飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十一弾:ポルトガル&スペイン&トルコ観光
2015年12月26日ー2016年1月5日 

ユーラシア大陸の最果て位置し、1543年にポルトガル人が種子島に漂流し、鉄砲を伝来して以降、日本と交流し多大な影響を与えたポルトガル、イベリア半島のほぼ80%を占め、北はピレネー山脈を隔ててフランスと接し、南は地中海を挟んでアフリカと向かい合い、古くから多くの民族が侵入し盛衰を繰り返してきたスペイン、東西文化の交差点に位置し、4000年以上の歴史を誇り、広大な国土を有し、古代遺跡をはじめとする大自然が生み出す雄大な景観を有するトルコに足を運び、ポルトガルの首都リスボン、第二の都市ポルトを含む世界遺産10か所を訪れ、スペインの北西部に位置しキリスト教三大聖地の一つサンチアゴ・デ・コンポステーラ、又黒海とマルマラ海を結ぶボスポラス海峡を隔ててヨーロッパサイドとアジアサイドにまたがる大都市のイスタンブールを訪れました。

12月26日23:00関西国際空港ターキッシュエアラインで出発
27日5:20(時差ー7時間)イスタンブール空港到達
7:30イスタンブール空港ターキッシュエアラインで出発
10:25(時差ー9時間)リスボン空港到達。

専用バスで昼食レストランへ

昼食後リスボン観光:大西洋に面するポルトガルの首都リスボン。15〜16世紀の大航海時代に栄華を極めたこの街も、今はどこかのんびりとして、そこはかとない郷愁感を漂わせている。「7つの丘を持つ都」の別名どおり地形は起伏に富み、街歩きにはケーブルカーやエレベーター等の交通手段が活躍。サン・ジョルジェ城など高台のビューポイントからは美しい家並みが一望のもとだ。観光名所としては、中心部から5kmほど西のベレン地区が必見。世界遺産でもあるジェロニモス修道院やベレンの塔、発見のモニュメントなど大航海時代の記念物が残されている。

アルカンタラ展望台からリスボンの街並みを望む。

ジェロニモス修道院:エンリケ航海王子を称えて建設されたのがこのジェロニモス修道院です。入口の上部にはエンリケ航海王や聖ジェロニモスの生涯が刻まれています。

ベレンの塔:発見のモニュメントからテージョ川沿いに1kmほど河口にあるのが要塞ベレンの塔です。ジェロニモス修道院と共にマヌエル様式により建てられた、大航海時代を代表する建物です。世界遺産に指定されています。

発見のモニュメント:ジェロニモス修道院の前にあるのが発見のモニュメントです。エンリケ航海王の500回忌を記念し建てられました。広場のモザイクで描かれたモザイクと年表があり、豊後に着いた1541年が刻まれています。

人気の老舗店パスティス・ド・ベレンのエッグタルト召し上がる。

観光後ホテルへ

18:30ホテル到達、夕食、就寝。

28日7:45専用バスで出発、ロカ岬へ

ヨーロッパ大陸最西端ロカ岬散策:ヨーロッパ大陸の最西端、ロカ岬。高さ140mの断崖の上には灯台があり、その向こう側には大西洋が広がります

専用バスでシントラへ

シントラ観光:自然豊かなシントラではかつて王侯貴族たちが贅をつくした荘園や館を建てました。王宮、ペナ宮殿を中心に自然と街の景観全体が世界遺産となっています。

シントラ王宮:イギリスの詩人バイロンが“エデンの園”と呼んだ、緑豊かな木々に包まれたシントラの町。美しいその町で、ひときわ目立つトンガリ帽子のような2本の巨大な煙突をもつ建物が王宮だ。特に16世紀にマヌエル1世が増築した、正面に向かって右端の一画は、絢爛豪華な室内の装飾で、大航海時代のポルトガルの繁栄ぶりを目の前にすることになる。

観光後リスボンへ戻る。

12:15リスボンで昼食

リスボン市内観光:リスボン市内のリベルダーデ通リを散策する。ロシオ広場、サンタ・ジュスタのエレベーター、コメルシオ広場、

観光後オビドスへ

中世の城壁都市オビドス散策:なだらかな丘の上で、中世の城壁に囲まれてたたずむ“谷間の真珠”オビドス。石畳の細い道、白壁に青や黄色のラインを引いた可愛らしい家々、そしてその軒先を飾る鮮やかな花々…、どこを切り取ってもまるで絵葉書のよう。1228年にこの村を訪れた王妃イザベルはその美しさにすっかり魅了され、以降オビドスを王妃直轄の地に定めたというが、通りを歩けばその逸話にもつくづく納得だ。人口わずか800人のオビドスはとても小さく、一周するのに時間はかからない。ショップや美術館を覗いたり、城壁の上から家並みを眺めたりと、思い思いに過ごしてみよう。なお、村の一番奥にそびえる城館は、現在ポルトガルでもっとも人気の高いポウザーダになっている。


散策後専用バスでナザレのホテルへ

19:00ホテル到達、夕食、就寝。

29日8:00専用バスで出発

ナザレシティオ地区展望台:ナザレは、リスボンの北に位置する漁業と観光の町。フランス映画『過去を持つ愛情』に登場した町だ。大西洋に面した美しい浜辺は、夏はリゾートとして多くの観光客を集めるが、それ以外の季節は、網の手入れをする漁師の姿やたくさん並んだ魚の干物など、静かな漁村の顔を見せる。民族衣装を身につけている人も多い。海風と明るい太陽の中で、自分たちのペースを崩さず、でも決して閉鎖的にならずに訪れる人をやさしく迎え入れてくれる、そんな素朴な雰囲気をもち続けている。北の高台シティオ地区からの海岸線の眺めが素晴らしい。

アルコバサへ

アルコバサ観Alcobaca(アルコバサ)という名前はアルコア川とバサ川の合流地点があることから来ており、その小さな川がどこかほっとさせる雰囲気を持つ町です。 アルコバサといえば、世界遺産にも登録されているMosteiro de Santa Maria(サンタ・マリア修道院)です。
サンタマリア修道院:初代ポルトガル王がレコンキスタに協力したことを感謝して建造させた初期ゴシックの巨大な修道院。


バターリャへ

バターリャ観光:バターリャとは、ポルトガル語で「戦い」の意味。1385年、近郊のアルジュバロタでカスティーリャ軍を破り、ポルトガルの独立を守った歴史的な戦いがあった。その勝利を神に感謝するために、ジョアン1世が建てたのが、バターリャ修道院だった。この修道院の正式名称は、「勝利の聖母マリア修道院」。ゴシック・マヌエル様式の壮大かつ華麗な建物は、アルコバサの修道院をモデルにつくられた。この修道院を中心としたバターリャの町は、名前のもつ勇ましさとはうらはらに、緑の木々に彩られ、穏やかな雰囲気の町である。

バターリャ修道院:スペイン軍に奇跡的に勝利をもたらした聖母マリアに感謝して建てられたヨーロッパ屈指の建物。

トマールへ
トマールで昼食
トマール観光:イスラムからテンプル騎士団がトマールを奪回し、Convento de Cristo(キリスト修道院)を建設しました。 このConvento de Cristo(キリスト修道院)は非常に有名な歴史のある建物で世界遺産にも登録されています。 テラスにある大窓が有名で必見のポイントです。
キリスト修道院:エンリケ航海王子のキリスト教騎士団の拠点となり発展した修道院。マヌエル様式の「天窓」は大傑作。

観光後大学の町コインブラへ

コインブラ観光:リスボン、ポルトに続くポルトガル第三の都市がコインブラ。モンデゴ川のほとりに広がる美しい街で、13世紀に首都がリスボンへ移るまではここがポルトガル王朝の都だった。街のシンボルは、丘の上に建つコインブラ大学だ。13世紀に創設された国内最古の大学で、王宮跡を利用した敷地内には豪華な装飾の図書館など多くの見どころがある。5月の学生祭の時期には伝統の黒マントに身を包んだ学生の姿がそこかしこで見られ、この町独特の学生ファドが聴けるのでお見逃しなく。その他おすすめの観光名所としては、要塞としての役割も兼ねていた旧カテドラル、「静寂の回廊」があるサンタ・クルス修道院など。近郊にはイベリア半島最大の都市遺跡コニンブリガもある。
コインブラ大学、新・旧カテドラル。

観光後ポルトへ

19:00ポルトのホテル到達、夕食、就寝。

30日8:00専用バスで出発

ポルト歴史地区観光:ポルトガルで最も古い歴史を持つポルト。ワインと坂の町としても有名です。ポルトガルの北部、ドウロ川の北岸の丘陵地に築かれた町。起伏が多いため、坂道が多く、独特な景観をもつ。工業、商業が中心の町で、ポルトガル第2の都市でもある。ローマ時代、ドウロ川の左岸をポルトス、右岸をカーレと呼んでいた。この2つを合わせたポルトカーレが、ポルトガルの語源であるといわれている。市内には、内部を金で装飾した中世の教会サン・フランシスコ教会など、歴史的な建物も多い。また、ポルトは、ワインでも世界的に有名な町。ワイン工場の集まるヴィラ・ノーヴァ・デ・ガイアでは、工場見学と試飲が可能。
サンフランシスコ教会、サンベント駅、ドンルイス1世橋。

ドウロ川クルーズ:ドウロ川クルーズで船、川からポルトの歴史的地区を望む。


ポートワイン試飲:ドウロ川上流にあるぶどうの段々畑とそれを支える石壁が幾十にも続く美しい地域。・甘口ワイン ポートワインとして 知れわたる。

その後専用バスでギマランイスへ

ホテルポサーダにて昼食:
ポサーダとは、古城や修道院などを改装した国営ホテルです。ポルトガル全土に45軒ほどありますが、歴史的建築物を改修して認定された第1号のポサーダがオビドスの「ポサーダ・ド・カステロ」です。陶器の名産品で有名な町だけあって、青い装飾が施された白い家々、狭い路地、美しい石畳など絵のように美しい町オビドスにあり、15世紀の城を改修した人気のポサーダです。落ち着いた内装とアンティークな家具が居心地のよい空間を作り出しています。何よりすばらしいのはポサーダからの眺望です。
昼食後

ギマランイス歴史地区観光:この国初代国王アフォンソ1世が誕生したことで「ポルトガル発祥の地」と称される由緒ある街。アフォンソ王が生まれた城など見るべき史跡が多い地区。
ブラガンサ公爵館:15世紀の初めに初代ブラガンサ公爵ドン・アフォンソが築いた大きな館。カシとクリの木を用いた天井の大広間やレンガの煙突などに、特徴をもつ建物だ。ゴブラン織やペルシャ絨毯などのカーペット、数々の絵画や家具、調度品など、中世ポルトガルの貴族の生活をかいま見ることができる。現在は政府の公館として国賓などの接待に使われているが、一般も見学可能。この公爵館のあるギマランエスの町は、ポルトガルの建国を実現させたアフォンソ・エンリケスの誕生の地でもある。彼ゆかりの城や礼拝堂も人気があり訪れる人が絶えない。
トウラル広場。

サンチアゴ・デ・コンポステーラホテル(スペイン)へ

20:00ホテル到達、夕食、就寝。

31日9:00専用バスで出発、ア・コルーニャへ

ア・コルーニャ観光:スペイン北西部、ガリシア地方に位置します。重要な海洋生態系を有するコスタ・ダ・モルテには、切り立った崖、砂丘そして伝統のある灯台や海岸がある海辺の村々が見られます。内陸部はその山々と緑の渓谷が特徴です。アス・マリニャス・コルニェサス・エ・テラス・ド・マンデオ生物圏保護区、フラグアス・デ・エウメ自然公園、コルベド砂丘群およびカレガル湖とビシャン湖自然公園などの自然地帯が特筆に値します。県都ア・コルーニャ市では、ユネスコ世界遺産に指定されているヘラクレスの塔が必見スポットです。
ヘラクレスの塔、マリーナ大通り、サン・アントン城。

12:15昼食ガリシア料理
ガリシア風クレープフィジョアスを召し上がる。

昼食後サンチアゴ・デ・コンポステーラに戻る

サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼の道、歓喜の丘。

サンチアゴ・デ・コンポステーラ旧市街観光:ここはサンティアゴ巡礼道の最終目的地であり、この巡礼道はサンティアゴ・デ・コンポステーラの旧市街と共にユネスコの世界遺産に指定されています。この地方の祭りといえば、国際的観光名物に指定されているオルティゲイラのケルト世界国際フェスティバルや使徒サンティアゴの祭りがあげられます。ガストロノミーでは、海産物の質には定評があり、特にカメノテに似た「ペルセベ(percebe)」、小ぶりのカニ「ネコラ(necora)」そして「セントーヨ(centollo)」と呼ばれるヨーロッパケアシガニなどが有名です。
大聖堂、アラメダ公園。

19:00レストランで夕食
20:30ホテル到達、就寝。

1日9:00旧市街散策

その後サンチアゴ・デ・コンポステーラ空港へ

13:00サンチアゴ・デ・コンポステーラ空港到達

イスタンブール悪天候のため飛行機到着せず、急遽空港近くのホテルで2泊する。

14:45サンチアゴ・デ・コンポステーラ空港ターキッシュエアラインズで出発

又も天候不順で途中経由予定のビルバオに着陸できず、一旦マドリードで着陸し、天候が回復してからビルバオに着陸する。その後イスタンブールに向かうが予定より大幅に遅れる。
4日2:20イスタンブール空港到達、大阪行きの便に乗り遅れる。
空港近くのホテルで宿泊しする。
12:00イスタンブールのヨーロッパサイド旧市街地を散策する。

18:00イスタンブール空港到達。

5日1:00イスタンブール空港ターキッシュエアラインズで出発
19:10関西国際空港到達。

今回の旅行、ヨーロッパのポルトガルとスペインの北西部に足を運び、11個の世界遺産を訪れ楽しみました。
日本と交流し多大な影響を与えたポルトガルの10箇所の世界遺産の街並み、キリスト教の聖地スペインサンチアゴ・デ・コンポステーラの街並みの礼拝堂、お城など数多くの歴史的建造物に触れ、日本には見られない光景を目の当たりにして感動いたしました。
治安もよく、市街地の散策も自由に、気持ちよくでき、気軽に買い物を楽しめ満喫しました。

尚最終日アクシデント有り、イスタンブール行きの飛行機がイスタンブール空港雪で悪天候のため飛べず、仕方なく、サンチアゴ・デ・コンポステーラ空港付近のホテルに2泊する。
又2日後のフライトは途中経由するビルバオに天候不順で着陸できず、マドリードに着陸して天候回復してから再度ビルバオ経由したため大幅に遅れ、イスタンブールから大阪行きに乗り遅れ、イスタンブールに宿泊観光してからの帰国になりました。

ポルトガルからスペインの北西部m又トルコイスタンブールのヨーロッパサイドの旧市街に点在する世界遺産、歴史的建造物巡り11日間の旅、予定より3日間延長し、疲れましたが堪能し楽しい観光旅行でした。
































飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十弾:四国福岡お城・城下町巡り観光第二弾
2015年12月19ー20日

九州に足を運び九州北部に位置し、古くから中国や朝鮮との貿易を通じて、本州に物資を送り込む拠点、室町時代に大内氏が勢力を拡大するが、やがて大友宗麟が北九州を平定、島津氏の北上に対抗した福岡を訪れ比較的マイナーな10箇所のお城をめぐりました。

19日18:59新大阪新幹線さくらで出発
21:17小倉駅到達、駅前のホテル到着後繁華街散策し食事を済ませて就寝。
20日8:00レンタカーで出発、お城巡り。

門司城:亀城とも。元暦二年(1185)平知盛が源氏との合戦に備え、長門国目代紀井通資が築城の起源との説がある。寛元二年(1244)下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任じられて下向し、門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。親房の子孫は地名により門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の5支城を構えてそれぞれ一族が配置された。門司氏はその後およそ350年にわたって北九州の地に続いたものの、南北朝時代には二派に分かれ、門司城には北朝武家方の吉志系門司左近将監親尚が拠り、一方、南朝宮方の伊川系門司若狭守親頼は猿喰城に籠もり内乱の時期を送る(『日本の名城・古城事典』)。

松山城:古記によれば、天平十二年(740)に藤原広嗣によって築城されたと言われ、その後数回の戦乱にみまわれ、何度も城主が変わり、慶長十一年(1606)に廃城になったと伝えられている。
山頂には主郭が、主郭の北側には石垣と石段に続く腰曲輪、二ノ郭との間には石段と石垣が、南には虎口と推測される門の跡がある。三ノ郭からさらに東側には、かつて小城と呼ばれた遺跡があったが、今は土取りのため消滅した。主郭には発掘調査の結果、基壇と礎石をそなえた建物が屋根瓦を葺いて建っていたと推測される。山頂の側面には横堀や竪堀が複雑に確認でき、山頂の遺構から続く土塁が広範囲に広がっている。
松山城跡の全体の構図は主に山頂部の屋根瓦を持つ各郭と門を石段・石垣・横堀が複雑に取り囲んで、さらにその外側には土塁と竪堀が巡らしてあり、まるで松山の半島全体を難攻不落の要塞として造り上げた様子がうかがえる貴重な山城である(『城址案内板』)。


馬ヶ岳城:
京都平野を眼下に一望する豊前の要衝、馬ヶ岳に城が築かれたのは、一説に天慶五年(942)ともいわれるが史料に乏しくはっきりしない。本格的な城の構えができたのは、おそらくもう少し時代が下ってのことであろう。
城の遺構は東西二つの峰を中心に郭が形成され、この西側の峰の平坦地が最も広く本丸跡と考えられる。また東側の峰から北に下る尾根には約
500mにわたる土塁も確認された。
江戸時代に著された軍記物語などには、十四世紀半ばから十五世紀前半にかけて義基、義氏、義高の新田氏三代が在城したことが記されている。南北朝から室町時代を経て豊臣秀吉による九州平定までの動乱の時代、豊前地域をめぐって小弐氏、大友氏、大内氏、毛利氏などの群雄が覇を競った。この時代に馬ヶ岳城は
香春岳城、苅田町の松山城、添田町の岩石城などとともに戦略上の重要拠点として攻防の舞台となった。

天正十四年(1586)豊臣秀吉が島津氏征討を決めると、馬ヶ岳城主・長野三郎左衛門は秀吉に降った。翌年、遠征軍を率いて自ら九州に上陸した秀吉は小倉城を経て、この城に逗留している。九州平定後、馬ヶ岳城は豊前六郡を与えられた黒田孝高が、拠点を中津に移すまでの居城となった。慶長五年(1600)黒田氏は筑前に移り、豊前は細川忠興の所領となった。このころ馬ヶ岳城も役割を終え長い歴史を閉じた(『城址案内板』)。

城井谷城:
城井谷城(きいだに・★福岡県築上郡築上町大字寒田)は、宇都宮氏が城井谷渓谷の奥に築いて代々居城した。建久七年(1196)、豊前国に地頭職を与えられて下野から宇都宮信房が下向。戦国時代、その子孫の鎮房のころ築かれた。
豊臣秀吉の九州平定のとき、鎮房は秀吉軍として戦功をあげたが、四国への移封を拒否し、一時城を明け渡して他へ移った。その後、城井城代となっていた黒田氏の家臣を追い払って立て籠もった。秀吉は黒田長政らに攻撃させたが敗北する。そこで偽りの講和を結び、当主鎮房を謀殺してしまった。ついで長政は城井谷に攻めよせ、当主を失った城井谷城は落城した。
孝高はこの勇将・城井鎮房を殺害したことを悔いて(中津城に城井鎮房の亡霊が出たためとも)、中津城に城井神社を創建し、その霊を祀ったという


岩石城:
保元3年(1158年)大宰大弐となった平清盛が大庭平三景親に築かせたのが始まりとされる。応保元年(1161年)豊後の日田陸奥守次男の日田判官宗道が在城。文治2年(1186年)からは筑紫三郎種有、筑紫弥平治種因の居城であった。種有は承久の乱で官軍に従って所領を没収され、大友氏の持城となった。暦応元年(1338年)からは大庭十郎左衛門景道、正平19年・貞治3年(1364年)には岩石城に籠もっていた城井出羽守が菊池勢に攻められ落城した。応安元年(1368年)豊前国守護大内氏の任命により熊井右近将監が守った。永徳元年(1381年)頃より大庭平太景忠が城主となったが、この頃より大内氏と大友氏によって争奪戦が繰り広げられたようであるが、景忠以降、景行、景種、景則、景尚と五代続いたとされる。天正6年(1578年)大友氏が耳川合戦で島津氏に大敗を喫すると、天正13年(1585年)秋月種実によって攻められ、坂本栄仙は奮闘むなしく討死して落城した。 天正15年(1587年)4月豊臣秀吉の九州征伐で前田利長・蒲生氏郷が攻め寄せ、わずか一日にして落城。秋月氏の城将熊井越中守は討死した。九州征伐の後、小倉城に入った毛利勝信は毛利九郎右衛門高頼を城将として岩石城に置いた。関ヶ原合戦後に豊前に入封した細川忠興は、長岡肥後守忠尚を城将として置き、元和の一国一城令によって廃城となった。

香春岳城:保元二年(1157)、平清盛が太宰大弐になると、家臣越中次郎兵衛盛次に命じて香春岳山王宮の東に新たな城を築き、鬼岳城(香春岳中腹)と名づけた。平治二年(1160)、清盛が帰任の後は豊後の人緒方惟義・惟時が居城とした。治承二年(1178)には香春庄司孝義、建長年間(124956)には香春判官友義が居城し、弘安年間(127888)の頃には中尾兵部丞が居城した。建武年間(133438)からは、小弐頼尚、その子刑部少輔頼長、その子右馬頭頼光と三代在城している。応永三年(1396)には千手信濃守興房が少弐頼光を滅ぼして居城したが、同五年に至り、大内盛見に攻められ、城を枕に討死した。
その後原田氏が在城したが、天文年間(
153255)、原田五郎義種が大友氏に滅ぼされ、高橋九郎重種が居城した。天正十四年(1587)までは高橋三河守元種が居城したが、豊臣秀吉の先鋒黒田・小早川氏に囲まれ降伏した。慶長年間(15961615)の頃は、細川兵部大輔藤孝の次男中務少輔が居城し、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

障子ヶ岳城:
障子ヶ岳城(☆ 福岡県京都郡みやこ町勝山松田)の創建は、建武三年に足利尊氏の命を受けて一族の足利駿河守統氏が築き、豊前の守護となった。応安元年(1368)、千葉上総介光胤が統氏を討ち居城とした。同六年元旦、千葉氏は、慶賀の宴の最中に大内氏の大軍によって攻撃されて落城し、その後、大内氏の抱城となった。一時、千葉氏が奪還したが、長くは続かず滅亡した。天正年間(157392)の初めには小早川隆景の抱城であったが、天正十五年(1587)の九州征伐に際しては豊臣秀吉の宿舎となった。のち、宇都宮氏が叛旗を翻した時、障子ヶ岳城に居城した添田雅楽介一族は宇都宮方についたため、同十七年に廃城となり破却された。
城址は北の味見峠と南の七曲峠との間に位置し、展望がひらけている。


長野城:
保元2年(1157年)平康盛によって築かれたと云われるが定かではない。 平康盛は平時盛の六男で豊前守に任ぜられ下向し長野城を築いて長野氏を名乗ったという。しかし「門司・小倉の古城史」によれば、それ以前に古くよりこの地にいた中原系長野氏による創築とされる。永禄元年(1558年)大内氏を滅ぼした毛利氏は九州にその食指を伸ばし門司城を攻略する。これによって長野氏も毛利氏に属した。永禄2年(1559年)大友義鎮は門司城を攻め一時奪還するも毛利水軍に補給路を断たれ再び毛利氏に奪われる。永禄4年(1561年)大友氏は再び九州北部に侵攻し門司城を巡って毛利氏と対峙したが敗北し、永禄7年(1564年)毛利氏と大友氏は和睦することとなる。この和睦の条件として門司城は毛利氏の持城とし毛利軍は九州より撤退することとなる。この和睦により大友氏は長野氏に対して長野城の明け渡しを要求したが、長野氏は門司城の支配下にあるとして明け渡しを拒否したため、永禄8年(1565年)大友氏は長野氏討伐の軍を向け長野氏の諸城を攻め落とし長野氏は大友氏に降った。

花尾城:「筑前国続風土記」によると、建久五年(1194)、宇都宮上野介重業が築いたとあります。
文明十年(1478)、大内氏は、麻生氏の家督相続に介入、麻生近江守家延の籠る花尾城を内藤・問田氏ら3万余で攻め寄せ落城させました。
天正一四年(1586)、秀吉の九州平定の時、麻生家氏は降伏し、花尾城は小早川隆景の番城となったと思われます。

山鹿城:
築城年代は定かではないが山鹿氏によって築かれたといわれる。その後、宇都宮信公、天正年間(1573年〜1592年)には桃井右近が城主であったが、桃井氏の時、大友氏によって攻撃され落城したという。


15:00小倉駅に向かう。
16:00小倉駅到達。
16:05小倉駅新幹線のぞみで出発。
18:35新大阪到達。
今回の旅行、九州福岡県に足を運び、比較的マイナーなお城10箇所を巡りました。

見つけるのに難解なお城が多く、ほとんどが山城でした。
 













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十九弾:四国徳島お城・城下町巡り観光
2015年12月12ー13日 

四国の徳島に足を運び、阿波細川氏の勢力が強かったエリア、家臣の三好義賢が反逆し、阿波を手中に収め、細川氏と三好氏は以後も争うが、それが長宗我部元親の介入を呼び、天正13年の長宗我部氏による四国制覇につながった徳島県のお城・城下町13箇所を訪れました。

12日12:30車で出発、阪神神戸淡路鳴門自動車道経由して徳島到達、城巡り。
撫養城:築城年代は不明である。 古くは小笠原氏の居城であったが天正10年(1582年)長宗我部元親によって攻略され真下飛騨守が城番として置かれた。
しかし、天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国平定で阿波一国は蜂須賀家政の領するところとなり阿波9城の一つとして益田氏を置いたが一国一城令により廃城となった。
現在は櫓跡に天守を模した鳥居記念館が建ち、本丸には妙見神社が建つがその本殿の裏には布積みの石垣が残っている。

木津城:築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)に篠原肥前守自遁によって築かれたと云われる。 篠原自遁は三好氏の家臣で篠原長房の弟である。
天正5年(1577年)三好長治は荒田野で細川真之と戦って敗死すると、長治の実弟で讃岐国十河城主となっていた十河存保が勝瑞城に入ることとなった。自遁はこれを歓迎せず抵抗したが敗れ、勝瑞城入城の先導役を務めた。
天正10年(1582年)中富川合戦で三好氏は長宗我部氏に敗れ勝瑞城は落城、十河存保は讃岐国虎丸へ退いた。自遁はこの戦いには参加せず城に籠もっていたが、本能寺の変により織田信長が倒れると城を捨てて淡路へ逃れたという。 長宗我部元親は木津城に桑野城主東条関之兵衛を置いて守らせた。
天正13年(1585年)羽柴秀吉による四国征伐では、羽柴秀長・秀次を大将とする大軍が押し寄せた。籠城方も奮戦して良く防いだが、水の手を切られ落城したという。

勝瑞城:板野郡井隅荘は承久の乱(1221)の時阿波国守護になった小笠原氏は、この地に守護所を設け、阿波一国の軍事・警察の任に当った。南北朝内乱期に細川家の三代守護詮春は、守護所を秋月城(土成町)からここに移し、勝瑞城と称した。歴代守護細川氏は京都の管領家を支援し、たびたびこの城から大軍を畿内に送って活躍した。また城下に五十ほどの寺院があるなど、四国最大の守護町が形成され、大井に賑わった。
 天文二十一年(1552)に守護の細川持隆は、執事の三好義賢と対立して謀殺され、その後は戦国大名三好氏の居城として栄えた。天正十年(1582)に阿波へ侵攻した土佐の長宗我部元親との間に攻防がくりひろげられ、城主十河存保は敗れて讃岐に退去した。当地に三好三代の墓もある。
 天正十三年(1585)に入部した蜂須賀家政は、徳島城の早期築城をすすめるため、廃城となた勝瑞城から石材や建造物の一部を持ち去ったという。
 城跡は旧本丸の部分といわれ、いまは三好家の菩提寺である見性寺が下克上の舞台竜音寺を吸収し、その境内となっている。
 中世城郭は、山城が圧倒的に多い中で、中富川の水運を利用した平城の勝瑞城は、全国的に貴重な城郭として注目されている。なお見性寺に伝わる三好長輝と長基の画像も県有形文化財に、また徳島藩の儒員で四国正学といわれた那波魯堂の撰になる勝瑞義家碑は町の参考資料に選定されている。
 勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。十五世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。
 天文二年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を奪った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。
 勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が立ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。本丸の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。
 天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。八月二十八日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に篭城したが九月二十一日、讃岐に退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。
 その後、天正十三年(1585)の蜂須賀家氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。
 周囲を濠に囲まれた当地は本丸跡で、昭和三十年二月七日に徳島県の史跡に指定されている。城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は徳島県の有形文化財に指定されている。

西条城:西条東城は一条神社の近くにある天守台と呼ばれる小高い丘のあたりが城跡らしいといわれている。築城したのははっきりしていないが、三木左近将監備前守春之が秋月城の支城として築城したという記録がのこっている。
 天文年間には岡本美作守清宗が居城し、勝瑞城の主君細川持隆に仕えていた。清宗の娘は持隆の側室となったが、傾国の美女として長宗我部元親の侵略を招いたといわれているほどである。その後天正十年(1582)八月、元親により落城した。
 天正十四年(1586)、蜂須賀家政がこの城を阿波九城の一つとして修築し、家臣森監物に守らせたが、のちの元和元年(1615)の一国一城の令により寛永十五年(1638)に阿波九城は廃城となった。

17:00徳島市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

13日8:00車で出発。

一宮城:一宮城は延元三年小笠原長宗が構築したもので自然の地形を利用した城として知られる。また、阿波山岳武士の根拠地として、さらには戦国時代の一宮氏の拠点として活躍した名城であった。
 今月残っている本丸の城壁・明神丸等の跡はこの頃のものであろう。その後長宗我部氏の侵入・豊臣秀吉の四国統平の際の攻防場となり、天正十三年、元和元年一国一城の制により廃城となっている。
一宮城は、前方に鮎喰川、後方に険しい山々がそびえ立つ自然の要害に築かれた大規模な山城であった。
 現在では、標高百四十四メートルの本丸跡に石塁が残っており、その他、明神丸、才蔵丸、水手丸、小倉丸、倉庫跡の遺構も明らかで、貯水池といわれるくぼ地もその跡をとどめている。
この城は、南北朝時代、南朝に味方していた山岳武士の拠点であり、一宮氏が長年居城としていたが、成裕のとき土佐の長宗我部氏に占拠された。
 その後、豊臣秀吉が四国を平定し、天正十三年(1585)、蜂須賀氏が最初入城したのが、一宮城であった。翌年、蜂須賀氏が徳島城に移ってからは、その支城として有力家臣を置いて守らせたが、元和元年(1615)の一国一城令により、廃城となった。
 なお、一宮城跡は県指定史跡となっている。
 また、一宮城跡周辺には、本拠が国の重要文化財に指定されている一宮神社、四国八十八ヶ所第13番札所の大日寺などの観光名所がある。

上桜城:築城年代は定かではないが戦国時代末期に篠原長房によって築かれたと云われる。

篠原長房は三好義賢に仕え、永禄5年(1562年)和泉国久米田の戦いで先鋒を務めたが、大将三好義賢が討死して大敗した。義賢亡き後、長房は紫雲と号して剃髪したが、義賢の遺児長治を補佐して「新加制式」という法令を制定して領内を治めた。

しかし元亀3年(1572年)長房の弟という木津城主篠原自遁の讒言により、三好長治は讃岐国十河城主十河存保、切幡城主森飛騨守、伊沢城主伊沢右近らを大将とする七千の軍勢を動員して長房の籠もる上桜城を攻め、両軍合わせて三千余人の戦死者を出し、長房・大和守父子も討死して落城した。

川島城:天正十三年(1585)蜂須賀の重臣、林道感が阿波九城の一つとしてここに川島城を築き兵300余名を置いた。しかし、元和元年十一月、一国一城令が出て廃城となる。岩の鼻に立てば阿北の山々と吉野川の清流が一望に収まり、道感原には、林道感の碑、朝鮮女の墓、また真福寺境内には板碑があり、史跡の床しい景勝地である。

秋月城:この地は古代秋月郷と呼ばれ、土豪秋月氏がここに居館を構えた。文永年間守護小笠原氏から世継ぎを迎えたと伝えられている。
 細川阿波守和氏らは秋月氏に迎えられ、秋月に居館を構え四国全域に号令、四国管領として大きな勢力を誇っていた。
 秋月城は南北朝から室町時代にかけて、細川氏の拠点として枢要の地歩をしめていた。
 その後、細川詮春が勝瑞城に移った後、秋月中司大輔(森飛騨守)が守ったと伝えられている。
 天正七年(1579)、土佐の長宗我部軍の兵火にあって落城したといわれている。
 この城跡の周辺には、秋月城の名残りとして御原の泉・的場の跡・竈跡等が残っている。

岩倉城:築城年代は定かではない。文永4年(1267年)三好郡領平右馬頭盛隆が叛乱したとき、阿波国守護小笠原長房はここに城を築いて盛隆を平定したという。

永禄年間(1558年〜1570年)には三好康長が岩倉城を築いて嫡子三好徳太郎康俊が城主となった。天正7年(1578年)康俊は脇城主武田信顕とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利した。天正10年(1582年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城も攻略して岩倉城にも攻め寄せ、康俊は降伏開城して逃れたとも討死したとも云われる。

重清城: 小笠原家は清和源氏の裔にして小笠原左京大夫信濃守源長時阿波国守護職となる四代長房の孫長親が重清に築城したといわれている。この城は本丸の東方と南方に土盛で二条の空堀を設け北と西は城ヶ谷川と呼ばれる深い切り込みのある絶壁で守られ北は讃岐山脈の南斜面に守られ天然の要害をなしていた。また山脈の中腹には狼煙小屋を置き常時番人がつめていたといわれている。室町期に入り、新守護細川氏が阿波に入るにともない、小笠原一族はこれに抵抗、戦うが、重清城は早くその支配下に入り、正平十八年一の宮城の小笠原宮内大輔成宗も服従し、ここ重清城に退隠している。当時の重清城の貫高は二百貫といわれ、吉野川中流平野部の緒さえの拠点であた。
 ついで動乱の戦国時代に入り、土佐の長宗我部元親は四国制覇の野望のもと、大挙して南北から阿波に侵入する。土佐軍は池田の大西城を落とし、ここ重清城に迫るが、難攻不落の城を攻めあぐみ、天正六年、大西上野介(白地城主大西覚養の弟)、その従兄弟の中島城主久米刑馬の二人を手先に使い、降伏を勧告する。その話し合いの途中、城主小笠原豊後守長政とその子弟を謀殺し、重清城は落ちる。その後、大西覚養が城主となったが、讃岐の十河存保に反撃され、城は一旦小笠原氏にもどる。同年夏、長宗我部軍再度の来攻で敗退し、再び長宗我部軍に奪われ、天正十三年、豊臣秀吉の四国攻めごろまでは存続したものと推定されるが、その後は廃城となった。
 現在城跡南の台地に、大正十五年作られた、従五位小笠原豊後長政公蒋土英魂の石碑がある。

東山城:築城年代は定かではない。南北朝時代に南朝方の新田一族によって築かれ、八ツ石城とともに新田氏一族の拠点となったとも考えられているが、詳らかではない。

戦国時代には白地主大西出雲守頼武の弟(あるいは三男)で、伊予国轟城主でもあった大西備中守元武の城となっていたが、天正5年(1577年)長宗我部元親との戦いで落城し、元武は伊予国宇摩郡妻鳥村で逆徒に襲われ憤死したという。

その後の動向は定かではないが、現在残る遺構から長宗我部氏によって改修されたものと考えられている。

大西城:池田大西城は承久三年(1221)阿波の守護として信濃の深志(現在の長野県)から来た小笠原長清によって築かれ、400年に余って繁栄したが、寛永十五年(1638)江戸幕府の一国一城制により廃城になった。
 この石垣の積み方は野づら積みと言われるもので、昭和五十四年幼稚園改築の際、北側に埋蔵して保存し、東側はコンクリートの下から一部観察できるようにしている。

白地城:白地城は、南北朝時代に近藤京帝が築城した。 その後、子孫は大西氏を称した。 天正4年に大西覚養は、土佐の長宗我部元親に追われてしまう。 
白地城は、元親の四国統一の拠点として大修築された。 天正13年、豊臣秀吉の四国平定により、白地城は廃城となった。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、四国徳島県に足を運び、13箇所のお城巡り楽しみました。
毎度のことですが見つけるのが苦労するお城がいくつか有りました。特に山城は今回も見つけるのに苦労しました。