飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十四弾:香川県四国別格二十霊場&四国三十六不動霊場巡礼&大島観光
 
2015年5月30−31日 

四国の北東部、瀬戸大橋により本州と結ばれ瀬戸内海に面し、日本で一番小さい県、さぬきうどんで有名な香川県に足を運び、四国別格二十霊場4箇所、四国三十六不動霊場9箇所を訪れました。

30日12:30車で阪神、神戸淡路鳴門高松自動車道経由して津川寒川インター下車

繁昌院:一名一事不動尊と呼ばれ、方位厄難除け、学業向上、病気平癒などに霊力があるとされている。
また、境内には日本一体の石仏である馬鳴菩薩があり、縁結び、衣類の仏様。

浄土寺:一名雷不動尊とも称され、雨をもたらし、落雷除け等の霊力の他に、
衆生に落雷の如くふりかかる厄難を除きたまわらんと厚い仏恩を内蔵する。

高松に向かう。

天福寺:美応山 宝勝院 天福寺。
天平年中(729年〜766年)に行基菩薩が諸国行脚の途中この地に来られ、由佐の音谷を仏法相応の霊地であるとされ、五尺三寸の薬師如来を彫刻し、一堂を建立、安置し、美応山法輪院清性寺としたのが起源である。
その後延暦年中(782年〜805年)に弘法大師がこの寺に来遊され、真言宗の道場となった。そしてこれを信仰して四条天皇は国司橘の公忠に命じて、音谷清性寺を現在の場所に移し、寺号を天福寺と改めた。
天福寺には数多くの宝物が保管されていて、伊勢物語(後鳥羽院)御歌(後醍醐天皇)弥陀六字名号(弘法大師)薬師如来立像(行基菩薩)など、数百点に及んでいる。

不動明院:一名波切不動尊と呼ばれる四国一の立像。
瀬戸内海国鉄宇高連絡線紫雲丸の犠牲者の供養の寺として有名。

香西寺:奈良時代に行基が勝賀山の麓に庵をつくり宝幢を刻んで宝幢山勝賀寺として創建されました。その後弘仁8年(817)弘法大師が現地に移し延命寺蔵菩薩を刻んで安置し再興しました。
 嵯峨天皇(在位809〜823)の時代に勅願寺となり、朱雀天皇(在位930〜945)には僧徒学問所である讃岐談義所となりました。
 鎌倉時代にこの地の豪族香西資村が幕命をうけ堂塔を再建し香西寺と名付けました。その後細川頼之が当寺を本津(香西東町)に移し、十一代香西元資は寺号を地福寺と改称し、天正年間(1573〜1592)には戦火に遭い、国主生駒親正により再建、高福寺と名を変えました。万治元年(1658)、またも失火のため旧寺域(現在の地)へかえることになった。寛文九年(1669)、藩主松平頼重公が堂塔を整え、別格本山・香西寺となりました。その後またも失火で焼失し、現在の建造物はその一部です。寺宝の毘沙門天立像(101cm)は平安中期の作、檜の一本造りで国の重要文化財となっています。

聖代寺:僧西行(俗名 佐藤義清)は、その晩年かつて思いをはせた旧主家徳大寺家の姫君の忘形見、崇徳上皇の菩提を弔うため当地に一宇を建立された。(崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃州に配流され1164年におかくれになられている。)
後年、寿永4年(1185年)源平の合戦に敗れた平氏の臣が、当山において合戦に散った将兵の霊を慰めたとも云われている。
当山不動明王は、弘法大師御敬刻の尊像を奉祀する大本山成田山新勝寺のご本尊の分身像で、古来より霊験あらたかな「身代り厄除け不動尊」として知られており、その霊被を蒙る人は数知れない。
境内に至る石段は42段あり、厄除け坂と呼ばれる。

16:30高松駅付近のホテル到着後高松商店街を散策し食事を済ませて就寝。

31日8:00車で出発、高松港に向かう。

9:10高松港高速艇で出発。
9:35大島到達、散策。

大島:もともと2つの島が砂州で繋がり一つの島となったものです。この辺りは源平合戦の戦場になったところで、敗れた平家の墓に植えられた松が800年の時を経て今も残っており「墓標の松」と呼ばれています。源平合戦:歴史的には治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)[1180−1185年)といわれるもので、この辺りの決戦は屋島の戦い(1185年)と言われるもの。この島には「国立療養所大島青松園」の入居者と職員、その家族の方だけが在住しています。

10:30大島高速艇で出発。
10:55高松港到達。車で西に向かう。

海岸寺:宝亀5年(774)弘法大師の母である玉依御前(たまよりごぜん)がこの地に産屋を設けて大師を出産しました。大同2年(807)大師はこの産屋跡に聖観音菩薩像を刻んで安置したのが海岸寺の始まりです。大師の誕生所が第75番善通寺で産屋が海岸寺となっています。
 山門には琴ヶ浜、大豪をモデルにした金剛力士像が立っています。門を入って直ぐに安政3年(1856)再建の本坊本堂がありますが、道路を隔てて西側に奥の院があります。そこには産屋跡や奥の院大師堂があり、大師童形の御姿像、両親の佐伯公夫婦像、四天王像等が祀られていて是非とも訪れなければならない所です。
 他にミニ108ヶ所、巨岩を配したまんだら園、法句碑、四国三十六不動三十一番霊場悪縁断ち不動やお堂があり、ゆっくり参拝されれば1時間以上を要します。又、展望台は瀬戸内海が見渡せる絶景の位置にあります。

不動坊:瀬戸内海に面した屏風ヶ浦海岸に位置する。寺院は本坊と奥の院からなり、本坊と奥の院との間にさぬき浜街道とJR予讃線が通っている。
現在、本坊には山門、本堂、不動堂、鐘楼等があり宿坊と海岸寺ユースホステルを併設している。ここの山門は日本で唯一、仁王像の代わりに実際に昭和期の第二次世界大戦後に活躍した地元出身力士の琴ヶ浜(向かって右)と大豪(向かって左)の像が立っている。
奥の院には山門、大師堂、弘法大師産湯の井戸、大塔、文殊堂、そしてミニ八十八カ所等がある。

寺伝によれば、ここは空海(弘法大師)の母親である玉依御前の出身地とされる。更に空海は奈良時代後期の宝亀5年(774年)に当寺奥の院で生まれたとされており、弘法大師出化初因縁(しゅっけしょいんねん)の霊跡と言われる。
平安時代初期の大同2年(807年)空海が弥勒菩薩を刻み、堂宇を構えたのが当寺院の開創と伝えられている。弘仁6年(816年)には空海が自身の像を刻み、大師堂を建てたことにより奥の院が開かれたとされる。
戦国時代には土佐の戦国大名・長宗我部元親の進攻に遭い天正11年(1583年)には伽藍が焼亡し、天正18年(1590年)より随時再建がなされた。

妙音寺:寺伝によれば、飛鳥時代天武天皇治世の白鳳5年(665年または676年)に創建されたと言われ、讃岐国最古の寺院の一つと伝えられる。 平安時代初期の弘仁年間(810年 - 824年)嵯峨天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)によって現在の寺号となったと伝えられている。
戦国時代に入り天正2年(1574年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭った。この時、本尊の阿弥陀如来は自ら雨を降らせて難を逃れたと伝わっている。 天正の戦火で寺院は荒廃した。その後、江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1716年)旭応阿闍梨によって復興された。また、寛政年間(1789年 - 1801年)に清雅恵洞和尚が伽藍を整備した。
当寺院に祀られている不動明王は霊験不動尊と言われ、祈念すると夢の中でお告げがあると言われることから、別名「夢見不動」とも呼ばれている。
境内には交通事故犠牲者の霊を祀る聖観音立像があり、これは彫刻家の北村西望が監修して製作されたものである。

萩原寺:平安初期、平城天皇(在位806〜809)の大同2年(807)に弘法大師が千手観音菩薩と地蔵菩薩を刻み、千手観音菩薩を第66番雲辺寺に安置し、地蔵菩薩を萩原寺に安置しました。不動明王は大師ご自身で霊験あらたかです。朱雀天皇(在位930〜946)の勅願寺となっています。のちに細川勝元公の祈願所にもなっています。
 室町期の応永年間(1394〜1428)には真恵僧正が中興し、阿波、伊予、讃岐に多くの末寺を持つ大寺でした。
 仁王門は室町時代の管領、細川勝元公が戦勝祈願の温座護摩の祈祷を寺に命じその見返りとして奉納したものと伝えられており、屋根は本瓦葺きで門としては珍しい寄棟造りで三間一戸八脚門となっています。本堂は18世紀末の建造であり、客殿は菊の家紋をつけ屋根は茅葺きとなっています。寺宝も急就章、法華曼陀羅図、銅水瓶、金銅塔鈴、金銅割五鈷杵など多数保存されています。
 又、「萩寺」として有名で、数百株の萩は県の自然記念物となっており、見頃は初秋です。

香川県内有数の萩の名所である。境内に約2,000株の萩が植えてあり「萩寺」とも呼ばれる。毎年9月中旬から下旬には、当寺院を中心に周辺の、萩の丘公園、雲辺寺ロープウェイなどの会場で「萩まつり」が開催される。
寺伝によれば、平安時代初期の大同2年(807年)空海(弘法大師)が建立したという。この時、空海は千手観音と地蔵の2体の菩薩像を刻んだといわれる。千手観音は四国八十八箇所六十六番雲辺寺に、地蔵菩薩は当寺院にそれぞれ安置したと伝えられている。
開創から約100年後の延喜3年(903年)醍醐天皇の勅旨談義所となった。天慶2年(929年)朱雀天皇は讃州四箇談義所の一か寺に定めた。
室町時代中期の応永年間(1394年 - 1427年)に真恵僧正が中興し、室町幕府の管領・細川勝元の祈願所となった。明応2年(1492年)の記録によれば讃岐、伊予、阿波に280余寺の末寺を従える大寺であったことが窺える。

不動寺:役行者小角を祖と仰ぐ山岳修験道、不動宗の大本山。
近郷の信者からは河内不動と親しまれ、特に病気平癒に霊験が
あるとされる。亦、願王地蔵尊への参拝者も多い。

神野寺:弘仁12年(821)嵯峨天皇(在位809〜823)の勅命により決壊した満濃池の修築のため、別当に任ぜられ僅か3ヶ月で完成させました。その功績により天皇から褒賞金を賜り、満濃池鎮護の寺として神野寺を建立されました。その後再建を繰り返し栄えていましたが天正9年(1581)焼失し廃寺となりました。昭和9年(1934)弘法大師一千百年御遠忌をむかえ、満濃大師会を結成し、神野寺として堂宇の一部を再建しました。
 文化12年(1815)に、守屋吉左衛門によって作られたミニ八十八ヶ所があり散策コースに石像が並んでいます。
 満濃池は大宝年間(701〜704)に讃岐の国守道守朝臣(みちのかみあそん)により作られた日本最大最古の溜池です。その後幾度も修復され現在は周囲が約20q、面積138f、貯水量1,540万トン、提高32メートル、有効水深約21メートルあり毎年6月中旬に「ゆるぬき」(農業用に放流)が行われています。伝説に龍や大蛇、大鯉の話が伝わっています。
池の一部は現在国営讃岐満濃公園となっています。

14:30帰路に向かう。

今回の旅行、四国の北東部香川県に足を運び、四国別格二十霊場4箇所、四国三十六不動霊場9箇所を訪れました。

又高松沖の源平合戦の戦場になったところで、ハンセン病の国立療養所大島青松園が位置する大島を訪れ散策しました。



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十三弾:長野県中部四十九薬師巡礼観光
 
2015年5月23−24日
 

本州の中央長野県に足を運び、長野県と岐阜県を中心に、山梨・愛知両県にまたがり、アルプスの山裾にいだかれ、温泉地にも恵まれた大自然のなかの巡拝コースの中部四十九薬師霊場の21箇所を訪れました。

23日12:30車で出発、第二京阪京滋バイパス名神中央自動車道経由して中津川インター下車

光徳寺:縁起 当寺は天正十一年(1583)性天和尚薬師堂隠居を開山とされている。この年は織田信長が倒れて、豊臣秀吉が大阪城を築いた年である。本尊薬師如来は慶長四年(1599)京の仏師木山が刻んだ名作である。
 正面の「光徳寺」額は山岡鉄舟書で、本堂は江戸中期、徳川吉宗の代享保十年(1725)脇本陣の林平八郎の七十五両寄進により建立され、庫裡は本堂より四十五年早く天和二年(1682)に建立されたものである。八代将軍吉宗は極端な諸事ひきしめで名高く虚礼廃止をした。その吉宗は当時の住職英厳和尚にたいして深い帰依をし内陣の千本格子に檜財を使う事を許した。
 天保年間、遂応和尚が日本で初めて人力車を考案し、この人力車は当寺に保管されている。
 文化十二年(1815)嵯峨尾小四郎が施主となり川より地蔵菩薩を取りだし忠外和尚が蓮華台を刻み当寺の延命地蔵尊として祀られている。

池口寺:縁起 当山に伝わる「光明内院瑠璃山池口寺縁起」によると、承平七年(937)四月、当地小川の邑の光明池のほとりに、近江国の郷司源義寛公が祖先追福の為、医王尊仏を迎え、天台宗明雲僧正を開山として創立したもので、その後現在地に移し祀ったと伝えられている。第十三世覚元和尚の代、建武二年(1335)火災により薬師堂を残して一切を焼失、暦応三年(1340)当地の郷司池口入道祥悟が再建したと伝えられている。天正二年(1574)禅宗に改宗、須原定勝寺より貴山和尚を請じ開山とし今日に至っている。
 薬師三尊並びに、薬師堂の作者、建築年代は不詳なるも、徳治三年(1308)覚元代の刻銘の入った鰐口(県宝)がある。
 お堂・薬師三尊の古いこと、大きいことでは木曽随一で、戦前は病気平癒を願って参詣者が多く、特に母乳の少ない婦女子の参詣者が多く、乳さずかりの絵馬にその名残りを留めている。
 昭和六十二年に一千五十年祭を行い、薬師信仰を盛り返す気運にあり、大祭は四月第三日曜日に行う。
 なお、堂の裏には西国二十三番の石仏がある。

徳音寺:縁起 当寺は平安時代の終り、仁安三年(1169)に木曽義仲公の御母堂小枝御前が病没されたので、追善供養の為に義仲公が建立した。真言宗柏原寺がその前身であります。寿永三年(1184)義仲公が粟津ケ原で三十歳の短い生涯を終えた後、大夫坊覚明(西仏上人)が木曽に帰り、柏原寺の御母と墓を並べて、徳音寺殿義山宣公大居士と贈り名し、日照山徳音寺と寺名を変えて祀られた。
 日照とは朝日将軍の謂なりと伝え、これより義仲公の菩提所となる。木曽家散乱後、天正七年(1579)大安和尚が再興し、臨済宗妙心寺派となる。慶安三年、正徳四年と二度の水害に寺内埋没し現在地に寺籍を定める。享俣五年(1720)犬山城主成瀬隼人正藤原正親公の御子、興臨和尚住職し、寺格も整い、木曽八景徳音寺晩鐘と、中山道往来の旅人墨客に親しまれ、安永八年(1779)薬師堂を建立、薬師如来並びに十二神将尊像を祀り、里人旅人の帰依を集めた。天保年間木曽家二十四代義陳公の発願により、薬師堂に義仲公像を安置し、霊廟として面目を一新した。ために誰呼ぶとなく「身代わり薬師」の名でしたしまれることとなり、病重き人の身代りとなる薬師如来として、信仰を集めている。門側の「戻り地蔵」別の名を「夜這地蔵」「赤目地蔵」「夜泣地蔵」と共に多くの信者を集めている。

塩尻に向かう。

18:30塩尻駅前のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

24日7:00車で出発、松本方面に向かう。

瓊林院:縁起 本尊聖観世音菩薩。 当山は、元応年中(鎌倉後期1319-20)白河郷地頭であつた藤原惟の孫の山川十郎有忠長福寺殿の氏寺として建立され、一族の香華寺とされた。もとは西南におよそ三の寺沢(中村の下)にあり、“長福寺″と号し鎌倉建長寺末に属していた。天文年中(1532-54)武田と小笠原の桔梗ケ原での兵戦に罹って諸堂全て焼失したがその後、再建された。しかし無住であり幾多の氾濫によって腐朽し御開山諸書付などを失った。
 寛永六年(1629)泰嶺玄未和尚法嗣月巌祖芳禅納が住まわれて、行基菩薩の作と伝えられる落馬の薬師如来の(同12年3月11日)御堂を中村に再建された。その後、諸堂宇を再建し開山とした。その折、温泉寺末となり、臨済宗妙心寺派に属した。
 なお百瀬に諏訪高島城主が、寛文九年(1669)観音堂を建立し当寺をその別当職に任じた。寛文十三年五月十日諏訪出雲守忠恒三男従五位下諏訪壱岐大守朝散太夫源頼久公拝領後、僧を慕った。
 元禄十四年頼久公は娘の瓊林院殿の喪にあい、位牌を安置し供養し一周忌の折、頼久公は自らが開基となつて和尚に寺を現在地に移させ、“松泉山瓊林院”と号を改めた。
 亨保元年(1716)薬師堂が大破し、同五年当寺境内に移築された。その後、昭和四十四年に改築された。

上田方面に向かう。

常楽寺:縁起 天長二年(825)に比叡山延暦寺座主慈覚大師が開創した霊場です。安和二年(969)平維茂は一山を修理し三楽寺・四院六十坊を増築したと伝えられる。三楽寺(常楽寺・安楽寺・長楽寺)の一寺として建立されました。
 本堂が北に向いているのは全国でも珍しく、これは天長二年(825)突然この地に大火坑が生じ煙を上げたため、慈覚大師は秘法を修してこれを鎮めた時、観世音が出現し温泉が湧きだした際「北斗星が世界の依怙(よりどころ)となるよう我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」というお告げがあり、大師は千手観世音を刻み火坑出現の観世音を胎内に納め、堂宇を北麓に建立して尊像を奉安しました。今日では厄除の観世音として多くの人々の信仰あつめ参詣者で賑わっている。

満願寺:縁起 愛宕山満願寺は戦乱にあったのか風水害なのか、縁起は不明とされている。愛宕山の山号は火伏の神として深い信仰がある。本尊の薬師如来像は脇に十二神将を従えている。薬師如来像は金色に輝く見事な造りは往時の繁栄を偲ばせる。又、十二神将の寺としても近隣に広く知られている。十二神将は薬師如来の十二の大願に応じて現れるとされる。

中禅寺:縁起 当山の創建年次等は二度の災禍により不明であるが、空海上人がこの地をおとずれた際、この地が飢饉で農民達の苦しんでいる姿を見て小さな草庵を結んで雨乞いの護摩修行をされたのが始まりと去れる。現本堂は享保十九年、中興開山祐精法印により再建された。
 木造薬師如来座像(国指定重要文化財)は、薬師堂の本尊として堂中央の内陳に安置されている。台座、光背を含めて重文に指定されているが、台座の上敷茄子の天坂の表裏に画かれている武者絵があるところから、鎌倉時代初期の作と推定されている。この仏さまは医王薬師として、病める衆生の心の支えになっていた。奈良二月堂の薬師如来をしのばせている。また塩野神社の本地仏でもある。
 カツラ材、寄木造り、像高九十七・七センチ、実に自然で均整の取れた優雅な像で藤原時代の定朝様式をよく伝えている。
 なお、中禅寺薬師堂(国指定重要文化財)は、鎌倉初期の中部日本最古の建築として貴重な遺例である。

妙見寺:縁起 当山は真言宗智山派に属し、鳴竜山密厳院妙見寺と呼ぶ。今から八百年前、即ち文治元年(1185)に当地の豪族、嶽石三郎平胤盛が、この村の鳥屋地籍に一宇を創立して、大日如来と妙見尊の二仏を安置し、法相宗の僧完光和尚を初代住職とし、帰依せしめた。その後正応年間には鳥屋地籍から小沢根というところに移され、更に小沢根地籍から現在のところに三度移されたが、妙見尊の霊験顕たかな御加護によって、一度の火災や天災にあわず現在に至っている。当山が三度日に移された応仁年間に本堂移築の際に画家秀山信尹を招いて本堂外陣の大天井に上下竜二頭を画かせ、その下で拍手を打たせ龍鳴を聞かせた。これが鳴竜で当時日本四方鳴竜のうちの南鳴竜である。ちなみに日本四方鳴竜とは、日本の東西南北にあって、東は日光山、西は京都相国寺、南は当山、北は青森にあったが、明治初年に焼失して現在は無いので、講が出来るほど盛んだった鳴竜も、三ケ所になってしまった。寺伝によると、宝暦年間あたりより当地方では薬師信仰が盛んで、当山薬師は「なで薬師」といわれ、一位のなで木で痛いところを撫でると、たちどころに治ってしまうというところから、なで薬師として近郊の信仰を集めた。
 最近

宝蔵寺:縁起 当山は通称「岩谷堂」と呼ばれており、平安時代の初期(承和元年834)比叡山第三代座主慈覚大師円仁によって開かれ、御本尊は大師御謹刻の聖観世音菩薩で信濃三十三観音霊場第二十三番の札所になっております。
 朱塗りに映える現在の堂字は徳川時代中期の今から230年程前、安永六年の建立で以前は本堂裏の現在奥の院と呼ばれている洞窟中に安置されておりました。境内は急峻な岩山の中腹に位置し、展望・風光共に優れ、又樹齢800年の「義仲桜」を中心に春の花、夏の緑陰、秋の紅葉、冬の雪景色にと四季折々風情を楽しませてくれます。
 お薬師さま岩窟中に安置されており、昔から小石に願いごとや真言を書いて祈願したあとがあり、沢山の小石が積み重ねられておりますが参拝に不便なために平成17年に新しく御尊像を迎えてお堂を建立いたしました。

信濃国分寺:縁起 「国奉らかに人楽しみ、災を除き福至る」を祈念され た聖武天皇の天平十三年(741)勅願により、国ごとに国分寺が建立されたが、信濃国分寺は信濃の国の鎮国道場として、また庶民の心のよりとこ ろとして千二百余年の法灯を今日に伝えている。
 現在の国分寺は、薬師如来(行基作と伝えるが不明)・日光月光 両菩薩・十二神将を安置する県下でも善光寺に次ぐ規模の本堂薬師堂をはじめ、三重塔(国重文)・鐘楼・仁王門・宝蔵・大黒天堂・地蔵堂・観音堂等の堂塔伽藍がそろい、一月八日の縁日にちなんだ「八日堂のお薬師さん」の名で近在の信仰を集めている。安産・当病平癒・厄災除等の霊験があらたかであり、また縁日に授与される蘇民将来のお守りは、薬師如来と関係の深い蘇民信仰に基づいた護符で、家門の安泰と繁栄を願うものである。

長野に向かう。

善光寺:善光寺本坊大本山大勧進は、開山本田善光公以来代々善光寺如来に奉仕して永く別当と大勧進の両職権を持ち昔より如来開帳の法務に任じてきました。千幾百年の伝統を誇る寺であると共に全国の信徒から尊崇を集められる善光寺貫主大僧正猊下のお住まいでもあります。弘仁の頃、伝教大師が信濃路巡化のみぎり、善光寺如来の宝前に参籠せられてより爾来天台の宗風により今に至る。善光寺本堂における正月のゆかしい行事を初め、戒壇めぐり等もそれにちなむと伝えられております。大勧進には、寛政五年(1789)に建立された立川流初代和四郎富棟、富昌親子 による10万石の格式の「表大門」はじめ「萬善堂」「無量寿殿」「護摩堂」「霊碑堂」「紫雲閣」など諸堂 があり、明治、大正、昭和天皇が御巡幸のおり御駐輩所に当てられた「行在所」、茶亭「沈香亭」があります。また、貴重な仏教関係の古書、経典 、絵図面など展示している「宝物館」があります。現在大勧進の塔中には二十五ヶ院堂々甍を並べ、本坊と共に善光寺の法灯護持にあたっています。

諏訪方面に向かう。

照光寺:縁起 開創不詳.延喜式にみえる岡谷牧の所在地として古くより中央と関係のある古寺院があったことと思われる。後世、当山は京都嵯峨大覚寺の門跡寺院直末となったこともある。応永二年(1395)五月、下神宮寺憲明法印が再興し、薬師如来が安置された。
 文明年間に、今井兵部兼貫(文明十年五月十四日寂)が再建し、享徳元年(1452)に紀州高野山金剛峯寺の末寺に加わり、諏訪下社神宮寺の門末となる。室町時代には薬師十二神将にちなむ塔頭蓮華坊(元和二年退転)以下十二坊を擁する大寺で、現在の成田公園東方一帯を占めていたが、宗順法印のとき戦国の兵乱で罹災し、天正元年(1573)四月に俊豊法印が中興した。俊豊は永録十二年十二月(1569)当寺裏鬼門除として橋原薬師堂を建立した。

平福寺:縁起 大同年間(806〜10)弘法大師が諏訪神社別当神宮寺とともに創建した古刹である。その後、応永年間(1394〜1428)憲明阿闍梨が中興した。天正年中(1573〜92)織田勢が諏訪に侵攻し灰燼に帰したが当時の安養坊を本営にあてたため兵火を免れた。慶長末期、二度の横河川の氾濫により全てが埋没した。当時の住職は「遂に竜宮に到れり」と口碑に記す。以後現在地に移転する。
 平成八年、中興第一世憲明大和尚の六百年御遠忌を期して、第四十一世聖仁和尚が記念事業の一環として寺院の一新を成し遂げる。

温泉寺:縁起 当山は初代高島藩主諏訪頼水が、領下の中心地・諏訪に菩提寺の創建を欲したが、その完成を観る事無く病没し、亡父の遺志を継いだ二代藩主忠恒によって、供養を兼ねて八年後の慶安二年(1649)に創建された。創建の年代には二説あって寛永十七年頼水開基の説もあるが、忠恒の孝心が頼水に開基の名誉を譲ったものと解釈する向きが多い。開山和尚には頼水と忠恒が深く帰依した泰嶺玄未が迎えられ、温泉寺は高島藩の菩提寺として代々藩主の手厚い保護を受けた。寺は元文二年(1737)と明治三年(1870)の二度火災にあっている。現本堂は高島城本丸内に文政十年(1827)新築された能舞台を移築したもので、本舞台・後座(現仏壇)地謡座などの遺構を残し、能舞台そのものの建物である。
 温泉寺創建前から、この地には豊富な温泉が湧出し薬師如来を祀る『薬師の名湯』として眼病治療の霊場でがあった。当山二世通方和尚代に藩主忠恒から賜った、この地に隠寮として吸江院(現・指月庵)を建てた。
  近くには上湯・平湯・中村の湯などがあり、これらは温泉寺の湯と総称され、「薬師の名湯」といわれ豊富な温泉と信仰の関連を伺わせている。

長圓寺:縁起 本尊・金剛界大日如来、開山・慶尊阿闍梨、開創・慶安二年(1649)
 現在穴山にあるが、もとは玉川山田の外屋敷にあった小堂が長円寺の前身である。入山した慶尊阿闍梨は寛文九年高野山金剛峯寺金剛頂院の本尊を相続して創建し、さらにいまの穴山に移築、要穴山長円寺胎蔵院と号した。寺格は各院。慶尊は俗姓大和氏で、筑摩郡高出村の大和小兵衛の子であった。大和氏はもと金刺氏に出で、諏訪郡大和城の城主で大和監物はよく知られている。天文年間、武田氏が諏訪を侵すや大和氏の一族は筑摩郡に逃れた。小兵衛は監物三代の孫と伝えられ、武田備前守の甥である。武田備前守は信玄の弟で、兄の意に背き、筑摩郡に流されたと言われている。
 観音堂には、明治の俳仏毀釈のとき、諏訪上社神宮寺から移された薬師堂の本尊薬師如来をお祀りしてある。この薬師如来は像高九十一・五センチ、ヒノキの一本造りの立像、素地のままで彩色はない。三河国鳳来寺の薬師と同木同作と言われている。
 百体観音は、十五代法印祐慶のとき造立したもので、石工は菊地道悦、慶応二年に落慶している。道悦は後に医者となった人で、石仏はいずれも儀軌を踏孝えた端正なもので、見事な深い彫りを示している。塀ぎわに並ぶ石仏碑と共に、白眉のものと言って差し支えない。

清光寺:縁起 当寺は、平安時代、仁平元年(1151年)に信立寺と称し、逸見玄源太清光の創建になる天台宗寺院で、清光の没後、清光寺に改められた。その後、文明七年(1475年)、興因寺(甲府市)二世悦堂宗穆和尚が改山となり、曹洞宗に改め、現在に至る。
 清光は 甲斐源氏の祖、新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)の孫にあたり、最初、常陸国武田郷(茨城県ひたち市)にいたが、父義清と共に甲斐国市河庄(西八代郡市川大門町)に配流となる。
 その後、谷戸城を築き逸見郷を中心に勢力を広げ、国中を手中に治めて甲斐の国一円を統一し、甲斐源氏としての基礎を固める。次男信義が名門武田家の祖となる。
 現在の堂宇は、江戸中期に建てられた総門、山門、本堂を中心に総ひのき造りの庫裡、開山堂・位牌堂を併設した檀信徒会館などがあり、特に本堂は十三間・九間という本山なみの大伽藍を誇る。
 本尊は薬師如来、寺宝に勝頼公制札等。本堂裏山に開基清光公の墓地。境内には芥川龍之介の句碑、樹齢200年程のしだれ桜、大島桜、八重桜、こぶし、紫陽花などがあり、花の時期は大変美しい。

江音寺:縁起 当山の江音薬師如来は、大安寺の深山薬師を移されたものと伝えられている。
 大安寺は延喜式主税式により建立された官立一大古刹であったと寺伝されている。たまたま、永録八年五月集中豪雨による山津波によって、大安寺の堂宇は押し流されてしまったが、薬師堂と阿弥陀堂のみは災害から免れ残されたと言う。
 慶長七年、諏訪藩家老千野家によって江音寺が造建されるに当り大安寺にあった阿弥陀如来を迎えて本尊とし、先の深山薬師如来を瑠璃殿にお祀りしたと言う。日光菩薩・月光菩薩・十二神将等は、逐次加えられたものと推察される。
 眼病に霊験ありとされ、信仰を集めている。

高徳寺:縁起 千年以上の寺として伝えられ現存まで三度所在地が変わる。開山は伝教大師(最澄)が東国巡化の際、信濃の国に十四ケ寺創建された一ケ寺、雲龍山清水寺と称し天台宗七堂伽藍壮大な寺、七十三代憲俊法師が高野山より来寺、寺門繁栄の為町中に移転、妙雲山高徳密寺と改称、弘法大師大衆信仰寺院にて繁栄、天正十年織田信長信濃進攻兵火に焼失、貞享年間に現在地に移し元文元年八棟壮大伽藍建立するもその後二度の類焼に会い現在の建物は昭和九年の建立である。境内には三百年前の高徳な信仰を偲ばされる大宝篋印塔と大石仏は他に類がない。
 寺宝秘仏の薬師如来、香玉観世音菩薩、不動明王は高徳威神力を持って一切衆生に縁結び、除病延寿、福徳円満の現世利益を授ける霊験あらたかな仏様として本尊様と共に崇拝される。
 又近くには延命薬水の弘法様の泉、良縁、安産、福徳円満諸願成就の祈願尊基の天龍界有り。

無量寺:縁起 本尊は薬師如来である。無量寺は、後堀川天皇元仁元年(1224)亨賢和尚の開基創建によるもので、現在に至るまで五十世七百五十年を経ている高野山真言宗の寺である。元仁元年と言えば鎌倉幕府の実権が執権である北条氏の手に移り北条泰時が大軍を率いて京都に上った承久三年の三年後である。以来悠久幾星霜移り変り戦乱を経て檀信徒の厚い敬護のもと今日に至っている。この無量寺には造立以来千余年と言われる重要文化財、阿弥陀如来像が安置されているところから、元仁元年以前からあつたのではないかとされ、阿弥陀如来を守護するために建てられた別当寺であつたことが伺える。
 脇仏として 観世音菩薩立像と地蔵菩薩立像が安置されており、同時代(鎌倉時代後期)の作とみられている。脚下に天竜川、遠くに南アルアス連山、伊那谷を望む風光明媚な誠に閑静な浄域である。
 又、当寺には本四国八十八ケ所の本尊掛軸あり御砂踏巡拝が出来近隣の信者の信仰を集めて居ります。本堂前庭には樹齢三百五十年を越えるイチイの銘木、宝船がある。

香福寺:縁起 当山は第四十五代聖武天皇の御代天平十七乙酉年(745)行基菩薩衆生済度のため当地方に来錫し給い、当山に不思議なる巨岩ありて妙水自然に湧出するを見給いて、これを薬師如来の薬壼石と名付け、この岩の下に一宇を造りて堂前の樫樹を以て薬師如来像を謹刻し、医王山幸福寺と号し給い、法相・三輪の二宗を演説し、国家安穏の道場となし給えり。
 その後、第五十一代平城天皇の御宇、大同二丁亥年弘法大師、当山に来たり給い大日如来を本尊とし、真言宗を以て正宗とし、法相・三論の二宗を兼学とし給いしにより三学院なる号あり。

仲仙寺:縁起 弘仁七年(816)慈覚大師は霊夢に導かれ信濃国の山中にて霊木に十一面観世音を刻み、経ケ岳の山頂、岩屋堂へ奉安する。
刻みくずに経文を書写して埋めたことから経ケ岳とよばれ、貞観元年(859)に藤原法印が山麓に堂宇を建立し、御本尊を移還して御躰山神社の別当寺(藤宝寺)とした。時代の変遷により仲禅寺と変り、慶長五年(1600)に羽弘山仲禅寺と改称し、時の住職尊盛和尚をもって中興開基とし、慶長十八年(1613)本堂を現在地に再建された。寛永十一年(1634)には寛永寺末となり、仲仙寺と改称している。現在の本堂は安永七年(1770)に再建された豪壮な建物である。
 本堂回廊の、小さな祠に安置されている石仏薬師如来像は、弘法大師御作と伝えられ、その御影は御身を削られたのか痛ましいお姿であるが、往古から諸病平癒、特に眼耳鼻の病に霊験あらたかなり。
 且ては、お薬師様の御身をいただき、お守りとして身につけたこともあったのではとも言い、又、自分の使っていたお椀に穴を開けて奉納し、眼耳鼻等の治癒を願ったところ、その霊験利益は誠にあらたかであったと伝えられでいる。

17:00帰路に向かう。

今回の旅行、信州長野県に足を運び、大自然の中に位置する中部四十九薬師霊場の21箇所を訪れ楽しみました。

山の裾野に位置する霊場がほとんどで人気も少なくひっそりしていましたが、善光寺だけは多くの方が参拝に訪れ活気に満ち溢れていました。さすがだな!と感じました。

次回は岐阜に点在する中部四十九薬師霊場を訪れたいと思います。



























飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十二弾:岡山県お城・城下町巡り観光
 
2015年5月16−17日  

室町時代に播磨、備前、美作の三国の守護に赤松氏就き、山名氏と激しく競争する。一時は山名氏に三国を奪われるが、応仁の乱を契機に復帰、以後、権力は浦上氏に移るが、宇喜田直家の下克上に合う岡山県に足を運び、比較的マイナーなお城16箇所(三石城、天神山城、金川城、徳倉城、足守陣屋、備中高松城、富山城、撫川城、庭瀬城、常山城、下津井城、猿掛城、成羽城、楪城、高田城、岩屋城)を訪れました。

16日12:30車で近畿名神中国山陽自動車道経由して備前インター下車

三石城:三石城は、正慶2年に三石の地頭伊東大和二郎によって築かれ、鎌倉末期から南北朝期にかけての戦乱で、しばしば攻城戦が行われた。
室町時代は、播磨守護代浦上氏が代々居城し、永正16年、浦上村宗は主家赤松義村に攻められるが、これを撃退してた。 これにより播磨守護赤松氏の勢力を失い、浦上氏は戦国大名へと成長した。
享禄4年、浦上村宗の跡を嗣いだ嫡男政宗は、居城を播磨室津城へと移し、三石城には城番を置いた。
その後、政宗・宗景(天神山城主)・国秀(富田松山城主)の兄弟争いの末、宗景が備前・美作南部を領し、後政宗滅亡後播磨西南部も領有するようになると、三石城の存在価値も薄らぎ自然と廃城になった。

天神山城:天神山城は、享禄5年に浦上宗景によって築かれた宗景一代限りの城である。
浦上宗景は、播磨西部・備前東部を領した三石城主浦上村宗の次男。 父村宗没後、室津城主の兄浦上政宗(浦上宗家相続)と不和になり、富田松山城主の弟国秀と共に備前東部の国人を引き連れ自立した。
浦上宗景は、天文12年に備前守護職赤松晴政(播磨置塩城主)の備前侵攻軍を撃退して、備前での領主権を確立し戦国大名へと成長した。
永禄年間から新興著しい家臣宇喜多直家が、永禄11年に金川城主松田元輝を滅ぼした。 この頃から浦上宗景と宇喜多直家の力関係は逆転し、天正5年に宇喜多直家は天神山城を攻め、数日間の攻防の末に落城。 浦上宗景は城を捨て遁走し、その後の行方には諸説があり定かではない。

岡山方面に向かう。

金川城:金川城は、承久年間に松田盛朝に築城し、松田氏代々の居城であった。 松田氏中興の祖、松田元成は文明12年い居城を富山城から金川城へと移し、城を改築して居城とした。 元成は、備前西半国を領有して自立し、守護赤松氏、守護代浦上氏と対立した。
永禄11年、松田元輝は新興勢力岡山城主宇喜多直家によって攻められ、13代235年続いた松田氏は滅亡した。
松田氏滅亡後、直家の舎弟浮田春家が城主となった。 慶長5年、関ヶ原で敗れた宇喜多秀家は改易となり、小早川秀秋が備前に入国した時、金川城は廃城となった。

徳倉城:徳倉城の築城年代については、諸説があり定かではないが、文明年間に金川城主松田元隆が、金川城の支城として整備したものと考えられ、松田氏の重臣宇垣氏が代々城主であった。
永禄11年に、宇喜多直家(岡山城主)が松田氏を滅ぼすと、直家の家臣遠藤河内守が城主となった。
慶長5年、関ヶ原の役で宇喜多秀家は、西軍に与したため改易となり、備前国は小早川秀秋の領国となり、この頃に徳倉城は廃城となった。 

備中方面に向かう。

足守陣屋:慶長6年、木下家定(豊臣秀吉正室寧子の兄、小早川秀秋の実父)が足守25,000石を与えられた。
2代勝俊は、若狭小浜で62,000石を領していたが、関ヶ原の後小浜を没収され、慶長14年に足守の相続を許されたが、北政所が勝俊にのみ相続させたので、徳川家康の怒りを買い改易された。
その後、幕府直轄領を経て浅野長晟が一時24,000石で入った。 長晟が、紀州和歌山の浅野本家を相続して足守を去り、元和2年に木下勝俊の弟利房が木下家再興を成し遂げて25,000石 を領し、代々相続し明治に至った。

備中高松城:永禄末年に備中松山城主三村氏の重臣石川久式によって、備前との境目の城として築城された。
天正3年に三村氏滅亡後、毛利氏に属した清水宗治が城主となる。 天正10年には、羽柴秀吉による有名な高松城水攻めが行われ、宗治は羽柴・毛利双方の和議の証として自刃する。
その後、高松城には岡山城主宇喜多秀家の領する所となり、花房正成が入城。 関ヶ原以後は、徳川家康の旗本花房職之が居城したが、のち高松城を廃し、別地に陣屋を構えた。

岡山市内に向かう。

18:30岡山駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

17日7:30車で出発。

富山城:富山城は、仁和元年に富山大掾重興が築城した。 本格的な城郭としては、戦国時代になった応仁元年に金川城主松田元隆が攻略し、この城に移ってからである。
永禄13年に宇喜多直家によって松田氏は攻め滅ぼされた。 直家は、弟忠家を城主とした。 その後慶長4年に宇喜多氏の内紛の時、忠家の子信亮は城を捨て大坂に出奔した。 信亮が後の石見津和野城主になる坂崎出羽守直盛である。 城は、慶長6年頃に廃城となり、大手門は岡山城西の丸石山門として移築された。

撫川城:永禄2年に備中成羽の三村家親によって備中と備前の境目の城として築かれた。 三村氏が毛利氏に滅ぼされると、毛利氏の家臣井上有景が城代となった。
天正10年、備中高松城攻防の折りには、羽柴秀吉によって攻められ落城した。 城は、宇喜多氏の所領となり戸川氏が城主となった。
慶長5年、関ヶ原の戦功により戸川逵安が旧領を回復し、撫川城の東に庭瀬城を築いた。 庭瀬の戸川本家改易後、分家戸川逵富が5,000石を賜ってお家再興を許された。 逵富は、撫川城本の丸のみを拝領し、ここに居を構えた。

庭瀬城:慶長5年、元宇喜多秀家の重臣戸川逵安は、関ヶ原の戦功により旧領29,000石で入封して庭瀬城を築いた。 逵安没後、戸川氏は正安−安宣−安風と続いたが、安風に継嗣無く断絶する。
戸川氏断絶後、天和3年に下総関宿から久世重之が5万石で入封、貞享3年には丹波亀山へ移封された。
元禄6年、松平信通が大和興留から入封したが、元禄10年には出羽山上へと移り、元禄12年に上総高滝より板倉重高が2万石で入封して以後、明治まで10代が庭瀬に居城した。

下津方面に向かう。

常山城:常山城は、文明年間に備中松山城主三村元親の重臣上野隆徳によって築かれた。 三村氏は、岡山城主宇喜多直家に追いつめられ、織田信長と結んだ為、毛利氏は小早川隆景を将として三村氏討伐の軍を進めた。 天正3年、ついに常山城も毛利氏に攻められ落城した。
常山城は、岡山城主宇喜多直家に与えられ、重臣戸川秀安が城主となった。 慶長5年、関ヶ原の合戦で宇喜多秀家は改易となった後、岡山城主となった小早川秀秋の重臣伊岐真利が城主となった。
慶長8年、秀秋病没後小早川氏は改易となり、次いで岡山城主となった池田忠継は、常山城を廃城にした。

下津井城:慶長5年、岡山城主となった小早川秀秋は、下津井城を本格的な近世城郭へと改築を開始したが、途中病没したため中断した。
慶長8年、池田忠継が岡山城主となると、赤穂城代だった池田長政に命じて大改築を行い4年後に完成した。
寛永6年、池田光政が鳥取城からから岡山城へと移封され、米子城主池田由成が32,000石を領して、下津井城主となったが、寛永16年に一国一城令によりとなり、由成は天城に陣屋を構えて移った。

備中方面に向かう。

猿掛城:猿掛城は、文和2年に庄資政によって築かれた。 資政は、南朝方北畠顕能に属し北朝方の高師直と度々合戦に戦功を立ている。 その後庄氏は、永享年間には備中守護代として勢力を伸ばした。
戦国時代、天文2年に庄為資は上野伊豆守を滅ぼし備中松山城に居城を移し、猿掛城へは一族庄実近を城代とした。 天文22年、鶴首城主三村家親が毛利氏の支援を受けて猿掛城へ攻めた。 籠城戦の後、庄為資は毛利氏と和睦し、三村家親の長子元祐を養子にして猿掛城主とした。
元亀2年、庄高資が毛利・三村連合軍により居城松山城を攻められ、高資は討死して庄氏は衰退する。 替わって三村氏が備中の覇権を握るが、天正2年に毛利氏によって滅ぼされ、備中全土が毛利氏の領国となると毛利元清が猿掛城主となった。 天正10年、元清は茶臼山城(中山城)を築いて移り、宍戸隆家が城番を務めた。
慶長5年の関ヶ原の敗戦で毛利氏は防長2国に減封となり、慶長9年に花房正成が5千石で城主となったが元和元年の一国一城令で城は廃城となった。

成羽陣屋:成羽陣屋は、元和3年に山崎家治によって築かれた。 家治は因幡若桜から3万石で入封し、鶴首城の麓に新城(陣屋)を築いた。 山崎家治は、その後天草富岡へ転封、更に讃岐丸亀への移る。 山崎氏の移封後、寛永16年に常陸下館より水谷勝隆が5万石で入封、3年後には備中松山へ再度転封する。 
山崎家治の丸亀の遺領を嗣いだ俊家没後、継嗣無く山崎本家は改易となったが、万治元年に山崎豊治に家名存続が許され、5,000石の交代寄合として再度入封した。 明治2年に山崎氏は、新田分も加えて13,000石となり大名に列した。  

楪城:築城年代は定かではないが南北朝時代初期に新見氏によって築かれたと云われる。 新見氏の発祥は詳らかではない。
新見氏はその後尼子氏に属したが永禄9年(1566年)頃に鶴首城主三村元親・元範に攻められ落城した。
その後、三村元範が城主となり、二の丸、三の丸などの増築が行われ松山城につぐ規模の山城となったようである。また楪城の出丸ともいわれる朝倉城に富谷大炊介、粒根城に伊勢掃部入道国寛、竹野城に三村元威、角尾城に三村元高、鳶ヶ巣城に三村親当を配し一族・重臣によって固められた。
備中兵乱によって毛利氏の攻撃を受け、天正3年(1575年)落城し三村元範は高尾の石指まで落ち延びたが多治景春によって討たれた。 その後は毛利氏の家臣今田経高、天野勝元が城主となった。

美作方面に向かう。

高田城:高田城は、三浦貞宗によって築かれたが、築城年代については諸説があるが、嘉慶年間までに築城された。
天文17年、三浦貞勝は尼子氏の重臣宇山久信に攻められ落城したが、永禄2年に三浦貞勝が奪還した。 しかし、永禄8年、備中松山城主三村元親によって攻められ落城、貞勝も自刃した。 高田城は、その後毛利氏と宇喜多氏の争奪戦が繰り広げられた。
江戸時代、明和元年に三河西尾から三浦明次(三浦貞勝とは同祖異系)が23,000石で入封、高田城を修築して勝山城と改名した。 以後三浦氏は、10代続いて明治に至った。 

岩屋城:岩屋城は、嘉吉元年に山名教清によって築かれた。 教清は、嘉吉の乱の戦功により美作守護職を与えられ際に岩屋城を築き、叔父山名忠政が鶴山城(津山城の前身)を築いて在城した。
応仁の乱が起こると山名政清は一族山名宗全に味方して京へ出陣、山名忠政が岩屋城を守将となったが、忠政もまた京へと出陣する。 この隙に赤松政則は美作に侵攻し岩屋城を落とした。
永正17年、備前三石城主浦上村宗は赤松氏の美作の本拠岩屋城を攻め落とし、家臣中村則久を城主とした。 その後、岩屋城を巡って、尼子氏・浦上氏・宇喜多氏が争う。
毛利氏が勢力を拡大させると美作でも毛利対宇喜多の抗争が続き、天正9年には毛利方の中村頼宗が岩屋城主となった。
天正10年、備中高松城を攻めていた羽柴秀吉は、本能寺の変が起きると毛利輝元との間に和議が結ばれ、備中川辺川以東は宇喜多氏領と定められた。 これを不服とした毛利方の中村頼宗は岩屋城開城に応じなかった。
天正12年、宇喜多氏は荒神山城主花房職秀を大将にして岩屋城を攻めたが、城を落とせず、前将軍足利義昭の調停により和議が結ばれ岩屋城は開城した。
長船貞親が新城主となったが、天正18年に野火いにより全焼してしまい、岩屋城は廃城となった。

16:30帰路に向かう。

今回の旅行、中国地方の岡山県に足を運び、比較的マイナーなお城16箇所を巡り楽しみました。

平城は比較的見つけやすく、城跡に公園、学校、役所が立ち並ぶことが多い、山城は登山口を見つけるのが第一歩でそれから山道で頂の城跡までたどり着くのが一苦労を要します。今回も同じでした。

なかなか見つけるのが苦労を要したお城巡りドライブ観光でした。

























京都府お城・城下町巡り第二弾観光  
2015年5月10日
  

古くから権力の中心にあり、建武中興のころから城郭が多く築かれ、足利尊氏が幕府を開き、応仁の乱では各地で11年間も戦闘が繰り広げられ、細川氏と山名氏の抗争は戦国時代までつながっていく京都に足を運び、京都府お城・城下町めぐり第二弾、7箇所(亀山城、八木城、周山城、園部城、建部山城、宮津城、弓木城)のお城をめぐりました。

9:00車で出発、亀岡に向かう。

亀山城:天正5年、明智光秀が丹波攻略の拠点として、それまで八木城の内藤氏の砦規模の支城を大修築した。 
天正10年、光秀は信長より中国出陣を命じられ亀山城を出陣したが、老の坂を下り桂川から京の本能寺に軍勢を転じて主君織田信長を討った。 山崎の合戦で光秀が敗死後、丹波少将豊臣秀勝、小早川秀秋が城主となっている。
慶長14年、岡部長盛が32,000石で城主となる。 翌15年に徳川幕府は、山陰の要としてこの城を重視し、天下普請による大修築を行った。
岡部氏の後、丹波亀山城主は目まぐるしく替わる。 寛延元年、形原松平信岑が丹波篠山より5万石で入封して安定する。 以後明治まで8代に渡って形原松平氏の居城となった。 

八木城:築城年代は定かではないが、室町時代に丹波守護代内藤備前入道によって築かれた。
戦国時代の天文22年、丹波八上城の波多野秀忠らに攻められ落城、守護代内藤国貞は討ち死にして、以後内藤氏は没落する。 この国定の遺児が内藤ジョアンだ。
替わって八木城には松永久秀の弟長頼が居城するが、黒井城主赤井直政の侵攻を受け敗死した。
内藤ジョアンが城主に復帰するが、天正元年織田信長に追放された足利義昭に味方し、明智光秀による丹波侵攻により落城。 そして、内藤氏とともに、この頃八木城も廃城となった。 

周山城:天正7年、明智光秀の丹波攻略により宇津城は開城、翌天正8年に宇津氏等の土豪の押さえとして、また京と若狭を結ぶ周山街道の押さえの城として築かれた。
明智光秀は、丹波支配のための居城として亀山城を築き、福知山城に明智秀満、黒井城に斎藤利三、八上城に並河飛騨守、そしてこの周山城に明智光忠を配した。
天正10年までは明智光忠が城主として居城、本能寺の変後明智氏滅亡と共に周山城は廃城となった。 

園部城:様々な勢力が園部の地に居城を構えたが、室町時代末期、丹波八上城を本城とする波多野氏の家臣である荒木山城守氏綱が七頭衆として園部城に君臨していた。
が、天正六年(1563)明智光秀の丹波攻略の前に潰え去った。
元和五年(1619)に但馬出石より小出伊勢守吉親が入封し、新しく城地を開き、築城した。二年を費やして完成、東・西・南の三方を天神山、振天山、小向山が囲み、その中心に本丸が置かれることになった。現存の城門は枡形でなく、御殿玄関に直結されている構造から、園部城を園部陣屋とも言われている。本丸には三つの二層櫓が構えられていたが、見張りの役には不十分だったのか背後の小向山に三層の小向山櫓を建て、城内外の見張りを果たしていた。また、その本丸の外側には内堀があり、さらにその外に二重櫓、その外側には外堀がめぐらされていた。
以後、小出氏十代二万六千石として明治を迎えることになった。維新の際に京都御所が攻められる危険があったことから、万一の避難場所に園部城が選ばれることになり、城の修復を行われたのであった。

舞鶴方面に向かう。

建部山城:築城年代は定かではない。建武3年・延元元年(1336年)一色修理大夫範光が建部山城を築いたのが始まりとも云われるが詳らかではない。
明徳3年(1392年)明徳の乱で功のあった一色満範が丹後国守護職に任ぜられ、加佐郡の八田館を守護所とし、その背後にある建部山に詰城を築いたのが建部山城の始まりと云われる。
天正6年(1578年)織田信長の部将細川藤孝が丹後へ侵攻し、翌天正7年には一色義道の籠もる建部山城も落城し、義道は中山城へと退いた。しかし、中山城主の沼田幸兵衛が細川氏に内通したことから、義道は中山城で自刃して果てたと云われる。義道の子の一色義定は弓木城に退いて防戦し、細川氏と和睦している。

宮津城:天正6年、織田信長の命により細川藤孝と明智光秀は丹後に侵攻し、建部山城主一色義通を滅ぼして丹後を平定した。 その功により細川藤孝は丹後一国12万石の領主となった。
天正7年、藤孝は宮津城を本城として築き、天正10年に本能寺の変の際、藤孝は田辺城に隠居して、宮津城には嫡男忠興が居城とした。
その後、慶長5年の関ヶ原の際には、忠興は関東へ出陣中で、西軍の丹後攻めのおりに藤孝が宮津城を自焼して、田辺城に籠城している。
元和8年、京極高知が遺命により丹後は三分され、嫡男高広が78,200石を領し、宮津城を居城とした。高広は、荒廃した宮津城を新造するほどの大改修を行った。
京極氏は、2代高国の時改易となり、以後永井・阿部・奥平・青山氏と目まぐるしく城主は替わったが、宝暦8年に松平(本庄)資昌が遠江浜松より77,000石で入封し、以後7代続いて明治に至った。 

弓木城:京都府与謝郡岩滝町の一帯は、律令国家の時代には拝師郷と呼ばれる行政地域の西方にあたり、与謝郡衙の存在も推定されています。鎌倉時代になると岩滝町から宮津市須津にかけては稲富保と呼ばれ、摂関家近衙家の所領となりました。
 弓木城は、この稲富保を名字の地にした稲富氏が室町時代後期以降根城とし、丹後国守護一色氏が最期の拠点とした丹後地方を代表する中世の山城ですが、そのくわしい歴史はわかっていません。稲富氏については、「寛政諸家系図伝」に「はじめは山田氏なり。丹後国忌木(=弓木)の城主たりし以来、あらためて、稲富氏となる。」とあり、初代稲富氏のもとの姓は山田氏で、丹後弓木城主となってから改姓して稲富氏を名乗ったことになります。そして、二代目直時のときに、丹後国守護一色氏の家臣となったようです。ところで「丹後国御壇家帳」には「いミの木」の大なる城主稲富氏ほか四名の名をあげ、これとは別に「いミの木の地下」にそうめん屋ほかの名をあげています。
 天正十年(1582)織田信長の命令をうけた細川藤孝(幽斎)、忠興(三斎)父子の丹後攻略により、一時丹後一色氏は弓木城に立籠りました。が、抗議の甲斐なく滅亡しました。四代直家は、当時希代の鉄砲の名手として一色氏に仕えていましたが、運良く滅亡をまぬがれ一時細川氏に仕えた後、豊臣秀吉、徳川家康に珍重され、晩年は、尾張徳川家の祖義直(家康の第九子)に仕えました。
 今日の丹後弓木城は、一色氏最期の地としてあまりにも著名ですが、もともとは稲富氏の居城であり、丹後の中世山城を代表する弓木城の滅亡は、まさに丹後における中世の終焉を象徴する画期的な事件であったといえましょう。

今回の旅行、近場の京都府の比較的マイナーなお城めぐり第二弾、7箇所のお城を車でめぐりました。

今回も平城は比較的見つけるのが容易でしたが、山城は見つけるのに苦労を要しました。