飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十五弾:北海道八十八ヶ所霊場&三十三観音巡り観光
 
2015年8月29−30日  

最北端北海道に足を運び、旭川周辺に点在する北海道八十八箇所の14箇所、三十三観音4箇所をめぐりました。

29日15:00伊丹空港出発
16:50新千歳空港到達、レンタカーで札幌に向かう。
18:10札幌市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
30日6:30レンタカーで出発旭川方面に向かう。

遍照寺:遍照寺は、明治27年 徳島県の僧 釋秀辨師(勝浦郡上勝町願成寺住職 後に四国八十八ヶ所二十番奥之院慈眼寺住職)により開基されました。当初、沼貝村(現美唄市)茶志内地区 通称「寺地」に真言宗説教所として創設されました。この地区は、明治政府の北方対策もあり、屯田兵として四国や和歌山などから入植者も多く彼らの求めに応じたものでありました。秀辨師は徳島と北海道の寺院を兼務し、遠隔の地を往還したわけです。

真言寺:明治31年、真言宗高野派の説教所設立をもって開基とする。明治35年香川県出身の屯田兵らの懇請を受けて資延行晃が着任し、明治41年寺院内外の環境を整備して寺格(寺号公称)を得た。
 当寺には霊場開創者山本ラクが生前所持していた「弘法大師付与状―大師教会本部発行」「当霊場本尊マンダラの板木」が所蔵されている。なお本堂余間にはタイ王国ワットパクナム僧院から贈られた「釈迦如来座像」を安置する。

丸山寺:寺号の基となった「丸山」は、明治28年この地に屯田入植した人達が「原生林を伐採して丸山を初めて発見した」とのエピソードを残す程の、お椀を伏せたような海抜114mの小さなお山である。
明治41年四国出身の弘法大師信者が発起人となり、このお山に新四国霊場を開基したことをもって、丸山寺の開山となる。
四国霊場1番から山服を右に巻いて、八十八番を経て山頂に達すると、奥の院がある。
ここの石仏には八十八ヶ所のご本尊に付随して大師像が安置してあり珍しい。
熱心な大師信仰の表れであろう。
今の本堂は平成11年に、開山百年を記念して丸山中腹に新築された。

金峰寺:明治三十年代、開拓の日浅い北海道上川旭川の地に、富山県より移住し開拓に従事された谷口與三翁は、明治三十八年、妻テイ女との死別に会い、全私財を「弘法大師の寺・真言宗の寺・吾等が菩提寺」の建立のために寄進し、篤く弘法大師を慕う百数十名の人々と共に真言宗寺院創建の基を築かれた。
 明治四十二年十一月二十一日、総本山金剛峯寺より「金峰寺」の寺号を授与せられ、檀信徒一同は無上の光栄として喜び感激した。

眞久寺:久志卓動(法名 憲吽)は上川郡旭川村(現旭川市)2条9丁目に草庵を建て、新義本山根嶺(ねごろ)別院(眞久寺の前身)の開基となる。久志卓動は、当時汽車の通ってない滝川まで、徒歩で出札すること数度、時の北海道長官 北垣国道氏に寺院の必要性を訴え、上川郡旭川村に寺院用地として5町歩の無償交付を受ける。その内、5条4丁目を眞久寺の境内地とし、他の用地は他宗の寺院に無償で分与した。

旭山廟: 旭山廟は、全天候型霊園として、宗教や宗派、宗旨を問わない霊園として、また後継者の心配のいらない永代供養の霊園として、おかげさまで平成11年より多くの皆様にご好評をいただきながら、年々多くの方々にお参りをいただいております。
 道北初の霊廟として、廟内には墓石型、納骨壇型、仏像型のお墓があり、どんなご要望にもお答えできる霊園です。

春光の丘寺:春光台にある緑に囲まれたお寺管理の外墓地

真勝寺:
開基住職、冨士川傳澄は終戦後芦別に布教の地を求めて寺院建立に着手していました。
この地に不動明王を修め、その利益を広めようと発願して全国行脚の托鉢修行を行い、昭和25年その念願叶い寺院建立と不動明
王の奉安が成し遂げられ、当時真言宗豊山派本山教学部長の宮崎識栄僧正導師により開眼法要が厳修され、茲に御本尊を不動
明王と定め寺号を真勝寺とし、開基第一世住職に冨士川傳澄が就任しました。

 その後、境内には馬頭観音・水子地蔵などの仏様が奉安されました。
創立以来2月の第1日曜日には大護摩祈祷法要が厳修され、多くの壇信徒が参詣に訪れ1年で最も境内を賑わせる一日となってい

ます。


大照寺:
大正3年8月宮田静機を開基とし御室派説教所として発足しました。 
昭和22年2月前田儀導により寺号公称。同39年10月20日桜ヶ丘公園を造成。寺宝は新明国上(雲照律師書)不動明王及び脇童子。 
年中行事には修正会、初大師、星供、春秋彼岸会、新四国山開、山閉、青葉祭、盆会、永代経、納大師があります。


光元院:
光元院は芦別市の郊外に位置し、四季折々の風景が堪能できる場所にございます。さて、当院の歴史は尊きものがあり、開祖された三浦せん師は数多くの信者に尊ばれ、多くの信者様をお救いした人でもありました。 
このような方の名を受け、後継者となられたのが現住職三條妙節師であり現在に至っております。現住職の理念は常におせん様を尊敬致し、信者様の日々を案じつつ、私財を投じ本堂並びに護摩堂等の建設に当り、また宿泊施設、庭園等も整備され、平成16年すべての工事が完了至し、現在の光元院として開院されたのです。 
また、院内には現住職が師と仰ぐ「おせん地蔵」を設立致し、「なぜ仏」として奉安され永遠の威徳を偲び毎年2月7日と8月27日には報恩講大祭を行い、毎月7日は月のお参りを行っているのが現在の住職三條妙節師でございます。


千体山観音寺:
本堂の玄関に入ると正面に仏像がハッキリと見えます。
壁には、壱千七百体余りの観音様を奉安しています。 護摩の火にお不動様が立たれた写真を掲げています。


弘徳寺:
当地には、既に大正4年新義真言宗豊山派弘法教会が設立されていましたが、昭和20年当教会を廃寺して高野山真言宗和教会と合併しその後、弘徳寺と寺号を公称し、現在に至ります。

丸山寺:
丸山寺のお大師様は 現世平安 来世往生のお大師さまです。深川市は母なる石狩川が流れる北空知平野の中心田園都市である。この広大な田畑を作りあげたのは屯田兵であつた。   明治28年29年に屯田兵千個が入植した。その中に四国出身の弘法大師信者がかなりいた。その人たちが集まって明治40年新四国霊場八十八ケ所を開山したのが丸山寺の始まりである。 
丸山はこの地に入植した人々が原生林を伐採してその先に丸山を発見したというエピソードが残っているほどのお椀を伏せたような海抜114mのお山である。 
このお山に新四国霊場は1番から山腹を左に沿って一周し88番を参り「奥の院」のある山頂に到着する、約2Kの霊場である。 
丸山霊場の八十八ヶ所の各霊場ご本尊石仏に必ず大師象の石仏が付属し安置されている。このような形は他に例を見ないもので゛大変熱心な大師信仰の現れであろう。 
以来北海道内多くの信者達の信仰対象となり大正、昭和の戦前の全盛期には春の大祭には道内各地から約2万人位のお参りがあり、丸山を黒山と称されるる程の賑わいであつた。 
開基以来熱心な信者の方々の奉納奉仕により多くの信仰施設が創られた。現在の丸山寺もそのひとつである。又山頂までの石段。境内地の延命地蔵。近年においても、丸山寺本堂-会館―鐘楼堂-山頂救世観音―ご霊水施設-霊園6地蔵と丸山霊場には数多くの信仰施設が祭られ、一宗一派を超え、その時代時代と共に人々の祈りと共に歩んだ,北海道では数少ない歴史をもった霊場である。


金剛寺:金剛寺は明治29年に四国八十八ヶ所霊場第20番奥之院慈眼寺住職の釈秀弁和尚によって開創されました。当時は遍照院という説教場でしたが、和尚の熱意により、本堂および庫裡の設備も整い、明治40年12月には寺号公称の認可もおり、金剛寺と称しました。大正3年には、本四国八十八ヶ所霊場の御本尊様の石像を境内に奉安し、鶴沼新四国八十八ヶ所霊場を開創、近隣の人々の心の拠り所として、信仰心の高揚に果たしました。
現住職は4代目で、本堂、会館、納骨堂、庫裡を新築し、施設の充実をはかりました。また、子どもの信仰心を養うために、寺小屋修行を行ったり、サハリンに残留している日本人のために、支援する活動を行っています。

郷芳寺:
開基木曽智順は明治18年に生まれ、兵庫県瑠璃寺を経て高野山大学林を卒業の後、大正6年旭川金峰寺2代目住職を拝命しました。開教師として活躍し、滝川町に説教所を設け、大正10年大師教会滝川支部として公認されました。昭和11年から13年にかけて境内に本四国霊場から持ち帰った各札所の浄砂を埋めて石仏を安置し、滝川新四国八十八ヶ所霊場を設立しました。
昭和20年寺号公称の認可をうけて開基の書の雅号である郷芳を寺名としました。現在の建物は平成2年に本堂庫裡を改築し、納骨堂は平成18年に新築したばかりです。


眞弘寺:
開基阿部眞道師は農家の後継者とし生まれますがリュウマチの難病にかかり農家を断念。
お大師さまに身を委ねて四国八十八ヶ所の旅路に出たのが齢三十歳の頃。
幽谷の大自然の中に身を投じ、み仏の冥護を感ずるところあり。
心に信火を灯し、ついに僧侶となる決心をする。 高野山にて修行を積み、北海道開教の特命受けて網走へ向かう。
時、開墾の鍬が入り未だ日が浅い、永山村字トウマの屯田開拓の地に一夜の宿を得、
その折、同郷同信の屯田兵等に囲まれて永住を墾請され、現在地の当麻に止まることに余儀なしとす。以来、この地を開教の地を定める。
本山より授かった本尊弘法大師に日夜墾念し、布教の熱弁は人々の胸を打ち恩徳を受 ける人の数は知れません。
二世真城師も先代師匠と同等の活躍で布教道に専念し、諸堂宇庫裡の輪奐を美しく整 え今に至る。


眞弘寺大師堂:

14:30新千歳空港に向かう。
15:40新千歳空港到達。
18:00新千歳空港出発
19:50伊丹空港到達。

今回の旅行、最北端北海道に足を運び
旭川周辺に点在する北海道八十八箇所の14箇所、三十三観音4箇所をめぐり楽しみました。

北海道の霊場、以前と同じく、建物が新しく、歴史を感じさせない霊場建築物が多く、本州の霊場とは異様観を感じさせられますが立派な寺院も多く見られました。

北海道の霊場は明治以降に建立した寺院ですので皆比較的新しさを感じます。

広大な北海道、広くて真っ直ぐな道、車も少なく、爽快で地平線を見ながらドライブ走行、北海道でなければ体験できない、北海道ドライブ霊場めぐり満喫しました。



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十四弾:秋田県東北三十六不動霊場&お城・城下町巡り観光
 
2015年8月22−23日 

東北の秋田県に足を運び東北三十六不動霊場6箇所、お城・城下町9箇所をめぐりました。

22日16:55伊丹空港出発
18:15秋田空港到達、レンタカーで本荘に向かう。
19:00本庄駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

23日6:00レンタカーで出発、秋田市内に向かう。霊場、お城巡り。

普傳寺:
普傳寺の開基は不明だが、初代、普光上人から数えて、現在義佑和尚まで十三代というが、この場合の初代は中興と考えられる。何故なら天和二年(1682年)尊慶なる僧、大館遍照院六代に赴く、とあり、江戸中期の所在を明らかにし、更に不動明王像は鎌倉期の運慶作という文化的価値を考慮すると、初代の事蹟は中興ということになる。秘宝、不動明王、弘法大師坐像は運慶の作風を伝え、秋田市の指定文化財である。

秋田城・出羽柵:天平5年(733年)の築城と云う。 東北地方における蝦夷への対策として庄内地方に出羽柵が築かれ、これを高清水岡に移し秋田城と改称した。

湊城:築城年代は定かではないが永享8年(1436年)安倍康季が築いたとも云われる。 属にいう安東三城(檜山城・脇本城・湊城)の一つ。その後、湊安東氏の居城として続いたが、天文20年(1551年)安東尭季が没すると、檜山安東氏の安東愛季の弟茂季が湊安東氏の家督を継いだ。元亀元年(1570年)豊島城主豊島玄蕃らが謀反を起こし湊騒動と呼ばれる内乱となると、檜山安東氏の援軍もあってこれを鎮圧した。天正7年(1579年)に茂季が没すると家督を継いだ嫡子高季が幼少であったこともあり、後見人となった安東愛李が事実上湊安東を併合する形となった。天正15年(1587)(秋田)安東愛李が没すると、翌天正16年(1588年)湊安東高李が戸沢・小野寺氏を味方にして謀反を起こした。家督を継いだ秋田実李はいまだ13歳と幼少で脇本城を棄てて檜山城へ逃れて籠城し劣勢であったが、由利十二頭の赤尾津・羽川氏の援助を得て形成は逆転し湊城は秋田実季によって落とされた。秋田氏は湊城を居城として豊臣秀吉に臣従し五万七千石を領していたが、関ヶ原合戦での不手際があり、慶長7年(1602年)安東実李は常陸国宍戸へ転封となり、替わって佐竹氏が秋田に入部すると久保田城を築いて居城としたため廃城となった。

嶺梅院:嶺梅院の縁起は定かではないが、一部に伝わる古文書に次のように記されていた。永福山嶺梅院は無等良雄禅師(南朝の忠臣萬里小路藤房卿と伝えられる)の閑居寺にして、現在の松原・補陀寺の場所に創建した。その後、寺風は荒廃して一宇を残していたが、寛延年中(1748年)蒼龍寺の桂岩極芳和尚が現在地に再興し、後地に補陀寺を移して曹洞禅の教化につとめたということである。

多聞院:多聞院の開山は、慈覚大師・安慧。一説には元禄年間(1688年)の創建ともいう。羽黒山系天台宗から発展した寺院という説もある。松前船・辰悦丸が航路の安全を祈願し、階の石段を寄進している。また、同船の錨は寄進され、境内に置かれている。

男鹿半島方面に向かう。

脇本城:築城年代は定かではないが、一説に元亀・天正年間(15701573年〜1592年)頃に染川城主安東鹿季が築城したと伝えられる。属にいう安東三城(檜山城・脇本城・湊城)の一つ。元亀・天正年間初期の城主は安東修季で湊城主安東友季の後見人であった。天正5年(1577年)檜山城主安東愛季は湊安東氏を併合し、檜山城を長男業季に譲り脇本城を居城とした。安東氏は愛季の時に安東から秋田と改名している。愛季は天正15年(1587年)小野寺氏・戸沢氏と唐松山合戦の後、淀川の陣中で病没すると家督は嫡子実季が継ぐ。しかし、この時12歳と幼少であったためか、脇本城主修季は湊城主安東高季を扇動して謀反を起こした。この湊合戦と呼ばれる戦いで実季は脇本城を棄てて檜山城へ逃れて籠城する苦戦を強いられたが、由利十二頭などが檜山安東氏方となったことで形成は逆転し、湊城を落として終結した。

吉祥院:男鹿は仏教の発祥地、本山、真山、毛無山の三山がそびる、慈覚大師開祖の赤神山日積寺永禅院の信仰の地である。永禅院代五世覚運(953-1007)開基の塔頭寺院で叡山中興の祖、良源の高僧弟子で天台宗であった。明徳2(1392)年の頃、日積寺29世頼叶が高野山龍光院の感化をうけ真言宗に改宗された。幕末の頃、寺門の衰退に加え明治初年の廃仏棄釈で無住となり、幾度となく廃寺を免れ、再度の移転で昭和18年に現在地にその法燈を継承す。文応元(1260)年からの歴史をもつ、岡山県の福泉寺所蔵本奥書日書写、高野山で伝授の開運星祭り北斗護摩祈祷会と、聖天浴油供祈祷会などの行事がある。

玉蔵院:現在、真言宗智山派に属し、その昔、男鹿にあった日積寺永禅院の塔頭の一ヶ寺として創建され、天台宗の寺院であった。南北朝時代の頃に日積寺は真言宗に改宗するが、玉蔵寺も、その時改宗したものと思われる。今から約300年前、元禄の頃と思われるが、鮎川の寺畑(現在地より北方、高台の山林)へ移転、さらに200年前頃、現在地へ移転した。今の本堂は昭和58年に建立。本堂内陣の丸柱は、神代欅を使用。数千年、土の中に埋もれていた欅の丸柱が、神々しい光を放っている。

能代方面に向かう。

檜山城:築城年代は定かではないが14世紀中頃に安東忠季によって築かれと云われる。 安藤氏は安倍貞任の子高星丸が津軽に逃れ、後に藤崎城を居城としたことに始まる。安藤氏はその後十三湊へ移ったが、南部氏によって一時滅亡、南部氏に捕らわれていた師季(政季)が田名部の地を与えられ、安藤氏を再興した。政季は田名部から蝦夷ヶ島へ渡り、康正2年(1456年)に湊安藤堯季の支援を受けて小鹿島へ渡った。忠季のとき檜山へ移り、檜山城の前身となる檜山屋形を築いたという。檜山安藤氏(安東)は愛季のとき、湊城主湊安藤氏を併せて勢力を拡大していく。愛季の子実季のとき秋田氏に改称し、慶長7年(1602年)実李は常陸国宍戸へ転封となった。慶長7年(1602年)佐竹氏が秋田に入部すると小場義成や多賀谷氏の居城となったが元和6年(1620年)一国一城令によって廃城となり、多賀谷氏は麓に居館を築いて移った。

大館方面に向かう。

遍照院:
大館盆地に位置する遍照院の開基は、小場義成(後に佐竹姓を名乗った)であるという。「大館城と関係社寺」から由来を抜粋すると、『常陸国那珂小場県遍照院開山は至徳三年(1386年)小場大炊助義躬が小場城外に一宇建立。本尊に薬師如来を安置する故に医王山長久寺遍照院と号す』とある。小場氏に随いて秋田に下向し、慶長十五年(1610年)大館に移建して三十石を付与されたという。

十狐城:築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に浅利則頼によって築かれたと云われる。
浅利氏は甲斐国浅利郷を発祥とする甲斐源氏で文治5年(1189年)源頼朝による奥州藤原討伐に参陣し比内の地頭職を得た。南北朝時代には北朝方に属し南朝方であった南部氏の鹿角の諸城を津軽の曽我義氏らと攻めている。その後の動向は詳らかではないが、永正年間(1504年〜1521年)に浅利則頼が十狐城を築き、小大名ながら一勢力を築いた。この則頼の出自は定かではなく「浅利軍記」などによれば甲斐国より比内に下向したとある。天文19年(1550年)浅利則頼が没すると長子則祐が家督を継いだ。浅利則祐は安東氏に属し、永禄年間(1558年〜1570年)はじめには南部氏の長牛館を攻撃したが、永禄5年(1562年)則祐は安東氏との不和により攻められ長岡城で自刃して果てた。則祐の跡を継いだのは弟勝頼で、中野城より十狐城に移り、さらに長岡城に移っている。天正2年(1575年)浅利勝頼は独立を計り、田代町山田で安東愛季と戦い(山田合戦)花岡城主浅利定頼が討死するなど大敗を喫した。しかし、その後も浅利氏は安東氏とたびたび戦っている。天正11年(1583年)安東愛季は和睦交渉と偽って勝頼を呼び寄せ謀殺させた。勝頼の子頼平は津軽為信を頼って比内より逃れ、比内は安東氏の所領となった。天正17年(1589年)大館城代五十目兵庫秀兼が南部氏に内通して比内が南部氏に奪われると、翌年秋田実季は津軽為信と結んで比内を奪還する。このとき津軽氏に身を寄せていた浅利頼平は為信の斡旋により再び比内に戻り秋田氏に従って太閤蔵入地となった大館一帯を支配した。しかし蔵入米や文禄の役での金子の未納などの問題で再び浅利氏と秋田氏は対立し、慶長3年(1598年)浅利頼平は上洛中に大坂にて没し、浅利氏の残党は秋田氏に討たれ十狐城は破却され浅利氏は滅亡した。

大湯館:築城時期は不明。館主は鎌倉中期、地頭職として鹿角に入部した武蔵武士団横山党奈良氏の嫡流大湯氏とされます。入部以降、大湯氏は大湯川流域に勢力を扶植し、庶子家(小枝指氏・新斗米氏等)を各地に分知して惣領支配していたと思われますが、詳細な事績は不明。永禄9(1566)年、檜山城主安東愛季の鹿角侵攻が開始されると大湯四郎左衛門昌次は安保衆とともにこれに加担したとされ、また天正19(1591)年 「九戸の乱」が勃発すると四郎左衛門は九戸政実方に加担して鹿倉館に籠りましたが、大光寺正親勢の攻撃を受けたため鹿倉館をあきらめ九戸城に遁れました。しかし九戸城は奥州仕置軍の攻撃を受けて降伏し、四郎左衛門は九戸政実等とともに捕縛され、栗原郡三迫で処刑されました。乱後、大湯氏の所領は信直方に加担した四郎左衛門の兄五兵衛(彦六)昌忠に宛がわれましたが、天保年間(1644−48年) 昌忠のあとを継いだ門之助昌邦が死去したため大湯氏は改易となり、代わって毛馬内靭負範氏が大湯に入部しました。明暦3(1657)年、範氏が死去すると赤尾又兵衛が大湯代官に任ぜられ、寛文5(1665)年 赤尾氏が南部家を退去すると北九兵衛宣継が小軽米から所替で大湯に入封し、北氏が明治維新まで大湯館に在城しました。

小枝指館:小枝指館は七ツ館とも呼ばれるように七つの曲輪で構成された館である。 日本城郭体系に掲載されている縄張図には第一館から第七館として名称をふり、個々の名称は不明となっているのだが、たまたま畑仕事をしていた方と話した所、ここは○○、あっちは××と館の名称を呼んでいたようである。
空堀の一部は道路などに転用されているものの、多くの空堀と曲輪群は良好に残っているようである。

石鳥谷館:

大里館:

15:00秋田空港に向かう。

16:50秋田空港到達。
18:50秋田空港出発。
20:10伊丹空港到達。

今回の旅行、東北の秋田県に足を運び東北三十六不動霊場6箇所、お城・城下町9箇所をめぐり楽しみましたました。

今回も東北の霊場、立派な寺院が多く、素晴らしかった。広く、真っ直ぐな道が多く、人も車も少なく、ドライブ気分で楽しむことが出来ました。

お城は、館と名のつくお城は、確認が難しく、広く田園風景に位置するのが多かったです。

東北秋田県に位置する霊場、お城ドライブ観光巡りでした。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百二十三弾:アメリカ合衆国ダラス&中米(グアテマラ、ホンジュラス、ベリーズ)観光
 
2015年8月9−16日

北アメリカのアメリカ合衆国のテキサス州で3番目に人口が多く商業や経済の中枢として機能しジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された土地として知られているダラス、中米の古代マヤの都市遺跡が点在するグアテマラ、ホンジュラス、カリブ海に大規模なサンゴ礁ブルーホールが広がるベリーズを訪れました。

8月9日7:05関西国際空港ピーチで出発
8:30成田空港到達。
10:40成田空港アメリカン航空で出発
8:50(時差ー14時間)ダラス空港到達、タクシーでダウンタウンダラスに向かう。
10:00ダウンタウンダラスに到達、散策

ダラス:テキサス州北部に位置する巨大都市。人口124万人でヒューストン、サンアントニオに次ぐ規模。オイルビジネスの中心地であり、また、ケネディ大統領のゆかりの地として、毎年多くの観光客が訪れる。

ダラス美術館:2002年にオープンしたこの美術館は、日本の名建築家、安藤忠雄氏の設計によるもので、建物自体が石とガラスとスチールの美術作品であり、パブロ・ピカソ、マーク・ロスコ、ロバート・ラウシェンバーグ、アンディ・ワーホール、ロイ・リヒテンシュタイン、ロバート・マザーウェルなどによる傑作が収められています。
ウエストエンド歴史地区:ダウンタウンの北西にあるエリアで、赤いレンガ造りの古い建物が建ち並ぶ。うらぶれた倉庫街を、建物の外観を残したまま再開発した場所で、現在では、健全な歓楽街として市民に親しまれている。Market St.沿いをメインに飲食店が連なり、18時以降は特ににぎやかになる。最近ではレストランやホテルも増えている。
シックススクエア博物館:ケネディ大統領暗殺の狙撃現場であり、事件の背景を映像や音声で詳細に知ることができるシックスス・フロア博物館。
ディーリープラザ&J.F.Kメモリアル:出発シックスフロアの南側、Elm、Main、Commerceの3車線が合流していく小さなデルタ地帯。ケネディ大統領を乗せたオープンカーが予定していたコースを変えて通ったために射殺されてしまったといういわくつきの地点だ。南東に位置する公園の南にはJ.F.K.メモリアルがあり、シンプルながらも重厚な碑が鎮座している。
リユニオンタワー:ダラスのシンボル的タワーです。50階にダラスとフォートワースが一望できるザ・ルックアウトと呼ばれる展望デッキがあります。この上の階に位置する回転展望レストランは、フロアが55分で1回転し、ダラスのスカイビューを360度楽しむことができます。

13:30タクシーでダラス空港に向かう。
14:00ダラス空港到達。
プライオリティパスラウンジで寛ぐ。
17:05ダラス空港アメリカン航空で出発。
19:31(時差ー1時間)グアテマラ空港到達、専用車でホテルに向かう。
18:30グアテマラシティ内のホテル到着後就寝。
グアテマラシティ:旧市街は治安に問題がありますが、高級ホテルやレストラン、大使館のある新市街、特にソナ・ビバと呼ばれるエリアは問題ありません。ここにはマヤ遺跡からの出土品が多く展示されている国立考古学民族博物館、ウィピルという先住民の民族衣装を集めたイスチェル民族衣装博物館などがあります。

10日7:00ホテルを専用車で出発、コパンに向かう。
12:00グアテマラとホンジュラスの国境エル・フロリド到着、出入国手続き。

12:30コパンルイナスのホテルで昼食。
コパンルイナス:コパン・ルイナス市は、中米ホンジュラス共和国の西、グアテマラ国境近くの緑豊かな山間部に位置しています。すべてのマヤ遺跡の中で最も美しいといわれる世界遺産のコパン遺跡があり、これを一目見ようと世界各国から多くの観光客が訪れています。
しかし、コパン・ルイナス市の魅力は遺跡だけにはとどまりません。親日家が多く人情味あふれるホンジュラス人との触れあいや、石畳の町の散策、ティピコやアナフレという郷土料理や有機農法栽培のコーヒー、そして豊かな自然、澄んだ青空、色鮮やかなオウム公園、天然温泉や乗馬ツアーなど魅力がいっぱいです。
13:45専用車でコパン遺跡に向かう。
13:50コパン遺跡観光。
マヤ遺跡は中米のホンジュラス、メキシコ、グアテマラ、ベリース、エル・サルヴァドルの5カ国に渡り数多くあります。 コパン遺跡は紀元後400年頃から800年頃にかけて栄えたマヤ王朝の神殿遺跡です。マヤ遺跡の中でもコパン遺跡は全体の美しさとその芸術的価値から、最も美しい遺跡の一つと言われています。数千人を収容したグランプラザの大広場、王たちの彫像とその業績を記したステラと呼ばれる石碑、マヤ王朝の歴史を刻んだ約2200の象形文字の階段、建物全体に刻まれた芸術性豊かな彫刻の数々などから1980年ユネスコの世界文化遺産に登録されました。 現在も考古学者中村誠一先生とそのスタッフにより調査、発掘、保全作業が続いています。

大広場 Gran Plaza グラン プラサ:コパン芸術の粋を凝縮した美しいステラ(石碑)が立ち並んでいます。 高浮き彫り、丸彫り様式の石碑群は、コパン独特のものです。これらの記念碑の大半は、王朝13代目の王である「ワシャクラフーン・ウバーフ・カウィール」(通称18ウサギ王)によって8世紀前半に建立されました。

球技場跡 Campo de Pelota カンポ デ ペロタ:マヤ遺跡に見られる球技場遺跡の中で、コパンのものは古典期のものとしては最大規模です。
18ウサギ王によって738年に建設されました。球技場の両側が斜面になっており、その上に観覧席と思われるアーチの建造物が建っています。斜面の上部にはゴールと思われるオウムの頭部の石像が配置されています。 重いゴム製のボールを肘、腰、足だけを使い地面に落とさないようにするペロタと呼ばれる球技で、トウモロコシの豊穣と天体の運行を正常にすることを願って行われていた奉納球技と考えられています。

神聖文字の階段 Escalinata Jeroglifica エスカリナータ ヘログリフィカ:階段に約2200以上のマヤ文字が刻まれています。先コロンブス期(16世紀以前)におけるアメリカ大陸最長の文字記録です。18ウサギ王が建設を開始し、15代目の王「カック・イピヤフ・チャアーン・カウィール」が755年に完成させました。コパン王朝の栄光の歴史が刻まれています。

祭壇Q AltarQ アルタ クー:コパン王朝史の解明に多大な貢献をした最重要記念碑の一つです。 16代目の王「ヤシュ・パサフ・チャン・ヨアート」の時代に建造された祭壇Qは、祭壇の4つの側面にそれぞれ4人ずつ 16人の王が自分の名前を意味するマヤ文字の上に座する形で彫刻されています。祭壇の正面は初代王の「キニチ・ヤシュ・クック・モ」が16代王に王杖を手渡している構図となっています。上面碑文にはコパン王朝の創始とこの祭壇の製作(776年)に関する記述があります。なお祭壇Qのオリジナルは、 コパン遺跡公園の石造彫刻博物館に展示されています。

トンネルとロサリラ神殿 Tuneles y Templo Rosalira トゥネレス イ テンプロ ロサリラ:古代マヤの王達は過去に造られた神殿を埋め、その上に新たに自分の神殿を建て加えていったようです。現在見えている建物の下に何代にも渡る過去の神殿が眠っているという訳です。1989年の調査により発見された考古学者の掘ったトンネルに入ると、千数百年間埋もれていたロサリラ神殿の一部を見ることができます。遺跡公園内の博物館には、このロサリラ神殿の実物大の複製があり、見ごたえがあります。

17:00ホテルに戻る。
19:00ホテルで夕食、就寝。

11日
7:30ホテル専用車で出発、キリグア遺跡に向かう。
11:00キリグア遺跡観光。
グアテマラ南東部のカリブ海まで約100kmのところ,マヤ文明圏では南部低地のコパンから直線距離で50kmのところに位置し,コパンの衛星都市として紀元3世紀頃から創建が始まり,西暦455年に初代王が即位,コパンの影響を受けつつ独自の歩みをみせます。724年に「嵐の空王」が即位すると,737年のコパンとの戦争により,コパン13代目「18ウサギ王」を捕らえ斬首した後は,完全にコパンから独立し,モタグア川流域の水運を押さえます。モタグア川は,グアテマラ高地とカリブ海を結ぶ黒曜石と翡翠の交易路で,その支配権を得た後,繁栄を謳歌しますが,9世紀初頭には衰退します。
 キリグアの見所は石碑と獣形神(後述)にあります。コパンの技法と芸術性の影響を多分に受けつつ独自の発展をみ,繁栄を極めた8世紀後半に優れたものが集中しています。731年から810年までに5年ごとに石碑を建てる習慣があったことが判っています。
 1981年,世界遺産に登録されています。 

12:00キリグア遺跡出発。
13:00リオ・ドゥルセ到達。昼食。
グアテマラの東、カリブ海とドゥルセ川がぶつかる領域の名称。
ここはフローレスやホンジュラスのコパン遺跡を観光するときにツアーで訪れる休憩ポイント。
リオ・ドゥルセのほとりに建てられたいくつかのリゾートホテルでのんびりすることが出来ます。
また、近くにはサン・フェリペ要塞なども見所があり便利な場所です。

14:00リオ・ドゥルセ出発、フローレスに向かう。
19:00フローレス到着、
フローレス(Flores)とは、フローレス島(Flores Island)とサンタ・エレーナ地区、サント・ベニート地区をまとめた地域の総称です。ペテン県の中心都市であり、グアテマラの観光産業の要であるフローレス空港があります。

フローレスからティカル遺跡まで約60キロ、この間の道はよく整備された立派な舗装路になっています。

19:30フローレスのホテルにて夕食。就寝。

12日8:00専用車で出発、
ティカル遺跡に向かう。
9:00ティカル遺跡到達、見学。

ティカル遺跡:数多いマヤの遺跡の中でも最大の規模を誇るのが「ティカル」。グァテマラの密林の中に巨大な5つのピラミッドが聳え、周辺には無数の古代の都市の跡が散在している。ティカルは紀元4世紀ころに最初の王朝が誕生し、次第に勢力を強めたが、6世紀になってカラクムルやカラコルといった周辺の有力な都市との対立が激化して一時は衰退。しかし、7世紀の末にカラクムルを破って復興を遂げた。その後、人口増加による環境破壊が進み、深刻な干ばつが重なることによって9世紀ころから衰退していったとされている。

13:30ティカル遺跡内のレストランで昼食。
14:30ティカル遺跡博物館見学。
ティカル遺跡の入口に博物館がふたつあり、ひとつはティカル博物館 (Museo Tikal) 、もうひとつがこの石碑博物館 (Museo Litico)で、  ビジター・センターのティカルの立体模型の奥にあり、発掘の過程で見つかった石造物が集められています。
風化した石ばかりで見た目には地味ですが、ティカルの歴史解明の手掛かりとなる多くの情報を提供してくれる貴重な資料である。

16:30ティカル遺跡、専用車で出発。
17:30ティカル内のホテル到達。
19:00ホテルで夕食、就寝。

13日7:30ホテル専用車で出発、ベリーズに向かう。
9:30グアテマラとベリーズの国境メンチョル・デ・メンコス到達。グアテマラ出国手続きとベリーズ入国手続き後、アルトゥンハ遺跡に向かう。
12:30途中レストランで昼食
14:00アルトゥンハ遺跡見学。

アルトゥンハはBC300〜AD1000年頃まであった都市で、特に栄えたのはAD 250〜900年頃で、当時の人口は約1万人強。1世紀後半には祭事場として栄え、その後カリブの沿岸と内陸を結ぶ交易の中心として栄えました。1963年に発見、64~70年にかけ発掘され、7つの墓が発見されました。ベリーズでこの遺跡を有名にしたのは、7番目の墓から4・4kgもの太陽神の翡翠の頭部像が発見されたことによります。

遺跡内に全部で7つの墓がありますが、はA地区、B地区に分類されA地区には5つのピラミッドがあります。入り口付近からでもある程度全体が見渡せはしますが、やはり、翡翠の発掘されたメインであるピラミッドの頂上から遺跡全体を眺めない手はありません。4〜50段の階段を登り頂上へ到着すると、中央には巨大な石の円形台がありました。これは、太陽神に生贄を捧げた時に使用した祭壇であると言われています。
15:30アルトゥンハ遺跡出発。

17:00ベリーズ・シティホテル到着、夕食、就寝。
ベリーズ・シティ:ベリーズ川の河口に位置し、ベイリーズ東方にあるベリーズシティは、カリブ海に突き出す半島にあります。ベリーズの主要港としてクルーズ船の拠点となっており、カヨ州の洞窟、マカル川、ベリーズ川沿いのマヤ遺跡など多くのベリーズの名所へ行く際の出発地ともなっています。ベリーズシティの目玉は、世界で唯一の手動で回転するスイング橋と、中央アメリカ最古の英国国教教会です。

14日11:00専用車で小型機専用飛行場に向かう。
11:10小型機専用飛行場到達。
11:30セスナ機にてブルーホール遊覧飛行。

ベリーズシティの東約100km,カリブ海に浮かぶライトハウス・リーフの中にひときわ深い青い色をたたえた穴のようなところがある。これが世界的に有名なブルーホールである。直径300m以上、深さ約130mの規模を誇り、周囲を平均3mのさんご礁で囲まれている。
ブルーホールの近くにあるノーザン・キーには飛行場や新しいホテルなどもあり、リゾート基地として注目されている。
ブルーホールは”海の怪物の寝床”と呼ばれるように、美しくまた神秘的である。イルカが住み着いていて初心者でもスノーケリングで一緒に泳ぐ事が出来る。

12:30着陸。
12:30国内飛行場出発
13:390国際空港到達。
15:00ベリーズ空港アメリカン航空で出発。
19:10ダラス空港到達、タクシーで空港付近のホテル到達、夕食後就寝。
15日8:00ホテル、タクシーで出発。
11:20ダラス空港、アメリカン航空で出発。
14:20成田空港到達。
18:00成田空港ピーチで出発。
19:30関西国際空港到達。

今回の旅行、北アメリカのアメリカ合衆国のテキサス州で3番目に人口が多く商業や経済の中枢として機能しジョン・F・ケネディ大統領が暗殺された土地として知られているダラス、中米の古代マヤの都市遺跡が点在するグアテマラ、ホンジュラス、カリブ海に大規模なサンゴ礁ブルーホールが広がるベリーズを訪れ8日間の旅、満喫しました。

中米に点在する多くのマヤ遺跡、紀元前から紀元900年頃までのマヤ文化、歴史深い意義を探求できました。

一方世界的な有名なサンゴ礁ブルーホールをセスナ機で空からの鑑賞、圧巻でした。

一人旅で、高級リゾートホテルに滞在し、日本人のガイドと運転手を付き添いで貸し切りの専用車で観光地を訪れ、贅沢な旅でした。

治安がいいとは言えない地域でしたので万全の体制を整えた豪華で贅沢、今までにはない観光旅行でした。

現地で解ったことですが、治安が悪いのは一部の地域で、国全体ではありません。その場所を把握し避ければ問題ありません。中東、アフリカ等のいつテロがおこるかわからいない地域よりは安全です。

豪華で贅沢な中米一人旅観光旅行でした。