飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十九弾:香川県小豆島八十八箇所巡り第二弾(49札所ー88札所)  2015年1月31日-2月1日   

四国香川県のオリーブ、醤油の産出、二十四の瞳で有名な小豆島に足を運び八十八箇所巡りの第二弾(49札所ー88札所)を訪れました。

31日12:30車で近畿中国山陽自動車道経由して姫路港に向かう。
14:35姫路港到達。
15:30姫路港カーフェリーで出発
17:10福田港到達、土庄に向かう。

東林庵:

遊苦庵:

宝幢防:

旧八幡宮:

本覚寺:御本尊は不動明王。本堂は、室町時代の様式をとり入れ、気品があり落ち着いた感じを受けます。何度かの火災に見舞われ、現在の建物が建立されました。昭和30年に完成した一髪観音堂(いっぱつかんのんどう)は、10万人の頭髪で刺繍した聖観世音(せいかんぜおん)が奉られていて、さまざまなご利益(ごりやく)が実話として残っています。また、大正9年、俳人 荻原井泉水(おぎわらいせんすい)が桂子(けいこ)夫人と共に小豆島を訪れ、そのときに詠んだ句が自然石に刻まれています。

宝生院:宝生院(ほうしょういん)といえば国の特別天然記念物に指定されている真柏(しんぱく)が有名です。境内は約二千坪もありゆったりとしていて、小豆島の中では最も広いお寺といえるでしょう。このお寺からはすぐれた僧侶がたくさん出ています。頭脳明晰な僧と知られる増海上人(ぞうかいしょうにん)、享保(きょうほ)時代の大飢饉に人々の生活を守った竜誉上人(りゅうよしょうにん)のほか、是妙(ぜみょう)、恵周(けいしゅう)など、いずれも学徳にすぐれた名僧であったそうです。

光明庵:

18:10土庄港付近のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

1日7:30車で出発

観音堂:

行者堂:

浄源坊:

西光寺:土庄の賑やかな町中から路地を入ると町中とは思えない静かなところに西光寺はあります。朱塗りの仁王門を入るとイチョウの大樹があり、昭和8年に建立された桃山様式の本堂があります。弘法大師が祀られ、厄難除けのご利益があります。また、毎年4月21日と12月21日には、弘法大師の徳を仰いで開かれた大師市が、西光寺を中心に行われています。大師市には、たくさんの露店や屋台が立ち並び、鐘の音と読経の声が線香の煙の中に絶え間なく聞こえてきます。

奥の院誓願の塔:土庄の町中に三重塔がそびえています。西光寺中興四百年記念事業の一環として建立されたもので、今では土庄のシンボルとなっています。この塔は、西光寺奥の院となっていますが、もとは、俳人・尾崎放哉(おざきほうさい)の終焉の地としても知られる、南郷庵(みなんごあん)が奥の院でした。敷地内には放哉の句碑もあります。

甘露庵:

江洞窟:

浄土庵:

大乗殿:

蓮華庵:

松風庵:

光明庵:

等空庵:

瑞雲堂:

松林寺:石段を登ると正面が本堂で、右に町文化財に指定されている梵鐘(ぼんしょう)があります。寺伝によれば、天平十年(738)に行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって開かれ、そのころ長現寺と号し、その後、豊臣秀吉が朝鮮より献上された虎をこの寺で飼育したことから虎溪寺(こけいじ)と改め、やがて松林寺に改められたといわれています。御本尊である薬師如来は、明暦三年(1657)に小豆島の中島(なかじま)の海中から出現したもので、元来、「眼病及びイボ取りのお薬師さま」として信仰されています。

瑠璃堂:

長勝寺:石橋を渡って門を入ると、正面に本堂、右に庫裡(くり)と大蘇鉄、左に子さずけ地蔵があります。寺は行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって開かれ、御本尊は阿弥陀如来。本堂は播州赤穂の大石内蔵助の邸宅を以って建立されたものです。毎年12月第2日曜日には赤穂義士を偲ぶ会として茶会が盛大に開かれています。現在は、先祖供養の寺として信仰を集めています。

滝の宮堂:

滝湖寺:仁王門を入ると、よく手入れされた植え込みの中央に石畳の参道があり、その参道を進むと正面に本堂があります。周囲を塀で囲まれた静寂な霊場です。御本尊は、弘法大師の作と伝えられています。近代的な信徒会館は設備が整っていて、道中の参籠(さんろう)などお遍路さんの利用が多いお寺です。

奥の院笠ヶ滝:遠方から望む笠ヶ滝はまさに霊地にふさわしく、断崖絶壁の中にお堂があります。第72番札所滝湖時(りょうこうじ)からの登りは、岩壁(いわはだ)を鎖にすがって登らなければなりません。山頂に立つと、南に屋島(やしま)や高松、それに四国の山々、北には中国・山陰の山々が見渡せ、まるで雲の上から眺めているような雄大な景色が広がります。本尊の不動明王の絶大な力は、あらゆる願いをかなえてくれるといわれています。


救世堂:

円満寺:本尊は十一面観世音で、前立に美しい阿弥陀如来があります。もとは、慈恩寺(じおんじ)と言い、現在地より東北に当たる慈恩寺谷にあり、治承(ちしょう)年間、当地に移転のときに寿福院に、元禄年間に円満寺と改められました。お寺の敷地内の真柏は町指定の天然記念物で、第54番札所宝生院(ほうしょういん)の真柏に次ぐ大きさのものです。

大聖寺:大聖寺は寺名のとおり、大聖不動明王を御本尊としています。当時の開基は、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)によって開かれたと伝えられ、貞享(じょうきょう)5年(1688増学上人によって再建され今日に至っています。現在の本堂や諸堂は、天災などで荒廃してしまった建物を近代的に再建したもので、境内は落ち着いた雰囲気が漂っています

金剛寺:瀬戸内の海を見渡せる高台に金剛寺はあり、境内には鐘楼門を構えています。本堂は甍を張った勇壮な建築で、昭和45年に鉄筋で完成しました。本堂と客殿の間には庚申堂(こうしんどう)があって、「みざる、いわざる、きかざる」の三申を祀っています。

三暁庵:弘法大師に関する伝説には水に関わるものが多く残っています。大師(たいし)が巡錫の途中、松の枝に笠をかけ、裏の池で衣を洗おうとしたところ、水があまりにも少ないので小さな井戸を掘り、以来、大師の恵みの水として、年中絶えたことがなく、村人は小さなお堂を建て、9月3日を感謝の日としています。不思議なことに、この日に参拝すれば男女の縁が結ばれるので「縁結びの大師」とも呼ばれていて、未婚の男女で賑わいます。


藤原寺:

観喜寺:門を入ると、重厚な甍と大きな蘇鉄が目につきます。寺伝によると、天平(てんぴょう)年間(729~)僧行基が開基し、草庵に如意輪観音を謹刻し、安置したのが始まりといわれています。歓喜とは、心身ともに満足したときに起こる喜びのことです。島の北側に面し、瀬戸内海と岡山県を一望できます。

雲胡庵:

薬師庵:

観音寺:山裾の小高いところを切り開いた台地にあり、十数メートルの巨大な稚児大師像に目をひかれます。本尊は幼児を抱きかかえた聖観音菩薩で、女性に「子安観音」の信仰を集めています。また、参拝者には手打ちうどんの接待があり、「うどんの寺」としてたいへん有名です。本堂は、過去2回の火災に見舞われ、焼失しましたが、「うどんの接待」など、精進を重ね、信者の協力もあり、昭和38年に現在の本堂が完成しました。


恵門ノ滝:中国の寺院の桜門を思わせるような鮮やかな色彩の門を入ると、目の前に岩山がそそり立っています。石段を上がり、鉄鎖をよじ登ると香煙のたちこめる本堂に入ります。中には、立派な厄除け不動があり、厄をのがれる人々が多数訪れています。その奥には、30年に一度ご開帳を行う秘仏の本尊不動明王像を安置しています。護摩壇は、弘法大師が100日間こもられ、人々を助けられた祈祷の道場です。

吉田庵:

福田庵:

運海寺:

本地堂:

当浜庵:

海庭庵:

楠霊庵:

今回の旅行、四国香川の小豆島に足を運び小豆島八十八箇所巡り第二弾(49札所ー88札所)を訪れ無事終了しました。

2回にわたっての小豆島八十八箇所巡り、案内板もわかりやすく、其々の寺院は距離は短く、短時間で移動でき訪れることが出来ました。

寺院は小ぶりですが、四国本土の八十八箇所巡りは時間がかかり大変ですが、小豆島は距離も短く、寺院が密集し訪れやすくお勧めです。

気軽に巡れる小豆島八十八箇所巡りでした。
 


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十八弾:東京都お城・城下町巡り観光(2)  
2015年1月24日-25日
  

先週に続き大都会、日本の首都東京に足を運び、比較的マイナーなお城8箇所(平塚城、稲付城、志村城、赤塚城、石神井城、勝沼城、戸倉城、檜原城)を巡り観光しました。

24日13:50新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:20東京駅到達、タクシーでプリンス・パークタワー東京に向かう。
16:50プリンス・パークタワー東京到着。
17:30プリンス・パークタワー東京で講演会に出席。
19:30終了、就寝。
25日7:40タクシーで東京駅八重洲に向かう。
7:50東京駅八重洲に到達、レンタカーで城めぐり。

平塚城:平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。
 平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を城内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を立てて安置したと伝えられています。これが本殿裏側の甲冑塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(1478)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。
 江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興した。

稲付城:稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和六十二年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558-1569)末頃から天正十年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また、静勝寺に伝存する貞享四年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
 明暦元年(1655)に道灌の子太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。

志村城:後朱雀天皇の長久三年(1042)この地の豪族志村将監が紀州熊野より勧請したものと伝えられています。
 天喜年中八幡太郎義家が父頼義と共に奥州追討のとき武運長久の祈願をしました。
 康正二年(1456)千葉隠岐守信胤が、西部に城砦を築き城内鎮守として厚く崇敬しました。社殿西側の低地は本丸と二の丸との間にあった空濠の跡です。

赤塚城:赤塚城跡は、この公園の南の台地上に位置する室町時代の城跡です。現在は、大部分が都立公園となっており、城山、お林山などとも呼ばれています。
 ここは、康正二年(1458)に千葉自胤(よりたね)が入城したと伝えられ、現在でも空堀や土塁の跡を見ることが出来ます。北、東、西の台地の三方は、自然の谷で区画され、北側の溜池は、それらの谷のしみだし水をたたえています。
城跡の北側に開ける高島平は、江戸時代、徳丸ヶ原と呼ばれた原野でした。ここで天保十二年(1841)、高島秋帆が洋式の砲術訓練を行ったことが、高島平の地名の由来となっています。明治時代以降は開墾され、徳丸田んぼと呼ばれる一面の水田地帯となりました。この時溜池の水は、灌漑用水として利用されています。

石神井城:石神井城は、平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の一つです。
 城の築城は、鎌倉時代後期と考えられ、文明九年(1477)四月二十八日に太田道灌に攻められ落城し、廃城になりました。「太田道灌状」によれば、最後の城主豊島泰経は、石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の一月二十五日、再び道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げています。その後の泰経の足取りは、記録として文献には残っていません。
 城は、石神井川と三宝寺池に挟まれた台地に築かれており、全体では九ヘクタール前後の規模であったと推定されています。当時の城は、土塁と壕で土地を四角形に区画した場所(郭)をいくつか築き、防御施設としていました。例えば、城の東側は、ここより約100メートル程の場所に幅7メートルほどの壕で区画されていたと考えられ、西側は、ここより約220メートル程の場所に幅9メートル程の壕と土塁で区画されていました。また、北側と南側は、三宝寺池と石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。

勝沼城:正確な築城時期は不明だが、鎌倉時代の末期にこの「杣の保」(青梅市周辺)を支配した三田氏の居城であった。三田氏は平将門の後裔を名乗っているが定かではない。
室町期の三田氏は関東管領・山内上杉氏の被官となった。永正六(1509)年には連歌師の宗長が勝沼城の三田弾正忠氏宗を訪問していることが「東路の津登」に記されている。小田原北条氏の侵出により一時北条氏の配下になったが、永禄三(1560)年の上杉謙信の関東出陣に呼応して、翌永禄四(1561)年の小田原城包囲戦に参加している。謙信が越後に帰陣したのちは武蔵周辺の豪族の多くは北条氏にふたたび降ったが、三田氏は頑強に抵抗し、滝山城の北条氏照の攻撃を受ける。永禄六(1563)年にはこの勝沼城を放棄、辛垣城に籠城し抵抗するがこれも翌永禄七(1564)年に落城、三田綱秀は太田資政を頼って岩槻城に陥ち延びたが、そこで自刃して三田氏は滅亡した。三田氏滅亡後は師岡山城守将景が入城し、「師岡城」と改称したが、天正十八(1590)年の小田原の役で落城し廃城となった。

戸倉城:築城年代は定かではない。 戦国時代には伊豆国と駿河国の境目の城として重要視された。
駿河国に侵攻した武田氏と小田原北条氏は戸倉城で戦い、天正8年(1580年)頃には武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻め、天正9年(1581年)笠原範定が武田氏に寝返り、戸倉城は武田氏の所領となった。
武田氏が滅亡すると再び北条氏の所領となったが、豊臣秀吉の小田原征伐に対して、北条氏は戸倉城を破棄し韮山城へと退いた。

檜原城:応永二十(1413)年の文書に平山三河入道が甲斐の侵攻に備えるためこの地にいたらしいことが伺われる。平山氏は戦国期に台頭した北条氏に従属し、永禄十一(1568)年に甲相駿三国同盟が崩れた後は、平山伊賀守が滝山城の北条氏照より防備を固めるよう命じられるが、翌永禄十二(1569)年、信玄本隊は碓氷峠を越えて武蔵中央部を南下、小山田信茂の別働隊は小仏峠を越えて滝山城に侵攻したため、檜原城は直接干戈を交えることはなかった。
天正十八(1590)年の小田原の役では平山伊賀守氏重が守備に当たっていたが、六月二十三日に八王子城が落城、氏重は八王子城代・横地監物ほか敗残兵をまとめて前田利家、上杉景勝らの軍勢と奮戦したが敵わず、七月十二日に落城、平山氏重、新左衛門親子は城下千足の「かくれ岩」で自害した。徳川家康の関東入封と同時に廃城となった。

今回の旅行、前回に続いて東京の比較的マイナーなお城を巡り、楽しみました。8箇所のうち5箇所は平城で比較的分かりやすかったが、奥多摩に位置する2つの山城は位置を確認するのが人苦労しました。
東京に位置するお城20箇所を今回で制覇し無事終了しました。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十七弾:東京都お城・城下町巡り観光  
2015年1月17日-18日
 

日本の首都、大都会の東京に足を運び、比較的マイナーなお城11箇所(品川台場、白金長者屋敷、世田谷城、深大寺城、沢山城、小野路城、片倉城、初沢城、松竹城、高月城、滝山城)を巡り観光しました。

17日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:20品川駅到達、タクシーでザ・プリンスパークタワー東京に向かう。
16:40ザ・プリンスパークタワー東京到着。
17:00講演会に出席、懇親会。
21:00終了、ホテルニューオータニ東京に向かう。
21:15ホテルニューオータニ東京到着、就寝。
18日7:40タクシーで東京駅八重洲口に向かう。
7:55東京駅八重洲口到着、レンタカーに乗り換え出発、お城巡り始める。

品川台場:品川台場の当初築造案によれば、南品川の猟師町から東北方の深川州崎までの2列11基と猟師町の海岸に1基を築造するものとなっていた。しかし、前年の5月に江戸城西の丸が焼失、6月には第12代将軍家慶が逝去するなど幕府の財政を逼迫する出来事が続いたため、計画を縮小した形で作業が進められていった。
 台場の陣形は江川英龍によれば、3つの機能を有していたという。第一は正面から来る敵を「迎え打つ」もの、第二は台場に接近した敵を「横打ち」するもの、そして最後が防御線を突破した敵を背後から「追い打ち」するといったものであった。しかしこれらは当初計画の11基をもとに考案されたことであったので実際にはその機能が生かされてはいないようである。

白金長者屋敷:本園は、古く室町時代に「白金長者」の住まいがあった所と伝えられており、史跡に指定されております。
 本園内には、周囲を囲むように土塁がみられますが、この土塁は園内の多くの土塁の内側にあたっており、この附近に白金長者の住んだ館があったものと思われます。
 ここの前方・左右には、∩型の土塁がみられますが、この土塁は園内の多くがみられますが、この土塁は園内の多くの土塁の内側にあたっており、この附近に白金長者の住んだ館があったものと思われます。

世田谷城:南北朝時代(1331~1391)の中頃、鎌倉府の支えとして、足利氏の一族・吉良治家が築城したとされ、城域は豪徳寺の境内を含めた台地全体に及んでいたとみられる。
 鎌倉公方足利持氏の時代(1409~39)の文献によると、鎌倉府における吉良氏は、公方の次の関東管領上杉氏に次ぐ第三位の地位にあって、吉良殿様とか世田谷御所様とか呼ばれ尊敬されていた。
 吉良氏は、小田原の北条氏の勢力が武蔵国に及ぶと、北条の女を室としてその傘下に入っていたが、天正十八年(1590)八代吉良氏朝のとき、豊臣軍に世田谷城を明け渡した。

深大寺城:深大寺城が築城された時期、築城者も明らかになっていない。が、歴史上の文献にその名が出現してくるのは「河越記」「相州兵乱記」「北条記」などである。
 それらによると天文六年四月、扇谷上杉朝定が父朝興の死の跡を継ぎ、北条氏に対抗すべくこの城を再興したが、絶えず劣勢に立たされ、ついには居城河越城とともにこの深大寺城も落城してしまう。
 北条の勢力圏内に入った深大寺城であったが、再利用した様子もないことからどうやらそのまま廃城となったようである。

沢山城:三輪城または沢山(たくさん)城と呼ばれるこの城は現在荻野氏の私有地となっておりますが、ご好意で主郭の一部などが自由に見学することが可能です。ただし団体での訪問が禁止など、さまざまなルールがありますので、お城ファンの方には節度ある訪問をお願いしたいです。城の歴史はあまり詳しくわかっていないようで、この荻野氏の祖先の方などが城主でなかったのか等の諸説があるようですが、少なくとも戦国時代は後北条家の支配化にあったようで、1590年の小田原の役では、この城の兵糧を小田原へ運送するようにとの北条氏照の書簡が残されています。

小野路城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に小山田重義によって築かれたと云われる。 小野路城は小山田城の支城といわれ、小山田城主小山田重有の子重義が在城した。
城は万松寺の西側にある丘陵に築かれている。 比較的なだらかな地形で、主郭部に神社が建てられ、北西側一辺に低土塁が残っている。

片倉城:丘陵上に二本の空掘があって二つの郭に分かれている。東の郭が城の主郭と思われ、「武蔵名勝図全」には「空濠深く、南の隅に当たりて堀切の外に高く築き上げたる独立の地あり、物見櫓など構えたるにや」と見える。
 西側の郭は「西の方に表口と見えて坂道の跡あり、平地へ入口のところは左右築地の間ニ、三間切れて見ゆれば、ここは城門口なるべし」とあって、おそらく大手口であったろうと考えられる。
 城の鬼門に住吉社があり、城主と目されている大江備中守師親が長門国住吉神社を勧請したものであると言われるが確証はない。

初沢城:初沢城がいつ誰によって築城されたのか、諸説あり正確にはわかっていない。鎌倉時代にいた幕府重臣、大江氏の流れをくむ長井氏の手によるものだとする説が一番有力である。

松竹城:
築城年代には諸説あり至徳元年(1384)に二宮城から移った大石遠江守信重が築いたというのが一般的である。現在の規模に拡張されたのは戦国時代で古案下道を確保し甲州武田氏を警戒するために拡張されたと考えられる。
 戦国時代末期に後北条氏が八王子城を築いた頃にその出城として再度取り立てられたとも考えられている。この城の別名である新城もそこから来ているのだろう。他の城と同じように天正18年(1590)に後北条氏が滅ぼされたことにより松竹城も役目を終えたのであろう


高月城:長禄二(1458)年に武蔵国守護代の大石顕重によって築かれたといわれる。道興准后が著した「回国雑記」の中に、文明十八(1486)年十一月、招かれて「大石信濃守といへる武士の館」を訪ねたとあるが、これが高月城であるといわれている。大永元(1521)年、大石定重は滝山城を築城し移転したため、高月城は廃城になったといわれる。

滝山城:滝山城は、武蔵国の守護代大石氏(定重・定久)と小田原北条氏の一族(氏照)の居城であり、規模の大きさ、縄張りの複雑さ、遺構の保存状態の良さなどからみて、戦国時代の城郭遺構としては日本有数の遺跡である。
 永正十八(1521)年に大石定重が築城し、高月城から移転したと伝えられており、その後永禄元年(1558)前後に定久の養子として入城した北条氏照によって大改修が行われたと考えられている。
 浸食の進んだ加住丘陵の一角に占地し、複雑な自然地形を巧みに利用した天然の要害であり、特に北側は多摩川との比高50~80mの断崖をなしていて、北から侵入する敵に対しては鉄壁の備えとなっている。城内は空堀と土塁によって区画された大小30ばかりの郭群が有機的に配置され、外敵の侵入に備えた心配りは実に美事である。
 大石氏時代には、現在本丸と呼ばれている主郭を中心として、二の丸と呼ばれている郭付近までであったと考えられており、小宮郭などその他の郭群は北条氏照時代に拡張されたものと言われている。
滝山城跡に残る見事な空堀  永禄十二年(1569)、甲斐の武田信玄が小田原攻略の途中で、二万の兵で本城を囲み、二の丸まで攻め寄せるほどの猛攻を加えたが、城主氏照を中心に城方もよくこれに耐えて守り抜き、落城をまぬがれたという。しかし、この戦闘の後、氏照は武田に備える戦略上の利点から八王子城を築き、天正十二~十五(1584~87)年ころに、その居を移した

16:30終了、中央高速首都高速経由して東京駅に向かう。

17:45東京駅到達。
18:20東京駅新幹線のぞみで出発
20:55新大阪駅到達。

今回の旅行、大都会、首都東京都に足を運び、比較的マイナーなお城11箇所を巡り楽しんできました。
携帯電話で場所を確認しながらの巡り、場所を見つけるのが一苦労ですが、なんとか所在を確認して巡ることが出来ました。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十六弾:中国広州観光  
2015年1月10日-12日
 

中国に足を運び、羊城とも呼ばれ、2200年以上の歴史を持つ文化都市として悠久たる歴史と現代の息吹が同時に感じられるところでまた嶺南文化の中心地、中国国内で三番目の経済規模を誇る都市として、近年著しい発展を遂げました広州を訪れました。

1月10日18:15関西国際空港キャセイパシフィック航空で出発。
21:45香港空港到達、メトロで尖沙阻駅到達、駅付近のホテルで宿泊。
11日6:00出発
メトロ尖東駅乗車、紅磡駅下車。
7:25紅磡駅香港広州直通電車で出発
9:24広州東駅到達、広州観光。

広州: 広州は東シナ海に面した華南最大の都市です。珠江デルタの北部に位置し、羊城とも呼ばれています。夏から秋にかけては時折台風に見舞われますが、気候は温暖で年中緑が絶えることなく過ごしやすいです。
 広州は2800年余りの歴史があり、すでに紀元前2世紀頃には海外貿易の拠点としての記録が残されています。唐代には海のシルクロードの起点として黄埔港が栄えました。こうした背景もあり、広東人は古くから海外で活躍するものが多く、華僑として知られています。
 珠江の分岐点に開かれた人工島、沙面は、今世紀前半まで外国人の移住区でした。今もなお多くの洋館が残っており、異国情緒を感じさせます。中国製品が全て揃う北京路から、高級ブランド品のショップが多い環市東路まで、広州ならではの買い物もできます。古くから「食は広州に在り」と言われるように、広東料理を食べるのも楽しみのひとつです。その他、主な見どころとしては西漢南越王墓博物館、陳氏書院、中山記念堂などがあげられます。
 広州は桂林をはじめ、海南島、雲南など中国南部の有名観光地を結ぶ拠点として、重要な役割も担っています。

メトロ3号線で広州タワー駅下車

広州タワー:広州塔は広州新テレビ塔とも呼ばれ、愛称は「くびれ」です。広州市の新中軸線と珠江スポットラインが交差しているところにそびえ立っています。広州塔は「海心沙」島や広州市21世紀CBD区という珠江新城と、珠江を挟んで相対しています。現在、中国で一番目、世界で三番目の観光タワーになっています。2010年10月1日、広州塔は正式に開放され、観光客を迎えられるようになりました。2010年第十六回アジア競技大会の開会式で、広州塔の色とりどりの夜景や美しい花火は世界中の注目を集めました。

APMで広州タワー駅乗車、歌劇陰下車

広東省博物館新館:広東省博物館は広州の新市街、珠江新城中心区南部の文化芸術広場にあり、広州タワーとは珠江を挟んで向かい合っており、西隣りは広州の新しいランドマーク、広州歌劇院(オペラハウス)です。同博物館はかつて越秀区文明路にあった施設を2003年に移転新築したものです。広東博物館は香港のデザイナーによる「珍宝容器」というデザインを採用しました。上部の巨大なスチールメイントラス梁を、鉄筋コンクリートで支える構造で、中に柱は一本もありません。展示エリアをはじめ館内はすべて広々として明るく、特に展示エリアの大型展示物をより効果的に見学することのできる構造です。建物の外観、内装ともに独創的で美しく、インターネットやオーディオ設備が整えられた、現代的な空間です。

メトロ5号線珠江新城駅乗車動物園駅下車

広州動物園:1955年開園の動物園。中国四大動物園のひとつ。動物園というより南国の公園といった感じ。他都市の動物園と異なり、動物たちものんびりしている。43haの敷地内に、430種約4000頭の動物たちが飼育されている。 なかでもパンダ(大熊猫)は人気者で、日本と異なりじっくりと間近で見られるが、なんと言っても暑い広州、パンダもぐったりとお昼寝をしていてお尻しか見えないことが多い。その他、東北虎、金絲猴(孫悟空のモデルとなったサル)など、中国ならではの珍しい動物にも会える。

メトロ5号線動物園駅乗車小北駅下車

越秀公園:越秀公園は、街のシンボルである有名な五羊石像のあるところです。1959年に造られ、五色の衣をまとった仙人が五頭の羊にまたがり街にやってきた言い伝えに基づいています。また、公園には明時代の古典建築物鎮海楼があり、塔内には博物館があります。

広州博物館:広州博物館は1929年2月11日に落成し、地方史の研究と陳列を主とする総合的な博物館で、広州に関する歴史と文物を保存し、展覧し、科学研究する専門的な施設です。当館は景色が美しい越秀山に位置し1380に建てられた明の時代の建築―鎮海楼を主体としています。博物館が落成した時、「広州市立博物館」と称され、華南地域で初めての公立博物館で、全国で最も早く創建された博物館の一つです。

中山記念館:中山記念堂は偉大な革命家-孫中山氏を記念するために広州の市民や海外の華僑の寄付で建てられました。記念堂は総統府の旧跡に位置しています。中山記念堂は最も広州を代表する建物の一つで、広州市で大型のイベントや演出が行われる場所です。

三元宮:越秀山の南麓、応元路に位置する。広州市に現存する道教の建築物の中で最も歴史があり、規模も最大である。東晋南海太守鮑静によって建てられ、当初は越崗院といったが、唐代に悟性寺となり、明代の修築後(一説には清の順治年代)に三元宮と改名された。

西漢南越王墓博物館:西漢南越王墓は広州市解放北路の象崗山にあり、今から2100年前に建てられた、西漢初期(日本では前漢と呼ばれています)の南越国君主であった文帝趙昧の墓です。1983年に発掘調査が始まり、中から15人の殉死者と、玉器、青銅器を中心とする1000件以上の埋葬品が発見され、10年をかけた遺跡の保存とともに博物館を建設しました。西漢南越王博物館は2000年以上の歴史を持つ古都広州のシンボル的な存在で、建築面積は1.4万平方メートル、総合展示館、王墓遺跡、本館の3つの部分から形成されています。

五羊仙庭:五羊石像 は紀元前300年頃
(中国-戦国時代)(日本-弥生時代)、羊に乗った5人の仙人が空から舞い降りて黄金の穂を広州の地にもたらした。その後仙人たちは天に戻ったが、彼らが乗って来た5頭の羊はそのままこの地にとどまり、五穀豊穣のシンボルとなった。この伝説がもとになり、広州は「五羊城」や「穂城」という別称を持つようになった。

蘭園:広州市解放北区、風光明媚な越秀公園の向かいにある公園。元は小さな見本園に過ぎなかったが、長年の丹念な栽培で現在の専門的園芸公園に発展した。蘭圃の全体面積はわずか3万9千㎡だが、園内には200種類以上の植物や一万本以上の蘭が栽培されている。

流花湖公園:流花路の南、東風西路の北に位置する公園で、総面積54万㎡、水域面積は33万㎡。大きな湖3つと小さな湖4つがあり、亜熱帯の景色が特徴的である。湖の東北に南漢の旧跡、流花橋があることからこの名がつけられた。公園内は4つの区域に分かれている。丈の長い草地が広がる北区には、ガジュマルの遊園地、宝象楽園、バドミントンコート、浮丘園、芙蓉洲などの施設がある。また面積3000㎡の鳥島にはたくさんの鷺が飛来し、バードウオッチングのための喫茶コーナーや観察台なども設けられている。東区にはシーサンパンナ様式の庭園や瀑布、浣渓女、ホトトギス園、南海漁村レストランなどがある。ガジュマルや葵が咲く中区には、新光花園レストランや健康ランドなどがある。広州少年宮に隣接する南区には、広大な落羽松林が広がり、蒲林喫茶店、桃源飯店などの飲食施設や、陰性植物園などがあり、静かな雰囲気である。公園の西端に盆栽園、東端には有名な流花鳥苑がある。この数年で蓮などの水生植物を広範囲に植えたため、素晴らしい眺めを楽しむことができる。

メトロ2号線越秀公園駅乗車公園前下車

六榕寺:六榕寺は、中国南北朝時代の梁時代の大同三年(537年)に建設され、もともと宝荘厳寺と呼ばれていたとされています。北宋時代に全焼した後、宋時代の端拱二年(989年)に再建し、淨慧寺に改名されました。六榕寺の名は、北宋の政治家で詩人、書家としても知られる蘇軾(蘇東坡)が広州に左遷され、この寺を訪れた際、境内の六本の榕樹の美しさを賞賛した蘇軾が道琮に請われ「六榕」の書を残しました。蘇軾の貴重な書を尊ぶため、これを横額にして寺の正門に掛けたことから、以後六榕寺と呼ばれるようになったと伝えられています。

光考寺:光孝寺は嶺南地域の一つ目の仏教寺院として当地域の仏教の発祥地でもあります。唐の儀鳳元年(676年)に高僧慧能がこの寺の菩提樹の下で受戒し、南宗を開いたことから、禅宗の第六祖と呼ばれています。慧能はこの光孝寺で「風幡についての論説」を発表したことで、有名になりました。そのほか、慧能がここで髪を剃り落として出家し、その後南宗を代表する人物になったので、光孝寺も名を知られることになりました。西歴749年に、5回目の日本への渡海に失敗して海南島に漂着した鑑真は広州にたどり着き、光孝寺で一春を過ごしたといわれています。

懐聖寺:別名灯台寺院として知られる懐聖寺は1300年も古く、当然、中国でも有数の古い寺とされています。寺院の名前はイスラム教祖モハメットに敬意を表して付けられています。

五仙観:恵福西路に明の洪武10年(1377年)に創建された、伝説上の5人の仙人を祀った廟で、広州市重点文物保護単位に認定されている。

聖心堂:広州石室聖心教会堂は広州市都心部の一徳路にあり、広州で最も立派で、最も特色のある天主堂です。1863年に建て始め、1888年に落成、25年間をかけて建築され、今まで130年あまりの歴史を持っています。教会堂の壁や柱は全部花崗岩で建てられたので、「石室」或いは「石室耶蘇聖心堂」、「石室天主教堂」とも呼ばれています。石室聖心教会堂(Shishi Sacred Heart Cathedral)はフランスのデザインナーによって設計され、中国の匠によって建てられた建築で、「極東のパリノートルダム」という美称が与えられました。教会堂の建築面積は2754平方mに達し、東西は35m、南北は78.69m、地面から頂上までの高さは58.5mです。聖心教会堂はゴシック式の教会堂のすべての要素を集めたとされ、初期ゴシック建築のカラーガラスのバラ窓、ヴォールトなどの要素もあり、盛期、後期ゴシック建築である一対の高くそびえる尖塔があります。東方に聳え立つ本場のヨーロッパ中期の天主堂です。

沙面:沙面島にはユーロッパ風の建物が150箇所以上残され、広州で最も異国風に満ちた建築群です。ここでは木がうっそうとしており、街燈、彫刻、東屋、花壇、木製の椅子、噴水池等はすべて西洋風でのものです。島の緑化はよく、空気もすがすがしく、まるで広州の桃源郷のようです。沙面の生活スタイルやリズムは広州のほかの所と違い、島には交通規制が実施されているため、交通渋滞、大気汚染など問題はありません。道の両側には喫茶店、レストラン、バーが多くあり、歩道街には上品なテーブルがいっぱい並んであり、多くの若者が結婚記念写真を撮るのに大人気です。

メトロ1号線黄沙駅乗車長寿路駅下車

西関大屋:西関、つまり荔湾区は、明清時代の広州市の西門周辺の総称である。西関内は、青い川のそばで、荔枝が並んでいるので、、「荔枝湾」の名誉を呼びれる。西関は、現在の荔湾区に位置し、北は西村、南は珠江と接し、東は人民路、西は小北江と臨んでいる。面積は約16.2平方キーロメートルであり、総人口は、約七万人である。明清時代から、ここは、広州市の貿易中心である。明末には十八甫、十三行があった場所である。西関の代表的なのは、特別の建築だけでなく、美食と衣服商売発達の上下街もとても有名である。

メトロ1号線長寿路駅乗車陳家祠駅下車

陳氏書院:陳氏書院は清代の光諸十四年(1888年)に建設が始まり、光諸二十年に完成しました。当時の広州72県に在住していた陳一族の人々による寄付で建立された、広東省の有名な族祠建築物です。清代末期の嶺南地方特有の建築様式で建てられており、当時の広東地方の民間工芸が良好な状態で多数保存されていることから、現在書院の一部は広東省の民間芸術博物館にもなっています。

メトロ1号線陳家祠駅乗車農講所駅下車

北京路以東:歩行者専用道のショッピングストリートとして整備され、広州一の繁華街。

メトロ1号線5号線経由して西村駅下車

17:30西村駅から歩いて10分のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
12日7:00ホテル出発、徒歩で西村駅到達。
メトロ5号線1号線を経由して体育中心駅到達、天河エリアを散策しながら広州駅東に向かう。

天河エリア:広州東駅と天河体育中心を中心とするエリア、20年前から開発が始まった、今では一大繁華街にふさわしくさまざまな店やビルが建ち並んでいる。

10:37広州駅東香港広州直通電車で出発
12:33香港紅磡駅到達、メトロで香港空港に向かう。
14:30香港空港到達。
16:35香港空港キャセイパシフィック航空で出発。
21:00関西国際空港到達。
今回の旅行、中国の広州に足を運び
2800年余りの歴史があり、すでに紀元前2世紀頃には海外貿易の拠点としての記録が残されているエリアをメトロと歩きで観光名所を巡り堪能しました。

広州駅付近は流花湖公園を中心としたオールドな広州のイメージでしたが広州東駅付近は20年前から開発が始まり高層ビルが建ち並び、広い公園が有り、ショッピングセンターは地下街となっており未来都市のような最先端の街として発展しつつ有り感動しました。

南に位置する沙面エリアは欧米列強が広州を支配していた頃の雰囲気を感じ今なお多くの洋館が当時のまま残っているのは感心いたしました。

尚今回トラブル続出、ホテルはインターネットで日本で事前に予約していました。比較的安価なホテルを選んだのが災いしたのか、ホテルの位置を見つけるのが一苦労でした。香港繁華街に位置するホテルが見当たらない、住所で探したが名前が見当たらない、人に聞くとこのビルの奥にあると言われ奥のエレベーターの案内板にやっとの思い出、予約したホテルを見つけました。このビルの17階がホテルでした。

香港から広州に向かう高速鉄道をインターネットで事前予約していましたが日を間違えて予約しているのに気が付き当日駅でキップを再度購入しました。

2日前の広州のホテルも見つからない、タクシーを呼んでも近いから断られる、お店の人に相談すると、お店の友人が自転車で送てくれました。やっとこの思い出ホテル到着したがホテルの宿泊が予約されていないとのこと、幸い部屋が空いていたので部屋代を支払い宿泊できた。

広州から香港まで高速鉄道のインターネットの予約キップは香港で受け取らなければならない、又も再度キップ購入、残り少ない席でした。

なかなかトラブル続きの中国広州観光旅行でした。