飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十三弾:鳥取県お城・城下町巡り観光  
2014年11月29−30日
 

鳥取県に足を運び、比較的マイナーで地味なお城・城下町18箇所(若桜城、景石城、山崎城、太閤ケ平砦、二上山城、桐山城、道竹城、天神山城、防己尾城、鹿野城、羽衣石城、打吹城、岩倉城、由良台城、船上山城、尾高城、米子城、江美城)を訪れました。

29日12:30車で出発、近畿中国自動車道経由して山崎インター下車しお城めぐる。

若桜城:若桜鬼ヶ城は応安二年(1369)矢部若狭守が築城したと言われています。その後矢部氏は矢部山城守まで十六代まで続きました。永録年間(1558−1569)に矢部兄弟が跡目争いをしている隙に、尼子勝久、山中鹿之介幸盛らが襲撃し、城を奪い取りました。これに対して吉川元春がさらに奪い取りましたが、天正六年(1578)には播磨から因幡に攻め入った羽柴秀吉が攻略し、荒木平太夫、木下備中守重賢に守らせました。同九年、鳥取城落城にあわせて重賢は八東、智頭二郡二万石の領主となりましたが、のちの関ヶ原の戦いに西軍に属したがために天王寺にて自刃しました。その後は山崎左馬允が二万五千石で入城しましたが、元和三年(1617)には移封され、一国一城令によって廃城となりました。

景石城:この城が何年頃築かれたかは明らかでないが、太平記に延文の頃(1360年頃)既にあったと記されている。その後、山名の城となったが天正八年(1580)豊臣秀吉の鳥取城攻略の重要な拠点として磯部兵部大輔にこの城を攻めさせ、山名勢を追い払い、磯部を城主として鳥取城への備えとした。ところが磯部が若桜鬼ヶ城に所用のため不在の折、鳥取山名に攻め落されたが、翌天正九年、秀吉再度の鳥取城攻略により、鳥取城は落城この際磯部は許されて再度景石城主となった。以来城下町として用瀬宿を発展させたが、関ヶ原の戦いに西軍に味方したため咎を受け、この城を去らなければならなかった。替って智頭八東二郡の領主となった山崎左馬介の持ち城となった。ところが元和元年(1615)一国一城の端城御禁制の令が出され、この城は廃城となった。今に昔を物語るものとして、下城・馬洗場などの地名が残っており又、本丸・二の丸・物見櫓などの広場と石垣又矢竹の群生が見られる。

山崎城:山城(242m/100m)天文年間(1532年〜1555年)頃毛利氏によって築城された。毛利氏は大江広元の末裔とあるので安芸の毛利氏と同族と思われる。現在、殿町でダムを建設中のようだった。もしかしたら埋もれてしまうのか?

17:30鳥取駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

30日7:00車で出発、お城をめぐる。

太閤ケ平砦:天正九年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で展開されたものである。信長の派遣した部将羽柴秀吉は、姫路から但馬口を経て天正九年七月十二日鳥取に到着し鳥取城背後の東北の山頂(太閤ヶ平)のこの位置に本陣を置き、左右両翼と前面の袋川沿いに各陣を布いて、二万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。太閤ヶ平(本陣山)は、西方前方に鳥取城を望み、左方に芳心寺に至る一帯の山々をひかえ、右方にははるかに円護寺・覚寺・浜坂・賀露に至る一帯を見下し、総本陣としては最も適した場所であった。これを迎え撃つ鳥取城は、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として守備しており、その兵力は芸州毛利氏よりの加番衆四百と因幡国方衆千余であった。案内板にある太閤ヶ平の縄張り  毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後三ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰い候」という状況となった。ついに十月二十五日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に三十五歳であった。死の前日、十月二十四日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。この太閤ヶ平には、当時の鳥取城攻防の歴史を物語るかのように、土塁と空濠を廻らした曲輪の跡が厳然として残されている。また、この一帯は鳥取自然休養林であり、摩尼寺に至る中国自然歩道も整備され、広く市民の憩いの場として親しまれている。

二上山城:ニ上山城の位置するニ上山は標高三四六・六メートル、所々に位置する巨岩と、標高ニ〇〇メートル前後からの急勾配をもつ、きわめて険阻な山です。城は山頂部の一の平帯曲輪を中心とし、北東方向へ向かってニの平、そして大小八ヵ所の削平地からなる三の曲輪と続く主要部からなっています。このほぼ一直線にならんだ城の状況を見ると、ニ上山城は北側からの寄せ手を意識して築城されていたようです。東西両斜面はかなり険しく、この方面からの攻撃は不可能と思われます。一方で、他の斜面に比べゆるやかな南側の尾根づたいのルートは非常時の逃げ道となっていたようで、こちらからの攻撃は少ないものと考えられていた様子がうかがわれます。

桐山城:桐山城跡は標高203メートルの日本海を一望できる桐山頂上に有り、郭が頂上と南東尾根に四カ所、東の谷に七ヶ所残っています。古くから浦富には因但国境海上交通の要所の港町でした。築城年代は不明ですが、塩冶周防守が桐山の攻め難く守り易く、かつ眺望の良い地形と、田後・岩本・網代の三村にも尾根が続く独立した山であるため、ここに城を築いたと伝えられています。そして、元亀三年(1572)尼子の勇者、山中 鹿之介が入城。その後は垣屋光成(一万石、子の恒総まで二十年間)、池田政虎(五千石、十五年間)さらに、鵜殿氏(五千石)が幕末まで浦富を領しました。この頂上までの散策道は地権者の方々のご厚意により出来ています。気象条件が良ければ遠く大山や隠岐ノ島が見えます。

道竹城:『因幡誌』によれば、文正元年(1466)因幡国守護である山名勝豊は、巨濃郡岩常の二上山城から高草郡布施にある天神山城へ移り住んだ。そのため山下の治安が乱れたために、天文の頃に地元の要請があり、但馬山名家から三上兵庫が迎えられ、二上山城へ入った。しかし二上山城は高い山の上にあり、不便であったため新井村に新しく道竹城が築かれたのであった。永禄の世になると、次第に尼子の勢力が衰え、毛利の勢力が因幡に及ぶようになると、三上兵庫(山名豊弘)は武田高信や毛利氏と結ぶようになった。しかし永禄七年、因幡守護山名豊数の軍勢に攻められた三上兵庫はあえなく討死、道竹城は以後廃城となってしまった。

天神山城:この小山は、天神山と呼ばれ、室町時代の因幡守護山名氏の居城、天神山城があった。江戸時代の地誌「因幡志」には、文正元年(1466)山名勝豊によって築城されたと書かれている。築城の経緯は不明な点もあるが、天神山城は、山名豊国が天正元年(1573)鳥取城に本拠を移すまで、十五世紀後半から約100年間にわたって、因幡国支配の政治的拠点であった。天神山城は、かつて内堀・外堀を備えており、内堀は天神山を囲んで南北400メートル、東西300メートルの長方形に掘られていた。外堀は布施卯山をも取り込み、湖山池に通じる総延長2.6キロメートルに及ぶものであった。外堀の内側には城下町が形成されていたと考えられ、壮大な規模を誇る城郭であった。発掘調査で土器・中国製の陶磁器・備前焼・古銭・下駄・曲物(まげもの)などが見つかっており、現在も井戸・櫓跡や濠の跡などが残っており、往時をしのばせている。

防己尾城:吉岡将監定勝が築城したといわれる。城跡は本丸・二の丸・三の丸とそれに取り囲まれた町屋とから構成されており、北側には船着場が設けられていた。天正九年(1581)羽柴(豊臣)秀吉鳥取城攻略の時、将監は奇襲によって、たびたび秀吉勢を悩ませた。また、将監の弟右近は秀吉の千生瓢箪の馬印を奪い取ったという。しかし、この城はその後亀井茲矩により落城した。

鹿野城:鹿野城主亀井武蔵守茲矩は1557年に出雲国(島根県玉湯町)に生まれた。茲矩は山中鹿介らと結託し、尼子氏再興を目指し山陰各地で毛利氏と戦う。後に豊臣秀吉の鳥取城攻めに参加し、その功によって鹿野城主となる。茲矩は大変豪壮な武将で、秀吉が「もはや出雲をやることはできなくなった。他に欲しい所はないか。」と尋ねたのに対し、「琉球を下さい」と言い、その大胆な発想を褒め讃えて「亀井琉球守」と軍扇に書いて与えたという。また茲矩は狭い日本には飽き足らず、朱印船貿易により大きな利益を得て、領内の開発を行った。同時期に、茲矩は秀吉の海外大陸進出計画の朝鮮遠征に加えられた。秀吉の朝鮮遠征は順調に成果を上げていった。しかし朝鮮救国の全羅左道水使・李舜臣が亀甲船を率いて戦陣に加わると情勢が一変した。李舜臣は朝鮮半島の唐浦に茲矩の軍が駐泊しているところに奇襲攻撃をかけ、その攻撃を受けた茲矩の水軍は全艦焼失し全員陸へ逃れた。この時、茲矩は秀吉から貰い受けた軍扇を失った。その軍扇は朝鮮救国の虞侯・李夢亀が拾ったと言われている。茲矩はその後、陸上に逃れて各地を転戦する。その道中に虎を生け捕りにし、秀吉にその虎を献上して大変な評判となった。また、茲矩は鹿野城の改築にあたり、朝鮮櫓、オランダ櫓を城内に建立し、懐かしの地の風物を偲んだ。この戦を日本では文禄・慶長の役と呼び、朝鮮半島では倭乱と呼んでいる。1578年羽柴秀吉が亀井茲矩等を先駆として、毛利氏の支城となっていた鹿野城を攻めおとし、羽柴軍山陰攻めの前線基地の役割を持ちました。亀井茲矩は鹿野城の城番を命ぜられ、翌年の秀吉の再出陣までの間、鹿野城を守るのみでなく、近くの諸城を攻め落し、これらの功により城主に任命されました。関ヶ原の戦いの後、世の中がおちつくと、茲矩は城の大拡張を行いました。古い鹿野城は山頂に近い部分だけの山城でしたが、山麓を中心に本丸・周囲に薬研堀、内堀、その外側に外堀をつくり近世の城として面目を一新しました。その一方でまえからの山城を整備しました。城は、仏教思想にもとづく「王舎城」の名が、また、櫓には南蛮貿易を物語る「朝鮮櫓」「オランダ櫓」の名が残っている。

羽衣石城:羽衣石城は東伯耆の国人、南条氏の居城として貞治五年(1366)から慶長五年(1600)まで約二三四年間使用された城であるが、城主の南条氏をはじめ羽衣石に関する記録は「羽衣石南條記」などの少数のものしか伝えられていない。また、これらの諸本の成立年代は南条氏が滅んだ後、百数十年たった江戸時代の中頃のものであり、どこまで事実を伝えているかは疑問であるが南条氏を知る一つの手がかりである。さて、これらの諸本によると南条氏の始祖は南条伯耆守貞宗とし、この貞宗は塩治高貞の二男で高貞が滅亡した時越前国南条郡に逃れた。貞宗は成長後、将軍足利尊氏、義詮の父子に仕えて功績をあげ義詮より伯耆守に任ぜられて貞治五年(1366)に羽衣石城を築いたという。この南条氏の活動が盛んになるのは応仁の乱以後である。明徳の乱(1291)応仁の乱(1467〜1477)の為に伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて南条氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化をはかり、第八代南条宗勝の時には守護山名澄之の権力をうわまわる武力を保持するに至った。大永四年(1524)隣国出雲の尼子経久は伯耆国へ本格的な侵攻を行い、西伯耆の尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城並びに東伯耆の八城城、堤城、岩倉城、河口城、打吹城の諸城を次々に攻略し同年、五月中頃までにはこれらの諸城は降伏してしまった。南条氏の羽衣石城も落城し、城主の南条宗勝は因幡へ逃亡した。これを「大永の五月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には尼子経久の子国久が入城した。しかし尼子氏の伯耆支配も長く続かず、毛利氏の台頭とともに永録年間(1558〜1569)には支配権を失った。南条宗勝は永録五年(1562)に毛利氏の援助により羽衣石城を回復している。以後伯耆国は毛利氏の支配下に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。
天正七年(1579)織田氏の山陰進出が本格的になると南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。毛利氏は羽衣石城を攻撃し、元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などによりこれに対処したが天正十年(1582)羽柴秀吉の撤兵とともにら落城し、城主元続は京都に逃走した。
天正十三年(1585)秀吉と毛利氏との間で領土の確定が行われ、東伯耆八橋城を残して秀吉が支配するところとなり、再び南条氏に与えられた。しかし慶長五年(1600)に起こった関ヶ原の役で西軍に属した南条元忠は役後改易され羽衣石城は廃城となった。

打吹城:打吹城は、延文年間(1356〜61)に山名師義が田内城より移ってきた際に築城されたとされる。その後応仁の乱(1467〜1477)を迎えると次第に山名氏の勢いは衰え、代わりに羽衣石城の南条氏、尾高城の行待氏が勢力をの伸ばしていった。大永四年(1524)に、出雲の尼子経久が伯耆国に侵入、山名氏の諸城を攻略していった。この打吹城も周辺の城と同様に陥落した。世にいう「大永の五月崩れ」であった。その後毛利氏の援助によって城を奪還できたものの、それは同時に毛利氏の配下となることであった。天正八年(1580)に吉川元春が打吹城に入ったが、秀吉による鳥取城攻めの後に和睦が成立すると打吹城は羽衣石城の支配下となった。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦ののちには中村一忠が伯耆国に入ると打吹城には入番が置かれるようになった。しかし同十四年には一忠の病死によって幕府の直轄領となる。さらに一国一城令によって伯耆国は米子城を残して他の城は破却されることとなったため、当城は廃城となった。

岩倉城:小鴨氏は、律令時代−奈良・平安時代−すでに名があり、伯耆国庁につとめた在庁官人の家柄と考えられている。平安時代の末期に、寿永元年(282)小鴨基保が西伯耆の豪族紀成盛と戦った記録がある。鎌倉時代に、小鴨氏は岩倉山(海抜247メートル)の山上に砦を築き、ここを代々の居城とした。元弘三年(1333)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略されたという記事もあるが、よくわからない。応仁の乱(1467〜1477)には、伯耆守護山名教之に従い、小鴨安芸守之基は主人に変わって防戦し、船岡山の戦いで討死した。大永四年(1524)五月、尼子経久が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の浮目にあった。二の丸下の石垣  永禄四年(1561)西国より起こった毛利氏が強くなり、羽衣石城の南条氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻。永禄九年(1566)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南条氏と共に吉川元春の配下となった。元亀元年(1570)、山中鹿之助の配下に一時奪われたが、因幡の湯原氏の応援を得て奪還した。天正七年(1579)小鴨元満は南条元続と共に毛利氏から離れ、織田氏に帰属するようになった。毛利氏は吉川元長を長として、圧倒的な軍勢ともって、岩倉城に猛烈な攻撃をしかけて来た。天正十年(1582)五月のことである。忠勇十二勇士の誓願盟約による奮戦も空しく、遂に落城した。城主小鴨元清は南条氏を頼って羽衣石に逃れ、ここに岩倉城の歴史は幕を閉じた。

由良台城:江戸時代末期、外国船がしきりに日本の近海に出没し沿岸をおかした。幕府は各藩に命じていっそう海防を厳重にするよう通達した。鳥取藩主池田慶徳は海防上砲台場築造の必要を認めその建設を砲術家武宮丹治に命じた。丹治は文久三年(1863)瀬戸村の武信佐五衛門の宅に来て相談、六尾反射炉をつくった武信潤太郎の建議をもとに由良川の河口に建設することにした。潤太郎はフランス式の築城法をもとに自ら設計し由良藩倉二十一ヶ部落の農民を集め指導監督して建設した。土塁の基礎は東隣の畑の砂を積み上げてつくり、土はかじ山(自動車運転免許試験場)と清水山(元大栄中グランド北隅)より、芝は干目野(県園芸試験場)から運んだといわれる。西側から見た由良台場 由良台場、南側土塁です。  由良お台場は六角形で、東西125メートル、南北83メートル、周囲約400メートル、面積約11913平方メートルである。大砲は七門配置され、この守備には農兵があたり、郷土の護りを固めた。数年後明治維新となり、大砲は廃棄改鋳され、台場は大正十四年八月、由良町(現大栄町)に払い下げられ今日に至っている。この台場はその規模が大きく形の整っていること、原型を完全にとどめている点などから、県内はもちろん全国的にも貴重な存在であり、永久に保存すべきものとして各方面から注目されている。

船上山城:鳥取県東伯郡琴浦町にあった山城(やまじろ)。南北朝時代初期に後醍醐天皇が行在し、寺院を城郭化した城。1333年(元弘3)閏(うるう)2月から5月下旬までの約80日間、天皇が京へ還御するまで行在した、いわゆる船上山行宮跡(せんじょうさんあんぐうあと)である。船上山は標高616m、断崖絶壁の要害で、古くから大山、三徳山と並ぶ山岳仏教の聖地であった。鎌倉幕府によって隠岐に配流されていた後醍醐天皇は、1333年(元弘3)隠岐を脱出して伯耆(現鳥取県)に入り、豪族名和長年(なわながとし)らに守られて船上山山頂の寺院にたてこもった。鎌倉幕府方の佐々木清高らの軍との間で激しい戦いが繰り広げられたが、天皇方が勝利し、これによって反鎌倉幕府勢力を決起させ、鎌倉幕府はほどなく崩壊した。山頂一帯は行宮跡として、また古戦場として、国の史跡に指定されている。

尾高城:米子勤労総合福祉センター(現在米子ハイツ)は、尾高城跡を中心とした約9万平方メートルの敷地内に建設されています。この尾高城は室町、戦国時代には行松氏累代の居城でしたが、1524年(大永4年)尼子方武将吉田光輪が変わって城主となり、その後伯耆因幡制覇をめざす毛利の勇将杉原播磨守盛重が備後から転城し伯耆守護の要害とされました。尼子方の武将で「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿之介幸盛は、幾度の戦後、この城の虜因となり、数十度の厠通いで城兵の油断を誘い、汲取口から脱出したとの史実があります。関ヶ原の戦いの後、伯耆十八万石の領主となって入府した中村一忠は、現米子市城山の久米城が完成するまで尾高に在城しました。また、土塁と堀に囲まれ、方形館跡と、北から二の丸、本丸、中の丸、天神丸と続くこの城跡は、中世の城の威容が忍ばれます。現在、城跡は米子市の文化財に指定されています。米子ハイツは、背後に大山を控え、前面には日本海が迫った風光明媚な尾高の地に、城跡の地形を十分に生かして梅園、桜の園、あじさい園、武家屋敷跡基礎復元、日本庭園、自由広場等を整備し四季とりどりの草花木を植え、自然に親しむ憩いの場として、また体育館、テニスコート、ゲートボール場などの体育施設も設け、勤労者の総合的な福祉の向上に寄与することを目的として昭和51年6月建設開業されたものです。ここは、中世の東西交通路をおさえる西伯耆の軍事上の中心地であった。城郭は、鎌倉時代から築かれたようであり、室町時代山名氏支配下では城主は行松氏が、尼子氏が進出すると城主は吉田氏が、16世紀後半になって毛利氏支配下時代には杉原盛重が城主であった。江戸時代初期、米子城築城によってこの城は廃城となった。城跡は、北から二の丸、本丸、中の丸、天神丸、後方の館跡など八つの郭があって掘りや土塁で守られ、平常の生活を営む館と城とがつながっている中世の城郭遺跡である。尼子回復戦のおり、尼子の勇将山中鹿之介が捕らわれ、この城にいたとき、腰痛といつわって汲取り口から脱出したという物語は有名である。行松正盛の居城であったが大永四年(1524)尼子経久に一旦は攻め落とされるが、その後毛利氏の援助で奪回する。その後杉原盛重が城をまかされたが、天正十一年(1583)、後を継いだ元盛は、弟景盛との抗争で殺害され、景盛も直後に自刃させられてしまう。その後は吉川元春が入り、西伯耆地方の要衝を守るようになった。

米子城:米子城のおこりは十五世紀の後半であろうとされているが、それは国道9号線の左の飯山につくられた砦であった。国道右手の湊山を中心とする米子城は16世紀末頃に、出雲東部と伯耆西部を領した吉川広家によってまず四重の天守を中心に城地の築構が始まった。関ヶ原役後、吉川氏は周防岩国に転封され、米子には静岡から中村一忠が伯耆18万石の領主として入部した。中村一忠は四重天守の横に五重天守を建て、城地の縄張りを完成した。約90メートルの湊山山頂の二つの天守を中心に米子城は本丸、二の丸(城主邸宅、武器庫などのある一郭)内膳丸(出丸)、三の丸、采女丸(飯山)などに区画し、周囲と西は海面、他の三面は延約1100メートルの内堀で囲んだ。四重天守は高さ約17メートル、五重天守は約20メートルであった。三の丸には厩舎、作事小屋、米蔵、役人詰所などがあり、城の裏手海岸は深浦と称して船手小屋などをもつ曲輪になっていた。城郭内の総面積は30ヘクタール余、櫓の数20余、内堀を超えて外堀との間は郭内といわれ侍屋敷の並ぶ区域であった。城郭は幕末まで数回の修理で維持したが、明治12年頃天守は売却されて壊された。城主は中村一忠の後、加藤貞泰、池田由之と変わり、寛永9年(1632)池田光仲が因幡・伯耆の領主に封ぜられると家老荒尾成利が米子城を預かり、以後荒尾氏の自分手政治が明治維新まで十一代続いた。

江美城:江美城跡は、だいせん火砕流台地を造成して、築かれた中世の山城で文明年間(15世紀後半)に蜂塚安房守によって築城され、二代・三河守、三代・丹波守、四代・右衛門尉と四代にわたってこの地を治めました。永禄七年(1564)八月六日、尼子氏を攻略する為に山陰へ侵攻してきた毛利氏により江美城は攻略され、蜂塚氏は滅亡しました。その後、美後・備中・美作方面に対する戦略的見地から、毛利氏により、蜂塚時代の中世的城郭から近世城郭へと大幅な改造がなされています。1997年12月の発掘調査により、多数の瓦片に混じって金箔装飾のある鯱瓦が発見されました。このことから安土桃山時代の後期、江美城には金箔装飾を施した鯱瓦を載せた立派な櫓があったことがわかりました。


今回の旅行、鳥取県に足を運び、比較的マイナーで地味なお城・城下町18箇所(若桜城、景石城、山崎城、太閤ケ平砦、二上山城、桐山城、道竹城、天神山城、防己尾城、鹿野城、羽衣石城、打吹城、岩倉城、由良台城、船上山城、尾高城、米子城、江美城)を訪れ、楽しめました。

 





















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十ニ弾:中国上海観光  
2014年11月22−24日
  

中国に足を運び、中国の最も大きな都市で、アヘン戦争後の1843年に開港し、急速に発展した街、のどかな漁村だったが列強が次々と租界をつくり、独特の文化が生まれた上海を訪れました。

22日16:25関西国際空港全日空で出発
18:00上海浦東国際空港到達、リニアモーターカー、地下鉄で人民広場駅下車
19:20南京東路に位置するホテル到着後、繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

23日7:00徒歩で出発、街を散策する。
南京東路
上海一の繁華街、南京路メインストリート、南京路。外灘の和平飯店角から静安寺の西まで続く全長約5.2Kmの大繁華街。老舗の百貨店や食品店を中心に、近代的なショップが入り交じる活気あふれる繁華街“南京東路”。

新天地
上海新天地は、歴史的風貌を持つ都市観光のスポットであり、飲食、ショッピング、ショーが一体化された娯楽スポットである。 新天地広場は、上海の中心地帯にあり、准海中路の小手院外に隣接している。新天地の石庫門の路地に奥深く入れば、青煉瓦と黒煉瓦造りの建物が軒を並べている。 アーチ型の玄関、戸の枠の横木と家の軒、窓台が優美で当時の情緒を今に伝えている。石庫門の中は別の風景が見られる。もともと締め切った戸が全部開けられ、広々とした空間となっている。 そこには、バーや喫茶店、レストランなどのスペースがある。

豫園周辺
豫園:明代に造られた、400年以上の歴史を持つ古典庭園。園内の庁堂楼閣、築山と流泉は、いずれも明・清時代の中国南部の庭園建築芸術を代表するもの。 上海随一の観光スポットとしても有名で、約2万uもの面積の中に40ヵ所余りの見どころを持ち、生き生きとした龍壁、曲がりくねった回廊およびさまざまな形をした花窓によって巧みに隔てられている。建物、緑、池の水面、美しい名石とが見事に調和し、中国の古典的な美の世界が堪能できる。

外灘
“中国の窓”と例えられる上海。その“上海の玄関”と呼ばれているのが、外灘(バンド)。南京条約で上海が開港して以降、外灘は『バンド』と呼ばれ租界の玄関口になった。その後各国の商社、銀行などの建物が立ち並び、「東方のウォール街」と呼ばれるまでに繁栄。1940年代以降に中国が開放された後も、それらの建造物は壊されることなく利用され、今ある景観にいたる。新古典主義、アールデコやネオ・バロックなどの建築様式が融合した独特の建造物は、建築群全体が国の重要文化財に指定されている。外灘の夜景は絶景。夜になるとライトアップされ、その輝きはまるで一つの雄大な交響曲が心の中に響いているかのように感じられる。

浦東
中国の特別開発区でもある浦東は「新しい上海」の象徴的スポット。東方明珠塔がそびえ、リニアモーターカーが走る、まさに近未来都市。東方明珠塔からは、対岸にあるクラシックな街並みの外灘を一望でき、未来から過去を眺めているかのような不思議な感覚を味わえる。今も開発は進行中で、デザインもユニークな高層ビルが次々に建設されており、その景色は日々変化している。東方明珠塔、森ビル、金茂大厦、環球中心と巨大な高層ビルが立ち並び、アジアのビジネスセンターとして更なる発展を続けているエリア。
17:30地下鉄陸家嘴乗車し人民広場駅下車ホテルに戻る、繁華街を散策後食事を済ませて就寝。
24日7:00歩いて出発、散策。

南京西路
上海一の繁華街、南京路メインストリート、南京路。外灘の和平飯店角から静安寺の西まで続く全長約5.2Kmの大繁華街。高級ホテルやショッピングモールを中心に、オシャレなカフェやハイソなレストランが並ぶ“南京西路”。

除家匯・衝山路
「素敵な洋館レストランで食事したい!」「旧フランス租界を散策したい!」「上海の夜を満喫したい!」など、観光地めぐりよりもおいしいものを食べながらのんびり過ごしたいと考えている方は、もう「衡山路」をチェックしているのではないでしょうか。静かな公園や素敵なホテルが点在していて、老舗バーやリノベーション系レストランも多い衡山路は、代表的な繁華街よりも上海らしい雰囲気が味わえます。

淮海路
淮海路は南京路と並ぶ、上海最大の商業地のひとつです。全長6Kmの道のりで、東京の「銀座」、ニューヨークの「5番街」、パリの「シャンゼリゼ通り」、シンガポールの「オーチャード通り」などをモデルにしていると言われています。その特徴は、400余りのデパートや店が建ち並んでいることで、「陝西路」から「西藏路」までの2.2Kmがその中心街です。90年代、淮海路は地下鉄の建設とともに商業地としての改造が進み、“国際都市上海”の名に恥じない商業地になりました。淮海路には中国、ヨーロッパの古典的な様式から、現代風の上品な建物まで立ち並び、外見のよさだけでなく、中身も都市型のレジャーに最適の雰囲気を醸し出しています。巴黎春天、伊勢丹を始め、各デパートには世界水準のブランドが集まっています。

15:30地下鉄打浦橋駅乗車、上海浦東国際空港に向かう。

16:55上海浦東国際空港到達。
19:05上海浦東国際空港全日空で出発
22:00関西国際空港到達。

今回の旅行、中国に足を運び、中国で最大都市上海を訪れ、人民公園から南京東路駅まで結ぶ上海きっての繁華街南京東路、伝統的な江南庭園である豫園を中心とした古き中国を感じさせる豫園周辺、共同租界時代の洋館を改装した、レストランやホテルが人気を集めている外灘、経済発展が著しい上海を象徴するように超高層ビルが林立する浦東、大型デパートやブランド店が並び、洗練された雰囲気が漂う南京西路、かつてはフランスの租界地だった場所で、今もお洒落な洋館が点在する除家匯・衝山路、南京路と並ぶ上海の2大ショッピングストリート、租界時代の建物を生かしたクラシックホテルも多い淮海路、2泊3日でひたすら歩き巡りました。

上海の街は、案内板も明確で、迷うことなく目的地にたどり着くことが出来ました。地下鉄も充実、乗車も簡単で、利用しやすいです。

上海まで関西国際空港から2時間あまりで近い、上海を拠点として蘇州、杭州、南京も近い、便利な大都市上海、これからも何回か訪れ周囲の観光名所を巡りたいと思います。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十一弾:熊本県くま川鉄道田園シンフォニー観光  
2014年11月15−16日
 

熊本県人吉に足を運び球磨川に沿って位置するくま川鉄道の人吉から湯前までを走る観光列車田園シンフォニーに乗車し走行し球磨川沿いの美しい田園地帯を車窓から景観しながら訪れました。

15日17:05伊丹空港出発
18:15熊本空港到達、バスで熊本駅に向かう。
19:30熊本駅到達、近くのホテル到着後周辺の繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
16日8:28熊本駅特急くまがわ1号で出発
10:00人吉駅到達。
11:11人吉駅くま川鉄道田園シンフォニーで出発

観光光列車「田園シンフォニー」はJR九州の寝台列車「ななつ星in九州」などで知られる水戸岡鋭治氏がデザインし,平成26年3月に運行開始したばかりの新型豪華車両です。速度を落として運転するので、沿線の景色をゆっくり楽しめます。車内は人吉球磨産のヒノキを使用し、明るくやわらかな雰囲気です。駅停車時などに、地元のあたたかいおもてなしも楽しめます。

12:18湯前到達
12:31湯前くま川鉄道田園シンフォニーで出発
13:15人吉到達
14:00人吉JR肥薩線で出発
15:12八代到達、バスで熊本空港に向かう。
16:05熊本空港到達
18:45熊本空港出発
19:50伊丹空港到達。

今回の旅行、熊本県人吉に足を運び球磨川に沿って走るくま川鉄道観光列車田園シンフォニーに乗車し車窓から球磨川周辺ののどかな田園風景を望み楽しめました。




飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十弾:東海・関東・甲信越圏お城・城下町巡り観光  
2014年11月1−3日
   

東海・関東・甲信越圏の広い範囲に足を運び、点在するお城・城下町13か所(長篠城、岩村城、高遠城、武田氏館、山中城、八王子城、水戸城、足利氏城、金山城、鉢形城、箕輪城、小諸城、春日城)を訪れました。

1日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイバス、名神、新名神、東名自動車道を経由して愛知県東部方面に向かう。
長篠城:三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった城(平城)。現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。1575年(天正3年)5月の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。

岐阜県恵那方面に向かう。

岩村城:岐阜県恵那市岩村町にある中世の山城跡で、江戸時代には岩村藩の藩庁であった。
付近は霧が多く発生するため、別名・霧ヶ城とも呼ばれる。「女城主」悲哀の物語が残る。

長野県伊那方面に向かう。
17:05伊那駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

高遠城:長野県伊那市高遠町にある城。兜山城の別名をもつ。桜の名所としても有名である。国の史跡に指定されている。

2日7:00車で出発、山梨方面に向かう。

武田氏館:甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館で、守護所が所在した。現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡である

静岡県三島方面に向かう。

山中城:北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつ。三島市によって当時を反映した整備改修がなされ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土による被履の上芝を張って保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるように整備されており北条氏の築城方法を良く知ることのできる城跡となっている。

八王子方面に向かう。

八王子城:北条氏の本城、小田原城の支城であり、関東の西に位置する軍事上の拠点であった。延喜13年(913年)に華厳菩薩妙行が山頂で修行中に牛頭天王と8人の王子が現れた因縁で延喜16年(916年)、この城の山頂に八王子権現を祀ったことから、八王子城と名付けられた。

水戸方面に向かう。

水戸城:現在の茨城県水戸市三の丸にあった城である。徳川御三家の一つ「水戸徳川家」の居城である。茨城県指定史跡。三の丸にある藩校・弘道館は国指定特別史跡。

栃木県足利方面に向かう。
16:20足利駅付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
3日7:00車で出発。

足利氏館:鑁阿寺(ばんなじ)は、栃木県足利市家富町にある真言宗大日派の本山である。「足利氏宅跡(鑁阿寺)」(あしかがしたくあと(ばんなじ))として国の史跡に指定されている。

金山城:群馬県太田市のほぼ中央にそびえる標高235.8メートルの独立峰、全山アカマツに覆われた金山に築かれた山城である。別名「太田金山城」、「金山城」。

埼玉県秩父方面に向かう。

鉢形城:埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の平山城跡で、東国における戦国時代の代表的な城跡のひとつである。

高崎方面に向かう。

箕輪城:榛名白川によって削られた河岸段丘に梯郭式に曲輪が配された平山城である。城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、両者が天然の堀を形成していた。城地は東西約500メートル、南北約1,100メートル、面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものであった。現在にのこる遺構として、石垣・土塁・空堀の跡が認められる。

長野方面に向かう。

小諸城:長野県小諸市にある城跡。別名、酔月城、穴城、白鶴城。

上越方面に向かう。

春日山城:現在の新潟県上越市にあった中世の山城。主に長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる。春日山城跡は国の史跡に指定されている。

14:40帰路に向かう。

今回の旅行、東海・関東・甲信越圏の広い範囲に点在するお城・城下町13か所を巡り楽しみ堪能しました。
山城から平山城、平城と種々のタイプのお城を巡りスケールの大きな建造物を再確認できました。
今回で日本の100名城をすべて訪れる事ができました。