として入定している。境内には、上人を供養した五輪塔がある。


国分寺を訪れる。
伊予国分寺。伊予の国府があったところで、この地域は伊予文化発祥の地ともいえる。往時の国分寺はいまの寺から150mほど東にあった。東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどで、豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔をしのばせ、その面影をいまに残している。国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如(?〜862?)も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納められている。
その後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。まず、天慶2年(939)の「藤原純友の乱」により灰燼に帰した。次に、元暦元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)、讃岐・細川頼之の兵火によって焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著『四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。幸い寺には、古瓦をはじめ『国分寺文書』『大般若経』など数多い文化財が保存されている。四國禮霊場記には「茅葺の小堂が寂しつのみ」旨が記されている。本格的な復興は江戸時代後期からであった。

横峰寺を訪れる。
西日本の最高峰・石鎚山(標高1982m)は、山岳信仰の霊地であり、修験道の道場でもある。弘法大師・空海が24歳の若いときの著書『三教指帰』の中で「或時は石峯に跨って粮を絶ち(断食)轗軻(苦行練行)たり」と、この山で修行した様子を記している。境内は山の北側中腹(750m)にある。四国霊場のうちでは3番目の高地にあり、「遍路ころがし」の最難所であった。昭和59年に林道が完成して、現在は境内から500m離れた林道の駐車場まで車で行き参拝できる。ただし、冬期は12月下旬から2月いっぱい不通となる。大型バスは通行が不可である。縁起によると、白雉2年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行をしていると、山頂付近に蔵王権現が現れたという。その姿を石楠花の木に彫り、小堂を建てて安置したのが創建とされている。また、延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住んでおり、桓武天皇(在位781〜806)の脳病平癒を成就したことから、仙人は菩薩の称号を賜ったと伝えられる。
弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法をしたのは大同年間(806〜10)とされ、このときやはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。以来、神仏習合の別当寺として栄えているが、明治新政府の廃仏毀釈令により寺は廃寺となった。明治42年になって、檀信徒の協力によりようやく復興している。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、四国に足を運び、四国八十八か所巡り第二弾、第37番札所ー第60番札所を訪れました。

高知窪川に位置する岩本寺からスタートして今治から西条方面に位置する横峰寺までの24か所を巡り堪能しました。

山の頂にある岩屋寺までの道のり、数日前寒波の影響で積雪を確認しました。四国でも山間部では雪が結構積もるみたいですね。スキー場もいくつか見かけました。

最後の60番札所の横峰寺、なかなかの難所、国道から入って約10kmの道のり、勾配も曲がりもきつくたどり着くのに苦労しました。

前回と比べて、今回は紅葉シーズンでもあり、どのお寺も人で賑わっていました。

四国八十八か所巡り第二弾、無事に訪れることができました。次回は最終の61番札所から88番札所巡りです。頑張ります。


 











































飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十三弾:群馬県高崎・水上&SLみなかみ観光
2013年11月16-17日
  

関東地方北西部に位置し、県庁所在地は前橋市、県南部に関東平野、県中北部に自然豊かな山地を有する群馬県に足を運び、江戸時代から中山道の宿場町として発展してきた町高崎、利根川の上流に位置し豊かな温泉地である水上をSLみなかみに乗車し訪れました。

16日13:17新大阪新幹線のぞみで出発
16:03東京駅到達。
16:12東京駅新幹線ときで出発
17:02高崎駅到達、駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

高崎市は、広大な関東平野の北端に位置する、群馬県を代表する都市です。市の人口は37万人を超え、面積は459.41平方キロメートルに及びます。

17日9:56高崎駅SLみなかみで出発、

快速「SLみなかみ」は今年6月に復活運転を開始した旅客用大型蒸気機関車のC61形20号機や、「デゴイチ」の愛称で親しまれるD51形498号機が牽引する上越線高崎~水上間を結ぶSL列車。同列車にはブルー車体の冷房付き12系客車または茶色車体のレトロな旧形客車が使用されており、昔懐かしい汽笛の音を聞きながら汽車旅を楽しむことができる。

途中渋沢駅下車

12:04水上駅到達、水上散策。

水上は、関東の北部の群馬県最北に位置し、谷川岳・三国山の麓、利根川の源流域であり「関東の水瓶」と称される自然と温泉が豊かで風光明媚な町です。

15:20水上駅SLみなかみで出発
17:13高崎駅到達。
18:00高崎駅新幹線ときで出発
18:52東京駅到達
19:00東京駅新幹線のぞみで出発
21:33新大阪駅到達。

今回の旅行、関東地方の北西部に位置する群馬県に足を運び、高崎から水上まで利根川に沿って走るSLみなかみに乗車し車窓から奥利根エリアを観光いたしました。

日本各地で何回かSLに乗車しましたが、根強いSL列車、多くのカメラマンが走行するSLのあちこちで見かけ、人気が物語っていました。
 





飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十二弾:山口県柳井沖離島平郡島巡り
2013年11月9-10日
 

本州の最西端に位置する山口県に足を運び、瀬戸内海の温暖な気候に恵まれ、室町時代から水陸交通の要衝として栄えた柳井沖の離島、周防大島(屋代島)の南約7kmに位置し、山口県では屋代島に次いで二番目に大きな島の平郡島を訪れました。

9日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
15:06広島駅到達
15:23広島駅こだまで出発
16:02徳山駅到達、レンタカーで市内のホテルに向かう。
16:00ホテル到着後繁華街散策し食事を済ませて就寝。
10日7:20レンタカーで出発、柳井方面に向かう。
8:15柳井港到達
8:30柳井港フェリーで出発
9:40平郡島平郡東港到達、西に向かって散策する。

平郡島は周防大島(屋代島)の南約7kmに位置し、山口県では屋代島に次いで二番目に大きな島です。中央の深山(468m)を中心に険しい山脈が続き、急斜面が海岸線まで落ち込んでいます。東西に離れて二つの集落があり、斜面の段々畑では温州ミカン、海ではタコ漁が盛んで、この辺りで捕れるタコは「平郡ダコ」と呼ばれ特に美味しいと評判です。平安時代末期、源頼朝に討たれた木曾義仲(源義仲)の子・平栗丸(平群丸・平郡丸)がこの島に落ちのびて暮らしたという話が島名の由来として残されています。義仲に平栗丸という子が居たかどうかは不明ですが、浄光寺の木造薬師如来坐像や重道八幡宮の棟札は鎌倉時代ものだとされ島の歴史の深さを証明しています。また創建が14世紀前半だとされる曹洞宗海蔵院には根周りが2mもある巨大ソテツが生えており、訪れる人を驚かせています。

14:05平郡島平郡西港到達
14:40平郡島平郡西港フェリーで出発
15:40柳井港到達、レンタカーで徳山に向かう。
16:45徳山駅到達
17:15徳山駅新幹線のぞみで出発
19:55新大阪駅到達。

今回の旅行本州の最西端山口県に足を運び、室町時代から水陸交通の要衝として栄えた柳井沖の離島、平郡島を3時間15km散策しました。
船便が少なく平郡島のみの散策となりましたが、東から西にかけて、島をほぼ半周まわり堪能しました。
 
 
 



飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十一弾:四国八十八か所巡り第一弾(第1番札所ー第36番札所)
2013年11月2-4日
  

四国に足を運び、弘法大師が42歳のとき、自身と人々の厄難を除くために四国を巡礼。その際、従来からある寺や新たに開いた寺など、88の寺を選び霊場に。弘法大師の亡き後、弟子たちがその遍路を辿り、大師の功徳をしのび歩いたと伝えられています。平安末期では修行僧のみを中心に巡礼が行われていたようですが、元禄時代には庶民の間にも広まりました。様々な願いとともに心の修行を重ねる旅は、今も変わらぬ姿で四国に存在しています。今回は第1番札所ー36番札所(霊山寺、極楽寺、金泉寺、大日寺、地蔵寺、安楽寺、十楽寺、熊谷寺、法輪寺、切幡寺、藤井寺、焼山寺、大日寺、常楽寺、国分寺、観音寺、井戸寺、恩山寺、立江寺、鶴林寺、太龍寺、平等寺、薬王寺、最御崎寺、津照寺、金剛頂寺、神峰寺、大日寺、国分寺、善楽寺、竹林寺、禅師峰寺、雪蹊寺、種間寺、清瀧寺、青龍寺)を訪れました。

2日12:30車で出発、阪神、神戸淡路鳴門自動車道経由して
14:40鳴門到達。

霊山寺を訪れる。
「一番さん」と親しまれる四国霊場第1番札所。天平年間(729~749)、聖武天皇の勅願道場として行基が創建したといわれ、一年中白装束のお遍路さんで賑わう。1番札所の札がかかる仁王門をくぐると鯉が泳ぐ池があり、大師堂や多宝塔、本堂などが立ち並ぶ。

極楽寺を訪れる。
霊山寺の西、約1kmのところにある四国霊場第2番札所。朱塗りの仁王門をくぐると美しい日本庭園が広がり、その先に弘法大師が植えたという長命杉がある。本堂には平安時代末期の作とされる本尊の阿弥陀如来坐像(重要文化財)を安置。

金泉寺を訪れる。
聖武天皇が天平年間に建設、金光明寺と賜号、釈迦、阿弥陀、薬師の三如来を本尊として安置、そのご弘法大師が四国巡錫の砌四国八十八ヶ所第三番霊場とお定めになりました。日照りに苦しむ住民のために掘られた井戸は今も「長寿をもたらす黄金井戸」として、黄金地蔵とともに霊験あらたかであります。その後、亀山法皇が精藍を御再興、三十三間堂を建て、千手大悲の観音菩薩を安置し、山号を亀光山と賜号されました。源平合戦のおり、義経が屋島に向う時、当寺に立ち寄り戦勝開運を祈願した。当時の慈母観音子安大師は、すこやかに育てという親心を、又義経が戦勝開運を祈願した観音菩薩は、今も人生への開運を祈願して参詣者の香煙、日夜絶えることがありません。

大日寺を訪れる。
象徴として板碑がある。県下最古の板碑、裏側に塔姿の形を深く細くほり、五梵字を浅く広く刻んである。弘法大師四国巡錫の砌り開基と伝えられ、本尊大日如来は一寸八分(5.5cm)の秘仏で、大師の刻まれたものといわれ大日寺と号しています。その後一時さびれて廃寺となりましたが、天和貞享の頃再建されました。当時は藩主蜂須賀家の尊信帰依が篤く、今の堂塔も元禄年間に大改修をされたと聞いています。これは、大日如来が蜂須賀家の守り本尊であった関係だろうかとおもいます。この寺の特長は、人里はなれた渓流にのぞみ、盛りあがる森の木々に囲まれた閑静な自然にあります。

地蔵寺を訪れる。
弘仁十二年(811)嵯峨天皇の勅願により高祖弘法大師の開創による霊場。かつては、阿波、讃岐、伊予の三国に2百の末寺を擁し、塔中二六ヵ寺を数えたという。しかし、天正年間長曾我部元親の兵火にあい堂塔悉くが灰燼に帰した。境内4万平方米、建物面積三千平方米の広大さ。又境内の裏庭に五百羅漢堂がある。コの字型の堂内に木像等身大(日本最大)の羅漢さんがたくさんならんでいる。羅漢さんとはお釈迦さんの弟子であり、仏道修行して阿羅漢果という人間として最高の位を得た人である。その羅漢さんを500人集めたのが五百羅漢である。創建は安永四年であるが大正年間焼失し、現在あるのはその後に復興したものである。

安楽寺を訪れる。
当山は、弘仁6年弘法大師により開創されたと伝えられている。元禄時代の霊場記に「この地に昔温泉ありて諸方の病人入浴治の利益を得しこと久く、まこと仏の大悲の極みなるものなり。これによって弘法大師、薬師如来の尊像をきざみ、精藍(伽藍)を建て安置したもう、相追い来たりて人皆、医王の神化と仰ぎ、寺院繁栄に至り、鈴鐘のひびき絶えることなし・・・。」とあり、いつの時代に温泉が枯渇したかは定かではないが、山号も寺号も温泉に由来したものである。天正年間(約四百年前)に兵火にあい、現在の地に再建された。安楽寺の寺号は江戸時代には藩主蜂須賀侯より寺資をつけられ、瑞運寺と改められたこともあった。現在のご本尊薬師如来像は脊椎カリエスの難病が四国遍路で快癒した水谷しづさん、夫の繁治氏らの奉納されたものである。「さか松」と称せられる弘法大師お手植えの松があります。

十楽寺を訪れる。
年代は定かではないが、当寺は弘法大師の開基と伝えられています。寺はもと現在地から3キロ奥の十楽寺谷の堂ヶ原にあったと推定され、阿波の北方切っての広大な大伽藍を誇っていたといわれますが、天正年間、長曾我部氏の兵火にあってすべて焼失し、天保年間(1830~44)現在地に移り再建されましたが、今尚附近に大門原、法教田堂ヶ原などの地名があり、当地の名残りをとどめております。尚当寺は、昔から盲目の治療に霊験あらたかで、信仰者の中に開眼した例も数多いといわれています。寺宝として、光高等竜宮真田幸村の茶釜などがあります。

熊谷寺を訪れる。
真光院、普明山、熊谷寺は、第五十二代、嵯峨天皇の御世、弘仁6年(西暦815年)にお大師様が、当地巡錫の砌闊伽ヶ谷において御修行中、紀州熊野権現が出現したまい末世主衆生を永く済度の為、千手観音像を当山に安置せよとお告げになり、一寸八分の金の観音様を大師にお授けになり、虚空遥かにお去りになりましたと伝えられています。大師は、その場に一字を建立して、自ら等身の千手観音像をお刻みになり、その胸の中に、当の金像をお納め本尊となされました。これが熊谷寺霊場の縁起です。昭和二年には火災にあい、旧本堂全焼し、以後復興事業は戦時中に中断したまま、昭和四十六年に至って現在の本堂の全容が完成しました。

法輪寺を訪れる。
当山は、弘仁6年弘法大師の開基と伝えられています。木像の釈迦如来は、弘法大師の作と言われ、四国霊場では、唯一の涅槃像として珍重なものとされています。当寺はもと白蛇山法林寺と号して、ここの北十町余山間法地ヶ渓とよばれるにあって、壮大な伽藍を誇っていたといわれ、磁石や焼土が残っていますが、これは天正時代、長曾我部氏の兵火に悉く焼失した遺跡であります。正保年間(1644~48)現在の地に移されて再建されたおり、今の正覚山法輪寺の山号に改めたといわれています。

18:00鳴門駅付近のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

3日6:30車で出発

切幡寺を訪れる。
弘仁の昔、当山山麓に、機を織って暮らしている娘がありました。そこへ後の弘法大師が旅僧姿で現われて、衣服を繕う布きれを所望されたところ、その娘は今自分が織っている布のまん中から惜しげもなく切って差し出しました。僧はこの行為に感動して、娘の願いをいれ千手観音の像を刻み、また娘の願いによって剃髪得度させ、灌頂を授けたところ、娘はその身から光明を放って千手観音の姿にかわった。そこで、大師は嵯峨天皇に奏請して一寺を建立して得度山灌頂院切幡寺と名づけた。

藤井寺を訪れる。
弘仁六年、弘法大師の開基と伝えられています。大師42歳の時諸人と共に危難を除くために、薬師如来の尊像を刻んで寺を建て、金剛不壊の護摩壇を八畳岩に築き、十七日間の御修法を行って、堂塔の前に五色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺の山号がおこったのだといいます。現在の伽藍は、幕末、万延元年(1860)に再建されたものであります。約三百米の山上には、大師が護摩壇を築かれた八畳岩があり、弁財天を奉祀しています。本堂より焼山寺への道を四百米を登った所に奥の院があり本尊に大日如来を安置してあり、明治四十四年国宝に指定されました。

焼山寺を訪れる。
伝説によれば昔、この山に大蛇が棲んでいて村里に出ては、人や農作物に火を吐いて害を与えることがしばしばあった。弘法大師が開山のために登って来られると、大蛇はこれを妨げようと満山を火の海としたが、大師が印を結び、真言を詔して登り賜うと、不思議にも火は、順次衰える。九合目の岩窟によって、山の主の大蛇が激しく抵抗したが、虚空蔵菩薩と三面大黒天の加護によって、大師は遂に大蛇を岩窟に封じこめてしまわれたといわれる。全山火の海となって焼けたため、焼山の寺と呼び、山号を「摩櫨山」とした。摩櫨とは、梵語で水輪すなわち水を意味している。

大日寺を訪れる。
大栗山花厳院と呼ばれる当山は、弘仁6年(815)弘法大師がこの地に巡錫され「大師が森」に堂を結び、護摩修法をされている時大日如来が出現し、「この地は霊地なれば一字を建立すべし」と告げられました。そこで大師は、大日如来を刻み本尊とし、堂字を建立した。その後、元亀天正の兵火にかかって堂字は全焼したが、間もなく再建され、諸国に国の総鎮守である一の宮が建てられたとき、その別当寺となり現在の所に移り、門前の一宮神社を管理しました。一の宮の本地仏は十一面観音ですが、明治の神仏分離にあたり、観音像を大日寺へ移遷して本尊として安置した。

常楽寺を訪れる。
弘仁6年弘法大師四国巡錫の砌り、当地に修禅し給い、弥勒菩薩の御来迎を拝し随喜の余り、直に感得の慈尊二尺六寸の尊像を彫り九間四面の中堂に安置し、四国霊場第十四番の本尊とし給う。四国霊場中弥勒菩薩を本尊に安置するは唯一寺当山だけです。弘法大師御入定の折「吾閉眼の後必ず将に都卒陀天に往生して、弥勒慈尊の御前に侍り五十六億余の後、慈尊に随い余らせて吾旧跡を問い尋ねん云々」と御遺告あらせられしによるも、当山本尊弥勒菩薩と弘法大師の御因縁の浅くないことがわかります。其後祈親法師等、金堂、講堂、三重塔、二天門を増築し七堂伽藍歴然として境内に聳えたけれども、数度の兵火に殿堂伽藍は焼失いたしましたが、当山本尊弥勒菩薩は、今に至るも霊験愈々あらたかであります。
当山の三特色
一.本尊弥勒菩薩四国中唯一 一.流水岩の庭園四国唯一 一.社会施設常楽園四国唯一

国分寺を訪れる。
当山は行基菩薩の開基と伝えられる。本堂は寛保年間(1741~3)大師堂は、天保年間(1830~43)の再建という。第四十五代聖武天皇が勅命を発して諸国に国分僧寺と尼寺の造営を命じられた。当寺は、阿波の国分寺として行基菩薩によって開基し、釈迦如来の尊像と大般若経を納め、本堂には、光明皇后の御位牌厨子(一尺七寸)を奉祀したといわれ、天正の兵火にかかって焼失するまでは、二キロ四方という広大な寺域に、金堂を中心に七重の塔が建ち、規模の広大建築の巧妙さは一世をおどろかせたと伝えられている。本堂を囲む廃園の石組みは豪快な桃山時代の作だという片鱗をみせている。

観音寺を訪れる。
当山は第四十五代聖武天皇の勅願道場として創立せられたと伝えられる。其の後弘仁七年弘法大師巡錫の砌り、当山に滞留せられ、娑婆世界有縁の導師たる大慈大悲の千手観音を自ら刻まれ、殊に脇士の不動明王は悪魔降伏の為、又毘沙門天は、鎮護国家のため一刀三礼の誠を尽くされた霊像であります。爾来千有余年寺運の栄枯盛衰があり、加えて天正年間長曾我部氏の兵火に焼かれたという。万治2年(1659)宥応法師が再建したと伝えられているが、法灯蓮綿として長く世人の信仰を集めている。当山の印版は其の昔弘法大師の御筆を刻印したものを代々伝えるものであり、衆生に一見阿写の利益を施し、自ら無始の重罪を消滅し真言不思議の果を得るものとしてあがめられる。

井戸寺を訪れる。
当山は第四十代天武天皇の御勅願の道場として、白鳳二年(西暦673)の御開基です。元妙照寺と号し、境内八町四方寺家十二坊、阿波国司庁に隣接し盛隆を極めておりました。弘仁六年春、宗祖弘法大師が四国霊場開創の砌、昼夜斎戒汁洛して、御丈八尺余の十一面観音菩薩を刻まれ、尚大師自ら楊杖で一夜の裡に井戸を掘られ、井戸寺と称えました。其の後何度か災難に遭いましたが、今では立派に再建成り、輪喚の美、昔をしのいでおります。
重要文化財としては、十一面観音像、弘法大師作(平安初期)・日光 月光菩薩二軀(平安時代)金剛胆蔵大日如来二軀(室町時代)・仁王像(一丈二尺)二軀(鎌倉時代)。

阿南方面に向かう。
恩山寺を訪れる。
当山は第四十五代聖武天皇の勅願により草創せられました。本尊、薬師如来は、行基菩薩が厄除けの為作って安置したてまつり、大日山福生院密厳寺と号した。其の後百有余年を経て弘法大師四国霊場跡を開かれた時、当山の霊勝を賞でられ暫く滞留せられ女人解禁の祈念を成就し、母公を伴って登山し朝夕孝養を尽されたという。其の後、弘仁五年大師四十一歳の御時、自ら生像を刻まれ大殿に安置(現今大師堂の本尊)したまい、自ら「我が願は末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われたという。

立江寺を訪れる。
高野山真言宗の別格本山橋池山地蔵院立江寺は、聖武天皇の勅願寺で天平十九(747)年、行基菩薩が光明皇后の安産を祈って、高さ六センチの黄金の地蔵菩薩を安置したのが起源で、その後弘仁六年(815)弘法大師が当山に御留錫の折、自ら1メートル96センチの大像を刻まれ、小像を其の胸中に納められ、立江寺と号し第十九番の霊場とされました。

鶴林寺を訪れる。
当山は延暦の昔、高祖弘法大師がこの地で御修行中、一米ほどの地蔵菩薩を彫刻し、黄金仏をその胎内に納めて一寺を建て本尊として安置しました。山号を霊鷲山、寺号を鶴林寺と名づけ、延暦十七年(798)桓武天皇が勅願を以って、七堂伽藍を造営せられて以来、歴代の天皇が尊信を依せられ、源頼朝、義経、三好長治、蜂須賀家政などの武将も深く帰依し、特別の保護を講じたようであります。阿波一帯の寺が兵火で焼失した時も、難を免れ、四万一千坪の境内をおおった老杉とともに千有余年後の今日も塔中、末寺十五寺ヶ寺を持つ大寺として寺門愈々清謐であります。

太龍寺を訪れる。
延暦12年(793)、弘法大師の創建と伝わる古寺。四国霊場第21番札所。急勾配の参道で遍路泣かせの難所といわれていたが、現在は全長2775mの太龍寺ロープウェイが標高600mの山頂までを10分で結ぶ。
当山は舎心山常住院太龍寺と号し、高野山真言宗に属する名刹で、古来より「西の高野」と称されています。四国山脈の東南端、海抜600メートルの太龍寺山頂近く、古く桓武天皇の延暦十七年に弘法大師が開基され、幾多の変遷、興廃の歴史を経つつ現在に至っております。弘法大師24歳の時の著作として有名な「三教指帰」に゜19歳の時阿波の国太龍獄に登り虚空蔵求聞持の法を修し・・・″とあり、境内より南西方向へ600メートルの舎心獄が正に大師御修行の史跡であります。青年時の大師の思想形成に多大な影響を及ぼした当山は大師信仰の歴史の中で重要な位置を占めています。

平等寺を訪れる。
当山は弘法大師41歳の時厄除け修業のため巡錫せられた時、空に五色の霊雲がたなびき、その中で金色の梵字が現われたので、大師はその瑞相に歓喜せられ、梵字を加持せられたら薬師如来の尊像が現われ光が四方に照り輝いたので、さっそく祈祷に使う水を求めて、一つの井戸をお堀りになった。ところが、白い乳色をした水が湧き溢れたということであります。その水で身を清めた大師は、一百日の修行の後薬師如来像を刻み、本尊として安置し、一切衆生を平等に救済されるため、寺号を白水山、平等寺と称えられた。この霊水は開運鏡の井戸として、本堂石段の左にあり、どんな日照りにも枯れることなく、こんこんと湧出ていきます。万病に効く「弘法の水」として、全国に知られています。

日和佐方面に向かう。
薬王寺を訪れる。
弘仁6年(815)の開基と伝わる四国霊場第23番札所。本堂へは女厄坂33段、男厄坂42段の石段があり、厄年の参拝者が1段ごとに1円玉を置いて登る姿が見られる。さらに、男女厄坂61段を登ると昭和39年(1964)に四国霊場開創1150年を記念して建てられた瑜祇塔があり、内部には宝物展示室や地下の戒壇巡りなどがある。

室戸方面に向かう。
最御崎寺を訪れる。
大同2年(807)弘法大師の開基と伝わる古刹で、室戸岬頂上にある四国霊場第24番札所。俗に金剛頂寺を西寺と呼び、ここを東寺と呼ぶ。宝物殿には平安末期の作とされる仏像3体(重要文化財)と足利時代の作である3つ足丸盆1対(重要文化財)があるが、なかでも如意輪観音半跏像は大理石でできた非常に珍しいもの。弘法大師自らが刻んだといわれる、ご本尊の虚空蔵菩薩は秘仏。境内には空海の七不思議、鐘石と喰わずの芋がある。

17:00高知方面に向かう。
19:00高知駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝
4日車で室戸方面に向かう。

津照寺を訪れる。
室津港を見下ろす小山に立つ四国霊場第25番札所。大同2年(807)弘法大師の開基と伝わり、125段の階段を登ると竜宮城を思わせる白壁に朱塗りの鐘楼門がある。本尊の楫取延命地蔵菩薩は弘法大師作といわれ、海上守護仏として信仰を集めている。

金剛頂寺を訪れる。
807年(大同2)弘法大師の創建と伝えられる古寺で、四国霊場第26番札所。広い境内に本堂、大師堂、護摩堂などが立ち並び、遍路の姿が絶えない。本堂横に正倉院様式の霊宝殿があり、平安時代末期の木造阿弥陀如来坐像、銅造観音菩薩立像、板彫真言八祖像などの重要文化財を収蔵。

神峰寺を訪れる。
当山は神功皇后の三韓征伐にあたり、勅命で天照大神其の他の諸神を祀った後に、行基菩薩が十一面観音の尊像を自作され、弘法大師が聖武天皇の勅命により弘法大師が神仏合祀の上四国二十七番の札所と定められた土佐の関所と言われる霊山である。明治四年の大法難の為、廃寺となり本尊を室戸の西寺へ遷し、明治二十年間崎天龍師竹林龍円尼と力を合わせ当山中興の大願を成就し、現在に至っている。当山信仰のあらたかな霊顕として伝えられる所によると、愛知県尾西市の住人水谷繁治氏の妻静さんは、長年の「セキズイカリエス」に苦しみ、大学病院でも手離され、夫妻は此の峰にて霊顕を得て全治を観た。その次第は奉納の碑に詳しい。

高知方面に戻る。
大日寺を訪れる。
 当山は、聖武天皇の御宇行基菩薩の御開基でありまして、弘法大師四国御巡錫の砌、中興遊ばされ、本尊は行基菩薩の作御丈四尺八寸脇仏聖観音五尺七寸と共に重要文化財です。本尊大日如来の御縁日二十八日に因み四国第二十八番の霊場と定められました。尚大師末世の衆生に利益を貽さんと楠の立木に薬師如来の尊像を彫刻せられ奥の院(一丁奥)となし給う、楠は明治初年の大風に倒れその跡に一堂を建て霊木を安置しました。世に爪彫り薬師とよばれ特に首より上の病に霊験あり遠近の参拝者多し又堂側の岩下より清水湧出す。これが大師加持水であります。住古は七堂伽藍、末寺脇坊等悉く備わり慶長以後寺堂の修繕総て藩宮でありましたが、明治四年廃寺となり同十七年再興せられ栄枯をたどり今日に至っております。

国分寺を訪れる。
聖武天皇が各国に1ヵ寺ずつ開いた国分寺の1つで、四国霊場第29番札所。みどころの多い古刹で、長宗我部氏が再建したこけら葺き寄棟造の金堂、木造薬師如来2体、梵鐘は国の重要文化財。

善楽寺を訪れる。
当山は桓武天皇の時代に弘法大師四国巡錫の砌、この地に堂宇を建立し、一の宮の別当として、一国一宮を開創、四国三十番の札所と定められました。土佐の豪族であった長曾我部家江戸時代には、領主山内家の厚い信仰と庇護を受け繁栄しました。しかし、明治の大法難の為、一の宮は土佐神社となり、廃寺となってしまいました。本尊阿弥陀如来をはじめ大師像は国分寺に預けられました。明治九年、公許を経、本尊を安楽寺(現在の奥の院)へ遷座し、三十番札所を復興いたしました。昭和四年、当地の人達の努力により、国分寺より大師像を迎え、善楽寺を再興し、昭和三十九年開創霊場を善楽寺とし、二ヶ寺を札所と定めましたが、平成六年正月当山に第三十番札所を統一、安楽寺は三十番霊場奥の院として、今日に至っております。

竹林寺を訪れる。
行基によって神亀元年(724)に開創され、弘法大師によって四国八十八ケ所霊場札所に定められたとされる土佐屈指の古刹。知恵の仏様文殊菩薩(重要文化財)が本尊なので、合格祈願をする受験生も多い。本堂(重要文化財)、大師堂、五重塔、高僧・夢窓国師作とされる庭園が広がる。宝物館では阿弥陀如来立像、千手観音立像などの重要文化財も数多く所蔵している。

禅師峰寺を訪れる。
当寺は、行基菩薩の開基です。大師御巡錫の砌り、この土佐沖を航行する船舶の海上安全祈願のため、一刀三礼自作の十一面観音菩薩を当寺の本尊として安置せられた。当山は、観音の浄土、天竺補陀洛山さながらの霊域で、その山容が八葉の蓮台に似ているので、八葉山と号し、大師が当山で求聞持の法を修せられたので、求聞持院と称えています。なお当寺で、旧藩主山内公が海上の安全を祈願せられたので、俗に船魂の観音といわれ、一般の崇敬が篤い。仁王門内の金剛力士二軀は、仏師定朝の作で重文に指定せられています。寺宝に、徳治三年銘の鐘と、永禄十三年銘の鰐口があり、本堂前の岩の間に芭蕉の句碑があり、「木枯らしに岩吹き尖る杉間かな。」

雪蹊寺を訪れる。
長宗我部元親の菩提寺で、四国霊場第33番札所。本尊の薬師如来像(重要文化財)は運慶作。本堂脇の馬頭観音は旅の安全を守るとされ、遍路の信仰が厚い。

種間寺を訪れる。
当山は、人皇第三十代敏達天皇の六年(577)百済国の皇子が、仏工、寺匠を天皇に献上したが、其の後用明天皇の御代に、大阪の四天王寺が落成したので、一同いとまを賜って、帰国の途中、暴風雨におそわれて、秋山の郷に寄港した。そうして、海上の安全を祈って刻んだのが薬師如来で、本尾山の頂きに安置されました。其の後年を経て、弘法大師がこの地へ巡錫され、薬師如来を本尊として寺を開創されました。その時、大師が中国から持ち帰られた五穀の種をまかれた。種間寺の寺名は、それにちなんでつけられたといわれています。天歴年間、ときの村上天皇は、藤原信家を勅使として「種間」の勅額を下賜されました。藩主山内氏のころ、寺は保護され、田畑山林などが与えられて、堂字修築されたということであります。

清瀧寺を訪れる。
元正天皇の養老九年(723)行基菩薩が、本尊薬師如来(重文)を刻み、開基、影山密院釈本寺と名づけた。その後、嵯峨天皇の弘仁年間(810~23)に弘法大師が巡錫せられ、五穀豊作のために門伽井権現と龍王を勧請し、当山の寺号を、医王山鏡池院清滝寺と改め、弘法大師の高弟高岳上人にゆかりのある寺として有名であります。貞観三年平城天皇の第三皇子高岳法親王が、大師の夢告げによって、来錫され、息災増益の密檀を造り、入唐されたと伝えられています。当山は境内には「入らずの山」といって、人の近づかない一角がありますが、これが、高岳法親王の逆修塔のある場所であります。とまれ、藩政期は寺領百石、七堂伽藍の完備した巨刹であり、現在は、厄除け祈願の名刹であります。

青龍寺を訪れる。
四国霊場第36番札所。弘法大師が修行先の唐から投げた、独鈷杵が見つかったことから開基したと伝わる。本尊の波切不動明王像は漁民の信仰が篤く、本堂には船を描いた絵馬が多く掲げられている。鎌倉時代作といわれる、寄木造の愛染明王坐像は重要文化財。

15:00車で高知、高松、神戸淡路鳴門、阪神高速自動車道経由して帰路に向かう。

今回の旅行、四国の八十八箇所巡り、第一弾、44か所を巡る予定でしたが、山奥に位置するお寺が数か所、ロープウエイを使ってのお寺1か所あり、想像以上に時間がかかり、36か所止まりとなりました。
特に焼山寺、鶴林寺、神峰寺は山之上、標高の高いところに位置しており、道のりが険しく、細くくねくねした道、なかなかたどり着くには時間がかかり苦労しました。

至る所に白衣姿のお遍路さんが歩いておられ、車でも四国八十八か所巡るのは大変なのに、歩いて巡るの感心する次第です、はたして歩いて何日かかるんでしょうね。時間と体力が必要ですね。

次回残りの52か所、連休を2回使って訪れたいと思います。