飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十四弾:鹿児島県九州八十八ヶ所巡り&お城・城下町巡り観光
2016年1月30日ー31日

大隈、薩摩、そして日向の一部で構成され、古くから海外との交易が盛んで、大隈の肝付氏、日向の伊東氏がいち早く合戦に鉄砲を取り入れ、守護の島津氏が同地を支配し、九州全土を席巻した鹿児島県に足を運び、九州八十八ヶ所の8箇所、比較的マイナーなお城11箇所を訪れました。

1月30日16:20伊丹空港出発
17:35鹿児島空港到達、レンタカーで鹿児島市内に向かう。
18:20鹿児島市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

31日7:00レンタカーで巡る。
不動寺: 美し風景で知られる鹿児島の名所、磯庭園。庭園の目の前には桜島と錦江湾が広がります。その近く、鹿児島市十号線沿いに稲荷町という町があり。この町に不動寺があります。 このお寺のある場所は、かつて真言宗大乗院というお寺が存在した地でありました。不動寺はそのような仏縁の深い場所に築かれています。由来を語ると、大隅半島にある西大寺の鮫島弘明住職が薩摩の地に祈祷道場を求めて行脚していた時、夢に不動明王の霊示を受けたという。急いでこの地を訪ねてみると茂みの中に石仏が放置されていた。鮫島住職はこの石仏を仮に安置し、後の昭和35年に仮道場を興された、これが不動寺の始まりであります。現在は真言密教を広める道場とし、平成8年5月26日に本堂を落慶法要し、寺院として今にいたります。

大歓寺:大歓寺は、昭和45年に建立されたお寺です。御本尊様はお不動さまで、病気平癒、災害除け福徳や煩悩を滅ぼしたり、大変霊験あらたかな仏さまで、これまでもたくさんの信者さんからお不動さまのおかげを授かっておられます例えば鹿児島市で過去あった大水害にみまわれた時もお寺でご祈祷したお不動さまのお札を授かった方の中には、倒壊した道路を通行していたが、お不動さまのおかげで間一髪の所を救われたという方や、床下浸水で畳が浮き上がり、次々と家具が倒れる中、お不動さまのお札を納めたお仏壇だけは微動だにしなかったという信者さんもおられます、霊験談は数えあげるときりがないほどある。
また大歓寺のご利益といえば、安産祈願が有名である。この安産祈願の安産お守りは護摩を焚き、祈りを込めた手づくりのお守りで、このお守りを授かりにくる方も多い。また老若男女の心のより所として開かれたお寺ですので、大いなる活気に満ち溢れています。

東福寺城:暦応4年・興国2年(1341年)島津貞久によって築かれた。 貞久は南朝方の矢上氏と肝付氏の籠る浜崎城(一説に東福寺城の一曲輪とも云われる)を攻め落とし薩摩の拠点とした。
嘉慶元年・元中4年(1387年)島津氏は勢力を伸ばし新たに清水山城を築いて拠点を移した。

清水城:嘉慶元年・元中4年(1387年)島津元久によって築かれた。 島津氏は東福寺城を居城としていたが勢力が拡大するにつれ手狭となり清水城を築いて本拠を移した。
元久が没すると長子犬千代を推す伊集院頼久と元久の腹違いの弟久豊の間で相続争いがあり頼久によって清水城が焼き払われた。

指宿方面に向かう。

光明寺:薩摩半島の一角、縁に囲まれ全国に知られる温泉の里指宿天然砂蒸しは特に有名であります。この地に光明寺があります寺周辺には、そら豆、おくら等畑が多く季節を感じます境内に目を向けますと前面を駐車スペースとして広く取り高齢者の方、身体に障害のある方が安心して御参りができるように設計してあります。又、参拝者の皆様の健康を祈って、観音菩薩蔵を平成18年に建立しました。 堂内に地蔵菩薩を本尊として安置しその側に寺宝で大師ゆかりの密教法具の一つ香炉と如意棒が島津家祖霊の願文とともに奉納してあり年に1回元旦の日にご縁にあう事が出来ます。 当寺は修行はもとより悩みのある方が“笑顔で帰っていただきたい“これを心より望むてらです。『今日を大切に、出会いを大切に、明日を元気よく』

指宿城:指宿市西方外城市字城ヶ崎にある松尾城は、鎌倉時代から江戸時代初期までの約400年間、山城、海城の両方の性格を持つ城でした。指宿五郎忠村(ただむら)が城を建てて以来、歴代の城主は、阿多氏、奈良氏、紀氏、相州島津氏、祢寝氏、薩州島津氏、田代氏などにうつり変わりました。元和(げんな)元年(1615年)の江戸幕府の一国一城令で廃城になるまで、指宿の歴史は、この城を中心に動いていたのです。防御のための空堀(からぼり)や本丸跡などが現在も残っており古城からの眺めはすばらしいものがあります。

頴娃城:応永27年(1420年)頴娃兼政によって築かれた。
頴娃氏には頴娃古城を居城とし、開聞宮下司職と頴娃郡の郡司を兼任した平氏系の土豪の頴娃氏と、それが滅びた後に頴娃氏を称した肝付一族の頴娃氏があり、兼政は後者の初代である。
頴娃城はポルトガル商人J・アルヴァレスによってヨーロッパで紹介された最初の日本の城だという。


知覧方面に向かう。

知覧城:築城年代は定かではない。 島津忠久が入国したとき、頴娃忠信が知覧院郡司職に任ぜられた。その後北朝方の島津氏によって薩摩・大隅・日向が平定されると、島津忠宗の三男佐多忠光が領した。 応永年間(1394年〜1428年)城主佐多親久の留守中に、南朝方として島津氏に反抗していた伊集院頼久の一族によって、攻られ落城したが、応永27年(1420年)頼久が島津氏に降ると佐多氏が再び城主となった。

枕崎方面に向かう。

大国寺:昭和42年に住職によって開山され市民の悩みは台風だったので、百日間の願いをかけ禅をくんだ、すると国見岳が浮かび、観音菩薩の姿が現れた。さっそく手作りで御堂を建て、台風が一番やってくる方向に高さ8mの大日観音菩薩を造立した、すると不思議に大きな台風はあまり来なくなり枕崎市では、お大師様のお力と有名になった。 平成14年11月に佐賀県の七山村に如意輪観音庵を設立し、平成18年3月9日、金剛界大日如来様を建立した所、上空より大日如来の誕生の姿が現れた、写真に撮れた。 またこの大国寺に参拝すると、お茶の代わりに水を勧められる。かつてはこの山には水がなく山下から桶で運んでいた。それが平成5年になって、弘法大師のお陰で湧き出した、この大師の恵みの水も参拝された方々には有り難くいただいてほしい。

薩摩半島を北上する。

剣山寺:鹿児島県の南にあり、東支那海の見える静かな町の小さなお寺です。廻りの人達はとても人情厚く笑いのたえない所です、お寺の後ろには熊野神社があります。本尊不動明王様は参拝のみなさまのお話しをいつも“ニコニコ”して聞いて下さいます、「あわてるな、急ぐな、あなたはあなたのままでよい」といつも、話かけてくださる様な気がします。境内には慶長九年(約400年前)の三重の塔があります。気軽にどなたでも参拝出来るそんな寺にしたいと思います。

加世田城:治承元年(1177年)別府忠明によって築かれた。 別府氏は桓武平氏良文流で忠明の時に別府を名乗り別府城を居城として代々続いたが、応永27年(1420年)島津久豊に降った。島津宗家勝久の跡目をねらった島津実久は嫡子貴久を勝久の養子として宗家を継がせた島津忠良と激しく対立するが、天文7年(1538年)島津忠良が猛攻を加えて攻め落とした。

伊作城:築城年代は定かではないが南北朝時代に伊作島津氏によって築かれた。 伊作島津氏は久長を祖とし、忠良(日新)の時代に勢力を広げ、子貴久は本家を継いで戦国大名と成長した。義久の時代には九州北部まで進出したが、豊臣秀吉による九州討伐に敗れた。

峰浄寺:境内に足を踏み入れると、坂村真民先生の「念ずれば花ひらく」の真言碑と大きな修行大師さまが優しく出迎えてくれる。本堂奥には緑の散策路が広がり、八十八ヶ所の札所があり、入口には
十二支えと地蔵水子地蔵弁財天堂紺髪観音子安観音などあり四季折々の花が咲き、親子や若い人たちのお参りが絶えない峰浄寺です。

一宇治城:築城年代は定かではないが建久年間(1190年〜1199年)伊集院時清によって築かれたと云われる。
伊集院氏は時清から4代で血脈が絶え島津氏の一族伊集院久親がこれに代わった。
南北朝時代には島津一族で唯一南朝方に属したが島津貞久に破れた。
天文の初めには島津実久の勢力下であったが天文5年(1536年)島津忠良・貴久父子によって攻略された。
忠良・貴久父子はここを拠点として薩摩を統一し天文19年(1550年)貴久は内城を築いて移った。

薩摩薬師寺:奥薩摩の小さな集落の中にある当寺は新寺建立したまだ新しい寺ですが、のどかな環境に囲まれ、故郷に里帰りしたような気軽さでお参りができます。 本尊薬師如来立像は、御身の丈十三センチと小さいながらも、高野山よりお迎えした大変霊験あらたかな仏さまで脇仏の不動明王は、男女の縁はもとより、あらゆる不思議な縁結びの仏様です。
境内奥の八幡神と御神木の梛の木は永年に渡り、世の平和を見守っています。 これから歴史を刻んでいくお寺ですが、たくさんの方々の悩みや病がお薬師さまのお徳により救われることを願い、心のよりどころとなれば有り難いです。

法城寺:桜島が浮かぶ錦江湾の一番奥。美しい景色に囲まれた加治木町に法城院はあります。街中の国道沿いということもあり小さなお寺ですが、御参拝者のお線香の煙が絶えることなくたなびいています。御本尊は、参拝者の願いを叶え、苦しみを取り除いてくださる不動明王(秘仏)です。また、境内では無病息災・長寿祈願の「延命地蔵菩薩」、子供の安全・発育を願う「子安地蔵菩薩」などたくさんの仏様をお参りいただけます。現在、地元では「加治木の高野山」として皆様に親しまれておりますが、はじめてお参りされる方でも気軽に本堂に上がって手を合わすことが出来る、ちょっとした悩みでも話せる、そんなお寺でありたいと願っております。

加治木城:築城年代は定かではないが平安時代に大蔵氏によって築かれたと云われる。 大蔵氏は東漢霊帝の血を引く帰化人とされる。数代目の当主大蔵良長のとき継嗣なく、流罪となってこの地へ流れてきた関白藤原頼忠の三男経平に娘を娶せて大蔵家を継がせ、経平は加治木氏と名乗ってこの地に住んだと云う。加治木氏は以後有力国人としてこの地を治めていたが、明応4年(1495年)加治木久平は帖佐へ侵攻し平山城の南城を占領したが、高尾城に籠った川上忠直に防がれ、加治木侵攻に怒った島津宗忠昌の大軍に攻められ加治木城に帰還した。翌明応5年(1496年)島津忠昌が加治木城に押し寄せ久平は敗れて謝罪し許されたが薩摩国阿多へ移され加治木氏は没落した。
加治木氏の後は伊地知重貞が地頭となったが後に重貞も島津氏に叛いた為、大永7年(1527年)島津忠良が加治木城に攻め寄せ伊地知重貞・重兼父子は城中で自刃して果て、肝付兼演に加治木城は与えられた。
天文23年(1554年)蒲生範清は渋谷一族とともに島津氏に反抗し加治木城に攻め寄せた。島津貴久は加治木城を救援する為、岩剱城の祁答院良重を攻め、加治木城を取り囲んでいた蒲生軍が岩剱城を取り囲んでいた島津氏を討ちに戻ってきた所を激戦の末に打ち破り加治木城を救った。
文禄4年(1595年)加治木・日当山・溝辺のうち一万石が豊臣家の蔵入地となり、肝付兼三は喜入に移封となった。しかし、文禄・慶長の役での島津氏の功によって加治木は島津氏の所領に戻り、島津義弘が平松城より加治木へ移ったが加治木館を新たに築城した為、加治木城は廃城となった。

建昌城:築城年代は定かではないが享徳3年(1455年)頃に島津李久によって築かれたと云われる。 李久は島津忠国の弟で島津氏が平山氏を制した後、帖佐は李久に与えられ瓜生野城を築いたという。
李久の子忠廉は文明18年(1486年)島津忠昌の日向国伊東氏攻めに従軍し、日向国飫肥へ移った為、瓜生野城は廃城となった。
関ヶ原合戦後には徳川家康が加藤清正を先鋒として薩摩に攻め入るとの風聞があり、島津義弘が改修したともいわれ、また島津家久(忠恒)は鶴丸城にかわってこの建昌城を本城にしようとしたという。建昌城の名は明人頴川三官が中国の建昌城に似ているといったことから建昌城「けんしょうじょう」または「たてまさじょう」と呼ばれている。

蒲生城:保安4年(1123年)蒲生舜清によって築かれたと云われる。 蒲生氏(かもう)は、豊前国宇佐神宮の留守職藤原教清と宇佐大宮司の女との間に生まれた舜清が、神領管理のために大隅国垂水を訪れ、保安4年に蒲生・吉田の惣領職に転じて蒲生城を築いて蒲生氏を名乗ったことに始まる。蒲生氏は代々蒲生城を居城として続いたが、十八代蒲生範清のとき、渋谷祁答院良重と結んで島津貴久と戦った。弘治2年(1556年)島津貴久は蒲生氏の家臣中村氏の籠もる松坂城を攻め落とし、蒲生城に軍勢を推し進めた。蒲生氏の援軍として菱刈重豊が大軍を率いて駆けつけ北村に陣取り持久戦となったが、島津義弘が陣頭に立って奮戦するなど激闘となり、菱刈重豊が自刃して菱刈軍は壊滅、籠城していた蒲生氏も城に火を放って祁答院氏を頼って落ちた。蒲生氏の後は比志島美濃守が地頭として入部したという。

17:30鹿児島空港に向かう。
18:10鹿児島空港到達。
18:45鹿児島空港出発
20:05伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の南、鹿児島県に足を運び、九州八十八ヶ所の8箇所、お城11箇所を車で巡り楽しみました。

戦いの場が点在する鹿児島県、今は大きな建造物は見受けられないが、昔は大きな建造物が存在していたと思われる、城跡の遺残で想像できる立派な城跡が点在していました。

九州八十八ヶ所の8箇所、お城11箇所、合計19箇所を車で回り堪能した歴史めぐり観光旅行でした。

 

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十三弾:高知県お城・城下町巡り第二弾
2016年1月16日ー17日 

鎌倉時代に地頭を任じられた長宗我部氏が、戦国の世になって、一条氏、香宗我部氏、本山氏、吉良氏、大平氏、津野氏などと競い合った。長宗我部元親の代に土佐を統一し、四国制覇の偉業に乗り出す四国高知県に足を運び、第二弾10箇所のお城・城下町を巡りました。

16日15:35伊丹空港出発
16:20高知空港到達、レンタカーで市内に向かう。
17:35市内のホテルに到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
17日7:00レンタカーで出発、お城巡り。

浦戸城:元となる城は鎌倉時代?室町時代初期に既に砦として存在しており、天文年間(1532年?1554年)には、土佐の豪族・本山氏の支配下にあった。永禄3年(1560年)に長宗我部国親が、本山氏から攻略し、その支配下となる。その後、戦国時代末期、岡豊城を主城としていた国親の子・長宗我部元親は、天正16年(1588年)大高坂山(現在の高知城がある辺り)に城を移したが水害が多く、3年後の天正19年(1591年)、浦戸城をそれまでの海からの防衛を主とした山城であったものから、水陸両面からの防衛を重視した本格的な城郭に改築し、その居城とした。三層の天守を設け、本丸・二の丸・三の丸・出丸で構成されていた。丘陵北部の浦戸湾岸に城下町を置いた。

朝倉城:築城年代は定かではないが大永年間(1521年〜1527年)本山清茂によって築城されたと云われる。 本山城主の本山清茂は岡豊城の長宗我部兼序を攻めてこれを討ち、長浜・浦戸など土佐中央部に領土を拡張し、その拠点として朝倉城を築城した。
永禄3年(1560年)長宗我部国親は本山茂辰の長浜城を急襲して攻め落とし、さらに追撃して浦戸城も落城したが国親が病に倒れ撤退した。国親が没して元親が家督を継ぐと、永禄5年(1562年)には朝倉城に攻め寄せ包囲した。周辺の諸豪族が長宗我部方に降っていったため、 永禄6年(1563年)本山氏は朝倉城を焼き払い本山城へと退いた。

吉良城:築城年代は定かではないが吉良氏によって築かれたと云われる。 吉良氏は源頼朝の弟源希義の後裔と伝えられる。希義は源頼朝の挙兵に呼応して平家打倒の兵を挙げたが、平家の家臣蓮池城主蓮池家綱と平田俊遠によって襲われ年越山で殺された。
吉良氏は土佐七守護の一人に数えられる。吉良宣経は南村梅軒を招いて土佐南学の礎を築いたことで著明である。
天文9年(1540年)吉良宣直が城を明けて仁淀川へ狩猟に出かけた隙に、朝倉城まで進出していた本山茂辰は吉良城に奇襲を仕掛け落城。吉良宣直も本山氏に討たれ吉良氏は滅亡した。本山茂辰は吉良式部小輔茂辰と吉良氏を名乗っている。
永禄3年(1560年)本山茂辰は長宗我部元親と争うようになると次第に不利となり、永禄6年(1563年)拠点であった朝倉城を脱して本山城へ敗走した。このとき吉良城も破棄された。長宗我部元親は弟親貞を吉良城主とし、吉良左京進親貞と名乗らせた。

蓮池城:築城年代は定かではないが嘉応2年(1170年)頃に蓮池家綱によって築かれたと云われる。 蓮池氏は平重家の家臣近藤家綱が蓮池の地に居城を構え蓮池氏を名乗ったことに始まる。
寿永元年(1182年)蓮池家綱は平田俊遠とともに、平家打倒の兵を挙げた源頼朝の弟源希義を年越山で討ちとったが、まもなく伊豆右衛門有綱と夜須行宗によって攻められ討たれた。
建久3年(1192年)藤原国信が蓮池城を居城として大平氏を名乗り、以降大平氏の代々の居城となった。永正5年(1508年)大平元国は本山氏・吉良氏・山田氏などと岡豊城の長宗我部兼序を攻め敗死させた。天文年間(1532年〜1555年)になると一条氏が津野氏に攻め込み天文12年(1543年)一条房基は津野基高を戦った。大平氏は本山氏とともに津野氏に援軍を送ったが敗れ、天文15年(1546年)大平氏は一条氏に降った。
弘治3年(1557年)南土佐に進出してきた本山茂辰は森山城・秋山城を攻略して仁淀川を渡り蓮池城をも奪った。永禄3年(1560年)本山茂辰は長宗我部元親と争うとその隙を付いて一条氏が蓮池城を取り戻したが、永禄12年(1569年)吉良城主吉良親貞が計略をもって蓮池城を奪い、戸波城へ逃れた城兵を追って戸波城をも落とした。
蓮池城は吉良親貞に与えられ、子の吉良親実が城主となった。吉良親実は戸次川合戦で討死した長宗我部信親の後継争いで盛親の家督相続に反対し、元親の怒りをかって比江山親興とともに自刃させられた。

戸波城:この辺りは、土佐中村の一条氏の家臣が治めていました。その後、長宗我部氏が侵攻、長宗我部一族がこの城に入り、戸波氏を名乗りました。この戸波氏は、大坂の陣の後に藤堂藩に仕えて、鍵屋の辻の決闘で有名な剣豪・荒木又右衛門を指導したそうです。

波川城:築城年代は定かではないが天正年間(1573年〜1592年)始めに波川玄蕃頭清宗によって築かれたと云われる。波川玄蕃は長宗我部氏に降伏したのちは重用され、長宗我部元親の妹を妻に迎え、一条氏滅亡後は幡多郡山路城主となった。しかし、伊予国大洲に軍勢を進めた際に伊予河野氏の来援に駆けつけた小早川隆景と和睦を結んで引き上げたことから元親の怒りを買い、山路城を没収され波川城へ戻された。天正8年(1580年)波川玄蕃は秘かに謀叛を企てたが露呈し、阿波国へ逃れたが、阿波国海部で自刃させられた。

姫野々城:築城年代は定かではないが津野氏によって築かれたと云われる。 津野氏は藤原仲平の子山内蔵人経高が伊予より土佐に入り津野山を本拠として津野氏を名乗ったことに始まると云う。津野氏は土佐七雄の一人に数えられる勢力を誇っていたが、永正14年(1517年)津野元実は一条氏の家臣戸波城の福井玄蕃を攻めて敗れ討死した。これによって津野氏の勢力は衰退し、天文年間(1532年〜1555年)には一条氏に降った。元亀2年(1571年)頃になると勢力を拡大していた長宗我部元親の三男親忠を養子に迎えその支配化に入った。津野親忠は長宗我部元親が豊臣秀吉の四国征伐により降伏し、土佐一国を安堵されると秀吉の元に人質となって大坂に送られた。豊臣秀吉による九州征伐で元親の嫡子信親が討死すると、家督相続争いに巻き込まれ、慶長4年(1599年)には元親によって岩村に幽閉された。長宗我部盛親が関ヶ原合戦で西軍について敗れると、親忠は親しかった藤堂高虎を通じて徳川家康に長宗我部家の存続を願い出ていたが、盛親によって殺害された。

久礼城:築城年代は定かではない。 城主は佐竹氏で承久の乱の時、佐竹信濃守と後藤基之が入部したことにはじまる。 南北朝時代には北朝方として戦った。 戦国時代に入ると一条氏に属したが元亀2年(1571年)長宗我部氏の軍門に下り、以後久武氏等とともに転戦した。

四万十方面に向かう。

中村城:築城年代は定かではないが、為松氏の為松城がその始まりといわれる。 応仁2年(1468年)前関白一条教房は、応仁の乱の戦火を逃れるため一条氏の荘園であった幡多庄に下向した。 教房は加久見城主加久見土佐守宗孝の娘を娶り生まれたのが一条房家である。この房家が実質的な土佐一条家の初代である。
戦国時代の土佐は一条氏を別格として、津野氏、大比良氏、吉良氏、本山氏、安芸氏、香宗我部氏、長宗我部氏の七人守護といわれた。
諫言した重臣土居宗珊(宗三とも)を成敗するなどした一条兼定は、天正2年(1574年)羽生、安並、為松の三老臣によって幽閉され、豊後に追放された。これにより一条氏は兼定の嫡男内政(ただまさ)が擁立され、長宗我部元親に後見を頼み大津御所に送られた。元親は中村城主に実弟である吉良親貞を置いて幡多郡を支配させた。
天正3年(1575年)一条兼定は中村城奪還のために、伊予の法華津播磨守らの助勢を得て栗本城に要害を構えて拠点とした。兼定と元親の軍勢は渡川(四万十川)を挟んで戦ったが兼定の軍勢は敗れ、伊予に退き奪還は果たせなかった。

宿毛城:築城年代は定かではない。もとは松田城と呼ばれ松田兵庫の居城であったが、後に依岡伯耆守が城主となり、天正3年(1575年)長宗我部氏によって攻められ落城した。 慶長6年(1601年)長宗我部氏に代わって山内氏が土佐に入部すると、山内一豊の甥山内可氏が六千石で入部し改修したが、一国一城令により廃城となった。

14:30高知空港に向かう。
17:30高知空港到達。
19:10高知空港出発。
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行、四国の高知県に足を運び、高知のお城巡り第二弾、10箇所を車で巡り楽しみました。
今回は平城が多く比較的見つけやすく、2箇所の山城のみ時間がかかりました。

高知市から宿毛までの広範囲に点在する10箇所のお城、400kmのドライブ巡り堪能しました。









 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十ニ弾:中国深セン観光
2016年1月9日ー11日 

アジアの大国中国に足を運び、小さな漁村であったが、1979年に深セン市に昇格し、その翌年に中国初の経済特区となり、数年で中国でも有数の近代的な都市に生まれ変わり、中国各地から人々が集まる都市となった深センに香港を経由して訪れました。

9日18:15関西国際空港、キャセイパシフィック航空で出発
21:45香港空港到達、メトロで香港市内に向かう。
23:05油麻地駅下車、近くのホテル到達、就寝。

10日8:00出発、メトロ利用して深センに向かう。
9:10深セン到達。歩きとメトロを利用して観光名所をめぐる。

深セン:深?は、 大きく3つのエリアに分けられます。
香港とのイミグレーションや深?駅がある繁華街・羅湖地区、テーマパークがある観光エリア・華僑城、そして工業地区と港がある蛇口。

老街:深?の渋谷と呼ぶべき場所です。多くのレストランや飲食店が軒を連ねています。食べ歩きもできます。日本のチェーン飲食店(牛丼屋やファミレス)もいくつかありました。深?一の繁華街ともあり深夜まで多くの人がいます。

深セン博物館新館:深?市の大型シンボル建築となる市民センターの構成部分として深?市民センターの東側に位置しており、市民センターの全体造型が翼を広げた鵬の如き、威風堂々としています。2008年12月に開館された新館は、歴史博物館として、主に深?の歴史と民俗文化等を展示しています。そのうち深?改革開放歴史展は重点的な常設展示として、多くの芸術的手法及びハイテク手段で我が国が改革開放を実施して以来実現した歴史的な変革と偉大な業績を生き生きとして示しているが、勢いが雄大で、人々の心を揺り動かしています。

中国民俗文化村:錦繍中華の西隣にあり、敷地内には21の民族の24の村が復元されています。各村には実物大の住居があり、民族衣装を着た少数民族が迎えてくれます。貸し民族衣装を着ての記念撮影や民族料理の販売などもあり、ナイトパレードでは歌や踊りのアトラクションが催されます。

錦繍中華:30haという広大な敷地は中国の形をしており、万里の長城・故宮・秦の兵馬俑・三大石窟などの建築物、長江三峡・漓江山水・西湖といった自然景観などが地図上の位置とほぼ同じに配されています。また、白族民居・豪古包など民族に関する展示から、生活、風俗などを垣間みる事ができます。

世界の窓:中国民俗文化村から西へ徒歩15分。世界の名所、旧跡、自然景観を集めたテーマパークです。敷地内には世界広場、アジア区、大洋州区、ヨーロッパ区などの9つの景区に分かれ、118のミニチュアがあります。複製品の縮尺は等倍から25分の1まであり、一番大きいものは108mのエッフェル塔です。世界広場巡遊大表演という夜のショーで世界各国の歌や踊りが見られます。

歓楽谷:1998年10月にオープンした遊園地。中国の空想上の動物、麒麟をモデルにしたマスコットキャラクターが出迎えてくれます。北極探検、漂流河といった体験アトラクション、ショーや曲芸の催しがあります。

深セン博物館旧館:深?博物館の前身であった深?市博物館は1981年11月設立で、深南中路に位置し、?枝公園と隣接していますが、繁華街の中のオアシスのような静かなところとなっています。博物館旧館は1988年11月1日に開館され、現在、古代芸術博物館として、主に博物館の収蔵文物、自然標本及び民間収蔵文物等を展示しています。

18:10大劇院駅付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

11日9:00歩いて出発

地王大廈:南中路にある中国で一番高いビル。このビルの周辺や、駅前広場から北側の人民南路一帯、鉄道の西側などは、未だ発展し続ける深?をひしひしと感じます。

10:30メトロで香港に向かう。
13:30香港空港到達。
16:35香港空港キャセイパシフィック航空で出発
21:00関西国際空港到達。

今回の旅行、アジアの大国中国に足を運び、発展著しい深センの町を歩いて観光名所を巡り楽しみました。
各地で多くのビルの建設ラッシュが見受けられ、著しく進化している町に感動しました。

際立った観光名所はなく、日本で言うリトルワールド、リトルチャイナのようなテイマパークが存在し、外国人向けよりも中国本土の人々のための名所のような気がしました。外国人も少なく殆どが中国人でした。
企業が進出する町、その影響が工業発展が著しく思われます。地王大廈の69階展望台からの眺望が物語っています。

2泊3日の中国深セン巡り満喫しました。