飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十五弾:エチオピア観光  
2014年12月27日−2015年1月3日


東アフリカに足を運び、世界の中で最も歴史のあるキリスト教王国と言われ古代エジプト人はここを神の国と呼び、失われたアークが眠る場所という伝説があり、いまだに多くの謎が残る神秘な国、数十以上の民族に分かれ、それぞれ違った習慣や宗教を持ち南部には少数民族の村も残り、又コーヒーの発祥地として名高いエチオピアを訪れました。

27日16:25関西国際空港ANA航空で出発
18:00上海到達
28日00:35上海空港エチオピア航空で出発

7:45エチオピアアジス・アベバ到達、着後バスでエントット山観光

アジス・アベバ:エチオピアの首都であり、最大の都市、「新しい花」を意味するアジスアベバ。2002年にはアフリカ連合の本部が設置されました。世界最古の人類ルーシーに関する展示がされている国立博物館が見どころです。

エントット山:エントット山は、19世紀皇帝メネリク2世がアジスアベバに遷都した際に、最初の宮殿を建設した由緒ある場所です。山頂付近で首都アジスアベバを一望できるところには、平穏なアジスアベバを見守るようにエチオピア正教の教会・エントット・マリアム教会があります。この教会には、山頂付近の村に住む人々が早朝や日曜日の礼拝に集い、また信仰が生活に根付いているエチオピアでは、門前で十字を切り、祈りを唱える人々が並んでいます。

観光後
11:45アジス・アベバエチオピア航空で出発
12:45バハルダール到達、昼食後、バハルダール観光

バハルダール:ホワイトナイルとともにナイル川の2大支流といわれる青ナイルの源流タナ湖。エチオピア最大の淡水湖であるタナ湖の湖岸にバハルダールの町は広がります。タナ湖クルーズをはじめ、湖岸に建つ美しい壁画の残る修道院巡りなど、エチオピアを代表する観光地となっています。

タナ湖クルーズ:ボートに乗船してミフネット修道院を訪れる。

ウラ・ギダネ・ミフネット修道院:バハルダールからタナ湖を遊覧し訪れることのできるウラ・キダネ・メフレ修道院。木造で静寂の支配する祈りの場です。内部には聖人や聖書にまつわる美しい壁画が数多く残るエチオピア正教の修道院です。

タナ湖での夕日鑑賞:タナ湖でボートの上で夕日が沈むのを鑑賞する。

18:30ホテル到達後夕食、就寝。

29日7:15バスで出発、青ナイルの滝観光

青ナイルの滝:ナイル川源泉のひとつ・青ナイルの滝。現地ではしぶきが煙のようにみえることから、川の煙という意味の「チスアッバイ」と呼ばれています。断崖から流れ落ちるその様は、迫力満点で雄大な景観が広がります。

11:00バスでゴンダールに向かう。

15:00ゴンダール到着後昼食、その後ゴンダール観光

ゴンダール:かつてエチオピア王国の首都であったゴンダール。市内には3つの王宮群が現存します。標高約2,300mのファシルケビの丘には、約200年間続いたゴンダール王朝時代に建てられた城が残っています。

ゴンダール城:標高2300mのファジル・ブルの丘に17〜19世紀にかけて約200年間続いたゴンダール王朝時代に建てられた6つの城と12個所の城門が残されている。面積約7m2、城壁の長さは900mもあるこの壁は、アフリカのような地域に中世のヨーロッパのような城だったので、後世になって「不思議の城」と言われれようになった。この城は、ポルトカル・フランス様式を取り入れた建築で、たしかではないがインドの建築家によって建造されたともいわれてる。

デブレ・ベルハン・セラシェ教会:16世紀に建てられたデブレ・ベルハン・セラシエ教会は、街にある教会のなかで唯一、建てられた当時のままの姿を残すものです。石のレンガ造りの建物に草ぶき屋根。神聖な内部は土足厳禁で、天井も壁もフレスコの宗教画で埋め尽くされています。

ファシリダス帝の沐浴場:ゴンダールのティムカット祭の会場となるところです。普段は水がありませんが,「ティムカット祭」が行われる時には,運河から水を引いてくるのだそうです。ティムカット祭の時には,この周りの8つの教会からアーク(のコピーのタルボット)が運び込まれ,ゴンダール中の人々が集まると言われています。
聖職者達の祝福が終わると,群衆が一斉にこのプールに飛び込み,大騒ぎするそうです。

女帝メンテワブの宮殿:女性の趣味で作られたデザインのような宮殿

18:15ホテル到着後夕食、就寝。

30日7:15バスで出発、ゴンダール空港に向かう。
9:15ゴンダール空港エチオピア航空で出発
9:45ラリベラ到達、途中ラリベラの村訪れる。ホテルで休憩、昼食を済ませてラリベラの岩窟教会観光

ラリベラ:かつてはロハと呼ばれ、ザグウェ王朝の首都が置かれていたラリベラ。ザグウェ王朝11代の王の中で最も有名なラリベラ王から、その名がつけられました。イスラム教徒に占領されたことにより、エルサレムへの巡礼が困難になったため、このロハの地に第2のエラサレム建設を試みました。その時の名残がいたるところに残っています。

ラリベラ王は自分の住む村ロハを「ラリベラ」と改称、そしてここの雨期にのみ水の流れる川を、「ヨルダン川」と名付け、その両側にエルサレムそっくりな建造物を作ろうとしたのです。 ヨルダン川の南側にはマドハネアレム(救世主)教会、マリアム(聖母マリア)教会、デナゲル(聖処女の家)教会、マスカル(聖十字架)教会、そしてラリベラ王の墓のあるゴルゴダ・ミカエル教会の5つが、北側にもエマヌエル教会、ガブリエル教会、ラファエル教会、アッバ・メルクリオス教会、アッバ・リバノス教会の5つ、つまり合計10の教会が建造されました。

聖救世主教会を含む第一岩窟教会群

聖救世主教会:エチオピア北部の町ラリベラにある岩窟教会。市街を流れるヨルダン川の北側に位置する。一枚岩を刳(く)り貫いて造られており、ラリベラ最古かつ最大の教会として知られる。アクスムのシオンの聖マリア教会を模して造られたと考えられている。1978年「ラリベラの岩窟教会群」として世界遺産(文化遺産)に登録された。マドハネアレム聖堂。メドハネアレム聖堂。

聖十字架教会:聖マリア教会の北壁に穿たれた小さな祠

聖マリア教会:第一群では唯一、壁画を有する教会で、聖書をモチーフにした壁画が残されている。 境内にはがあり、ここで洗礼を受けると子宝に恵まれるという信仰に結びついている。

聖処女教会:聖マリア教会の南にある小さなチャペル

聖ミカエル教会:聖ゴルゴダ教会と内部で連結している。建築物としての美しさはラリベラ随一と云われる寺院。ラリベラ王の十字架を安置。

聖ゴルゴダ教会:聖ミカエル教会と内部で連結している。ラリベラ王の墓所や、三位一体祠がある(女人禁制)

聖ギオルギス教会:伝説によると、10番目の教会が完成した後、聖ゲオルギウスがラリベラ王の夢枕に現れ、自分にも聖堂を捧げよと求めました。そこで11番目の教会、ゲオルギウス教会が造られたといわれます。

この11番目の教会がラリベラの教会郡の中でも最高傑作です。これらの教会は普通に建築されたものではなく、巨大な一枚岩を掘り貫いて作ったものです。岩塊の上から四辺形の溝を深く彫り下げ、建物全体を浮き出させ、次いで外部と屋根に彫刻を施すという、まさに驚嘆に値する工法といえます。

ラリベラの村:教会の近郊には、すべて円錐形をしたトゥクルと呼ばれる伝統建築が並ぶ集落があります。下の部分が木造、屋根は萱葺きだが、その形はなんとなく南イタリアのアルベロベロにあるトゥルッリに似ています

17:30ホテル到着、

19:00食事を済ませて就寝。

31日8:30ホテルバスで出発、第二岩窟教会群に向かう。

第二岩窟教会群

聖エマニュエル教会:第二群で唯一、岩盤をくり抜いて巡拝できるようになっている教会。

聖マルコリオス教会:ラリベラで二番目に大きな教会。創建当時の十字架を安置。12世紀に描かれた三賢人や十二使途と目されるフレスコ画がある。

聖アバ・リバノス教会: ラリベラ最小の教会。岩に横穴を掘って建立されており、最奥はまだ岩肌のまま。

聖ガブリエル・ラファエル教会:聖ラファエル教会とガブリエル教会と地続き。かつての宮殿跡。

昼食はレストランで。

昼食後ホテルのもどって休養後ナクタラブ教会訪れる。

ナクタラブ教会:ラリベラ郊外の山腹の洞窟の中に作られたナクタラブ教会へ。12世紀に,ナクタラブ王によって造られたのもで,洞窟からしたたり落ちている水は一年中耐えることがなく,聖水とされています。独特の衣装を着た司祭の方が、クロス(十字架)や手書きの本などを見せてくれました。

コーヒーセレモニー:外の清々しい景色をイメージして、青草(ケテマ)や花を床にしきつめます。みなさんに美味しいコーヒーを。という気持ちをこめて研ぎます。炭をつかい、じっくりとこげないように注意しながら焙煎します。コーヒーの味だけではありません。香りもいっしょに楽しみます。お茶に茶菓子。ファンディシャと呼ばれるポップコーンがおつまみです。写真のジャバナをつかってコーヒーを作ります。まずは水を温めます。お湯を温める間に、ムカチャ、ザナザナと呼ばれる道具を使って豆を粉末状にします。粉末状のコーヒーをジャバナに入れて、溢れないように注意しながら沸騰させます。エチオピア人は砂糖が大好きです。カップ3杯が普通です。香りを付けるために花を入れます。お好みでどうぞ。コーヒーをカップに注ぎます。どうぞ召し上がれ。コーヒーは3杯(1.アボル、2.トナ、3.バラカ)が標準です。

18:00ホテル到着

19:00夕食、就寝。

1日7:30バスで出発、ラリベラ空港に向かう。
10:05ラリベラ空港エチオピア航空で出発
10:45アクスム到達、着後古代王国の首都アクスム観光

アクスム:紀元前10世紀、イスラエルのソロモン王とイエメンのシバの女王の間に生まれたメネリク1世がエチオピアに渡り、現在のアクスムを中心とする国が興りました。その後、紀元前5世紀にアクスム王国が建国され、アクスムはその都として一大栄華を築くこととなります。4世紀、エザナ王の治世に王国は最盛期を迎え、また同時期にコプト派のキリスト教が伝来し、王国はキリスト教国となりました。当時、ゲーズ語と呼ばれる独自の言語が使われ、現在でもエチオピア正教の古い聖書にその文字を見ることができます。エチオピアではメネリク1世がエチオピアに渡る際に、十戒を刻んだ石版を納めた「契約の箱(アーク)」をソロモン王から授かり、このアクスムへと持ち帰ったと伝えられています。現在でもこの契約の箱は「シオンの聖マリア教会」に保管されていると信じられています。

オベリスク:紀元4世紀から5世紀にかけて造られたと考えられるオベリスク(石柱)がアクスムには数多く残っています。このオベリスクの目的ははっきりと分かっていませんが、古代のアクスムの支配者達が亡くなった際の墓石ではないかと考えられています。アクスムで2番目の大きさを誇ったオベリスクは、高さ約25m。1937年イタリアの支配時代にムッソリーニの軍隊によってイタリアに持ち去られてましたが、2005年にアクスムに返還されました。このオベリスクはエザナ王のオベリスクと呼ばれ、現在はアクスムのシンボルとなっています。最大のオベリスクは高さ約33m。建設途中に倒れてしまったと考えられ、立ったままであれば世界最大のオベリスクとなっていました。

シバの女王の宮殿跡:紀元前10世紀、現在のイエメンからエチオピアを支配していたシバの女王の宮殿があったとされる遺跡。建物の遺構は3,250kuにも及ぶ広大なもので、後にこの上に、キリスト教徒の王の宮殿が建てられたと考えられています。

シオンの聖マリア教会:4世紀の王エザナか6世紀の王カレブによって建てられたが、 その後17世紀の王ファスィリデスによって立て直されて現在に至る教会。 ファスィリデスはゴンダールの城を建てた人で、ここの教会上部もそういわれるとどことなく ゴンダールの城に似ている。教会内は薄暗く高い天井が印象的。宗教画もあるが、これと言って感動する物ではない。女人禁制。

新シオンの聖マリア教会:元祖マリアム シオン教会は女禁の為、1960年代にハイレセラシェが男女かまわず入れる教会を建てた。教会の形はラス ミカエル(17世紀)の王冠を真似てデザインされており、エチオピアに教会多しと言えども 類を見ないほど広いこの教会内では色鮮やかなステンドガラスが壁を覆い、中央には繊細な彫刻が施された 黄金の箱が存在する。まさに皇帝ハイレセラシェの権力の象徴。修道士が開いて見せてくれる聖書は、1000年前に野菜・植物・卵などをインク代わりに使用しヤギの皮に 絵や文字を書き込んだ物。布で丁寧に覆われているため、1000年前とは思えないほど色も美しく 保存状態が良い。

カレブ王の墓:石造りの階段を降りて行くと幾つかの部屋に分かれており、6世紀アクスムを治めたカレブ王の墓が存在する。 しかし現在では石棺があるのみ。ところが興味深いことに、石棺に刻まれた十字架とは異なる 十字架が壁に2つ彫られてある。これは謎の多いテンプル騎士団(十字軍時代の騎士修道会の1つ。)が 残していった足跡と証言されている。地下墳墓の上には石造りの神殿があったはずだが、今では壊れはてトタン屋根で覆われている始末。 現地の人の話によれば当時500頭のゾウによって巨大な石を運び込んで作ったとか。

途中レストランで昼食

18:00ホテル到達、食事、就寝。

2日8:00ホテルバスで出発、アクスム空港に向かう。
9:55アクスム空港エチオピア航空で出発。
11:25アジス・アベバ到達、着後レストランで昼食。
昼食後市内・郊外観光

考古学博物館:有史以前から現在にいたるまでの歴史、エチオピアに暮らす民族、最後の皇帝ハイレ・セラシエに関する展示が充実した博物館。この博物館の中で最も有名な展示は、1974年に発見され、当時は最古の人類と言われた350万年前のアウストラロピテクス"ルーシー"に関する展示です。全身の約40%にあたる骨がまとまって見つかったという貴重さから、世界的にも広く知られています。当時流行していたビートルズの曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」にちなんで名付けられたといいます。残念ながらこの博物館にある"ルーシー"の骨はオリジナルではありませんが、貴重な資料であることに違いありません。

マルカート:アフリカ最大規模の市場。生鮮食品、日用品、電気製品、様々な中古用品を売る店が所狭しと軒を並べる活気溢れる市場です。地元民の生活の中心となる場所であり、毎日多くの人々で賑わっています。

聖ジョージ教会:1896年,時の皇帝メネリク2世がイタリアとの戦争(アドワ戦争という)に勝利したのを記念して建立。エチオピアの守護聖人であり軍神でもある「聖ジョージ」に捧げられてます。今までに,ラリベラでも「聖ジョージ教会」が登場していますが,目的が同じのためです。各所に存在します。教会の全景、八角形をしていて内部は3重構造、内部は、3重に区分されていて,一番外側が「聖歌」と呼ばれ,聖歌隊が太鼓や鈴や杖で音楽を奏でるところです。

夕食は民族舞踏ショーを鑑賞してエチオピア料理

夕食後アジス・アベバ空港に向かう。

23:30アジス・アベバ空港エチオピア航空で出発。

3日15:15上海空港到達。
19:05上海空港全日空で出発
22:00関西国際空港到達。

今回の旅行、アフリカの東部、東アフリカのエチオピアに足を運び、由緒ある5大都市、エチオピアの首都であり、最大の都市、「新しい花」を意味し、2002年にはアフリカ連合の本部が設置されましたアジス・アベバ、ホワイトナイルとともにナイル川の2大支流といわれる青ナイルの源流タナ湖。エチオピア最大の淡水湖であるタナ湖の湖岸に位置するバハルダール、かつてエチオピア王国の首都であり、市内には3つの王宮群が現存します。標高約2,300mのファシルケビの丘には、約200年間続いたゴンダール王朝時代に建てられた城が残っていますゴンダール、かつてはロハと呼ばれ、ザグウェ王朝の首都が置かれていた、ザグウェ王朝11代の王の中で最も有名なラリベラ王から、その名がつけられましたラリベラ、イスラエルのソロモン王とイエメンのシバの女王の間に生まれたメネリク1世がエチオピアに渡り、現在のアクスムを中心とする国が興りました。その後、紀元前5世紀にアクスム王国が建国され、アクスムはその都として一大栄華を築くこととなりますアクスムを訪れ8日間の文化遺産巡り堪能しました。

特に世界的に有名な岩窟教会、小ぶりではあるが他では見られない岩を削り立派な教会群の建造物に深い歴史が刻まれ圧巻でした。
世界遺産第一号にはふさわしい建造物でした。

日本から観光で訪れる人は少ないエチオピアですが発展途上国でインフラはまだまだですが歴史的に興味深い建造物、史跡が数多く存在し世界で最も歴史あるキリスト教王国と言われる歴史勉強になりました。

尚衛生面ではまだまだの国であり、蚊(マラリアなど)ダニ、南京虫が数多く存在し、その対策が必要ですが、十分な対策をしたにもかかわらず、足を数箇所ダニに噛まれ、後が残っていました。
アフリカ旅行は、十分な感染症、虫対策が不可欠ですね。



 




























京都府お城・城下町巡り観光  
2014年12月23日
 

古き都、大阪の北東に位置する京都に足を運び、比較的マイナーなお城10箇所(鹿背山城、笠置城、槇島城、淀城、勝龍寺城、山崎城、山科本願寺、御土居、聚楽第、静原城)を訪れました。

10:00車で出発、京都に向かいお城をめぐる。

鹿背山城:南山城最大の山城であるだけでなく、戦国末期の特徴をよく残す点で城郭史上注目される城郭である。十五世紀に南都興福寺の北方防御の拠点として史料上に登場し、古市氏以下興福寺傘下の武将がしばしば入城した。十六世紀後半、大和北半部を支配した松永久秀は多聞山・信貴山・龍王山とともに本城を拠点として重視し、改修を加えた。城域の西北・東南の二か所に畝状空堀群を採用して防御上の弱点を補い、主郭北斜面の水の手をカバーする竪堀・竪土塁で北面防御を完結させたほか、主郭東南隅の櫓台の切岸直下の隘路に通路を導いて城虎口(出入り口)とするなど、織豊城郭登場前夜の築城技術の水準を示す貴重な遺構を残している。

笠置城:笠置城は、元徳3年に後醍醐天皇が山岳寺院笠置寺を利用して城としたもので、鎌倉幕府軍と戦った元弘の変の舞台となった。 1ヶ月の籠城戦が繰り広げられ、幕府軍の奇襲により落城、後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐の島に流された。戦国時代の天文年間、笠置城は河内飯森山城主代木沢長政の持城となっていた。長政は、主家であった河内高屋城主畠山氏から実権を奪い、河内・山城守護代に任じられ、河内・山城・大和周辺にて軍事行動をたびたび行っている。 天文11年、長政は、細川晴元・三好長慶と河内大平寺にて合戦し討ち死にした。

槇島城:槇島城は、1573年(天正元年)に足利義昭が織田信長に対して兵を挙げた「槇島城の戦い」の舞台となった城として知られています。義昭退去後、塙直政、井戸良弘らが城将となりましたが、1592年(文禄元年)の豊臣秀吉による伏見城築城後はその戦略的価値がなくなり廃城となりました。なお、伏見城築城にあたり宇治川の流路を付け替える工事の際に、石垣も「槇島堤」に利用されたため遺構は残っておらず、現在は槇島公園内に石碑を残すのみです。義昭退去によって実質上、足利幕府は滅んだとされており、室町幕府終焉の地ともいわれています。

淀城:徳川二代将軍秀忠は、元和五年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。寛永十年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(1723)五月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二ヶ所に取り付けらていた。淀城とその城下町の盛観は延享五年(1748)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。

勝龍寺城:勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応二年(1339)に築いたといわれる。城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷に押さえうる交通の要所に築かれている。応仁・文明の乱(1467〜1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀二年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正十年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。ところで、この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が十六歳のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。正面虎口 城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成四年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られた。その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされた。

山崎城:山崎城(鳥取尾山城とも)の起源は古く南北朝の初期頃とされている。男山に籠城する北畠顕信らに呼応して蠢動する摂津国の南朝勢を京都から防禦するために摂津守護赤松範資が築城したものと推定されている。その後、応仁の乱後には山城守護山名是豊が当時西岡を支配していた西軍の畠山義就や摂津の大内政弘らに対抗するために当城を修築したようである。その後、細川晴元や三好長慶らが利用するなど重要な役割を果たしていた。天正十年(1582)六月の本能寺の変のあと、備中高松城から戻った羽柴秀吉と神戸信孝らの軍に対し、明智光秀は男山と当城に陣取ったもののすぐに淀、勝竜寺城に引き下がってしまう。そこをすかさず秀吉が天王山を占拠し、一気に光秀勢を追い落とした。秀吉はそのまま翌十一年(1583)の大坂城に移るまで本拠としていた。

山科本願寺:浄土真宗中興の祖である蓮如上人は、本願寺再興の夢を山科盆地に求め、文明十年(1478)から六年近くの歳月を費やして建設されたのが山科本願寺である。山科本願寺は、御影堂や阿弥陀堂など豪壮な堂舎や屋敷が建ち並び、二重三重に巡らされた土塁や濠により囲まれていた。その寺域東西800メートル、南北1000メートル程度の規模があったものとみられ、そこでは寺内町と呼ばれる独立した空間を築きあげていた。山科本願寺は仏徒の支配する独自の世界を創出しようとしたものであったが、天文元年(1532)に六角氏と法華宗徒の連合軍の攻撃を受け、その造営から50年余で焼失し、大坂の石山本願寺に移った。現在では山科中央公園や民家所有地のなかに土塁や濠などがいくつか残っているにすぎないが、これまでの発掘調査では、石垣遺構・鍛冶場跡・石室跡などの遺構が検出されている。延徳元年(1489)、75歳になった蓮如は法燈を実如に譲り、ここ音羽の地に隠居所を設け、自らの住まいとした。これが山科本願寺南殿である。この南殿も、城郭的な施設を備え、200メートル四方程度の規模があったものと推定されている。邸内には園池が築かれ、築山を構え、持仏堂・山水亭・台所などが設けられていた。
 「山科本願寺南殿跡」及びその西方に所在する「山科本願寺跡」は、強固な防御施設を備える中世城郭宗教都市としてわが国の歴史を知る上で重要な遺跡であることから、平成14年12月19日にその一部が国の史跡に指定された。

御土居:御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。台形の土塁と堀(堀の一部は川,池,沼を利用)からなり,その延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれました。土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残です。江戸時代になると天下太平の世が続き,外敵の脅威もなく御土居は次第に無用の存在となり,また市街地が洛外に広がるにつれ堤防の役割を果たしていたものなどを除いて次々と取り壊され,北辺を中心に僅かに名残をとどめるのみとなりました。昭和5年(1930),市内に残る御土居のうち8箇所が,京都の沿革を知るうえに,また,広く我が国における都市の発達をたどる重要な遺構として「史跡」に指定,昭和40年(1965)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され,現在9箇所が指定地となっています。
 また,これら指定地以外では,北区の大宮交通公園内や中京区の北野中学校内でも,部分的に御土居が残っています。

聚楽第:天正十四年(1586)、豊臣秀吉は旧平安京大内裏跡地に、聚楽第の築城をはじめた。聚楽第には各地の諸大名の屋敷も集められ、豊臣政権の京都における官庁として進められることになり、翌天正十五年正月に完成した。さらに翌年には、後陽成天皇の行幸が盛大に執り行われ、豊臣秀吉の勢威はますます天下に知れ渡るようになった。その縄張りは「京都図屏風」や「寛永洛中絵図」などにより、本丸西北隅に天守閣を置き、その北に北の丸、南に南の丸、本丸西の南寄りに西の丸があったことがわかっている。また、「聚楽第図屏風」によれば天守閣は、外観四層、上三層分には破風と花頭窓を備えた高爛付望楼型天守の様相が描かれている。やがて、秀吉は政治の中心を伏見へ移すようになり、聚楽第も解体されて伏見城の資材とされてしまい、廃城となってしまった。しかし、各地に移築された建造物といわれるものがいくつか残っている。大徳寺の唐門や、西本願寺の飛雲閣などがそうである。

静原城:静原静(城谷山)は、弘治元年に三好長慶が山城54郷に夫役を課して築城した。 その後、永禄11年に織田信長が入京して三好氏を京から駆逐する。信長と足利将軍義昭との間が決定的な状況になると洛北の諸豪族は信長から離反した。 元亀4年、岩倉の小倉山城主山本対馬守も居城を離れてこの静原城へ立て籠もったが、明智光秀によって攻められ落城した。

16:30帰路に向かう。

今回の旅行、近場の古き都、大阪の北東に位置する京都に足を運び、比較的マイナーなお城10箇所(鹿背山城、笠置城、槇島城、淀城、勝龍寺城、山崎城、山科本願寺、御土居、聚楽第、静原城)を訪れ楽しみました。

ガイドブックと携帯で場所を検索し調べ、なんとか京都のマイナーなお城10箇所を探し求めて訪れることが出来ました。今回も平城は見つけるのが容易ですが山城は難しく、辿り着くのが一苦労でした。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十四弾:愛媛県お城・城下町巡り観光  
2014年12月20−21日
 

四国の中心地愛媛県に足を運び比較的マイナーなお城7箇所(荏原城、港山城、恵良城、鷺森城、西条藩陣屋、川之江城、新谷藩陣屋)を訪れました。 

20日14:20伊丹空港出発
15:15松山空港到達、レンタカーで城めぐり。

荏原城:この城跡は、室町時代から戦国期、伊予の豪族河野家十八将の首位であった平岡氏代々の居城跡である。高さ五メートルほどの土塁を周囲に築き、方形の平地で、長さは約東西130メートル、南北120メートル、堀の幅は北側20メートル、西と東は14メートル、南は10メートルで、南側で外とつながっている。四隅に櫓があったらしく西南の隅に石積みがある。矢竹が植えられているのは、この期の城塁に共通する特色である。建武二年(1335)、怱那氏が「会原城」で戦ったという記録が『怱那一族軍忠次第』にあり、築城は、それ以前である。土佐からの侵入を防ぐ拠点であったが、天正十三(1585)年平岡通倚の時、秀吉の四国統一により、道後湯築城とともに落城した。

17:30松山駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

21日7:00レンタカーで出発、お城をめぐる。

港山城:
築城年代は定かではないが建武年間(1334年〜1338年)に河野通盛によって築かれたと云われる。 湯築城を居城とした通盛が海辺を防御するために築いたと城だと云われる。河野本家と予州家による内紛では、予州家の河野通春が拠点としていたが、通春が病没すると攻め落とされた。天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で落城し廃城となった。

恵良城:築城年代は定かではないが治承5年(1181年)以前に河野氏によって築かれたと云われる。治承5年(1181年)河野通清が源氏に味方して高縄山城に挙兵するに及んで、備後国の奴可入道西寂が大軍をもって押し寄せたので、通清は日高・高穴・恵亮(恵良)の砦を守らせて防戦するも賓兵敵せず落城すると「河野家譜」に記されているという。暦応4年(1341年)伊予宮方の土居通世が恵良城に籠って武家方の河野通盛と戦った。室町時代には得能氏の支族得居氏の居城となるが、天文年間(1532年〜1555年)頃より来島村上氏の勢力が伸び、得居氏は村上通康の子通久を養子に向かえた。元亀3年(1572年)毛利氏の攻撃によって落城したが、豊臣秀吉による四国征伐の後も得居通久が三千石を領して居城した。しかし、関ヶ原合戦で来島氏は西軍に属して豊後国森へ転封となったため廃城となった。

鷺森城:水壕で囲む「浮城」・鷺森城は、応永元年(1394年)伊予国守護職河野氏の一族である桑原摂津守通興が築城した。壬生川の入江沼地を利用し、東と南に堀をめぐらし、北は入り江を切り開いて海水を導き、航路を兼ねた堀川を造る。大手口は西側に置き、壕に橋を架け(一ツ橋)、後方に大手門を造った。現在は、城跡の1/3が神社境内で、2/3が住宅地になっている。南西の国道沿いに「森岡さん」と呼ばれる小祠があり、城主の墓所であったと伝えられている。「鷺森城跡記念碑」「鷺森城跡校歌の碑」「松山藩年貢米倉庫跡碑」「壬生川村公会堂跡碑」などがある。

西条藩陣屋: 寛永十三年伊勢神戸城主一柳直盛は、郷国西条へ転封になったが、赴任の途次大阪で病没したため、長男直重が後を継ぎ西条に赴任し、西条陣屋を築造し城下町を開いた。直重の後を継いだ直興は、寛文五年改易となり一柳氏の治政は、三十年間で終った。そのあと、寛文十年紀州から徳川頼宣の次男松平頼純が就封され、その後十代二百年間松平頼英が明治二年版籍を奉還するまで、西条は城下町として繁栄した。現在陣屋跡は、西条高等学校となっているが、校門となっている大手門、門脇の堤、前濠の石崖、お矢来、濠等に昔の面影が偲ばれる。

川之江城:南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方、河野氏の砦として土肥義昌が延元二年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。興国三年(1342)北朝方、細川頼春が讃岐より七千の兵を率いて攻めてきた。義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ちのびて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死している。細川氏の領有後、河野氏に返され城主は妻鳥友春になった。元亀三年(1572)阿波の三好長治が攻め入ったが、撃退している。こちらは川之江城模擬櫓門  土佐の長宗我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長宗我部氏に通じた。怒った河野氏は河上但馬守安勝氏に命じて城を攻めとらせた。天正七年(1579)前後のことと思われる。河上但馬守は轟城の大西備中守と戦い、打たれたという話も残っているが、天正十年(1582)長宗我部氏の再度の攻撃に破れ、戦死落城している。その時、姫ヶ嶽より年姫が飛び込んで自殺したという悲話伝説も残っている。天正十三年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替り、加藤嘉明の時最終的に廃城になった。数々の攻防は川之江が地理的に重要な位置にあった為の悲劇ともいえる。戦国の世も終った寛永十三年(1636)一柳直家が川之江藩28600石の領主になり城山に城を築こうとしたが寛永十九年(1642)病没。領地は没収されて幕領となり、明治に至ったため、わずか六年の「うたかたの川之江藩」で終った。

新谷藩陣屋:寛永十九年(1642)、新谷藩初代藩主となった加藤直泰は、大久保川を付け替えて、藩主や家臣の屋敷・町人住区等の区割りを行い、庭園からの水を防火用にするなど、陣屋の体制を整えた。新谷藩は、武術とともに学問を奨励し、中江藤樹の教えや和算の普及に勤め、廃藩置県(明治四年)まで続いた。この陣屋跡に、学制頒布(明治五年)によって、新谷小学校の前身である「令教小学校」が設立された。「令」の字は、九代藩主加藤泰令の徳をしたってその一字が付けられた。この藩から、和算学者別宮猶重、蘭医鎌田明澄、産業の発展に尽くした岡丈四郎(岡大明神)、儒学者児王輝山・宇都宮龍山、国学者平田(翠川)銕胤(かねたね)、明治維新に活躍した香渡晋(こうどすすむ)、宮脇通赫(みちてる)等を輩出し、学問を重んずる気風が藩の伝統となった。

16:00松山空港に向かう。
17:10松山空港到達

21日19:40松山空港出発
20:35伊丹空港到達

今回の旅行、四国の中心地愛媛県に足を運び比較的マイナーなお城7箇所(荏原城、港山城、恵良城、鷺森城、西条藩陣屋、川之江城、新谷藩陣屋)を訪れ楽しみました。

マイナーな城跡、見つけるのは 一苦労、学校とか市役所に城跡が位置することが多いが、これは平城で見つけやすい、山城はなかなか見つけにくい、案内板があれば容易ですがない場合が多いです。

苦労して巡った愛媛県お城巡り観光でした。

尚長浜港からフェリーで青島に行く予定でしたが悪天候のためフェリーが欠航、次回持ち越しとなりました。