飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十四弾:マレーシア観光 2015年10月31日-11月3日 海上貿易の要衝として希有な発展を遂げて、大航海時代から太平洋戦争が終結するまで、世界の列強の侵攻にさらされて、独立後は、民族間問題、金融危機などを乗り越えて、躍進を続けているマレーシアに足を運び、マレーシアの首都、約165万5000人が暮らす大都会のひとつ、KLのシンボルタワー、KLタワーとペトロナス・ツイン・タワーや植民地時代の建造物、民族色あふれる町並みと、見所多いクアラルンプールを訪れました。 10月31日13:30関西空港シンガポール航空で出発 11月1日5:40シンガポール空港到着 7:10シンガポール空港シンガポール航空で出発 8:05クアラルンプール空港到達、高速鉄道でKLセントラル駅に向かう。 KLセントラル駅到着後タクシーでKLCC方面に向かう。 KLCC周辺散策:KLCC周辺には近代的なビルやホテルが立ち並び、KLセントラル駅付近とは逆にクアラルンプールが近代都市である事を物語っています。KL市内中心部に位置する開発地区・クアラルンプール・シティ・センター(Kuala Lumpur City Centre)の頭文字を取ってKLCCと呼ばれる一帯は、KLのシンボル・ペトロナスツインタワーを中心にショッピングセンターやホテルやビルが立ち並ぶ地区です KLタワー:世界で4番目に高いテレビ塔で、ツインタワーと並ぶKLのシンボルです。「パイ ナップルの丘」を意味する、ブキッ・ナナスに建つ地上421mのタワー。タワー自体、パイナップルをモチーフにして建てられています。展望台からは360度でKLの市街を見渡せます。木曜日から日曜日の午前11時半から午後4時までは伝統舞踊や音楽のパフォーマンス、また展望台では民族衣装を着ての写真撮影(有料)のサービスもあります。また回転レストラン「スリ・アンカサ」では、食事をしながらKLの市街を見渡す事が出来ます マレーシアツーリズムセンター:1935年に建てられたゴム園実業家の私邸跡を利用したコロニアル風の建物。 現在は旅行者の為の観光案内所として、ツアーやホテル予約、インターネットアクセスやツーリストポリスカウンター等を設置しています。また敷地内には民族舞踊ショーも楽しめるレストラン「サロマ・シアターレストラン」があります。 ペトロナス・ツイン・タワー:地上88階建て、452mの世界で一番高いツインタワー。KLのシンボル。イスラム教の「5柱」からインスピレーションを得た近代イスラム建築でもあります。41階に架けられたスカイブリッジと86階の展望デッキへの入場が可能です(定員制)。ツインタワーの周りには公園やショッピングセンター、水族館などがあります KLCC公園: KLCC水族館: 15:00チャイナタウン内のホテル到着、休養後 周辺を散策、食事を済ませて就寝。 2日8:30チャイナタウン周辺散策:Rapid KLパサール・セニ駅周辺には、チャイナタウンが広がっています。 いつ訪れても多くの買い物客で賑わっていますが、夕方からは歩行者天国になり露店やレストランのテーブルが道を埋め尽くします。特に露店では値切り交渉も可能で、値切り体験をしてみたい方にはお勧めです。 スリ・マハ・マリアマン寺院:チャイナタウンに隣接するヒンドゥー寺院で、KLで最も古く精巧な建物のひとつです。 22mの壮麗な門塔とポーチは複雑に彫られたヒンドゥー教の神々の像で飾られています。中にいは金と宝石で装飾されたヒンドゥー教の女神・マハ・マリアマンが祀られています。 関帝廟: マスジェット・ジャメ周辺散策:1909年、クラン川とゴンバック川の合流点に建設された市内最古のモスク。白いタマネギ型のドームと赤レンガの壁がヤシの木の緑に映え、王宮のような美しさ。 国立織物博物館: クアラルンプールシティギャラリー: クアラルンプール記念図書館: スルタン・アブドゥルサマドビル:1897年に建てられた旧連邦事務局ビル。完全なるレンガ造りの建物は、ムーア様式をとりいれており、当時イギリス領マラヤでの最高傑作と言われました。現在は文化省管轄の建物となっています。夜はライトアップされ、夜空に美しくその姿が浮かび上がります。ツインタワーと並ぶKLのランドマーク的存在です。 ビルの向かいには、ムルデカ広場があります。 ムスデカスクエア:1957年8月31日に独立が宣言された場所。世界一高い約100mの掲揚塔に国旗がはためき、広場周辺にはイギリス統治時代の歴史的建造物が多く見られます。 セントマリー聖堂: 市立劇場: マスジッドシャメ:クアラルンプールの名前の由来となったクラン川とゴンバック川の合流点にあるモスク。1909年に建設されたクアラルンプールで最古のモスク。ムーア様式を取り入れた建築物で、国立モスクが完成するまでKLで最も重要なモスクでした。 ヤシの木に覆われた外観はまるで王宮のような美しさです。 レイク・ガーデン周辺散策:KL市内中心部から車で10分ほどの場所にあるレイクガーデンは、2つの湖の周囲 を利用して作られた公園です。敷地内にはオーキッドガーデンや、バードパークなど幾つかの公園があります。 国家記念碑:レイクガーデンの北端エリアに建つ高さ約15mのブロンズ像。 190年代の共産主義ゲリラとの戦いで国を守るために戦死した勇敢な兵士たちに捧げる為に建てられました。像は硫黄島メモリアルで有名なフェリックス・デ・ウェルドンの作品です。 バタフライパーク:120種、6000匹以上の蝶が飼育されています。パーク内は蝶の種類の色の花によって蝶の自然の生態環境が再現されています。珍しい「アカエリトリバネアゲハ」も見る事が出来ます。 マスジェドヌガラ:独特な星型のドームと天にのびる光塔が印象的な現代イスラム建築。伝統的なイスラム芸術・飾り文字・装飾を現代的にアレンジした建物は見ごたえがあります。 マレーシアイスラム美術館:世界各地から取り寄せたコーランや陶器、ガラス製品、金属細工や織物、硬貨など貴重な品々が展示されています。世界各地の有名なイスラム建築のミニチュアを展示した建築ギャラリーは様々なイスラム建築を一度に見る事が出来ます。 国立博物館:レイクガーデンのはずれにある博物館。マレーシアの歴史・文化・慣習・手工芸品等に関する貴重な芸術品や資料が展示されています。建物はミナンカバウ風の屋根と正面の2つの壁画が印象的です。館内にはクリスと呼ばれる短剣、屋外には昔のマレー王宮の復元模型が展示されています。 プラネタリウムヌガラ: バードパーク:鳥が自由に飛び回る世界最大の鳥類飼育場です。20.9エーカーの施設の中では様々な種類の鳥が約3000羽飼育されています。 オーキッドガーデン:800種類以上の熱帯の珍しい蘭の花が咲き誇っています。隣接するハイビスカスガーデンでは500種類以上の「熱帯の女王」ハイビスカスがご覧いただけます。 ハイビスカスガーデン:500種類以上の「熱帯の女王」ハイビスカスがご覧いただけます。 王宮:2011年11月に完成したマレーシア国王の王宮。白いアーチが南国の空に映えるモダンなデザイン。内部の見学はできませんが、外観を見るだけでも一見の価値。 陳氏書院: ホテルに戻る。 ホテルで食事を済ませて就寝。 3日8:00ホテル出発 高速鉄道でクアラルンプール空港に向かう。 9:00クアラルンプル空港到達 12:00クアラルンプール空港シンガポール航空で出発 12:45シンガポール空港到達 14:05シンガポール空港シンガポール航空で出発 21:20関西国際空港到達。 今回の旅行、東南アジアの経済成長が著しいマレーシアに足を運び、首都大都会クアラルンプールを散策観光して楽しみました。 首都クアラルンプールはいたるところで建築工事が進められ、先進国の仲間入りを目指しての急速な発展はめまぐるしく感じさせられます。 土地に起伏が有り緑も多い、道路も広く整備されています、東京を小さくした町のようでした。しかし首都人口は約165万人で少なくはないが車の渋滞なくスムーズに流れており、人も多く感じされなかったです。 大きな観光名所はなく、主となる観光地はリゾートアイランドペナン、ランカウイ島、世界遺産の古都マラッカが有名です。又マレーシア人はおとなしく感じされられました。中国とちがって電車の中は静かで皆さんおとなしいです。 日本人の移住のナンバーワンの国がマーレシアで、治安がよく、物価が日本の3分の1、消費税、相続税、贈与税がなく、医療技術も高レベル、多民族の集まりで民族差別もなく、親日で、気候も一年中温暖で長期ビザ(10年、更新可)収得がたやすく、時差なく、直行便で6時間、日本人に人気があるのが伺えます。 住み心地の良い日本人に人気のあるマレーシア首都クアラルンプール3泊4日の観光旅行でした。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十三弾:坂東三十三箇所巡り第三弾観光 2015年10月24-25日 源平の戦い後、敵味方問わず供養や永久の平和への祈願が盛んになり、源頼朝の篤い観音信仰と、坂東(関東)の武者が西国で見聞した坂東三十三観音への想いが結びつき、鎌倉時代初期に坂東三十三観音が開設。やがて、秩父三十四観音を加えた日本百観音へと発展し、現在に至ります千葉、茨城、栃木エリアに位置する坂東三十三箇所の7箇所を巡りました。 24日13:37新大阪新幹線のぞみで出発 16:16東京駅到達、タクシーで虎ノ門ヒルズに向かう 17:00虎ノ門ヒルズの会場で講演会に出席。 21:30終了、タクシーでANAインターネントコンチネンタルホテルに向かう。 21:40インターネントコンチネンタルホテルに到着就寝。 25日7:45ホテルをタクシーで出発、八重洲に向かう。 8:00八重洲でレンタカーで出発、千葉、茨城、栃木方面に向かう。霊場巡り。 龍正院:成田市の北東にある下総町は古くは利根川の舟運で栄えた地。その滑河にあるのが龍正院である。現存の永正十三年(一五一六)鋳造の鰐口に「下総州行河山勝福寺」とあるので、そのようにいわれていた時もあったようだ。承和五年(八三八)滑河の城主小田宰相将治の発願により、慈覚大師が開基となっている。 のちに大師の高弟修円が伽藍を整えたが、特に将治の帰依入門により常行三昧堂を構え、自ら導師となって所領の男女を集め、昼夜にわたって行法を修せしめたという。まさに天台宗門の古刹であり、その供料に香取一郡四十八ヶ村が当てられたという。これはのちのことではあるが、江戸時代には天海大僧正が東叡山寛永寺の末寺となるよう「下知状」(現存)を下している。 まず大きな注連縄がかかる仁王門をくぐるが、この仁王尊は享保年間(一七一六~三六)門前に火災があった時、観音堂の屋根から大きな扇で火焔をあおぎかえし、本堂から下の集落は焼失をまぬがれたという伝説の主である。それより火伏の仁王尊としての信仰があつく、毎年正月八日に火災をまぬかれた下の集落の人々によって注連飾が奉納される。 中央一間を入口とし、両脇に疎連子を付し、仁王尊を安置した寄棟造りの構えは実にどっしりとしている。この八脚四柱の門は飛騨の大隅の意匠、永仁六年(一二九八)に再建された室町時代の貴重な遺構で、重要文化財の指定を受けている。柱は一見、円柱のようだが、実は十六角、それだけに素朴さがあふれている。 圓福寺:江戸日本橋小網町の俳人・古帳庵が、天保12年(1841)に読んだ句だが、この句碑は圓福寺本坊の庭に建っている。地図をひろげると、銚子は関東地方の最東端に位置し、北は利根川、東南は太平洋に面し、まさに国のとっぱずれである。 圓福寺はこの銚子市の中心地にあり、古来飯沼観音とも呼ばれ、信仰をおおいに集め、銚子の市街は観音の門前街として発展した。 映画館や料理店などの盛り場に囲まれた観音堂は恒に人々で賑わっている。 清龍寺:筑波山の南の裾、小高い丘の上にある清瀧寺へは石岡・北條を結ぶ道を二本松で右折し(現在ダンプ道路などと呼ばれる二車線の大型農道)「坂東街道」と呼ばれた参道を約三キロたどることになる。または国道一二五号線よりバープルラインを目標に北へ向い、二本松の信号を直進する。参道口には札所の石標があり、やがて正面に高い石段が見えてくる。そしてその上に天保年間(一八三〇~四四)に再建された仁王門が建っている。それをくぐり、やや上ると観音堂である。(常磐高速道土浦北インターより入ると約五キロ) この寺の草創は推古天皇十五年(六〇七)勅願により聖徳太子御作の聖観音像を龍ヶ峰に安置したことにあるという。また『坂東霊場記』には「南明山清瀧寺は、筑波権現降遊の砌り、行基大士草創の地なり、本尊聖観世音菩薩(御長丈八)は、同じく開山大士の彫造、今の堂地中興の事は、花山法皇の御叡慮なり」ともある。筑波の二柱の神が小野山に遊幸された折「頻りに渇の心地し」天の鉾をもって地を突かれたら清水が滝の如く、南北二ヵ所から湧き出たので、南の清明なる滝口に僧行基が寺を建てられたというのがその梗概である。のち「二百七十余歳を経て」花山法皇が「かかる瞼岨の山頂に在っては、老若の結線あまねく及ばず」とされ、龍ヶ峯から山の中腹に移された。その伝承は平安時代に徳一法師によって山の中腹(現在、古観音と呼ぶ)に移されたというもので、観音堂の所在を示す礎石が残されている。 大御堂: 明治の神仏分離令が出るまでは現在の筑波神社と知足院大御堂とは同体であった。だから現存の神橋や随神門は筑波山中禅寺を荘厳していたのである。境内の水盤の銘に宝暦八年護持院、文政二年の石灯篭に筑波山僧侶の名前が彫られていたりする。わずかに八七六メートルの標高だが、関東平野にひとり立つ秀峰筑波山は、男体・女体の二峰からなり、昔はそれぞれ千手観音・十一面観音を本地仏とする大権現として崇められていた。 寺伝によれば、この霊山は延暦元年(七八二)東国の化主と仰がれた徳一法師によって開かれ、弘仁年間(八一〇~二四)弘法大師によって真言密教の霊場となったという。そして「この山は天地開閉の古へより、天神地祀降霊の地なり・・・・大御堂千手大悲の像は両大権現の託宣に依って、弘法大師の彫刻なり」(坂東霊場記)とし、ここが神仏習合信仰の山であることを教えている。鎌倉時代には常陸の守護八田知家の子、為氏が筑波氏を称し、のち出家して明玄となり、この寺の別当をつとめ隆盛を示した。だが応永五年(一三九八)落雷で堂塔を失った。 楽法寺:「雨引かんのん」として知られ「安産」の祈願をこめる人が多い雨引山阿弥陀院楽法寺は、筑波連峰の端を占める雨引山の中腹に建つ。山裾まで来ると黒門があり、そこから石段の上り坂となる。この薬医門はもと真壁城のもので室町時代の貴重な遺構である。だが今はほとんどの人がこの旧参道を見下しながら自動車で仁王門近くの駐車場まで行ってしまう。享保年間(一七一六~三六)再建のこの仁王門をくぐると、左手に見事な曲線を描く大石垣がある。 慶長七年(一六〇二)徳川家康は、当寺に寺領百五十石を寄せ、寺格十万石を与えたがその寺格を象徴するかの如く実に立派なものである。文政年間(一八一八~三〇)幕府の下賜金を得て、当山住職元盛上人の代に築かれたものである。延長一〇〇メートル、高さ一三メートルある。さらに進むと「宿かり椎」があるが、これは応永三年(一三九六)の火災の折、ご本尊自らがこの木に難を避けられたとの伝説を語るもの。また開山法輪独守居士が龍に乗って昇天されたという「龍杉」、観音像のお袖からしたたり湧き出たと伝える霊泉など、「二木一水」の霊異がここでは説かれる。まことに深秘な霊場である。この仁王門に至るまでの表参道の景観は坂東札所の中でも「山寺」としての絶景であろう。できたら徒歩で登拝していただきたいものである。 石段を登りきると松山の稜線を背に観音堂が建っている。この内陣には木彫一木造り、像高一七〇センチ、弘仁期(八一〇)の作と伝え、関東造りとしてはきわめて注目すべきお像といわれる「延命観音」(旧国宝)さまがおわすのである。『縁起』によれば用明天皇(五八六)の時、中国より渡来した法輪独守居士によって開創され、推古天皇の御悩平癒を祈って効験あり「勅願寺」となった。まさに古刹である。 西明寺:西明寺の縁起によれば、天平九年(七三七)僧行基が十一面観音を刻み、安置したのが草創という。のちに天平宝字元年(七五七)に唐僧恵林が入山し、観音堂を建て寺門の充実につとめた。このような経緯をもつこの古刹は、東日本の焼き物の代表「益子焼」で有名な益子の町を見下ろす高館山の中腹にある。 延暦年間(七八二~八〇六)弘法大師がここの「幽寂たる禅境を愛して錫を大悲堂」(坂東霊場記)にかけられたという。「霊場記」には弘法大師の来山によって「貴賎渇仰して法水に浴す。時に法相宗の僧ら、挙げて大師の徳を妬み」岩屋におしこめるということがあった、と記されており、これを大師は所持の独鈷をもって避けられたといぅのである。それより獨鈷山と称した。そして一山十二ヶ坊、四十八の伽藍を構える基礎を築かれたのである。 しかし、たびたびの兵火によって焼失衰亡した。下って康平年間(一〇五八~六五)紀正隆が高舘山に居城を築き、益子氏を名乗り大いにこの寺を保護した。さらに宇都宮景房、続いて北条時頼が本堂を修営、益子寺を西明寺と改め、寺容を旧に復した。だが正平六年(一三五一)益子城の落城に際し、すべてが灰盡に帰した。境内の石段の下に立つと、ここが北限といわれる椎の巨木が参道をおおい、森厳さを加えている。 観世音寺:笠間稲荷と笠間焼で全国に知られている笠間市の本通りから笠間城址の方へ道をとると、「佐白観音堂」の石柱が目に入る。そして左折、朱塗りの門をくぐると、もうそこが境内。昭和五年、先代の天津忠道師が佐白山麓に正福寺を移し今日に及んでいる。現住の忠興師は東大寺の三月堂を摸した観音堂を建立すべく、現在、勧進しておられるので、近いうちに本建築の立派なお堂が完成し、明治初年以来の念願を果されることになろう。 『佐白山縁起』によれば白雉二年(六五一)狩人の粒浦氏が白馬・白鹿・白雉がその傍で護る霊木をもって千手観音像を仏工に刻ませ、安置したのにこの寺は始まる。山号は三白山。やがて孝徳天皇の勅願所となり、のちに「誠に尊徳日々に新たなれば、漸妨舎繁栄して既に一百余宇の僧坊有り、今の土民の家宅は古へ皆僧坊の跡と申し侍り」と『縁起』は往時の盛況を記している。実に鎌倉時代初頭までには関東における有数な霊場になっていたのである。 ところが近隣の徳蔵寺との寺領の争いがきっかけとなり、宇都宮頼網の命をうけた宇都宮氏が正福寺を襲って堂宇を破却し、そこに築城、笠間氏を名乗り徳佐二山の寺領まで占有してしまった。時に建保二年(一二一四)であった。 頼網は時朝の伯父にあたり、平安中期から戦国時代におけるこの辺の豪族である。しかも笠間氏の宗家にあたっているので、その命には従わざるを得なかったのであろう。時朝はその後、戦没僧侶の亡霊に悩まされ、悪業の恐ろしさに観音の宝前で懺悔、忠円阿閣梨を招いて観音堂を再建した。しかも幕府に無断で用兵、築城した咎により罰せられたが、観音さまの霊験によって助けられ、それより「佐く」の文字を使って、三白を佐白とあらため山号とした。そして六ヶ坊を建てた。 因みに時朝は鎌倉初期の歌人で『後選集』に名をつらねている。それもそのはず父の朝業は将軍実朝に仕え、その死去にあたって出家、「信生」を名のって、のちに「信生法師集」を残している有名な歌人である。 かくて笠間氏は約四百年の間、代々がこのご本尊に崇敬の誠を捧げ、七堂伽藍をそなえる霊場としていった。永禄八年(一五六五)笠間高広は三重塔の第一層を、その子の広直が第二層を寄進しているなどがそれである。 しかし、天正十八年(一五九〇)宗家である宇都宮氏により亡ぼされ、時朝より十八代で笠間氏は絶えた。以来この寺は衰亡に向かい、わずかに宥明上人がご本尊を一坊舎に移して衆庶の参詣にこたえる有様であった。 15:30常磐自動車道で東京に向かう。 18:15東京駅八重洲到達。 19:00東京駅新幹線のぞみで出発。 21:30新大阪到達。 今回の旅行、坂東三十三箇所巡り第三弾、千葉、茨城、栃木エリアの霊場7箇所を巡り楽しみました。 立派な歴史ある霊場が多く感動し癒されました。 次回は残り栃木、茨城の北部に位置する7箇所の霊場を巡り広範囲に点在する坂東三十三箇所巡り終了したいと思います。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十ニ弾:山形県東北三十六不動霊場&お城・城下町巡り観光 2015年10月17-18日 東北山形県に足を運び東北三十六不動霊場3箇所、南北朝時代の内乱の際、北朝方の欺波兼頼によって、一定の基盤が築かれ、兼頼の子孫は最上氏を名乗り、庄内地方の武藤氏、陸奥国伊達郡の伊達氏と争う。又江戸時代になって入った上杉氏ゆかりの城もあるお城・城下町6箇所をめぐりました。 17日16:15伊丹空港出発 17:30山形空港到達、レンタカーで新庄方面に向かう。 18:20新庄駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 18日7:30レンタカーで出発、鶴岡、酒田方面に向かう。 松山城:天明元年(1781年)酒井忠休によって築かれた。 慶安2年(1649年)中山支藩として陣所が置かれていたが三代忠休のとき築城が許可され松山城を築いた。 現在も大手門が現存し土塁と堀の一部が残る。 新田目城:築城年代は定かではない。 十一世紀後半に出羽留守所職に任ぜられた須藤氏が築いたのが始まりとされる。 平形舘:築城年代は定かではない。この辺りには出羽国府および国分寺が置かれていたと考えられてたが、発掘調査によっても奈良時代まで遡る遺物は発見されていない。 平形館は平賀館、金野館とも呼ばれ、天正18年(1590年)上杉景勝が太閤検地を実施したとき、これに抵抗して藤島城に立て籠もった平賀善可が館主と推測されている。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十一弾:中国蘇州観光 2015年10月10-12日 アジアの大国中国に足を運び、2500年前の春秋時代、呉の国の王が築いたことで始まる古都で、運河や水路を利用した水運により繁栄した蘇州を訪れました。 10日16:10関西国際空港出発 17:25上海空港到達、リニアモーターカー、メトロ、高速鉄道経由して 20:30蘇州駅到達、タクシーで蘇州市内の繁華街付近のホテル到着後繁華街散策し食事を済ませて就寝。 11日7:30徒歩で出発、ホテルを中心として反時計回りで観光地巡る。 蘇州:白壁と黒瓦の町並みを縦横に巡る水路、その上を静かに小舟が行き交う。水郷ならではの古跡や名刹、世界遺産に登録された江南式庭園 怡園:明代に造られた庭園を清代に再建したもの。面積は9畝と、蘇州の庭園のなかでは小さいほうだが、東西に分けて池や築山をそれぞれに配した設計がバランスよくまとまっている。比較的新しい庭園であるため、各年代の庭園や建造物の良い部分を凝縮したような造りが鑑賞のポイント。繁華街・観前街から徒歩圏内だが、それほどガイドブックなどで紹介されていないため、観光客が少なく静かに散策を楽しめるのが最大の魅力。 滄浪亭:唐代末期956年、呉越広陵王の銭元僚により造園された蘇州最古の庭園。後の宋代に詩人の蘇舜欽が別荘として改築し、滄浪亭と呼ばれるようになった。自然に寄り添うようなシンプルな造りを特徴とし、園前に流れる運河もまた蘇州らしい風情を醸し出している。池や川、樹木が茂っていることから「都市の中の山林」という言葉もあり落ち着いた雰囲気がある。 盤門:かつての城門8つのうち現存する唯一の物。創建は蘇州城が歴史に登場する紀元前514年だが、1351年に再建された。検問所と水位調整の役割を兼ねるなど水都らしい特徴も。城壁内にある瑞光塔と盤門、さらに運河に架かる呉門橋は「盤門三景」と呼ばれる蘇州でも有数の景勝地。瑞光塔が建つ城壁内は広い公園になっている。 網師園:十全街の路地奥に位置する古典園林。1174年に造られ、1765年に現在の名前と形になった。私邸に作られた庭園の傑作と言われ、世界文化遺産の一つに登録されている。面積は約5400平米。邸宅と庭園が一体になっているのが特徴で、蘇州の庭園としては小さめ。だが、見どころが多く変化に富んだ造形が人気を集めている。池の周りの回廊や白壁の建築物は、どこから眺めても絵になる美しさ。 双塔:ふたつ並んで建つ高さ30m、八角七層の舎利塔は、まったく同じ構造をもっている。それぞれ舎利塔、功徳舎利塔と呼ばれ、982年に建立された当時は羅漢院内にあったが、現在その建物はなくわずかに石柱などが残るのみ。塔の両側を囲む回廊にその一部が展示されている。これらの遺跡は双塔とともに重点文物保護単位に指定されている。一対の塔は、遠くからも確認できる。 平江路: 藕園:蘇州の地下鉄1号線「相門」駅から延びる通り・倉街エリアの古典園林。世界遺産の蘇州園林のなかの一つで、1876年に造られた。持ち主は清代の蔵書家・沈秉成。最愛の妻とともに過ごす私邸として造られたため、数ある蘇州の庭園のなかでももっともロマンチックなデザインといわれる。建築物や、屋内に飾られた書画など専門家の評価も高い。観光客が少なく静かに散策できるのも魅力。 獅子林:城内の園林路にあり「蘇州四大名園」のひとつ。太湖産の奇石、太湖石で埋め尽くされた摩訶不思議な造形美で知られる。回廊には宋代の名家の書を中心とした石刻60枚余りがはめ込まれている。創建されたのは元代1342年、天如という僧侶による。太湖石が林立する築山にはまるで迷路のように通路が巡らされており、ちょっぴり冒険気分で散策を楽しめる 拙政園:明代の16世紀初頭、高官を失脚した王献臣により造られた「蘇州四大名園」のうち最大の庭園。水をテーマとし、5ヘクタールの敷地のうち池や堀が約7割を占める。園内は東園、中園、西園の3つに分かれている。また拙政園の名は、庭が賄賂で造られたとの噂から「拙き者が政治を為す」という詩句から皮肉ったもの。中国の古典『紅楼夢』の舞台にもなっている。 忠王府:建物の創建は、三国時代にまでさかのぼる。1860年、太平天国軍による蘇州攻撃の際に、忠王李秀成がここに王府を定めた。建物は呉の郁林太守の邸宅だったもので、かつては隣にある拙政園とつながっていたという。太湖石や池をあしらった庭があるほか、西隣には2006年に新装オープンした蘇州博物館があり、忠王府と直結。青銅器や絹織物なども展示され、一般公開されている 蘇州博物館:2006年10月6日に蘇州博物館の新館がオープンした。新館設計は、蘇州出身の世界的に有名な建築大家貝律銘。ルーブル美術館のガラスのピラミッド、ボストン美術館東館、香港中国銀行ビル、日本では魅力ある美術館として名高いMIHO美術館など、世界で名だたる建築物の設計に携わったきた貝律銘85歳の、まさしく故郷に錦を飾る最後の大舞台となった。 北塔報恩寺:蘇州を見守るように建つ高さ76m、8角9層の巨大な塔は町のシンボルになっていて、遠目にも確認できる。三国時代に呉の名将・孫権が母親の恩に報いるために建てた報恩寺の境内にあり、その姿は威風堂々とした存在感に満ちる。内部の階段を9層まで登ると、人民路をはじめ蘇州の町を遠望することができる。 蘇州絲綢博物館:蘇州の特産品として知られるシルク産業の歴史と技術を紹介した博物館。皇帝に献上された絹織物や皇帝たちの衣装コレクションなど、その艶やかな収蔵品の数々には思わずため息が出る。ここでは伝統的な養蚕道具の展示のほか、実際にシルクロードの交易を支えた、蘇州シルクの機織りをしている人の作業風景も見学できる。 16:00ホテル到着。 17:00繁華街を散策し食事を済ませる。 観前街:蘇州市街地の中心にある歩行街をメインにした観光ストリート。高級ブランドを扱うモールから若者向けカジュアルファッションの店舗、ローカル雑貨店、ファストフード店などがならび、休日や祝日は大混雑する。商店街としては150年以上の歴史を持ち、一本入った平行して延びるストリート・太監弄には、「松鶴楼」「得月楼」など蘇州を代表する老舗蘇州料理店が並んでいる。食事やショッピングの拠点として利用したい場所。 玄妙観:西晋時代に創建された道教寺院。町の中心、観前街に面した山門をくぐると正面に見えるのが現存する「中国三大木造建築」のひとつ三清殿である。山門と三清殿のみ創建当初の姿を留めている。内部には宋代のレリーフとともに、太清、玉清、上清の三清が祭られ、香を焚き無心に祈る人々の姿が絶えることはない。玄妙観一帯は、蘇州有数の繁華街で、寺の周囲は自由市場となりにぎわっている。 20:00就寝。 12日8:00徒歩で西北方面に向かう。 環秀山荘:景徳路に位置する古典園林。世界遺産に登録されている蘇州古典園林の一つで、蘇州刺繍博物館の敷地内にある。元は五代時代の金谷園の旧跡で、その後お寺としても使われた敷地を清代に庭園として再建。現在のものは近代に修復されたもの。こじんまりとした庭園だが、ダイナミックな築山の造形は中国一とも言われている。観光客が少なく、静かに散策できるのも大きな魅力。 芸圃:明代(1522〜1566年)に造られた古典園林。世界遺産に登録されている。多くの文人が住み次いできた庭園で、白壁に囲まれたエントランス、ハスの咲く池など、規模は小さいながらも歩を進めるごとに変わる景観を楽しめる。園内の茶館は地元の常連客でいつもいっぱい。場所がわかりにくいため観光客が少なく、のんびり静かに散策することができる。周辺には庶民的な住宅街が密集しており、車が入れない場所に入り口が佇んでいる。 山糖街:別名七里山塘とも呼ばれている山塘街は、蘇州市の西部、運河沿いに延びる長さ4km足らずの通り。近年、旧市街寄りの一部が観光用に開発され始めた。明清時代の古い街並みを再現しており、水辺に連なる白壁の家々は風情豊か。老舗レストランや茶館で休憩でき、画廊、印材店なども点在するので、みやげ物探しにも最適。また、夜は水路に船が浮かび、建物の灯が幻想的に揺らめく。 留園:「蘇州四大名園」であるばかりか「中国四大名園」としても名高い、清代の建築造園様式を今に伝える傑作。創建は16世紀にさかのぼるが、清代18世紀に劉恕が改築後、劉園となり後に留園と改名された。園内は楼閣や回廊で4つの景区に分かれている。高さ6.5mの太湖石、廊壁を飾る透かし彫りの花窓が連なっているほか、名書家の墨跡『留園法帖』も見事。 西園:楓橋路に位置する古刹。元代に創建された歴史ある仏教寺院で、7万平米に及ぶ広大な境内に鐘楼や鼓楼、観音堂などが配置されている。一角にある羅漢堂は明代末期に作られたもの。さまざまな表情、ポーズ、持ち物が特徴のユニークな五百羅漢は必見。運河が流れる正門前の風景も美しい。 虎丘:越王との戦いに破れた呉王・闔閭が葬られた小高い丘。葬儀の3日後に墓に現れたという白い虎の伝説からこの名が付いた。現在の虎丘は泉や庭園をちりばめた市民の憩いの場。のんびり散策も楽しめる。丘の上にそびえ建つ961年建立の高さ47m、八角七層の雲巌寺塔は、地盤沈下により3.5度傾いた東洋の斜塔として名高い。 12:00タクシーで蘇州駅に向かう。 12:15蘇州駅到達。 13:00蘇州駅高速鉄道で出発、メトロ、リニアモーターカー経由して 15:30上海空港到達。 18:20上海空港出発 21:35関西国際空港到達。 今回の旅行、アジアの大国中国に足を運び、運河、庭園で有名な世界遺産の町蘇州を訪れ2日間、しっかり歩いて歴史的建造物を巡り楽しみました。 大阪の町の御堂筋に似た南北に縦走する大通りを中心として周囲は運河に囲まれ、大阪に似た風景を見受けられるが歴史的建造物世界遺産の庭園が数多く点在するのは京都に似た町にも受け止めれれます。水の都大阪と古都京都がミックスした蘇州の町並み散策満喫しました。 市内は車は殆ど中型から大型、軽自動車は見かけないがバイクと自転車は数多く見受けられ、北京や上海と違ってまだ田舎の風を物語っています。 古都、世界遺産庭園、運河の蘇州散策巡り観光でした。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十弾:伊予大島八十八箇所巡り第二弾 2015年10月3-4日 愛媛県しまなみ海道伊予大島に足を運び、伊予大島八十八ヶ所第二弾54箇所をめぐりました。 3日17:35新大阪新幹線のぞみで出発、福山でこだまに乗り換え 18:50新尾道駅到達、レンタカーで今治に向かう。 20:0今治市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 5日7:00レンタカーで出発、伊予大島方面に向かう。 伊予大島八十八ヶ所を巡る。 伊予大島八十八ヶ所:大島島四国88カ所は、島の医師毛利玄得・修験者金剛院玄空・庄屋池田重太の大変な努力により文化4年(1807年)に開創されました。毛利玄得は医者として、日夜医業にいそしんではいたが、一旦僧籍に身をおきながら、途中で仏道をふり捨てて医者に転業したことに対する良心の呵責を感じていた。いろいろと思いつめたあげく、四国88カ所になぞらえて、大島に88カ所の霊場を設けて、世の人々を救う願いをおこし、この考えを当時の庄屋の池田重太、修験者金剛院玄空にうち明けて相談した。すると両人もこの計画に大いに賛同し、互いに協力し合うことを誓い合った。 最勝堂: 地主庵: 善徳寺: 吉祥庵: 極楽寺: 竹林庵: 三角庵: 弥勒寺: 高龍寺:推古天皇4年聖徳太子が道後温泉の帰路、来島海峡で時化にあい千手観音の導きで難を逃れたことに感謝し、千手観音を奉るため伊予の国司に命じて高龍寺を建立したと伝えられています。 昔は亀老山中腹に大規模な伽藍を配していましたが、火災により全焼、能島村上水軍大将、村上武吉によって現在の場所に移されました。高龍寺は村上義弘公の菩提寺です。義弘公は大島を根城に制海権を握り、南朝の忠臣として活躍しました。 妙法寺:高龍寺奥の院。堂横に村上義弘公の墓がある。ここから36番に至るへんろ道は、へんろ市間は通行可能。 大変急な下り坂で道も険しく、足に不安のある人は自動車道に迂回したほうがよい。 布留坊: 双深庵: 示現庵: 前札: 仏浄庵:大島島四国の特徴は本四国に似せて創られていることである。この38番札所も本四国同様に西南端の岬にお堂があり「あしずりさん」と呼ばれている。38番仏浄庵は願望成就の仏さまとして島民の信仰を集めている。 宥信庵: 同番: 浄花庵: 海照庵: 證林庵: 蓮花庵: 大聖庵:山の中腹、135段の石段を上がると札所があり、その左手には巨石に掘られた不動明王がある。その横にも人がひとりやっと通れる石穴があり奥にも不動明王の石仏がある。不浄の人は石穴に入ることが出来ないという。 證明寺:約450年前、室町時代に能島水軍村上氏の菩提寺として栄えていたがその後廃寺となり、明治6年に取り壊した。今の札所は境内の片隅に堂を建て、證明寺の名を引き継いだもの。堂前から水軍本拠地の能島が見える。 潮音寺:札所近くに村上水軍資料館宮窪漁港近の民家に挟まれた通りの中にある。 宝珠庵: 常住庵: 千光寺: 三光庵: 蜜乗庵: 大慈庵: 利生庵: 善福寺:善福寺の本尊、薬師如来は永仁元年より奥地の薬師山に祀られていたが、江戸時代に当地に移された。脇仏の等身大地蔵菩薩(別名、貝殻地蔵)とともに海難よけ、交通安全の仏さまとして信仰されている。境内脇の宝篋印塔は、嘉暦元年(1326年)7月の刻銘があり、国指定の重要文化財である。 鶴林寺: 平等庵: 洗厳堂: 三門堂: 光明堂: 釈迦庵: 浄土庵: 五大院: 誕生庵: 不動堂: 西大寺: 千行堂: 福蔵寺:江戸4代将軍家綱のころ、キリシタン対策として檀家とお寺のつながりを強化したという。このとき付近のお寺をまとめてできたのが福蔵寺。現在の本堂は嘉永6年(1853年)上棟、本堂天井内には51面の花鳥図が見事に画かれている。 常楽庵: 光明庵: 西照庵: 永楽庵:嘉永3年、お堂を改築するにあたり屋根にさしかかった榎の大木が、ある夜不思議に起きあがり地上7尺のところにワラジの足跡がはっきりと残されていました。右足の跡は明治28年6月の台風で欠損しましたが、大師のご加護を永久に享受するため保存しています。 薬師堂: 照月庵: 万福寺: 随心庵: 灌潮庵: 16:30新尾道に向かう。 17:40新尾道駅到達。 18:40新尾道駅新幹線こだまで出発、福山でのぞみに乗り換え 20:10新大阪駅到達。 今回の旅行、愛媛県の伊予大島に足を運び、島四国である伊予大島八十八ヶ所第二弾54箇所をめぐり楽しみました。 狭い伊予大島にある八十八ヶ所、車での移動距離は短いですが、山頂、岬に位置する霊場が多く、結構歩かされました。木の茂った狭い道が多く、蜘蛛の巣もいたるところに張っており、体が蜘蛛の巣だらけになり、掃除するのが大変でした。 まだ17箇所残っていますので第三弾として次回は残り17霊場と、伊予大島に位置する城跡をめぐりたいと思います。 |