飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十弾:佐賀県唐津沖離島(松島・向島)観光
2014年3月29-30日
  

九州の東は福岡県、西は長崎県に接し、玄界灘と有明海の2つの海に面する佐賀県に足を運び、玄界灘に突き出た東松浦半島沖に点在する離島(松島・向島)を訪れました。

29日13:59新大阪新幹線さくらで出発
16:34博多駅到達、レンタカーで唐津に向かう。
18:05唐津のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

30日9:00レンタカーで出発、呼子方面に向かう。
9:35呼子到達
10:00呼子港渡船で出発
10:15松島到達、散策。

松島は東松浦半島の先端、波戸岬の北約3.2kmの海上にあり、加唐島のすぐ西隣に浮かぶ島です。松島漁港と加唐島漁港は真近にあるので連絡がありそうですが、定期船は呼子港から直接松島漁港へと向かいます。地元では“ひょうたん島”との異名もあり、東西両側が盛り上がり真ん中がくびれた形をしています。東側の標高は138m、西側が108mで平地はほとんど無く、窪地を縫うように集落があります。江戸時代の半ば頃までは無人島で加唐島の属島でしたが、安政年間(1854~1860年)に加唐島の貞八とその娘ウメが往来して開拓が行われました。その後、長崎の黒島(現長崎県佐世保市)からイカ釣りに度々訪れていた漁師・福蔵がウメの婿として松島に移り住み、郷里黒島から親戚や知合いを呼び寄せ集落ができていったようです。長崎の黒島は隠れキリシタンの島で、松島へ移住してきた者全てがカトリック信者だったため、そのまま松島もキリシタンの島になります。そして、明治6年(1873年)にキリスト教が解禁されるまで、隠れキリシタンとして息を潜めるような生活が続きましたが、信仰は絶えることなく現在に至るまで島民のほとんどがカトリック信者だといいます。今では港の近くに建つ「松島カトリック教会」の白い壁が誇らしげに輝いているように見えます。松島の産業は漁業が中心で、ウニやアワビ、サザエなどの海士漁やイカの一本釣りが盛んです。急斜面が多く耕地面積の少ない島では、どうしても農業は難しく、今まで自給的な甘藷栽培などが行われる程度でしたが、近年では島の活性化の試みとしてオリーブの栽培なども行われています。周囲の海は魚が豊富で、小松島や高瀬、大岩などの岩場は磯釣りファンにとってはたまらないポイントで、瀬渡船などで訪れる釣り人を度々見かけます。しかし、島内には宿も店も無いこともあって、観光で訪れる人はほとんどいません。その長閑な雰囲気を味わえるのが松島です。港や道路の整備も進められ散策もやり易くなってきているようなので、山道を登って玄界灘を一望してみるのも楽しそうです。

13:00松島渡船で出発
13:15呼子到達、レンタカーで星賀方面に向かう。
13:45星賀港到達。
14:00星賀港渡船で出発
14:15向島到達、散策。

唐津市肥前町は東松浦半島の付根から西へ突き出た入野半島一帯の地域で、向島は肥前町納所の北西約2.5kmの海上に浮かんでいます。南側の小高く盛り上がったクラマ岳(67m)が特徴的で、港がある南東側を除いて断崖が続いています。なかでも北海岸の「たて岩」と呼ばれている所では、みごとな玄武岩の柱状節理が見られます。向島行きの定期船は「鷹島肥前大橋」のふもとにある星賀(ほしか)港から1日2便、片道15分で運航しています。星賀港は天然の良港として長崎や北部九州へ向う貨物船の寄港地として栄えてきましたが、時代とともにその数を減らし、今では沿岸漁業の一本釣り漁船が並ぶ静かな漁港といった佇まいを見せています。「鷹島肥前大橋」は長崎県の鷹島と肥前町を結ぶ橋長1,251mの斜張橋で、平成21年4月18日に開通しています。星賀港は大橋の全景を眺めることができる絶好のビュースポットの一つで、夕陽に映える斜張橋の姿は長閑な海と山の景色に建造物の新たな輝きを加えています。向島の定住の始まりは、文禄年間(1592~1596年)の頃だと言われています。松浦の有力豪族だった波多氏は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に命令に背いたとして、文禄2年(1593)に所領を没収され追放離散の憂き目にあっています。その時に一族の一派がこの向島へと移り住み、代々島の歴史を刻んできました。
産業は近海での漁や磯での採貝などが中心で、好漁場を生かした釣り船も人気を呼んでいます。特産品はサザエ、ウニ、アワビなどが挙げられますが、ウニに味噌を混ぜて作る「がぜみそ」は古くから島の味として親しまれています。向島に流れてきた静かな時間は、あちらこちらに奇妙な伝説と地名を残しています。「金山(きんざん)ぶつぶつ」、「海賊と宝と洞窟」、「悲恋!おたよさん」などなど・・・。「金山ぶつぶつ」とは、真夜中になると人の話声がブツブツと聞こえてくるという所で、昔はここで金の採掘が行われていたようですが、大きな金脈が見つからず、後に無縁仏を葬ったお墓になったという、神霊スポットのような所です。多分、小さな洞窟に波や風の音が共鳴して、そのように聞こえたのではないでしょうか? 実際にその音を聞いたという人はあまり居ないようですが・・・。「海賊と宝と洞窟」とは、北側のタテ岩の辺りにある洞窟の話で、その昔、秀吉に追われた武将が身を隠し、財宝を埋めた洞窟だとか、海賊に襲われた島民が逃げ込み、中で焚き火をしたために見つかって殺された洞窟だとか、いろいろな話が聞こえてきます。「悲恋!おたよさん」 は、禁断の恋を犯してしまった“おたよ”という娘さんが、この島に流され処刑されてしまったという悲恋話で、実際に八坂神社の近くにお墓があります。江戸時代の姦通罪はとても厳しくて、死罪が言い渡されたということですから、恋も迂闊にはできなかったのかもしれません。
毎年8月1には、八坂神社の祭り「向島祇園」が催されます。「にぎわい見るなら博多の祇園、酔いどれ見るなら向島祇園」と言われ、島外からも見物人が訪れます。

16:00向島渡船で出発
16:10星賀港到達、レンタカーで博多に向かう。
18:05博多駅到達
18:39博多駅新幹線さくらで出発 
21:21新大阪駅到達。

今回の旅行、九州佐賀県の沖玄界灘に点在する2つの離島(松島・向島)を訪れ癒されました。
松島は隠れキリシタンの島で、教会が目立っていました。
向島は灯台までの散策は見晴らしもよく、快適でした。神社あり、洞窟あり、奇岩あり、結構見るべきものが沢山ありました。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十九弾:西国三十三か所巡り第一弾
2014年3月22-23日
  

近畿2府4県と岐阜に跨がって点在する33の観音霊場の総称、その始祖は大和国長谷寺を開いた徳道上人、再興が花山法皇と言われている西国三十三か所の第1番札所から第9番札所、番外札所を含めて10か所の札所を巡りました。

3月22日13:00車で出発、阪神近畿南阪奈自動車道経由して勝浦に向かう。
17:30那智勝浦に到達。

青岸渡寺:那智山は熊野三山の一つ。熊野信仰の霊場として長い歴史がある。もともと那智の滝を中心にした神仏習合の一大修験道場だったが、明治初期に青岸渡寺と那智大社に分離した。今も寺と神社は隣接していて、双方を参拝する人が多い。
「補陀洛(ふだらく)や岸打つ波は三熊野(みくまの)の那智のお山にひびく滝つ瀬」と御詠歌で親しまれている西国第一番の札所であります。当山の縁起に開基は仁徳帝の頃(4世紀)。印度天竺の僧、裸形(らぎょう)上人が那智大滝において修行を積みその暁に滝壷で24cmの観音菩薩を感得し、ここに草庵を営んで安置したのが最初です。その後、200年推古天皇の頃、大和の生佛上人が来山し、前述の話を聞き一丈(3m)の如意輪観世音を彫み、裸形上人が感得した24cmの観音菩薩を胸佛に納め勅願所として正式に本堂が建立されたのです。平安朝中期から鎌倉時代には、「蟻の熊野詣」といわれ、熊野三山の信仰がさかんになり、この時、65代花山法皇が三年間山中に参籠され那智山を一番にして近畿各地の三十三観音様を巡拝されましたので、西国第一番札所となりました。現在の本堂は織田信長南征の兵火にかかり、天正18年(1590)豊臣秀吉によって再建され、桃山時代の建築をとどめ南紀唯一の古い国指定の重要文化財建造物で、この堂の高さは18mで、大滝の落口の高さとおなじであるといわれています。

18:30車で紀伊田辺方面に向かう。
20:15紀伊田辺駅付近のホテル到着後繁華街を散策し、食事を済ませて就寝。

23日7:15車で海南方面に向かう。
8:10海南到達

紀三井寺:春は早咲の桜の名所として和歌の浦の絶景を望む境内には、踵を接する善男善女は数えるにいとまなく、観音信仰の隆昌に伴い、ご宝前には日夜香煙の絶え間がありません。 木造立像では日本最大となる大千手十一面観音像が、平成20年に開眼されて、注目を集めている。
紀三井寺は今から約1240年前の西暦770年(宝亀元年)唐僧 為光上人によって開基された霊刹です。 伝教の志篤い上人は、身の危険を省みず渡来され、全国行脚の途中たまたま逗留された当山で、金色燦然と輝く千手観音様のお姿をご感得になりました。仏縁に感謝し、一刀三礼の下に刻まれた十一面観音様をご本尊として開創されました。 境内には、本堂を中心に、楼門、多宝塔、鐘楼といった室町、桃山時代建立の国指定重要文化財の古建築がいらかを並べ、和歌の浦の絶景を見晴るかす景勝地として、年間大勢の参詣者が訪れます。特ににぎわいを見せるのは春。早咲きの桜の名所(日本桜の名所百選の一)であり、境内には気象台の観測用標本木が有って、近畿、本州に春の到来を告げる寺として早春の風物詩となっています。 紀三井寺という寺名は、紀州にある三つの霊井のあるお寺という意味で、境内には今もつきることなく清浄水・楊柳水・吉祥水の三井水(昭和60年、環境庁が「日本名水百選」選定)が湧き出しています。 現在、開創1230年を記念して、本堂真南に現代人の「心の灯台」となる大観音像仏殿の建立が発願されています。

8:50粉河に向かう。

9:30粉河寺到達

粉河寺:粉河寺は和歌山県の北部を流れる紀ノ川の北岸にあり、 最寄駅JR和歌山線粉河駅から大門まで門前町を形成し、約800mの道程である。
奈良時代末、宝亀元年(770)、大伴孔子古が現在の本堂の場所に草庵を結び、千手観世音菩薩を本尊として粉河寺は創建された。 鎌倉時代には七堂伽藍が整い隆盛をきわめたが、天正13年(1585)、開創以来もっとも受難の年を迎えた。即ち豊臣秀吉は、天下統一の望みを達成するため、紀州攻めを敢行し、当寺より約10粁西にある新義真言宗の総本山 根来寺を中心に一帯は火の海と化し、粉河寺も全山焼失した。従って、現在の諸堂は大小20有余数えられるが、何れも江戸時代の再建である。就中江戸中期の代表的な寺院建築物であり、西国に三十三所の中では最も大きい本堂を初め、千手堂・大門・中門の4棟は重要文化財に指定されている。 又、本堂前の左右に築造された粉河寺庭園は、桃山時代の枯山水の庭園で上田宗箇の作庭と云われ、名勝に指定されている。 草創のゆかりとなっている粉河寺縁起絵巻(国宝)を有する粉河寺は、壮大な寺観がもたらす歴史の重味と共に、観音信仰の寺として、いつまでも参詣の人々に安らぎを与え続けることであろう。

10:00粉河寺出発、槇尾山方面に向かう。
10:35槇尾寺到達

槇尾寺(施福寺):施福寺は槙尾山に有り 南に岩湧山 東に金剛山 北に大阪湾が眺望でき 夏山も冬山もよし 春は桜 秋は紅葉が楽しめます。
当山は第29代欽明天皇の勅願寺。 仏教公伝538年頃の創建で日本有数の古い寺です。役の小角、行基菩薩等の山岳修行の道場であり弘法大師 空海が勤操大徳について出家得度した寺と有名です。西国第4番札所。本尊は十一面千手千眼観世音菩薩で 御詠歌は、花山法皇のよまれた 「深山路(みやまじ)や檜原(ひばら)の松原分(まつばらわ)けゆけば巻(まき)の尾(を)寺に駒(こま)ぞいさめる」 で巻の尾とは役の行者が法華経を峯々に納経て、最後に当山に納経したので山号となっております。 古来より経塚がきずかれ故事にのっとって全国各札所巡礼が終れば最後に当山にお写経を納めて下さい。 槙尾寺は納経の寺です。

11:05槇尾寺出発、藤井寺に向かう。

11:50藤井寺市の葛井寺到達

葛井寺:当寺御本尊の千手千眼観世音菩薩坐像は、千手にて迷える衆生を救うための大慈悲を示し、唐招提寺、三十三間堂とともに三観音として有名である。秘仏。毎月十八日に開扉、その美しさは人々を魅了し、現世利益の観音信仰を支えてきた。
河内の文化は、飛鳥時代より奈良時代にかけて発展し、当寺葛井寺も百済王族「辰孫王」の子孫王氏一族の『葛井給子』が当時の天皇の仏教興降政策に協力し、国家のためと称して創建された。 永正七年(一五一〇)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による二Km四方の七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。 その聖武天皇が春日仏師(稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子)に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(七二五)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。

12:10葛井寺出発、壺阪山に向かう。

12:30壺阪寺到達

壺阪寺:西暦七〇三年弁基上人によって開かれた霊山、壷阪山南法華寺。 西国観音霊場の第六番札所で眼病に霊験あらたかな、シルクロードの香りが豊かにただよう寺として信仰されています。
大宝三(七〇三)年に元興寺の弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した像を刻んでまつったのが始まりという。 養老元(七十七)年に元正天皇により八角円堂が建てられ、南法華寺の正式寺号を賜った。
礼堂に続く本堂八角円堂におわすご本尊は、十一面千手観世音菩薩。胸の前に手を合わせ、法力を湛えたお姿で、衆生救済への力強い意地を感じさせる。殊に眼病に霊験あらたかな観音様、目の観音様として、広く信仰を集めてきました。 また、昭和三十九年より始まったインドでのハンセン病患者救済活動のご縁からご招来された、世界最大級の天竺渡来大観音石像、大涅槃石像、大釈迦如来石像等、巨大石像群が境内にシルクロードの香を漂わせる。春から初夏にかけて、やまぶき、つつじ、ラベンダーが咲き誇り、秋には境内一円のもみじや周辺の山々が色づき紅葉の風景が広がります。重要文化財の本堂礼堂、三重塔と伴に大講堂はじめ、多宝塔、灌頂堂、慈眼堂などの平成の新伽藍が広がります。

13:05壺阪寺出発、岡寺方面に向かう。

13:20岡寺到達

岡寺:日本最初の厄除け霊場岡寺は飛鳥の東、山の中腹にあり、坂を上ると重要文化財に指定されている鮮やかな朱色をした仁王門があらわれる。本堂などはその奥、石垣の上に建ちならぶ。本尊、如意輪観音座像は塑像(土で造られた仏様)で、弘法大師の作と伝えられ、塑像としてはわが国最大の仏像である。また本尊は厄除け観音で知られ、古来より信仰を集めている。4月中旬からはシャクナゲの花約3000株が咲き誇り、桜、サツキ、秋には紅葉も美しい。さまざまな伝説を残した名僧、義淵僧正が創建した。
昔ながらの佇まいを今に残す参道を上ると鮮やかな朱色をした桜門様式の仁王門が現われる。国の重要文化財に指定されている。本堂、内陣には本尊の如意輪観音菩薩が安置されており古くから厄除け観音として信仰を集めてきた。奈良時代の作で、高さ4.6mの塑像は日本最大の土佛である。もとは彩色がしてあったというが、今はほとんどが剥落してしまいわずかに唇に朱が残っている。重文に指定されており、弘法大師がインド、中国、日本と三国の土を合わせて造ったという壮大な寺伝がある。創建は天智天皇2年(663)に義淵僧正が岡宮の跡地に寺を建立したのがはじまりと伝えられている。義淵僧正は日本の法相宗の祖といわれているが、その出生は謎である。寺伝によると子供に恵まれない夫婦が祈願した末に、家の柴垣の上に白い布にくるまれて置かれていた赤子が義淵僧正だったという。観音菩薩の授かりものと大事に育てられ、それを聞いた天智天皇が引き取り、岡の宮で養育された。後に義淵僧正は岡宮を譲り受けた。龍蓋寺の名前の由来になった伝説も残っている。大雨や強風を巻き起こし村民を苦しめていた龍をその法力をもって池に封じ込め、そこに大きな石で蓋をしたという。その時の池が本堂前にある龍蓋池である。境内には重文の書院の他、開山堂、弘法大師を安置する大師堂、三重宝塔、鐘楼堂、十三重石塔などがある。

13:45岡寺出発、桜井に向かう

14:05長谷寺到達

長谷寺:本堂も本尊も大きい。そこまでの長い登廊を行く。山を背にした谷間に広がり、西国札所でも大寺の一つ。ゆるやかな石段沿いに白壁の築地塀が延びる。ボタンの花の名所として有名だが、他にも多彩な花々が美しい寺を飾る。長谷観音と花の寺である。
長谷の里は泊瀬、初瀬とも書かれた。三方を山で囲まれている。寺も山と一体になる。門前町は初瀬(はせ)川沿いに長く延びている。そこは伊勢参りでも賑わった旧伊勢本街道。歴史も活気もある門前町である。とくに草餅の店が多い。こんな門前町の一角に番外札所の法起院がある。長谷寺には国宝の「銅版法華説相図」がある。別名は千仏多宝仏塔。方形の銅版の中央に多宝塔、周囲に三尊仏、七尊物、千仏などを浮き彫りにした寺宝で、下部に長い銘文がある。それによると、道明上人が飛鳥浄御原の天皇のために成年に造立したという。これにより天武天皇の朱鳥元(686)年を創建の年としている。その後、神亀4(727)年に徳道上人が十一面観音を安置し、観音信仰の寺になった。開基はこの徳道上人。『枕草子』など平安文学に「初瀬詣で」がしばしば紹介され、清水寺や石山寺と並んで賑わった様子が描かれている。当日の建物は何度かの火災のために残っていない。仁王門を入ると長い登廊が山腹の本道へ通じている。屋根付きの回廊形式で、途中で二度折れ曲がる。長さ200m、399段。天井からは長谷型灯籠が下がって風情もひとしお。境内一円で見られるボタンの花もここから見るのが最も美しい。

番外札所法起院:
法起院は、長谷寺を開いた徳道上人が晩年隠棲した寺で、天平7年(735年)の創建と伝えられる。徳道上人にまつわる伝説がある:養老2年(718年)、徳道上人が病に倒れ冥土に行ったが、閻魔大王から『あなたは死んではいけない。世に三十三の観音霊場があり、これを巡礼すると清められ、苦しみ悩みから救われる。まだ誰もこの霊場のことを知らないので、人々に知らせて広めよ』と教えられ、宝印を授けられてこの世に戻された。徳道上人は三十三の観音霊場をめぐり、人々に霊験を説いてまわったが信じてもらえなかった。落胆した上人は閻魔大王から授かった宝印を中山寺に埋めてしまった。この宝印は約270年後に花山法皇によって掘り出されるまで眠り続けた。これが徳道上人にまつわる伝説である。当寺は元禄8年(1695年)に長谷寺の英岳僧正によって再建され現在に至っている。

15:00奈良市に向かう。

15:30興福寺到達

南円堂:西国三十三所第九番札所として人々のお参りで賑わう。弘仁4年(813)藤原冬嗣が父 内麻呂追善の為に建てた。基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら版築したことが発掘調査で明らかにされた。また鎮壇には弘法大師が係わったことが諸書に記される。不空羂索観音菩薩像を本尊とし法相六祖像、四天王像が安置されている。興福寺は藤原氏の氏寺であったが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖である内麻呂・冬嗣ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めた。その不空羂索観音菩薩像が身にまとう鹿皮は、藤原氏の氏神春日社との関係で特に藤原氏の信仰を集めた。創建以来四度目の建物で、寛保元年(1741)に立柱された。江戸時代の建物といっても、その手法はきわめて古様で、再建には北円堂を参考にしたのであろう。
興福寺の歴史
 天智天皇8年(669)に藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置する為に、夫人の鏡女王が京都山科の私邸に建てた「山階寺(やましなでら)」を始まりとする。その後飛鳥廐坂の地に移し「廐坂(うまやさか)寺」と称した。都が平城京へ移されるに及んで、平城京左京三条七坊のこの地に移し「興福寺」と改号し、創建の年を和銅3年(710)とする。その後天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備された。奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられた。特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになった。平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになった。鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。幕府による宗教政策が厳しかった江戸時代には21000石余の朱印が与えられた。明治時代初めの神仏分離令・廃仏毀釈・社寺上地令などで興福寺は荒れたが、その後の努力で復興し、新しい興福寺の歴史を刻んでいる。

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、近畿県の観音霊山の第一札所から第九札所番外札所含めて10か所の観音霊山を訪れました。

さすがに西国三十三か所のお寺、境内も広く、立派でビックなお寺が目白押しでした。境内の散策には持ってこいの霊山でした。

次回は京都から兵庫にかけての観音霊山を訪れる予定です。




 




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十八弾:大阪府お城&城下町巡り
2014年3月19日21日
 

奈良や京都に近く、交通の要所として栄え、南北朝の内乱では、各地で激しい戦闘が行われ、数々の城砦が築かれ、以後、細川氏、畠山氏が守護となるが動乱が絶えず、築城、廃城された城も多い大阪に足を運び、大阪府に位置する比較的マイナーなお城18か所(飯盛山城・交野城・津田城・守口城・茨木城・高槻城・芥川城・地黄陣屋・池田城・真田丸出城・若江城・恩智城・八尾城・高屋城・丹南陣屋・狭山陣屋・上赤坂城・根福寺城)を巡りました。

19日12:30車で出発、三か所の北河内のお城を巡る。

飯盛山城:飯盛山城は、建武年間に佐々目憲法によって築かれたと云われているが、南北朝時代の争乱期に臨戦的な陣城であったというのが実態である。戦国時代、畠山氏家臣木沢長政が飯盛山城を居城し、守護畠山義宣にとって替わり河内守護代となり将軍家直臣にまでなるほどの勢力を誇ったが、天文11年に細川晴元・三好長慶と河内太平寺で合戦して敗れ滅亡した。木沢氏滅亡後、交野城主安見直政が城主となり、守護畠山高政より河内守護代に任じられた。 永禄2年、三好長慶は畠山高政の居城高屋城を囲み、救援に向かった安見直政を敗走させ、永禄3年に長慶は高屋・飯盛山城を手に入れ、飯盛山城へと入った。三好長慶は、飯盛山城・高屋城・芥川城を拠点に河内を支配したが、永禄7年病没する。永禄11年、織田信長が入洛すると三好三人衆も信長に臣従し、飯盛山城は畠山昭高の持城となった。 天正4年、昭高の家臣遊佐信教が守備したが、信長に攻められ落城、その後廃城となった。

交野城:交野城は、私部城とも呼ばれ南北朝時代の文和元年頃に南朝方に与していた安見清儀によって築かれた。その後安見氏は北朝方に移り、正平年間に畠山義深が河内守護となった時から、代々畠山家の重臣となり、のち遊佐・木沢両氏とならんで河内守護代となったこともあった。戦国時代の安見直政は、守護畠山氏に替わって河内守護と称し勢力を誇ったが、三好長慶に攻められ一時大和へ逃れた。永禄12年、織田信長は河内統一後、安見直政は所領を回復し私部城に居城した。 安見直政が病没後、大和筒井氏に私部城は攻められ落城。 その後、天正3年に織田信長の命により廃城となった。

津田城:津田城は、今からおよそ500年前の延徳2年(1490)に、津田周防守正信が築いた城です。正信は楠木氏の一族につながると言われ、その子孫は根来寺の僧兵長だった津田算長(杉之坊算長)とも言われています。算長は種子島の領主から鉄砲を買い求め、畿内に持ち帰り広めた事で知られ、津田流砲術の祖としても有名です。畿内が三好長慶によって掌握された時、三好氏に従った津田氏でしたが、やがて織田信長が畿内に侵攻すると、津田氏も攻撃対象となり、津田城は落城しました。当時の城主津田正時は城を追われ浪人となりました。後に許された正時は、国見山の西麓に本丸山城を築きそこに入城しました。本能寺の変後、羽柴秀吉と明智光秀が争った山崎の戦いでは、明智方として戦いました。明智光秀が敗れ、正時は再び城を追われ、再度浪々の身となりました。しかし再び許され、秀吉からわずかな領地を与えられていたようです。昭和30年代に発掘調査が行われた際、地表から30cmのところに土が焼けているのが発見されました。これは信長に焼き討ちにあった時の跡と言われています。

17:00終了。

21日7:00車で出発、15か所のお城を巡りました。

守口城:守口城は、築城者は定かでないが室町時代に築かれ、大内義弘麾下の杉九郎が在城している。 応仁の乱や石山合戦においても度々戦場となっている。

茨木城:茨木城の築城年代は定かではない。 天正5年、中川清秀が7万石で入城している。 清秀は、賤ヶ岳の合戦で大岩山砦を柴田方の佐久間盛政に奇襲され戦死し、子の中川秀政は播磨三木に移る。 慶長6年、片桐且元が12,000石で城主となった。 且元は、元和元年の大坂の陣の後、茨木と大和龍田4万石を領して茨木城を居城としたが同年没する。 後を嗣いだ孝利は大和龍田へ、且元の弟貞隆は大和小泉に移り、茨木城は廃城となった。 

高槻城:永禄12年、織田信長が芥川山城を落とし、高槻城は和田惟政(近江和田城が本貫の地)に与えられた。 元亀2年、惟政は白井河原の合戦で戦死し、後を嗣いだ惟長もまた、家臣高山右近父子によって元亀4年に城を追われる。 高山飛弾・右近父子は切利支丹大名と知られている。大坂の陣の後、元和元年に近江長浜より内藤信正が4万石で入城する。 内藤氏以後、土岐・松平・岡部・松平氏と目まぐるしく城主が替わる。慶安2年、永井直清が山城勝竜寺より36,000石で入城して安定する。 永井氏は、13代に渡って居城し明治に至った。 

芥川城:芥川城の築城年代は定かではないが、鎌倉時代後期に芥川宿を根拠とした芥川氏によって築かれた。 応仁の乱では、芥川氏は三宅・吹田・茨木氏らと共に東軍に属して戦ったが、応仁元年に大内政弘の軍門に降った。延徳3年、細川政元が芥川城を再建して重臣能勢頼則を城主とした。 永正12年頃には芥川山城が築かれれ、その後芥川城はどのようになったかは定かではない。

地黄陣屋:地黄陣屋は、慶長7年に能勢頼次によって築かれた。 能勢氏は、代々陣屋北西の丸山城を居城としていた。 能勢氏は山崎の合戦では明智光秀に組みし、秀吉の丸山城来襲によりこの地を離れた。能勢頼次は、浪々の末徳川家康に仕え、慶長5年、関ヶ原の戦功により旧領を回復した。 元和元年、家臣山田彦右衛門を普請奉行にして、陣屋を築城し、同時に城下町も形成された。 能勢氏は、江戸時代を通じてこの地を領して11代頼富の時に明治を迎えた。

池田城:鎌倉時代に築かれて、室町時代初に池田教依によって城としての形態が整った。嘉吉3年には、池田充正が三の丸を拡張するなど城の規模拡大を行っている。 この頃に城下町池田が形成 された。永正5年に、池田貞正は細川高国と戦い城は落城。 その後、貞正の子、池田久宗が池田城を奪回している。 永禄11年に織田信長が摂津に出陣したとき、池田勝正は信長に降伏し、摂津三守護に任じられている。 天正7年(1579年)に、伊丹有岡城主荒木村重が信長に謀反を起こした時、池田重成は荒木氏に従い、運命を共にした。 天正8年(1580年)に信長が、筒井順慶に摂津・河内・和泉の破城 を命じた時に廃城となった。

真田丸出城:慶長十九年、大阪城の南面の防御が弱いことを見ぬいた真田幸村は自ら大阪城を出て、笹山という小丘陵に出城を築いた。真田丸出城である。この出丸は東西二つの郭からなっており、東側の郭は東南部を水堀で囲まれ、南部には空堀がつくられている。また北門からは大阪城内へと通じている。一方、西側の郭は南面を半月状に頑丈な柵で固められており、真田丸出丸の別名である「偃月」の通り、三日月状の出城であった。  遺構は餌差町の円珠庵の北方の高台がその遺跡である。

若江城:若江城は、南北朝時代に高屋城主河内守護畠山基国によって築かれ、守護代遊佐氏が城主となった。 宝暦2年に畠山持国の相続をめぐって実子義就と養子政長が争い、これが応仁の乱へと発展した。若江城は、若江氏・堀江氏・山田氏と城主が変遷し、その後三好氏の持城となっていた。 永禄11年に畿内平定を果たした織田信長は、河内北半国を三好義継に安堵し若江城主とした。 天正元年、足利義昭を追放した信長は義昭に与した三好義継を若江城に攻め、義継を自刃させた。天正4年から始まる信長による石山本願寺攻めの拠点として若江城は使用されたが、本願寺開城・退去後の天正8年頃に廃城となった。 

恩智城:恩智城は、建武年間に恩智左近満一によって築かれた。 左近は、恩智神社社家の後裔で、南北朝期には楠木正成に従い楠公八臣の一人に数えられ、千早城の籠城戦や飯盛山城攻めにも参陣して活躍した。貞和4年、左近は楠木正行に従って四条畷で討ち死にした。 恩地城は、左近の討ち死に共に落城したと伝えられている。

八尾城:八尾城は、南北朝時代に八尾別当顕幸によって築かれた。 顕幸は、八尾一帯に勢力を誇った土豪で、正慶2年に南朝方として赤坂へ移った。戦国時代、池田紀正が八尾城に居城した。 紀正は、三好義継の老臣であったが、天正元年に織田信長が三好氏を攻めたとき、野間・多羅尾氏と共に信長に内応した。 その後、紀正は若江城を預かり、石山本願寺攻めが終わると若江城から八尾城へ移り、天正12年に長久手の合戦後美濃へ移った。

高屋城:応永年間に畠山基国が管領兼河内守護なり、古墳を利用して築城して、守護代遊佐氏が城代となった。 応仁の乱以後、守護畠山氏の居城として、畠山氏の相続争いの舞台となった。戦国期には、畠山高政・安見直政・三好長慶の三勢力により、高屋城争奪戦が繰り返され、目まぐるしく城主が入れ替わった。 天正3年、最後の城主となった三好康長が、織田信長に攻められ落城。 その後、高屋城は廃城となった。

丹南陣屋:元和9年、高木正次が大坂城定番となり、河内丹南1万石を与えられ、陣屋を築いた。 丹南藩は、河内にあった1万石クラスの4つの藩(大井・狭山・西代・丹南)の一つで、初代正次以後、代々居城して11代正担の時に明治を迎えた。

狭山陣屋:天正18年、秀吉の小田原征伐後に伊豆韮山城主北条氏規は河内の地に若干の領地を得た。北条氏直が高野山に蟄居して没した後、北条氏規の子氏盛は、氏直遺領4,000石余、父氏規遺領6,900石を併せて領し、狭山11,000石で大名に列する。陣屋は、狭山2代氏信が築いている。 制度上は陣屋であるが、城としての機能は十分備えた構えであった。 戦国関東の雄、北条氏は1万石ながら河内の地で明治まで存続している。 

上赤坂城:上赤阪城は、元弘年間に楠木正成によって築かれた。 この上赤阪城が本城、詰の城が千早城、出城が下赤阪城だ。この地は、楠木氏の本拠地(千早赤阪村)で下赤阪城も含めて広義の赤阪城とも云われている。元弘3年、鎌倉幕府に反旗を翻した楠木正成を討つため、鎌倉幕府は大軍を派遣してこの城を攻めた。 周囲に配置した砦群を落とされ、防戦10日で城は落城した。

根福寺城:根福寺城は、天文4年に松浦守(まもる)によって築かれ、当初、野田山城と呼ばれていた。 松浦守は、細川晴元・細川元常の将として名を挙げたが、晴元が三好長慶と対立するに及んで長慶方となり、根来寺勢力とも敵対することになった。天文12年より根来寺領となり根福寺城と改称した。 その後、天正13年の羽柴秀吉の紀州征伐により根来寺降伏後は、秀吉の支配下に入った。

18:05終了、帰路に向かう。

今回の旅行、大阪府の比較的マイナーなお城18か所を巡り歴史の勉強してきました。

石碑のみとか、案内看板のみとかで探し出すのが一苦労の大阪のマイナーなお城巡り結構楽しめました。

















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十七弾:福岡県お城&城下町巡り第一弾
2014年3月15-16日
 

九州北部に位置し、古くから中国や朝鮮との貿易を通して、本州に物資を送り込む拠点で、室町時代に大内氏が勢力を拡大するが、やがて大友宗麟が北九州を平定、島津氏の北上に対抗した福岡県に足を運び、福岡県内のお城&城下町(11か所)を巡りました。

15日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
16:14博多駅到達、レンタカーでお城めぐり。

名島城:天文年間(1532年~1555年)立花鑑載によって築かれた。 天正15年(1587年)小早川隆景が筑前一国と筑後、肥前の一部で五十二万数千石を領すると新しく改修した。改修に際しては豊臣秀吉も設計に関わったと言われる。 関ヶ原合戦の後に筑前一国で入部した黒田長政が慶長5年に入城したが慶長7年福岡城を築いて移り廃城となった。 三方を海で囲まれたこの地は水軍を重要視する小早川隆景には優れた土地であったが一国の中心として城下を築くには手狭であった。

立花城:築城年代は定かではないが建武年間(1334年~1336年)大友貞範によって築かれたと云われる。 大友貞範は豊後国大友氏6代貞宗の子で立花に入部して立花氏を名乗った。永禄11年(1568年)立花鑑範は安芸国毛利氏に通じて大友氏に反旗を翻した。これに対して大友宗麟は戸次鑑連(立花道雪)を将として大軍を送り、三ヶ月に及ぶ攻防の末に落とし、立花鑑範は自刃した。 その後も大友氏と毛利氏の間で争奪戦が繰り広げられたが元亀元年(1570年)大友氏の支配となり、翌2年に戸次鑑連が立花山城主となった。戸次鑑連の養子なった立花宗茂は島津氏の大軍に対して立花山城を守り抜き、天正15年(1587年)筑後国柳河に移封となった。 替わって入部した小早川隆景は名島城を居城とし、浦宗勝を城代として置いた。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後に黒田長政が豊前国中津から入部すると廃城となった。

18:30博多駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
16日6:15レンタカーで出発、お城めぐり。

元寇防塁:
建治2年(1276年)鎌倉幕府が九州の御家人に命じて築かれた。 文永11年(1274年)元によって侵攻された鎌倉幕府が、元の再侵攻に備え海岸線に石の防塁を築かせた。現在元寇防塁と呼ばれる防塁は当時は『石築地(いしついじ)』と呼ばれていた。 弘安4年(1281年)に再侵攻してきた元軍は防塁の築かれた博多湾からは上陸することができなかった。九州の御家人は各国ごとに割り当てられた区画があり、所領に応じて防塁を築く長さが決められていた。今宿の元寇防塁は今山の麓から長垂山の麓まで約2.2kmに渡って築かれ、豊前国の御家人が分担した。

柑子ヶ岳城:築城年代は定かではないが天文年間(1532年~1555年)頃に大友宗麟によって築かれたと云われる。豊後の大友氏が筑前の志摩地方の拠点として築いたのが柑子岳城で、大友氏一族の臼杵新助鎮続が志摩郡代を兼ねて柑子岳城に入った。永禄11年(1568年)鎮続が宝満山城の高橋鑑種を攻めて大宰府へ出陣した隙に、高祖山城主の原田隆種に攻められ柑子岳城は奪われたが、急遽引き返した鎮続は激戦の末に取り戻している。元亀2年(1571年)鎮続は城代を辞して豊後へ戻ると、後任として臼杵鎮氏が城代となった。元亀3年(1572年)臼杵鎮氏は今津毘沙門天を参拝した原田了栄を待ち伏せして襲撃したが失敗した。同年原田氏と臼杵鎮氏は池田河原で戦い、臼杵氏は敗れて鎮氏は泊城へ逃れる途中、平等寺で自刃した。その後、再び臼杵鎮続と木付鑑実が城代として柑子岳城へ入った。天正7年(1579年)原田氏の攻撃を受けた木付鑑実は柑子岳城に籠城して立花山城に援軍を求めたが、支えきれずに立花山城へ逃れ、柑子岳城は原田氏の手に落ちた。天正14年(1586年)豊臣秀吉の九州征伐の後、原田氏は加藤清正に従って肥後へ移り、柑子岳城は廃城となった

高祖山城:建長元年(1249年)に原田種継によって築かれた。 高祖山城は怡土城の一部を利用して築かれている。 原田氏の祖は古処山城秋月氏と同じく藤原純友の乱で名を馳せた大蔵春実であり、大蔵氏は漢の高祖の子孫で阿知使主の末裔と伝わる。 原田氏ははじめ大内氏、陶晴賢謀反後は毛利氏、ついで島津氏と結び反大友勢力としてこの地に根付いていた。 しかし、豊臣秀吉の九州征伐によって落城し廃城となった。 原田氏はその後、加藤清正や寺沢広高らに仕えたが最終的には保科正之に仕えた。

岩屋城:築城年代は定かではないが天文年間(1532年~1555年)に高橋鑑種によって築かれたと云われる。高橋鑑種は豊後の大友氏の庶流一萬田氏より筑前国高橋氏の家督を継いだ武将で、筑前国守護代として宝満山城と岩屋城の城督を務めた。高橋鑑種は武勇に優れた武将であったが、永禄年間(1558年~1570年)に大友氏を離反して毛利氏に付いた。しかし、永禄12年(1569年)毛利氏は山陰で尼子残党が挙兵したこともあって九州から撤退する。これにより後ろ盾を失った高橋鑑種は大友氏に降り、鑑種は高橋家の家督を剥奪された。替わって吉弘鑑理の子の高橋鎮種(のちの高橋紹運)が家督を継いだ。天正14年(1586年)薩摩の島津氏が北上してくると、岩屋城には高橋紹運、宝満山城には紹運の次男で筑紫広門の娘婿である高橋統増が筑紫氏の家臣とともに籠城した。 岩屋城では壮絶な戦いの末に、高橋紹運以下籠城兵数百がことごとく討死した。その後、秀吉の援軍が九州に来襲した報を受けた島津氏は城を秋月氏に預けたが、立花山城の立花統虎によって奪いかえされ、天正15年(1587年)破却された。

水城城:天智天皇3年(664年)に築かれた水城は大宰府の入口、大野城の南西の麓に築かれている。 水城のある場所は現在でも国道3号線、鹿児島本線、九州自動車道など九州の主要幹線が集まる要衝の地である。水城は基底部の幅80m最高13mの土塁、その北側に幅60m深さ4mの濠を設け、この濠へ流し込む水は南側の大宰府方面から木樋と呼ばれる水路を通して送られていた。


久留米城:築城年代は定かではないが永正年間(1504年~1521年)に在地の土豪によって築かれた篠原城がはじまりと云われる。本郭的な築城は天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後、筑後国御井・上妻・三潴三郡を七万五千石を与えられた小早川秀包によるものである。秀包は安芸の毛利元就の九男で、兄である小早川隆景の養子となって小早川秀包とも名乗っていたが、文禄3年(1594年)小早川隆景が豊臣秀吉の養子である木下秀俊(後の小早川秀秋)を養子に迎えたことにより別家をたてることになり、後に毛利姓に復姓している。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で毛利秀包は西軍に属して戦ったが敗れ、わずかな兵力しかいなかった久留米城は黒田孝高や鍋島直茂などに攻められ開城勧告に応じて開城された。毛利秀包は戦後改易となり、代わって三河国岡崎から田中吉政が筑後一国で柳河城に入封し、久留米城は支城として嫡子吉信が入った。元和6年(1620年)田中忠政が嫡子なく除封されると丹波国福知山から有馬豊氏が二十一万六千石で入封し以後明治に至る。

発心城:天正5年(1577年)草野家清によって築かれた。草野氏は筑後国の国司として勢力を持っており戦国期には大友氏に属していたが天正5年(1577年)大友氏が耳川合戦に敗北すると龍造寺氏に寝返り発心城を築き大友氏の攻撃に耐えた。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で清家は秀吉に誘殺され草野氏は滅びた。

猫尾城:築城年代は諸説あるが仁安2年(1167年)大蔵大輔源助能によって築かれた説が有力とされる。 助能は徳大寺家の請いによって瀬高荘を管理する為、大隅国根智目(根占)から筑後国上妻郡黒木郷に移り築城したという。この末裔が黒木氏を称し大友氏に属していたが、家永の時に龍造寺氏に従った為、天正12年(1584年)大友宗鱗によって攻められ落城、黒木氏は滅ぼされた。柳河城に田中吉政が入封すると家臣辻勘兵衛が城代となったが元和の一国一城令によって廃城となったという。

益富城:築城年代は定かではないが永享年間(1429年~1441年)初頭に大内盛見によって築かれたと云われる。その後は大内氏・大友氏などによって争奪戦が繰り広げられた。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐では豊臣軍がわずか一日で岩石城を落とすと、益富城に籠もっていた秋月種実は益富城を破却して古処山城に逃れた。秀吉は付近の人々に命じてかがり火を焚き、さらに障子や戸板を集めて城を修復したように見せかけ、いわゆる「一夜城」を築いて古処山城に籠もる秋月父子を驚かせた。これを見た秋月種実は剃髪して家督を種長に譲り「楢柴」の茶器を秀吉に献上して降伏した。秀吉は村人に華文刺縫陣羽織と佩刀を与え永代貢税を免除したという。関ヶ原合戦後に筑前に入封した黒田長政は六端城の一つとして後藤又兵衛基次に一万六千石を与えて城主としたが、慶長11年(1606年)に基次が逐電すると、鷹取山城より母里太兵衛友信が移った。元和の一国一城令によって廃城となった。

18:00博多駅到着。
18:55博多駅新幹線のぞみで出発
21:17新大阪駅到達。

今回の旅行、九州福岡県に足を運び、比較的マイナーなお城11か所巡り散策してきました。
皆が城跡で位置を確認するのが一苦労しました。
次回残り10か所の福岡県のお城を巡る予定です。











 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十六弾:小豆島八十八か所巡り第一弾(第一札所ー第48札所)
2014年3月8-9日



映画二十四の瞳の舞台として知られ、醤油蔵めぐり、寒霞渓で有名香川県小豆島に足を運び、弘法大師が讃岐から京都へ上る途中や、その帰りに立ち寄ったという伝説があり小豆島霊場巡排が庶民に定着した小豆島八十八か所巡り(第一札所ー第48札所)を訪れました。

8日12:30車で出発、近畿中国山陽自動車道経由して14:40姫路港到達
15:10姫路港フェリーで出発
16:50福田港到達、車で坂手方面に向かう。

第1番札所洞雲山は、坂手港を見下ろすように岩山がそそりたった独立峰で、山岳信仰の地として知られています。この山には、小豆島八十八ヶ所の第1番札所があります。境内には、樹齢300年といわれる根元幹周囲5mにもなる老松や、夏至前後に日の光に照らされると岩肌に観音様が浮かび上がる神秘的な「夏至観音」があります。

小豆島町苗羽の山の上にある碁石山は、島四国八十八ヶ所の第二番札所にあたる霊場です。ここには、神仏習合の名残で金毘羅宮もお祀りされています。境内には、巨大な修行大師の像があり、その前の広場では、毎年11月の第二日曜日、「修行大師柴燈大護摩供」が行われます。また、当日はここで火渡りの儀式も行われます。

18:00坂手港付近のホテル到着、食事を済ませて就寝。

9日6:00車で出発。

奥の院隼山の入り口に位置する第3番札所観音寺。派手なもこもこ龍の階段が迎えてくれる本堂には十一面観音がまつられています。頭痛、めまい、肩こり、不眠に効果あり。孔雀モチーフのライトがとってもキュート。奉納されている弘法大師の顔がなかなかの見ごたえあり。

山道に看板の少ない秘境にあるのは第3番札所奥之院 隼山。不動明王の門を抜けると、天然記念物にも指定されているイスノキが天へ向かってそびえたちます。毎年10月に、鏡内を通って観音様が龍に乗って法華経の世界から出現される「神立風」が吹くという昔話が残されている札所です。小豆島の波打ち際がはっきりと浮かぶ海が望める絶景ポイントのひとつ。

海の見える庵はたくさんありますが、目の前が海岸という庵はこれが初めて。立派な松の木が海岸に立つ第4番札所古江庵。海と庵とのコントラストが気持ちの良いスポット。

車では近くまでしか行けないので要注意。海に面した迷路のような住宅の隙間をすり抜けて、子宝、安産がご利益の妙光如女さんのところへ。路地にひっそりとあるお遍路やじるしも味のある彫刻のようです。裏路地に金魚を飼っている家庭もちらほら。それぞれの日常を眺めながらのおへんろも、山岳霊場とはひと味違った趣が感じられます第5番札所堀越庵。

「二十四の瞳映画村」で有名な田ノ浦岬に第6番田ノ浦庵はあります。二十四の瞳館「岬の分教場」から進んでいくと、神社と併設された庵を発見。

修行度の高い第1番洞雲寺、第2番碁石山の登り口に位置する向庵。古いベンチが並ぶ、バス停風の庵です。
お遍路コミュニティースペースといった感じの第7番札所向庵。

第8番札所常光寺は、小豆島の中でも特に地場産業が盛んな小豆島町の苗羽(地区に位置するお寺です。境内には何種類ものたくさんの桜が植えられ、春には満開の花がお遍路さんを迎えます。中でも境内の一角を彩る『ジョウコウジザクラ』はその名が冠するとおり、ここにしかない早咲きの桜です。常光寺周辺は、”醬の郷”と呼ばれる醤油蔵や佃煮工場がひしめく風光明媚な町並みが広がり、訪れる人の眼を楽しませてくれるでしょう。

第9番札所庚神堂は、醤油工場の香りが立ち込める民家を抜けてたどり着きます。老朽化が進みすぎて、なんと本堂が45度傾斜!不動明王もびっくりの崩壊寸前札所です。

もろみ一徳庵向かいにある札所。近所の方の集会場にもなっている第10番西照庵は、縁結びの愛染寺でも登場した愛染明王が奉られています。

第11番札所観音堂は高さ51m、円輪5m、世界一の高さと、世界最古の歴史を誇る銀杏の木は、観音堂のランドマーク。本堂は、世界遺産である珍しい「いたち観音」。こちらの本尊は鐘を2つきすることがルール。

安産祈願、六地蔵菩薩が奉られる第12番札所岡ノ坊は、田園の中にひょっこりあらわれます。小さな札所を回っていると、本当に地域の方々のコミュニティースペースなのだということを実感します。

第13番札所栄光寺は見どころがいっぱい。恵心僧都作と伝わる無量壽如来が安置された本堂客殿庫裡、三十三体の観世音菩薩が祀られている観音堂、行基菩薩作の薬師如来が祀られた薬師寺が立ち並んでいます。本堂前には亀に乗った賽銭箱。住職さんのお話では「カメが玉手箱を乗せている」とか。貯まりそうです。

第14番札所清滝山は、第13番札所 栄光寺の奥之院で、地蔵堂とも呼ばれています。本尊は岩窟のなかにあり、本尊に安置されている地蔵菩薩は、安産延命に効果があると言われており、行基菩薩作と伝えられている。

滑り台とブランコのある岩宮神社の大木を目印に進んでいくと、第15番札所大師堂に到着。小さなお堂でも、静かにこれまで巡ってきた道のりを思い出すのに最適な札所。

小豆島で唯一、宿坊があるのがこの第16番札所極楽寺。山門前では、迎え大師様が「ようおまいり」と出迎えてくださいました。心の中で「はーい。」と返事して山門をくぐります。境内には、ちょっといかつい顔のお大師さん。一歩前に出ているのも特徴です。

デザインチックで、スタイリッシュで、お洒落なカフェでお茶をしても、なんだか落ち着かない感じがする貴方にお勧め。そう、第17番札所一ノ谷庵は赤を基調としてスタイリッシュにしたかったんんだろうなぁという、気合いだけは、バシバシ伝わってくる秘宝館的パラダイス。

かつて弘法大師が岩穴に籠もり、護摩修行を行ったと伝えられる当寺第18番札所(石門洞)の境内は、そそり立つ岩の絶壁に守られるように設けられ、本堂は岩窟の中に埋め込むようにして建立されていました。境内の石灯籠にろうそくの明かりはともるものの、人の気配はなく、ただ野猿の声がうっそうとした森の中にこだましています。

第19番札所木ノ下庵は、弘法さんの思い出の地。「庵」はだいたい小さな社務所っぽい雰囲気です。太めの銀杏の樹があります。

第20番札所佛ケ滝は、寒霞渓への途中です。本堂は洞窟にあり、寺と岩肌が一体化されています。岩肌から煙突が出てたりしています。御加持石は不思議な霊徳を授かる碁石として、難病から救われたり、十余年間子宝に恵まれぬ人が子を授かり、縁の遠い人が良縁に恵まれたりなど、念力の手形も加持力を一身にうける霊場であるといわれています。

第21番札所清見寺は、お寺なのになぜかアート作品がいっぱいの清見寺。寒霞渓の山並みに抱かれた風景の中にも、なぜかしっくり溶け込んでるのが不思議です。

草壁港から10分、第23番本堂から徒歩5分、小豆島の静かな住宅の路地をすり抜け、郵便局をこえて歩いて行くと第22番札所峯之山庵に到着。墓地になっている坂を登って行く時、草壁港と造船工場が目の前に広がります。

第23番札所本堂は、180センチの白い象がいます。小学校横の近所のお寺としてマンガに登場しそうな立地の本堂。紅葉に囲まれた階段が、春には桜の階段になるとのこと。

お寺の周りをぐるっと囲む練塀と、大きな椿が美しい第24番札所安養寺。安養とは、阿弥陀仏の極楽浄土のことで、仏の浄土へ安心して往生する心を養うという意味だそうです。

第24番安養寺から、250mということで、ミカン畑をくぐり歩いて行くと、途中から木に覆われたトトロの道の気配が。札所を巡っているうちに「ここから修行度が上がるな」というカンがはたらくようになりました。250mのうち、200mは案の定昇り山道に。登り切ると、そこは静かな静かな第25番誓願寺でした。本堂裏からお遍路道がつづいているので、第26番阿弥陀寺まで歩くのもよいかもしれません。

オリーブ園に近い阿弥陀寺。無量如来がまつられる、比較的ゆったりとしたスペース。本堂には常光寺のように、花々が描かれた天井に奉納されています。逆立ち獅子の瓦や、狸の像もあり、凛とした空間の中にユニークさを持ち合わせています。梵鐘横の水場がハート型になっているのも、チェックポイントの第26番阿弥陀寺。

第26番阿弥陀寺から山側へ登って行くと、第27番櫻ノ庵へ続きます。このお遍路途中には、たくさんのオリーブ畑に囲まれています。葉が二つにわかれたハート型の「幸せオリーブ」を探すのに最適な場所。売店などで販売もされているそうですが、自力で見つけた方が思い入れもひとしおです。庭の椿が紅色に咲き誇る季節にまた来たくなる庵でした。

薬師如来が奉られる第28番薬師堂。「長崎のしし垣」近くに建てられ、最近、土地の寄贈と共に山の中から移転されたお堂。

「風をあつーめてー♪風をあつーめてー♪」byはっぴいえんどが、途中山道のテーマソングでした第29番風穴庵風穴寺。なんと、冷たい風が吹く穴があるとのこと!!真相を探りにいきました。本堂から更に山道を登って、噂の穴に到着。30センチ四方の小さな岩穴で、手を入れてみると…確かに、風の気配が??

第30番正法寺の山門をくぐると左手にソテツがあり、その奥に納経所、そこから境内をコの字で囲むように入母屋造りの伽藍、本堂、そして伽藍の正面には鐘楼が建つ。かなり歴史を感じる古い建物です。本尊は恵心僧都作と伝わる大日如来像。平安時代後期に造られたようです。構造は平安時代初期に多い一本彫成で、材質は檜。像高32.8cmと小柄です。

パンチのあるソテツ、と言ったら良いでしょうか。樹齢千年以上、小豆島の温暖気候で巨大に成長したソテツが出迎えるのは第31番誓願寺。本堂に行くまでに、「大黒天様」が浮かび上がってきた自然岩や、子授けご利益があるというセットで見れる「女岩&男岩」も見物できます。ここの本堂、梁が豪華なんです。モチーフが何か分からないくらいに豪華なんです。孔雀の羽根や昇龍に、植物や花がコラボレーションしまくっています。

ふるさと村の近くにあります第32番愛染寺。かなり歴史を感じるお寺です。弘法大師が京に上る途中、荒天候のためこの地に上陸し、愛染明王を描き、国民の息災と安穏を祈念したと伝えられる。本尊 愛染明王は縁結びの仏として良縁を求める善男、善女のお参りの多い所であります。と書かれていました。

第33番長勝寺に到着したら、本堂ご挨拶前に「女人地蔵」を優しく抱き上げてみましょう。「ご婦人の病気をなおしてくださるお地蔵さんです。だきあげてご利益をいただいて下さい」だそう。冷え症が治るかもしれません。お土産を横目に、階段をずんずん登って本堂へ。枯山水に見事に手入れされた庭が広がる広い寺内。十一面観音が奉られる、豪華系本堂です。

小高な丘に建つ第34番保寿寺庵。窓からは弁天島が望めます。公園のような休憩所になっているので、ここで一服をお薦めです。

第35番林庵は、一見民家風、だが、パリの蝋人形館など比ではない恐怖。阿弥陀如来の前に、供養人形が100体位山積み。宇山あゆみのフランス人形も無造作に置かれ、目が虚ろに。

第36番釈迦堂は、もと高宝寺の釈迦堂だったもので、正面三間奥行き四間の寄棟造り本瓦葺の建物です。大永二年(1522年)春に着工、天文二年(1533年)春に完成、明治40年に国の重要文化財に指定されました。

第37番明王寺にはご本尊の不動明王様のほか、地元漁師さんの信仰が厚い弁財天様と毘沙門天様(別名を金毘羅神)がお祀りされています。長勝寺の本地仏といい、明王寺の釈迦堂といい、小豆島にはすごく身近な、誰にでも見ることのできる場所に国宝が存在します。

第38番光明寺ここは、池田平野の中央に位置しています。昭和36年に山津波に会い、建物は崩壊的な打撃を受けたが、本尊、高祖大師、稲荷大明神は損傷を受けなかったようです。御本尊は来世において極楽浄土へ導いてくれるという阿弥陀様というので特にお年寄りの人々の信仰があついようです。

ここ第39番松風庵は墓地の中といってもいいほど、お墓に囲まれている。その昔 「捨往来」(すておうらい)という手形があった。霊場巡拝などに発行され行き倒れに関するもので、江戸小日向福蔵寺が天保15年(1845)に発効した捨往来によれば、檀徒の栄吉なる者が巡拝の途中病死したら、役人立ち会いの上、何宗でもよいから葬られ、忌日戒名だけ関係者へ知らせて欲しいとある。栄吉は江戸より小豆島へ渡り、安田の地で亡くなっている。一方、行先で倒れたら、知らせる必要はないという手形もある。1844下総国(千葉県)の平兵衛は、やはり巡礼中、安田で亡くなったが、無縁仏として葬られている。そういった巡礼途中で亡くなった方の墓地でもある。 はてさて、江戸から小豆島へわざわざ巡礼をするのには何か訳でもあるのであろうかと思う。 江戸の近くの坂東34観音霊場(記録によると、1560年に書かれた「杉本寺縁起」には、法皇ご順礼の勅命を得て、第一番札所となったとある)、秩父霊場、関西では西国観音霊場もあり、小豆島であれば、近くの四国霊場があるはずなのに、なぜ小豆島なのだろうか?

十一面観音が奉られる第40番保安寺は小気味よくコンパクトにまとめられた空間、という雰囲気。江戸時代末期奈良の西大寺建築にも貢献した「ヒラガ ミノスケ」大工が建設したそう。庭に植えられたモッコク、椿、桜とも建物同様長生き老木です。

二王(金剛力士像)が出迎える第41番佛谷山は、薬師如来が祭られています。柴を焚き暖めた洞窟内に海から引きあげた海藻を敷き詰め、 病人を寝かせて病の治療をしたという歴史から、「石守り」を頂くことができます。 洞窟内にはかわいらしく、ころころとした色とりどりの「石守り」がいっぱい。

弘法大師が二匹の龍を岩窟に閉じ込めたといわれる山岳霊場第42番西ノ瀧です。見晴らしがよく小豆島の夕日スポットのひとつ。タイミングが合えばエンジェルロード(天使の散歩道)に出会えるかも。

第43番浄土寺のこの辺りは、すごく素敵な風景。棚田が広がっている。きっと季節が良かったら、もっとずっとキレイだっただろうなぁと思いながら参道へ。山門をくぐって正面に茅葺きの庫裏。庫裏を右に見て奥へ進むと立派な本堂が構える。本堂手前右に45番地蔵寺堂があり、境内をともにしている。

いつも千枚田を写しているポイントがこの寺第44番湯船山です。蓮華寺と言っていたようですが、廃寺後 湯舟山と言うようになったようです。ここは境内に古杉、クスノキの大木があります。この辺りの湧水は、日本の名水百選に選ばれています。どんな日照りにもかれることのない、貴重な水源で、千枚田と呼ばれる急斜面の水田の灌漑用水などとして昔から大切に利用されているようです。そして島内の遠くからこの水を飲料用にもらいに来ているようです。

第45番地蔵寺堂は浄土寺の敷地内にあります。ハスの花のアーチがアクセントです。

大きな墓地の下に寺が見えてきます。護法山と書かれた額がかかった鐘楼門を入ると右に庫裏があり、左に地下へ続く階段があります。そこは不動堂であり毎月28日には祈祷護摩を厳修しております。不動堂を抜け、地上に上がるとすぐ本堂の前に出ます。第46番多聞寺は寺伝によれば行基菩薩の開創と言われています。寺はもと東林坊と称し、苗手四望というところにあり、文亀年間に現在地に移転し、多聞寺と改称した。鐘楼門にある梵鐘は、この地の離宮八幡にあって治承年間に多聞寺の住職をつとめた瓢海上人が勧請したものという。他に300年の伝統を持つ「虫おくり」と言う行事が行われ、数多くの人々でにぎわっている。また「農村歌舞伎」の舞台も残されており、毎年5月3日に離宮八幡宮で奉納されている。

第47番栂尾山、ここは山の中にある。春日神社辺りから山側の道に入り登っていくと、案内板が左手に出ている。その案内板の真横を左に下りていく。普通に舗装された道路から、びっくりするくらい細い山道を行くので、本当に車で行けるのか不安になるほど。車を停めて歩いて本堂へ。岩壁に門が組み込まれ、本堂は岩窟の中にある。戸を開けて入る。猿がいたずらするので、扉の開閉をきちんとしてください・・・と言うよな張り紙あり。本堂に入り後ろを振り返ると、入口の外に中山の集落が小さく見える。外の門につられた小さな鐘楼もステキ。本堂から少し離れたところに大師堂が建っていて、大師堂までの参道は、ウッドデッキのように整備されているので、歩きやすい。

なぜかいびつな階段を降りていくと、第48番毘沙門堂に出ます。天平年間(729~)に僧行基が開基したと伝えられ、本尊は左甚五郎作と伝わる毘沙門天像、脇侍に木造青面金剛像と木造金剛童子像。この童子像は、県下屈指の庚申像だそうです。

14:30福田港に向かう。
15:05福田港到達。
15:30福田港フェリーで出発。
17:10姫路港到達、車で帰路に向かう。

今回の旅行、香川県の離島、瀬戸内海で淡路島に次ぐ2番目に大きな島小豆島に足を運び、小豆島八十八か所巡りの(第一札所ー第48札所)を訪れ楽しめました。

四国の八十八か所霊場と違って小ぶりで庵が51か所ですが29のお寺は皆立派な建造物でした。
又山岳霊場が13もあり四国には無いものがあり、見るべきものが沢山あり、予想を裏切って感動しました。
比較的距離も短く、まわりやすい小豆島八十八箇所巡りお勧めですね。
次回は後半を巡る予定です。期待したいですね。







  

























 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十五弾:広島県竹原離島(走島・小佐木島・契島・生野島)観光
2014年3月1-2日
 

広島県に足を運び、鞆の浦沖離島、走島 、三原沖離島、小佐木島、竹原沖離島、契島、生野島を訪れました。

1日14:09新大阪新幹線のぞみで出発
14:49岡山駅到着
15:00岡山駅こだまで出発
15:56三原駅到達、歩いて三原港に向かう。
17:15三原港高速艇で出発
17:29小佐木港到達、散策。

小佐木島は佐木島の北およそ300mの距離に浮かぶ小島で、南東の入り江に集落と静かな港があります。佐木島と同じように昔から漁業が行われず、秋になると斜面の畑でミカンが黄色く輝きます。過疎が進み島民のほとんどがお年寄りの小佐木島。この島から生活の音が消えるのもそう遠くない将来かもしれません。島の起源は定かではありませんが、古代の製塩土器が発掘されたり、江戸時代の宝暦7年(1757)には山守が置かれたという記録があるようです。そして大正から昭和の始め頃にかけて造船の島として賑わいを見せ、昭和30年代には人口が140人程に達し、海水浴場に子供が遊ぶ景色が見られました。その後日本が経済成長期を向かえると、島から都会へと人口流出が始まり、小佐木島にも空き家が目立つようになります。事件はバブルの崩壊が始まる1991年に起きています。7月終わりの暑い夏、14歳の少年と16歳の少女が体罰を理由に鉄のコンテナに閉じ込められ熱射病で命を落とすという事件です(風の子学園事件)。当時の小佐木島の人口は26人。過疎が進む静かな島での出来事として注目を浴びています。今にも消えてしまいそうな小佐木島をアートの島として再生させるという構想が湧き起こっています。明治27年に初点灯を迎えた白亜の石造灯台。明治時代の「板図(船の設計図)」が残されていた荒神社(穀津神社)。懐かしい自然が残される島。そこに現代的なアートが加わるのも面白いことかもしれません。

18:13小佐木港高速艇出発
18:27三原港到達、三原駅付近のホテル到着後繁華街で食事をを済ませて就寝。
2日6:30レンタカーで鞆の浦に向かう。
7:20鞆の浦港到達。
8:00鞆の浦港フェリーで出発
8:30走島港到達、散策。

全体的に100mを超える山々が立ち並び平地の少ない島です。一番高い山は標高180mの高山。漁業が中心でイワシ漁が盛んです。
★福山市鞆港から30分。民宿もたくさんあるし、岩場での釣りも楽しめそうです。

9:00走島港フェリーで出発
9:30鞆の浦港到達、レンタカーで竹原に向かう。
11:15竹原内港到達
11:45竹原内港フェリーで出発
12:15大崎上島白水港到達
13:00白水港フェリーで出発
13:35契島港到達、一般の方は上陸できずフェリーから望む。

関係者以外は自由には立ち入れないようです 島全体が東邦亜鉛(株)契島製錬所の所有になっており、鉛の生産量は現在東洋一を誇っている。島には工場設備が立ち並び遠くから見ると軍艦のようなので軍艦島と呼ばれている。 長崎県の端島も「軍艦島」と呼ばれるているが、あちらはかつての炭鉱の島。

13:55生野島港到達、散策

大崎上島から400mの距離にある佐渡島を小さくしたようなこの島は全体が自然休養村に指定されており、サイクリングロードやテニスコート、シャワー設備もある海水浴場でのんびり過ごせそうです。福浦古墳は町の文化財で箱式石棺古墳だそうです。また椎実観音堂の石造など古きを訪ねることもできそうです。放浪の俳人"種田山頭火”が昭和10年末ごろ、陶工の"迦洞無坪”を訪ねてこの島を訪れています。

16:10生野島港フェリーで出発
16:20白水港到達
17:05白水港フェリーで出発
17:35竹原港到達、レンタカーで三原に向かう。
18:30三原駅到達
19:24三原駅新幹線こだまで出発
2017岡山駅到達
20:33岡山駅新幹線のぞみで出発
21:17新大阪駅到達。

今回の旅行、広島県瀬戸内海に点在する4つの離島を訪れ癒されました。
走島、佐木島、生野島は地味で観光名所も余りなく、ただ歩くのみとなりましたが、契島は私有地で一般の方は上陸できず、船上からの眺望になりましたが長崎の軍艦島端島を訪れたことがありますが、まさしく瀬戸内の軍艦島のような容貌で迫力がありました。