飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十八弾:山形県東北三十六不動尊霊場&城・城下町巡り観光
 
2015年6月27−28日 

サクランボ、蔵王で有名な東北の山形県に足を運び、山形県内の秋田・青森・岩手・宮城・福島の東北6県をそれぞれ六波羅蜜の道場に見立て、各県で6つの札所を巡る東北三十六不動霊場3箇所、城・城下町12箇所を訪れました。

27日16:15伊丹空港出発

17:30山形空港到達、レンタカーで天童方面に向かう。霊場巡り。

大樹院:
山形盆地の東端に位置した青野郷は、大岡山から南に広がる農業地域で、丘陵には果樹園が営まれている。大樹院はこうした中に在り、裏山一帯ではリンゴの栽培が行われている。本尊不動明王には、このような話しが伝わっている。「請雨瀧不動尊は、往古、弘法大師湯殿山を開基し給いしのち下山の砌り、最上荘大早魃に罹れ、雨を乞うとて諸俗あつまり西根より東根に至るまで其の趣き成る故、悉くそれを憐み給い、弘法大師辰己の方につき、山に下りて雲を発し候故に此処に山篭し玉いて雨を乞うに、則ち雷不動尊あらわれ給い、弘法大師、請雨瀧に勧請せらる」と。

光明院:温泉と将棋の駒で有名な天童市で、光明院は上山口村に伽藍を鎮め、高瀧不動尊の本坊として、土地の信仰を集めている。
 不動尊利益和譛から縁起を見ると、「聖武天皇の御宇、行基菩薩が開眼した景勝無双の霊地にて、その霊験は世々に赫灼なり」と記す。不動尊の影現は滝の魔崖仏である。峻厳な山の気を分けて千仞の谷に降りると、幽邃境に瀑布がひびき、屏風岩に不動明王と阿弥陀仏の影向を拝することが出来る。

慈恩寺:寒河江市は最上川と支流の寒河江川に挟まれた農畝地帯で、慈恩寺の文化を中心に発展してきた地域である。
 草創は神亀元年(724)に遡り、行基菩薩が諸国遊錫に訪れ、都に帰った折り、この地の景勝を奏上された。時に天平18年(746)印度の波羅門僧上が勅宣を以って開山し、勅願寺と定められたのが始まりと伝えられている。
 往古は天台宗・真言宗の二宗兼学によって護られてきた。近年に山内を統一し、最上院、華厳院、宝蔵院とこれに属した十七坊で一山組織を形成し独立した。

17:00天童駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

28日7:00レンタカーで出発、お城巡り。

天童城:天童城は、天授元年に天童頼直によって築かれた。 南北朝時代に北畠天童丸が築いたとも云われているが、定かでない。
天童頼直は、山形城主斯波(最上)直家の二男で里見氏の跡を受けて天童に入り、天童氏を称した。 天童氏は、『最上八楯(天童・延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田)』と呼ばれる村山地方の館主の盟主として、惣領家最上氏に匹敵する勢力を誇った。
天正12年、天童頼久は最上義光に天童城を攻められ落城し、城は廃城となった。 尚、天童頼久は、国分氏を頼って逃れ、のち伊達氏に仕えた。

寒河江城:寒河江城は、嘉禄年間に大江親広によって築かれた。 親広は、鎌倉幕府創世記の重臣大江広元の嫡男で、建久3年に父より寒河江荘地頭職を譲られ、承久の乱で敗れた後に寒河江に逃れて土着する。 
8代時氏から寒河江氏を称した。 寒河江氏は、戦国時代になると最上氏の勢力拡大により都度攻防を繰り返したが、天正12年最上義光によって寒河江高基は滅ぼされた。

山形方面に向かう。

畑谷城:築城年代は定かではない。 城主は江口五兵衛光清で、上杉領との境に位置する要所の為、武勇の誉れ高かった江口氏が長岡城より八千石を領して移封されたという。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦前、上杉討伐のため北上中の徳川家康は石田三成の挙兵により西へ引き返す。最上氏は南部氏などの諸将を最上へ集結し米沢口より会津領へ押し寄せる予定であったが、石田三成の挙兵を聞いた諸将は領内の安定をはかるために領国へ退いてしまう。上杉氏は周辺大名の動向を見たうえで、直江兼続を主将とする大軍を最上領へ侵攻させる。これに対して最上軍は各出城を破棄して兵力を集中させることを目指すが、畑谷城主江口光清は、敵を目の前にして城を明け渡すのは武士として末代までの名折れとして上杉軍を迎え撃った。義光は飯田播磨守・谷柏相模守などを援軍として派遣したが、到着する前に落城、勝ちに乗じた上杉軍は軍勢を二手に分け長谷堂城・上山城へと向かった。

長谷堂城:長谷堂城は、築城年代や築城者については定かでない。 永正11年に伊達氏が最上方の長谷堂城を落としたとの記録があり、この頃には既に最上氏の城として機能していた。
慶長5年、直江兼続に率いられた上杉軍2万が米沢から東軍に与した山形城の最上義光を討つべく北上して、長谷堂城を囲んだ。 城主志村光安は上杉の猛攻から長谷堂城を守り通し、上杉勢の山形盆地進入を阻止した。
翌年、志村光安はこの戦功により東禅寺城3万石の城主となった。 その後坂紀伊守が城主となったが、元和8年に最上義俊改易となり、長谷堂城も廃城となった。

上山城:上山城は、天文4年に武衛義忠によって築かれた。 羽州街道の要衝の地である上山城は、慶長5年に西軍に与した直江兼続率いる上杉の大軍に攻められたが、城主里見民部以下の奮戦により撃退した。
関ヶ原以後、城主は里見・坂氏、次いで最上義光の五男義直(上山光弘)が城主となり、21,000石を領した。 
元和8年、最上義俊改易になり、義直も筑前黒田氏へお預けとなった。
同年上山へは遠江横須賀より松平重忠が入封し4万石を領した。 松平−蒲生−土岐と城主が変遷したが、元禄5年に土岐頼殷が越前野岡へ移った後、上山城は幕命により破却された。 その後、金森頼時、元禄10年には備中庭瀬から松平信通が3万石で入り、以後松平(藤井)氏が10代続いて明治に至った。

中山城:中山城は、戦国時代の永禄から元亀年間に米沢城主伊達輝宗の家臣中山弥太郎によって築かれた。
天正18年、蒲生氏郷が会津若松に入ると、中山城は蒲生領となり、氏郷は、重臣蒲生郷可に13,000石を与え城主とした。 この蒲生時代に城の修築と拡張がなされたと考えられている。
慶長3年、上杉景勝が越後春日山から会津へと移封され、中山城へは横田旨俊が城代として入った。 慶長5年に関ヶ原の役後、中山城は廃城となったが、その後も山麓には御役屋陣屋が置かれた。

米沢方面に向かう。

館山城:築城年代は諸説あるが天正15年(1587年)頃に伊達政宗によって築かれたとの説が一般的である。 天正12年(1584年)伊達輝宗が隠居所として館山へ移つり、隠居所の普請が完了するまで家臣鮎貝宗重宅に住み、翌13年に移ったという。天正15年(1587年)には政宗自身が地取・縄張して築城を開始、しかし天正19年(1591年)には領地替えで岩出山城へ居城を移し廃城となった。また一説には、伊達氏が米沢を居城としていたのは米沢城ではなく、この館山城という説があり、政宗の普請はそれを改修したとする説がある

最上方面に向かう。

延沢城:天文16年(1547年)野辺沢(延沢)薩摩守満重によって築かれたと云われる。 野辺沢氏の出自は詳らかではないが天童氏に従っており、満重のときに野辺沢城を築いて本町館より移ったとされる。
満重の子が野辺沢(延沢)能登守満延で、天正12年(1584年)嫡男又五郎(後の光昌)に最上義光の娘松尾姫を迎え、最上氏に従ったことから天童氏は滅亡した。天正19年(1591年)満延が没すると光昌が家督を継いだ。
野辺沢(延沢)遠江守光昌は長谷堂城の戦いや庄内退治などに参加し、二万石を領したが、元和8年(1622年)最上氏が改易となると肥後国熊本藩加藤氏にお預けの身となり、熊本にて病没した。
最上氏に代わって鳥居氏が山形へ入部すると家臣の戸田玄蕃が城番として延沢城に入ったが、寛永7年(1667年)に廃城となった。

小国城:築城年代は定かではないが、細川氏が岩部館(小国城)を築いて富沢館より移ったのが始まりとされる。
細川摂津守直元は天童城主天童頼澄に娘を嫁がせるなど天童氏と結んで最上氏に対抗する。 天正12年(1584年)天童城は最上義光によって落城、城主天童頼澄は陸奥へ逃れ天童氏は滅亡する。この勢いに乗じて最上軍は山刀伐峠を越えて小国郷へ侵攻し、細川直元はこれを馬騎原で迎え撃ったが敗れ滅亡した。この戦いで格別の功があった蔵増城主倉津安房守は小国郷八千石を得て、嫡子が小国日向守光基と名乗って小国城を改修し居城とした。
元和8年(1622年)最上氏が改易となると陸奥国仙台伊達氏によって城は接収され破却、廃城となった。小国光基は肥前国佐賀鍋島氏にお預けとなり、小国郷は新庄藩の所領となって、小国城の麓に代官所が設けられた。

新庄方面に向かう。

新庄城:天正8年、日野有祐によって築かれたと言われている。 日野氏は山形城の最上氏に臣従して、「最上四十八館」の一つに数えられている。  しかし、元和八年に最上義俊の改易と共に廃城となった。
同年、常陸松岡より戸沢政盛が六万石で新庄の北方真室城に入封した。 政盛は、寛永2年に新田分を加え67,000石を領し、翌年に新庄城を再築した。 戸沢氏は、明治まで11代この地を動くことなく明治に至った。

鮭延城:築城年代は定かではないが佐々木綱村によって築かれたと云われる。 佐々木氏は近江源氏佐々木の一族と云われ、佐々木綱村のとき近江国より出羽国へ下向し、仙北の小野寺氏の客将となったという。
鮭延城の築城に関しては諸説あり定かではないが、佐々木氏は当初岩鼻館を居城としていた。しかし、庄内の大宝寺氏との戦いで敗れ、当時幼小であった秀綱は大宝寺氏に捕らわれて庄内へ連れ去られ、岩鼻館周辺の所領を失った。その後、佐々木氏は真室郷へ退き鮭延城を築き居城としたと云われる。
天正9年(1581年)鮭延秀綱のとき最上義光の攻撃を受けて降伏、その後は最上氏に従った。鮭延秀綱は以後、最上氏北方の拠点として小野寺氏などとの戦いで戦功を挙げた。
慶長5年(1600年)上杉景勝が最上領に侵攻した長谷堂城の戦いで、鮭延秀綱はその武勇を大いに知らしめ、重臣として一万一千五百石を領した。 しかし、元和8年(1622年)最上氏は改易となり、秀綱は下総国佐倉藩主土井利勝にお預けとなった。その後、秀綱は客分として五千石を領し、土井氏の古河転封にも従い天保3年(1646年)に没した。
その後、常陸国松岡より戸沢政盛が六万石を領して入封すると、当初は鮭延城を居城としたが、寛永元年(1624年)新たに新庄城を築いて移り廃城となった。

清水城:築城年代は定かではないが文明10年(1478年)頃に清水満久によって築かれたと云われる。 清水満久は最上の祖である斯波(最上)兼頼の曾孫で、鳴沢城主鳴沢兼義の次男である。 最上氏は北方の守りを固める為に鳴沢満久をこの地に封じ、清水氏を称した。
満久は当初白須賀の元館を築いて居城としていたが、文明10年(1478年)頃に清水城を築き、以後代々清水氏の居城となった。
長年にわたり庄内の大宝寺氏と争っていたが、永禄10年(1567年)頃には大宝寺氏によって清水城は落城した。
六代清水義氏には嫡子なく、最上義光の三男義親を養子に迎えた。この頃には清水氏は二万七千石余りの所領を持っていたという。
最上義光には三男の男子がいたが、嫡男義康は山形城に置いたものの、次男家親は徳川家、三男義親は豊臣家に近侍として奉公させていた。嫡男義康は義光より早く没し、家督は次男家親が継いだ。徳川家康の諱を受けた家親と、豊臣家に仕えた過去を持つ清水義親は氏第に対立が深まり、慶長19年(1614年)家親の命を受けた延沢遠江守光昌らが清水城を急襲し落城、清水氏は滅亡した。

14:30山形空港に向かう。

15:25山形空港到達。
18:00山形空港出発
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、東北の山形県に足を運び、山形県内の東北三十六不動霊場3箇所、城・城下町12箇所を訪れ楽しみました。

霊場は歴史深く立派な歴史的建造物でした。一方お城は、戦国時代戦いのために築かれた山城が多く、山頂にこじんまりした城跡を確認できました。

平城は権力者の住まいとして立派住まいを想像できる城跡でした。

比較的マイナーな城跡めぐり、見つけるのが一苦労要しますが、どんな城跡か、歴史的意味はなにか、楽しみなお城巡り満喫しました。



 

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十七弾:岩手県東北三十六不動尊霊場&奥州三十三観音巡礼
 
2015年6月20−21日 

東北地方に位置し日本で2番目に面積を持ち、世界遺産平泉で有名な岩手県に足を運び山形・秋田・青森・岩手・宮城・福島の東北6県をそれぞれ六波羅蜜の道場に見立て、各県で6つの札所を巡る東北三十六不動尊霊場4箇所、福島・宮城・岩手・の三県にまたがる、西国にならい、由緒や伽藍の規模なども他に誇りを得る寺院が多く、奥州の歴史文化を知る上でも貴重な文化財である奥州三十三箇所観音4箇所を巡りました。

20日伊丹空港17:00出発
18:25花巻空港到達、レンタカーで盛岡に向かう。
19:00盛岡駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
21日7:30レンタカーで出発、盛岡市内の霊場巡る。

永福寺:永福寺の創建は南北朝の頃に遡り、もと青森県三戸に創建された。縁起は、後醍醐天皇の詔宣により懐良親王が大聖歓喜天を遷座されたことに創まり、像は「高野大師作」と伝えられる。
 当地に移ったのは元和年間(1615年)藩主利直が居城を盛岡に移したことに依る。この時南部氏累代の祈願寺であった永福寺も移し、新城の鬼門除けとして東北の地に伽藍を建立した。ときに盛岡五山を定めて筆頭に位し、領内社寺の総録として寺領八〇〇石を付与された。

八幡平方面に向かう。

聖福寺:境内に奥州三十三箇所第三十一番所札所白坂観音堂がある。もと鹿角街道沿い七時雨山麓にあったが、大正8年(1919年)観音堂別当南嶽院の還俗によって聖福寺に移されたものである。この堂は、神亀5年(728年)に聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝えられ、桂清水(天台寺)、御堂観音(正覚院)とともに、三観音あるいは兄弟観音と呼ばれている。

正覚院:天台宗。「御堂観音」と呼ばれる。開創は坂上田村麻呂が、蝦夷制定の際の犠牲者を供養するために建立したと伝えられる。前九年の役(1051)で、安倍氏に勝利した源義家は、観音堂を改築し護持仏を奉納した。

天台寺:岩手県二戸市浄法寺町にある天台宗の寺院。山号は八葉山。1976年、中尊寺貫主であった今春聴(作家今東光)が特命住職として晋山、本尊十一面観音像(丈六立像)の造立を発念し復興に着手したが、着任まもなく宿阿の結腸癌に斃れた。のち瀬戸内寂聴が住職として後任を勤め復興の責を果たした(現・名誉住職[1])ことで知られる。毎月1回の法話の日には、境内に入りきれない程の参拝客で賑わう。

宮古方面に向かう。

長根寺:長根寺の伝説によると、宮古市小山田に大同年間(807年)坂上田村麻呂が閉伊の蝦夷征討の折に勧請されたと伝える薬師堂があり、その社に保存されている鐘がある。その銘に曰く、黒森に観音長根に弥陀仏を奉祀し三所一体の霊場とする意味のものである。本薬師の勧化帳に嘉永元年(1848年)黒森権現、長根寺共に田村麻呂の草創也とある。

遠野方面に向かう。

福泉寺:
遠野物語で有名な遠野盆地にある福泉寺の寺史はさほど古くはない。大正元年(1912年)佐々木宥尊が開創した。
 一本彫りの大観音像があり、これは日本最大だという。住職自らの力作で、断食行をかさねて、二十年の歳月を要して完成した、総高17メートルの巨大像である。
 また、ここからは遠野盆地が一望でき、絶景の一言につきる。


奥州方面に向かう。

興性寺:興性寺は、元和八年(1622年)宮城県栗原郡より移転し、岩谷堂城伊達氏(岩城氏)の祈願寺として、近隣からも格式高く扱われていたお寺である。移転時の開祖は多門院興性である。はじめ岩谷堂城付近にあったが、岩谷堂城代・藤田但馬守のとき現在地に移った。ちなみに、興性寺の山門は岩谷堂城裏門の遺構である。

黒石寺:
国指定の重要文化財 木造薬師如来坐像には貞観4年(862年)の年紀を含む墨書銘が記されていて木彫の仏像では日本最古なそうだ。

16:30花巻空港に向かう。

17:10花巻空港到達。
18:55花巻空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北の岩手県に足を運び、岩手県広範囲に点在する東北三十六不動尊霊場4箇所、奥州三十三箇所観音4箇所を巡り楽しみました。

広い岩手県、霊場が散らばっておりほとんど移動に時間を取られました。

東北三十六不動尊霊場は立派な寺院が多く素晴らしかった。

ドライブが主となった岩手県霊場めぐり観光でした。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十六弾:宮城県東北三十六不動尊霊場&奥州三十三観音巡礼
 
2015年6月13−14日 

東北地方の中心地宮城県に足を運び、山形・秋田・青森・岩手・宮城・福島の東北6県をそれぞれ六波羅蜜の道場に見立て、各県で6つの札所を巡る東北三十六不動尊霊場5箇所、福島・宮城・岩手・の三県にまたがる、西国にならい、由緒や伽藍の規模なども他に誇りを得る寺院が多く、奥州の歴史文化を知る上でも貴重な文化財である奥州三十三箇所観音12箇所を巡りました。

13日15:10伊丹空港出発
16:25仙台空港到達、レンタカーで角田方面に向かう。

愛敬院:愛敬院は聖護院門跡を本山とする修験・山伏の寺院で、阿武隈渓谷自然公園内に境内があり、四季折々の景観を楽しませてくれる憩いの場となっております。
 駒場瀧不動尊の歴史は古く今を去る壱千百年の昔、天台座主の慈覚大師が奥州ご巡錫のみぎり奥州鎮護霊山寺の鬼門の守りとして浄地を選らび、世の平安と人々の幸福を念じて激流岩をかこむここ駒場が滝において、自ら不動尊像を刻み、滝上の岩窟に祀られました。爾来、遠近の参詣者が絶たず、特に行者や山伏の修行の道場とし栄えました。
 また、源平時代、平泉の藤原氏を留まっていた源義経主従が参詣の折、主君の武運を祈って、弁慶が騎馬のまま滝を跳び越え、岩上のくぼみが蹄跡と伝えられている。
 当山では修験の寺院としてお不動さまのご縁日(28日)に修験独自の護摩祈祷、また一般の方を対象にした霊山峰入り修行等を行っています。

斗蔵寺:

19:00仙台市内に向かう。
19:40仙台市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

14日6:45レンタカーで出発、仙台市内の霊場巡る。

名取千手観音堂:増田字柳田 佐藤 功様方に奥州三十三観音霊場 第五番札所に数えられる観音堂があり
寄木造り千手観世音菩薩立像が安置されています。


金剛寺観音堂:

紹楽寺:

秀麓斎:秀麓齋の寺号「齋」というのは全国でも珍しく、日本三齋の一つといわれ、開創は延暦十七年(798年)征夷大将軍 坂上田村麻呂が奥州に蝦夷平定の軍を進めるにあたり戦勝と天下泰平を祈願するため、信仰する西国清水寺の観世音をこの地に勧請したことに始まる。
大同二年(807年)比叡山伝教大師の法子 義 法師を開祖とし、天台宗に属し、大阪、四天王寺の末寺となった。十二世紀奥州平泉の藤原氏隆昌の頃には、その庇護をうけ末寺数十ヵ寺を有し最も栄えたが、藤原氏滅亡後は天台宗自体が衰退していった。
室町期文明年間(1469〜1486)大本山總持寺直末、越後国岩般郡村上の霊樹山耕雲寺四世 瑚海仲珊大和尚を勧請開祖とし天台宗を曹洞宗に改宗した。

西光寺:仙台秋保は温泉で名高く、日本三名瀑の一つに挙げられる秋保大滝がある。霊験あらたかな大滝不動尊はここに坐す。
 縁起は、平安期に慈覚大師が開基された。はじめ秋保温泉の南にある磊々峡を望む長嶺山に一宇を建立しようとしたが果たせず、二口峠を越えて出羽に向かわれ、貞観二年(860年)山寺を創建されたが、その帰路ここに留錫し、大滝の壮観と森厳の気を感得されてた。依って自ら不動明王を刻んで安置されたのが起因であると伝えている。

松島方面に向かう。

五大堂:瑞巌寺は、もと青龍山延福寺と称し天長五年(828年)慈覚大師が開山した天台宗寺院であった。鎌倉期にいたって入宋の法心性西を開山の祖として円福寺という臨済宗の禅林に改められ、戦国末期九十三世実堂の代から妙心寺派となった。
 仙台藩主伊達政宗公のとき師父と仰ぐ虎哉宗乙禅師のすすめで、現在の堂宇を造営し、慶長十四年(1609年)に完成した。次で政宗の遺志をついだ二代忠宗は雲居禅師を招いて中興の祖とした。現存する諸堂は桃山時代を代表する貴重な建造物になっている。
 五大堂は境外に在り、透し橋を架けた島に端正な御堂を映す。縁起は、大同二年に坂上田村麻呂が毘沙門堂を建て、のち慈覚大師がこの地に五大明王を安置して延福寺の守護を願われ、慶長九年に伊達政宗が再建した。

三聖堂:

石巻方面に向かう。

梅渓寺:

箟峯寺:箟峯寺は箟岳観音とよばれ箟岳山の山頂にあり、松島の富山・石巻の牧山と並んで奥州三観音の一つ・奥州三十三観音第九番札所に数えられています。
 宝亀元年(770)、鎮守府将軍大伴駿河麻呂の草創と伝えられ坂上田村麻呂がこの地に堂宇を創建したといわれています。古くは霧岳山正福寺と称していましたが、嘉祥2年(849)に円仁が中興、無夷山箟峯寺と改め、以後天台宗に属するようになりました。殺生禁断・女人禁制の聖地、また奥州鎮護の祈願所として南北朝時代には葛西・大崎の両氏、江戸時代には仙台伊達藩の崇敬を受けていました。往時は21坊をもつ大寺でしたが時代の推移、また二度の火災により衰えていましたが、二代藩主伊達忠宗によって再興されました。

古川方面に向かう。

松景院:
神寺松景院は、天正19年(1591)実恵法印によって涌谷伊達家の祈祷寺として開山された真言宗の寺院です。開山以来、神仏混合の修験道を修し、御本尊は不動明王(不動尊:お不動さん)、秘仏として大聖歓喜天(お聖天さん)を奉安しております。開山当時は、田尻川と美女川とにはさまれた風光明媚な地に、梅の古木がまじった松林が生い茂っておりました。加えて川端の芽を竹に見立て、「松竹梅茂る目出たき処、ここに厄除開運の寺を建てん」との願いにより、寺の名前を『梅光山松景院』として開山されたと伝えられています。以後、災厄消除・福徳開運を祈る参詣者が絶えず、今に至っております。

登米方面に向かう。

興福寺:南方町の大嶽山には「大嶽の観音さん」と呼ばれ親しまれている「奥州三十三観音大嶽山(おおだけさん)興福寺(こうふくじ)」があります。
度重なる焼失で古い記録もなく由緒は不明ですが、一説では平安時代に一帯を支配していた豪族・大武丸(おおだけまる)を807年に征夷大将軍・坂上田村麻呂が討伐。その亡きがらを葬った塚の上に観音堂を建てたのが始まりと伝えられています。
観音堂の内陣には、伊達家の紋章である「竹に雀」が施され、奥には33年に一度だけ開帳される「本尊・秘仏十一面観音菩薩」がまつられています。また、観音堂外側の板壁には、中国の「二十四孝物語」の彫り物が色鮮やかに刻まれ、休日には多くの観光客が訪れます。
そのほか、観音堂の周囲には、薬師堂、白山堂、鐘楼、六角堂などがあり、それぞれ歴史を感じさせています。

長谷寺:

長承寺:

大徳寺:由来記によると、後白河天皇の御宇、百済国より本吉郡志津川町水戸辺浜に仏像が漂流。三条重信と称する従士が霊感を得て横山「中ノ森」に堂舎を建立して安置す。中ノ森は現地より600メートルの山中で、現在は奥ノ院と称している。当時は明王山金剛寺と号し真言宗の道場であったが、永正元年(1504年)横山村館主男沢蔵人が禅刹に改め、白魚山大徳寺と呼称するにいたった。
 大正十五年に起きた付近の出火に遭って類焼した。像は災禍から免れたが、多少の傷を負ったのが惜しまれる。現在の堂は昭和三年に再建した。本林流宝塔造りという希な建築様式を伝えている。
 参道の小川には、ウグイが群生し、昔から不動尊の御使姫として保護を受けている。ウグイは昭和十年に天然記念物に指定された。

15:10仙台空港に向かう。

17:30仙台空港到達。
18:55仙台空港出発
20:15伊丹空港到達。

今回の旅行、東北宮城県に足を運び、東北三十六不動尊霊場5箇所、奥州三十三箇所観音12箇所を巡り楽しみましたました。

先週の北海道札幌周辺の霊場と比べて、立派な寺院が多く、歴史的にも興味深いものが多く勉強になりました。

次回は岩手県の霊場を巡る予定です





 












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十五弾:北海道八十八箇所霊場&北海道三十三観音巡礼
 
2015年6月6−7日  

北の北海道に足を運び、札幌から北は石狩、東は美唄に及ぶエリアに点在する北海道八十八箇所の23箇所(明王寺、蜜修寺、招福寺、弘法寺奥の院、浄徳寺、吉祥院、弘聖院、善福寺、八葉峰寺、雷音寺、覚良寺、長高寺、弘仙寺、大心寺、高徳寺、龍光寺、孝恩寺、観照寺、観霊院、真如院札幌別院、大照寺)北海道三十三観音(新栄寺、立江寺、弘清寺)の3箇所を巡りました。

北海道八十八ヶ所霊場は平成18年10月15日に開場されました。
今より1200年前、「四国八十八ヶ所霊場」が真言宗開祖 弘法大師 空海上人(以降御大師様)によって開かれて以来、鎌倉時代以降は修行としての巡拝が一般的になり、現在では全国各地50箇所以上の霊場が開場され、観光も含めて多くの方が参拝されています。

北海道三十三観音霊場は大正2年(1913)徳島市の山本ラクさんが北海道の33箇所の真言寺院に本西国霊場と同じ33体のご本尊を縮小模刻し配納することによって開創されました。

6日15:00伊丹空港出発
16:50新千歳空港到達、レンタカーで札幌に向かう。
18:20札幌市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
7日6:30レンタカーで出発、札幌市内の霊場巡る。

新栄寺:明治18年に仮堂を建設。 大本山成田山新勝寺から、ご本尊不動明王のご分身を勧請して開創されました。成田山札幌別院新榮寺の公称は明治22年からです。旧本堂の建立は明治42年でしたが、惜しくも昭和39年に焼失致しました。旧本堂規模 表口12間(21.6b)、奥行き5間(9b)初代住職は、大本山成田山新勝寺中興第14世貫首 三池照鳳猊下。

蜜修寺:当寺院は、悟りの境地(菩提心)に近づくための密教の修行道場という意味を込め『菩提山 密修寺』と名付けられました。
初代住職奥村弘淳が、少女期に病を癒すべく観音信仰に深く帰依したことが起源で、昭和59年現在地に大日如来をご本尊に奉迎し、寺院を建立するに至りました。
不動明王、地蔵菩薩、観世音菩薩、金毘羅大権現、毘沙門天、愛染明王、釈迦如来、弘法大師をお祀りし、
「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」もございます。
また、月に5回以上護摩を厳修しております。

善福寺:

吉祥院:吉祥院は水子供養・先祖供養、交通安全祈願、厄払いや護摩祈祷のお寺として広く信仰を集めております。
人生相談・心霊写真などでお困りの方、また菩提寺が無い遠い方、毎月の廻向・年回忌の廻向でお悩みの方も、お気軽にお寺にお問い合わせ下さい。
お寺には、納骨堂もございますので納骨・永代供養・一時預骨…
水子さまの遺骨の永代供養・一時預骨についてもお気軽にお寺までお問い合わせ下さい。

石狩方面に向かう。

弘聖院:一軒家を改築して勤めております。お参りは敷地内に霊場本尊を安置している大師堂があり、外からの参拝になります。普段、月忌参りに勤めておりますので、不在の時もありますがご自由にご参拝下さい。
また、おいづる希望の方は事前にご連絡下さいますようお願い申し上げます。

立江寺:覚王山 立江寺は、北海道石狩市にある高野山真言宗の寺院で、北海道33観音霊場の第10番札所です。ご本尊は「地蔵大菩薩」を、霊場ご本尊には「千手観世音菩薩」が祀られております。

札幌南部方面に向かう。

明王寺:

招福寺:当山は弘法大師1150年の御遠忌の報恩行として、夕張市より西村聖峰師が来札・開教のため昭和61年堂宇を建立した寺です。
境内には2つの池があり、鯉・金魚を飼っています。また、5m程の滝があり滝行もできます。寺宝を集めた博物館もあり、中高生
が阿字観(座禅)写経、写仏の修養に来ます。夏休みには小中校生のキャンプの寺子屋を開設しています。また、法要毎にボケ防
止の皿灸をしています。尚北海道三十六不動尊33番札所、北海道七観音第1番札所になっています。

浄徳寺:当山はもともと旭川市末広町に開基龍覚師により設立されました。のちに第二世龍敬師(小樽・龍照寺、北海道三十六不動尊霊場第29番札所)が兼務したものの本尊・仏具も全て消失しており、その後、平成9年に札幌市簾舞へ寺務所を移転。平成11年には、第三世敬胤師が就任。平成14年、二世龍敬師の発願により本堂兼薬師堂を建立しました。お堂には霊場本尊の聖観音座像と薬師如来、両脇侍には日光・月光両菩薩が奉安され、訪れた参拝者の所願成就をお守りして下さる事でしょう。現在は小樽龍照寺札幌別院浄徳寺として布教活動を行っています。

弘法寺奥の院:弘法寺は大正14年8月27日に開基黒岩貞通と貞道が祈祷所を建立、昭和6年3月30日に教会設立の許可を得ます。 
昭和36年に前市議高橋岩太郎氏及び有明有志の承認を受けて、鱒見の滝行場近くに本堂を建立して弘法寺奥之院と定め、本尊大日如来、不動明王、弘法大師を奉安しました。
柴燈護摩を毎年7月第一日曜日11時に鱒見の滝お不動さんの場所で厳修しておりましたが、国営滝野すずらん丘陵公園の造成により現在の場所に移転。古いお堂は昭和60年雪害により解体。現在のお堂は平成10年7月5日落成法要を営み本尊如意輪観音にしました。

観照寺:大正10年開基住職の佐々木観照が二十歳の時、病院に入院。病気は重い肺結核でした。日々、南無阿弥陀仏と唱えて、数年が経ち日に日に元気になり病気が治りました。
ありがたい事は多くの人に教えていかなければと思い、昭和7年佐々木家は浄土真宗の為にいかにしたらいいかと尋ね回っていた時、現在の狸小路で一人の易者の老人に会いました。その老人は札幌の真言宗国分寺派浅草寺の住職、黒田観聖僧正でした。これまでの事を全て話すと、加持祈祷のある真言宗国分寺派の弟子として入門を許され、昭和10年10月18日、現在の西岡に十畳一間の本堂を建立し、本尊に南無仏勅妙法観世音菩薩像を奉安しました。
平成10年に新本堂を建立し、同年、真言宗国分寺派の別格本山となり、平成17年には観照寺開基70周年法要を終え、今日に至っています。

観霊院:開基は終戦直後、陸軍演習地を開拓として入植。うっそうたる草木や熊笹が茂る未開の地に9尺2間の茅葺きを住居とし朝な夕な礼拝していました。 開墾にいそしむ日々を重ね昭和24年4月8日、「我、大勢至菩薩なるぞ、この地を聖地と定め人々の迷心の雲を払いのけてはくれまいか」との菩薩の霊告を信じ勢至菩薩を奉安しました。病める人、苦しむ人、悩む人々の心の支えとなるべく誓願を深く心に秘め青森、四国、高野山と行脚し精進を重ね、信徒と共に堂宇を建立しました。 
信徒の熱意溢れる力強い後押しや高祖弘法大師、諸仏・諸菩薩の広大無辺のご加護とご法縁により85番札所聖観世音菩薩を迎え、さらに四国八十八ヶ所のお砂踏みも整え、毎月12日の例祭では法話、護摩祈祷などを行い今日に至っています。
皆様のご参拝心よりお待ちいたしております。

真如院札幌別院:高野山真言宗成田山真如院は、北海道北部日本海側に位置する羽幌町に本院、北海道の中心札幌市清田区平岡に札幌分院を持つお寺です。成田山真如院本院・札幌分院では、護摩祈祷及び厄払い、大般若祈祷及び厄払い、十三参り祈祷、水子精霊供養、ペット精霊供養、檀家のご先祖精霊供養、永代精霊供養、永代納骨等ができるお寺です。

大照寺:昭和48年 寺号公称本堂を建立し開教。
昭和53年 現在地札幌の交通の要衝、大谷地に移転。
平成2年  北海道三十六不動尊霊場34番札所となり交通安全祈願所として発展。 境内には本堂、庫裡、鐘楼堂、三十三観音霊場等、七堂伽藍を擁し、特に本尊不動尊、脇仏三十六童子、不動尊三千体像、地蔵尊三千体像、観音像三百体像の荘厳を成しています。
平成18年  北海道八十八ヶ所霊場第八十八番結願札所となり全国からのご信徒をお迎えしています。仏教精神と弘法大師の教えに従い、広く檀信徒及び地域住民の憩いの場と癒しの心に基づいた活動、更なる信仰と和の世界観を発展して行くことを特色としています。

江別方面に向かう。

八葉峰寺:昭和初期。覚念法師が弘法大師様をご招来し、弘法大師温灸を始めましたことが開教の始まりです。 
当時は病気を治しますのも針灸に頼ることが多く、たくさんの信者が集まりました。 
昭和11年第一世正博和尚が高野山より帰山し此処を江別教会とし、昭和24年には本堂も建立され八葉峰寺と寺号公称致しました。現在の本堂は平成元年に改築されたものです。脇仏として不動明王様、愛染明王様が奉安されております。平成8年石狩川左岸にありました石狩川水難者を供養致します子安観音菩薩様が境内に移転奉安されました。

雷音寺:20年前のある夜に「北海道を密厳国土にしなさい・・・」とお大師様が夢枕に御立ちになった事に発します。
当山名称の由来となった天鼓雷音佛は胎蔵界曼荼羅中台八葉の北方に位置し、悪鬼を調伏し病を治す得を持ち、金剛界曼荼羅の阿しゅく如来(あしゅくにょらい)と同体です。
阿しゅく如来は薬師如来と同体ですので、当山に霊場本尊として薬師如来が来られたのは仏縁なのでしょう。まだ当山は開基6年目でプレハブの仮本堂でございますので巡拝者の方々には至らない点もありますが何卒ご容赦願いたく思います。

覚良寺:当山は、江別駅東南徒歩20分千歳川の下流堤に沿って木立に囲まれた江別煉瓦発祥の地にあります。
明治後期京都より初代覚良和尚が現在地に拠り、布教に専念し、昭和初期に寺院を建立しました。
山号を遍照閣と称し寺号を覺良寺と定めました。本堂に向かって右に事務室、庫裏、離れて納経所(煉瓦工場施設あと)、大師堂、左に納骨堂、大日如来坐像、不動尊像を置き参道左手に修行大師像を迎えています。
奥まって観音立像(下に無縁佛の納骨堂にしています)を中心に西国三十三観音を配置し巡拝路を設け、当時、高名な彫刻家高村光雲作の薬師如来像が加持室に奉安されております。
また住職手作りの切り絵「ホウライ」は本山へ送りまた近郷の寺院檀家に配布し好評を博しています。

岩見沢方面に向かう。

龍光寺:列車が志文駅に近づいた時、駅のすぐそばに龍光寺のお堂が見えてきます。平成10年、現在地を浄域として本堂を建立。災難身代わり、悪魔降伏の意を含めて不動明王を本尊とし、宗祖弘法大師を祀ります。 
平成18年に北海道八十八ヶ所霊場第82番に定められ、札所本尊千手観世音菩薩を奉安し、お遍路さんをお迎えしています。この不動尊のお守りとして、海・陸の身代り守は、影の形に随うが如くよく護られ、お守りの他、厄除、安産、自動車のお清めなどの多くの方が祈願に参詣されます。

長高寺:当寺本尊十一面観音様は開創者奥田師が大和国長谷寺から請来してきました。開基住職近藤精高師の時に寺号を長高寺と改め現在に至っています。また、第二世住職の近藤精識和尚の時代には伽藍整備を行い、子弟教育のために専修学院・事相専門道場を開設し多数の僧侶を世に送りました。
平成11年には全日本仏教教会会長であった真言宗豊山派管長 濱野堅照猊下お迎えして開創百年法要を3日間にわたり勤修し本尊様に報恩謝徳の誠を捧げました。
当寺境内を彩る百株余の牡丹は檀徒寄贈によるものですが観音様を篤心されたお礼と聞いています。観音様の霊験は遠近の方によって帰依を頂いており、大変御利益があると知られていますが現在は秘佛となっています。

高徳寺:明治30年長州の人、長尾泰寛師により開創。昭和3年高徳寺の寺号公称。初代、高田智得が大正9年に萩の山に新四国八十八ヶ所霊場建立し、参拝道の入口には修行大師像があります。
平成19年5月1日、本尊「不動明王」(総丈約3メートル)、北海道八十八ヶ所霊場札所本尊「千手観音」入仏開眼。 
本堂左手には大観音様(総丈約12メートル)あります。参道左手に握手大師(等身大)があり、お大師様と握手の後、本堂へいらして下さい

美唄方面に向かう。

大心寺:昭和26年10月、開基住職荻原湛然僧正は、弘法大師を本尊として大心寺を建立しました。翌年27年境内に新四国八十八ヶ所霊場を開設、同年7月17日、京都総本山醍醐寺座主、三宝院門跡、岡田戒玉大僧正猊下を屈請して入仏開眼の大法要を奉修、以来、大師信仰の道場として知られ、真言醍醐の教義に基いた教化活動が行われています。本堂には本尊の他、不動明王、愛染明王がまつられ、また、境内には修行大師像、子安大師像、八十八ヶ所の石仏が並ぶミニ霊場があり、弘法大師の偉徳を慕い巡拝する方も多くいらっしゃいます。 平成18年、北海道八十八ヶ所霊場開創のとき、札所本尊、千手観世音菩薩を安置し、第80番札所と定められました。

弘仙寺:明治初期から幌内炭鉱、幾春別炭鉱などいくつかの炭鉱が開鉱され活況を呈するなか、明治32年福井県から移住した山内家12代目により弘法大師像(元福井県大安寺蔵)を幾春別錦町に奉安したのが寺の濫觴。
開基は13代目山内善七。第一世妙識法尼の霊験談によれば、善七の四女ミヨは幼少の砌にわかに失明、家族共々絶望の淵に沈むも、毎夜ミヨの枕元に立つ僧侶に促されて大師堂脇の湧水で身を浄め、ひとり弘法大師に詣ずること6カ月、奇跡的に開眼しました。 医師に匙を投げられた視力を回復したミヨは、その後得度して名を妙識と改め弘仙寺第一世となる。 境内には西国三十三観音をまつっています。現在、湧水は残っていません。

栗山方面に向かう。

孝恩寺:当山は裏山に「新四国八十八ヶ所」と称して八十八体の石仏を奉安しています。
春秋二期にそのお山の山開きと山閉いとを行う法要を開催していますので、ご来山の折にはぜひ一度お山のご参拝もしていただきたいと存じます。

弘清寺:和光山 弘清寺は、北海道33観音霊場の第11番札所です。
ご本尊は「十一面観世音菩薩」を、霊場ご本尊には「准胝観世音菩薩(じゅんていかんのんぼさつ)」が祀られております。

15:20新千歳空港に向かう。
16:30新千歳空港到達。
18:00新千歳空港出発。
17:50伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、札幌、その周辺に点在する北海道八十八箇所の23箇所、北海道三十三観音3箇所を巡り楽しみましたました。

北海道の寺院は関西の寺院と比べると比較的小規模の建物が多く、民宿のような建物、タイル張りの近代的な建物も有り、寺院としての建物に似つかないものも多く驚きました。

レンタカーが24時間2000円の格安車を予約しましたが車は問題なかったがナビのディスプレイが小さく見難く、又電話設定しても見つからないいのが多く、住所で設定しても番地まで設定できず、目的地にたどり着くのに苦労しました。
今回のように寺院巡り、頻繁にナビ設定が必要な旅行は、車だけでなく、ナビの機能も予め調べておくほうが懸命ですね。