飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十八弾:四国別格二十霊場&四国三十六不動霊場&お城・城下町巡り観光
2015年11月29ー30日 

四国の高知県に足を運び四国別格二十霊場、四国三十六不動霊場4箇所、鎌倉時代に地頭を任じられた長宗我部氏が、戦国の世になって一条氏、香宗我部氏、本山氏、津野氏などと競いあい、長宗我部元親の代に土佐を統一し、四国制覇の偉業に乗り出す高知のお城・城下町7箇所を巡りました。

29日15:35伊丹空港出発
16:20高知空港到達、レンタカーで市内に向かう。
17:30高知駅前のホテル到着後繁華街を散策し、食事を済ませて就寝。

30日7:30レンタカーで出発

極楽寺:弘法大師霊跡に先住僧師が民衆の幸福、とりわけ航海安全、病気平癒、家内安全などの祈願のため水行の後、一願不動尊として安置したのが由来である。

安芸城:延慶2年(1309年)安芸親氏によって築かれたと云われる。 安芸氏は蘇我赤兄の子孫といわれ、行経のとき安芸氏を名乗った。
戦国時代に入ると土佐七人守護の一人に数えられた。永禄6年(1563年)長宗我部氏が本山氏を攻めに出陣した隙を突いて、一条氏の援助を受けて長宗我部氏の居城岡豊城を攻めたが失敗した。 その後一旦和睦となったものの、永禄12年(1569年)長宗我部氏に岡豊城に招待された国虎はこれを謀略と考え拒否、長宗我部氏に攻められ落城し滅ぼされた。 安芸氏を滅ぼした元親は香宗我部親泰を城主として、後の阿波国への侵攻の拠点となった。

慶長6年(1601年)関ヶ原合戦で長宗我部盛親に代わり山内一豊が土佐に入国すると重臣五島為重を配した。

香宗我部城:築城年代は定かではないが中原秋家によって築かれたと云われる。 秋家は楠目城山田氏の祖となった人物で、香宗我部氏の祖である一条忠頼の子中原秋通の後見人であった。
大永6年(1526年)香宗我部親秀が安芸氏との戦いで敗れ、嫡子秀義が戦死すると弟秀通を養子として家を継がせたが、長宗我部氏が台頭すると長宗我部国親の三男親泰を養子として迎えようと画策する。既に秀通には嫡子がおり、これを拒否したが親秀は秀通を殺して親泰を養子に迎えた。
長宗我部氏が安芸氏を滅ぼすと親泰は安芸城主となり、後に阿波国方面の軍代として活躍する。
豊臣秀吉による朝鮮の役では嫡男親氏が出陣したが戦死し、代わって親泰が出征したものの長門国で病死する。このため親氏の子親和が幼少の身で家督を継いだ。 慶長6年(1601年)長宗我部氏が改易となると親和は肥前国唐津の寺沢氏に仕官した。

山田城:築城年代は定かではない。鎌倉時代に中原秋家による築城とも云われるが、現在残る遺構は戦国時代のものと思われる。
山田氏は中原秋家の後裔で鎌倉時代に香美郡宗我郷・深淵郷の地頭として入部したと云われる。山田氏は後に土佐の七守護の一人に数えられる程の勢力を持った。しかし、天文年間(1532年~1555年)の当主山田元義(基道とも)は猿楽を好んで武道を好まず、政治を疎かにしていた。重臣である烏ヶ森城主西内常陸・雪ヶ峰城主山田監物はこれを諌めたが、元義はかえってこれを遠ざけてしまった。
岡豊城主長宗我部国親の家臣吉田重俊は謀略を持ってまず西内常陸を討ち、大軍をもって山田城に攻め寄せた。山田監物が江村小備後によって討ち取られると、山田元義は韮生へ逃れ山田氏は滅亡した。

極楽寺:本尊不動明王は、開山喜道和尚感得した霊像にして、身代わり不動尊として信者の崇拝を受けている。境内には、西日本一の霊峰山石鎚山の行場第二の鎖を模した行場を形成。また行の滝もある。

大津城:築城年代は定かではないが天竺氏によって築かれたと云われる。 天竺氏の出自は詳らかではないが、守護職細川氏の一族と考えられている。天竺氏の後は津野氏の城となり、天文15年(1546年)津野基高が一条氏に降って一条氏の家臣が在城した。天文16年(1547年)頃に長宗我部国親が大津城を攻め取り、以降は長宗我部氏の持ち城となった。天正2年(1574年)一条兼定が豊後へ追放されると、長宗我部元親は一条内政を大津城へ迎え大津御所と呼ばれた。


岡豊城:岡豊城跡は、四国を平定した長宗我部氏の居城として知られる中世の城跡です。長宗我部氏は鎌倉時代に地頭として土佐へ入国したと伝えられており、それ以後、長岡郡を中心に勢力を広げ、戦国大名へと成長していきました。
 岡豊城の築城は発掘調査の結果、13~14世紀ころと考えられています。「土佐物語」によると16世紀の初頭に一度落城したと伝えられており、その後、国親により1516(永正十三)年に再興され、1588(天正十六)年に元親が大高坂城(現在の高知城)へ移転するまでの、約70年間にわたり居城として使われていたといわれています。
 岡豊山は、香長平野に突き出した丘陵であり、標高97mの頂上部(詰)に立てば、眼下に香長平野をおさめ、遠く太平洋も望むことができます。南には国分川が流れ、自然の要害の地でありました。
 城跡は、詰を中心とする本城といわれる部分と西の伝厩跡曲輪、南斜面の伝家老屋敷曲輪の二つの出城からなる連郭式の構造となっています。本城は、詰と掘切によりへだてられた二の段、詰の南から西にかけて周囲を取り巻く三の段、四の段からなり、虎口(城の中心となる出入口)は西部に造られています。
 発掘調査の結果、詰・詰下段・三の段では礎石建物跡や土塁の内側に石積みが発見されています。また、多量の土師質土器とともに青磁、白磁、染付と呼ばれる輸入陶磁器、瀬戸、備前、常滑などの国産陶器、渡来銭、小刀、また武器として火縄銃の部品(火鋏)や弾丸などの遺物が出土しています。
 岡豊城の整備にあたっては、発掘調査の成果をもとに詰、詰下段、二の段、三の段の土塁や礎石建物跡などを復元しています。

本山城:築城年代は定かではないが本山氏によって築かれたと云われる。 本山氏の出自は詳らかではなく、清和源氏吉良流の八木氏、平氏、但馬国造八木氏など諸説あり定かではない。
戦国時代土佐七雄の一人に数えられた本山氏は、天文年間(1532年~1555年)本山茂宗の頃には高知平野へ進出し、朝倉城を拠点として一大勢力を築くまでに至った。しかし、茂宗の子本山茂辰の代になると一条氏の庇護を受けて岡豊城主に復帰した長宗我部国親との争いが本格化し、永禄6年(1563年)には高知平野の拠点である朝倉城を破棄して本山へ退くまでに圧迫された。その後も長宗我部元親によって攻め込まれ、本山城も破棄して瓜生野に逃れたが最後は長宗我部氏の軍門に降った。

宗安禅寺:当不動尊は鏡川上流領家郷から洪水で流され、現在地の大藤に掛り、安置された伝承から川上不動の名がある。弘法大師の木像で、彩色持国天、増長天の二天像とともに、国の重要文化財に指定されている。

泰泉寺城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に吉松播磨守光義によって築かれたと云われる。 吉松氏は源義賢の子淡路冠者義久らが平教経と戦って戦死した功により、義久の子松若が源頼朝によって秦泉寺の領主となり、播磨守光義と名乗ったことにはじまるという。
その後、吉松氏は高知平野に進出した本山城主本山氏に属していたが、弘治2年(1556年)に長宗我部国親、永禄3年(1560年)には長宗我部元親の攻撃を受けて城主吉松掃部頭茂景は降伏した。
茂景は万々城へ移され、替わって中島大和が城主となり、秦泉寺大和と称した。「土佐軍記」によればこの秦泉寺大和は天正16年(1588年)に農民の私闘のことから元親の怒りに触れ、秦泉寺大和・掃部父子はともに滅ぼされたという。一方「古城伝承記」には秦泉寺城は天正16年には「荒城」と記されている。

大善寺:弘法大師四国八十八カ所御開創の砌、須崎の入海はきわめて広く、今の大師堂の地点は海に突き出た岬とっていた。当時は山越しに行くのを常としたが干潮の時はこの二つ石岬の端を廻って行くことができた。ところが同地は波浪いつも岩をかみ「土佐の親しらず」といわれ、波にさらわれて海の藻屑となるものも多く海難が多発し、そのうえ同地点は伊予石鎚山の末端に当たるので身に不浄あるものは時々怪異に出会うといっておそれられていた。
大師は、そのことを聞いて海岸にたつ大岩の上で海難横死者の菩提のため、海上・陸上の往来安全を祈願して祈祷を行い、一寺を建立したのが今の大師堂の起源である。それ以来難儀も軽減したので、誰言うともなく「二つ石のお大師さん」と呼ばれるようになったという。
二つの大岩は長年波荒く打ち寄せる波の力で磯になり丘になり、遂に昭和の初め防潮堤ができ、今はその姿を留めていない。寺伝によれば宝永四年(1707年)の大変までは古市町にあり八幡山明星院大善寺といい、法印職の住する中本寺格として八幡神社の別当職として末寺十七カ所寺を擁していたが(寺地境内は六反十二畝三歩・寺は三間に二十四間だったという記録がある)津波で流失し古城山のふもとに移ったものらしい。
後に明治の廃仏毀釈により廃寺となり、明治二十九年(1896年)大師の霊跡を惜しむ里人の手で再興され現在地に移転し寺の再建を計って今日に至っている。
尚、本堂前境内よりのながめは太平洋を眼下に一望でき「二つ石の上でお大師様」が今もみなさま方の幸せをとこしえに御祈願されております。

16:00高知空港に向かう。

17:00高知空港到達。
19:10高知空港出発
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行、四国の高知県に足を運び、点在する霊場4箇所、お城7箇所を巡り楽しみました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十七弾:台湾高雄観光
2015年11月21ー23日 

中国大陸福建省の東側に浮かぶ、日本の九州よりやや小さい本島と周辺の島々から構成される台湾に足を運び、台北に次ぐ台湾第二の大都市で南部台湾の中心地で経済と貿易の都市で、高雄港は巨大コンテナ船が行き交う平野が広がっている平らな町、高雄を訪れました。

21日16:30関西国際空港マカオ航空で出発
19:45マカオ空港到達
21:55マカオ空港マカオ航空で出発
23:20高雄空港到達、タクシーで市内に向かう。
23:50市内のホテル到達、就寝。

22日7:30ホテルを歩いて出発

三鳳宮:

高雄願景館:

鄧麗君(テレサ・テン)紀念文物館:

客家文物館:

高雄市立美術館:高雄市立美術館は台北美術館、台中国立美術館についで台湾第3の公立の美術館です。現在、高雄美術館の本館と一部の彫塑公園は市民に開放されています。かつては台湾文化界の注目も集めていたほどです。1994年6月に開館し、台湾本土の歴史や地域住民の意見を踏まえながら建てられたこの美術館は環境にもうまく溶け込んでいます。この建物の外観は水平方向に細長く、前には長い廊下で囲まれた屋外劇場があります。大型の彫塑作品も展示されており、市民の憩いの場となっています。ここの三大作品は台湾彫塑の父と言われた黄土水の最後の作品「水牛群像」、フランス彫塑家ボーデル(Bourdelle.1861~1929)の「蒙托邦(モントバーン)紀念碑」(Montauban)の一つ大戦士、丸い石で彫られた仏の立像です。


鳳山県旧城:

左営蓮池潭:高雄市の郊外にある有名な観光地で、孔子廟や啓明堂、龍虎塔、中国の宮殿を彷彿させる「春秋閣」があります。夕方は、夕陽が湖面に映り、この区で最も美しいひとときです。近隣には第一級古跡に指定されている鳳山区の城壁や城門があります。

瑞豊夜市:

新堀江:
城市光廊から五福路を隔てた向かいには、「新堀江街」があります。若者たち向けのファッショングッズの店舗や屋台が密集し、雰囲気はまさに「夜市」の賑わいです。ブランド品から高校生にも使える小物類までなんでもそろいます。堀江という名は、高雄の人たちには懐かしいです。日本時代から開けた舶来品街というからアメ横のような存在だったのでしょう。いまは新堀江街として新しい歴史を刻んでいます。

東帝士85ビル:高雄85大楼は台湾南部で一番の高さを誇るビルで、高雄市のシンボルと言えましょう。高さ378メートルで、世界で2番目に高速のエレベーターが設置されています。分速600メートルの超高速で、75階の展望台まで43秒で上ります。高度120メートルに達したとき、照明が落ちていき、満天の星を望め、輝く星空に突入するような体験が味わえます。75階にある「85観景台」に着くと、高雄のオーシャンビューとシティビューの両方が一望できます。「85観景台」まで上れば、目の前に美しい港の都、高雄が広がっています。

愛河:高雄市とともにいくつもの歳月を過ごしてきた愛河は、清代には「打狗川」(犬たたき川)と呼ばれていました。しかし、日本統治時代には名称があまりにも無粋なため嫌われ、「高雄河」と改称され、高雄運河とも呼ばれました。台湾が主権を回復してからは、河原の両側に河川敷公園が整備され柱も立てられました。ケーブルで囲まれた沿岸は緑あふれる美しい公園へと生まれ変わり、そこは愛を語り合う恋人たちのデートスポットになりました。これが愛河という名たついた由来です。のちに、蒋介石前総統が夫人の誕生日祝いにと、仁愛河に改名しましたが、愛河の名はいまもなお人々の間で愛され続けています。

高雄市立歴史博物館:高雄市塩埕区にある高雄歴史博物館は、有名な高雄愛河の近くに佇んでいます。旧高雄市政府によって再建され民国87年(1998年)10月25日に正式にオープンしました。建築物そのものは1938年に建てたれ、今日にいたるまで60年以上の歴史を誇ります。日本統治時代末期に建設され、当時は高雄市市役所として使用されまた台湾光復後は高雄市政府所在地となり、そして現在では国内において初めて地方政府よって建設された博物館となっています。この博物館は現在、高雄市が21世紀の海洋都市として発展に努める象徴となっています。館内は先住民が苦労を重ね山林を開拓した過程を主に記録展示し、展示されている貴重な文物と各方面における研究とプロモーション活動を通じて、多くの人々に高雄市の發展の軌跡に触れてもらうことを期待しています。過去への追想から未来への更なる発展をめざして高雄市立歴史博物館は大変重大な責務を背負っているといえましょう。

駁ニ芸術区:

打狗鉄道故事館:

衛武営都会公園:

六合国際観光夜市:現在の高雄市新興区大港埔近くの空き地に屋台がぽつぽつと出たのがこの夜市の始まりです。その後、屋台はどんどん増え続け、あっという間に「小吃」(B級グルメ)で名を馳せる「大港埔夜市」を形成していました。そして、規模はどんどん拡大し、いまの六合夜市になりました。この夜市は高雄駅から目と鼻の先のところにあります。中山路沿いにほど10分歩き、右に曲がると六合夜市に突き当たります。昼間はなんの変哲もない大通りですが、日が傾く頃ともなれば、行き交う人々でごった返すにぎやかな集落へと変貌します。軒を連ねるおよそ138の屋台のほとんどは「小吃」、娯楽ゲームなどです。洋服や雑貨などを売る屋台もぼつぼつだが出ています。

17:30ホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

23日8:00ホテル出発

打狗英国領事館邸:西子湾風景区にある「打狗英国領事館」は1865年、英国人によって建てられ、台湾に現存する洋館の中で最も古いです。同時期、台南の安平領事館や淡水紅毛城の領事館も建てられており、3カ所とも近代台湾の洋館建築を代表する観光スポットになっています。

西子湾:西子湾は高雄市の西側、壽山西南の麓に位置し、旗津半島も望めます。また夕陽見物の名所でもあり、天然の礁石もよく知られています。西子湾では早朝と夕方、それぞれすばらしい光景が見られます。特にここの夕陽は高雄八景の一つとなっています。そして西子湾と言えば長い防波堤です。この上に腰掛け、海に浮かぶ大小それぞれの船を見ながら、やさしい海風に吹かれていると、時間の経つのも忘れてしまうほどです。

旗津半島:旗津は細長く延びる島で、かつては「旗後」と呼ばれていました。市内からはフェリーが就航し、また海底トンネルも開通しています。旗津は小さいながらも見所沢山の島です。廟前路にそびえる天后宮は300年の歴史を誇ります。廟前を唐装をした車夫が引く人力車が行き交う様子も見所のひとつとなっています。また昔ながらの通りには海鮮料理店が立ち並び、美味な海の幸を廉価で存分に味わうことができます

11:30高雄空港に向かう。

12:30高雄空港到達
15:55高雄空港チャイナエアラインで出発
19:35関西国際空港到達。

今回の旅行、台湾の第二の都市、高雄に足を運び、歩きとメトロで高雄市内の観光名所をほぼ巡りました。
市内は人も車も程々で、自転車は少なく、バイクの多さにびっくりしました。

大きな観光名所は少ないですが、点在する寺院、歴史的建造物を巡り楽しめました。

378mの高層ビル東帝士85ビルの展望台からの360度の眺望は圧巻で高雄市内の町を見渡せ把握することが出きました。

大阪から3時間ほどのフライトでたどり着ける台湾、気軽に訪れることができます。これからも頻繁に訪れて台湾をくまなく把握し制覇したいと思います。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十六弾:坂東三十三箇所巡り第4弾観光
2015年11月14ー15日 

坂東三十三箇所巡り第4弾、栃木県・群馬県・茨城県に足を運び、点在する坂東三十三箇所の7箇所を訪りました。

14日13:30新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:13東京駅到達
16:36東京駅新幹線やまびこで出発
17:26宇都宮駅到達、駅付近のホテル到着後駅前を散策し食事を済ませて就寝。
15日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

大谷寺:本堂の脇にはやはり磨崖仏の釈迦三尊、薬師三尊、阿弥陀三尊像があります。平安時代から鎌倉時代にかけて刻まれたものです。これらの石仏は国の特別史跡、重要文化財に指定されています。
 1962年から3年かけて実施された防災工事の際に本堂の下から縄文時代の遺跡が発掘され、約11,000年前の人骨がほぼ完全な形で出土し、境内の宝物館に展示されています。縄文人骨としては最古のものだそうです。
 また、すぐそばに大谷観音御前立ちの平和観音があります。

中禅寺: 奈良時代の784年に勝道上人が中禅寺湖畔に開いた古刹です。勝道上人は出流山満願寺を開いた後、前人未踏の男体山の頂を極め、山上に二荒山神社をまつり、その麓に生えたカツラの木に観音像を刻みました。そのため立木観音と呼ばれているわけです。二荒山(ふたらさん)は男体山の異称で、観音浄土の補陀洛(ふだらく)から出ており、日光の地名も二荒の音読みに由来するそうです。
 創建以来、中禅寺は現在の二荒山神社中宮祠(男体山登拝口)の場所にありましたが、明治35(1902)年、山津波に襲われ、その後、現在の歌ヶ浜に移転したということです。
 朱塗りの仁王門をくぐると、左手に霊泉(延命水)が湧き、右手には鐘楼。さらに愛染明王を奉安した愛染堂。正面奥には大黒天堂があります。そして、その左側に山を背にして観音堂が建っています。堂内には本尊の立木観音。高さは6メートル余り、地面に生えたままの木から像を彫り出した際、頭部より上で切り倒した木材で左右の手を造ったという寄木造りです。この本尊を守る四天王は鎌倉時代の作で、源頼朝が寄進したものだそうです。
 観音堂の背後に建つのが五大堂で、主尊・不動明王を中心に降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王が並んでいます。堂内外陣の天井には雲竜図、内陣の天井には日光の四季の花が描かれています。そして、拝観順路に従ってお堂の外に出ると中禅寺湖や男体山の絶景が広がります。

水澤寺:推古天皇の勅願により、高麗から渡来した恵観僧正が開いたという古刹・水澤観音はいかにも山岳霊場といった雰囲気です。至るところに水が湧き、水音が絶えないお寺で、仁王門の脇の水屋に水を汲みに来ている人の姿も見かけました。「水沢うどん」が江戸時代からの名物になっており、門前には手打ちうどんのお店が並んでいます。そういう場所なので、参拝客も多いようです。
 朱塗りの仁王門には仁王像のほかに風神・雷神像が安置され、石段を登ると正面が元禄年間に再建された観音堂。千手観音像が安置されています。その隣には六道輪廻の相を表現した六角形のお堂があり、六地蔵が安置されています。いずれも朱塗りの建築で、鬱蒼とした山を背にして赤い色がよく映えていました。

長谷寺:寺伝によれば、聖武天皇の時代に開かれ、源義家や頼朝、新田義貞といった武将たちの尊崇を集め、、現在の住職の先祖は楠木正成の家臣だったといいます。戦国時代の1563年に武田信玄の兵火によって本堂が焼失し、現在の本堂は1580年に信玄の子・武田勝頼が再建させたものだそうです。
 今も鮮やかな彩色が施された本堂は内部も200円で拝観できます。藤原期の作という本尊の十一面観音(県重文)は秘仏(12年ごとに開帳)ですが、お前立ちの観音様(鎌倉期の作、県重文)も素晴らしいものです。両脇の不動明王と多聞天(毘沙門天)共々県内最古の仏像ということです。堂内にはまた修験の寺らしく、役行者像もあります。

満願寺:満願寺の創建は奈良時代の767年に遡り、開山は勝道上人。その後、平安初期の820年に弘法大師・空海が訪れ、本尊の千手観音像を刻んだと伝えられ、真言宗智山派の別格本山として尊崇を集めてきました。とりわけ下野国(栃木県)出身の足利氏の時代には大いに栄えたということです。しかし、足利義満が寄進したという本堂は1741年に焼失。現在の本堂は1764年に再建されたもので、これも風格があり、彫刻もみごとです。

佐竹寺:常陸太田は古くは常陸国を400年にわたって支配した佐竹氏の城下町であり、関ヶ原の戦いで佐竹氏が徳川方につかなかったため秋田に国替えとなってからは水戸徳川家が領主となり、とりわけ水戸黄門・徳川光圀の隠居地・西山荘の所在地として有名です。
 その太田にあるのが佐竹寺。常陸太田駅から西へ徒歩30分ほどのところにあります。その名の通り、佐竹氏ゆかりの古刹で、985年、花山法皇の命により元密上人が創建し、のちに兵火で焼失して、1546年に佐竹氏によって現在の位置に移されたといいます。通りに面した瓦屋根の仁王門(昭和15年の建築。仁王像は江戸期)をくぐると、右手に納経所、正面が本堂(観音堂)です。この本堂は1546年に佐竹義昭が再建したもので、茅葺の屋根の下にこけら葺きの裳階がある見事な建築です。本尊の十一面観音は聖徳太子作と伝えられているそうです。

日輪寺:日輪寺は寺伝によれば、天武天皇の時代(673年)に役行者が開き、のちに弘法大師が十一面観音を刻んで本尊として再興、さらに慈覚大師が来山して天台宗に改められたといいます。その後、源頼朝が寺領を寄進するなど、寺は大いに栄えたそうですが、度重なる火災に遭い、現在の本堂は昭和48年に再建された鉄筋コンクリート造りです。本堂に自由に上がって間近で観音様を拝むことができ、納経所も堂内にあります

16:00宇都宮駅に向かう。
17:30宇都宮駅到達。
17:58宇都宮駅新幹線やまびこで出発
18:48東京駅到達。
19:00東京駅新幹線のぞみで出発
21:33新大阪駅到達。

今回の旅行、坂東三十三箇所巡り第4弾、栃木県・群馬県・茨城県に点在する霊場7箇所を巡り楽しみました。
さすが坂東三十三箇所霊場、立派な歴史ある霊場が殆どで満足できました。

天候は小雨でしたが紅葉の季節、特に奥日光のドライブは周囲紅葉で鮮やか、目を楽しませ爽快な気分で走行できました。

4回にわたって関東の広域に点在する坂東三十三箇所を巡り制覇しました。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十五弾:奥出雲おろち号トロッコ観光
2015年11月7ー8日

中国地方の島根県に足を運び、ヤマタノオロチ神話ゆかりの斐伊川に沿って中国山地に向かうJR木次線。その沿線の大自然の中を駆け抜けるトロッコ列車は、窓の部分が大きく取り払われて開放感がいっぱい。新緑から紅葉の季節まで、中国山地の雄大な景色を満喫できる奥出雲おろち号を乗車しました。

7日15:30伊丹空港出発
16:25出雲空港到達、シャトルバスで出雲駅に向かう。
17:20出雲駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
8日8:45出雲駅奥出雲おろち号で出発
12:24備後落合駅到達
14:34備後落合駅出発
15:58新見駅到達
16:36新見駅特急やくもで出発
17:38岡山駅到達
17:49岡山駅新幹線のぞみで出発
18:42新大阪駅到達。

今回の旅行、島根県の出雲に足を運び、奥出雲のエリアを走行する奥出雲おろち号に乗車し車窓から中国山地に向かうJR木次線、その沿線の大自然の中を紅葉シーズンの風景を望みながらトロッコ電車を楽しみました。