飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十一弾:長崎県壱岐離島渡良三島(原島・長島・大島)巡り
2014年1月25-26日
 

長崎県の玄界灘に浮かぶ邪馬台国時代の王都跡とされる原の辻遺跡や元寇の史跡などの歴史遺産も多い壱岐に足を運び、壱岐島の南西、郷ノ浦町に浮かぶ渡良三島(原島・長島・大島)を訪れました。

25日16:45新大阪新幹線のぞみで出発
19:14博多到達、バスで博多港に向かう。
19:34博多港到達
20:35博多港フェリーで出発
22:55郷ノ浦港到達、歩いて郷ノ浦町のホテル到達、就寝。
26日8:00ホテル出発
8:20郷ノ浦港フェリーで出発、長島に向かう。
9:00長島港到達、散策

島の周りは好漁場で漁業が中心の島ですが、和牛の飼育も行なわれいるようです。江戸時代には平戸藩の流刑地になっていました。

9:43長島港フェリーで出発
9:56原島港到達、散策

漁業が中心の島で、南側の一里崎辺りは釣のポイントですね。江戸時代は長島とともに平戸藩の流刑地でした。 自生するスイセンは原島スイセンと呼ばれ人気だそうです。昔は「春島」という表記もあったようで、春が近づくとスイセンの花が咲いたのでしょうか?

11:27原島港フェリーで出発
11:50大島港到達、散策

壱岐島の南西、郷ノ浦町に浮かぶ大島、長島、原島は“渡良三島”と呼ばれています。その中で一番大きいのが大島。北側の児島の辺りではミドリイシサンゴの群落が見られるようでダイビングスポットになっています。大島海水浴場砂浜がきれいです。夏には子供たちが泳いでることでしょう。大島神社の石造りの塔には享保年間(1716~1736年)の碑文が残されているそうです。何と書いてあるのか分かりませんが、享保の時代と言えば将軍徳川吉宗が改革を行なっていた時代。当時から漁業が盛んに行なわれていたのでしょう。長島との間にある珊瑚大橋(294m)は平成11年3月に完成しました。

13:20大島港フェリーで出発
14:10郷ノ浦港到達、郷ノ浦散策

壱岐島は佐賀県の東松浦半島から北北西へ約22kmの玄界灘に浮かぶ大きな島です。対馬島とともに古くから九州本土と朝鮮半島を結ぶ海上交通の中継地としての役割を担ってきました。対馬暖流の影響で気候にも魚場にも恵まれ、平坦な地形は農業にも恵みを与えています。発掘される多くの遺跡は古代から豊かな生活が営まれていたことを示しています。魏志倭人伝や中国の史書に記される「一大國」、あるいは「一支國」とはこの壱岐島だとされ、東南部の「原ノ辻遺跡」から出土される数々の遺品は、その中心集落だったことを物語っています。また壱岐島は幾度となく大陸からの侵略の舞台になっています。大和政権が日本を束ねようとしていた時代には朝鮮半島からやってくる海賊に悩まされ、平安時代の刀伊の入寇(1019)、鎌倉時代の元寇襲来(1247、1281)と大陸からの脅威に晒され、多くの犠牲を強いられる事件にも遭遇してきました。

17:05郷ノ浦港ジェットフォイルで出発
18:15博多港到達、タクシーで博多駅に向かう。
18:40博多駅到達
19:19博多駅新幹線のぞみで出発
21:44新大阪駅到達

今回の旅行、長崎県の壱岐に足を運び、壱岐島の南西、郷ノ浦町に浮かぶ渡良三島(原島・長島・大島)を訪れました。
2回目の訪れである壱岐、前回は壱岐島の名所めぐりでしたが、今回は壱岐沖の離島三島を訪れ散策し癒されました。


 






飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十弾:沖縄本土お城・城下町巡り
2014年1月18-19日


按司(豪族)が地方を治めた時代から、琉球王国の成立まで、グスクと呼ばれる城が多く築かれ、首里城をはじめ、複数の史跡が琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産になった沖縄県に足を運び、18か所のグスク(今帰仁城、名護城・座喜味城、伊波城、安慶名城、勝連城、中城城、浦添城、伊祖城、首里城、大里城、大城、糸数城、知念城、垣花城、玉城、南山城、具志川城)を訪れました。 

18日14:55関西国際空港出発
17:15那覇空港到達、レンタカーで名護方面に向かう。
18:30名護市内のホテル到着、近くの居酒屋で食事を済ませて就寝。
19日7:00レンタカーで出発、お城めぐりする。

今帰仁城:琉球に統一王朝が樹立(1429年)される直前の(北山、中山、南山)の北山を治めた国王の居城。1416年に北山が中山に滅ぼされた後には、琉球王府から派遣された北山監 守の居城となった。

名護城:桜(ヒカンザクラ)の名所として全国的に有名になった名護グシクは、名護市の歴史の中で重要な位置をしめる遺跡のひとつです。このグシクに、いつの頃から人が住みはじめたのか定かではありませんが、これまでに採集された中国製磁器類・類須恵器・高麗系瓦・土器などのさまざまな遺物からすると、少なくても今から約600年前(14世紀)のことだと考えられ、名護按司の居城として伝えられています。その頃は「グスク時代」と呼ばれ、奄美諸島から八重山諸島にいたるまで、人々は「グスク(グシク・スク)」と呼ばれる小高い丘の上に暮らしていたようです。また、それまでの数千年にわたる海や山の自然物の採集・狩獣による生活から、農業を中心にした生活に転換した時代でもあります。このグシクには、石垣をめぐらした防御の施設はありませんが、丘陵の尾根の緩やかな尾根を、一つは約3m、もう一つは約8mの深さに削り取った「二重の堀切」で敵の侵入を防いでいます。近年、沖縄島の数ヶ所の「グスク」で「堀切」が発見されましたが、特に、この「二重の堀切は」保存がよく注目を集めています。また、グシク内には、祝女殿内・根神屋・掟神屋・フスミ屋・神アサギなど、城区の拝所があり、大切な信仰の場となっています。

座喜味城:1420年代に有力な按司(アジ)であった護佐丸によって築かれた 城。北山が滅びた後も、その旧勢力見張る目的で造営され琉球王国成立の初期に国家権力の安定に重要な役割を果たした。

伊波城:石川市街地を北東側に見下ろす標高87mの丘陵に位置し、東西45m、南北52mの範囲に一重の石垣をめぐらせた単郭式の城で面積は3712㎡の比較的小型のグスクといえます。城壁は自然の地形を巧みにとりこみながら石垣をS字状にくねらせ、自然石をほとんど加工せずに積み上げていく野面積という技法で作られています。平成元年(1989年)の発掘調査によって城内の地表下50cmから数回の立替をしたと思われる無数の柱穴跡が発見され、掘っ立て柱建物の存在が確認されました。また大量の地元産土器や外国産土器中国産の青磁や白磁、三彩陶器・褐釉陶器・染付・南島産の須恵器なども出土しており、伊波按司の交易の広さと力を知る事ができます。また当時の人々の食べ残した貝殻や魚や猪の骨なども出土しています。これらの遺物は13世紀後半から15世紀のものが多く出土していますが、同時に貝塚時代の土器も多数出土しており、約二千八百年前の貝塚が伊波グスクを含めたこの全体にあったことがうかがわれ、この地域が古代から人々の重要な居住地であったことを改めて教えてくれます。

安慶名城:安慶名城は、14世紀の頃、安慶名大川按司によって築城されたと伝えられ一名大川城とも呼称されています。城跡は天願川畔の平地に屹立する琉球石灰岩の山全体を占め自然の断崖を巧みに利用して城壁とし、さらに山の柱腹部から野面積手法によって城壁を築き上げています。中心部は山頂大地であり、これを泡護するように外郭をめぐらした輪郭式の構造をもっています。内郭南側に開口する城門までは、東側下方から斜面に沿って石造りの階段がとりつけられていています。城門は自然の岩盤の裂け目を利用して、これを一部掘削し、さらに切石を組み合わせて、アーチ状に建造したものとなっています。城門の間隔は約1.0mと比較的狭くしてあり、内部中央付近の上下両脇には扉をとりつけるための敷居・鴨居穴が見られます。城内からは中国製の陶磁器やグスク時代の土器等が出土しています。

勝連城:琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利の居城。阿麻和利は、1458年に国王の重臣で中城に居城した護佐丸を滅ぼし、さらに王権の奪取をめざして国王の居城である首里城を
攻めたが大敗して滅びた。これにより首里城を中心とする中山の王権は安定した。

中城城:琉球王国の王権が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利の居城。阿麻和利は、1458年に国王の重臣で中城に居城した護佐丸を滅ぼし、さらに王権の奪取をめざして国王の居城である首里城を攻めたが大敗して滅びた。これにより首里城を中心とする中山の王権は安定した。

浦添城:首里城以前の中山王城として知られています。発掘調査から十四世紀頃の浦添グスクは、高麗系瓦ぶきの正殿を中心に、堀や石積み城壁で囲まれた巨大なグスクで、周辺には王陵・寺院・大きな池・有力者の屋敷・集落などがあったと考えられています。のちの王都首里の原形がここでできあがっていたようです。王都が首里に移された後、浦添グスクは荒廃しますが、一五二四年頃から一六〇九年の薩摩藩の侵攻までは浦添家の居館となりました。去る沖縄戦では、日米両軍の激しい戦闘により、戦前まで残っていた城壁も大部分が破壊されましたが、これまでの発掘調査によって、石積み城壁に基礎や、敷石遺構、建物跡などが良好に残っていることが確認されています。

伊祖城:伊祖部落の北東方に位置し、東西に延びる標高五〇㍍~七〇㍍の琉球石灰岩の丘陵上に築かれた城である。眼下に沖縄最古の貿易港牧港をはじめ宜野湾、北谷の海岸、読谷の残波岬、南西には慶良間諸島を望む雄大な景観を呈し、要害の地になっている。伝承によると伊祖城は英祖王(一二二九~一二九九年)の父祖代々の居城といわれ、英祖王もこの城で生まれたという。比較的規模の小さな城であるが、 丘陵を取り囲む形で石垣が巡らされている。石積みは切石積みと野面積みの両積石の技法が用いられ、東北向きの城門付近から本丸後(現伊祖神社付近)にかけては切石積み、南西側の断崖上の崖縁は野面積みとなっている。伊祖城跡の考古学的な調査はまだ実施されていないが、城内外からはグスク系土器や須恵器、中国陶器等が採取されている。

首里城:首里城は、三山時代は中山国王の居城であったが、1429年の琉球王国統一後は1879年に至るまで、琉球国王の居城として王国の政治・外交・文化の中心的役割を果たした。

大里城:大里村字西原の北側、標高約150メートルの琉球石灰岩の丘陵に形成されている。北側から西側にかけて急峻な崖状をなし、崖を背に堅固な城壁と天然の地形を巧みに利用したグスクである。この城跡は別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった南山王・島添大里按司によって築城されたと「中山世鑑」の中に記されている。また尚巴志が最初に攻略した城でもあり、後に三山統一のきっかけともなり歴史的に重要なところである。城の規模は東西に長く延び、北側の最奥部の本丸跡を取り巻く形で南側、東側に広く連郭式の城壁が連なり、石積みは野面積みが大半である。1991年の村内遺跡分布調査の際試掘した結果、本丸跡から褐袖陶器、中国青磁、グスク土器、青銅製の飾り金具、丸玉、鉄釘などが出土し14世紀から16世紀の資料となっている。

大城:四面の崖に囲まれた城、初代琉球国王、大城真武按司が築城したと伝えられる。ウフグスクの別名を持つ。

糸数城:現在の糸数村落南側の断崖上に築かれた古城で、築城年代は不明ですが、玉城按司が二男を大城按司に、三男を糸数按司に任したという伝説があり、おそらく「三山分立時代」の初期14世紀前半の築城であろうと思われます。城壁は野面積みと切石積みと両方用いられ、切石積の部分が最も高く約6メートルで、この上に立つと太平洋と東支那海が眼下に望めます。構造的には比較的単純な城で、西側は断崖を利用し、東北東に城門をひらいています。城内の随所には遺物包含層がみられ、そこからは土器に混じって中国製品の陶磁器類が発見されます。また、「琉球国由来記」にも記載された「糸数城之殿」も城内の一角にあります。

知念城:知念按司の居城であると伝えられ、17世紀末に改築され、後に知念番所(役所)として使われていました。知念城跡の周りには、古屋敷跡、ノロ屋敷跡、古屋敷跡、知念按司墓、受水走水とともに稲作発祥の地があります。

垣花城:沖縄県の指定史跡になっているこの垣花城が作られた年代は明らかではありませんが、同じ南部にある糸数城などとと同じ14世紀前半頃ではないかと言われています。道路沿いにある少し広い所に車を停めて細い山道を登っていくと、すぐにいくつかの石垣が現れます。自然の形のままの琉球石灰岩を積み上げた野面積みという方法で、石をそれぞれうまく組み合わさるような形に加工した後に積み上げられる相方積みなどと比べると古い形式のものだという事が解ります。

玉城:
別名アマツヅ城とも称され、築城年代や歴代の城主についてはさだかでない。「島尻郡誌」では、「アマミキヨが築いた城であるとの伝説があって、城主は、一の郭、二の郭、三の郭の三つの郭からなる階段状の山城で天然の要害の地に築かれている。城壁は一の郭のみよく原型をとどめていて、二の郭と三の郭の城壁は、戦後、米軍基地建設の骨材料として持ち去られ、現在根石がかろうじて残っているにすぎない。一の郭は、東北東に自然岩をくり抜いた城門を構え、城内には「天つぎあまつぎの御嶽」(神名「アガル御イベ、ツルベ御イベ」)が祀られている。

南山城:琉球三山分立時代(14世紀頃)に栄えたグスクです。南山は明国と交易を盛んに行い、財源を得たり、明文化を移入したりして城を中心に南山文化を築いていました。15世紀になって中山王尚巴志に滅ぼされるまでの朝貢回数は22回を数えます。一九八四年、発掘調査が市教育委員会によって行われ、中国製陶磁器やグスク系土器の他、備前焼きスリ鉢、鉄鏃、ガラス製勾玉などが出土しています。これらの遺物から南山城は13世紀頃に築かれ、14~15世紀前半が特に栄えていたことが分かりました。南山の東方には水量豊かな「カデンガー」、北方には源為朝と王の妹との逢引場所だと伝わる「和解森」(わだきなー)があります。

具志川城:断崖の付け根のところに城門があり、そこから一段下がって二の丸、さらに一段下がって本丸が海に突き出ています。石垣は珊瑚性石灰岩の野面積みですが、門の部分には、切石を用いた痕跡が残っています。城の規模は、長さが東西82~3メートル、南北の巾は二の丸で33メートル、本丸で16~7メートルです。二の丸には穴(俗に「火吹き穴」)があって海に通じています。久米島の伝説によれば、この城は久米島の具志川城主真金声(まかねくい)按司が伊敷索(いしきなわ)按司の二男真仁古樽(まにくたる)に攻められて落城し、島を脱出して本島に逃れ、故郷と同じ名の具志川城を築いたと言われています。その真偽は不明ですが双方の立地や規模、構造はよく似ています。

19日19:30那覇空港出発
21:15関西国際空港到達。 

今回の旅行、沖縄本土に足を運び18か所のお城グスクを訪れました。

琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に指定され、結構見るべきものがあり、琉球王国成立までの歴史を学ぶことができました。

一泊二日の旅でしたが18箇所のグスクをゆっくり巡ることができました。




 
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十九弾:マカオ&香港観光
2014年1月11-13日
 

中華人民共和国の南東に位置する特別行政区である16世紀にポルトガル人が初めて上陸して以来、東洋と西洋の文化が共存してきた街並みが2005年に世界遺産に登録され、1999年ポルトガルから中国に返還されたマカオ、19世紀半ば頃までは清王朝が支配していたが対外戦争での相次ぐ敗北によってイギリスの統治下に移り、20世紀には貿易港として急速に経済発展を遂げ、1997年には中華人民共和国に返還された香港を訪れました。

1月11日18:25関西空港キャセイパシフィック航空で出発
21:45香港空港到達、エアポートエクスプレスで青衣駅到達、タクシでホテルに向かう。ホテル到着後就寝。
12日7:00出発、タクシーで青衣駅に向かう。
青衣駅MTRで出発、香港駅到達、歩いてマカオフェリー乗り場に向かう。

8:15香港上環フェリーターミナル高速艇で出発
9:05マカオフェリーターミナル到達、時計回りでマカオ半島を散策する。

フィッシャーマンズワーフ、マカオのカジノ王、スタンレー・ホーが20億香港ドルを出資をして作られました。総面積111,500平方メートルの敷地にショップ、レストラン、ホテル、コンベンション&エキシビション施設などが入る総合娯楽施設です。大きなゲームセンターもあるので、マカオを訪れる子供連れのファミリーにとっては名所です。

2010年1月に新口岸のウォーターフロントにオープンした科学館。体験型で科学や環境エコが学べる施設となっています。入り口はいって一番最初は中国の有人宇宙飛行ミッション、神舟7号の模型ですマカオ科学館を訪れる。

マカオ半島のウォーターフロントにある、高さ20メートル、重さ50トンのブロンズ製の観音像です。3000万パタカを投資し、1999年3月に落成しました。観音像の土台は蓮の花を模したドーム型の建物で、内部は仏教文化センターになっています。仏像や仏教関連の展示物があるほか、観音像のミニチュアなどの記念品も売ってます観音像を訪れる。

高さ338m。東京タワー(333m)よりも高く、マカオ半島の南岸にそびえるこのタワーは、2001年の完成以来、21世紀マカオのシンポルとして親しまれている。変貌激しい街を一望にできる展望台やレストラン&バーも充実。さらにギネスに認定されている233mから行うバンジージャンプなど、スリルあふれるアトラクションも人気のマカオタワーを訪れる。

媽閣廟があるバラ岬は、ポルトガル人が最初に植民を行った場所と信じられていて、「媽閣」の広東語読みがマカオの名前の由来になったとされています。阿媽は海の女神で、台湾や中国南方で信仰されている神様です。媽閣廟にある4つある廟のうち、3つに阿媽が祀られています。毎年、旧暦3月23日に阿媽の誕生日を祝う祭りが行われます媽閣廟を訪れる。

イタリア人の建築家、カッスートによって設計され、1874年に落成しました。元はマカオの警察部隊を補強するためにインドのゴアから派遣されたムーア人兵士の宿舎でした。現在は港務局のオフィスビルとして使われています。建物の三方面は回廊に囲まれ、風通しがよく、湿気や雨の多いマカオの気候に向いた設計となっています港務局ビルを訪れる。

1622年にペンニャの丘にオーガスティン派の修道士によって建てられたこの教会は、船乗りの守護者であるペンニャ・デ・フランサに捧げたものです。1620年にオランダ人と海で戦ったポルトガル人が無傷であったことから、この教会を建立しました。教会のファザードの上部にフランサ像がたっており、前庭にあるのはルルドの聖母像です。教会の正面にはマカオタワーやマカオ市内の街並みが見渡せますペンニャ教会を訪れる。

リラウとはポルトガル語で山からでた湧き水のことです。昔、ここはマカオの貴重な水源のひとつで、ポルトガル人が早くから居住していた地区でした。当時の民謡に「リラウの水を飲んだ者はマカオを決して忘れない。マカオで家を持ち、マカオに帰るだろう」という歌があり、ここから湧き出る水はそれほどポルトガル人によって貴重でした。現在ではこの井戸はマカオ政府によって、ふさがれていますリウラ広場を訪れる。

中国近代の思想家、鄭觀應の故居で1811年に建てられました。西洋の建築手法を取り入れた、初期のマカオの中国建築といわれています。敷地面積は4000平方メートルもあり、多い時で300名ほどが住んでいました。2002年からの修復で、長い間、公開されていませんでしたが、2010年2月に修復を終え、一般公開されるようになりました鄭家屋敷を訪れる

1558年から1560年に間に建立された、マカオ三大古堂のひとつ。昔、この教会から海が見え、帆船時代は風の善し悪しが航海の安全につながったので、ポルトガル人はここからよい風が吹くようにと祈っていました。それで、この教会は「風順堂」と呼ばれるようになりました。教会内部には聖ローレンスと聖母伝説のステンドグラスもあります。庭にはかつて共同墓地があり、「1627」「1811」と刻まれた十字形の墓碑も残されていますローレンス教会を訪れる。

1746年から1758年にかけてイエズス会によって建築された教会。イエズス会の修道士が追放された後、ラザロ派の聖職者たちに引き継がれ、1800年には「レアル・セミナリオ」と呼ばれるようになりました。ドーム型の美しい天井には、「IHS」というイエズス会のシンボルが書かれ、フランシスコ・ザビエルの上腕部の遺骨も祀られています。地元の人は「三巴仔」と呼んでいます聖ヨセフ修道院及び聖堂を訪れる。

1586年にスペインから来たオーガスティン派の修道士たちによって創建された修道院がもとで、現在の建物は1874年に再建されたものです。何度か修復された時に、資金がなくなったためにワラを使ったことがあり、ワラが龍の髭に見えたことから、地元の中国人が「龍の髭寺院」と呼ばれたこともありました。主祭壇にある十字架を担いだキリスト像は、毎年四旬節の最初の日曜日に「キリスト受難行列」の儀式の中で、いったんカテドラルに運ばれた後、翌日にこの教会に戻されます聖オーガスティン教会を訪れる。

マカオ街歩きのランドマークであるセナド広場の真向かいに建物で、現在はマカオの地方自治局があります。最初の建物は1584年に完成したとされており、その後、何度か改築されたが、マカオの市政はずっとここで管理されてます。中庭へ行く途中の壁にはポルトガルの青いタイル(アズレージョ)が美しく飾られていて、中庭にはポルトガルの詩人ルイス・カモンエス、作家ジョアン・デ・デウスの胸像、ポルトガルの大航海時代を彷彿とさせる天球儀を表した石像などが見られます民政総署ビルを訪れる。

セナド広場(議事亭前地)はポルトガル統治時代の名残を色濃く残す美しい石畳や建物に囲まれ、周囲にはマカオのシンボル聖ポール天主堂跡や旧マカオ市政庁、仁慈堂など数々の観光名所が点在し、マカオ観光の拠点でもあります。

セナド広場の一角に建つ、白が美しい新古典主義様式の建物。現在は公証役場として使われていますが、もともとは1569年にカルネイロ司教によって設立された仁慈堂の施設です。仁慈堂とはポルトガルのレオノール女王が1498年に本国で創設した慈善福祉団体。建物向かって右側にある入口から階段をあがったところにある博物館には、カトリックゆかりの宗教画、陶器などの展示品があります。博物館の奥のテラスからはセナド広場の景観を見ることができます仁慈堂大楼を訪れる。

1792年に建てられた関帝を祀る廟。関帝は三国志の英雄で、マカオでは加護と安定をもたらすとして多くの人が家庭や職場、そしてカジノでも関帝を祀っています。この廟はかつての「三街会館」で、付近にある營地大街、関前正街、草推街の商店会の役割を果たしていました。1912年にマカオ中華総商会という団体ができてからは三街会館としての役割は終わりました三街会館(関帝廟)を訪れる。

セナド広場を奥に入り、突き当たり左に現れる教会です。1587年にメキシコのドミニコ会の修道士によって創建されました。かつては木造だったので「板樟堂(板造り堂)」と呼ばれました。バロック式の祭壇には聖母子像が祀られており、毎年5月13日に行われるファティマの巡礼では、午後6時にここから聖母像がペンニャ教会まで運ばれます。教会奥の鐘楼には約300点の宗教品が展示される美術館になっています聖ドミニコ教会を訪れる。

中国広東省出身の商人だった、盧華紹の1889年に建てられた邸宅です。盧華紹は18世紀半ばにマカオに移り住み、銀行業などで財を築きあげました。建物はレンガ使いの2階建てで伝統的な中国式の住居ですが、西洋様式や風水設計も取り入れた芸術性の高いものになっています。定期的に中国の民間工芸のワークショップも開催されています盧家屋敷を訪れる。

1622年に建てられた大聖堂で、聖母マリア誕生に捧げられ、マカオのカトリック教会の中心的役割を担っています。昔は周りに高層ビルがなかったため、それから海を眺めることができたので、船乗りの妻たちはこの教会で夫が帰ってくるのを見ていました。そのため「望人寺(人待ち寺)」とも呼ばれていました。「キリスト受難行列」の儀式もここで行われますカテドラルを訪れる。

海抜52メートルの丘の上に、1617年から1626年の間にイエズス会の修道士によって築かれた要塞。敷地面積は8000平方メートルで、四方を防壁が囲んでいますが、中国に近い北側の部分は、中国人の要求によって低く改造されました。1965年から1995年の間には、ここに気象庁の建物がおかれましたが、その後、1998年にマカオ博物館が完成しましたモンテの砦を訪れる。

聖ポール教会はイエズス会によって1602年に創建された教会で、すぐ横にはアジア初の大学になった聖ポール大学がありました。1835年の火事で教会の前壁と68段の階段だけが残されました。ファザードの彫刻は見事で、「石の説教」と言われるほどに宗教的な意味が彫られています。ファザードの下から2段目のキリスト教の4名の聖人像にはフランシスコ・ザビエルを見ることができます。裏手地下にある天主教芸術博物館には宗教美術品が展示されています聖ポール天主堂跡を訪れる。

ナーチャ廟は聖ポール天主堂跡のすぐ横にある、1888年創建の小さなお寺。ナーチャとは暴れん坊の男の子で、孫悟空にも登場します。武芸の達人で、疫病退治の神様として有名です。ナーチャ廟に隣接して、同じく世界遺産に認定された旧城壁があります。この壁は17世紀初期にポルトガル人が外敵を防ぐために築いたもの。材料はシュナンボーという、土砂、わら、牡蠣の貝殻を混ぜたもので出来ています。

元になった小さな礼拝堂は16世紀に建てられたものですが、最初に石造りの建築が作られたのは1638年のことで、庭に「1638」と記された十字架が残っています。教会は何度か火事にあっていますが、現在の建物は1930年に完成したものです。内部は白い壁にクリーム色の天井が落ち着いた雰囲気を醸し出しています聖アントニオ教会を訪れる。

なだらかな小高い丘全体が公園になっていて、イギリスから招聘した庭師たちが植えたという、中国、マラッカ、ジャワ、マニラ、インド産の植物が生い茂っています。巨大な岩でできた祠の中に、ポルトガルの詩人、ルイス・カモンエスの胸像が安置されています。カモンエスは1557年から1559年にかけてマカオに滞在し、その間に「ウズ・ルジアダス」という叙事詩の一部を書きましたルイス・カモンエス公園を訪れる。

1770年代に建てられた、ルイス・カモンエス公園とプロテスタント墓地の間にある庭園と洋館。もとは地元の富豪であったマヌエル・ペレイラの別荘でした。のちに東インド会社がここを借入れ、スタッフを駐在させていました。その後はマカオ政府の財産になり、現在では東方基金会という財団のマカオ本部として使用されていますカーサ庭園を訪れる。

1821年に作られた、マカオで初めてのプロテスタント墓地です。マカオ在住のイギリス人画家、ジョージ・シナリーやマカオに来た初めての宣教師であるロバート・モリソンのお墓があります。モリソンは聖書の中国語訳を作ったことでも有名です。墓地の入口にはモリソンに敬意を表して名付けられたモリソン礼拝堂があり、そのステンドグラスには中国語で「太初有道(初めに世界ありき)」と書かれてありますプロテスタント墓地を訪れる。

1627年に完成した中国寺院。入ってすぐの伽藍には四大天王の石像があり、奥に進むと6つの仏殿が構えています。大雄宝殿には三宝佛、観音殿には觀音菩薩、韋駄天、十八羅漢など。地蔵殿には地蔵王、閻魔様など。武帝殿には関帝、馬大将などが祀られています。寺の奥の庭には、1844年、清国とアメリカとの間の通商条約が交わされたという石のテーブルがあります観音堂を訪れる。

1911年に中華民国をうちたてた孫文は、辛亥革命以前、マカオの鏡湖医院で西洋式の眼科医として働いていました。この記念館は厳密にいうと孫文が住んでいた家ではありませんが、彼の息子が1918年に建てたもので、現在では孫文の写真や家具などの遺品を展示しています。建築様式はムーア式とアールデコ調の混合となっています孫文記念館を訪れる。

1622年から1638年にかけてポルトガル人によって築かれた、マカオ半島で一番高い場所(海抜91メートル)にある要塞。ここには、1622年に建てられたとされる、聖母マリアを祀るギア教会があります。かつてポルトガルの船がマカオの近くで台風に遭遇したとき、丘の上から数本の光線がでて、進路を導いてくれました。それで船乗りたちは自分達を助けてくれたのは聖母マリアのご加護だとして、その丘の上に礼拝堂を建てた、という逸話があります。また、1865年には灯台も建てられ、台風の警告シグナルもここに掲げられますギア要塞、ギア灯台、ギア教会を訪れる。

マカオグランプリ歴代の優勝マシンの博物館、ポルトワインの試飲。マカオの文化を知るのにうってつけの博物館、「グランプリ博物館(大賽車博物館)」と「ワイン博物館(葡萄酒博物館)」です。2つは隣接していて、両方の博物館を見ることができる。

18:30マカオフェリータミナル高速艇で出発
19:25香港上環フェリーターミナル到達、歩いて香港駅に向かう。香港駅MTRで出発、青衣駅到達。タクシーでホテルに向かう。就寝。
13日7:30ホテルをタクシーで出発、青衣駅到達、MTRで東涌駅に向かう。
8:10東涌駅到達、バスで寶蓮寺に向かう。
9:05寶蓮寺到達、散策する。

1924年に完成した寶蓮寺は、規模の大きさから歴史が浅いにも関わらず、「南天仏国」と呼ばれ、香港四大禅林の中で一番有名な寺とされています。元中国仏教会会長の趙樸初氏からも称賛され、「一佛四菩薩」の5番目の大名山とも言われました。寶蓮寺の前には広場があり、その中に北京天壇圜丘をモチーフにした三層円形の祭壇があります。これはちょうど向かいにある天壇大仏と一直線に見え見事に調和しています。
お寺の前には4本の石柱でできた牌坊が立ち、ここを通り過ぎると入り口につながる道が見えます。左右には緑がいっぱいで穏やかな雰囲気が漂い、まるで聖地を訪れているような平和な気持ちになります。寶蓮寺の左前には数十メートルの小さな山があり、木魚の形をしているため、「木魚峰」と呼ばれているそうです。

スペースシャトルからでもよく見える地球上の建築物といえば、万里長城。飛行機で香港上空からよく見えるものといえば、ランタオ島中西部、標高520メートルにある昂坪高原、木魚峰の上に鎮座する天壇大仏!?奈良東大寺の慮遮那仏と鎌倉長谷高徳院の阿弥陀仏も有名ですが、天壇大仏は世界最大だそうです。

寶蓮寺を過ぎ、山道を進み、およそ20分ほどで目指す心経簡林が見えてきます。般若心経が彫られた柱が見えてくると、なんともその神秘的な外観に心の中の重いものが何かにすーっと引き出され、無の境地になったような感覚がしました。少しずつ階段を上り、一つ一つの般若心経を読んでいると、すごく尊い教えがそこにはあり、頭の中がすっきりとするような気分にもなりました。全部で38本の木の柱が並んでいてそれぞれに般若心経が彫られています。その柱を、「空」を意味する八の字に並べているのには風水上の理由からと言われていますが、まさに気の流れにより、心の中の悪いものが外へと出ていき、新しいパワーをもたらされたような感覚です。

11:30寶蓮寺ロープウエイ昂坪360で下山する。

昂坪360は全長5.7キロ、終点の昂坪駅まで約20~25分の空の旅です。車両はヨーロッパアルプスのケーブルカーと同じタイプを使い、全部で112車両あります。1時間に最大3,500人を乗せることができるそうですよ。スタートから終点の昂坪駅の間に8つの鉄塔があり、そのうち5本は公園の中にあります。鉄塔と鉄塔の距離が比較的長いため、大型のケーブルカーを使用することができるそうです。ケーブルカーの内部に座席は10席あり、車椅子用のスペースも用意されています。案内によると一つのケーブルカーの定員は17人。エアコンはありませんが、窓の上部を開けることができるため、運行中は外から強風が入ってきて、夏でも寒いくらいです。

12:05東涌駅到達、MTRで青衣駅経由してエアポートエクスプレス香港空港に向かう。
13:30香港空港到達、昼食を済ませて
16:35香港空港キャセイパシフィック航空で出発
21:00関西空港到達。

今回の旅行、一般的にはカジノで有名なマカオ、今回は2回目の訪れでカジノとは縁の遠い、ポルトガル文化と中国文化が融合したマカオ半島に位置する世界遺産に指定された歴史市街地区を時計回りで歩いて訪れました。一方急速に進化している大都市香港、3回目の訪れで今回は郊外のランタオ島に足を運び全長5.7キロの昂坪360ロープウエイで高台に上り巨大仏、寶蓮寺の大雄宝殿、パワースポットの心経間林を訪れ癒されました。

次回は香港の郊外の観光地、マカオの南に位置するタイパ、コタイ、コロアン島を訪れたいと思います。

 

























飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十八弾:中近東ヨルダン・イスラエル・パレスチナ自治区・ドバイ観光
2013年12月28日ー2014年1月4日

中近東に足を運び 、アラビア半島北西部にある立憲君主国。国土の大部分が砂漠。西はイスラエルと国境を接し,南端部はアカバ湾に臨む。一六世紀以来オスマン帝国に支配されていたが,第一次大戦後イギリスの委任統治領となり1946年独立。リン鉱石を産する。住民はアラブ人で,イスラム教徒。首都アンマン。面積8万9千平方キロメートル。人口570万のエルダン、地中海に面し、その魅力は多彩だ。聖書の舞台となった土地として、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教それぞれが聖地としているエルサレムがある。また、最近人気の死海エステ、ダイナミックな地球の息吹が感じられるネゲヴ砂漠、サンゴと熱帯魚が揺らぐ紅海、地中海沿岸のローマ遺跡、北部に広がる豊かな自然など、面積は四国ほどの小さな国ながら、たくさんの見どころが詰まっているイスラエル、イスラエルに住んでいるパレスチナ・アラブ人が、独立をして自分達の国家を作りたいという考えに基づいて、とりあえず作ることができた国家内の国家、つまり自治権のパレスチナ自治区、アラビア半島の最大の商業都市であり石油資源に乏しく、早くからリゾート開発や、外資系資本の誘致に力を注いでいた。冬はヨーロッパからの避寒地としても有名。その目覚しい繁栄ぶりと、戒律の厳しいイスラム教国の中ではめずらしく開放的な雰囲気を持ち合わせているため、「中東の香港」などと呼ばれたりもするドバイを訪れました。


12月28日23:40関西国際空港エミレーツ航空で出発
12月29日5:45(時差-5時間)ドバイ空港到達
7:55ドバイ空港エミレーツ航空で出発
9:35(時差-7時間)アンマン・クイーンアリア空港到達、バスでペトラ方面に向かう。
途中レストランで昼食
14:00リトルペトラ到着、リトルペトラを散策する。

シーク・アル・バリド、通称リトルぺトラは車でわずか10分離れたペトラの北に位置しています。ミニチュアシークの中に古典的な寺院があり、古代のキャラバンのルートだったワディアラバ砂漠とガザ、そしてエジプトと地中海沿岸を結ぶ点にあるペトラの街の重要な拠点となっていました。リトルペトラの中にある350m ほどの道なりに、墓や寺院、トリクリウム、水路や貯水槽が現在残っている。特に注目すべきなのは紀元1世紀に壁に描かれたフレスコ画の跡です。

16:30ペトラ市内のホテル到着
19:00ホテルのレストランで食事を済ませて就寝。

30日8:30バスで出発、ペトラ遺跡に向かう。

8:45ペトラ遺跡到達、散策。

ペトラ遺跡は19世紀前半、スイス人イスラム学者によって発見されたものだが、たいへん謎の多い遺跡である。まず、この遺跡を築いたナバタイ人というものがよくわからないらしい。もともとは砂漠の遊牧民であったが、交易の要衝をおさえ、隊商の保護を保証する代わりに税を徴収して財政をまかなうようになったと考えられているようだ。このナバタイ人の国の首都であったのがペトラで、1世紀から3世紀くらいまで商業や交通の要地として、また神聖な場所として栄えたらしい。カズネ・ファルウン(ファラオの宝物庫)やエッディル(修道院)などをはじめ、ペトラの建造物は基本的には岩を掘ったり削ったりしたものであり、何の目的で作られたかもはっきりしないものが多い。

古代世界の 8 番目の不思議とも称されるこのペトラ遺跡は、ヨルダンが世界に誇る貴重な宝であり、観光の最大の目玉となっています。 2000 年以上前にこの地に定住した勤勉なアラブ人の一族ナバテア人は、切り立つ岩壁を削り、他に類を見ない大都市を建立しました。こうして誕生したペトラは、中国、インド、アラビア南部とエジプト、シリア、ギリシャ、ローマを結ぶ、絹や香辛料などの交易都市に発展しました。

都市にはシークを通って入ります。シクは、両側に高さ 80 m の絶壁がそびえ立つ、1 km を超える狭い通路です。 シクを歩いて通るだけでも貴重な経験になります。 岩の色や形は、目のくらむようなすばらしさです。 シクの出口に到達すると、エルカズネ(宝物殿)が見えてきます。エルカズネは畏敬の念を抱かせるような建物です。 やや暗いピンク色の切り立つ岩壁を削ってできた幅 30 m、高さ 43 m の正面は際立って大きく、周囲のものが小さく見えます。 これはナバテア人の偉大な王の墳墓として 1 世紀初頭に造られたもので、いにしえの人々の高度な技術をうかがうことができます。

ペトラ峡谷に入ると、その自然の美しさと見事な建築物に言葉を失うことでしょう。 岩から精巧に削りだされた何百もの墓には複雑な彫刻が施されています。これらの墓は、多くが地震で崩壊した住居とは異なり、来世まで持ちこたえるよう頑強に造られており、現在でも 500 ほど残っています。墓の中は空ですが、暗い入口が並ぶ前を通っていくと不思議な気分になります。 3,000 人を収容できるローマ様式のこの劇場もナバテア人の巨大な建造物です。 3,000 人を収容できるローマ様式のこの劇場もナバテア人の巨大な建造物です。 オベリスク、寺院、犠牲祭壇、列柱のある通りがあり、はるか上には峡谷を見渡す感動的なエドディル修道院が建っています。岩を削って造られた 800 段の階段を上がるとエドディルに辿り着きます。
ここには、ペトラ考古学博物館とペトラ・ナバテア博物館という 2 つのすばらしい博物館もあります。ペトラ地域で発掘されたものが展示されており、ペトラの鮮やかな過去に思いを馳せることができます。シャラー山地のアーロン山の頂上には、マムルーク朝のスルタン、アル・ナシール・ムハンマドがモーセの兄アーロンの死を悼んで建立した 13 世紀の聖堂が見えます。

16:00ペトラ遺跡バスで出発、ホテルに向かう。
16:30ホテル到着、ホテルのレストランで夕食を済ませて就寝。

31日7:00ペトラのホテルバスで出発、死海に向かう。
9:00死海到達、浮遊体験を経験する。

ヨルダンとイスラエルの国境を流れるヨルダン川が行き着く、地球上で最も低い地点にある湖。南北75km、東西15km、最大水深426mあり、海抜はマイナス400m。死海は塩分濃度が平均25%もあるので浮力が強く、容易に体を浮かせることができる。また気候は暖かく、肥沃な土はミネラルが豊富で、ここに来れば病気が治癒するといわれる。

レストランにて昼食後ヨルダンとイスラエルの国境に向かう。

国境を2時間かけて通過、イスラエルのエルサレムに向かう。

16:30エスサレムのホテル到着、ホテルのレストランで夕食を済ませて就寝。

1日6:40バスで出発
7:00エルサレム旧市街地到達、散策

1981年に登録された世界遺産(文化遺産)で、ヨルダン川に近い要害の地にある城郭都市。世界三大宗教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地として知られる。城壁に囲まれた旧市街には、紀元前965年、ソロモン王によって創建され、前20年、ヘロデ王によって改築され、後70年、ローマ軍によって破壊された「嘆きの壁」(ユダヤ教徒の聖地)と呼ばれる神殿の壁をはじめ、キリスト教徒の「聖墳墓記念聖堂」、イスラム教徒の「岩のドーム」(聖なる岩を安置する、現存する最古のイスラム建築。この岩が、イスラム第3の聖地)などがある。歴史上重要な建造物として評価され、世界遺産に登録された。1982年、民族紛争などから、危機遺産リストに登録された。ヨルダンによる申請遺産。

旧市街を取り囲む城壁には8つの門が設けられています。内部を四分するキリスト教徒地区、イスラム教徒地区、ユダヤ人地区、アルメニア人地区それぞれと外部をつなぐ生命線として、いずれの門も他にはない独特の表情と雰囲気を持っています。

神殿の丘はユダヤ民族栄光の第二神殿がローマ帝国によって滅ぼされた後、その至聖所があった丘の上の同じ場所に、イスラム教徒は自らのモスクを建てました。喜びと憎しみ、慈愛と不寛容、祈りと剣。1km四方の中にあらゆるものが同居するエルサレム旧市街の、まさに原点がここなのです。

ユダヤ教の聖地:旧約聖書によれば、ユダヤ人の始祖アブラハムはこの丘で息子イサクを神に捧げようとしました。その後ダビデ王が都を置き、その子ソロモンの時代には壮麗な神殿が築かれ王国は栄華の絶頂を誇ったとされています。ローマ帝国によって神殿が破壊された後、長い苦難の歴史を乗り越えてイスラエルが建国されましたが、ユダヤの人々の究極の望みは今なおこの丘に神殿を再建することにあるのです。1948年の戦争後はヨルダン領となり、ユダヤ人の立ち入りが禁止されていましたが、1967年の戦争の結果、西の壁はユダヤ人の手に戻りました。


イスラム教の聖地:イスラム教の預言者ムハンマドは、大天使ジブリール(ガブリエル)に連れられ、天馬に乗ってこの丘から昇天したと伝えられており、今もムハンマドの足跡が残るという岩が安置されています。。この伝承に基づき、7世紀にエルサレムを征服したウマイヤ朝は、金色に輝くドームとイスラミックブルーのタイルで飾られた、八面体の壁を持つモスクを建設しました。同じ敷地に、対照的な黒いドームを持つエル・アクサ寺院が隣接しています。これらふたつの施設の存在により、今ではメッカ、メディナに次ぐイスラム教第3の聖地となっています。

嘆きの壁:神殿は西の壁だけが2000年の時を超えて現存しています。入口は男女別に分かれ、男性は帽子着用が条件です。ユダヤ教徒に混じり、壁に手を触れてみました。

嘆きの壁の脇にあるアーケードを抜けてイスラム教徒地区をしばらく行くと、ヴィア・ドロローサ、すなわちイエスが十字架を担いで歩いた道にぶつかります。時のローマ総督ピラトの官邸から、磔にされたゴルゴタの丘(現在の聖墳墓教会)まで続く約1kmの道のりには、新約聖書の伝承に基づいて「ステーション」と呼ばれる14のポイントが設けられており、キリスト教徒にとって最も大切な巡礼の道となっています。

聖墳墓教会という名に偽りがないよう、一応イエスの墓があり、その内部はこんなふうになっています。でも、当然のことながらここには遺体はありません。

シオンの丘:マッサダ陥落以来、2000年にわたる流浪と迫害の歴史に耐え続けてきたユダヤ人にとって、伝統的にエルサレムやイスラエルを意味する「シオン」という言葉には、特別な感情を呼び起こす響きがあり、「シオニズム」の語源にもなっています。そんな記念すべき名を持つこの丘には、なぜかシナゴーグではなくキリスト教会が多く建っています。

鶏鳴教会:弟子のペトロが自己保身のため「私はイエスを知らない」と3度嘘をついたところ、イエスの予言通り鶏が鳴いたといいます。今も昔も人間は弱い生き物なんですね。

最後の晩餐の部屋:最後の晩餐はキリスト教のミサの原型になりましたが、その舞台はイスラム教のモスクやユダヤの王ダビデの墓があるなど、宗教複合体というべき造りをしています。

旧市街の東に位置するオリーヴ山は、山というより小高い丘といった感じです。山頂の展望台からはエルサレム市街が一望できる。

ゲッセマネの園:万国民の教会の裏にあるこの園のオリーヴの樹は樹齢2000年を超えると言われています。イエスが最後の夜に祈りながら流した涙を知っているのです。

万国民の教会:できることなら十字架刑から逃れたい。だがそれが神の御心であるのなら、甘んじて受け入れるのが私の務めのはず。それはわかっているのだが…。最後の晩餐の後、残り少ない時間の中で、「人の子」イエスは信仰と現実のはざまに悩み苦しみます。新約聖書のクライマックスの舞台です。

17:00エルサレムのホテル到着、ホテルのレストランで夕食を済ませて就寝。

2日7:00バスで出発、パレスチナ自治区のベツレヘムに向かう。
7:30ベツレヘム到着。

エルサレムの南10kmにある町。人口約3万2000。ヘブライ語で〈パンの家〉を意味する。アラビア語ではバイト・ラフムBayt Laḥmとよばれる。ダビデ王の生地。後にメシア信仰の象徴となる。イスラエルを救うメシアはダビデの子孫の中から出てくるからである(《ミカ書》5:2)。キリスト教の伝承によれば,イエスの父はダビデ家の子孫であり,イエスはベツレヘムで生まれた。4世紀にコンスタンティヌス大帝が降誕教会を建設,ヒエロニムスのラテン語訳聖書(《ウルガタ》)は,この教会の地下の一室で生まれた。

10:00再度イスラエルとヨルダンの国境に向かう。

国境通過後レストランで昼食

15:00アンマン・クイーンアリア空港到達
16:55エミレーツ航空で出発
21:40ドバイ空港到達。
23:00ドバイ市内のホテル到着後就寝。
3日7:00バスで出発
世界一高いバージュカリファーを登りドバイを一望する。
ドバイ旧市街地に向かう。
一昔前のドバイの風景を、そのまま切り取った場所がバスタキアエリアです。ドバイの歴史を残そうとドバイ政府が中心となり、この地区の整備に力を入れています。このエリアには、風を利用し室内の温度を下げるウインドタワーなど、アラブの伝統的な建築方法で建てられた家が並びます。
バスタキアには、ドバイの市内ツアーでは定番となっているドバイ博物館もあり、ベドウィン(遊牧民)の生活スタイル、日本の養殖真珠が世界を席巻する前まで(日本がドバイの真珠産業に大きなダメージを与えた)ドバイの産業のひとつであった真珠産業の様子など、ほんの30分程度で勉強することができます。

現在のように近代化される前のドバイで、貿易産業の中心として栄えたのがこのデイラエリア。今でも多くのスーク(市場)がこのエリアに現役で残っていて、観光スポットになっています。

お土産選びに人気なのは、貴金属を扱う店が軒を連ねるゴールドスーク。場内に一歩足を踏み入れたら、見渡す限り黄金一色。各種アクセサリーが所狭しと陳列され、思わず目移りしてしまうのでは……。自分の名前をアラビア語にし、ペンダントヘッドを作ってくれたりするお店もあって、外国人を含むドバイ在住者から高い人気を集めています。また、いろいろな種類の香辛料を購入することができるスパイススークも人気。ターメリック(ウコン)は、日本で買うよりはるかに安いということで、大量買いする日本人旅行者もいるほどです。

16:00ドバイショッピングモールに向かう。

16:30ショッピングモールを散策、途中世界一の噴水ショー、ドバイファウンテンを鑑賞する。

夕食後ドバイ空港に向かう。
21:00ドバイ空港到着

4日3:00ドバイエミレーツ空港出発
16:50関西空港到達。

今回の旅行、中近東に足を運び、謎の巨大遺跡ペトラのあるヨルダン、イスラム教・ユダヤ教・キリスト教の聖地であるエルサレムのあるイスラエル、イスラエルに住んでいるパレスチナ・アラブ人が、独立をして自分達の国家を作りたいという考えできた国家内の国家、パレスチナ自治区、アラビア半島の最大の商業都市、「中東の香港」などと呼ばれたりもするドバイを訪れ7泊8日の旅満喫しました。

ドバイは3回目の訪れで新鮮身は欠けていましたが復習を兼ねて再認識致しました。
巨大遺跡ペトラは圧巻でエジプトのアブシンベルを思い出しました。
イスラム教:ユダヤ教・キリスト教の三大宗教の聖地、イスラエルの首都エルサレムは丘の上にある城壁で囲まれた城塞、周囲は谷間、周辺は山で囲まれ、歴史深い古代の街、多くの歴史が刻みこまれた聖地、圧巻で感動致しました。数多くの戦争が絡んだエリア、これからもまた起こるかもしれません、戦場地でない今訪れることができたのは幸いでした。これからも平和を祈りたいですね。

中近東のそれぞれ異なった4か国観光旅行でした。