飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三弾:北海道流氷ノロッコ観光  2015年2月28−3月1日  

北の北海道に足を運び、オフォーツク海沿岸の網走から知床斜里までの37,3kmをその名も流氷ノロッコ号として走るトロッコに乗車し流氷観光を楽しみました。

28日15:30伊丹空港出発
16:30東京羽田到着
17:35東京羽田出発
19:40女満別到着、バスで網走に向かう。
18:30網走到達、駅前のホテル到着後近くのお寿司屋さんで食事を済ませて就寝。
3月1日10:25網走駅流氷ノロッコで出発

流氷ノロッコ:シベリアから流れてきて、日本では1月下旬頃から姿を見せる“流氷”。『流氷ノロッコ号』は、その景色を間近に見ることができるJR釧網線の特別列車で、知床斜里駅から網走駅間を一日二往復する。乗車時間は約1時間、約37kmを走行。

11:22知床斜里到達
11:57知床斜里流氷ノロッコで出発
12:57網走駅到達、バスで女満別空港に向かう。
14:00女満別空港到達。
15:00女満別空港出発
17:10東京羽田空港到達
17:30東京羽田空港出発
18:40伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、網走から知床斜里まで走行するトロッコ電車に乗りオフォーツク海沿岸を走行し、車窓から流氷を観察し楽しんできました。

運良く前日までは冬型で南風が強く猛吹雪、海は6m名の波で大しけでしたが、今日は風もおさまり流氷は細かく砕けていましたが海岸沿いには多くの流氷が流れてきて観察することが出来ました。

次回は網走港から出港する流氷観光砕氷船に乗り真近で流氷を観察したいと思います。





飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百ニ弾:伊予大島八十八箇所巡り第一弾&鵜島・津島観光  2015年2月21−22日 

愛媛県しまなみ街道、大島に足を運び四国八十八ヶ所の札所の土砂を持ち帰るなどし別の土地に四国にならった霊場を開創した新四国の中で比較的歴史が古く島の霊場として島四国の部類に入る伊予大島八十八箇所の21箇所を巡りました。

21日13:59新大阪新幹線さくらで出発、福山でこだまに乗り換え
15:19新尾道到達、レンタカーでしまなみ街道大島に向かう。
15:40大島到着、伊予大島八十八箇所巡り。
十楽庵:

岩屋寺:

岩屋寺大師堂:

観音堂:

法南寺:

善女庵:

亀甲庵:

宝幢庵:

利益庵:

西蓮庵:

17:30今治に向かう。
18:10今治駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日7:00レンタカーで出発、伊予大島八十八箇所巡り。

正覚庵:

海岸堂:

白光庵:

無量寿庵:

寿気庵:

医王庵:

付属庵:

海南庵:

潮音堂:

9:45宮窪港フェリーで出発
9:50鵜島港到達、散策。

伯方島と大島の間に包まれるように存在する鵜島。潮の流れは鵜島にぶつかり船折瀬戸、荒神瀬戸、宮窪瀬戸と早い流れをつくりだします。
足利義満がつがいの鵜を放しそれが繁殖したことが名前の由来という言い伝えもありますが、当時から村上水軍の拠点になっていました。北浜代官所跡や水軍見張所跡、造船所跡、鵜島城跡などは水軍の名残です。
江戸時代には織田信長の末裔である織田家が島の組頭を勤め、四代目の織田権四郎が1772年(明和9年)に建立したと言われる「お堂」が残されています。
漁業はほとんど行なわれおらず、柑橘類の栽培が主な産業になっています。

12:45鵜島港フェリーで出発
12:50宮窪港到達、幸港に向かう、途中伊予大島八十八箇所巡り。

車南庵:

金光庵:

13:30幸港フェリーで出発
13:40津島港到達、散策。

津島は「しまなみ海道(西瀬戸自動車道)」が通過する越智大島の西約1kmの海上に浮かぶ有人島で、南東には無人島の大突間島を従えています。
周囲5.6km、標高176.6m、来島海峡内に点在する島々の中では一番大きく、大島の吉海港(津倉)の入口にあることから古くは門島と書いて“つしま”と呼んでいました。元亀・天正年間(1570〜92)には河野水軍の田房隼人正の城があり、城主滅亡後は大島や大三島からの入植で北東側の湾内に集落が作られていきました。
島民は真宗の信仰があり、殺生を嫌ったことから漁業は行われず、農業と海運業で発展を見せています。
江戸末期には開墾が進み、稲作と甘藷や麦などの畑作が行われ、明治期になってイチジクやミカンなどの商品作物も栽培されるようになっています。今では幻となった「津島いちじく」は独特の甘味があることからブランド化され高値で取引されたこともあります。
また、海上交通の要衝にあったことから古くから海運業に従事する者も多く、島内の大山祇神社に安全祈願で奉納された天保8年(1837)の絵馬には5隻の大型帆船が描かれています。
明治から昭和にかけて木炭から石炭へと船の積荷は変わり、島の人口は500人を数えたこともありましたが、昭和30年代になり帆船の時代が終わると津島の海運業は衰退。急激に人口減少が進み昭和38年には小学校が廃校となっています。
平成25年10月1日の愛媛新聞に「29年ぶり、みこし復活へ 今治・津島」という記事が掲載されています。昭和59年(1984)以来中止になっていた秋祭りでの神輿運行が復活するというのです。市内のNPO法人の支援企画によるもので、明るさと活気を感じさせてくれます。その時津島で暮らす人の数は16人、平均年齢約83歳とあります。

16:00津島港フェリーで出発
16:10幸港到達、レンタカーで新尾道に向かう。
22日18:27新尾道こだまで出発、岡山でのぞみに乗り換え
19:54新大阪駅到達。

今回の旅行、愛媛県しまなみ街道大島に足を運び、島四国の八十八箇所の21箇所を巡り楽しみました。小規模で小ぶりの寺院が多く其々が比較的集合しており短時間で多くの寺院を巡ることが出来ました。船の便の時間に合わせて2つの島(鵜島、津島)も訪れることができ時間を有効に利用でき多くの名所をめぐることが出来ました。
島四国は全国にいくつかあるみたいです、離島をほとんど制覇していますので島四国をこれから回りたいと思います。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百一弾:知多四国八十八箇所巡り第一弾  2015年2月14−15日  

2000年近い歴史をかさねる地方の代表的霊場、四国八十八箇所を本四国と呼ぶのに対し、こちらを新四国と呼ぶ弘法大師ゆかりの知多半島の知多四国八十八ヶ所の50箇所を訪れました。

14日12:30車で第二京阪名神新名神東名阪伊勢湾岸自動車道経由して大府インター下車。
知多四国八十八ヶ所をめぐる。

01 曹源寺:

02 極楽寺 :

03 普門寺:

04 延命寺:

06 常福寺:

07 極楽寺:

08 伝宗寺:

09 明徳寺:

10 観音寺:

11 安徳寺:

外 東光寺: 

54 海潮院:

12 福住寺:

13 安楽寺:

14 興昌寺:

15 洞雲院 :

16 平泉寺:

17 観音寺:

18 光照寺 :

外 海蔵寺:

19 光照院:

20 龍台院 :

21 常楽寺 :

22 大日寺:

23 蓮花院 :

24 徳正寺:

25 円観寺:

外 葦航寺:

外 影現寺:

26 弥勒寺:

27 誓海寺:

外 誓海寺禅林堂:

28 永寿寺:

29 正法寺:

30 医王寺:

31 利生院:

32 宝乗院:

33 北室院:

34 性慶院 :

35 成願寺:

36 遍照寺 :

高速艇で篠島に向かう。

38 正法禅寺:

外 西方寺:

39 医徳院 :

高速艇で日間賀島に向かう。

37 大光院 :

高速艇で師崎港に向かう。

外 浄土寺:

40 影向寺:

41 西方寺:

42 天龍寺:

43 岩屋寺:

外 奥の院:

45 泉蔵院:

46 如意輪寺:

44 大宝寺 :

47 持宝院 :

48 良参寺:

49 吉祥寺:

56 瑞境寺:

今回の旅行、愛知県知多半島に足を運び、2000年近い歴史をかさねる地方の代表的霊場、四国八十八箇所を本四国と呼ぶのに対し、こちらを新四国と呼ぶ弘法大師ゆかりの知多半島の知多四国八十八ヶ所の50箇所を訪れ楽しみました。















近畿三十六不動尊巡礼第一弾 2015年2月11日 

お不動さまは庶民の仏様として親しまれ、熱心な信仰を集めている。近畿地方の代表的なお不動さまの寺からなる近畿三十六不動尊霊場の12箇所(第一番ー第十一番)を訪れました。

近畿三十六不動尊霊場は、近畿地方の大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、奈良県、和歌山県に、古寺顕彰会が中心になって開設した霊場です。宗派にとらわれずに一般の人々の立場から霊場寺院が選定され、昭和54年(1979)に発足しました。

9:20車で出発、大阪市内に向かう。

四天王寺:今から1400年以上も前、推古天皇元年(593年)に聖徳太子により建立された。 
「日本書紀」によれば、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り 「もしこの戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されたと伝えられる。

清水寺:和宗。新西国霊場客番、近畿三十六不動尊霊場第2番、摂津国八十八ヶ所霊場第26番。
もと有栖寺といったが、1640年に中興延海阿闍梨が、京都清水寺から聖徳太子作と言われる十一面千手観世音菩薩を本尊とし、清水寺に模した舞台造りの本堂を建立、寺号を新清水寺と改めた。院号は清光院といい、四天王寺の支院である。

法楽寺:当山は山号を紫金山、院号を小松院と号し、その創建は、平清盛の嫡子で小松の大臣(おとど)と呼ばれていた平重盛が1178年(治承2年)に開創したのに始まるとしている。重盛は、宋の国・育王山の仏照国師の徳を慕い、我国への招聘を働きかけたが実現せず、その代わりに育王山伝来の紫金仏舎利が贈られてきた。そのためこの田辺の地に一寺(法楽寺)を建立し、仏舎利を納めたという。
 創建以来の建物は戦国の末、元亀年間(1570〜3年)頃まで護持されてきたが、織田信長の兵火に罹り、全て灰燼に帰した。その後、江戸中期の1711年(正徳元年)河内・野中寺より晋山した洪善大和上が大和大宇陀、松山藩藩主織田家の殿舎を譲り受け復興したという歴史がある。
 また、江戸時代後期の高僧・慈雲尊者が13歳の時、当山の忍綱貞紀和上の弟子となり得度。27歳のとき河内高井田(現東大阪市)の長栄寺にて真言正法律を提唱した。
この寺は1873年(明治6年)に府下で最初の小学校の置かれたところでもある。当山は田辺にあるところから、本尊の不動明王は『田辺の不動さん』と人々に親しまれ,毎月28日には遠近の参拝客で賑わう。

京善寺:当山の縁起は、古くは「金剛院」と称せられ厄除祈願道場として栄えていたが、1615年(元和元年)大坂夏の陣に合戦の場となり、兵火で寺は焼失したため、詳細は不明とのことである。
  この時期、寺は荒廃したが、1653年(承応2年)桑津村の篤信者富井部氏などの霊夢に不動明王が出現され、寺の再興を告げられたため、紀州より観弘実誉阿闍梨を招き堂宇を再興、寺号を心王山殊勝院京善寺と改めた。
紀州根来寺の不動明王と同木同作(興教大師の作と伝えられる)の不動明王を勧請し本尊とした。以来、「身代り厄除け不動」「くわづ不動」として多くの人々の信仰を集め、現在に至っている。

報恩院:真言宗醍醐派。山号は高津山たかつざん。高津こうづの北向不動と呼ばれる。
近畿三十六不動尊霊場第5番、おおさか十三仏霊場第11番、摂津国八十八ヶ所霊場第21番。
寛文年間(1661〜1672年)、徳川四代将軍家綱の時代に、良遍上人が不動明王信仰の世相にあった北向不動尊を建立したのが始まり。明治初期の廃仏棄釈の流れで、無住に近い荒れ寺であったものを、第十二世孝教和上が明治大正と復興を遂げたが、太平洋戦争の大阪大空襲で北向不動尊のみ残して全堂灰燼にきした。しかし被災数日後には住職信者一丸となり焼跡整理に取り掛かり再興がなされた。

大融寺:高野山真言宗準別格本山。山号は佳木山。正式名は佳木山宝珠院太融寺。
新西国霊場第2番、近畿三十六不動尊霊場第6番、おおさか十三仏霊場第8番、摂津国八十八ヶ所霊場第6番、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第7番、なにわ七幸、神仏霊場大阪10番。
821年、嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が創建。本尊の千手観世音菩薩は嵯峨天皇の念持仏を下賜され、天皇の皇子・河原左大臣源融公がこの地に七堂伽藍を建立した。
1615年大阪城落城の時に全焼、その後復興したが、1945年戦災で全焼、戦後再建し現在に至る。

豊中方面に向かう。

国分寺:真言宗国分寺派大本山。正式には勅願道場護国山ちょくがんどうじょうごこくさん国分寺こくぶんじ。通称は長柄国分寺。
近畿三十六不動尊霊場第7番札所、おおさか十三仏霊場第9番札所、摂津国八十八ヶ所霊場第9番札所、西国薬師四十九霊場第17番札所。

神戸方面に向かう。

不動寺:当山は開基は、弘仁期(810〜824年)に弘法大師によると伝わるが詳細は不明。
元は大阪市北区兎我野町(梅田の東)にあったが、寺の傍を新御堂筋が開通するなど、都市化の波に洗われ、1966年(昭和41年)に現在地に移転している。不動明王を本尊とし、兎我野時代から大護摩法で知られてきた。
 寺伝によると、弘法大師が諸国巡礼のおり、摂津北野村(兎我野)の地で七光の石を見出し、大師自ら、5輪法塔に仕上げ、不動明王の梵字を石に記した。その後、大師は再び当地を訪れ、小室を造り、石像を安置し、不動堂とした。
 元暦年中(1184〜5年)後鳥羽院の勅願所となり、豊臣・徳川の庇護を受けるなど、兎我野の不動として、広く庶民の信仰を集めてきている。また、数度の戦乱にも遭遇し、特に第二次世界大戦の戦火では堂宇が全て焼失し、1950年(昭和25年)に本堂を再建したが、寺の周辺が歓楽街化するなど環境の悪化が深刻化し、古くから伝わる伝統行事の大護摩法も次第に行えなくなったことが、現在地への移転を決意した最も大きな要因であったとのことである。

大龍寺:神護景雲二年、称徳天皇の勅をうけた和気清磨呂公は、摂津の国に寺塔建立の霊地を求めて当地の山中まで来られたときのことであります。
公を暗殺しようとしてつけ狙っていた僧道鏡の刺客は、忽然と現われた一匹の大蛇に驚いて一目散に逃げ帰ってしまった。
危ないところを助けられた清磨呂公があたりを見まわしてみると、大蛇が消えた跡に「聖如意輪観世音菩薩」が立っておられたのであります。
霊験を感じられた公は、早速この地に伽藍を建立され寺名を「大龍寺」と名付けられました。
観世音がご出現になった場所は「蛇ケ谷」と称し「龍ケ滝」と共に霊蹟として現存しております。

無動寺:当寺は推古天皇の時代、聖徳太子が物部大臣守屋を討たんとして、鞍作鳥(鳥仏師)に命じ、本尊大日如来及び諸尊を刻ましめて戦勝をご祈願されたところ、忽ち大軍を征破することができたので、七堂伽藍を建立して福寺(普救寺)と名付けられたのに始まります。その後幾度か盛衰の変遷があり、記録等は散逸して、多くを知ることができません。縁起(慈雲尊者真筆)によれば、現在の堂宇は
中興開山眞源阿闍梨が帰省の折、当寺の荒廃を見て、復興の悲願を発願され、二十数年の勧進努力の結果、宝暦二年(一七五ニ)三月、再建されたものであります。明治八年廃仏毀釈により、末寺と統合して現在に至っております。

鏑射寺:真言宗単立。山号は獨鈷山。甘楽寺とも呼ばれる。
近畿三十六不動尊霊場第11番札所、西国愛染明王十七尊霊場第3番札所、仏塔古寺十八尊霊場第16番札所、神戸十三仏満願霊場、摂津西国三十三ヶ所第10番霊場、郡西国第25番霊場。
581年創建。聖徳太子開山。弘法大師が境内で独鈷水の井戸を掘る。
1873年三田九鬼藩の不逞藩士が火を放ち、焼け残った太子堂と本尊什器が寺廻りに移されて、廃寺となる。その後1959年、現山主中村公隆が入山、祈願。1966年に護摩堂(不動明王)が、1973年には三重塔(虚空蔵菩薩)を建立した。

今回の旅行、近畿圏内の近畿三十六不動尊霊場の12箇所(第一番ー第十一番)を訪れ楽しみました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百弾:九州八十八箇所巡り第一弾  2015年2月7−8日 

日本の最西端九州に足を運び、弘法大師が唐から帰国し、都に上洛するまでのあいだ長く滞在されたゆかりの地の八十八箇所百八霊場23箇所を巡りました。

7日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
16:14博多駅到達。レンタカーで霊場めぐり。

東長寺:大同元年806唐から帰国した弘法大師の創建と言われ、寺宝の木造 千手観音立像は国指定の重要文化財である。境内には仙腰a尚せんがいおしょう や当時の有名人の白筆書画が残る六角堂の建物、 2代藩主黒田忠之ただゆき、3代藩主光之みつゆきの墓がある。

般若寺:宝永4年1707、 立花実山たちばなじつざんが主君三代藩主黒田光之の死後即剃髪、住吉に松月庵を結びそこに入る。 東林寺 のパンフレットによると、同寺の末寺とある。 場所は博多区住吉の住吉神社境内北側にあったと思われるが定かではない。 後述する。 夢遊典 によると博多駅の移転に伴う新幹線の開通を受けて、 昭和39年1964に福岡市南区(現在の地)に移転。その後般若院と改名。

18:10久留米駅付近のホテル到着後周囲を散策食事を済ませて就寝。
8日7:30レンタカーで出発、霊場めぐり。

光明寺:石造九重塔が2基あり、1基は江戸期のもの(西塔)、 もう1基(東塔)は安元元年1175、平重盛建立と伝えられているが、 少し後の鎌倉中期頃の作と考えられているという(福岡県文化財)。 仁王門の仁王像は鎌倉期の仏師運慶の子湛慶たんけい作と伝わる。 江戸期に二度再建されたという。
境内の案内板によれば、 本堂内には木造十王坐像もくぞうじゅうおうざぞう・ 木造葬頭河婆坐像そうずおごうのばばあざぞうが安置されているという。 仁王像と併せて筑後市の指定文化財となっているという。

不動寺:明王院にある養老ヶ滝は、インドの高僧、善無畏ぜんむいが開いた約1300年の歴史を持つ滝である。 弘法大師、伝教大師、慈覚大師もこの滝に訪れたという。 その後、若杉山の修験道の根本道場として栄えたという。 時は流れいつの日か荒廃。 明治38年1905、盲目の僧、P無染師により再建され、現在に至るという。

大日寺:建物の玄関先には大日如来の石造が鎮座。 本堂は玄関を入って階段を登った二階部分にある。 本堂内には御本尊の大日如来像が中央。向って左右に薬師如来像弘法大師像が安置されている。 薬師如来像のさらに左手には怖いお顔をされている不動明王も立っておられる。 本堂裏手には広い駐車場・トイレも完備されている。 そこからは、筑後川の堤防の先に耳納連山を眺めることができる

龍王院:境内は広大な敷地となっている。 山門左脇には、出世稲荷大明神。右脇には不動明王。 広大な駐車場あり。 本堂は鉄筋コンクリート造りである。 本堂に向って右手奥にはお滝場へ下る道があり、坂を下ると多数の石仏の先にお滝場がある。

不動院:当院の開山である瑞光尼の座像も檀信徒の希望により本堂脇に安置しております。又、お大師様のお華「華道高野山」を多くの方にたずさわって頂く為に華道教室も設けています。

浄心院:浄心院は開山の浄心法尼が、当地において不動尊を感得しその霊験により創建されました。「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)つまり神・仏ともに祭祀する寺院です。内陣には身代わり不動・大日如来・釈迦如来などを安置しています。稲荷大明神は弘法大師空海も信仰した神であり、これも浄心法尼が神託によって本堂内に勧請したものです。商売繁昌・所願成就の神様で、二月の初午に初午大祭が行われています

大師寺:大正の初期に当地信者の要請により、 和歌山県高野山福智院の水本坊より本尊をはじめその脇仏等一切、当地に移転してきたのがはじまりの由。

明王寺:日田市のJR久大線日田駅にほど近いところに伽藍を構えている。門前の道を100mほど北に進むと豆田の古い町並みがある。

南琳寺:延暦23年804比叡山の僧最澄さいちょう(伝教大師)は、 仏教興隆のため、僧空海くうかい(弘法大師)と共に、留学僧として渡唐された。 途中航海の平穏を祈って、七仏薬師謹刻の大誓願を立てられた。
帰朝後九州に下り、祈願を果たすべく霊木を求め白山はくさん(秋月古処山)に至り、 榧の木をもって一刀三礼して七体の薬師仏を彫刻され、その■一番の尊像を本尊として、 大同元年8064月6日、長淵(朝倉町)の地に天台宗医王山いおうざん南林寺を建立された。

興徳院:興徳院は秋月・古処山に源を発し筑後川に流れ込む小石原川沿いに伽藍を構えている。 すぐ近くは甘木鉄道線・西鉄甘木線の終点の甘木駅がある。 2012-06-13に参拝。本堂内は信徒さんたちでいっぱいであった。

如意輪寺:天平年間729-748孝謙天皇の勅願により、行基が開いたお寺。 本尊の如意輪観音は全国でも珍しい立像で、行基が勅を奉じて一刀三礼を以て刻んだ希有の名作であり、福岡県の重要文化財に指定されている。 天正14年(1586)島津侵攻の際に兵火によって一時は廃寺となるが、 久留米藩主有馬忠頼によって伽藍が建てられ、また松崎伊予守も祈祷所として崇拝するようになり再興をはたしたという。

隆照寺:隆照寺は、四王寺山の北側の麓の坂の上に伽藍を構えている。 寺前は住宅地となっており、境内からは若杉山・宝満山を一望できる。

明王院:明王院にある養老ヶ滝は、インドの高僧、善無畏ぜんむいが開いた約1300年の歴史を持つ滝である。 弘法大師、伝教大師、慈覚大師もこの滝に訪れたという。 その後、若杉山の修験道の根本道場として栄えたという。 時は流れいつの日か荒廃。 明治38年1905、盲目の僧、P無染師により再建され、現在に至るという。

金剛頂院:大同元年806唐よりご帰朝した弘法大師が、 博多逗留のおり、 当若杉山に登り庵を結んだ地という。 かつては、百八僧坊を構え金堂・宝塔・宝蔵・鐘楼などの諸堂が甍を並べるほどに隆盛を極めていた。 この地には伝教大師を始め多くの高僧が訪れた。 当時、金剛頂院のある若杉山は右谷・左谷に分かれて三百の僧坊が建ち並んでいたといわれるが、 貞和3年1347山内に戦乱が起こり、聖地は焦土化す。 現在の金剛頂院は昭和17年1942に再建されたものという。

正法寺:正法寺は飯塚市の天道駅に程近い交差点の脇に伽藍を構えている。 寺前はかなりの交通量である。寺内はカエルの置物が多数安置されている。 (「カエル部屋」には2000体のカエルが安置されているようである。)正法寺前より数十メートルの所には三菱飯塚炭鉱の遺跡(下写真参照)も見ることができる。

金倉寺:金倉寺は堀池の集落の貴船神社の裏手に伽藍を構えている。 そのすぐ東側は旧長崎街道である。
本堂前の不動明王様は怖いお顔をされているが、どこかやさしさと親しみを感じさせるお顔である。

明観寺:今を去ること1200年、 宗祖弘法大師が渡唐され、西安青龍寺、恵果和尚を師として密教の奥義を極め帰国御真言宗を開かれました。昭和53年当山住職が訪中青龍寺遺跡発掘現場より出土品を頂戴し、その一部の瓦を明観寺本堂に奉埋致しました。寺内に展示してありますのが青龍寺遺跡の出土品で、日本でも稀有の有難い品です。

法善寺:法善寺はJR新飯塚駅の裏手に伽藍を構えている。 明星保育園が併設されている。 山門前は水路が流れ、石橋を渡って山門をくぐる。

西教院: 創建は天暦4年920に願成法印が村の疫病を鎮める為に、 当地に草庵を結び十一面観音を安置した事に始まるという。

東蓮寺:東蓮寺はJR直方駅の南西の丘の上に伽藍を構えている。 この直方には『筑前國続風土記』に記載されているように福岡藩の支藩であった東蓮寺藩があり、その名の由来もこの付近に東蓮寺があったことによるという。

善覚寺:善覚寺は木屋瀬から赤間に向かう旧赤間道の少し北側の高台に伽藍を構えている。 境内には多数の石像があり、そのひとつひとつに名前が表示されている。 本堂前の十二神将像は表情豊かである。 また、納骨堂裏手の不動明王像はすごく派手で見ものである。

18:00博多駅到達。
18:29博多駅新幹線のぞみで出発
20:58新大阪駅到達。

今回の旅行、最西端九州に足を運び、弘法大師が唐から帰国し、都に上洛するまでのあいだ長く滞在されたゆかりの地の八十八箇所百八霊場の23箇所を巡り楽しみました。

小粒の寺院が殆どで険しい山の上のお寺のなく、スムーズに訪れることが出来ました。

今後5−6回に分けて訪れ制覇したいと思います。