飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十五弾:坂東三十三か所巡り第一弾(第1番ー第14番札所)
2014年5月31日−6月1日
   

関東地方に足を運び、源平の戦い後、敵味方問わず供養や永久の平和への祈願が盛んになり、源頼朝の篤い観音信仰と、坂東(関東)の武者が西国で見聞した坂東三十三観音への想いが結びつき、鎌倉時代初期に坂東三十三観音が開設。やがて、秩父三十四観音を加えた日本百観音へと発展し、現在に至ります。この坂東三十三か所の第1番ー第14番札所を訪れました。

5月31日13:37新大阪新幹線のぞみで出発
15:55新横浜到達、レンタカーで鎌倉に向かう。
17:10鎌倉到達。

杉本寺:天平6年(734年),行基菩薩が自ら彫刻した十一面観音像を安置したのが始まりといわれる鎌倉最古の寺。その後,光明皇后の恩召により行基が本堂を開創。仁寿元年(851年)には慈覚大師が,寛和2年(986年)には花山法皇の命を受けた恵心僧都が,それぞれ十一面観音像を安置し,三尊同殿となった。文治5年(1189年)11月23日の夜,火災が起こったが,三体の本尊自らが境内の大杉の下に難を避けたので,以後,「杉の本の観音」と呼ばれるようになった。建久2年(1191年)9月18日に源頼朝が再興し,以前の三尊像を内陣に安置するとともに,別の十一面観音像を寄進。なお,行基作の十一面観音像には信心がなく,御堂の前で馬に乗る者を必ず落馬させるという言い伝えがあり,当時は下馬観音と呼ばれたが,大覚禅師が祈願した後に袈裟で尊像の眼を覆うと,落馬する者もいなくなった。このため,以後行基作の尊像は覆面観音とも呼ばれる。

岩殿寺:養老5年(721年),大和・長谷寺を開き,また観音霊場めぐりをはじめたとも伝えられる徳道上人が,ここで熊野権現の化身である老翁から霊洞があることを聞き,祠を建てた。その数年後に僧行基が訪れ,十一面観音像を安置したのが開創だと伝えられる。治承4年(1180年)源頼朝が石橋山の敗戦で,船により房総に逃れる際,観音さまが船頭となって助けたとされており,以来,源頼朝は観音さまを守り本尊としたことにも示されるとおり,源一族の帰依は厚い。また,天正19年(1591年)には観音堂を徳川家康が再興したと伝えられている。文豪泉鏡花ともゆかりが深い。観音堂の脇の瓢箪池は鏡花の寄進である他,小説「春昼」はここで書かれた。

安養院:田代寺は,建久3年(1192年),源頼朝の家臣で,戦場でも僧「然が宋から持ち帰った絵姿を鎧の中に入れるなど観音への信心篤い田代信綱が,数々の武功を立てられたのも観世音の加護あってのことと,報恩のために尊乗上人を開山として建立された。一方,当時は別の寺院であった安養院は,嘉禄元年(1225年)に,北条政子が夫である源頼朝を弔うため,祗園山長楽寺が元となっている。(同年,政子も亡くなったため,安養院に祀られた)長楽寺は元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡の際に兵火で焼失したため,浄土宗名越派の開祖である尊観上人が開いた寺で,同じく焼失していた善導寺跡に移り,二寺は合併されて安養院となった。延宝8年(1680年),安養院は再度火災に遭ったが,その際に田代寺の千手観音像を移して祗園山安養院田代寺として再復した。

長谷寺:養老5年(721年)大和・長谷寺の開山である徳道上人は,1本の楠から2体の十一面観音を作り,1体を大和の長谷寺の本尊とした。もう1体を祈請の上で海に流したところ,天平8年(736年)に三浦半島に漂着したため,藤原房前が徳道上人を招請し,この漂着した観音像を本尊として開山したのが長谷寺の始まりと伝えられるが,正確な寺の創建時期や経緯については明らかになっていない。康永元年(1342年)には足利尊氏が本尊を金箔で修復,明徳3年(1392年)には足利義満が光背を作ったといわれ,歴代の権力者の庇護はあつかったが,慶長12年(1607年)の徳川家康による再興時の棟札には「海光山長谷寺荒廃、七零八落年久矣」とあり,。慶長12年(1607年)の徳川家康による伽藍修復を期に浄土宗に改宗したが,明治以降に単立となった。

平塚方面に向かう。
16:30平塚市内のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

6月1日7:00レンタカーで出発、小田原方面に向かう。

勝福寺:天平勝宝5年(753年),唐の高僧である鑑真和上が招来し,孝謙天皇に献上された十一面観音像を,道鏡が祀ったのがはじまりである。坂東霊場記によると,道鏡が下野国薬師寺戒檀院再興に向かう途上で,観音像が急に重くなり,ついには一歩の進めなくなったために,そこに一宇を建てて祀ったとされる。創建当時は補陀洛山弓削寺といい,弓削氏の氏寺であり,また,場所も2キロほど離れた千代村にあった。天長7年(830年),本尊の霊告により現在の地に移された。太田道灌が戦国時代の初めに城を築いた折に移転したともいわれる。応永25年(1418年)には小田原城の鬼門鎮護の道場となって,称光天皇から勝福寺の勅号が与えられた。江戸時代には相撲興行が行なわれ,名力士雷電が,土地の力持ち大岩大五郎を投げ飛ばした話が伝わる。文化元年(1804年)には,二宮金次郎,のちの二宮尊徳が18歳のとき,旅の僧の「観音経」の訓読を聞いて感激し,「利他」に生きるという心を授かったという。 

平塚方面に戻る。

光明寺:大宝2年(702年),海女が相模湾に金目川が流れ入る小磯の浜で潮を汲んでいたところ,木片が桶に入った。海女は木片を捨てたが,何度捨てても入るので不思議に思って持ち帰ったところ,行脚の僧から聖徳太子御作の観音像だと教えられ,家の奥に祀ったのが始まりとされている。のちに道儀上人が一宇を建立,30年後の天平年間(729年〜749年)に行基が観音像を刻み,その胎内に海女の感得した観音像をその胎内に納めた。この故事により,「お腹籠りの観音さま」と呼ばれ,北条政子が実朝出産の折に安産を祈願している。現在も安産にご利益があるとされている。明応年間(1492年〜1501年)に観音堂が建立された。本尊を安置する厨子や前立本尊も同時代の作であるという。元禄年間(1688年〜1704年)に慶賀和尚により中興された。 

長谷寺:神亀2年(725年),この地から400メートルほど離れた地から泉が湧き,五色に輝いた。通りがかった僧行基が祈願したところ,泉から十一面観音の金像が現れたため,行基は近くの楠で十一面観音像を刻み,金像を胎内に納めて,堂宇を建立したのがはじまりと伝えられる。大同2年(807年)弘法大師が密教の道場にした。また,別の縁起も伝えられる。かつて,この地の領主であった飯山権太夫が旅の僧に一夜の宿を提供したところ,僧からお礼に大和長谷寺の本尊と同木という観音像を授かった。権太夫はさっそく一宇を建立し,供養を行なったが,この旅僧こそが弘法大師であったという。建久年間(1190年〜1199年)に源頼朝が秋田義景に仁王門を造営させた。 

星谷寺:天平年間(729年〜749年)に行基がこの地を訪れたとき,「見不知森」の中に法華経を読経する声を聞いた。声の主を探すと,古木の下の観音像であったという。行基は村人にこのことを告げ,堂宇を建立したのが開創と伝えられる。延暦年間(782年〜806年)には,坂上田村麻呂が東国遠征の途中に立ち寄り,戦勝の祈願を行なっている。鎌倉時代には兵火で多くの伽藍が焼失し,野火で観音堂も全焼したが,本尊は火中から飛び出し,南に600メートルほど離れた樹の上に止まって光明を放った。この場所に現在の本堂が再建されることとなった。

埼玉方面に向かう。

正法寺:養老2年(718年),沙門逸海が当地で修行していたところ,僧侶に化した観音が夢に現れたので,岩殿山の山腹のがけを削り,千手観音像を岩窟に納めたのが開創であるといわれる。延暦年間(782年〜806年)には坂上田村麻呂が奥州平定の途上で,悪龍退治をしたという伝説も伝わっている。それは,この地に棲みついた悪龍の退治を田村麻呂が周辺の住民に依頼されたため,岩殿の観音に祈願したところ,6月にも関わらず大雪が降り出した。その大雪のなかに1ヶ所だけ雪の消えている峠を見出し,まさに悪龍のいるところとして観音様から授かった矢を放ったところ,見事に悪龍は射止められたというものである。この田村麻呂への霊験により,堂宇が立派に揃えられ,鎌倉末期には66坊を擁する関東屈指の大伽藍を構えるに至ったという。永禄10年(1567年)松山城合戦の兵火により焼失したが,天正2年(1574年)僧栄俊が再興した。

慈光寺:白鳳2年(673年),慈光翁が僧慈訓に命じて千手観音増を刻ませて祀ったのが始まりといわれる。白鳳9年(680年)には役小角が西蔵坊を設けて修験の道場を開いた。やがて,鑑真和上の高弟,釈道忠により釈迦如来像が大講堂に安置され,全山の堂宇が整えられた。その後,慈覚大師が密教の法門を伝えたという。平安時代には清和天皇から「天台別院一条法華院」の勅額を与えられるほどに栄えた。貞観13年(871年)には,大般若経600巻(152巻が現存。国重文)が寄進されている他,文治5年(1189年)には源頼朝から奥州藤原氏征討のための祈願に際して,愛染明王像と寺領1200町歩が寄せられている。文永7年(1270年)には,後鳥羽天皇,藤原兼実らが法華経など全23巻を書写した法華経一品経が奉納されている。しかし,後に太田道灌の軍勢の討ち入り,上田朝直による焼き討ちがあり,江戸時代に再興されたものの,75の僧坊があったという往時の復興を見るには至らなかった。

安楽寺:僧行基がこの地を霊地とし,聖観世音菩薩を刻んで岩崖に納めたことがはじまりといわれる。その後,坂上田村麻呂の奥州平定の際,戦勝を祈願して七堂伽藍が建立された。天慶3年(940年)の平将門の乱に際しては,百院百壇を設けて修法し,叛乱を治めるのに効験があったといわれている。鎌倉時代には,源頼朝の異母弟である範頼が平治の乱(1159年)の後助命されて稚子僧としてあずけられたが,後に領主となってからは所領の半分を寄進,三重塔や大講堂などを建立した。しかし,当時のものはすでに焼失してしまい,現在の本堂は,寛文元年(1661年),秀慶法印によって再建されたもの。

慈恩寺:天長元年(824年),慈覚大師が勝道上人や弘法大師の足跡を尋ねて日光山に登った際,日光山の頂からスモモの実を空に投げると,この地に落ちて一夜にして李花の大樹となったため,千手観音を刻んで一宇を建立したといわれる。慈恩寺の名は,唐の玄奘三蔵法師が天竺から持ち帰った仏典の漢訳に努めた大慈恩寺にちなんで命名されたという。中世には66もの僧坊を抱える大寺で,天正19年(1591年)には徳川家康から寺領100石の寄進を受けるなど寺勢を誇っていた。元禄7年(1694年)の古地図でも,約13万5000坪の境内を構えていたことが示されている。また,日光輪王寺宮法親王歴代の参籠所にもなっていた。境内から500メートルほど離れたところに,玄奘三蔵法師の霊骨塔が建てられている。
昭和17年(1942年),南京を占領していた日本軍が稲荷神社を建立しようと整地していた際に偶然発見された玄奘三蔵法師の頂骨で,昭和18年(1943年)には南京政府に返されたが,「日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にする」という趣旨で分骨されたものである。分骨は当初,芝の増上寺に安置されたが,後に慈恩寺に移され,昭和28年(1953年)霊骨塔が建立された。

東京方面に向かう。

浅草寺:推古天皇36年(628年)3月18日,檜前浜成・竹成という兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ,小さな観音像が投網にかかった。当地の豪族である土師直中知に相談し,草堂に祀ったのが始まりといわれる。大化元年(645年)には勝海上人が新たに観音堂を建立し,本尊を秘仏と定めた。さらに,天長年間(824年〜834年)には慈覚大師が「お前立ち」の観音像を刻み,さらに信仰が深まったといわれる。鎌倉時代は源頼朝が深く帰依,江戸時代には徳川家の祈願所となったことにより,坂東札所第一の巨刹となった。浅草寺が坂東の第一番札所でないことを不満に思った江戸っ子の「江戸自慢十三番がこのくらい」という川柳がある。

横浜方面に向かう。

弘明寺:養老5年(721年),天竺の善無畏三蔵法師が開設,その後天平9年(737年)に行基菩薩が当地で霊感を得て草庵を建立し,観音像を刻んだのが始まりとされる。弘仁年間(810年〜824年)には,弘法大師が善無畏と行基の後を継いで伽藍を建立し,一千座の護摩を修した。長暦年間(1037年〜1040年)に疫病が流行した際には,光慧上人が秘法を修し,宝瓶から霊水を注いで民衆を救ったという故事が残る。鎌倉時代には源家累代の祈願所として,江戸時代には坂東観音三十三ヵ所の札所として栄えたが,後の廃仏毀釈により,寺有地の多くが市などに譲渡された。

16:30新横浜到達。

17:13新横浜新幹線のぞみで出発
19:30新大阪到達。

今回の旅行、関東域に位置する西国三十三か所巡りを参考にした坂東三十三か所巡りの第1番ー第14番までの14か所の霊場を巡りました。

神奈川県からスタートして埼玉・東京・横浜を時計回りで移動し訪れました。

西国三十三か所の霊場のような規模、派手さはなく、小規模で地味ですが、比較的町中にあり訪れやすい霊場でした。

次回は15番からスタートし栃木県、茨城県の霊場を訪れる予定です。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十四弾:山口県柳井&離島(野島・八島)観光
2014年5月24−25日
   

本州の最西端山口県に足を運び室町時代から水陸交通の要衝として栄え、白壁と格子窓の商家が連なる白壁の街並みは国の伝統的建造物群保存地区に選ばれ、レトロで風情ある街並みには新旧のさまざまな店が立ち並ぶ柳井、瀬戸内に点在する離島(野島・八島)を訪れました。

24日14:09新大阪新幹線のぞみで出発
15:53徳山到達、市内を散策し食事を済ませてホテルで就寝。

25日7:30レンタカーで出発防府方面に向かう。
8:10防府三田尻港到達。
8:30三田尻港フェリーで出発。
9:00野島到達、散策。

野島:防府市三田尻港の南東約15kmの瀬戸内海海上に位置し、島のほぼ全域が瀬戸内海国立公園の区域に指定されています。島に人が住み始めたのは、鎌倉時代末期とする節と安土桃山時代とする説がありますが、いずれにしても島の歴史は古く、今に伝えられている降誕会、神舞神事、盆踊りなどの行事に島の伝統を見ることができます。島の周囲には、断崖が続いていますが、北側には、漁港が整備され、人家が集中しています。また、島の北東部には、海水浴場が整備され、本土から多くの来島者を集めています。また、島内の小中学校では、「茜島シーサイドスクール」と称して本土からの児童、生徒の渡船通学を受け入れるなど、島の振興に向けた先進的な取組を行っています。

9:30野島フェリーで出発
10:00三田尻港到達、レンタカーで柳井に向かう。
11:30柳井到達、散策。

柳井:柳井市、古市・金屋地区は、約200mの町筋に、江戸時代の商家が立ち並び「白壁の町並み」と言われています。中世の町割がそのまま残り、妻入形式、本瓦葺、入母屋型の屋根、白漆喰・土蔵作りの商家の家並が続きます。かつて岩国藩のお納戸としてさかえ、岩国錦帯橋建設を支えました。

柳井川沿いに中世からの町割をほぼ残し、街路に面して妻入り形式で本瓦葺き、入母屋造の屋根をもつ二階建ての町屋が立ち並ぶ。いずれも昔ながらの商家で、敷地割は間口が狭く奥行きが深いのが特徴。家の庇も同じ高さで軒線が揃う。国森家住宅と商家博物館むろやの園は、この古い町屋を一般に開放している柳井白壁の町並みを訪れる。

18世紀後半の建築で、入母屋造、本瓦葺きの土蔵造2階建ての油商の家。1階の正面にある「蔀帳」とよばれる板戸は上の1枚を吊り上げて、その上にふとんを収納。残り2枚を全開して店とする建具で、商家独特の機能的な造りだ。また一本引きの土戸や袖壁など、防災の工夫も随所に見られる。1階座敷の天井板には当時ご禁制の品であった屋久杉の丸太が使われており、豪商ぶりが偲ばれる国森家住宅を訪れる。

白壁の町並みの中にあり、室屋の屋号を持ち、最盛期には50隻もの帆船を抱えた豪商・小田家の屋敷を利用した民俗資料館。元禄14年(1701)の建築はこの町で最も古く、屋敷面積2561平方m、建坪1500平方mは現存する町屋で国内最大級。館内には小田家が使用していた商いの道具や生活用品をを多数展示する商家博物館むろやの園を訪れる。

『武蔵野』『少年の悲哀』などの作品で知られる国木田独歩が22歳のころに住んだ家を移築した記念館。見学は外からだけだが、ガラス窓越しに文机やランプが置かれた居室や、年表、写真、独歩の胸像などが見られる独歩旧宅を訪れる。

国木田独歩は柳井在住時代、自宅から北東の光台寺へ向かう道を好んで散策したという。真山青果編の『独歩病床録』によると、柳井が舞台とされる『少年の悲哀』のヒロインの娼婦は、この散歩道で出会った少女がモデルという。独歩は彼女を「ほとんど毎日のごとくこの山上にて会いたる女あり。十六七の、顔青ざめて背のすらりと高き少女なりき」と言っている。一目でいかがわしい商売の女とわかったものの、少女は強い印象を独歩に与え、10年後、小説に登場することになる。光台寺山門前には石碑「独歩曽遊の地」が立っている独歩曽遊の道を訪れる。

14:00柳井レンタカー出発
14:15やまぐちフラワーランド到達散策
14:45やまうちフラワーランド出発
室津スカイライン走行、途中般若寺訪れる。
般若寺散策。

室津港に向かう。
16:00室津港到達。

明治12年(1879)に建てられた、県内最古の擬洋風建築。外国との海上交通で栄えた地ならではの凝った造り。窓にはフランス製のステンドグラス、3階の壁には唐獅子牡丹の漆黒彫刻、4階天井には鳳凰漆黒彫刻が残る。併設の上関町郷土史学習館では四階楼に関する資料の展示のほか、上関町の歴史をパネルや映像で紹介している四階楼を訪れる。

16:35室津港高速艇で出発。
17:00八島到達。

八島:瀬戸内海へ突き出た室津半島(熊毛半島)の上関港から南へ12km、八島は山口県最南端の地です。南北に細長く中央部分がくびれているので角度によっては幾つもの島が重なっているように見えることから八島と呼ばれるようになったものと思われますが、古くは屋嶋や矢嶋と記されていたこともあり案外違うところからの由来かもしれません。島内からは弥生式土器などの古代の遺物が発掘されており、古くから生活の場があったものと思われます。源平合戦(治承・寿永の乱:1180〜1185年)で敗れた平家の落人が住みつき開拓したという伝説があり、「船隠し」や「与崎」など平家にまつわる地名も残されています。集落の路地の両側に並ぶ家々は賑やかだった頃の八島を思い起こさせてくれます。漁業の発達で江戸時代末期に人口増加が始まり、明治期にはハワイへの漁業移民を出すほどになっていました。恐らく昭和30年代まではかなりの人口があったものと思われますが、その後徐々に流出が始まり、昭和61年3月で八島小学校が廃校。近年まで行われていた牛の放牧も途絶え、2009年には八島キャンプ場が営業休止となっています。そして、集落には空き家、廃屋が目立つようになり、島民のほとんどがお年寄りという過疎の島となっています。

17:10八島高速艇で出発。
17:30室津港到達、レンタカーで徳山に向かう。
18:40徳山到達。
18:54徳山新幹線さくらで出発。
20:45新大阪到達。

今回の旅行、本州の最西端山口県に足を運び2回目の訪れである室町時代から水陸交通の要衝として栄え、白壁と格子窓の商家が連なる白壁の街並みは国の伝統的建造物群保存地区に選ばれ、レトロで風情ある街並みには新旧のさまざまな店が立ち並ぶ柳井、防府沖の離島、野島、室津沖の離島、八島を訪れ楽しめました。

今回で山口県の離島はほぼ制覇しました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十三弾:近畿圏お城・城下町巡り
2014年5月17−18日
   

近畿圏の日本100名城である6つのお城(千早城・高取城・竹田城・安土城・観音寺城・小谷城)を巡りました。

17日12:30車で出発、大阪の南河内方面に向かう。

千早城:
南北朝時代、後醍醐天皇(南朝)の功臣として有名な楠木正成が鎌倉幕府との戦いの為、赤坂城の詰めの城として1332年に築城されました。四方を絶壁に囲まれた要害で、巧みな戦術を用いて北条(鎌倉幕府)の大軍を翻弄しました。正成の死後も楠一族により保持されていましたが、1392年には北朝方の畠山基国に破れ落城してしまい、現在は一部、空堀や曲輪を遺稿に残すのみとなっています。

奈良の高市方面に向かう。

高取城:
1332年、南朝方の武将であった越智邦澄によって築城されました。江戸時代は高取藩の藩庁が置かれ、当時は曲輪が連格式に連なっていましたが明治に入り1873年には廃城になり、建物は払い下げられるか自然倒壊してしまいました。日本最大規模の山城で、現在は石垣や堀、井戸などの遺稿があり、三大山城の一つに数えられています。

兵庫の和田山方面に向かう。
16:30和田山市内のホテル到着後近場の居酒屋で食事を済ませて就寝。
18日7:30車で出発、竹田城に向かう。

竹田城:
築城に関しては定かでありませんが1431年、応仁の乱の起因となった一人である山名宗全によって築城されたと伝えられる山城です。室町以降、畿内への要衝として多くの戦で攻防が繰り広げられましたが、関ヶ原の戦いの後、1600年には廃城となっています。城下から見上げる山頂に位置し、しばしば霞がかかることから「天空の城」とも呼ばれています。石垣がほぼ往時のままの状態で残っており、現存の山城の中では最大級の規模を誇ります。

8:40車で滋賀の安土方面に向かう。

安土城:
1576年、織田信長によって築かれた最初の大規模近世城郭です。それまでの居城である岐阜よりも京都に近く、琵琶湖の水運も利用出来、北陸への向えるなど交通の要所でもあったことが理由とされています。1582年に本能寺の変によって信長が倒れると、時を置かず天守は原因不明の焼失をしてしまいまい、1585年には廃城となります。これまでに例を見ない壮大な造りでしたが、その姿を後世に伝える文献も少なく「幻の名城」と言われています。城跡は特別史跡に指定され石垣、大手石道、門跡などの遺構が残っています。

観音寺城:
築城年は不明ですが近江源氏佐々木氏の居館があり、その後支族である守護大名の六角氏の居城として築かれたと言われ、応仁の乱では三度の攻防戦が繰り広げられました。1568年に上洛を目指す織田信長が支城である箕作城を落城させると、六角義賢、義治親子は逃亡し観音寺城も無血開城し廃城になりました。城跡には本丸や曲輪、石垣、土塁、堀、門跡などの数多くの遺構が残されています。

湖北方面に向かう。

小谷城:
戦国期に近江北部を治めていた戦国大名浅井氏の代々の居城です。その築城は浅井亮政の時代、1516年頃ではないかと言われています。多くの支城の守られた堅固な山城で織田信長も何度も攻めあぐねましたが1573年、ついに落城。その後、小谷城近隣は信長により羽柴(後の豊臣)秀吉の所領とされましたが、1575年に長浜城が築城され、小谷城は廃城となりました。日本五大山城の一つで城址には土塁や曲輪、石垣が遺構として残っています。

16:30帰路に向かう。

今回の旅行、近畿圏内の日本百名城の比較的マイナーなお城6か所を巡り楽しめました。
6つのお城はすべて山城でたどり着くのが困難、かなり歩かされました。

竹田城は5年前訪れたことがありますが、すんなりお城の手前で車をとめてたどり着けましたが、今は竹田城ブーム、かなりの観光客が訪れるようになり、整備され、駐車場からは2km歩かないとたどり着けなくなりました。「天空の城」人気があるのですね。

全般にお城ブームか?、どのお城も賑会ってましたね。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十二弾:西国三十三か所巡り第三弾(第28札所ー第33札所)
2014年5月10−11日
   

西国三十三か所巡り第三弾、日本海沿いの第28札所成相寺からスタートして最東端の岐阜の第33札所華厳寺までの六ヶ所を巡りました。

10日12:30車で出発、近畿中国舞鶴自動車道経由して宮津方面に向かう。
15:10宮津到達。

成相寺:日本三景の一つ天橋立を一望する景勝地にあり、本尊は「身代わり観音」や「美人観音」として有名である。
また、願い事が必ず成り相う(かなう)お寺としても知られている。他にも悲しい伝説を秘めた「撞かずの鐘」や、左甚五郎作の「真向の龍」、雪舟筆「天橋立図」にも描かれた五重塔も平成17年に復元される。本堂、鎮守堂、鐘楼は京都府指定文化財となっている。
一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となった。死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈った。すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼の為傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。僧として、肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて煮て食べた。やがて雪も消え里人達が登って来て、堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居た。それを知らされた僧は観昔様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになった。此れよりこの寺を成合(相)と名付けた。

舞鶴方面に向かう。

松尾寺:当寺は、西国二十九番札所で、本尊馬頭観世音は、三十三霊場中唯一の観音像であり、農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通、更には競馬に因む信仰を広くあつめている。
松尾寺がその中腹に位する青葉山(699米)は、福井縣から望見すれば、東西に並び立つ双方が一つに重なり、その秀麗なさまは「若狭富士」と呼称されている。 「富士なくば 富士とやいわん 若狭なる 青葉の山の 雪のあけぼの」 この山は死火山で、昔火焔を吹き上げ、噴流は直下の日本海に注いで壮絶な水煙をあげていたものと思われる。この厳しい表情をたたえた険峻な山は、早くから修験道修行の場となっていた。 時に慶雲年中、唐の僧、威光上人が当山の二つの峰を望んで、中国に山容の似た馬耳山という霊験のある山があったことを想起された。登山したところ、果せるかな松の大樹の下に馬頭観音を感得し、草庵を結ばれたのが、和同元年(708年)と伝えられる。 爾米、今日まで千三百年を経ているが、その間、元永二年(1119年)には、鳥羽天皇、美福門院の行幸啓があり、寺領四千石を給い、寺坊は六十五を数えて繁栄した。当地方唯一の国宝の仏画も、美福門院の念持仏であったといわれる。 その後、正徳6年(1716年)まで、五度火災に見舞われたが、享保十五年(一七三〇年)牧野英成によって、漸く今日の姿を整えるに至った。

敦賀方面に向かう。

18:20敦賀市内のホテル到着後繁華街を散策して食事を済ませてから就寝。

11日7:30車で出発
8:40長浜港到達。

9:00長浜港船で出発
9:30竹生到達、散策。

宝厳寺:宝厳寺は、神亀元年(724)聖武天皇の勅願による創行基菩薩の開基であります。豊臣秀吉の遺命により、秀頼が桃山城の一部を寄進したと伝えられる西国三十番札所観音堂、藤原時代(平安後期)の工風による高雅華麗な大弁才天根本道場などがあって、琵琶湖に浮かぶ島の景趣は"深緑 竹生島の沈影"として有名であります。
竹生島宝厳寺は、神亀元年(724)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民富楽となるであろう」というお告げを受け、創行基を勅使にとしてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。行基は、早速弁才天像(当山では大弁才天と呼ぶ)を彫刻しご本尊として本堂に安置。翌年には、観音堂を建立し、千手観音像を安置しました。それ以来、天皇の行幸が続き、また伝教大師、弘法大師など来島修行されたと伝えられています。当山は、豊臣秀吉との関係も強く、多くの書状、多くの宝物が寄贈されています。慶長七年(1602)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より桃山時代の代表的遺稿である観音堂や唐門などを移築させています。明治時代、この島は大きく変化し、当山より都久夫須麻神社(竹生島神社)が分かれました。古来、現在の神社本殿を当山は本堂とし、本尊大弁才天を安置しておりましたが、明治元年(1868)に発布された『神仏分離令』により大津県庁より、当山を廃寺とし、神社に改めよという命令が下りました。しかしながら全国数多くのご信者皆様の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなりました。本堂のないままに仮安置の大弁才天でしたが、昭和十七年現在の本堂が再建されました。本尊大弁才天は、日本三弁才天の一つとして、観世音菩薩は西国三十三ヶ所観音霊場の第三十札所として参拝の方々の姿が絶えずその詠歌の声が響いています。月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を つむ心地して古くは平経正が琵琶をひいて戦勝を祈願し、謡曲『竹生島』など数多くの音曲にもこの島の美しさがたたえられています。いまもなお、神秘とロマンが一杯に秘められています。

10:50竹生島船で出発
11:20長浜港到達。

車で岐阜方面に向かう。

華厳寺:西国三十三番満願霊場美濃国谷汲山華厳寺は「谷汲さん」の名でも親しまれ、西国札所の中で最も東の岐阜県に位置しています。 広い境内には巡礼の満願・結願の地として厳かな雰囲気があり、「笈摺堂」、「満願堂」、「精進落としの鯉」を始めとする巡礼を終えた者のみが知ることが出来る喜びに満ち溢れ、一般の参拝客らもその雰囲気に引き込まれます。 また巡礼だけでなく、桜や紅葉の名所としても知られ、四季折々の自然の移ろいを味わうことが出来ます。
谷汲山華厳寺の創建は、今から約千二百年前の延暦十七年(798年)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。 奥州白川郷の大口大領はつねづねより十一面観音の尊像を建立したいと強く願っており、京の都から観音像を故郷へ持ち帰る最中、突然尊像が重く動かなくなり、この地こそが結縁の地であろうと山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊上人という聖(ひじり)と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました。すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し、いっこうに尽きることが無かったので、それより後は燈明に困ることが無かったといいます。この話を聞こし召された当時の天皇、醍醐天皇(885-930)は谷から湧き出る油を燈明に用いたのにちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜せられました。この寺号は御尊像に華厳経が書写されている事にちなむとされています。 天慶七年(944年)には、朱雀天皇(923-952)より鎮護国家の道場として勅願寺に定められ、仏具・福田として一万五千石を拝領賜りました。 また西国巡礼中興の祖とされる花山法皇(968-1008)は西国三十三所の霊場を御徒歩で御巡幸あらせられ、当山を第三十三番札所の満願所と定められ、御禅衣(笈摺)、御杖、及び三首の御詠歌を奉納せられました。およそ百八十余年を経て後白河法皇(1127-1192)は、先帝花山法皇の御跡を慕われて同行千有余人を従えて御巡幸あらせられました。 それから後は建武元年(1334年)足利氏と新田氏の戦乱が起こり、新田氏一族堀口美濃守貞満の乱を始めとする戦乱で幾度と諸堂伽藍を焼失するも、このような危難の中、御本尊だけは辛うじて後方の山中に移し奉って御安泰なることを得ました。以後文明十一年(1479年)の再興までは二度の兵燹に遭い、一時期は衰退を迎えるも、人皇百五代・後土御門天皇(1442-1500)の御宇、文明十一年(1478年)薩摩国鹿児島の慈眼寺住職道破拾穀上人が海山を越えて遥々尋ね来て、本堂及び諸堂を再興して尊像の御心を安め奉ったのです。 その後幾多の星霜を経て大破したので、明治八年(1875年)豪泰法印が再建の願主となり、同十二年(1879年)現在のお堂が再建されています。 このように当山は古来より観音信仰の霊験厚く、また天皇、法皇を始めとする皇室、朝廷、有力豪族や民衆からの帰依厚く、益々の隆盛を極めました。 当山では西国三十三番の満願霊場として花山法皇が詠まれた御製三首の御詠歌にちなんで三つの御朱印をお授けしております。三つの御朱印は本堂(観音堂)、満願堂、笈摺堂を指し、それぞれ現在・過去・未来を表しているとされております 。

観音正寺:近江国は、日本のほぼ中央に位置するが、その近江国でもまた中央、すなわち日本の「臍」ともいうべき要衝に位置するのが、標高432.9メートルの繖山、別名観音寺山であります。西国三十二番札所・観音正寺は、貴人にさしかざす衣蓋のようにふんわりとした美しい山容から名付けられたこの繖山の山中にひっそりと佇んでいる。
寺伝によると、往古、聖徳太子がこの地に来臨された折節、紫雲たなびくこのお山をご覧になって「これぞ霊山なり」とおぼしめし、太子自らが千手観音の像を刻み、堂塔を建立されたのが、当寺の縁起であるという。以来、太子が近江国に創建された十二箇寺中の随一の寺院として、湖東地方に勢威を振るってきた。 ところが、応仁・文明の乱に際し、近江国守護職・佐々木六角氏がこの山に居城を築いたため、寺は兵乱に罹ったり、山麓に移されたりするなど苦難の路を辿ることとなった。その後、永禄十一年(1568)、織田信長により六角氏が滅ぼされたため、慶長二年(1597)、再び山上に堂塔が営まれることとなったが、往時をしのぶべくもなかったようである。古来、万事吉祥の縁結びの祈祷道場として老若男女の尊崇を集め、四季を通じての景勝の名刹でる。

長命寺:ご本尊千手十一面聖観世音菩薩は健康長寿、無病息災を授けて下さる有り難い観音様。本堂三重塔など重文の建つ境内から琵琶湖が一望でき、西国巡礼を始め多くの参拝客でに賑わっています。
長命寺は西国三十一番札所の霊場で、その歴史は古く人皇十二代景行天皇二十年長寿の大臣武内宿彌当山に登り「寿命長遠諸願成就」の文字を柳の巨木に記し、長寿を祈り三百歳以上も長寿を保ち、六代の天皇に仕えられたのであります。その後聖徳太子が諸国歴訪の折り、此の山に来臨され、柳の巨木に「寿命長遠諸願成就」の文字と観世音菩薩の御影を拝され感歎されていると、忽ち巌の影より白髪の老翁現われ、「此の霊木で千手十一面聖観音三尊一体の聖像を刻み、伽藍を建立すれば武内大臣も大いに喜び、諸国万人等しく崇拝する寺となるであろう」と告げ失せられました。早速、太子は尊像を刻まれ伽藍を建立、武内宿彌長寿霊験の因縁をもって「長命寺」と名付け給うたのであります。人間一度に世に生れ来れば老若男女をとわず、諸願のないものがありましょうか。又長寿を欲しないものがありましょうか。然るに当寺の御本尊観世音菩薩は、「寿命長遠諸願成就」の御誓でありますから、参詣信心して無病息災で健康長寿で各自の職務に精励したいものであります。

16:30帰路に向かう。

今回の旅行、西国三十三か所巡り第三弾、日本海側に位置する第28番札所成相寺からスタートして最東端の岐阜の第33札所華厳寺までの六ヶ所を巡り制覇しました。

ビックで派手なお寺が目白押し、西国三十三か所のお寺の偉大さを感じました。

これからも全国の霊場、観音を巡る予定です。