飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十ニ弾:北海道八十八箇所・北海道三十三観音&お城・城下町巡り観光
 
2015年7月25-26日

北の北海道に足を運び、夜景や教会群、赤レンガで有名な道南の函館エリアの北海道八十八箇所の2箇所、北海道三十三箇所観音2箇所、比較的マイナーなお城・城下町8箇所を巡りました。  

25日15:30関西国際空港出発
17:10函館空港到達、レンタカーで霊場めぐり。

高野寺:明寺初年に函館港の発展に伴って本州からの移住が日を追って増加し、随って真言宗を信仰する人も増え、檀信徒の間に寺院設立の声が高まり明治16年に真言僧が布教来函の時に後に総代になる遠藤吉平氏が主となって相談して一寺建立の義纏まり、同年9月に大塔再建勧奨の為に本道を巡教されていた高野山真言管長獅岳快猛大僧正に新寺建立の願いを申し述べて、新寺建立の許可を得て、翌17年東川町に本山より下付された大日如来を本尊として一宇を建立したのが本寺の創りです。後青柳町に移転、大正3年の大火に類焼のため現在地住吉町に移転するも、昭和9年の大火で再び類焼、当時の第9世原田智厳師はその時代の寺院建設には考えられなかった鉄筋コンクリート建本堂(現在の本堂)を昭和12年に落成する。
本尊大日如来は2度の大火とも運び出して難を逃れ、昭和42年国指定重要文化財に指定される。

善導院:当院は昭和六十二年に開山主恵晃師が大聖不動明王を御本尊とし、当地、山の手の高台に本堂を建立しました。 以来、宗祖弘法大師の御教えを伝燈すると共に、真言密教の護摩修法により、災厄、霊障に悩まれる方々をお救いし今日に至っております。又、平成十九年には、北海道八十八ヶ所霊場第六十四番札所として、霊場御本尊「阿弥陀如来」を奉安し、菩提の道場として多くの巡礼者が参拝されております。

神山教会:明治33年、篤親家室本幾太郎翁が神山村の山中に四国八十八ヶ所の石仏を安置する。
明治36年、室本翁より境内地の寄進を受け小山智道僧正「真言宗神山説教所」開山。
昭和17年、「真言宗神山教曾」と改称。
昭和29年、開山50年にあたり、中興丸山哲應僧正堂宇を現在地に移転改築する。
昭和63年、弘法大師御入定1,150年と開山88年を記念して堂宇を新築する。
平成14年、開山100年記念法要厳修

大宝寺:

18:30江差方面に向かう。
19:40江差市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

25日7:30レンタカーで出発、お城巡り

舘城:明治元年(1868年)、箱館戦争の直前に松前藩により渡島国檜山郡の館(現在の厚沢部町)に建造された日本の城である。従来の本拠である松前城に対し、新城とも言う。完成直後に旧幕府軍の攻撃を受け、落城した。国の史跡に指定されている。 蝦夷地を支配する松前藩は松前城を本拠としていたが、明治元年7月に起こった正義隊のクーデターにより尊王派に転じた後、旧幕府軍の攻撃に備えて、内陸部に新城を建設することとし、9月1日、箱館府に築城を願い出るとともに、工事に着手した[2]。
松前城は艦砲射撃を受けるおそれがあること、従来の漁業・交易経済からの転換を図るため厚沢部川流域開墾の拠点とすること、が館城築城の目的であった。工事を突貫で進めた結果、10月末には一応の完成を見た。

花沢館:源頼朝は、文治5年(1189)に奥州藤原氏を滅ぼすと、津軽に東北北部や北海道の「蝦夷」を支配する「蝦夷管領」を設置し、俘囚安倍氏の系譜を引く安藤氏を配した。
安藤氏は、十三湊を拠点に北方との交易を行なうが、15世紀半ばに南部氏との争いに敗れ、道南へ逃れた。その後も、本州最北部では豪族間の争いが続き、享徳3年(1454)には、下北半島田名部の安東(藤)政季が、内紛で若狭武田氏を出奔した武田信広らを伴い渡島半島に渡った。
こうした状況を反映して、当時の渡島半島には、和人、和人系渡党、アイヌ系渡党、アイヌなど多様な人々が住んでおり、その中から交易などで富を得た小豪族らが館(たて)を築いていった。
花沢館もそうした館の一つであり、道南には東の志苔館から西の花沢館まで12の館が築かれた

勝山館:築城年代は不明だが、館北端にある館神社の創建が文明5年(1473年)と伝えられているため、この頃の築城と推定されている。蠣崎信広あるいはその子光広以降、蠣崎氏の本拠地とされていたが、光広の時代の永正11年(1514年)に松前の徳山館に本拠を移転して以降は、主要な副城として脇館転じて「和喜の館」と称され一族を配した。
夷王山の中腹、南から北へと伸びる斜面を利用して長さ270メートル、幅100メートルで総面積20.9万平方メートルの規模を有する。さらに城の背後から山頂に向かって中世和人の墳墓群(夷王山墳墓群)が存在する。
戦後、夷王山墳墓群の調査が先行され、館そのものの本格的調査は昭和52年(1977年)の史跡指定後の昭和54年(1979年)になってからである。その結果、15世紀後期から16世紀後期にかけての陶磁器・金属器・漆器・骨角器など7万点におよぶ遺物が出土しており、主要な遺物921点が国の重要文化財に指定されている[2]。

松前方面に向かう。

松前大館:松前大館はもともとは津軽を本拠として蝦夷地もその領有下としていた安東氏の蝦夷地の拠点として作られたようです。コシャマインの戦いの時も、安東氏の同族である下国定季と相原政胤が守将となっていましたが、アイヌの攻撃に抗しきれず陥落しました。しかしすぐ回復し、下国氏が守護していましたが、定季の子恒季は非法が多く、秋田安東氏によって滅ぼされ、相原季胤・村上政儀が守将となりました。
 永正9年(1512)、アイヌの攻撃により陥落、両守将は戦死しましたが、これは蠣崎氏二代光廣の策謀によるものと言われています。そして同11年(1514)光廣は上ノ国から大館に移り、徳山館と名を改め安東氏の代官として蝦夷地支配をを進めました。その後もアイヌの攻撃がありましたが、慶長11年(1606)に福山館(松前城)に移るまで蠣崎氏政権の拠点でした。その後は万一の場合の隠し砦としてそのまま保存され、現在に至っています。
 大館跡は発掘調査が行われておらず謎がまだ多いようですが、天然の要害を利用した大規模な山城だったようです。

函館方面に向かう。

茂別館:鎌倉時代から室町時代中期にかけて、道南地方には和人の館が12あり、茂別館(もべつだて)も、そのうちの1つであった(*道南12館)。
嘉吉3年(1443)津軽十三湊城主・安東太郎盛季が館を造ったのに始まるといわれ、南の大館と北の小館から成っている。
大館は、西は茂辺地川岸に面し、南と北は自然の沢で切られ、東は空濠を巡らしている。
また、小館は、西は茂辺地川左岸の崖地で、他の三方は、自然の沢を利用し、更に土塁を設けている。
康正2年(1456)のアイヌ人の蜂起(*コシャマインの乱)があった時も、花沢館とこの茂別館の2つだけが最後まで落城しなかった。

松前藩戸切地陣屋:北斗の町から北西に4kmほど、大野平野の西の外れに松前藩戸切地陣屋跡がある。箱館開港に伴う外国船渡来による不測の変に備えて幕府は松前藩に七重浜から木古内までの守備を命じ、1855年にこの戸切地陣屋が構築された。陣地は蘭学の築城書による四稜堡で広さは4.3ヘクタール。東南部の稜堡に6門の砲座を配置した。郭内には17棟の建物があり約120人で守備していたが、1868年の箱館戦争時、榎本武揚率いる旧幕府残党に追われて相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼払って敗走した。この陣屋は建物こそ焼失しているが保存状態が極めてよく、幕末における北辺の国際情勢や西欧風の影響を知る資料として築城史上価値ある史跡である。表御門跡と裏御門跡には大手門と搦手門が復元され、門から入ると広い郭内には大砲入跡、筒入跡、蔵跡、備頭・目付詰所跡、足軽長屋跡、武器庫跡などがあり、石で基礎を再現して跡地を表示している。1904年に日露戦争を記念して陣屋跡までの800mの一本道に585本の桜の木が植えられた。以後この松前藩戸切地陣屋跡は桜の名所として知られるようになり、5月上旬~5月中旬にかけて桜並木が見頃を迎える。

四稜郭:箱館戦争の際に蝦夷共和国(箱館政権)が、明治2年(1869年)に現在の北海道函館市に築城した堡塁。新台場、神山台場、新五稜郭などとも呼ばれる。四稜郭の名称は4つの突起を持つ事に由来する。幅2.7m、深さ0.9mの空堀に囲まれ、土塁の規模は東西約100m、南北約70m、幅5.4m、高さ3mである。土塁の四隅には砲座が配置されている。南西側に門口があり、その後方に幅0.9mほどの通路が設けられている。郭内には建物は建設されなかったと考えられている。面積は約2万1,500平方メートルを有する。
五稜郭を援護する支城として、また東照宮を守護する為に北東約3キロメートル離れた丘陵上に洋式築城法により築かれた。建設を指揮したのは大鳥圭介あるいはブリュネ大尉といわれている。建設には旧幕府兵卒200人および近隣住民100人が徴用され、昼夜兼行の突貫工事で造り上げたと言われる。しかし、堡塁としては脆弱であり、立て篭もるには手狭で井戸等の設備も存在しなかった。星形要塞であるものの、実際には野戦築城に近いものである。四稜郭以外に当時造られた要塞としては七飯町の峠下台場がある。こちらは漫画の吹き出しのような七稜形(Tenaille:欧米では星形要塞とは区別される形態の築城方式)である。
昭和9年(1934年)国の史跡に指定された[1]。当時は周囲が耕作地になるなどして土塁が一部崩されていたが、昭和48年(1973年)に元の形に修復された。

志苔館:北海道函館市に所在する中世城館跡(日本の城)。小林氏によって築かれたとされる道南十二館のひとつ。国の史跡に指定されている。館跡は、自然地形を活かし、四方に土塁と薬研(やげん)または箱薬研状の空堀が巡らされ、全体でほぼ長方形の形状を呈している。内部は東西約70-80メートル、南北約50-65メートルで、約4,100平方メートルの広さがあり、曲輪の内部では掘立柱建物跡や井戸が確認されている。土塁の高さは、北側で約4.0-4.5メートル、南側で約1.0-1.5メートルであり、土塁の外側にあたる北側と西側には幅約5-10メートルの空堀が設けられ、最も深い所で約3.5メートルの深さをもつ。
発掘調査では、15世紀前半ごろを主体とする青磁・白磁・珠洲焼・越前焼・古瀬戸などの陶磁器が出土している。これらの遺物の年代は『新羅之記録』に記された長禄元年のコシャマインの戦いにおける志苔館陥落の時期(1457年)と矛盾しない。

15:20函館空港に向かう。
17:45函館空港出発。
19:40関西国際空港到達。

今回の旅行、北海道の道南地方に点在する、北海道八十八箇所の2箇所、北海道三十三箇所観音2箇所、比較的マイナーなお城・城下町8箇所を巡り楽しみました。  

霊場は前回と同様に寺院に似つかない建物も有りましたが、立派な寺院風の建物も多く見られました。

一方お城は北海道らしく公園のような広々とした敷地面積の広いお城後が殆どでゆっくり散策することがで来ました。

今回感じたことは函館では外人さんにはあまり出会いませんでしたが(マイナーな霊場、お城のためか)、関西空港に向かうはるか、関西国際空港内、帰りの空港バスには多くの外人を見かけ、外国観光客が急速に増えているのがわかります。日本も観光大国になったのでしょうか。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十一弾:中国北京観光
 
2015年7月18-20日 

アジアの大国中国に足を運び、元、明、清はじめ歴代王朝の都であり、現在も 中華人民共和国の首都であり、悠久の歴史と新しい中国の顔が両方見られる北京を訪れました。

7月18日定刻2時間遅れの21:20関西国際空港、深セン航空で出発
19日00:15北京空港到着、タクシーで北京市内中心地に向かう。
00:45市内のホテル到着し就寝。
8:00歩いて市内観光。

中国美術館:常設展は中国絵画と書。いずれも独立以後の作品。社会主義国らしく、プロレタリアート絵画(労働者、解放闘争等をテーマ)もそれなりにあります。

景山公園:北京の北西郊外にある香山の東側に広がる公園。最高峰の香炉峰は、「枕草子」にも登場する盧山の香炉峰に似ていることに由来する。秋は紅葉狩りの名所として有名で、その時期になると多くの中国人が行楽に訪れる。また、山上にそびえ建つ琉璃塔は、各階に鈴が取り付けられており、ときおり美しい音色を響かせている。

北海公園:景山公園の西側に位置しているのが総面積約71ヘクタールにもなる北海公園である。西暦10世紀に建造されたという美しい島と宮殿は、中国に現存する王宮庭園の中では最古のものである。この公園の中心になっているのが北海といわれる巨大な人口湖である。この湖(北海)を取り囲む形で、北岸、東岸、瓊華島、団城、北海植物園と大きく5ヶ所にわかれている。以前は宮廷庭園であったため、もちろん一般公開はされておらず、もっぱら歴代王朝が長い歳月をかけて作り上げてきた宮廷庭園だった。金・元・明・清代を通じ皇室の御苑「皇家園林」として発展し、清の乾隆年間にはほぼ現在のかたちになった。しかし、清朝が滅亡した後の1925年に市民に公開されて以来は、北京をはじめとする国内外の観光客を惹きつける公園となった。  北海の中央に浮かんでいる島は瓊華島という。そこの中央に建てられているチベット仏教様式の白い塔にちなんで、一般的には「白塔山」と呼ばれている。この島の中央にそびえている印象的な白塔は1651年チベット仏教を信仰していた順治帝によって建てられたものだ。  周囲880mの瓊華島は北海公園の中心であり、南側の白塔山と万歳山、島上の建造群が複雑な景観を織り成している。仏教建築が並び、白塔山に建つ清の順治帝が建造したチベット式仏塔「白塔」が特に目を惹きつける。白塔の南側にはチベット仏教寺院「永安寺」がある。島の北側にも全長300mの回廊「長楼」や宮廷料理を出すレストランなどがある。  北部湖エリアには清皇帝の書斎であった庭園「静心齋」、皇族が釣りや月見を楽しんだ石造りのあずまや「五龍亭」、9体の龍が描かれた鮮やかな巨大レリーフ「九龍壁」等があり、清・乾隆帝時代を偲ばせる建造物が多い。  南部エリアは全長276mの城壁で囲まれた小高い丘は「団城」と呼ばれている。そこには南北を軸に左右対称構造の建築群と庭院があり、中央の主殿「承光殿」は康熙年間の建造物で白玉製の仏像が奉納されている。

故宮:1406年に明の永楽帝が建設し、清朝最後の皇帝薄儀まで皇帝の居城だった紫禁城、即ち、故宮がそのまま博物館として一般公開されている。故宮全体は故宮の北にある景山公園の山上にある「万春亭」から見渡すことができる。故宮の規模をガイドブック風に記載すると次の通りである。

故宮は北京市の中心に位置し、またの名を紫禁城という。これまで明と清の時代(西暦1368~1911年)の24人の皇帝がこの地に住んだ。明の時代、第三代皇帝朱棣(永楽帝)が帝位を奪い、南京から北京に遷都を決める。そのときから、この大きな宮殿の建設がはじまった。中国古代の星象学にもとづいて造られ、1420年に完成している。故宮の面積は72万平方メートル、建築面積は15万平方メートルになり、部屋は9000を越えるという。レンガと木で造られ、屋根には瑠璃瓦がしかれ、贅沢の限りを尽くして造られた。 
故宮の周りは10メートルになる城壁で囲まれている。城壁は南北961メートル、東西は753メートルになる。また城壁の外には幅52メートル、長さ3800メートルになる河に囲まれている。このことからも故宮の防衛システムはかなり整っており、左右対称に作られた配置で、万全の警備体制を敷いている。故宮は世界五大王宮のひとつに数えられていて(故宮のほか、ベルサイユ宮殿、バッキンガム宮殿、ホワイトハウス、クレムリン)、国連のユネスコによって世界遺産に認定されている。評議委員会の話によると、「この地は中国を五世紀にわたって支配してきた最高権力の中心地であり、庭園と工芸家具の納められた9000にのぼる部屋がある。ここははかり知ることの出来ないほどの価値があり、歴史の証人といえるだろう」と語っている。
何故、中国の皇帝はこんな大きくて、しかも守りの堅固な居城を造ったのだろうか?単に権勢を誇示し、謀反者から身を守るためだけだったのだろうか?有名な天安門をくぐり、北の方角に進むと故宮の正門に相当する「牛門」がある。そこをくぐると太和殿にあたり、故宮最大の宮殿につきあたる。故宮の正殿といわれるところだ。また、現存する中国最大の木造建築物でもある。ここは、即位の式典、祝日の祭典、政令の発布など重要な儀式が行われた所であり、中央奥に皇帝の玉座がある。 
太和殿の北側にいくと三大殿の残りの二つ、中和殿、保和殿が順に建っている。三大殿の北側は内廷とよばれ、皇帝の執務場所であり、住居するところでもあった。また皇后や妃もここに住んだ。この地ではさまざまなドラマが繰り広げられたことだろう。また内廷の東側にある宁寿宫は乾隆帝が退位した後に養生するために修復されたところである。
展示物の多くは、内廷にある絵画館、珍宝館や陶磁館などで展示されている。絵画館の前には九龍壁があり、皇帝の象徴である龍が描かれた見事な壁面を鑑賞することができる。故宮の北の出口は神武門とよばれており、門の上部には大きな字で「故宮博物院」と書かれている。

中山公園:中山公園中央にある社稷壇は土神(土地の神)と穀神(五穀の神)を祀ったところで、1421年に建造された。1914年に公園として改造され中央公園と名付けられたが、1928年に孫中山(孫文)の遺体が一時ここに安置されたのにちなんで中山公園と呼ばれるようになった。公園内は緑いっぱいで、音楽堂やボート乗り場もあり市民の憩いの場となっている。毎年春にはチューリップ展も開かれ多くの人が訪れる。

人民大会堂:天安門広場の西にある中国の国会議事堂。国会にあたる全国人民代表大会や中国共産党大会などの重要会議が開催される。重要会議のない時は一部の部屋を見学できる。

天安門:北京の中心部にある皇城の正門で、中華人民共和国のシンボル。紅い城壁の上に、黄色い瑠璃瓦の屋根を持つ朱塗りの2階建ての宮殿建築様式の楼閣が建っている。総高は33.7m、間口は54.1mの大きさを誇る。正面から見ると、その存在感に圧倒される。中央の門口上部には、毛沢東の肖像画が掲げられており、楼閣の上部には国章が飾られ、夜になるとライトアップされる。

労働人民文化館:労働人民文化宮は天安門のすぐ東側に位置している。清朝の皇室廟であり、もとの名を太庙と呼ばれていた。王朝の皇室であった位牌が祭られており、明代からの建築物が完全な形で残っている。太庙は南北に長く延びた長方形の形をしており、面積は139650平方メートルになる。当時の建築士の巨匠が心砕いて造ったのが見て取れる。

天安門広場:北京天安門広場は世界で一番広い広場。中華人民共和国のシンボル的存在の広場で、 広場中央に建つのが人民英雄記念碑で、西に人民大会堂、東に中国革命歴史博物館、南には毛主席記念堂が建っている。いつも観光客で賑わっているが、20世紀の歴史舞台としてその役割を果たしてきた。
広場中央の国旗掲揚台では毎朝、日の出とともに人民解放軍の兵士により五星紅旗が掲揚される。

正陽門(前門):天安門広場の南側に位置し、故宮を中心とした「内城」を囲む城壁に設置された9つの門のひとつで、内城の正門。1420年に建造され、当時は城内で最も高い建造物であった。かつては皇帝や皇族たちの専用門として使用されていた。1949年の中華人民共和国成立後、次々と城壁や城門が取り壊されたが、正陽門は、現在でも保存が完全な数少ない城門楼のひとつである。

中国国家博物館:中国国家博物館は、希少な青銅器や磁器、ヒスイの工芸品や芸術品など非常に価値のある宝物を所蔵する、世界最大級の博物館です。

中国鉄道博物館正陽門館:中国の首都、北京にある鉄道博物館は2箇所、天安門広場の南、前門大街に昔の北京駅を再現した建物にある中国鉄道博物館正陽門館と、北東の郊外にあり歴代の車両を展示している中国鉄道博物館東郊展館です。

北京市規画展示:北京の過去、現在、未来を紹介する展示館。圧巻は3階フロアを埋める面積302平方mの巨大な北京市模型。市街地を750分の1に縮小した立体模型で、広大なマスタープランは壮大。全館バーチャルリアリティーを駆使している。

天壇:天壇は北京市の南端に位置し、明の永楽帝の十八年(1420年)に建てられたところだ。天と地の神を祭り、五穀豊穣を天に向かい祈りがささげられた場所である。1998年11月に世界文化遺産に登録されている。
天壇は東西1700m、南北1600m、総面積は約273万㎡にもなる。天壇は圜丘壇と祈年殿からなり、周囲は外塀と内塀の二重の塀に囲まれている。北側の塀は弧を描く半円型の形をしており、その他の塀は直線になっている。南側の壁は東西の壁と直角に交わることで、全体として「南方北圓(南は四角く北は丸い)」という形になる。これは「天は丸いもので、地上は四角いもの」という考えを表している。
外壇の塀の東、南、北には門が設置されておらず、西に圜丘壇門と祈年殿門(天壇門とも言う)の二つに大きな門が設置されている。それに対して、内壇の塀には東西南北の全ての方角に天門が設置されている。内壇に祭壇や斎宮や東西を横切る塀があり、その南は「園丘壇」、北は「祈穀壇」と呼ばれている。
天壇の中の祈年殿はとても壮大だ。そして民族的な風格を備えた独特な建物になっている。3重の屋根には金メッキの宝頂と呼ばれる飾りが施され、「天」を象徴する青い瑠璃瓦が敷かれている。祈年殿のひさしの下には美しい彫刻が刻まれ、3層にされた漢白玉石の台座の上に聳えている。遠くから見ると、色彩の対比が強烈でありながら調和がとれている。また、上下の形は統一感がありながら、それでいて変化に富んでいるのである。
三音石:皇穹宇殿の外におおきな長方形の石が敷かれた通路がある。三枚目の石板の上に立ち、門を開け、全ての宮殿の窓を固く閉じ、門から宮殿の中心の神龛まで障害物が無い状態で門に向って話すと、はっきりと三回、こだまが返ってくる。そのためこの名が付けられたのである。また、宮殿のどの場所にいてもその声が聞こえてくるという。

回音壁とは皇穹宇を囲む円形の土塀のことである。高さ3.72m、厚さ0.9m、一周の長さが193.2mになる。壁は磨いたレンガを積み上げて造られ、屋根は青い瑠璃瓦で覆われている。壁面は滑らかで規則的なアーチ型をしており、音が反響されるようにできている。2人がそれぞれ東西の両端に立って、耳を壁面に当てて話をすると、音は壁面を通して200m離れたもう一人のところまで届くようになっている。声がいくら小さくても、相手ははっきりとその声が聞き取れる。なんとも不思議な感じである。
祈年殿は天壇の北部にあり、「祈谷殿」とも呼ばれる。ここは天壇の中で最初に造られた建物である。光緒帝15年(1889年)、雷によって一度焼失しているが、数年後に再建されている。今の祈年殿は直径32.72メートル、高さ38メートルの円形の建物になっている。
屋根には金メッキが施され、三層の瑠璃瓦は次々に中心にむかって収縮していっているのがわかる。その台は円型の祈谷壇で、三層になっており、高さは6メートルにもなり、雄大で迫力がある。壇の周りは低い塀で囲まれ、南東の角に燔柴炉、瘗坎、燎炉、具服台などがある。壇の北には皇干殿が横方向に五つ並んでいる。元々は祖先の位牌が置かれていたところであったが、今は太廟に移されている。壇の近くに祈年門、神庫、神チュウ、宰牲亭、走畜路や長廊などの建物もある。長廊の南の方には「七星石」と呼ばれる7つの石があって、鎮石の役割を果たしている。天壇は世界においても天を祭るための最大の古代建築群であり、独特の建築構造と優美な装飾により、中国に現存する古建築群のなかでも最も美しい古代建築物と人々に褒め称えられている。

南鑼鼓巷:南鑼鼓巷は北京で一番古い大規模な元代の建築物である。町は北側の鼓楼東大通りから南へ続き、地安門東大通りまで全長786メートルになっている。元大都(1267年)に工事が完了し、基盤のような並び方をして古い住宅地として現在まで保存されてきた。

茅盾故居:故宮の東北、東城区交道口南大街後円恩寺胡同13号にある作家茅盾(1896‐1981)が以前住んでいた旧居。前圓恩寺小学校裏門の真向かいにあたる。寛街の北,交道口南大街側に道標もある。
茅盾の本名は沈雁冰で中国の有名な作家だ。魯迅らとともに文学革命を推進した。1974年に引っ越してきてから1981年になくなるまでここに住んだ。
現在は当時の生活空間がそのまま展示場となり、遺品や豊富な資料で茅盾の多彩な文学活動の足跡を紹介している。伝統的な北京の文人の暮らし向きを知るうえでも貴重なみどころだ。入口西側には「子夜書屋」とレンガ塀に書かれた書店があり、茅盾の生涯に執筆した多数の作品や記念品が販売されている。書斎や寝室、応接間などが生前のままに復元されており、彼の写真やその他の資料が展示されている。

16:00ホテルに戻る。繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

20日7:30歩いて市内観光

孔廟・国子監博物館:北京安定門東側に位置する国子監は元・明・清時代の最高学府で、1306年に孔廟と共に建築されたものだ。現在は首都図書館として知られている。いわば国立施設のようなところだろうか。また、元代、明代、清代の科挙試験の会場でもあった。建立は元の大徳10年(1306年)で、明代初期には“北平郡学”と呼ばれていたが、同永楽2年(1404年)に再び国子監と改められた。

国子監の正門の両側には二つのあづまやがあり、あづまやの北側には太学門がある。太学門の東側には190の石碑があるが、そこに中国の13人の儒家の経典「十三経」の全文が刻まれている。これらの石碑は清の時代の書道家・蒋衡が12年をかけて、乾隆9年(1794年)に完成させたものだ。文字数は3万字という中国最長の「十三経」となっている。
以来、国子監で学ぶ者を号と称し、清代には外国からの留学生も受け入れた。国子監は中国の古代学制を研究するたいへん重要な場所であり、現在は首都図書館となっている。
当初はモンゴル族の学校だったが、明・清時代には皇帝の下で政治を司る高級官僚を養成するための大学になった。学生は全国各地の府、州、県の学校から送り込まれた優等生ばかりで、「監生」と呼ばれていた。最も優秀な「監生」は科挙に関係なく官僚として採用されたが、ほかの多くの監生は科挙の受験準備に明け暮れていた。ここでは多くの貴族の子弟を教育したばかりでなく、当時の高麗、ロシア、日本からの留学生も受け入れていた。清の時代には、皇帝が即位すると、ここで学問の講義を受けることになっていた。また、外国人留学生と会ったりするところでもあり、国内外の人材が集るところであった。
国子監の中にある辟雍殿は1784年(乾隆49年)に竣工したもので、皇帝が勉強した所として、清時代の歴代皇帝の即位も行われた。その奥にある古風な平屋は彝林堂で、明の時代に建てられた。その後、清の時代には大学図書館として使われた。西側の一番奥にある「乾隆石碑」には191本の石碑を収蔵している。国子監の敷地の庭にはコノテガシワが高く生い茂り、しっとりとした静かなたたずまいになっている。孔廟と隣合ってることもあって、全体が落ち着いた雰囲気に包まれている。
国子監の周りの胡同は、樹木もよく茂っていて自然にも恵まれている。北京に来たならば、長城や天安門、故宮だけでなく、この辺りをぶらぶら散策することもお勧めである。胡同の中でもこの辺は、観光客が良く歩いている方なので、比較的安心して歩けるだろう。

雍和宮:北京最大のチベット仏教の寺院群。6万6400m2もの広大な敷地に漢、満州、蒙古、チベットの各民族の建築様式が融合し、一体となった建築が並び、独特の雰囲気を持っている。かつて清代乾隆帝の皇太子時代の邸宅で、主要な建物は南北一直線上に並び、最南部には立派な琉璃牌楼が建つ。最北部の万福閣は、高さ約18mの一木造りの弥勒仏で有名。

地壇公園:明の嘉靖9年(1530年)に建てられ、方沢壇、皇祗室、神庫、祭器庫、方沢亭、斎宮、神馬殿などの建物を備えました。中華民国1925年に市民に開放 され、京兆公園と名づけられ、後、名称を市民公園に変更し、1957年に今の地壇公園と改名されました。1981年から修繕され、1984年再オープン以後、現 在の地壇公園の姿となりました。

10:00北京空港に向かう。
10:30北京空港到着。
16:20定刻3時間遅れで北京空港中国国際航空で出発
20:15関西国際空港到達。

今回の旅行、アジアの大国中国に足を運び、中国の首都北京を訪れ、紫禁城とも呼ばれ、清の歴代皇帝と皇后が暮らし、広大な中華帝国の中心となった故宮、世界最大級の広場天安門広場、明、清時代の皇帝が五穀豊穰を願って祭祀を行った場所天壇などの歴史深い、建造物をひたすら歩いて訪れました。

今回も前回に続いてアクシデント頻発の中国旅行、中国の飛行機はよく遅れると聞いていましたが、正にその通り、行きは2時間遅れ、帰りは3時間遅れでした。
又空港の対応も悪く、掲示板で確認しチェックインカウンターに向かうと空港スタッフが別のカウンターに指示され向かうとこのカウンターも別のカウンターを支持されました。振る舞わされて案内のスタッフに尋ねると最初のカウンターが正解でした。出発の3時間以上前でしたのでスタッフが把握できていなかったのかもしれませんね。

出発に時間が十分でしたので、レストランと喫茶店で時間を過ごしましたが、どちらもウエイターがのんびりしておりメニューを提供するもなかなか注文を聞いてこない、食事、ドリンクもかなり待たされました。時間が十分ありましたので結果的に良い休養場所になりました。

次にアクシデントは、空港に到着したのが未明でしたのでタクシーでホテルに向かいました。ホテルの名前と住所、地図を確認してタクシーの運転手は向かいましたが、なかなか見つからず、通行人に聞いてなんとかたどり着きましたがホテルのスタッフが予約していないと断られました。ホテルの予約チケットを提出しましたが、名前が少し違う、こんなホテルは聞いたことがないと言われました。日本でインターネットで予約しましたが詐欺にあったのかもしれません。ホテルの名前は似てるし、ホテルの写真も似てるが違う、電話しても出てこない。
ホテルスタッフに近くのホテルを世話していただき、無事就寝。

北京市内を散策すると、まず気になるのはPM2.5の影響か、視界がどこも悪い。前回の上海も同じでした。いつになったら綺麗になるんでしょうね。発展が続けいている以上無理かもしれませんね。

大国中国の首都北京の観光、ヒヤヒヤでしたが面白い国、中国観光旅行でした。


































飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十弾:青森県東北三十六不動霊場&お城・城下町巡り
 
2015年7月11-12日 

本州の最北端、十和田湖、奥入瀬、白神山地で有名な青森県に足を運び、反時計回りで青森市、津軽、深浦、弘前に点在する東北三十六不動霊場6箇所、比較的マイナーなお城・城下町6箇所を訪れました。

11日16:20伊丹空港出発
17:50青森空港到達、レンタカーで青森市方面に向かう。
18:00青森市内のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

12日7:00レンタカーで出発、青森市内の霊場を巡る。

青龍寺:青森市郊外の東寄りに位置した桑原地区は、武兵衛川が北流して平野部を潤す農圃地帯で、山崎の山林に戸崎館趾がある。館主、壘砦の年代は不明とされているが、近年、この近くに日本一を誇る昭和大仏が開眼された。昭和大仏は大日如来で、無限の智恵、無限の慈悲、無限の能力を象徴している。

青森寺:当山の開基は、明治21年9月。ご本尊は大慈大悲のご利益厚き、大聖不動明王である。千葉の成田不動尊詣での為に組織されていた成田講の人々が、青柳に不動堂を建立したのが始まりである。その后年々隆盛を極め明治41年、現在地に本堂を建立、信徒も市内のみならず、八戸、十和田、鰺ヶ沢など県下全域に及ぶに至った。しかしながら、昭和20年7月の空襲で堂宇本尊悉く灰燼に帰した。堂宇再建の為、県内はもとより東北各地のご信者より志納を募り、ついに昭和32年7月、輪奐旧に倍し立派に本堂再建が成った。ついで35年、不動明王ご本尊も目出度く開眼、奉安された。以後鎮守稲荷堂、清瀧権現堂、を建立。更には昭和60年本坊客殿建立。平成2年、生れ年1代尊並びに仁王尊像造立し現在に至る。当山の年中行事で代表的なものは、2月の節分会と7月の灯籠流しである。節分の豆撒きには、厄除祈願の善男善女が多数参集し、その規模は県下一である。又夏の灯籠流しは、川面を幻想的な光で彩り、誠に叙情的で短い青森の夏には欠かせぬ風物詩となっている。

津軽半島に向かう。

尻八館:
築城年代は定かではないが安東氏によって築かれたと云われる。暦応2年(1339年)の「曽我貞光申状」に曽我貞光が「尻八楯」の安東四郎道貞(潮潟道貞)を攻めた記録があり、この尻八館に比定する説がある。現地の案内板によれば、寛喜2年(1230年)安東一族がアイヌのチャシを土台として尻八館を築き、貞永元年(1232年)安倍三郎成季が治領代頭役に任ぜられた。正安2年(1300年)安東孫次郎が尻八館城主となり、明徳4年(1393年)安東四郎道貞が尻八館城主となって潮潟四郎と名乗った。応永32年(1425年)道貞の長男重季が鉢巻館より移り、重季は南部義政の女を妻とした。永享7年(1435年)尻八館は南部義政に攻められ落城し、このとき重季の子政季が捕らえられたが義政の女の子であるので八戸で育てられ、成人して旧安東家の知行を継いだ。

中里城:中里城の創建は明らかではないが、発掘調査の結果、遺構は縄文時代前期(約5500年前)まで遡れるという。
城主に関しては、建武元年(1334)の『津軽降人交名注進状』に新関又二郎の名が見える。
他には津軽氏に追われて南部八戸へ逃れた中里半四郎や、また城の西下には高坂修理の居館があったとされる。

福島城:築城年代は定かではないが正和年間(1312年~1317年)頃に安倍貞李(安藤貞李)によって築かれたと云われる。
藤崎城を拠点として津軽に根付いた安藤氏は鎌倉時代後期頃に十三湊へ移り、蝦夷との公益で栄えていた。永享4年(1432年)安藤康李のとき南部守行・義政父子によって攻められ福島城と唐川城は落城、康李は柴崎城へ逃れた。この戦いは室町将軍足利義教の命によって康李の妹が南部義政に嫁ぐことで和睦がなされたが、嘉吉2年(1442年)再び南部氏に攻められ、安藤氏は津軽を離れて蝦夷島へ逃れた。
十三湊安藤氏は、その後南部氏に捕らわれていた安藤師李(後の政李)が南部氏から田名部を賜り、十三湊安藤氏を相続した。しかし政李は享徳3年(1454年)に田名部から蝦夷ヶ島へ渡り、二年間滞在したのち小鹿島へ上陸、その末裔が檜山安東氏となっていく。

唐川城:築城年代は定かではない。一般的には鎌倉時代末頃に安藤貞李によって築かれてたと云われているが、発掘調査によってそれ以前の平安時代後期に築城されていたことが判明している。
安藤氏は福島城を居館、この唐川城を詰城として築いたが、永享4年(1432年)と嘉吉2年(1442年)に南部氏によって攻められて落城し、安藤氏は蝦夷島へ落ちていった。

弘法寺:津軽半島の中程にある木造町の開拓は比較的遅く、当山の縁起についても、開創等は記録がなく不明な点が多い。
 唯一現存する七代目住職の位牌が六〇〇余年前の物ということである。一時洪水等の天災で寺が消失した時期があったらしく、明治に入ってから再興された。再興後は九十九森寺と呼ばれていたが、昭和に入り、弘法寺と改称された。

種里城:延徳3年(1491年)南部光信(大浦)によって築かれたと云われる。 津軽藩初代津軽為信の祖とされる光信は、延徳3年(1491年)九戸郡下久慈より入部した南部一族と云われる。
文亀2年(1502年)光信は大浦城を築き、子の大浦盛信を置いた。光信は大永6年(1526年)種里城にて没し、以後、大浦氏は大浦城を本城として五代為信の代に至る。この為信は久慈城主久慈信義の弟十郎が津軽郡代の石川高信を頼り後に大浦氏の養子となったという説がある。

深浦に向かう。

深浦城:深浦港の南方500mの沢に挟まれた丘陵端に位置する。南方に5本の空堀があり、他の三方は沢に続く急斜面となっている。曲輪は2つあり、北側の一段高い位置に東西33m、南北88mの主郭がある。二の郭は東西80m、南北100mほどの規模だった。
南部氏によって所領を失った安東氏が当地に来て再起を図り、当城を築いた。その後、葛西頼清が本拠とした。最後の城主は千葉弾正で、戦国時代まで使用されていたものと推測される。

弘前方面に向かう。

最勝寺:東北地方で五重塔のある名刹として知られる金剛山光明寺最勝院は、常陸国桜川の弘信法印開基である。天文元年(1532年)津軽に下向し平賀郡堀越城外の北、荻野という処に伽藍を造営した。
 これが最初とされるが、それ以前の古文書に最勝院という文字が見えることから、創立年代はもっと古いという。

大圓寺:大鰐温泉郷の中にある大円寺は、もと阿闍羅山千坊と称された高伯寺に由来する。寺伝に依ると、奈良時代、聖武天皇の国分寺建立に始まり、本尊大日如来を阿闍羅山の大安国寺に安置されたことに起こる。
 その後、大安国寺は荒廃し、鎌倉時代建久二年、神岡山の高伯寺に移奉された。のち慶安三年(1650年)津軽三代信義公が高伯寺と本尊を現在の場所に移し、以来津軽家代々の崇敬を受けてきた。
 ところが明治四年、弘前にあった大円寺(現在の最勝院)の寺号を以て高伯寺を大円寺とした。
 本尊大日如来は大正九年に国宝の指定をうけ、昭和二十七年には国定重要文化財となった。


國上寺:当山は人皇第三十四代推古天皇御宇十八年(610年)国家北門鎮護のため、聖徳太子の命を受け泰川勝公が開基。建長六年(1254年)北条時頼公本尊並びに法具を現在地に奉移し、三森山不動院古懸寺とし、鎌倉将軍数代の祈願所とした。
 天正十六年(1588年)津軽右京亮為信公国上山不動院古懸寺と改め鎮護国家、津軽家領域安泰のため、更に仏殿、山門、護摩堂、大師堂などを造営し、寺領地二百町歩、寺録百石を贈り、津軽家歴代の祈願所とした。
 明治二十六年(1893年)旧正月七日火災のため本堂並びに仏堂を焼失、消失をまぬがれた護摩堂を本堂として、昭和五十四年現本堂建立まで寺務を執行した。

16:30青森空港に向かう。

17:10青森空港到達。
18:20青森空港出発
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行、本州最北端の青森に足を運び反時計回りで青森市、津軽、深浦、弘前に点在する東北三十六不動霊場6箇所、比較的マイナーなお城・城下町6箇所を訪れ楽しみました。

前回の北海道旅行と同様に、天候晴れ、絶好のドライブ日和、ドライブ兼ねての霊場、お城巡り堪能しました。

やはり東北の霊場、立派な寺院が多いですね。歴史の深さを感じます。

特に青龍寺の巨大な大仏は圧巻でした。日本一大きな大仏でしょうね。

好天に恵まれたドライブを兼ねた霊場、お城巡り観光でした。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十九弾:北海道ハ十八ヶ所霊場&北海道三十三観音巡り第二弾
 
2015年7月4-5日 

日本の最北端北海道に足を運び、札幌から反時計回りで小樽・余市・倶知安・岩内・室蘭までの北海道ハ十八ヶ所霊場11箇所&北海道三十三観音8箇所を巡りました。

4日15:00伊丹空港出発
16:50新千歳空港到達、レンタカーで札幌に向かう。
18:00札幌市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

5日6:15レンタカーで出発、小樽に向かう。

精周寺:1884年、湯殿山大日坊八十三世大網精周は、北海道巡教の折、小樽市に懸錫所を創設した。1889年、精周は弟子を派遣し、1890年寺号公称した。1893年本堂を建立、1911年現在地に解体移築。本尊大日如来(慶長以前の作)は総丈十尺で、元羽黒山の本尊で1885年湯殿山に遷座後、精周寺に請来。

不動院:霊場のご本尊様は毘沙門天です。毘沙門天は、四天王の一人、多聞天の別名です。日本では財宝や福徳を与える神様としてお奉りされ
七福神のお一人としてお奉りされています。また、吉祥天の夫ともされ信仰を集めました。特に、戦勝を祈願する神として武士階級の人々の信仰を集めたようです。

日光院:日光院は明治初頭までは、高野山の塔頭寺院でしたが諸事情により増福院に合併されていました。それを開教僧の鷹尾了範師の尽力と小樽の大師信者の「自分達のお寺が欲しい」との熱烈な願いによって明治二十四年に移転という形で小樽に再興されたのです。
 大正十四年、現本堂が落慶なった時、高野の地から往時の御本尊(聖観世音菩薩)が請来されました。それから百二十数年、石狩湾を望む丘の上から大師のみ教えを伝えています。

余市に向かう。

仁玄寺:仁木町入植開墾当時、開基住職戒存大和尚が二間四面の小さな大師堂から出発した当山も、明治39年には本堂建立とともに寺号公称をするに至り、戦中戦後の混乱期にあっても布教活動を後退する事無く、宗祖弘法大師の教風宣揚の場として一心に信仰を集め現在に至っております。
その時代毎に伽藍も一新し、鐘楼堂や香楼堂が建立寄進されるなど、境内の新四国八十八ヶ所霊場や復興した北海道三十三観音霊場の第6番札所(千手千眼観世音菩薩)として、その時々の熱き大師信仰、巡礼の道場となってきました。
境内のケヤキの大木は、当時の徳島県からの入植者たちが故郷を偲んで植えたもので、今では町の天然記念物として指定されています。

考徳寺:当山は昭和16年開基住職関孝道和尚の真言宗説教所開設が始まりで、26年孝徳寺に寺号公称。34年に全焼しましたが本尊弘法大師様だけ焼け出され、その不思議ゆえに「火伏せ大師」・「銀山大師」として信仰されています。
また、八十八ヶ所開創記念に開眼した不動明王様には節分会柴燈護摩のご祈祷でたくさんのご利益をいただいています。
当山で特筆すべき事は信仰厚い檀家様が先祖代々供養の為に書いた天井の仏画です。一筆一筆心が込められていて、大日如来を中心に曼荼羅世界を表現しています。畳の上に大の字になり天井画を見つめれば、八十八ヶ所参りの自分と仏様が一体になれると実感するでしょう。田舎の小さな寺ですが、同行二人の心でご家族・ご友人お誘い合わせ、どうぞお参り下さいますように。

密厳寺:明治31年開山、米沢から来道し庵を結ぶ普及所となる。昭和11年に本堂を再建し、寺号公称する。総本山は長谷寺。ご本尊は十一面観音、秘佛歓喜天、大日如来、脇には大聖不動明王。開基住職清道大和尚三十三回忌に当り開山堂を建立。江戸時代後期の作と云われる文殊菩薩(台座から77cm)を祀る。山門脇に左右三体ずつの六地蔵が並び、聖観音堂では、交通安全などの祈祷が行われる。

倶知安に向かう。

金剛寺:開山は明治31年頃かと思われます。35年に石井理源が着任。

岩内に向かう。

本弘寺:本弘寺の開基は肥田盛道で彦根藩士松本常人の次男である。
明治三十年高野山管長より北門開教の重責の特任を得て、当山本弘寺の新寺建立の信徒より嘆願があり、この地に留錫する。明治三十年十二月十日本堂建立落慶し、寺号公称の許可を得る。真言宗連合宗会議員その他役職を歴任し、五十三歳で大正九年十一月二十八日遷化する。
第二世松山実應は三州浦郡市薬證寺の長男で昭和二年七月二十四日遷化する。
第三世肥田密禅愛知県豊川市威宝院三男で昭和五十二年九月九日遷化する。
昭和二十九年九月二十六日台風十五号で大火災が発生し、町の八割が被災。本弘寺も全焼する。
第四世肥田諦明は現住職である。第三世、四世代全伽藍再建する。

菩提院:第三番菩提院の観音様は本院より約二五キロ行った黒松内町の「観音山奥之院」に祭られています。奥之院は菩提院で管理し、普段無人となっております。お参りされる方は菩提院へお問い合わせください。納経帳の宝印は奥之院・菩提院どちらにも用意してあります。
 奥之院へは十一月から五月頃まで雪があり登れないので菩提院で納経の御宝印を押印いたします。
 奥之院の春は「カタクリ」が郡生しております。連休前後が見頃となっております。

遍照寺:
当山は明治41年、瀧澤善澄和尚に依って開基開山されました。寺院公称は大正2年。
ご本尊は五穀豊穣を祈念する不動明王、脇仏に弘法・興教大師を奉安します。今のご本堂は大正6年に建立された六間四面宮殿造り。
昭和8年、四国霊場61番香園寺より授かった安産・子育てのお大師さまの子安大師を祀る大師堂があります。
境内は石仏の八十八ヶ所霊場となっており、大木や松やイチイ、桜、ツツジ、シャクナゲなど草花が多数植えられています。大正時代に福井県より移植された三間四面もある珍しい白藤の大木が大きな房を付けて咲きます。見頃は6月初旬。4月下旬より10月下旬まで庭園を楽しむ事ができます。天気が良ければ、野立てでお茶の接待を致します。


亮昌寺:虻田地方は、北海道の中では古くから開けた温暖の地で、文化二年(1805)に徳川幕府により四千頭の馬を飼育した官営牧場が置かれた北海道牧場発祥の地であります。
 亮昌寺はこの地に明治二十五年、越後の人村山亮昌によって開かれ、遠方のため本山に修行に行けない寺院子弟の道場の役割も果たした、自然豊かな山の寺であります。

壮栄寺:開山大西琢道師が明治26年3月に真言宗説教所を創設。明治28年8月に説教所が認可され、明治31年3月壮栄寺としての本堂を新築しました。同年10月説教所を廃し寺号公称を出願し明治32年2月、如意山金剛院壮栄寺、寺号公称認可されます。宗祖弘法大師御入定千百年記念事業として裏山2町歩に、新四国八十八ヶ所を建立しました。
明治38年より39年に西国三十三霊場の観音を洞爺湖畔に建立し、最後の札所として第33番観音仏を境内に建立しました。

不動寺:明治13年草創。明治24年平田学仙和尚開基。昭和10年法正和尚開山。
昭和59年秋に御遠忌記念事業成就法会を森寛紹前管長猊下の御親修を仰ぎ厳修。昭和60年夏に高野山南院住職内海有昭僧正の御配意を賜り、同院ご本尊波切不動明王を原寸大に複製し勧請。平成14年龍昭和尚市内弄月町に不動寺別院開基。 
北海道三十六不動尊霊場25番札所、北海道十三仏霊場10番札所、北海道八十八ヶ所霊場では第56番札所として衆生の苦しみをお救い下さる地蔵菩薩を奉安しております。

室蘭に向かう。

清瀧寺:天神山不動尊清瀧寺(以下清瀧寺)の起源は明治14年(1881年)にさかのぼります。本堂にはお大師様(弘法大師)、お不動様(不動明王)、その他日々私たちをお守りくださるたくさんの神様や仏様がお祀りされています。
又、敷地内につづく山には昭和29年(1954年)、四国八十八か所を模し、札所一番「霊山寺」釈迦如来さまが建立奉納され、昭和54年(1979年)25年目にして札所88番「大窪寺」薬師如来さまが建立されたことにより四国八十八か所すべてのほとけ様が安置されました。

大正寺:開基了山は、明治37年3月本山の命により北海道開教の巡教師として来道、大正六年大正寺公称を受ける。大正寺の寺名は大正時代の公称を記念したものである。
本堂は駐車場から七十五段の(厄除け階段)を登った上にある札所唯一の難所であるが、境内からは室蘭港を一望できるロケイションは最高である。
市内には北海道の自然100選1位の地球岬があり、近郊には登別温泉、洞爺湖温泉がある。

千光寺:当山は明治26年大藤経全和尚代に説教所創設、昭和7年寺号公称認可、昭和40年に本堂を新築し、ご本尊大日如来を勧請、脇仏として弘法大師、不動明王、千手観音、愛染明王を奉安。
なかでも、弘法大師、阿弥陀如来、般若菩薩、不動明王の四躯は、京都松本明慶大仏師謹刻によるものです。 山号の幌別山は「ポロペツ」という、アイヌ語に基づくもので「大きな川」という意味。また、登別という字名は、アイヌ語「ヌプルペツ」で「色の濃い川」の意味があります。

瀧泉寺:
当山の開創は大正6年3月。平成19年九十周年を迎えました。 
大本山成田山新勝寺直末。お寺の庫裡を利用し宿坊「菊永」を併設しています。


13:30新千歳空港に向かう。


今回の旅行、北の北海道に足を運び札幌から反時計回りで小樽・余市・倶知安・岩内・室蘭までの北海道ハ十八ヶ所霊場11箇所&北海道三十三観音8箇所を巡り楽しみました。

今回も前回と同様で寺院に似つかない民宿風の建物が多く驚きました。

一方梅雨の時期にもかかわらず、天候は快晴、絶好のドライブ日和、広大な北海道を気持ちよくドライブが出来、広くて真っ直ぐな道、地平線を見ながらの運転、周辺は山あり、川あり、点在する霊場巡りしながらのドライブ観光満喫出来ました。
北海道のドライブ最高ですね、本土では味わえない爽快で快適なドライブ兼ねた霊場めぐりでした。