飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七弾:愛知県お城・城下町巡り観光第一弾  2015年3月28-29日 

室町時代に尾張の守護・斯波氏に変わり、織田氏が権力を掌握し、三河では今川氏が駿河、遠江から勢力を拡大してきたが、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に返り討ちに遭うと、急速に衰退していった愛知県に足を運び、比較的マイナーなお城・城下町17箇所をめぐりました。

28日12:30車で第二京阪京滋バイパス名神経由して小牧インター下車、お城めぐる。

小牧山城:小牧山城は、永禄3年に織田信長によって築かれた。 信長は、ここに清洲城から居城を移し、美濃稲葉山城(後の岐阜城)の斎藤氏と対峙した。 永禄10年、信長は斎藤龍興を滅ぼして、岐阜城に移ると小牧山城は廃城された。小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が小牧城址に本陣を置き、城を修築している。 江戸時代には、尾張藩が管理して小牧山への入山は禁止されいた。

楽田城:築城年代は定かではないが永正元年(1504年)頃に織田久長によって築かれたと云われる。 大赤見城主の織田久長が楽田城を築いて居城を移したという。永禄5年(1562年)犬山城主織田下野守信清によって攻め落とされ、犬山城の支城となったが、永禄5年(1562年)信清は織田信長に追われ、楽田城には信長の家臣坂井政尚が守将として入城した。元亀元年(1570年)坂井政尚が近江国堅田で討死すると、奥城主梶川高盛が城主となった。 小牧長久手合戦では秀吉の部将堀秀政が在陣し、さらに秀吉も犬山城から楽田城へ移っている。

清洲城:清洲城は、応永12年頃に尾張守護斯波義重によって築城された。 その後、慶長15年に名古屋城築城にともなう「清洲越し」が行われるまでの200年の長きに渡って、尾張の府城であった。城は、織田信長が城主となって以来、整備拡張が続けられた。 天正10年、織田信雄によって大天守・小天守が築かれ、三重の堀もめぐらされた。織田信雄改易後、秀吉の時代には豊臣秀次・福島正則が城主となった。 関ヶ原の戦功により福島正則が安芸広島に移され、家康の4男忠吉、ついで9男義直が城主となった。

勝幡城:勝幡城は、永正元年頃に織田信定によって築かれた。 信定は、下尾張四郡の守護代清洲織田家の老臣(三奉行の一人)で信長の祖父にあたる。織田信定の子信秀は、勢力を拡大して他の奉行を圧倒、主家織田達勝を傀儡化して実権を握った。 天文3年、信秀は今川氏の尾張経営の拠点那古屋城を今川氏豊から奪った。 この那古屋城で信長が誕生れる。 その後、信秀は古渡城、末森城と築いて居城を移し、この過程で勝幡城は廃城となった。

一宮方面に向かう。

18:30一宮駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

29日7:00車で出発、お城巡り。

小幡城:大永2年(1522年)岡田重篤によって築城された。天文4年(1535年)岡崎城主松平清康が尾張に侵攻するがこの地で家臣の阿部弥七郎に殺された。その後、織田信光が城主となるが弘治元年(1555年)殺され廃城となったが天正12年(1558年)小牧長久手合戦において徳川家康は三河との連絡路を保つため、この城を修築し本多広孝に守備させた。小牧長久手合戦後は再び廃城となった。現在は宅地化され遺構はよくわからないが片隅に案内板が建っていた。

那古野城:那古野の地には今川氏の庶流那古野氏がいたとされるが、城との関連は不明である。一般には、今川氏親が大永年間(1521~28)に尾張に進出した際の拠点として築いた、「柳の丸」に端を発するとされる。この柳の丸には、氏親の末子で義元の弟にあたる今川氏豊(系譜には異説あり)が封じられた。柳の丸がいつから那古野城と呼ばれるようになったかは明らかでない(以下那古野城)。天文元年(1532)、勝幡城の織田信秀が那古野城を奪い氏豊を追放した。このとき信秀は、連歌を通じて氏豊に接近し、あるとき那古野城内で急病と偽って倒れ、心許していた氏豊が信秀の家臣を城内に招きいれたところ、信秀の手勢が城を占拠したと伝えられている。天文三年(1534)生まれの信長は、この城で誕生したとされている。しかし、近年、信秀の那古野城奪取は天文七年(1538)とする説が有力となっている。この場合、信長は勝幡城で生まれたと考えられる。信長が生まれてまもなく、信秀は古渡城を築いて移り、幼い信長が那古野城主となった。その信長も、弘治元年(1555)に清洲城に居城を移した。那古野城には一族の織田信光や家老林秀貞などが入ったが、やがて廃城となった。廃城後の那古野は忘れられたように寂れたが、関ヶ原の戦いの後、徳川家康が那古野の地に新城築城を計画すると、旧那古野城址は新生名古屋城の一部として取り込まれた。

末森城:末森城は、天正17年に織田信長の父織田信秀が築城し、それまでの居城古渡城から移った。末森城の築城は、守山城の弟織田信光と連携して三河への防衛のためと考えられている。 天正20年、織田信秀はこの城で病死し、信長が織田家の家督を嗣ぎ、末森城は信長の同母弟勘十郎信行が城主となった。弘治3年、信行は重臣達に擁されて信長に対抗したため、信長によって清洲城にて謀殺された。 末森城は、翌年に廃城となり破却された。

岩崎城:岩崎城は、天文7年に丹羽氏清によって築かれ、その後、氏清-氏識-氏勝-氏次と4代に渡って居城した。天正12年、豊臣秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いでは、岩崎城主丹羽氏次は、家康に従い小牧に出陣し、城は弟の氏重が守った。氏重は、岡崎城を奇襲するため南下した池田恒興らと戦い戦死、岩崎城は落城した。 その後、岩崎城主丹羽氏は徳川譜代大名として存続して、播磨三草を領して明治に至っている。

沓掛城:沓掛城は、応永年間に藤原義行によって築城されたと言われている。 室町時代の明応元年前後から近藤右近が城主となり、以後近藤氏の居城となった。永禄3年、今川義元の上洛の際、織田信長との戦い「桶狭間の合戦」で城主近藤景春は戦死して、城は空城となった。
その後、織田信長の所領となり、簗田政綱、織田信照、川口久助らが居城したのち廃城となった。 

鳴海城:応永元年、安原宗範によつて成海神社跡地に築かれたが、宗範の死後廃城となった。
戦国時代、織田信秀が修築して山口教継を守将として配置した。 信秀の死後、信長に不信を抱いた教継が今川義元に寝返り、後に教継は信長によって暗殺された。 今川義元は、山口教継の死後に岡部元信を鳴海城に入れ織田方に備えた。永禄3年、今川義元が桶狭間で信長に討たれると、城将岡部元信は信長に降らず、今川義元の首級と引き替えに城を明渡した。 その後、天正3年まで佐久間信盛が居城した後、廃城となった。

丸根砦:丸根砦は、永禄2年に織田信長が今川義元の尾張侵攻に備えて、今川方の大高城に対峙し、鷲津砦共々築いた。永禄3年、桶狭間の合戦の時、大高城に無事に兵糧を搬入した松平元康(徳川家康)が、佐久間大学盛重が守る丸根砦を今川勢の先鋒として攻めた。佐久間盛重以下織田勢は奮戦するが、小勢のため砦は落城し、守将佐久間盛重も討ち死にした。

大高城:大高城の築城年代は定かではないが、永正年間には花井備中守が居城し、天文・弘治年間には水野忠氏父子が居城した。永禄2年、今川方に寝返った鳴海城主山口教継は、沓掛城・大高城を攻略した。永禄3年、桶狭間の合戦の時、今川義元は大高城へ兵糧の搬入を松平元康(徳川家康)に命じたことで有名だ。桶狭間の合戦後、戦略価値の無くなった大高城は廃城となったが、元和2年、尾張藩家老志水忠宗が1万石を領して、館を設け明治まで代々続いた。

刈谷城:刈谷城は、天文2年に徳川家康の外祖父水野忠政によって築かれた。 忠政は、それまでの居城尾張緒川城へは嫡男信元を置き、自らは刈谷城へと移った。以後一時、岡部長教、佐久間信盛が入るが、寛永9年に三河吉田城へ移封されるまで、水野忠政-信元-忠重-勝成-忠清と代々水野氏が父祖伝来の地にあった。水野氏移封後、松平(深溝)、松平(久松)、稲垣、阿部、本多、三浦氏と譜代大名が居城する。 延享4年、土井利信が23,000石で三河西尾より入封、以後8代続いて明治に至った。 尚、刈谷土井家3代利制の時に所領の一部を陸奥湯野に移されている。

西尾城:天正13年、徳川家康は配下の武将達に命じて、かつては西条城と呼ばれていたこの城の大修築を行った。 天正18年に城主酒井重忠は、家康の関東移封に従い、替わって田中吉政の持ち城となる。 吉政は、三の丸を拡張して櫓門などを増築した。寛永18年、城主太田資宗は外郭の築城工事を始め、次に入封した井伊直好によって明暦元年完成した。譜代大名が目まぐるしく立ち替わり入封するが、明和元年に三浦明次が美作勝山へ移封となり、替わって出羽山形から6万石で松平(大給)乗祐が入封して、明治まで代々大給松平氏は他に移ることなく居城した。

桜井城:文明年間に松平信光が岩津城から安祥城へ進出して、この地も松平氏の所領となった。松平信定が叔父親房の養子となり、桜井松平氏と祖となった。 桜井城は、この松平信定によって城として整備されたと思われる。信定-清定-家次と桜井松平氏は、岡崎城の松平宗家に対して、しばしば反攻的な行動をとる。しかし、桜井松平4代忠正以降は、宗家徳川家康に忠節を尽くした。(子孫は、摂津尼崎城主として明治に至る) 天正18年、家康の関東移封に従い、6代家広は武蔵松山へ移り、桜井城は廃城となった。

安祥城:文明11年に岩津城主松平信光は、織田方の安祥城を奪取して、ここを松平氏の本城とした。信光-親忠-長親-清康(家康の祖父)まで代々居城し、その間に庶家を西三河各地に分封して松平氏の勢力拡大につとめた。大永4年、松平清康は本拠を岡崎城に移し、一族安祥長家を安祥城代とした。天文9年、尾張の織田信秀が安祥城を攻めて落城させ、安祥をその支配下に置いた。天文18年、今川義元は松平氏を庇護下におさめると、織田信広の守る安祥城を攻め、城主信広を捕らえた。 織田信長の元にあった松平竹千代(家康)と信広との双方の人質交換が行われた。 この事件後、安祥城は廃城となった。

14:00帰路に向かう。

今回の旅行、愛知県に足を運び、比較的マイナーなお城17箇所を巡り楽しみました。
愛知県は歴史的に重要なエリア、過去の日本の変動を物語っています。
歴史深い尾張のお城巡りドライブ観光でした。

 


 












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六弾:韓国済州島観光  2015年3月21-22日

韓国南端に浮かぶ島、中央に標高1950mの韓国最高峰の漢拏山がそびえ、景勝は変化に富む、14世紀までは耽羅国という独立国だったため、今なお残る独特の風習や文化も興味深い、温暖な気候、豊かな自然美を誇る国際的なリゾートとして人気が高い済州島を訪れました。

21日9:00関西国際空港大韓航空で出発
10:50済州空港到達、レンタカーで観光

済州島は韓半島南に位置する韓国最大の島。温暖な気候と手つかずの美しい自然が残されており、アジアを代表する休養地として人気のリゾートアイランドです。
漢拏山を中心に360余りの寄生火山と海岸地帯の滝や柱状節理など、美しい火山帯の地形が島全体に広がっており、春は鮮やかな黄色に染まる菜の花畑、夏には周囲の島と海、秋にはススキ畑、冬には漢拏山の樹氷など、四季折々の美しさが楽しめるのも済州の魅力。また、済州独特の風土に根ざした文化や新鮮な魚介類が楽しめる済州の味、ゴルフや海水浴、乗馬などのレジャーなど、いろいろな楽しみ方ができる魅力満載の島です。

旧済州エリアに向かう。

旧済州エリア:旧市街地の意味で旧済州(クチェジュ)と呼ばれます。龍頭岩(ヨンドゥアム)や古代神話が伝わる三姓穴(サムソンヒョル)の観光や、済州島で最大規模の在来市場、東門市場(トンムンシジャン)でのショッピングが人気。有名ホテルや飲食店も多く済州島観光の拠点に最適です。なお、新市街地の新済州(シンチェジュ)では車で約10分程度離れています。

龍頭岩:龍頭岩(ヨンドゥアム)は200万年前に溶岩が噴出して固まった形状岩で、高さ10メートル、長さ30メートルの大きさです。昔、龍宮に住んでいた龍が天に昇ろうとして、固まって岩になってしまったと言われています。台風で龍頭岩の頭の部分が雷に打たれなくなってしまい、現在は体の部分だけが残っています。龍頭岩から東側200メートルくらいの距離にある龍蓮(龍の蓮池)は、龍が遊んだというところから付いた名で、水底が見える程水が澄んでいます。

済州牧官衛址:牧官衙は1991年と翌1992年に行われた発掘調査により確認された遺跡で、観徳亭(クァンドッチョン)を中心に、東軒(トンホン)、政務亭(チョンムジョン)、弘化閣(ホンホァガク)、愛梅軒(エメホン)、橘林道(キュルリムド)、清心堂(チョンシムダン)などの建物が並んでいた跡が確認され、1999年に外大門をはじめとして各施設の復元に着工。
現在はそのほとんどが復元され、耽羅時代から朝鮮王朝時代に至るさまざまな文化を伝える重要な施設となっている。
外門の前にある観徳亭だけは、復元したものではなく現存する島内最古の建物で、1448年に地方官吏が青少年の訓練場として建てたもの。夜には美しくライトアップされ、門前の広場とともに市民の憩いの場ともなっている。観徳という名前は、一生懸命弓を習えば、徳を磨くことができるという故事にならってつけられたという。

三姓穴:三姓穴は、かつて済州島が独立国であった頃の「耽羅(タムナ)」を創始したといわれる高、梁、夫の三神人の誕生伝説が伝えられている国家史跡。伝説によると、この3つの穴から三神人が現れ、海のかなたから遣わされた三姉妹と結婚して国を繁栄させたとされる。敷地内には資料館があり、年に2回行われる祭祀についての展示がある。済州島のパワースポットとしても知られる。

東方面に向かう

萬丈窟:万丈窟(マンジャングル)は天然記念物に指定されている世界最長の溶岩洞窟です。溶岩洞窟というのは火山が 噴出するとき、土の中に深く隠れていた溶岩が火口から噴出し地表に流れてできたもの。万丈窟は70センチメートルにもなる溶岩石筍や溶岩チューブトンネルなど、様々な形態を持っています。
長さが13,422メートルありますが観光客に公開されているのは石柱がある洞窟の約1キロ程度であり、洞窟内部は年中11~21度を維持しています。万丈窟では、石柱と鍾乳石が2重3重に同じ方向に成長する姿が見られます。

城山日出峰:海抜182メートルの城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)は10万年前、海底噴火によってできた火山です。城山日出峰は済州道の東側の一番端にそびえ立つ大きな岩の塊で、日出峰頂上には巨大な噴火口があります。噴火口は直径600メートル、高さが90メートルで、面積が8万坪にもなります。大きな王冠を連想させる99個の鋭い岩が、噴火口の周りを囲んでいます。東・南・北側は絶壁で、西北面だけが芝が稜線に生えており、それが城山村まで続いています。西北面は散策路として造成されており、そこで馬に乗ることもできます。地方天然記念物として管理してきましたが2000年7月19日に天然記念物に指定され、2007年には世界文化遺産に登録されました。

16:30戻って新済州市方面に向かう。

新済州エリア:済州国際空港のすぐ南に新しく開発された新都市で、旧市街地の旧済州(クチェジュ)と区別して新済州(シンチェジュ)と呼ばれます。高級ホテル周辺に免税店やレストラン・ショップが集まっていて、島内で最も都会的です。また新済州の中心街は歩いて回れる広さなので、ホテル周辺の散策も楽しめます。旧済州までは車で約10分程度の距離です。


18:00新済州エリアのホテル到着後、繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
7:00レンタカーで出発、観光、南部方面に向かう。

漢拏山:標高1950mの漢拏山は韓国の最高峰であり、智異山(チリサン)、金剛山(クムガンサン)と並び、三大霊山とされる代表的な名山のひとつ。朝鮮半島の別称「三千里」は、北の白頭山からこの漢拏山までの距離をいう。済州島の中心にあり、島はこの山の噴火によってできた火山島。島の随所に溶岩洞窟や、オルムと呼ばれる寄生火山などの特徴的な地形が見られ、国立公園に指定されており、2007年には韓国初の世界自然遺産に登録された。
山は雲に隠れていることが多く、山頂まで眺められるチャンスが少ないが、姿を現したときには、角度により長い髪の女性が横たわっているようだといわれている。自然保護のために入山にいくらかの規制はあるが、登山コースも整っている。ただし、日帰りが原則で季節や時間による制限もある。半日以上かかる本格登山になるので充分な装備で臨みたい。

中文:済州島最大のリゾートエリアが中文(チュンムン)で、中文観光団地とも呼ばれています。南国ムードが漂い、美しい海を眺める高台の高級ホテル周辺にはゴルフやマリンスポーツなどのレジャー施設のほか、博物館や植物園、渓谷や滝などの観光スポットが点在。アクティブに過ごすも良し、のんびりと過ごすも良し、多くの観光客が余暇を満喫します。

天帝淵瀑布:「神の蓮池」という意味を持つ天帝淵(チョンジェヨン)は、3段の滝からなっています。天帝淵瀑布の周辺の林には松葉蘭などの珍しい植物が自生しています。第1瀑布(高さ22メートル、水深21メートル)から流れ落ちる東側の岩洞窟の天井からは冷たい水が流れ出していますが、現在は水泳が禁止されています。瀑布から流れ出る水は第2瀑布、第3瀑布になり海に流れ込んでいます。
天帝淵渓谷には「仙臨僑(七人の仙女を彫刻したアーチ型の橋)」と「天帝楼」と呼ばれる8角の楼閣が建てられています。七仙女と呼ばれる仙臨僑は天帝淵と中文観光団地に続く橋で128メートルにもなります。天帝楼の外壁には天帝淵の伝説がこめられた仙女図と神仙図が描かれています。毎年、偶数年の5月には、七仙女祭りが開かれています。

柱状節理帯:地上に露出したマグマが海水との温度差などにより結晶して形成された多角形の柱のような岩が連なっているものを柱状節理と呼ぶ。まるで職人技のような自然の作り出したアートは圧巻。さらに深い紺碧の海と、高さ20mもの絶壁に当たって砕ける波の白さがなおいっそうその美しさをひきたてて、絶景となっている。

山房山:島の南西の海岸近くに立つ山房山は標高395mの、安山岩でできた丸い形の岩山。山の中腹には洞窟があり、ここに高麗時代、慧日法師によって開山された山房窟寺(サンバングルサ)がある。洞窟には、天井から落ちてくる薬水の滴を集めた水飲み場があり、この水は長寿の水として知られている。寺までは400段の石段を上るが、その途中にある休憩所からはヨンモリ海岸と、17世紀にここに漂着して『朝鮮幽囚記』を書いたオランダ人、ハーメルの漂着350周年を記念して開館されたハーメル商船記念館が望める。

龍頭海岸:「龍頭海岸(ヨンモリヘアン)」は、山房山の山脈が海岸の侵食作業を受け、龍の頭が海に入るような形になっているところです。ここは数千万年の間に堆積した砂岩層の一つです。へこんだ洞窟や広い岩壁の侵食地帯が、幾重にも重なる美しい単層曲線を作り出しています。海岸に下る道には1653年、オランダ人のハメルが漂着して留まったことを記念して建てられた「ハメル漂流記念碑」が建てられ、海岸の右側には柔らかく黒い砂浜が広がっています。

松岳山:『松岳山(サンアクサン)』は、日本でも大人気だった韓国時代劇ドラマ“宮廷女官 チャングムの誓い(大長今)”のロケ地として一躍有名になったところです。クライマックスの最終回の名場面、妊婦のお腹を帝王切開して赤ちゃんを取り上げ、妊婦と赤ちゃんを助ける場面を撮影した場所です。『松岳山』の崖の下には15本の洞窟がありますが、これらは天然の洞窟ではなく日帝時代、人工的に掘られた洞窟です。第2次世界大戦当時、日本軍が軍事物資を隠すために海岸の絶壁にいくつもの洞窟を掘った名残です。また、ここは韓国最南端の島『馬羅島(マラド)』行きの船着場でもあり、海抜104メートルの『松岳山』の頂上に登って海の方を見渡すと馬羅島・加波島(カパド)・兄弟島(ヒョンジェド)が臨め、また近くは山房山(サンバンサン)、遠くは漢拏山最終回頂上まで限りなく見渡せる展望台のような所となっています。

西帰浦方面に向かう。

西帰浦:済州島の南部に位置する漁港で、ミカンの産地としても知られるのが西帰浦(ソグィポ)です。市内中心部にある「天地淵瀑布(チョンジヨンポッポ)」、「正房瀑布(チョンバンポッポ)」という2つの有名な滝を観光したり、沖合いをクルージングする遊覧船や、海底に潜る潜水艦などのマリンレジャーが人気。有名グルメ店や大きな在来市場もあるので、観光、グルメ、ショッピングと3拍子そろった街です。

天地淵瀑布:うっそうと茂る亜熱帯植物の林を抜けた所にある天地淵瀑布(チョンジヨンポッポ)。その名の由来は、天と地が出会ってできたという説のほか、滝壷の深さが滝の高さと同じだけあるためともいわれ、その深みのある色合いが美しい。天然記念物に指定されている夜行性の大ウナギが生息していることも、その神秘的な雰囲気をさらに高めている。

正房瀑布:正房瀑布(ジョンバンポッポ)は海に直接流れ込むアジア唯一の海岸瀑布で、高さ23m、幅8mにも達します。正房瀑布の絶壁には、徐福が秦の始皇帝(BC.259~BC.210)の命を受け、不死薬を探しにここを訪れたという意味の 「徐福過此」という文字が刻まれています。そして徐福が西側から帰ったということで、西帰浦という地名がつけられたそうです。
正房瀑布には海浜をはさんで 高くそびえ立つ絶壁があり、古い松が今にも海に倒れるかのように立っています。ここから東に300m程行くと小正房という5mの小正房瀑布があり、夏にはリゾート地としても有名なところです。海岸絶壁の上には展望台があり、海岸が遠くまで眺められます。

北東部に向かう。

サングムブリ:サングムブリは、周囲が2kmを超える噴火口で、天然記念物に指定されています。噴火口の直径は650メートル、深さ100メートル、周囲が2,070メートルにも達します。サングムブリを空から眺めると、人工的に造られた円形運動場のように見えます。植物の種類が多様で、北側は暖帯性の樹木(アカガシ、ホオノキなど)と希少植物のフユイチゴが生えています。噴火口の南側の斜面には温帯林の代表的な樹木(アカシデ、カエデなど)が森をつくっています。限定された空間である噴火口の中に、それぞれ違う性質の樹木が共存しており、学術的にも注目を集めています。サングムブリでは石で作られた入口と壁、噴火口などが見どころです。

16:30済州空港に向かう。

18:00済州空港到達。
19:30済州空港大韓航空で出発。
20:55関西国際空港到達。

今回の旅行、韓国の南端に浮かぶ済州島に足を運び、世界遺産の漢拏山、萬丈窟、城山日出峰など大自然にあふれる観光名所と旧済州に点在する歴史的建造物をドライブ観光で巡りました。
左ハンドル、右側通行は問題なかったですが、ナビがハングル後、操作がわからず、結局地図を頼りにして巡りましたが、道路が広く整備され、車も少なく、主たる名所は案内板がわかりやすく、なんとか辿り着けることが出来ました。

新済州市街地の繁華街は立派で高いビルが建ち並び、大きな都市で、沖縄の那覇市ぐらいを想像していましたが、はるかに規模が大きく活気に満ち溢れていました。

1時間30分で行ける、近場の外国、済州島、ネイチャーアイランドである自然に満ち溢れた島、ドライブ観光満喫しました。



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五弾:九州坂東三十三箇所巡り第二弾観光  2015年3月14-15日

関東地方の千葉県に足を運び、関東地方の全域に点在する霊場、坂東三十三箇所の札所の29札所ー33札所を巡りました。

14日13:37新大阪新幹線のぞみで出発
16:05東京駅到達、タクシーでザ・プリンス・マーク・タワーに向かう。
17:00講演会出席
19:00講演会終了。懇親会出席。
20:30終了、ホテル・ニューオータニにタクシーで向かう。
20:45ホテル・ニューオータニ到達、就寝。
15日7:30タクシーで東京駅に向かう。
8:00東京駅レンタカーで霊場めぐる。

千葉寺:千葉寺(せんようじ、ちばでら)は、千葉市中央区にある真言宗豊山派の寺院。山号は海上山。本尊は十一面観音であり、坂東三十三観音霊場第29番札所である。境内には瀧蔵神社がある。寺伝によれば、709年(和銅2年)この地を訪れた行基が十一面観音を安置したのに始まり、聖武天皇の命により千葉寺と称したという。1160年(永暦元年)に堂宇を焼失している。千葉氏の居城である千葉城(亥鼻城)に近いことから千葉氏の祈願所となった。

高蔵寺:高蔵寺(こうぞうじ)は、千葉県木更津市にある真言宗豊山派の寺院。山号は平野山(へいやさん)。本尊は聖観世音菩薩であり、坂東三十三観音霊場第30番札所である。通称は高倉観音(たかくらかんのん)。用明天皇の代(585年~587年)に徳義が小像の観音菩薩を感得して寺を建立したという。この観音像は、行基が刻んだ観音像に納められているという。

那古寺:那古寺(なごじ)は、千葉県館山市にある、真言宗智山派の寺院。山号は補陀洛山。本尊は、千手観世音菩薩。坂東三十三観音霊場第33番(結願寺)。通称は那古観音(なごかんのん)。寺伝によれば、行基が元正天皇の病気平癒を祈るためこの地を訪れ、千手観世音菩薩を安置して祈願すると、天皇の病気は平癒し、天皇の勅により建てられたのがこの寺であるという。

仁右衛門島:仁右衛門島は太海(ふとみ)の浜波太(はまはた)漁港の目の前にある小島で、源頼朝や日蓮上人の伝説と新日本百景にも選ばれた鴨川の名勝地です。
蓬島(よもぎじま)や波太島(なぶとじま)という異名もありますが、代々、平野仁右衛門が守り続ける島として古くから仁右衛門島と呼ばれていました。
治承4(1180)年8月、源頼朝は平家打倒に動き出します。伊豆で勢力を持つ山木兼隆を奇襲により討ち取ると、援軍を頼りに石橋山(神奈川県小田原市)に陣を構えます。頼朝勢は僅か三百、対する大庭軍は三千。折りしもの大雨で酒匂川の水かさが増し、頼みの援軍が立ち往生している間に大庭軍は頼朝勢に襲いかかります。多勢に無勢では勝ち目は無く、頼朝は命からがら小舟で安房国へと逃げ延びます。
仁右衛門島には“源頼朝の隠れ穴”と呼ばれる洞窟があります。これは安房で再起を図る頼朝に平家方の長狭六郎常伴(ながさろくろうつねとも)が夜襲をしかけるという噂が伝わった時、仁右衛門が頼朝を匿ったとされる洞窟です。この功績で仁右衛門は島と周囲の漁業権を与えられ、代々島主・仁右衛門とその家族が島を守り続けています

清水寺:清水寺(きよみずでら)は、千葉県いすみ市にある天台宗の寺院。山号は音羽山。本尊は千手観世音菩薩であり、坂東三十三観音霊場第32番札所である。通称は清水観音(きよみずかんのん)。延暦年間(782年 - 806年)に最澄がこの地を訪れて草庵を結んで十一面観世音菩薩を安置し、807年(大同2年)円仁がこの地を訪れ千手観世音菩薩を刻んで安置したという。

笠森寺:笠森寺(かさもりじ)は、千葉県長生郡長南町笠森にある寺院、天台宗別格大本山、坂東三十三箇所の第三十一番札所、山号は大悲山。寺伝によれば延暦3年(784年)に最澄(伝教大師)が楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み安置し開基されたとされる古刹で、古来より巡礼の霊場として知られており、十一面観音像が本尊であることから「笠森観音」と通称される。
大岩の上にそびえる観音堂は、61本の柱で支えられた四方懸造と呼ばれる構造で、日本で唯一の特異な建築様式であり重要文化財である。長元元年(1028年)に後一条天皇の勅願で建立されたと伝えられているがその後焼失し、現在の建物は解体修理の際発見された墨書銘から文禄年間(1592年-1595年)の再建とされている。観音堂の 75段の階段を上がった回廊からは、四季それぞれに美しい房総の山々が眼下に眺められ、その景観は一見に価する。他にも重要文化財の鋳銅唐草文釣燈籠など多くの文化財も残されている。
また、笠森寺周辺の森林は、延暦年間の笠森寺草創当時より禁伐林として保護されてきたと伝えられる暖帯林の残存林であり「笠森寺自然林」として国の天然記念物に指定されている。高木層はスダジイを主体とし、多くのシダ類なども見られ、自然が保たれていることからイタチ・アナグマ・リスなどの獣類、フクロウ・コノハズク・アカゲラ・ハイタカなどの鳥類やヒメハルゼミなどの昆虫類も生息し、関東地方の残存林として特徴的である。

東京駅にアクアライン海ホタル経由して向かう。

16:30東京駅到達。
17:05東京駅新幹線のぞみで出発。
19:36新大阪駅到達。

今回の旅行、坂東三十三箇所巡り第二弾、千葉県房総半島に位置する霊場5箇所を巡りました。これで東京、埼玉、神奈川、千葉に点在する坂東三十三箇所の霊場をほぼ巡り、あとは群馬、栃木、茨木に点在する霊場のみとなりました。近いうちに訪れたいと思います。

 








大阪府門真市寺院巡り第一弾観光  2015年3月11日 

大阪府の北河内地域に位置する市、地名の由来は「潟沼」や「門間」から転じたなど諸説あり、室町時代初期までは「普賢寺荘」、室町時代末期には現在の名が使われ、戦国時代には「門真荘」と呼ばれた門真市に点在する寺院22箇所をめぐりました。

13:00車で出発、門真に向かう。寺院巡り。

星願寺:

安通寺:

西稱寺:

桑才寺院:

願泉寺:

堤根神社:

本乗寺:

常称寺:

宗教法人称名寺:

宗教法人サイコウジブンイン:

浄徳寺:

成覚寺:

黄梅禅寺:天文十五年、足利義輝の創建で、開山は聨山隆芳
明応二年に室町幕府管領の畠山政長が細川政元に攻められ、河内国正覚寺で自刃した後、次男久俊は母とともに河内国茨田郡普賢寺郷門真荘に逃れ、小山梅巖が創建した黄梅寺に身を寄せたという。
永正六年 久俊の母が没した後、久俊は亡母のために黄梅寺に寿蔵を立てた。

即念寺:

西方寺:

専隆寺:

道徳寺:

教安寺:

願乗寺:

寿命院:

超願寺:

願得寺:大阪府門真市御堂町にある真宗大谷派の仏教寺院。山号は光明山。本尊は阿弥陀如来。

17:00終了。
今回は近場の大阪府門真市に足を運び、32箇所点在する比較的マイナーな寺院を22箇所巡り楽しみました。
残り10箇所は次回持越しです。






飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四弾:九州八十八箇所巡り第二弾観光  2015年3月7-8日

南の九州に足を運び九州の新四国、弘法大師空海が唐から帰国し、都に上洛するまでのあいだ長く滞在されたゆかりの地、九州八十八箇所の第二弾、大分に位置する17箇所をめぐりました。

7日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
15:58小倉駅到達、レンタカーで中津方面に向かう、途中霊場を巡る。

阿弥陀院:阿弥陀院は、今より百年前の明治二十八年十二月十日、京都市伏見区の総本山醍醐寺から、北九州の小倉へ移転してきました。  もとは承久元年(1239)醍醐寺山内に建立された塔頭寺院で、後白河天皇の長女覲子内親王、宣陽門院の御願により、成賢座主が開山されたお寺です。後の文正二年(1467)に起こった応仁の乱の折には、醍醐寺も戦火に巻き込まれて、衰退の一途をたどりました。しかしながら慶長年間には、座主義演僧正に帰依していた豊臣秀吉の力によって、醍醐寺は再建されます。阿弥陀院もこの時に再び法灯を回復し、本山護持の務めを果たしています

徳泉寺:大正8年、「佐伯心海」師が、その師「慈航和尚」の命により「延命地蔵菩薩」を本尊として、北九州に「大光坊」を開いたのに始まります。  その後、「高野山真言宗 大師協会戸畑市部・大光坊」となり、昭和12年に現在地(北九州市戸畑区千防1丁目)に移転して「延命山・徳泉寺」と寺号公称し、現在にいたります。

不動院:寛元2年(1244)下総前司藤原親房が鎌倉幕府の命により平家の残党鎮圧のため豊前代官職を帯びて西下。 建長7年(1255)姓を『門司』と改め現在の古城山を本拠とした。 このとき長野郷より吉志・伊川・大積 蒲生郷より片野・柳・楠原の3郷を拝領し『門司』6ヶ郷の称がおこった。 門司氏は南北朝時代には、一族二派に分かれ骨肉相食む事となる。 その後門司半島は大内・毛利・大友の交戦場となったが、門司氏は勢力劣弱のためしばしば苦境に立った。 天正15年(1587)より毛利(勝信)・慶長5年(1600)より細川(忠興)・寛永9年(1637)より小笠原(忠直)の各小倉に交代治政された。

真光寺: 延応元年(1239年)、阿聖(あしょう)上人が全国を巡錫砌、貫山に紫雲棚引くのを見て、貫山が霊山であると感じて 庵を結んだのが「貫山真光寺」の始まりである。その后、中国地方の「大内」氏の豊前進行に当たり、真光寺に本陣を置いた。
 しかし、その戦いで伽藍を全焼、戦勝の「大内」氏は中忠左衛門(なか・ちゅうざえもん)を復興奉行とし、伽藍を再興し、 「大内」氏の豊前の祈願寺となった。以後、下寺35坊と言われるほどに隆盛を極めた。
 江戸時代に入り「小笠原」氏が豊前の領主となり、真光寺は「小笠原」氏の祈願寺となった。 それにより「修善院」を送られ、「貫山修善院真光寺」となり、寺紋は「大内菱」から「三階菱」となった。
 慶応二年(1866年)の小倉戦争で長州の奇兵隊等の攻撃に会い、またも伽藍を焼失した。 その後、残った小堂を仮本堂として、本尊阿弥陀如来を始め焼け残った仏像をお祭りし今日に至っている。

18:30中津駅前のホテル到着後駅前の居酒屋で食事を済ませて就寝。
8日7:00レンタカーで出発、大分に位置する霊場を巡る。

普門院:町の中の寺院には珍しく緑の中に鎮まった寺院で、樹木に囲まれた中に本堂がございます。この本堂は江戸時代の建築で、とても趣のある本堂です。ご本尊は如意輪観世音菩薩と申しまして、私たちの願いを「意の如く」かなえて頂ける御本尊様で、秘仏でございます。
毎年8月9日の千日観音は一日で千日参拝したのと同じ功徳があるといわれており大変賑わいます

三明院:弘法大師ご入定1150年を契機として仏門に帰依した現住職が今道心を志し、開山英明和尚は宮嶋弥山に50日間五穀断ちの「求聞持秘法」という真言密教の究極を極める行に挑み、艱難辛苦に耐えてこれを成満した際、生家である現在の地に大観音の光明がさし、八十八体の弘法大師の並ぶ夢告を得て以来、秘鍵大師を勧請し、自然林の中に八十八体の大師像を配置し、お砂踏み霊場を建立した。本堂には十一面千手観世音菩薩と、護摩堂の不動明王は英明和尚の実父実夫氏が脳溢血で倒れたとき既に心臓も停止していた体を和尚の修法中明王自身が二つに割れて実父の生命を復活させたことから身代わり不動として信仰を集めている。現在、境内は四千坪の敷地があり、そこには師の祈りを彷彿とさす堂宇が幾つか建立されている。ひたすら弘法大師の教えを実践する寺風が感じられるお寺です。

神護寺:境内には山岳寺院の雰囲気があり、二滝の心地よい音が響いております。また数多くの石仏が点在しておりますが、そのなかでも特に大きな石造は釈迦涅槃像です。長さが9メートルあり境内の石に直接彫られております。8月16日の夜には八面山祭りがおこなわれ、約二千本の燈明が境内と近くの平和公園にともされます

大楽寺:宮中と呼ばれる宇佐の小盆地南宇佐に位置する大楽寺は、医王山を背にした段丘にあり眼前には神領の社を臨むことができる。
宇佐市内では宇佐八幡宮に次いで貴重な史跡であり、数多くの文化財が護持されている。
また近年では、厄除け開運祈願のお寺として信仰を集めている。

光明院:光明院は江戸時代、杵築城主、松平英親公が杵築藩の裏鬼門除けにと正保2年(1645年)に不動明王を安置し、専ら祈祷三昧であったが、享保年中に至って、三代城主松平重休公の庇護を蒙 り堂舎が建立されて祈祷道場となった。 当時は本堂・護摩堂・諸堂・金比羅権現・門等があり寺跡一町近くありましたが、明治初期の廃仏毀釈にあい廃寺同然になりましたが、後に浅野順理住職により復興している。  当院護摩堂は、普通の木造ではなく、巨大な岩山の下に開いた洞窟の中に、諸尊が安置されている。 本尊の不動明王は本堂に祀られている。境内の洞窟にある護摩道場には不動明王をはじめとする五大明王が祀られている。大師堂には弘法大師、聖寶理源大師が祀られている

蓮華寺:有名な“別府温泉”の隣町にあり、お城の下の海で採れる魚「城下カレイ」が有名な町で、歴史と文教の城下町である。
寺の門前からは、お猿の高崎山、別府湾が望まれる。
寺の由緒、歴史は古く、旧日出藩主の祈祷寺として栄えたお寺である。
本尊「千手観音」及び「涅槃図」は県の文化財に指定されている。
庫裡には、樹齢400年のサツキの庭園があり5月初旬が見頃である。
平成19年4月に、庫裡、檀信徒会館が新築され、「生涯学習の寺」として一般開放されている。

金剛頂寺:当院は、大同元年(西暦806)唐よりご帰朝された弘法大師が、博多の地に留まられたおり、当若杉山に登られ鎮護国家・救世利民の祈願を施された時に庵を結ばれた地に建つお寺です。 かつては、百八僧坊を構え金堂・宝塔・宝蔵・鐘楼などの諸堂が甍を並べるほどに隆盛を極めていました。この地には伝教大師を始め慈覚大師・智証大師・理現大師・常暁上人などの多くの高僧が訪れています。 当時、金剛頂院のある若杉山は右谷・左谷に分かれて三百の僧坊が建ち並んでいたといわれますが、貞和3年(西暦1347)山内に戦乱が起こり、聖地は焦土となってしまいました。現在の金剛頂院は昭和17年に再建されたものです。

福寿院:『福寿院と豊後府内藩』豊後府内藩が成立したのは文禄3年(1594年)将軍徳川家綱の命を受け松平忠昭が万治元年(1658年)6代目府内城主として転封したため、松平家の祈願所であった福寿院もじょうない三の丸に移したという。

賢龍寺:今を去る約500年前、京の僧が「愛宕将軍地蔵尊・不動明 王」の両尊を奉して寺を建立し、両尊を安置して「妙光寺」 と号した。その後、兵火のため伽藍は焼失したが、幸いにも 本尊二尊は時の僧円浄法印により搬出され、この難を免れた。 以後は少庵を建て安置したが、時移り世が変わるに従い衰微 し、今から約、350年前 御西天皇の明暦元年(江戸時代 前期1655年)七月、円峯法印が寺の復興を計り堂宇を建 立して、賢龍院法船寺と寺名を改称し、中興開山した。時の 経るにしたがい荒廃した。今を去る200年前、光格天皇の 天明元年(江戸時代後期1781年)に宥玄法印が深く嘆き、 現在の地に移転、中興開山となり現在に至っている。

蓮城寺:三重町から宮崎県北川町に通じる国道326号(日向街道)沿いの三国峠に入る山すその静かな内山地区に蓮城寺(れんじょうじ)はあります。この蓮城寺にはたくさんの薬師像が安置されているため、本尊千手観音にちなみ通称「内山観音」と言われています。蓮城寺は高野山真言宗の寺で、この寺の歴史は古く寺伝によれば、欽明天皇の15年(546)に中国の天台山から渡来した僧蓮城が開山、真名野長者(炭焼小五郎)が寺を建立したといわれている豊後国最古の寺です。
 観音堂には本尊の千手観音、薬師堂には京都三十三間堂と並ぶ998体の薬師像が安置されています。また、山の山腹には高さ22mの巨大な般若姫像が建っており、町のシンボルとなっています。
 この近辺は桜の名所としても知られており、秋の紅葉もきれいな場所です

大日寺:大日寺は檜枝淳心尼が久留米の長門石の地で、昭和六十年に開山された寺であります。 本尊を大日如来とし、不動明王、文殊菩薩、弘法大師、地蔵菩薩が本堂にお祀りされております。
設立当時ののどかな田園地帯が、年々宅地化され、現在は、住宅街にたたずむお寺となっておりますが、 「大日寺の東方には高良大社、西方には千栗八幡宮があり、本尊の大日如来様は、東の高良退社・耳納連山からの 素晴らしい朝日を毎朝全身に頂かれ、その後方は素晴らしい沈む夕日の千栗八幡宮に守られていて、親子大社の ありがたい位置に座せられており、この位置から動かれることはなく、どのような困難を強いられても、又、宅地化が 進み、寺の周りがどんなに住宅が密集しようとも、本堂をこの位置から動かすことはできない。」という 淳心尼の信念に基づき現在まで引き継がれております。

海岸寺:高速道路を下ると3㎞(約5分)で着きます。静かなお寺です大師堂には、九州で有数の大きなお大師様が迎えてくれます。醍醐の教え実修実証を守り、厄除や交通安全、水子供養等の各種の祈願を修す山伏の寺です。寛政元年に臼杵藩の祈願寺となり、藩主やその一族、特に奥様方がお参り下さいました。

興山寺:興山寺の歴史は真言宗総本山高野山から始まっている。天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めにより、兵火が高野山に及ぼうとしたとき、秀吉と直談判して山を守った人物が、木喰応其上人である。その後応其上人は青巌寺と興山寺を創建して山内の中心伽藍とし、さらに諸堂を再建した。 明治になって興山寺は青巌寺と併合され、金剛峯寺と呼ばれるようになった。由緒ある興山寺の名前が消えることを惜しんだ山縣玄浄僧正が、稲葉氏の協力を得て臼杵に寺号を移し、興山寺がこの地で再興された。 境内の奥まったところに本堂と庫裡が並んでいる。宝造形の本堂に安置された本尊、無量寿如来は秘仏のため直接拝することはできない。境内には多くの石仏が点在している。

16:30博多駅到達。
16:48博多駅新幹線のぞみで出発
19:25新大阪駅到達。

今回の旅行、九州八十八箇所巡り、第二弾、大分に位置する霊場17箇所を巡り楽しみました。
前回に続いて、小ぶりの寺院が多いが、案内板がしっかりしており、迷わず辿り着けることが出来ました。
次回は宮崎に位置する霊場を訪れる予定です。