飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十一弾:イラン&カタール観光  2015年4月28日−5月6日 

アジアとヨーロッパを結ぶシルクロードの中継地として栄え、高原には多くの王朝が興亡した世界史的にも重要な地であり、東西の多くの文化を吸収し、現在の国家が作られたイラン、ペルシャ湾の中央に、ニョキニョキと突き出した半島、大きさは秋田県とほぼ同じだが国土の大部分は平坦な荒野が広がり、半島の南部には白砂の砂丘が広がり、人口の約8割が集中するドーハを除けば、点在する町々は閑散とした雰囲気が強く、特に暑い夏の季節の昼間の町を歩くとゴーストタウンのような静かなカタールを訪れました。


4月28日23:15関西国際空港、カタール航空で出発。
29日5:35ドーハ到着。
7:20ドーハカタール航空で出発。
10:15テヘラン到達、バスで市内観光。

イラン:悠久なる歴史とペルシャ帝国の栄華を偲ぶイラン。近代都市として生まれ変わる首都・テヘランをはじめ、バラの都シラーズや、イランの真珠と讃えられる魅惑の都市・イスファハン、ゾロアスター教の聖地・ヤズドなど、魅惑の都市が満載です。さらに、アケメネス朝の栄光がうかがえる巨大遺跡・ペルセポリスなど、魅力満載のイラン。

テヘラン:4,000m級の峰が連なるアルボルズ山脈の麓に広がるイランの首都・テヘラン。交易の主要都市として栄え、のちに砦を壊し近代都市として生まれ変わりました。

タジリッシュバーザール:迷路のように所狭しとお店が立ち並び、香辛料や絨毯などイランならではの商品が並ぶタジリッシュ・バザール。まるでひとつの町のように、銀行や寺院のほか、消防署などもあります。

ゴレスタン宮殿:首都テヘランで現存するもっとも古い建築物。増改築を繰り返しガシャール朝時代に絶頂期(19世紀)。ペルシア式のモザイクタイル・庭園、キリスト教式のステンドグラス、インド式の鏡の間などを取り入れた色彩豊かな建物。

イラン考古学博物館:建物はイスラム化以前と以降の展示物で構成されたイラン考古学博物館。本館ではペルセポリスから運ばれた壁画のレリーフなど、古くからの歴史を感じることができます。

絨毯博物館:イラン各地の有名産地から100以上の美しいアンティーク絨毯が集められている。

15:00バスでカーシャーンに向かう。

カーシャーン:テヘランとエスファハーン、2つの大都市のちょうど真ん中に位置するカシャーン。タバータバーイーの邸宅や、可愛らしいフィーン庭園が見どころ。

19:00カーシャーンのホテル到達。
20:00ホテルで夕食。
21:00就寝。
30日8:00バスで出発、ヤスドにむかう。

12:00昼食

ヤスド: イランのほぼ中欧に位置し、乾いた熱風と強烈な日差しが振り注ぐ砂漠都市・ヤズド。迷路のように入り組んだ小路と、日干しレンガを土で塗り固めた家々が印象的。


ドラウト・アーバード庭園:町一番の高さを誇るバードギールが残る旧市街の西にある庭園。建築物内にはステンドグラスの凝った飾り窓が見事。

マスデジェ・ジャーメ:空高く天を刺すメナーレが印象的な、ヤズドのシンボル的寺院。正面入口やドームには美しいタイルワークが残り、イスラム建築の傑作のひとつとして数えられています。

ゾロアスター教寺院アーテシュキャデ:古代イランの宗教、ゾロアスター教の寺院。随所にペルセポリスの建築様式が取り入れられています。1500年以上前から絶えず燃え続ける聖火は一見の価値あり。

鳥葬の地・沈黙の塔:ゾロアスター教徒を埋葬する為に使用されていた岩山の塔。一般的には「鳥葬」で知られますが、実際は風葬にたまたま鳥が来てしまっただけ…とか。

アミール・チャクマーク広場:空高く天を刺すメナーレが印象的な、ヤズドのシンボル的寺院。正面入口やドームには美しいタイルワークが残り、イスラム建築の傑作のひとつとして数えられています。

19:00ホテル到着
20:00ホテルで夕食
就寝

5月1日8:00バスで出発、古都シラーズに向かう。

途中パサルガタエによる。

パサルガタエ:紀元前546年頃に建設された、アケメネス朝最初の都。現在では、広大な敷地に点々と残る遺跡が、都市の栄華を物語ります。

王墓ナグシェ・ロスタム:アケメネス王朝の4人の王が眠る墓。下部には馬に乗った騎士のレリーフが施され、中には高さ7mのものもあります。

昼食

シラーズ到達

シラーズ:「ペルシャの顔」とも言える街で、バラと詩で知られるシラーズ。四季を通じて穏やかな気候で、街には花と緑があふれ、例年5〜6月にはバラが咲き誇ります。

クルアーン門:イラン南部の都市シーラーズにある歴史的な門である。 クルアーン門はシーラーズの街の北東の入り口に位置し、ファールス州のマルヴダシュトやエスファハーン州のエスファハーンからシーラーズへと入る際の玄関口となっている。

エラムガーデン:ペルシャ語で「楽園」を意味する「エラム」を名に持つ庭園。5〜6月頃には一斉にバラが咲き乱れ、まさしく楽園のような輝きをみせます。心地よい風を感じながら散歩すると優雅な雰囲気が漂います。

18:20ホテル到達

19:30ホテルで夕食

就寝
2日8:00バスで出発。

マスジェデ・ナスィーロルモスク:1887年に完成した、南北ふたつのエイバーンのある中庭を持つ小さな寺院、ステンドグラスの光が美しい。

シラーズ郊外に位置する古代都市ペルセポリス遺跡に向かう。


ペルセポリス遺跡:イラン最大の見どころ・ペルセポリス遺跡。ヨルダンのペトラ遺跡、シリアのパルミラ遺跡と並んで「中東の3P」と呼ばれ、アケメネス朝の栄光がうかがえる大遺跡です

クセルクセスの門:クセルクセス1世によって建てられた「万国の門」と称され、控えの間の役割を果たしていました。現在は高さ約10mの円柱や側柱、見事な牡牛像などのレリーフが残ります。

謁見の間:ペルセポリス宮殿の中心部にある謁見の間。使者との謁見祭儀のために使われていたといわれており、数千人を収容できる壮大な空間です。高さは20m、円柱は72本あったといわれます。

使者たちの彫刻:東階段の横にある基壇壁面には、 ペルセポリスに貢物を運んできた使者たちの様子が彫刻されています。

百柱の間:歴代の大王が公式行事を行った玉座殿。その名の通り100本の柱で支えられていた事から「百柱の間」と呼ばれています。

王墓:ラフマト山の向かって右側にアルタクセルクセス2世の王墓、その南方にはダレイオス3世の岩窟墓があります。ペルセポリスの遺跡が一望できる、山の中腹に位置しています。

ホマ:幸福の鳥を意味する双頭鷲像。ペルセポリスのスフィンクスとも呼ばれ、イラン航空のロゴにも使われています。

市内で昼食

イスファハンに向かう。

途中ペルシャ絨毯専門店による。

ホテル到達。

ホテルで夕食。

就寝。

3日8:00バスで出発

イスファハン観光:「イランの真珠」とたとえられるイランの古都。17世紀に建造されたチェヘルソトーン宮殿の水と緑があふれる美しい庭園は、サファヴィー朝最盛期の姿をそのまま残しています。

ハージュ橋:長さ133m、幅12mのザーヤンデ川の橋の中でも優美な姿が美しいハージュ橋。

スィーオーセ橋:イラン中部の都市イスファハーンを流れるザーヤンデ川に架かる石造橋。長さ約300メートル。幅14メートル。17世紀初頭、サファビー朝アッバース1世が進めた都市計画に基づいて建造された。ペルシア語で「33」を意味し、橋の上部に33のアーチがあることに由来する。


アルメニア正教バーンク教会:アルメニア使徒教会の聖堂のひとつ・ヴァーンク教会。内部の壁には「最後の審判」などの聖人の画などが描かれており、荘厳な雰囲気。アルメニア博物館も併設しています。

マスジェ・ジャーメ:さまざまな時代の建築様式が随所に見られる、エスファハーンで最も古い歴史を持つモスク。重厚な造りの回廊や、中庭、繊細なレリーフなど、さまざまな見どころがあります。

イマームモスク:イマーム広場内に隣接し、サファヴィー朝時代を代表する建築物。エヴァーンの天井の鍾乳石飾りは見事で、その造形美は息をのむほどの美しさです。


昼食

イマーム広場:エスファハーンの中心に位置する広場。「世界の半分」と讃えられたイスラム文化が花開いた町で、訪れる人すべてを魅了する美しさで、世界遺産にも登録されています。

アリ・カプ宮殿:イ長さ133m、幅12mのザーヤンデ川の橋の中でも優美な姿が美しいハージュ橋。ランでは初となる高層建築で、18本の柱が屋根を支えています。緻密な計算がされている音楽ルームも必見です。

マスジェデ・シェイフ・ロトフォラー:説教師シェイクロトフォラーを迎えるために作られた寺院。彩色タイルでできた繊細で美しいモザイク模様が見どころ。

チェヘルソトゥン庭園:サファビー朝時代にアッバース2世にとって建造された迎賓館・チェヘルソトゥーン宮殿。実際の柱は20本ですが、正面の池に映り、あわせて40本に見えることから「40の柱」を意味するこの名がついたといわれます。

チャイハネペルシャの喫茶店でお茶をする。

バザール:イマール広場のバザールを散策する。


市内のレストランで夕食

イマール広場のライトアップ鑑賞

20:40ホテル戻る。

就寝。

4日8:00バスで出発、アビヤネ村に向かう。

アビヤネ村:渓谷に囲まれたペルシャの伝統が息づくペルシャの原風景とも言われるアビアネ村

市内レストランで昼食

カーシャーンに向かう。

フィーン庭園:イラン中部の都市カーシャーンの南西郊にある庭園。その起源は16世紀にさかのぼるが、現在見られる庭園はサファビー朝アッバース1世により建設され、以降も拡張工事が続けられた。19世紀半ば、カージャール朝の宰相アミール=キャビールが暗殺された地としても知られる。2011年、「イランのペルシア式庭園」の名称で国内にある他の八つの庭園とともに、世界遺産(文化遺産)に登録された。

テヘランに向かう。

ホテル到達。

ホテルで夕食。

就寝。

5日8:00バスで空港に向かう。

9:00空港到達。

11:55カタール航空でドーハに向かう。
12:30ドーハ到達。
ドーハ市内観光。

ドーハ:世界最先端の新都市と独特な民族性を楽しめる。

アル・アハリ・スタジアム:1993年のワールドカップアジア予選でのドーハの悲劇は有名。
ラクダ市場:食肉用のラクダ牧場
ハリファー・インターナショナルスタジアム:2022年ワールドカップスタジアム
競馬場:ドーハで人気の競馬場
スークワキーフ:スークには市場の意味があり、様々な商店街が軒を連ね、古い商店街のようなところで、近年は観光のために改装し、古めかしい感じを残しながらリニューアルされています。

16:30ドーハ市内のホテルで休憩。
22:00空港に向かう。
22:30空港到達。
6日1:35カタール航空で出発。
17:25関西国際空港到達。

今回の旅行、中東のイランに足を運び、テヘラン、カーシャーン、ヤスド、シーラーズ、エスファハーンの6つの都市を巡り歴史的建造物、遺跡を訪れ9日間の旅満喫しました。

特にエジプトのアブシンベル、ヨルダンのぺトラに匹敵するアケメネス朝の王墓と広大なペルセポリス遺跡は圧巻でした。

出発前から周囲から危険な旅行と指摘ありましたが、イランは中東では安全な国、治安が良く、親日で日本人には優しい国です。個人旅行者も多く安心して旅行を楽しむことができました。

ドーハでトランジェットの時間に余裕があったためカタールのドーハ市内観光もでき楽しめました。
発展続けるドーハの世界最先端の街並み、近い将来ドバイに似た、匹敵する又は越える町に変貌するでしょうね。

カタール&イランの9日間の歴史的建造物巡り観光旅行でした。




























飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十弾:徳島県四国別格二十霊場&四国三十六不動霊場巡り  2015年4月25−26日

四国の東部に位置し、阿波踊り、祖谷狭、鳴門の渦潮などで有名な徳島県に足を運び、四国別格二十霊場の6箇所、四国三十六不動霊場の14箇所をめぐりました。

四国別格二十霊場:四国は弘法大師の御生誕の地でもあり又御修行の地でもあります。御大師さまにまつわる信仰や伝説にもとづいて開かれた寺々は、八十八カ所霊場以外にもたくさんあります。
 別格霊場はその中でも御大師さまとご縁の深い寺院二十ヶ寺が結集した霊場です。この霊場の中には弘法大師さまをご本尊とする寺院も多くございます。

四国三十六不動霊場:徳島県・香川県・高知県・愛媛県内にある36箇所の不動明王霊場寺院の総称で、 弘法大師の生誕の地の四国に、お大師様が深いご縁で結ばれた不動様の霊場を開こうと、霊験ある不動明王が祀られていられる寺院36ケ所が、平成元年に結集し霊場を開いた。年中行事として、春には「不動の火祭り」と称し大柴灯護摩が行われ、秋には霊場会公認の先達会が行われる。

25日12:30車で出発、阪神神戸淡路鳴門自動車道経由して鳴門インター下車、

大山寺:武烈(ぶれつ)天皇(在位498〜506)、継体(けいたい)天皇(在位507〜531)の頃、西範僧都(さいはんそうず)が開基した阿波仏法最初の道場であり、阿波屈指の古刹で阿讃山脈の大山(691m)の中腹にあります。
 後に弘法大師が四国霊場開創の根拠地として堂塔を整え仏王山と名付け、恵果和尚から授かった千手観世音菩薩を安置したといわれています。
 寿永4年(1185)源義経が屋島合戦の戦勝祈願をし、江戸時代には阿波藩主蜂須賀家の祈願所となっています。
 戦国時代の七条城主・七条兼仲公にまつわる行事としての「力餅」は400年の伝統を誇り、大鏡餅86kg(三方を合わせ169kg)を抱えて歩く距離を競うもので、毎年、1月の第3日曜日に行われています。
 又、開運招福の寺、男女縁結びの寺として知られ、山頂から四方を見渡せる徳島百景の一つになっています。
 国の重要文化財として大治元年(1126)の銘のある経筒があり、義経の愛馬薄雪の墓があります。

蜜厳寺:徳島県徳島市にある寺院である。宗派は高野山真言宗。本尊は新居不動。山号は降魔山。四国三十六不動尊霊場十三番札所。別名は不動院。

東禅寺:

童学寺:飛鳥時代に行基が創建し、弘法大師が幼い頃、この地で書道や密教の学問を修得されたことから寺号を童学寺と称されています。
 日本の民衆教育の最初である「いろは歌」47文字を創作されたと伝えられています。
 大師が42才の弘仁6年(815)、再びこの地を訪れ堂宇を整え、薬師如来、阿弥陀如来、観音菩薩、持国天、毘沙門天、歓喜天を刻み安置されました。本尊薬師如来は藤原時代の作で国の重要文化財となっています。
 その後、天正年間(1573〜1592)兵火に遭い焼失しましたが、元禄年間(1688〜1704)に幕府の援助で再建されています。
 納経所裏手の逍逢園入口に大師が硯の水を求めた泉があり、お加持水として諸病に効き、書道上達の霊水として伝えられています。
 現在、念珠の親玉はここ童学寺のみでいただくことが出来ます。

明王院:

明王院:

最明寺:弥天山 最明寺(さいみょうじ)は徳島県美馬市にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。開山を行基として天平年間(729年〜748年)に創建された。この寺には、北条時頼が滞留したという伝説が残されている。本尊は聖観音菩薩。阿波西国三十三観音霊場第33番および四国三十六不動尊霊場第3番の札所になっており、多くの参拝者が集う。

徳島市に向かう。

16:40徳島市内のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

26日7:30車で出発海部方面に向かう。

鯖大師本坊:行基が開創し、弘仁年間(810〜824)この地を訪れた弘法大師が、馬の背に塩鯖を積んだ馬子に出会い、塩鯖を乞われましたが、ののしられ断られました。馬子が坂まで来たとき、馬が急に腹痛で苦しみ倒れ込みました。馬子は懺悔し大師に鯖を献じ、馬の病気を治して下さるように頼みました。大師は馬にお加持水を与えると元気になり、塩鯖を海中に放ちお加持すると蘇り沖に泳いで行きました。そこで発心した馬子は出家し、大師の弟子となり庵を建てて人々の救いの霊場としました。これが鯖大師の由来で、鯖を3年食べないことにより子宝成就、病気平癒の願いごとがかなえられるといわれています。
 境内には鯖を右手に持った大師像が建っています。護摩堂の洞窟の中には不動尊祈願道場があり石仏や写真が並んでいます。

那賀方面に向かう。

正光寺:

勝浦方面に向かう。

慈眼寺:弘法大師が延暦年間(782〜806)に開山したと伝えられ、本尊十一面観世音菩薩は大師作と伝えられています。弘法大師19才の時、世の中の人々の生活苦、病苦及び一切苦厄を除くために修業中、夢の中でお告げがあり、鍾乳洞を発見し邪気払いのため護摩供の修法を行い、堂宇を建てて霊場としました。
 山岳修験寺として有名で洞窟での「穴禅定」が行われています。約2億5000年前に形成された100m程の洞窟で導師の言われる通りにしないと進退窮します。無事にお参りできると「無病息災で長患いをしない」「金運、開運が成就します」「入試、安産、交通安全の成就ができます」といわれています。費用は1500円で1時間前後を要します。
 又、慈眼寺は第20番鶴林寺の奥の院となっていて、途中一心橋を渡ると「潅頂ヶ滝」(別名御来迎の滝)があり落差約60mの名瀑です。深山幽谷の世界にあり、境内からの眺めは絶景です。

健治寺:徳島県徳島市入田町の西龍王山にある寺院。山号は大滝山。宗派は東寺真言宗。本尊は金剛蔵王大権現。四国八十八箇所霊場の第十三番札所・大日寺の奥の院。四国三十六不動尊霊場第12番札所。

加茂不動院:

長善寺:

不動院:

箸蔵寺:天長5年(828)弘法大師がこの地を訪れ、この山で金毘羅大権現の御神託を受け、七堂伽藍を建立し、御本尊金毘羅大権現を刻まれて奉安されました。讃岐・金刀比羅宮の奥の院です。戦国時代には兵火に遭いましたが復興を重ね、以来千有余年の法灯を継ぎ広く信者を集めています。
 又、お寺は箸蔵山(600m)の山頂近くにあり、本殿は銅板葺き八棟造りで小天狗と鴉(からす)天狗の奉納額が掲げられており重厚で、左甚五郎の弟子の作といわれる彫り物は素晴らしいものがあります。護摩堂、薬師堂、観音堂、鐘楼と何れも古く江戸時代の歴史を感じさせる四国霊場の中でも有数の大寺です。
 又、年間を通して数多くの法要があり、特に「箸供養」は全国的に有名であり、大師は金毘羅大権現より「済世利民」のご神託を授けられ、「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん」という言葉で表されています。つまり、「全ての人々を救済する」ことを全ての人が使っていた箸にたとえています。これが箸蔵寺の名前の由来となっています。又、護摩供養は朝夕欠かさず2回行われています。又、正月三ヶ日は特別護摩供養を行っています。
 境内一帯は県立箸蔵自然公園となっており眼下に四国三郎・吉野川を見下ろす景勝地となっています。

蜜厳寺:

大瀧寺:奈良時代の神亀三年(726)行基菩薩が、塩江より阿讃山脈五峰の一つ大滝山(940m)に登り、一宇を建立して弥陀三尊を安置されました。平安時代の初期、延暦10年(791)弘法大師がこの地で求聞持修法を修法し、弘仁6年(815)弘法大師42才の時2度目の修法をされ伽藍を再興いたしました。2度目の登山のときに、現世の男女厄難消除、万民安楽の為に、西照大権現の御尊像を安置し、法華経を一石毎に書き、男女厄流しの秘法を修されました。
 又、天安2年(858年)聖宝尊師(理源大師)が登山され、厄除厄流の大護摩を修法され、その法が今に受け継がれ厄流しの寺として有名です。又、第88番大窪寺が東にあり東大窪寺、西大瀧寺と呼ばれています。

16:30帰路に向かう。

今回の旅行、四国の東部、徳島県に足を運び、四国別格二十霊場の6箇所、四国三十六不動霊場の14箇所をめぐり楽しみました。

四国八十八箇所霊場よりも小ぶりで地味な霊場をイメージしていましたが、なかなか立派、お参りに来られる方もたくさんおられ活気に満ちあふれていました。四国の霊場めぐり、四国八十八箇所だけでなくその他の箇所も人気ですね。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九弾:岐阜県お城・城下町巡り  2015年4月18−19日  

日本の真ん中、数少ない内陸県、戦国時代斉藤道三や織田信長が活躍し、後に徳川家康と石田三成による関が原の合戦の舞台にもなった歴史の一大中心地、岐阜県に足を運び比較的マイナーな8箇所のお城を巡りました。

18日12:30車で出発、第二京阪京滋バイパス名神を経由して岐阜に向かう。
竜王インター手前でエンジン制御装置の警告ランプ点灯認め、竜王インター下車、トヨペット自動車に寄る。点検の結果、ウオーターポンプの故障、修理は明日の夕方になるとのことで、車をトヨペットに預け、レンタカーを借りて岐阜に向かう。
19:10岐阜羽島駅前のホテルに到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

19日7:00レンタカーで出発、お城巡り。

苗木城:苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていました。
 1階部分の名称は「天守縁下」、板縁を入れて4mx5m(2間x2間半)の広さで、岩の南西側隅にありました。
 2階は「玉蔵」と呼ばれ、岩が敷地を占め、建物の床面自体の大きさは6mx6m(三間四方)でした。ここには1階と3階に通じる階段が設けられていました。
 3階の「天守」は巨岩の上にあり、9mx11m(4間半x5間半)の大きさでした。
 この巨岩の上の柱と梁組みは、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用しました。
 苗木城天守3階部分を一部復元し、展望台として利用できます。

明智城:宝治元年(1247)源頼朝の重臣、加藤景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山氏累代の居城であった。天険の地形を巧みに利用した山城で、土盛砦として保壘数大小二十三ケ所を備え、原型のまま残されているのは日本でも数少ない山城として県の指定文化財となっている。
 天正二年(1574)春、武田勝頼二万の大軍を以って、東濃の諸域を攻略、三河、尾張、遠江、駿河への拠点明知城を目指す。城主遠山一行が叔父利景とともに急を織田信長に報じ兵五百とともに之を護る。
 信長、事の重大さを思い明知城を授けんと、子、信忠とともに兵三万を率い明知城の西方鶴岡山に布陣するも、武田の将山県三郎兵衛昌景千騎を以って信長の退路を断つ。信長山岳戦の不利を思い、動かずやがて兵を引く。
 援軍を失った明知城は、落城した。

小里城山城:小里城は、土岐氏一族の小里氏が居城であったとされ、城主小里光忠・光明父子は織田信長に仕えていた。天正二年(1574)に武田氏が明知城を包囲した際信長は救援に赴くが間に合わず落城した。その時に信長は小里城を普請して番手として池田恒興が任ぜられたようだ。(『信長公記』)
 また、天正十年(1582)の本能寺の変後、光明は金山城主森長可に従わず、徳川家康を頼って小里を退去。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦の折には再び小里に入城し東軍として戦った。その功により光明は土岐・恵那郡内に3580石を賜ったが、その子光重の代に嫡流がなく、断絶となった。これにあわせて小里城は廃城となった。(『

妻木城:築城年代は定かではない。暦応2年(1339年)土岐頼貞の孫、土岐明智彦九郎頼重が祖父の遺領を継いで妻木を領し、後に妻木城を築城したものと推測されている。その後、弘定の時に妻木氏を称したという。
天正10年(1582年)本能寺の変で妻木広忠は明智光秀に従っており、近江国坂本にて自刃した。一説に明智光秀の妻は広忠の女という。広忠の子妻木貞徳は織田信長の馬廻を務めていたが本能寺の変後は家督を妻木頼忠に譲り隠居した。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で妻木頼忠は東軍に属し、西軍に属した岩村城主田丸直昌の押さえとなり、土岐口などで田丸軍と戦いこれを敗っている。
妻木氏は土岐郡内にて七千五百石を領し、年代は不明ながら妻木城を廃して麓の妻木陣屋(妻木城士屋敷)を居城とし、交代寄合の旗本となった。 元和9年(1623年)妻木頼忠が没し妻木頼俊が家督を継ぎ、承応元年(1652年)には頼俊の子頼次が家督を継いだ。この時弟幸広に五百石を分知し七千石となったが、万治元年(1658年)頼次が没すると嗣子なく改易となり妻木氏嫡流は滅亡、妻木陣屋も廃された。
万治2年(1659年)先に五百石を分知されていた妻木幸広が妻木に所替えとなったが、その際拠点となった所は定かではない。

長山明智城:築城年代は定かではないが明智頼基によって築かれたと云われる。 明智氏は美濃国守護土岐成頼の子土岐頼基が可児郡明智八郷を領して明智氏を名乗った事に始まる。天文21年(1552年)明智定明は斎藤道三と戦って討死し、一族は離散し、定明の子定政は家臣に守られて菅沼常陸介を頼って落ち、後に徳川家康に仕えて土岐氏に復姓したという。戦国時代に織田信長に仕えた明智光秀の出自については定かではないが、一般的にこの明智氏の一族といわれる。

金山城:天文6年(1537年)斎藤正義によって築かれた。 斎藤正義は斎藤道三の猶子で関白近衛稙家の庶子と云われる。
斎藤道三の命を受けた正義が築城し鳥峰城と名付けた。正義は東美濃に勢力を伸ばして苗木城の遠山氏、加茂堂洞城の岸氏、加治田城の佐藤氏、久々利城の久々利氏らを配下とした。しかし天文17年(1548年)久々利城にて久々利悪五郎によって正義は謀殺された。
永禄8年(1565年)織田信長は東美濃に侵攻して森可成を城主とする。可成は織田信長の上洛の後、近江国宇佐山城主となったが元亀元年(1570年)朝倉・浅井連合軍に攻められ討死した。後を継いだ可成の次男長可は織田信忠に従って信濃へ侵攻し、武田勝頼が滅亡すると信濃四郡を加封されて信濃国海津城へ入城したが、本能寺の変で織田信長が横死すると金山城へ帰還した。
森長可はその後羽柴秀吉に従い、天正12年(1584年)小牧・長久手の合戦に従軍して討死し、末弟の森忠政が家督を継いだ。慶長5年(1600年)森忠政は信濃国川中島十三万七千五百石で転封となり廃城となった。

小倉山城:慶長10年(1605年)金森長近によって築かれた。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で東軍に属して郡上八幡城などを攻めた功により、飛騨高山城主金森長近は美濃国武儀郡などに二万石の加増を得た。長近は飛騨高山は養子の金森可重に譲り、自身は小倉山城に築城して別家を興した。
慶長13年(1608年)長近が没すると、二男の金森長光が継いだが慶長16年(1611年)わずか六歳にて没して無嗣改易となり、上有知藩はわずか二代で廃藩となった。
その後は天領になり、元和元年(1615年)からは尾張藩領となって代官所が置かれた。

大桑城:築城年代は定かではない。一説に承久の乱(1221年)の功によって大桑の地を与えられた逸見又太郎義重の子、逸見又三郎重氏が築いたとも云われる。

その後、美濃国守護土岐氏の城となり、天文4年(1535年)頃には守護所を枝広館から、大桑城下へ移したとされ、天文11年(1542年)に土岐頼芸は斎藤道三によって一時美濃を追われた。 頼芸は越前朝倉氏・尾張織田氏の仲介により和議が整い美濃に帰ることができたが、天文21年(1552年)再び美濃を追われ、土岐氏は滅亡した。
15:10竜王のトヨペット自動車に向かう。

16:40竜王のトヨペット自動車到達、修理を待つ。
18:10帰路に向かう。

今回の旅行、岐阜の比較的マイナーな8箇所のお城をめぐり楽しみました。
マイカーのトラブルでレンタカーでのお城巡りとなりましたが、マイナーなお城ですが模擬天守閣があったり見るべきものが有り楽しく巡ることが出来ました。
もっと宣伝すれば多くの観光客が訪れると思われる立派な城跡が幾つか発見できたドライブお城巡りでした。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八弾:九州八十八箇所巡り観光第三弾  2015年4月11−12日 

九州八十八箇所巡り第三弾、九州南東部に位置する日本の県。県庁所在地は宮崎市。 県木「フェニックス」に代表される南国情緒豊かな気候から、1960年代には日南地区を中心とした新婚旅行のメッカだった。現在も春季のプロ野球などのキャンプ地として知られる宮崎県の霊場12箇所をめぐりました。

11日14:35伊丹空港出発
15:40宮崎空港到達、レンタカーで日南方面に向かう。

潮満寺:潮満寺は日南市を一望する津ノ峰の麓、油津港が眼下に見える高台にある。「日南地誌」「近世飫肥史稿」によれば、飫肥藩では最も猛烈に廃仏毀釈を実行したと伝えている。潮満寺は長満寺と称し願成就寺第6世重翁法印が1636年に再興し願成就寺の隠居寺とした。碑名に中興法印重翁とあり当初の創建年代は不詳である。明治5年の廃仏毀釈で廃寺となり。明治33年(1900)第27世俊照法印は廃寺再建に奔走、明治41年7月油津に大師堂を建立し大正5年(1916)現在地に移転、本堂・護摩堂を建立した。昭和9年(1934)28世俊範法印は願成就寺の廃寺となった末寺13ヶ寺と建(見)法寺を合わせて現本堂を再建し、寺号を潮満寺と改称して総本山金剛峯寺直末となった。
中本山春日山願成就字は、日南市飫肥に天正年間に藩主伊東祐兵が飫肥城の鬼門の守護と戦勝祈願の意味を込め、僧勢誨を開基として創建し禄高150石を以て遇した。明治5年3月18日付け廃仏毀釈の令が元飫肥藩庁から発令され、他の全ての寺院と共に廃棄された。幸いにも唯一談義所と称された願成就寺の本堂だけが焼失されなかった。願成就寺は28世俊範法印の実弟が継承した。 潮満寺の本尊は波切不動で一願成就を祈願し、厄除け、福徳息災、海上安全、大漁祈願の仏として、また、身代わりの仏として日夜に済度の働きをされている。その霊験に多くの信仰をあつめている。

西明寺:港の入り口に、虚空蔵菩薩を奉る児島山を有する遠洋漁業の基地の港町、目井津。その町の西の山腹に40番札所、西明寺はあります。西明寺のご本尊は不動明王ですが、霊場のご本尊としては、勝軍地蔵菩薩をお奉りしています。このご本尊、廃仏毀釈以前は南郷町内榎原神社に奉られていた仏様で、信仰深い方のおかげで難を逃れ、西明寺にてお奉りすることになった仏様です。西明寺の境内には、JR日南線が通っております。ご参拝の際には、十分気をつけて下さい。先述の虚空蔵菩薩様は、奥の院になっております。100mほどの石段になっております。

17:30宮崎市内に向かう。

長久寺:山号は蓬莱山。本尊は六観音を祀っている。蓬莱山城跡の山麓に位置し、創建年代は未詳だが、室町末期に作られた木造観音像6体と弘法大師像1体が残っている。像の頭部内面や台座に永禄6年(1563年)、奈良宿院仏師源次などの墨書銘がある。
また、天正15年(1588年)在銘のある六地蔵幢、同16年在銘の板碑がある。江戸期の寺歴は未詳だが、慶長6年(1602年)の板碑は残っている。明治4年神仏分離により廃寺となった古城町の今福寺の寺号を称したが、大正14年長久寺と改め現在に至る。

香泉寺:6番貫川寺さまより、車で1時間弱。国道から少し入ったところに香泉寺はあります。近隣にはマンションや商業ビルもあり、宮崎市街の賑わいを感じつつも、決して広くない境内に一歩足を進めると、その喧騒を忘れてしまうような野鳥のさえずりも耳に出来ます。開基については歴史的詳細は明らかではありませんが明治後期に高野山より回教で訪れた龍雲和尚が、近隣のお堂にあったお大師さまを現在地に移遷して香泉寺を建立し、既に大正末には『丸山の高野山』『江平のおだいっさん』として多くの方の信仰を集めていたようです。現在の本堂は昭和55年6月に落成。

18:30宮崎市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
12日7:00レンタカーで出発、日向・延岡方面に向かう。

貫川寺:延岡より日向灘を望みながら、国道10号線を南下し宮崎に向かう途中の国道沿いに、第36番貫川寺はございます。 本尊は十一面観世音菩薩。 立像と坐像がございます。 立像は、その昔、九州連山の尾鈴山に祀られておりましたが、昭和の初期に当寺のご本尊としてお迎え致しました仏像であります。 
坐像は、黎明の時代とされる21世紀を迎え、人々の魂の目覚めを念願し、黎明十一面観世音菩薩と名付けて、平成16年に安置致しました左手に金剛鈴を持つ仏像であります。 境内には、三界萬霊の供養処として、水掛六地蔵尊・十一面観世音菩薩・水子地蔵尊、安産と子供の健やかなる成長を願う子育大師像を安置しております。

行真寺:当山は大正十三年に行真和上によって開山されました。現在の本堂は平成10年に完成。先代住職順教和上の設計をもとに現住職が建立。宝塔をイメージした八角形をしています。南東方位を正面とし。朝日が本尊に当るようになっています。一階は空手道部の練習場として使用。二階が本堂となっています。行真寺は尾鈴山脈を背景に日向灘を望む高台に在り、朝夕6時の梵鐘の響きに、朝は日向灘の陽光に鳳凰の舞いを顕現し、夕は何事もなかったかのように地球を愛しく包み憩いと安らぎの世界へと誘います。 思想、宗教、国境を越え宇宙真理に生きる。全ての命は皆一つ、霊性(本性=神性の愛、仏の慈悲)を開発したい。自らの生命の要求に応えたい。等々。今この瞬間に胸のときめきを覚える方は行真寺の門をたたいてみて下さい。

中野寺:はまぐり碁石の里あたりから赤岩川に沿って右岸をさかのぼり寺標を左へ、急な坂を上った所に中野寺はあります。 
山門を入り境内には不動明王・地蔵菩薩・慈母観音などたくさんの仏様をお参りいただけます。
御本尊は阿弥陀如来です。春にはたくさんの桜が参拝者をお迎えしてくれます。 

永願寺:門川町は、延岡市と日向市の間にあり、当、永願寺は日豊海岸国定公園である遠見半島、細島半島、乙島を見下ろす高台にあります。創建は、平安時代にさかのぼり、嘉祥元年(848)に江田城主草野大膳弘利が四海安徳を祈願して、能円了孝和尚によって開山しました。
御本尊「薬師如来像」は奈良時代の高・行基の作とも伝えられています。薬師如来は修行中、人の生存をまっとうし、衣食住の生活を安穏にし、病苦不具などを祓うとしてこの12の大願をたてた、この事から万病を治し、人の寿命を延ばし、医薬を司る仏として信仰されてきましたが、まさに現在も多くの人々に敬拝されています。

龍仙寺:当山は、今から約400年前、大和国より訪れた谷山覚衛門により、修験の道場として開かれました本尊に鎌持ち大黒天(右手に鎌を持つ)、荼吉尼天を安置し、農家の方の篤い信仰を受け、また藩主の祈願所として加持祈祷に専念したものと聞いております。現在でも修験の教えは着々と受け継がれ法螺貝の心地よい音色が、森林に響き渡っております。

光明寺:延岡は旭化成の企業城下町であります。延岡が県と呼ばれていた時代、土持栄綱相模守が、延岡で最初の城となる井上城を築きました。古城町という地名は、この井上城に由来します。養和元年(1181)豊前国宇佐郡から智賢法印を招き、鬼門除けとして光明寺を創建しました。
境内には西国三十三ヶ所の観音像が並ぶ、石仏龕(これは当山南に位置する愛宕山山麓にあった光福寺[明治4年廃寺]にあったもので藩主内藤氏の寄進によるもの)、淡島神社の祠等があります。 本堂内には本尊阿弥陀三尊立像、弘法大師像、九州三十六不動霊場11番札所本尊の不動明王、勝軍地蔵菩薩像、水子地蔵菩薩像などが安置されております。 

12:30都城方面に向かう。

天長寺:天長寺は天文7年(1538年)、都城島津家第8代領主・島津忠相公により島津家の祈願道場として創建されました。現在天長寺があるあたりは、かつて千尺の老松が生い茂り、流水の絶えない場所であったと記録に見え、そのため山号を松林山(しょうりんざん)と号しています。創建以来、都城随一の寺院として隆盛を誇っていましたが、明治元年の廃仏毀釈によって破壊され、堂舎と共に多くの法物を失ってしまいました。
その廃仏毀釈の難をかろうじて逃れた石仏群は、現在都城市の有形文化財に指定されています。静かにたたずむ阿弥陀如来・不動明王・地蔵菩薩や歴代住職の墓石等は、かつての隆盛を伝えると共に、現在も信仰を集める仏様の力強さを見せてくれます。

14:00えびの方面に向かう。

弘泉寺: 当山は、霧島山麓を臨む八幡山の頂上に大正12(1923)年、高野山恵光院近藤本玄師の表敬開山を機に玄融和尚により飯野布教所として興りました。大正15(1926)年に現在地へと移転し、昭和24(1949)年、宗教法人となり、高野山真言宗弘泉寺と改称し現在に到ります。また本尊の大日如来さまは牛の上に座すという非常に珍しいお姿でお祀りされております。
開基・玄融和尚より法灯が脈々と受け継がれ、先祖供養・水子供養など各種追善供養、開運厄除・交通安全など所願成就加持祈祷の寺であります。さらに高野山金剛流御詠歌や真言瞑想法阿字観、御写経も体験できます。

15:30宮崎空港に向かう。

16:30宮崎空港到達。
19:20宮崎空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州八十八箇所巡り第三弾、九州南東部に位置する日本の県、宮崎県の霊場12箇所をめぐりました。















大阪府門真市寺院巡り第二弾
2015年4月8日
 

近場の大阪府門真市の寺院巡り第二弾、10箇所を巡りました。

12:30車で出発、門真に向かう。

得浄寺:

浄円寺:

常光寺:

明泉寺:

景雲寺:

安養寺:

明光寺:

長福寺:

善福寺:

福円寺:

門真の寺院巡り第二弾、10箇所を巡りました。ほとんどの寺院が住宅地の中にあり小じんまりしていました。






近畿三十六不動尊巡礼巡り第二弾
2015年4月5日


お不動さまは庶民の仏様として親しまれ、熱心な信仰を集めている。近畿地方の代表的なお不動さまのお寺からなる近畿三十六不動尊巡礼第二弾8箇所を巡りました。

近畿三十六不動尊霊場は、近畿地方の大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、奈良県、和歌山県に、古寺顕彰会が中心になって開設した霊場です。宗派にとらわれずに一般の人々の立場から霊場寺院が選定され、昭和54年(1979)に発足しました。

8:00車で出発、高槻に向かう。

成田山明王院:真言宗智山派。正しくは成田山大阪別院明王院といい、通称、成田山不動尊と呼ばれる。
近畿三十六不動尊霊場第28番。
千葉県成田市にある成田山新勝寺を大本山とした関西唯一の別院。日本で初めて人車一体の交通安全を祈念し、専用の祈祷殿を設けた事から『交通安全祈願の成田山』として知られている。

安岡寺:南山と号する天台宗系の単立寺院。新西国霊場客番、摂津三十三ヶ所観音霊場第25番、近畿三十六不動尊霊場第12番。
神峯山寺、本山寺と同じく光仁こうじん天皇の息子、桓武天皇の兄である開成かいじょう皇子の創建と伝えられ、弟子の開智が一石一字の大般若経を書写して本堂の背後の岡に安置したことから、安岡寺般若院と称するようになったと言われている。
往時は坊舎六坊を数えた大寺であったが、戦国時代には三好氏や高山氏の兵火に遭い荒廃した。江戸時代になって将軍家の拝領を受け良盛りょうせいが再建、大日坊、泉蔵坊、阿弥陀院、藤本坊の四塔頭をかぞえ、大いに栄えた。しかし明治時代の廃仏毀釈により、現在は本堂や鐘楼堂、院号の由来となった般若塚、青梅あおうめ観音堂などが残っているだけである。

宝塚に向かう。

中山寺:真言宗中山寺派大本山。山号は紫雲山。推古天皇期創建、開基は聖徳太子。
西国三十三所観音霊場第24番、神仏霊場兵庫15番、近畿三十六不動尊霊場第21番、摂津三十三ヶ所観音霊場第1番、摂津国八十八ヶ所霊場第69、70、71番、真言宗十八本山霊場のひとつ。

京都に向かう。

北向山不動院:天台宗の単立寺院で、一般に北向不動の名で親しまれている。  大治五年(1130)、鳥羽上皇の勅願により鳥羽離宮内に創建され、興教(こうきょう)大師を開山としたのが当寺の起こりである。本堂に大師が自ら仏師康助に刻ませた不動明王(重要文化財)を王城鎮護のため北向に安置した。そのため、上皇から北向山不動院の名を賜ったといわれる。久寿二年(1155)、播磨国(兵庫県)大国の庄を寺領として、藤原忠実が中興に当たった。その後、応仁の乱の兵火など、しばしば災害に遭ったが、幸い本尊不動明王は難を逃れた。朝廷の保護も厚く、近世に至って復興した。  現在の本堂は、正徳二年(1712)、東山天皇の旧殿を移したものである。  境内鐘楼にかかる梵鐘は二品済深(にほんさいしん)親王の御銘があって、元禄七年(1694)に名士名越浄味によって鋳造されたものである。

岩屋寺:創建時は天台宗に属し、比叡山三千坊の一つであったが、現在は曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で神遊山しんゆうざん金地院こんちいんと号する。古来は隣接する山科神社の神宮寺であったと伝えられる。
近畿三十六不動尊霊場第24番札所。
赤穂義士・大石良雄(通称大石内蔵助くらのすけ)の隠棲地として有名で大石寺とも呼ばれる。
本堂に安置する本尊大聖不動明王は智証ちしょう大師の作とされ、大石良雄の念持仏であったという。また、大石良雄の遺髪塚及び宅址もある。

蔓殊院門跡:近畿三十六不動尊霊場第17番札所、神仏霊場京都28番。天台宗。青蓮院しょうれんいん(京都市東山区粟田口)、三千院(京都市左京区大原)、妙法院(京都市東山区東山七条)、毘沙門堂びしゃもんどう(京都市山科区安朱)と並ぶ天台宗五箇室門跡の一つで竹内門跡、竹ノ内御殿の別称がある。門跡とは皇族や摂関家の子弟が代々門主となる寺院で、此処は1495年に伏見宮貞常親王ふしみのみやさだつねしんのうの子、慈運じうん大僧正が入手したことに始まる。

滋賀に向かう。

圓満院門跡:圓満院は、寛和三年(987年)創立村上天皇の第三皇子悟円親王の開基です。三井三門跡の一つであり、開基当時は平等院と号した。藤原道長が宇治に建てた別荘をその子藤原頼道の時代に寺院とするべく下命があり、平等院(後の圓満院)の明尊大僧正によって完成、悟円親王の子永円親王を初代院主として三井平等院の名前を宇治に譲り、現在の宇治平等院の初めとなった。一方三井平等院は明尊大僧正によって圓満院と命名され悟円親王をはじめとして歴代皇族の入室する門跡寺院となりましたが、室町時代後期まで圓満院は三井平等院と通称されました。
 明治11年に明治天皇、明治13年と45年に当時東宮でいらっしゃった大正天皇が行幸された由緒ある門跡寺院です。

無動寺明王寺:

13:30帰路に向かう。

今回の旅行、近場の近畿圏内の不動尊8箇所をめぐりました。
あいにくの雨でしたが桜の花見の時期に出会し賑やかで活気に満ちていました。