飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百八十九弾:広島県金輪島・沖野島・斎島・三角島観光  
2014年10月25−26日
  

広島県の瀬戸内海に点在する島々でいままで訪れたことのない金輪島・沖野島・斎島・三角島をフェリーと徒歩で巡りました。

25日
13:45新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:11広島駅到達、レンタカーで広島港に向かう。
15:50広島港市営桟橋到達
16:30広島港市営桟橋から渡船で出発
16:40金輪島港到達、散策。

広島湾の東側、宇品港沖に浮かぶ金輪島は造船の島。宇品(うじな)は明治時代の半ば頃から軍都広島の兵站基地として発展を見せた所で、間近にある金輪島にも日清戦争が始まった明治27年(1894)に造船・船舶の修理を担う陸軍運輸部金輪島工場が設置されています。
金輪島:昭和の時代を迎え太平洋戦争が始まってからは陸軍船舶司令部(暁部隊)野戦船舶本廠に組み込まれ軍事色を強めていきましたが、敗戦でその機能を失うと工場は民間へ払い下げられることとなり、昭和26年(1951)に発足した「金輪船渠株式会社」が造船施設を引き継ぎ、後に「西武造船」を経て現在は「新来島宇品どっく」が船舶の修理等の事業を行っています。島の南側は標高158mの金輪富士を頂点に雑木林の斜面が続き、北東部に「新来島宇品どっく」の工場施設、北部と北西部に民家が点在しています。

17:25金輪島港渡船で出発
17:40広島港市営桟橋到達、レンタカーで広島駅に向かう。
17:50広島駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
26日7:30レンタカーで出発、江田島方面に向かう。
8:40沖野島到達。

沖野島は能美島の南西、大柿町深江の新開地区に接するように浮かぶ島で、能美島とはわずかに島戸瀬戸で隔てられています。かつてはこの狭い瀬戸を船で行き来して、ミカン栽培や水田耕作などが行われていましたが、昭和47年に沖野島橋(24m)が開通してからは道路も整備され島の様相も少しづつ変化が見られるようになっています。特に平成5年に北側の入り江に「沖野島マリーナ」が出来てからはレジャーリゾート的色彩も出てきているようです。
沖野島の西には無人島の大黒神島、そして北側にはカキの養殖筏が並び、その入り江のまた入り江にある静かな海にはヨットやトレジャーボートが並ぶ海洋レクリエーションスポットになっています。

9:00大崎下島方面に向かう。
10:20豊島港到達。
10:55豊島港フェリーで出発。
11:12斎島到達、散策。

斎島は呉市の南東海上に連なる下大崎群島南端の島です。群島の他の島々とは少し距離を置く孤島で、大崎下島の久比港発、豊島経由の定期船が片道28分で運航しています。上から見ると蟹のハサミのような形の島。その北部の入り江に集落があり、高さ100mに満たない山々が取り囲んでいます。古くから神の宿る島として信仰を集め、斎内親王から弊帛料を賜ったことが名前の由来だと伝わります。とは伊勢神宮や賀茂神社に仕える皇族の未婚女子。弊帛料とは神前にお供えする弊帛(絹や木綿)の代わりとなる貨幣のこと。 )寛文年間(1661〜73)、豊島から移住者があり、江戸時代末期にはアビ鳥とその餌となるイカナゴを利用して鯛やスズキを捕獲する「アビ漁(いかり漁)」が盛んになり、港には多くの船が並んだといいます。また昭和の時代を迎える頃には船員を多く輩出する島となり、昭和25年には人口385を数えています。しかし、環境変化によるアビ鳥の減少と後継者不足で「アビ漁」は昭和62年に途絶え、一時期は児童数が60人を超えた斎島小学校は平成7年に閉校、またその跡地にできた保養施設「あびの里いつき」も平成21年3月末に休館となっています。過疎と高齢化が進む島に元気を取り戻そうと、毎年8月に県内外のアマチュアグループが集う「イツキで遊ぼう 島ライブ」が開催されます。「自然豊かな島の魅力を多くの人に知って欲しい」という願いから2005年に始められました。“クックラ、クックラ”と鳴くアビの声に代わって楽しげな人間の歌声が聴こえてきます。

12:40斎島フェリーで出発。
12:57豊島港到達。レンタカーで久比港に向かう。
13:05久比港到達
13:30久比港フェリーで出発。
13:40三角港到達、散策。

三角島は大崎下島・久比地区の北西約500mの位置にあり、久比港から小型フェリーに乗って10分ほどで到着します。島の東側に港と集落、南側には造船所[(株)寺岡(三角工場)]があり、山の斜面にはミカンやレモンなどの柑橘類の畑が広がっています。港の所にある「美加登神社」は、福岡県の宗像神社の祭神「宗像三女神」を安芸の厳島神社へ勧請(かんじょう)する際、仮宮として創建されたと言われています。厳島神社の創建は593年とあることから、この美加登神社もその頃の創建ということになります。実際、美加登神社の裏手には6世紀のものと思われる古墳が2基見つかっており、この頃既に三角島にも古代豪族の支配が及んでいたことが窺われます。また、宝徳3年(1451年)の小早川家文書に「見賀多島」という表記があることから、古くは「みかた島」と呼ばれていたこともあるようで、“見賀多島”や“三方島”などの字が当てられていました。

16:45三角港フェリーで出発
16:55久比港到達、レンタカーで広島駅に向かう。
18:10広島駅到達。
18:51広島駅新幹線さくらで出発
20:25新大阪駅9到達。

今回の旅行、広島県の瀬戸内海に点在する離島、数少ないまだ訪れたことのない4島(金輪島・沖野島・斎島・三角島)をフェリーと徒歩で巡り癒されました。

瀬戸内海の島で訪れていないのは愛媛沖、香川沖の数島のみとなりもうすぐ制覇できそうです。

 








 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百八十八弾:熊本県トロッコ南阿蘇鉄道ゆうすげ号観光  
2014年10月18−19日
  

九州の中央に位置する熊本県に足を運び、大規模な噴火で形成された阿蘇カルデラ内に、雄大な風景が展開する阿蘇の南に走行する南阿蘇鉄道立野駅から高森駅を走るトロッコ列車ゆうすげ 号に乗車し、南外輪山と田園風景に囲まれ、高さ約60mの渓谷に架る橋など風光明媚なシーンが展開する風景を訪れました。

18日14:30伊丹空港出発
15:45熊本空港到達、
16:00熊本空港バスで出発
17:05熊本駅到達、駅前のホテル到着後周囲を散策し、食事を済ませて就寝。
19日9:00ホテル出発。
9:51熊本駅豊肥本線で出発、肥後大津経由して
10:51立野駅到達。
11:25立野駅トロッコゆうすげ号で出発

ゆうすげ号:立野から南阿蘇を廻り、高森に至る南阿蘇鉄道。 トロッコ列車は、南阿蘇鉄道の路線を4月〜10月の土・日・祝日(夏休み期間中は毎日)走ります。 全国一小さな機関車を前後に連結して走りますので、まるで遊園地のかわいい列車の様です。 客車部分には、天井はありますが、窓ガラスなどはなく、風が吹き抜けます。阿蘇の涼しい風がトロッコ列車の中を吹き抜け、阿蘇高原の爽やかな風が頬を撫でます。高森〜立野駅までの17.7kmを55分間かけてガタゴトとゆっくり進みます。 阿蘇の雄大な景色も堪能することができます。 この白川渓谷にかかる白川鉄橋の上では最徐行しますので、ゆっくりと渓谷の景色を楽しむことができます。かなりスリリングです。阿蘇の大パノラマを満喫できます

12:22高森駅到達。
12:53高森駅普通で出発
13:21立野駅到達。
13:32立野駅出発三段式スイッチバックで

三段式スイッチバック:高低差が激しく、列車が一気に上り下りできない場所で、折り返し進むように、ジグザグに運転すること。「スイッチバック」 は  赤水駅 − 立野駅 間。日本でも有数の 三段式「スイッチバック」。

14:10阿蘇駅到達。
14:45阿蘇駅出発。
15:35肥後大津駅到着、シャトルバスで熊本空港に向かう。
16:05熊本空港到達。
17:20熊本空港出発
18:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の中央に位置する熊本県に足を運び、雄大な風景が展開する阿蘇の南に位置する南阿蘇を訪れ、南阿蘇鉄道立野駅から高森駅を走るトロッコ列車ゆうすげ 号に乗車し、南外輪山と田園風景に囲まれ、高さ約60mの渓谷に架る橋など風光明媚なシーンが展開する風景を楽しみました。又立野駅から三段式スイッチバックで阿蘇駅を訪れ散策し、大規模な噴火で形成された阿蘇カルデラ内に、雄大な風景が展開する阿蘇を望みました。

全国のSL、トロッコを数か所おとずれ乗車しましたがSLはSLに乗ることが楽しみですがトロッコは乗ることだけでなく風光明媚なエリアを走行し車窓からの景観を楽しむことができます。









 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百八十七弾:福井県お城・城下町巡り観光  
2014年10月11ー13日
   

中部地方西部に位置する県。本州の屈曲部に位置し、日本海に面する。北は石川県、東は岐阜県、南西は滋賀県・京都府に隣接する。西部はリアス式海岸の若狭湾で観光・漁業地域。原子力発電所が多い。古くから北陸道の入り口にあたる要衝の地で、現在も京阪神地方・中京地方との結びつきが強い福井県に足を運び、比較的マイナーなお城・城下町16か所を訪れました。

11日12:30車で出発、第二京阪京滋名神北陸自動車道経由して小浜インター下車
15:00小浜到達

小浜城:年(1601)京極高次が着工し、その忠高にいたる33年間に城の大半を造り、寛永十一(1634)酒井忠勝が藩主となり、寛永十五年三層の天守閣を築いた。城域は東西156間(284メートル)、南北145間(264メートル)総地坪数18,937坪(62,492メートル)外濠を除く。
本丸 3,3130坪(10,329メートル)内堀3,755坪(12,391メートル)二の丸 藩主の家族の住宅屋敷 2、249坪(7,422メートル)三の丸 軍用食糧、兵器の倉庫 3,806坪(12,560メートル)北の丸 2,584坪(8,527メートル)西の丸 3,413坪(11,263メートル)在りし日の小浜城  特色は、海と河川とを取合せた要害の海岸城で、平地城としては慶長初期であり古く、石垣の慶長積みは特色である。京極氏の後は寛永十一年から明治四年(1871)まで、酒井氏十五代260年間の居城であった。明治四年十二月この城に大阪鎮台第一分営を設置すべく改造工事中二の丸櫓の工事場から失火し、城の大部分を焼失した。現況は左図のように河川拡張のため旧城地がけずられて縮小され往昔の面影がない。

後瀬山城:後瀬山城は大永二年(1522)戦国争乱の防備として若狭守護武田大膳大夫元光が築城した中世の山城である。城郭は海抜168メートルの山頂に主郭を配置しそれより北側八幡神社の裏山まで400メートルの間に16段の小郭を階段状につくっている。主郭の西南枝峰にも同じく小郭が18段あって、その山麓に武田氏館があった。現在の小浜小学校、空印寺がその跡地。さらに主郭の西側には巾広い空堀を隔てて西郭がある。ここは城の御殿と推定され築山など庭園らしい跡も残されている。城は戦国時代各地につくられたものと大差はないが、西側には斜面にそって四本の竪堀がつくられており、ゆるやかな斜面の守りを固めている。東側は急斜面のため部分的に竪堀をつくるが集中されていない。そのかわり元光は発心寺を造営し北東の城砦的役割を持たせたと思われる。石垣もよく残っています。  城主は元光、信豊、義統、元明と四代続いたが、永禄十一年(1568)越前守護、朝倉義景が、この城を攻め元明は敗れ、越前へ連れ去られた。天正元年(1573)朝倉氏滅亡後、丹羽長秀が国主としてこの城に入り、石垣を積むなどして補修した。現在の石垣はそのときのものである。そののち、浅野長吉、木下勝俊などと豊臣秀吉の家臣が若狭国主としてこの城を利用したが、慶長五年(1600)関ヶ原の攻で京極高次が国主となり、翌六年より小浜城を築城。後瀬山城は廃城となった。

美浜方面に向かう。

国吉城:美浜町指定史跡国吉城址は、若狭国守護大名武田氏の重臣であった粟屋越中勝久によって弘治二年(1556)に築かれた中世の山城である。通称”城山”の最高所(標高197.3メートル)を本丸とし、北西に延びる尾根上には段々の削平地(曲輪)が連続し、その先端に丹後街道が通る椿峠があった。尾根の斜面は切り立って急であり、守り易く攻め難い城であった。実際に、永禄六年(1563)から数年におよぶ勝久と越前朝倉氏との戦いにおいては、城を守り通して名声を内外に轟かせ、その活躍は『若州三潟郡国吉籠城記』などの軍記物にまとめられた。元亀元年(1570)越前攻めのために木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や徳川家康らを伴って国吉城に入城した織田信長は、城を守った勝久を褒め称えたと伝わる。その後、天正十一年(1583)に入城した木村常陸之介定光は、椿峠を越えた丹後街道が集落の中を通るように道筋を付け替えて町割りを行い、佐柿の町を興した。江戸時代に入ると国吉城は廃され、寛永十一年(1634)に若狭国の領主となった酒井忠勝は、町奉行所と藩主休息所として御茶屋屋敷を置いた。以降、佐柿は三方郡の中心、丹後街道の宿場町として繁栄し、現在も当時の景観を色濃く残した古い町家や寺社が現存している。

敦賀に向かう。

敦賀城: 天正十一年(1583)、蜂屋頼隆が五万石の敦賀領主となり、旧笙ノ川河口の左岸に敦賀で初めての平城を築いたが、同十七年に頼隆が病死すると、領主は豊臣秀吉配下の大谷吉継と交代した。吉継はこの城を整備拡充するとともに町も整えていった。三層の天守閣をもつこの城は現在の結城町と三島町一丁目にまたがるものであった。慶長五年(1600)年、関ヶ原の合戦で西軍に属した吉継は敗れて自刃した。元和元年(1615)の一国一城令によって城は破却された。寛永元年(1624)、小浜城主の京極忠高が敦賀郡を加増され、同十一年には酒井忠勝が小浜藩主となり敦賀の支配にあたった。そのため旧敦賀城の中心部に藩主の宿泊休憩所となるお茶屋(陣屋)町の支配や警察・裁判を行う南北の町奉行所、農村から年貢を取り立てる南北の代官所を設け、目付一名、町奉行二名、代官二名が常駐し、配下の足軽や同心とともにその任務にあたった。
 明治四年(1871)、廃藩置県によって、若狭一国と当時の敦賀・南条・今立三郡を県域とする敦賀県が誕生し、その県庁を旧陣屋に置いた。同六年に足羽県を統合すると庁舎が手狭となり、庁舎を旧奉行所跡に新築移転した。同九年八月に敦賀県が廃止されて滋賀県と石川県とに分割されると、敦賀は滋賀県に属した。同十四年に旧敦賀県を管轄地域とする福井県が誕生するが、県庁が敦賀に戻ることはなかった。その後この地には警察署・裁判所・敦賀病院などがかわるがわる建てられ、結局明治四十二年に敦賀尋常高等小学校が神楽町から新築移転して現在の敦賀西小学校に引き継がれ、今に至っている。

金ヶ崎城:金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。南北朝時代の延元元年(1336)十月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏冶の居城であったここ金ヶ崎城に入城。約半年間足利勢と戦い翌二年三月六日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。戦国時代の元亀元年(1570)四月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起こして徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り殿を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。またこの殿での危機を救ったのは家康で、後の天正十四年(1586)家康上洛にあたり、秀吉は金ヶ崎城での戦いの救援に謝意を表したとされている。すでに十五、六年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎の戦いはその後の二人の関係に大きな影響を与えたといえる。焼米が出土した郭。激戦の跡が伺えます  現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。また、最高地(標高86メートル)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎古城跡の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。ここからの眺めは素晴らしく天候がよければ越前海岸まで望むことができる

17:30敦賀駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

12日7:30車で出発、

玄蕃尾城:滋賀県と福井県の県境内中尾山の山頂に築かれた玄蕃尾城は、天正11年(1583)に柴田勝家と羽柴秀吉が、信長亡き後の織田軍団の指導権を争って戦った賤ヶ岳の戦いの際に柴田勝家が本陣を構えた所です。曲輪は全部で8つあり、山頂に主曲輪を構え、各曲輪をなだらかな斜面に配しています。
曲輪周囲には空堀を巡らし、曲輪と曲輪の間は土橋で連絡されて、曲輪から空堀を見下ろすと、一見山中城(静岡県)の畝堀を思わせます。主曲輪(約40m×40m)の南北に設けられた虎口には、枡形虎口、あるいは馬出しなどを配して、織豊系城郭技術がこの時期にほぼ完成されていたことを窺い知ることが出来ます。遺構もほぼ完全な形で残っており、滋賀県あるいは福井県に数ある城郭の中でも屈指のものだと思います。また、主曲輪の東側には櫓台(10m×10m)が設けられており天守のようなものが築かれていたと考えられています。この玄蕃尾城の築城時期は天正10年〜11年と特定することが出来、天正期における織豊系城郭の築城技術を考察する上でも非常に意義深い城といえます。

今庄方面に向かう。

杣山城:一帯に築かれた中世の山城。北の比叡山とも呼ばれ、鎌倉末期には瓜生一族の居城となり、その後延元元年(1336)から三年間新田義貞が籠城した南軍の拠点。北朝方との葉原の合戦で破れると、落城した。戦国時代には朝倉氏の家臣・河合宗清が城主になったものの、織田信長の朝倉・浅井討伐の際に落城し、廃城に帰したと思われる。その後、織田氏に抵抗する一向一揆勢が天正二年(1576)にここに籠もったとされる(『現地説明板』『日本の名城・古城事典』等)が、明確な記録は残っておらず、本格的な城郭としての機能は失っていたと思われる。西御殿、東御殿と伝わる平場や、姫穴、袿掛岩などの伝説の地形に、堀切、水場などの遺構も山全体に散在しているが、いずれも城郭の縄張としては極めて簡素である。少なくとも戦国時代に大規模な改修が為されたとは考えられない。


武生方面に向かう。

府中城:藩政時代府中邑主本多氏の館址である。往時の邸地は約八千坪で東邊と北邊を堀で囲みその東一帯に長さ二百八十余間の外堀があり館は南面し、大手門が馬場に通じていた。城の起源は文明の頃越前国守護朝倉氏の府中奉行所の構築に創まると云われ天正年間前田利家が城濠を修築拡張した。前田氏移封の後に丹羽・木村・堀尾の諸氏が相次いで在城したが慶長六年本多富正が居館を定めてから維新廃藩に至るまで本多氏が歴代在城した。明治五年城址に進脩小学校が建てられ後に武生東小学校と改称した。輓近市街の発達と学量増加のため中北府町へ移転すると共に市庁舎が建設された。創学以来十四年である。

小丸城:天正三年(1575)に越前一向一揆を平定した織田信長は、越前の抑えとして柴田勝家を置いた。勝家は北ノ庄に築城すると、その補佐役として付けられていた府中三人衆もそれぞれ前田利家が府中城に、不破光治が竜門寺城に、そして佐々成政は小丸城を築城して居城とした。小丸城の石垣には野々宮廃寺の礎石と見られるものが転用されていることが知られているが本丸周辺が工事により破壊されたこともあり詳しくは不明である。また成政が同七年に越中砥山城に転封となったため、わずか4年での廃城となった。そのことから小丸城は未完成な状態であった可能性も考えられている。現在残る城の遺構から考えられる城の規模は、味真野の扇状台地末端に本丸、二の丸、三の丸と環郭式の構造を持つ。高さ約7メートル、50メートル四方の本丸を中心に、基底幅20メートルほどの土塁、幅20メートルの堀などが見られる。また北西の乾櫓からは成政が一揆を成敗した際の様子を刻んだと言われる文字瓦も出土している。

東郷槇山城:東郷槇山城は一乗谷城の北西約3km、足羽川の左岸にあって三峰城,成願寺城,中山城と共に、一乗谷城の支城の一つである。一乗谷の西峰の御茸山とは尾根続きで、下城戸のちょうど真西に位置しており一乗谷の出城的な役割を担っていたと考えられる。東郷槇山城は通称城山と称する槇山に築城されており、槇山の西側から車で二の丸まで登ることができる。城台と称される主曲輪と南に位置する二の丸、および千畳敷は公園として整備され手軽に中世山城を見学することができるが、公園整備が優先され、山城としての魅力は半減してしまっている。唯一、千畳敷に残る土塁と南側の堀切がかろうじて原型を止めているのが救いである。

越前大野方面に向かう。

大野城:越前大野城跡は、大野盆地の西側に位置する標高約250メートルの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城跡です。織田信長の武将、金森長近により天正年間(1573〜1593)の前半に築城されました。越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。江戸時代の絵図には、本丸に望楼付き2層3階の大天主と2層2階の小天主・天狗櫓などが描かれています。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」といわれるものです。江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永四年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛政七年(1795)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。

勝山方面に向かう。

勝山城:勝山城の名が歴史に登場するのは、天正8年(1580)柴田勝家の一族、柴田勝安が、加賀の一向一揆を討伐し袋田村に城を築き、村岡山の別名勝山にちなみ、勝山城と名付けたのが最初である。
その後天正11年には、丹羽長秀の老臣成田弥左衛門重政、慶長5年(1600)には、結城秀康の家臣林長門定正、寛永元年(1624)には、結城秀康の六男直基、同12年には七男直良とそれぞれ入封するが、いつの時点まで城が存在していたかは不明である。正保元年(1644)勝山は、福井藩領となったが、江戸幕府への上知石高を支配する為代官が派遣され、旧勝山城の池に陣屋が建てられた。元禄4年(1691)小笠原貞信が美濃国高須から2万2777石をもって勝山に入り、幕府代官の残した陣屋跡に居を構えた。貞信は幕府に築城を願出て宝永5年(1708)ようやく許された。設計者は江戸の軍学者、山鹿藤介であった。築城工事は、多額の出費と人夫の徴発に苦しんで容易に進まず、加えて文政5年(1822)城内から出火して建物のほとんどを焼失し、勝山城は未完成のまま廃藩を迎え、廃城となった。廃城後、城地は、町役場、成器男子小学校、西方寺、三の丸製糸場などに判明され、明治22年(1889)本丸跡に最後の城主小笠原長守の筆による「勝山城址之碑」が立てられた。現在は勝山市役所、市民会館、教育福祉会館が建ち並び、中央公園も造成されている。最後まで残っていた天守閣跡、石垣内堀の一部が取り壊されたのは昭和42年市民会館を建てた時である。その後勝山市民の間に勝山城再建の願いが年毎に高まり、ここ幸いにも適地を得て、めでたく天守閣の建設を果たすことができた。

三国方面に向かう。

丸岡藩砲台跡:江戸時代末期の1852年に、丸岡藩が沿岸警備のために築いたという砲台。海に突き出た海岸線上に、弓状に築かれた高さ1.8mの土塁に5つの砲眼が4.5m間隔で設けられている。原形をこれだけしっかり留めた砲台跡は全国でも珍しく貴重らしく、国指定史跡になっている。

朝倉山城:はその名のとおり朝倉氏一族の朝倉景連がいた城だという。景連は一乗谷奉行衆の1人だった。三国に近い鶉地区の173mの朝倉山の山頂に主郭を置き、周囲に郭がめぐる形の城だった。朝倉氏が滅びた後に一向一揆が越前を支配し、織田信長の侵攻を招いた時、この城にも一揆軍が立て籠もった。詳しくは解からないがこの一揆軍はどうなったのだろうか。1561年4月に、この城の近くの棗庄大窪の浜において朝倉義景が犬追物を開催した。義景は伝統行事を復興させることに熱中しており、これもその一環だった。この犬追物は盛大に催され、鎌倉時代源頼朝の由良が浜の犬追物も及ばないものと賞賛されたという。現在は近くの小学校の手作りによる登山表示のある登り易い山だった。また山頂には戦時中の防空監視哨跡もあり、防空壕跡らしき穴もあった。山頂の櫓からの眺めが良く、三国方面から福井市方面まで眺め渡せる。

福井方面に向かう。

黒丸城:日野川と九頭竜川の合流点付近に位置し、三方を川で囲まれた地形を利用して築城され、唯一開いた南東側は深田であったという。現在小黒丸城の石碑の建てられている場所は、河川工事もすすみ、地形的にはなんの変哲もない平地に変わり、遺構はおろか当時を偲ぶ地形すら残っていない。なお、現地の案内板によれば、城址碑は現在地より北方約50mの田んぼの中に建てられていたが、県営圃場整備に伴い現在の位置に移されたとある。 小黒丸城は、大黒丸城と併せて黒丸城と総称される場合と、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城と共に大黒丸城の支城である足羽7城のひとつであるとする説がある。

北庄城:織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正三年(1575)八月に越前49万石を柴田勝家に与えた。勝家は足羽川と吉野川との合流点に北ノ庄城を構築した。現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。天正九年(1581)四月、北ノ庄を訪れて来た、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国あての書簡の中に『此の城は甚だ立派で、今、大きな工事をして居り、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである・・・・・』と報告している。また、羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、その戦況を小早川隆景に報じた天正十一年五月十五日付の書簡の中では、北ノ庄城について『城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候・・・・』と記しており、九層の天守閣であったことが知られる。勝家はまちづくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺・民家等を北ノ庄へ移転させるなどに努めた。足羽川に架かる橋(九十九橋)を半石半木の橋に架橋したと言われる。柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。

15:00福井駅前のホテル到着

18:00福井駅前の繁華街散策し食事を済ませて就寝。

13日8:00帰路に向かう。

今回の旅行、福井県に点在する比較的マイナーなお城・城下町16か所を巡り楽しみました。

越前大野に位置する大野城は立派な天守閣があり聳え立っていました。あまり知られていないのは不思議なぐらい素晴らしいお城でした。

又驚いた事に最近福井県の山間部にくまが頻繁に出現、ところどころにくま防御の電気線の囲いが見られました。山城のほとんどがこの防御柵が見られ訪れにくい状態でした。





















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百八十六弾:栃木県・茨城県SLもおか観光  
2014年10月5−6日
  

北関東地方の茨城県・栃木県に足を運び、茨城県の平野から焼き物の町を通って栃木県の山間に走る真岡鐡道を下館から茂木までの41.9kmをSLもおかで訪れました。

5日13:30新大阪新幹線のぞみで出発
16:03東京駅到達、タクシーでホテルニューオータニに向かう。
16:45ホテルニューオータニ到着
17:00学術講演会出席
19:30懇親会
20:30ホテルの部屋に戻り就寝。
6日7:50ホテルニューオータニタクシーで出発
8:10東京駅到達
8:28東京駅新幹線なすので出発
9:09小山駅到達
9:32小山駅水戸線で出発
9:53下館駅到達
10:35下館駅SLもおかで出発

真岡線は日本で最初のローカル線として明治45年に誕生し、JRを経て第3セクターの真岡鉄道に引き継がれた鉄道です。現在も高校生の通学をはじめ2市3町を結ぶ大切な生活路線として、活躍しています。 毎週土曜日、日曜日、そして祝日と1年を通じて1日1往復、茨城県下館駅と栃木県茂木駅間を運行しています。夏休みの期間は金曜日も運行しています。SLは、21世紀を担う子供たちが「夢とロマン」を育むことを目的に運行開始されたもので、現在真岡線を走るSLは2両。「C12 66」は、指宿線や石巻線小海線などで、「C11 325」は、相模線や南武線、横須賀線などで活躍したSLです。 

12:06茂木駅到達
14:26茂木駅SLもおかで出発
15:56下館駅到達
16:31下館駅水戸線で出発
16:56小山駅到達
17:32小山駅新幹線やまびこで出発
18:16東京駅到達
18:30東京駅新幹線のぞみで出発
21:06新大阪駅到達。

今回の旅行、茨城県・栃木県に足を運び、茨城県の下館から栃木県の茂木までの41.9kmの真岡鐡道を走行するSLもおかに乗車し車窓から茨城県の平野から焼き物の町を通って栃木県の山間部を望み楽しめました。

土曜日は製薬会社の招待で東京に位置するホテルニューオータニで学術講演会に出席し、宿泊は高級ホテルニーオータニで宿をとり、今までの旅行ではビジネスホテル、民宿が主でしたが今回はリッチな気分を味わうことができました。又往復の新幹線もグリーン車で豪華三昧でした。