飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十九弾:愛媛県お城城下町巡り観光
2016年10月29-30日


源平合戦で源頼朝に味方した河野氏が、伊予で一大勢力を築く、応仁の乱以降は、周防の大内氏、豊後の大友氏が接近し、毛利氏も 争乱に絡んでくるが、最終的には土佐の長宗我部元親によつて制圧された愛媛県に足を運び比較的マイナーなお城6箇所を訪れました。

29日14:20伊丹空港出発
15:10松山空港到達、レンタカーで宇和島に向かう。
17:00宇和島駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
30日7:00レンタカーで出発、お城巡り。

河後森城:築城年代は定かではない。 戦国末期の城主は河原淵教忠(渡辺)で土佐一条氏一族の東小路家から政忠の養子となった人物だが重臣芝氏に城を追われる。 芝氏は土佐を統一した長宗我部氏に通じ西園寺氏に敵対した。
豊臣秀吉による四国平定後は城番が置かれ、藤堂高虎が宇和島城を築城した際には河後森城の天守を月見矢倉に移築したと伝えられる。 慶長19年(1614年)伊達秀宗が宇和島に入部すると、付家老桑折氏が七千石をもって居城としたが、元和の一国一城令により廃城となったようである。

大森城:築城年代は定かではないが土居氏によって築かれた。 土居氏は紀伊国牟婁郡土居の鈴木党発祥と称しているが定かではない。 土居氏は西園寺十五将の一人に数えられる。
戦国時代の当主土居伊豆守清宗は天文15年(1546年)石城に籠って豊後の大友氏からの侵攻を防いだ。しかし、永禄3年(1560年)に再度大友氏の来攻を受け石城は落城して土居清宗・長子清定父子は自刃して果てた。
永禄5年(1562年)土佐国一条氏に人質となっていた土居式部大輔清良が大森城主としてこの地に戻った。清良は天正7年(1579年)長宗我部氏によって落城した岡本城の奪還に成功している。

吉田藩陣屋:明暦4年(1658年)伊達宗純によって築かれた。 宗純は初代宇和島城主伊達秀宗の五男で三万石を分地され吉田藩を立藩した。
石城のある御殿山の南麓の低湿地帯を埋め立てて築かれている。
現在は国安川沿いに石垣の一部、少し中に入った所に井戸が残っており御殿風の図書館がなんとなく当時をしのばせる。

黒瀬城:築城年代は定かではないが天文年間頃に西園寺実充によって築かれたと云われる。 西園寺氏ははじめ松葉城を本城としていたが豊後の大友氏や土佐の一条氏に備えるため、居城を移した。
天正12年(1584年)実充の跡を継いだ西園寺公広のとき長宗我部氏に降伏した。公広は豊臣秀吉による四国征伐の後に宇和地方の領主として大洲城へ入った戸田勝隆によって下城を命ぜられ、翌年謀殺された。

松葉城:築城年代は定かではないが西園寺氏によった築かれたと云われる。 西園寺氏は鎌倉時代中期に西園寺公経が宇和郡地頭職となり、南北朝時代に下向して松葉城を築き領国支配を行ったとこに始まるとされる。
築城当初は岩瀬城と呼ばれていたが、西園寺家の世継ぎの宴の際に、武将の杯の中に松の葉が落ちた。城主はこれをめでたいことだと喜び、松葉城と呼ばれるようになったと云われる。
西園寺氏は南予における最大の大名であったが、大洲の宇都宮氏、豊後の大友氏、土佐一条そして長宗我部氏などと争い、西園寺実充は天文年間(1532年~1555年)頃に黒瀬城を築いて居城を移した。

三滝城:築城年代は定かではない。 初代甲之森城主紀実定の時には七枝城の一つとして存在している。 2代紀実平によって本城を三滝城へ移すべく縄張りを行ったが病に倒れ、子実次によって永享年間(1429年~1441年)に築かれた。 戦国時代には西園寺氏に属し西園寺15将の一人に数えられたが、長宗我部氏によって攻められ落城した。 長宗我部氏による三滝城の攻撃は諸説あり定かではないが、そのうちの一つは天正9年(1581年)通安、天正11年(1583年)親安の時であったという。

17:00松山空港到達。
18:05松山空港出発
18:55伊丹空港到達。

今回の旅行、四国の愛媛県に足を運び、宇和島周辺の比較的マイナーなお城、6箇所を訪れ楽しみました。
お城は地味でしたが案内板がしっかりあり、今回は苦労せず見つけることができました。
愛媛のお城、あとは離島に位置するお城のみとなりました。次回訪れたいと思います。







 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十八弾:山梨県お城城下町巡り観光
2016年10月22-23日
 

南アルプスをはじめ、多くの山々が自然の障壁となり、他国と交戦することは珍しく、安定した時代が長く続いたが、武田氏滅亡後に起きた天正壬午の乱では、甲斐も大規模な戦闘の舞台となった山梨県に足を運び、比較的マイナーなお城9か所を巡りました。

22日13:40新大阪駅新幹線ひかりで出発
15:55新三島駅到達、レンタカーで甲府に向かう。
18:30甲府駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
23日7:30レンタカーで出発、お城巡り。

湯村山城:大永3年(1523年)武田信虎によって築かれた。 信虎は永正16年(1519年)石和から躑躅ヶ崎館に居城を移し、翌年詰の城として要害山城を築いたが、引続き湯村山城を築いた。

白山城:築城年代は定かではないが武田信義によって築かれたと云われる。 信義の武田信義館の要害城として築いたものだと云われる。
その後、この地は信義の子一条忠頼の遺領を継いで一条氏を名乗った信長の末裔である時光が青木氏を名乗り、さらに青木信種の次男信明が山寺氏を名乗って領地とした。
この山寺氏は武田氏滅亡後も徳川氏の家臣となって甲府城番を勤めたという。

新府城:天正9年(1580年)二月、武田勝頼は真田昌幸を普請奉行とし韮崎市にある七里岩と呼ぶ絶壁の上に築城を開始、同年九月にはほぼ完成し躑躅ヶ崎館を破棄して移った。
しかし、織田軍の進撃の前に在城わずか二ヵ月余りで、小山田信茂の進言により新府城に火をかけ、岩殿城を目指して退去した。

若神子城:築城年代は定かではない。 若神子城はこの古城と北の若神子北城(大城)、南の若神子南城らを総称した名称である。
武田氏の祖である新羅三郎義光あるいはその子源義清(武田義清)の居城であったとも伝えられるが定かではない。
天正10年(1582年)武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺の変に倒れると旧武田領は北条氏と徳川氏によって争われた。この天正壬午の乱で北条氏の軍勢は信濃佐久から大門峠を越えて諏訪へ出て、新府へ退いた徳川軍を追って若神子周辺に布陣、本陣は若神子城に置かれたという。

獅子吼城:築城年代は定かではない。元応2年(1320年)に信田小右衛門実正・小太郎実高父子が討死した記録が見性寺の寺記に残っている。
永正6年(1509年)小尾弥十郎が江草城を乗っ取った記録が「高白斎記」に記されている。 応永年間(1394年~1428年)には武田信満の三男江草兵庫助信泰の居城で、見性寺に位牌と木像が安置されている。
天正10年(1582年)本能寺の変の後、旧武田領を巡って北条氏と徳川氏が争った天正壬午の乱では、北条軍が獅子吼城を占拠したが、服部半蔵率いる伊賀組と小尾衆など周囲の国人の夜襲によって落城した。

旭山砦:天正10年(1582年)北条氏によって築かれたと云われる。 武田氏の時代に烽火台があったとも伝えられるが、現在の遺構は武田氏滅亡後、その所領を徳川氏と北条氏が争った天正壬午の乱のときに北条氏が築いた陣城である。
北条氏は佐久から甲斐へ侵攻して若神子城を修築して本陣を構え、新府城に入った徳川氏の軍勢と対峙した。しかし、徳川氏の依田玄蕃が佐久で北条氏の兵道を断ったことから、信濃から撤退している。

深草城:詳細不明。「甲斐国志」によれば城主は堀内下総守とされ、元亀・天正年間(1570年~1572年)頃の武田家臣とされ、その子主税助の時に落城したという。

谷戸城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に逸見清光によって築かれたと云われる。 清光は常陸国から大治5年(1130年)甲斐国巨摩郡市河荘に配流となり、逸見(へみ)に住んで逸見氏を名乗った。後に甲斐源氏武田氏となる系統はこの清光の次男で武田信義館に住んだ信清の系統である。
天正10年(1582年)武田勝頼が天目山で自刃して武田氏が滅亡すると、織田氏の勢力下となったが、織田信長が本能寺の変に倒れたことにより、徳川氏と北条氏が甲斐に侵攻して草苅り場となる。この天正壬午の乱で谷戸城は北条氏方の城となり、この北条氏によって城が改修されたとされる。

真篠城:詳細不明。『南巨摩郡誌』に原大隅守、後に真篠勇太夫が城主であったと伝えるが、何れの人物も不詳である。

17:00新三島駅到達
17:48新三島駅新幹線ひかりで出発
20:03新大阪駅到達。

今回の旅行、富士山をはじめ自然いっぱいの山梨県に足を運び、比較的マイナーなお城9箇所を訪れました。
自然の観光名所は多いが文化遺産は地味で今回も案内板が整備されておらず見つけるのが苦労いたしました。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十七弾:群馬県お城城下町巡り観光
2016年10月15-16日
 

源義重を祖とする新田氏が、上野国で勢力を持つが、やがて南朝方として敗戦にまみれ、南北朝の内乱が収束しても、各地で戦いが発生し、幕府は関東管領として上杉氏憲を立てたが、混乱の時代が長く続いた群馬県に足を運び比較的マイナーなお城11か所を訪れました。

15日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:23 東京駅到達
16:40東京駅新幹線Maxときで出発
17:30高崎駅到達、駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
16日8:00レンタカーで出発、お城巡り

高崎城:高崎城の前身は和田城で正長元年(1428年)和田義信によって築かれた。 和田氏は関東管領上杉氏に従って永享の乱に従軍した。
戦国時代には上杉政虎、後に武田信玄に属し、長篠合戦にも従軍したが武田氏滅亡後は小田原北条氏に属した。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で和田信業は小田原城に籠城したが、この時和田城も落城、小田原城も開城となり、信業は紀伊国へ逃れたと云う。
高崎城は慶長3年(1599年)和田城跡に新たに井伊直政によって築かれた。 小田原の役の後に関東に入部した徳川家康は、はじめ井伊直政を箕輪城に置いたが、後に和田城跡に新たに縄張した新城を築かせた。 直政はここを高崎と命名するが慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後に近江国佐和山に転封となった。
以後目まぐるしく城主が入れ替わる。
・慶長5年(1600年)井伊直政は近江国佐和山に転封。
・慶長9年(1604年)下総国臼井より酒井家次が五万石で入封、元和2年(1616年)忠勝の時、越後国高田に転封。
・元和2年(1616年)常陸国笠間より(戸田)松平康長が二万石で入封、元和3年(1617年)信濃国松本に転封。
・元和3年(1617年)常陸国土浦より(藤井)松平信吉が五万石で入封、元和5年(1619年)丹波国篠山に転封。
・元和5年(1619年)下総国小見川より安藤重信が五万六千五百石で入封、元禄8年(1695年)重治の時、備中国松山へ転封。
・元禄8年(1695年)下野国壬生より(大河内)松平輝貞が五万二千石で入封、宝永7年(1710年)(大河内)越後国村上に転封。
・宝永7年(1710年)相模国より間部詮房が五万石で入封、享保2年(1717年)詮言の時、越後国村上へ転封。
・享保2年(1717年)越後国村上より(大河内)松平輝貞が七万二千石で入封、以後明治に至る。

倉賀野城:築城年代は定かではないが応永年間(1400年)頃に倉賀野頼行によって築かれたと云われる。 倉賀野氏は武蔵児玉党の一派で、関東管領上杉憲政に従っていたが、城主倉賀野行政が川越付近の戦で討死した。 その子尚行は永禄3年(1560年)上杉政虎の関東進出に従い、翌永禄4年には上杉政虎に従い相模国小田原城に侵攻した。この後、反撃に出た小田原北条氏は、武田氏とともに倉賀野城に攻め寄せたが、これを撃退した。
永禄6年(1563年)上野国に侵攻した武田氏は、木部城を落とし倉賀野城に攻め寄せたがこれも撃退する。
しかし、永禄8年(1565年)に武田氏の攻撃で落城し尚行は上杉謙信を頼って逃れた。 落城に先立って永禄2年(1559年)頃、武田氏に降っていた倉賀野十六騎の一人、金井秀景が元亀元年(1570年)城主となり、倉賀野氏を称した。 秀景は後に小田原北条氏に属し、小田原の役では小田原城に籠城し、降伏開城後に死去した。

平井城:永享10年(1438年)上杉憲実によって築かれたと云われる。 憲実は関東管領山内上杉氏五代当主である。
上杉憲実は室町将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏との確執が生じていく中、平井城と金山城は総社城主長尾忠房に命じて密かに築城させていたものだという。永享の乱(1438年)で足利持氏は上杉憲実を討つ為、一色直兼・時家三千騎を派遣し自身も五千騎を率いて武蔵国高安寺に馬を進めた。 憲実は密かに鎌倉を脱し平井城へ逃がれ、室町幕府に急使を派遣して援軍を要請した。 急使を受けた将軍足利義教は上杉持房を将として今川・朝倉・小笠原・山名などに憲実の救援を命じ、越後国からも上杉教朝が三千五百騎の援軍が到着した。 幕府軍は早川尻で持氏方を敗り、持氏は鎌倉へ戻ろうとしたが叶わず幕府軍に降り相模国の弥名寺で剃髪し、上杉憲実は幕府に持氏の助命嘆願行ったが叶わず、持氏は永安寺で自刃した。
享徳3年(1454年)鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺すると、上杉房顕は平井城へ移り、以後関東管領山内上杉氏の本城となった。
天文年間(1532年~1555年)山内上杉氏は小田原北条氏と度々戦ったが、天文20年(1551年)上杉憲政は平井城を捨てて越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びた。その後、北条幻庵が平井城主となったが天文21年(1552年)長尾景虎の送った軍勢により攻め落とされ、平井城は破却された。

根小屋城:永禄13年(1570年)武田信玄によって築かれた。 箕輪城を攻略し西上野を手に入れた信玄は、山名城と鷹ノ巣城との間に新城を築き、信濃国から信頼のできる武将望月甚八郎・伴野助十郎を城主として、配下に治めた上野の諸将を見張らせた。

国峯城:築城年代は定かではないが小幡氏によって築かれたと云われる。 小幡氏は児玉党の一族で関東管領山内上杉氏に属しており、小幡憲重は箕輪城主長野業政の娘(妹とも)を室に迎えていた。
天文20年(1551年)関東管領上杉憲政が越後の長尾景虎を頼って越後へ落ちると、上杉氏に属していた諸豪族は越後の長尾氏、小田原の北条氏、甲斐の武田氏に別れ、小幡憲重・重定父子は天文22年(1533年)甲斐の武田氏に属した。これに対して長尾氏方へ付いた長野業政は留守中の国峯城を奪って一族の小幡景定を城主とした。
永禄3年(1560年)武田信玄は小幡氏に信濃国大日向で五千貫を与え市川馬之助兄弟などの南牧地衆を付けた。永禄4年(1561年)信玄は西上野に侵攻して国峯城を奪い返し、小幡氏を城主に復帰させた。
天正3年(1575年)長篠の合戦では小幡信真は赤備えの騎馬武者五百騎を率いて従軍している。この信真は小幡重定で、はじめ重定、武田晴信に仕えて信実、勝頼の代で重定、武田氏滅亡後に滝川一益に従って信貞、北条氏に従って信定と名乗りを改めている。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、小幡信定父子は家臣庭谷左衛門大夫に庭谷城と国峯城の守備を命じて小田原城に詰めたが、国峯城は上杉景勝の武将藤田信吉によって攻められ落城した。

松井田城:築城年代は定かではない。永禄年間(1558年~1570年)初期に安中忠政によって築かれたと云われるが、それ以前に築城されていたという。安中忠政は甲斐の武田信玄に備えて松井田城を改修し、嫡子忠成を安中城へ置いて自身は松井田城に籠った。永禄2年(1559年)頃より武田信玄が西上野に侵攻し、度々松井田城を巡った争いがあったが落城しなかった。しかし永禄7年(1564年)安中城主の嫡子忠成は武田氏に降伏し、父忠政はそれでも松井田城に籠って防戦したが力尽きて開城した。 父忠政は自刃または切腹を申し渡されたが、嫡子忠成は所領を安堵され安中城主となり、松井田城は武田氏家臣市川国貞が城代となった。武田氏が滅亡すると織田信長の家臣滝川一益の所領となるが、織田信長が本能寺の変で没すると一益は伊勢へ逃れ、松井田城は北条氏重臣大道寺政繁が城主となる。 この大道寺氏時代天正15年頃に城は拡張され現在の縄張へとなったという。天正18年(1590年)豊臣秀吉による北条征伐では、前田利家率いる北陸勢によって攻められ、4月22日に政繁は降伏開城した。

安中城:永禄2年(1559年)安中忠政によって築かれたと云われる。 弘治年間頃より西上野に侵攻してきた武田信玄に備えるため、忠政は安中城を築いて嫡子忠成を置き、自身は松井田城を改修して籠った。
永禄2年(1559年)頃より武田信玄が西上野に侵攻し、永禄7年(1564年)安中城主の嫡子忠成は武田氏に降伏し、父忠政はそれでも松井田城に籠って防戦したが力尽きて開城した。 父忠政は自刃または切腹を申し渡されたが、嫡子忠成は所領を安堵され安中城主となった。
忠成改め安中景繁は天正3年(1575年)長篠の合戦に従軍し、景繁以下尽く討死して安中へ帰るものはなく廃城となって荒廃した。
慶長19年(1614年)井伊直勝が安中三万石を領して安中城を再築城した。直勝は井伊直政の長男で、彦根藩二代藩主となるはずであったが、病弱を理由に弟直孝が彦根藩を継ぎ、安中三万石を分与されて立藩した。
築城当初は陣屋程度の規模で、元禄15年(1702年)に内藤政森が入封し城主格が認められ城として改修している。

前橋城:天文3年(1534年)頃、長野賢忠によって築かれた。 天文3年(1534年)石倉城が利根川の氾濫によって崩れ去り残った三の丸を中心に築城したのが厩橋城の始まりと云われる。
永禄3年(1560年)上杉政虎(後の謙信)が越後から進出し厩橋城を関東進出の足掛かりとして関東管領の権限で兵を動員し北条氏の小田原城を攻めたが落城せず帰国した。
永禄5年上杉輝虎(政虎改め)は北条高広を城主として置いたが永禄9年箕輪城が武田信玄によって攻略されると高広は小田原北条氏に内通する。 武田信玄が駿河今川氏を攻めると上杉氏と北条氏は同盟を結び高広は許されて上杉氏に復帰した。
織田信長によって武田氏が滅亡すると関東管領に任ぜられた滝川一益が入城するが本能寺の変で信長が倒れると伊勢に戻った。
小田原の役の後は三万石で平岩親吉、続いて慶長6年酒井重忠が十五万石で入城、寛延2年(1749年)酒井忠恭が播磨国姫路に転封となり替わって松平朝矩が入封する。
明和5年(1768年)利根川の浸食によって前橋城は廃城となり川越城に移った。
文久3年(1863年)再び前橋城が築城され松平直克が入封して明治に至る。

大胡城:築城年代は定かではないが天文年間(1532年~1555年)大胡氏によって築かれたと云われる。 大胡氏は藤原秀郷の末裔といわれる。
天文10年(1541年)頃、金山城横瀬氏の勢力により圧迫され、大胡勝行は小田原北条氏を頼って武蔵国江戸の牛込に移り、弘治元年(1555年)牛込氏に改称した。
その後、金山城由良成繁の家臣増田繁政が城代を勤めたが、由良氏は後に上杉輝虎に叛き、輝虎は大胡城を奪って北条高広を置いて金山城を攻めた。
小田原の役の後、関東に入部した徳川家康は、牧野康成を三河国牛久保より二万石で入部させた。牧野氏は元和2年(1616年)五万石で越後国長峯に移封となり、大胡は前橋酒井氏の領地となり城代が置かれた。 しかし、寛延2年(1749年)酒井氏が播磨国姫路に転封となり廃城となった。

山上城:築城年代は定かではないが大永年間(1521年~1528年)に山上氏によって築かれたと云われる。 山上氏は藤原秀郷の後裔とする藤姓足利氏の一族で、足利俊綱の弟高綱が山上氏を称したことに始まる。山上道及のとき北条氏康によって山上城を追われて下野へ下り、山上城は北条氏の手に落ちたが、後に上杉謙信によって攻め落とされた。その後、大胡民部左衛門、木戸大炊頭などが置かれた。

桐生城:観応元年(1350年)桐生国綱によって築かれたと云われる。 桐生氏は「吾妻鏡」で足利俊綱を殺害した桐生六郎の名が知られる。桐生国綱は桐生氏中興の祖と云われ佐野氏から養子に入った人物である。
桐生氏は桐生助綱のときに全盛を迎える。天文13年(1544年)菱の細川内膳、善因幡守を敗って勢力を拡大し、永禄3年(1560年)には上杉政虎に奉じられて関東入りした上杉憲政の警固をしている。
助綱没すると、佐野氏から養子に迎えていた親綱が家督を継いだ。桐生親綱は家中をまとめることができず内紛状態となり、諫言した里見上総入道を討つなど家臣の離反を招いた。 元亀3年(1572年)由良成繁の軍勢が桐生城を急襲し落城、親綱は佐野氏を頼って落ちた。
由良成繁は桐生城代として横瀬長繁を置き、天正2年(1573年)由良成繁は隠居して金山城を国繁に譲ると、自身は桐生城を居城とした。天正6年(1577年)由良成繁が没すると、桐生親綱が桐生城の奪還を計ったが失敗している。
天正14年(1586年)由良国繁が金山城を追われると桐生城に本拠を移した。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で国繁は小田原城に籠城させられたが、母妙印尼は嫡男貞繁を率いて松井田城の前田利家に従い各地を転戦した。この功によって戦後、由良国繁は常陸国牛久五千四百石余り、弟渡瀬繁詮は遠江国横須賀三万石が与えられた。
説明

18:22高崎駅新幹線はくたかで出発
19:12東京駅到達
19:20東京駅新幹線のぞみで出発
21:53新大阪駅到達 

今回の旅行、関東地方の群馬県に足を運び、比較的マイナーなお城11箇所を訪れ楽しみました。
案内板もわかりにくく、見つけるのが一苦労、県が史跡に力をいれているところでは比較的案内板がわかりやすく、スムーズに訪れることができますが、都道府県によってはまちまちでわかりやすい都道府県、わかりにくい都道府県がはっきりしています。
観光に力を入れてる都道府県は城跡も案内板がしっかりしていてわかりやすくたどり着くのが容易いです。






















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十六弾:韓国慶州観光
2016年10月8-10日
  

近場の外国韓国に足を運び、三国時代の新羅の古都で1000年も栄え、町の至る所に古墳に出会い、屋根のない博物館と呼ばれる慶州を訪れました。

8日19:15関西空港大韓航空で出発
20:40釜山金海国際空港到達、地下鉄で西面に向かう。
21:20西面駅付近のホテル到着後就寝。
9日7:00出発、地下鉄で老圃下車。
9:30釜山総合バスターミナルから出発
10:30慶州バスターミナル到達、慶州市内散策。

金庾信将軍墓:新羅時代第27代の善徳女王から第30代の文武王まで歴代の王に仕え、三国統一に生涯を挙げた新羅の英雄、金庾信(キム・ユシン/AD595~673年)将軍の陵墓。
将軍は百済や高句麗との戦いで活躍し、司令官として新羅による全国統一に尽力したといわれます。
墓は美しい円墳で、どんな王陵にも引けを取らない立派なもの。雄壮で封墳の基部には屏風のように板石を護石として設置しており、円墳の周りを囲む護石には武器を持った十二支神像が刻まれています


太宗武烈王陵:太宗武烈王陵(新羅第29代、AD654~661年)の古墳。慶州市の西南、仙桃山の麓に位置し、大きな土盛りと柔らかな稜線の円形墳と亀の形をした石碑の土台が残っています。
太宗武烈王(金春秋・キムチュンチュ)は、金庾信(
キム・ユシン)将軍とともに三国統一の基礎を作った英雄であり、新羅黄金期を開いた名君として知られています。王位に就く前は日本・唐・高句麗などを歴訪し、巧みな外交手腕を発揮しました。
王陵の規模は円周114m、高さ8.7mで、比較的大きい方であり、陵の下は自然石で築き上げ、ところどころに大きい石で支えましたが、現在は土の中に埋められています。


大陵苑:慶州の皇南洞にある大陵苑は古墳群の中で最も大きい規模です。正式名は大陵苑といい、およそ12万5,400坪の敷地に23基の古墳が保存されています。
昔、園内には180余棟の民家が住んでいましたが1970年代浄化作業後、いまのようにきれいに整備されました。被葬者がわかっているのは新羅第13代味
鄒王陵(在位262年~284年)の古墳だけ。古墳はどれも大きく、新羅時代の王様もしくは王族の古墳と見られています。夫婦で合葬された双子山型の古墳もあります。古墳の周囲は青々とした松林

瞻星台:新羅時代天文を観測した瞻星台は東洋最高の天文台で、新羅善徳女王(西暦632~647年)に築造されました。瞻星台は、陰暦の数と同じ361.5個の花崗岩を材料にして積み上げ、基壇は12個の長方形、真ん中の窓へりから上と下の石段をそれぞれ12層で組み上げた巧妙な造り。
瞻星台の頂上の井型の石の囲い部分は、新羅の子午線の標準となって各面はちょうど東西南北の方位を示します。又、真ん中の窓は真南に向いてあり、春分と秋分の時には日の光が瞻星台の底辺まで照り、夏至と冬至の時には瞻星台の下の部分から日の光が完全に消えて、春夏秋冬を分ける区分点の役割をしました。


雁鴨池:雁鴨池は、新羅の文武大王が三国統一を達成した後、宮城内に造成した池であります。新羅の宮廷である半月城の東に位置し、当時は月池と呼ばれましたが朝鮮時代以降雁鴨池と呼ばれました。
半月城から歩いて5分の距離にある雁鴨地は、統一新羅時代の王族たちの宴会、会議場及び貴賓の接待場所として使われた所です。王子が住む東宮としても知られており、文武王19年に宮廷を非常に華麗に創建されました。
雁鴨池は哀荘王、文聖王、景文王の時に臨海殿を改築され、3個の島と12個の峰を造って珍しい動物を飼い、美しい花と木を植えた新羅原地の代表的なものです。
池には舟を浮かべて風流を楽しんだと言われています。

国立慶州博物館:新羅千年の都である慶州にある国立慶州博物館は、新羅の文化遺産を一目で見ることができる韓国を代表する博物館であります。1945年に国立博物館として開館し、1975年に現在の位置に移転した国立慶州博物館は、先史時代から朝鮮時代に到る遺物21万点あまりを所蔵してあり、その中で3000点あまりを展示しています。

善徳女王陵:この陵は新羅第27代王である善徳女王(在位:632~647年、金徳曼)が祀られた場所であります。慶州市東南側にあるナンサン(狼山)の南側稜線の中腹に位置しています。
全周74mの円墳で、高さ6.8m、直径24mになるこの陵の外形は土を丸く積み上げた形態をなし、下部には陵を保護するために2~3段からなる自然石の石築があります。他の陵に比べて規模が小さくなっています。

芬皇寺:芬皇寺は善徳女王3年(634年)に創建された統一新羅四大寺の一つで、偉大な高僧元暁と慈蔵が経ったお寺としても有名です。
今は小さな法堂と井戸、石塔が残っているだけです。
慈蔵が中国の唐から持ち帰った大蔵経の一部や重さ180トンの薬師如来仏があったと伝えられるが、後世の仏教弾圧の影響などで今は跡形もないのです。

16:00慶州バスターミナル出発
17:00釜山総合バスターミナル到達
17:15地下鉄老圃出発
17:50西面到達、ホテル到達後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
10日7:00出発、地下鉄で釜山駅下車。
7:30釜山駅高速鉄道で出発
7:57新慶州駅到達、タクシーで仏国寺方面に向かう。
8:50石窟庵到達、散策

石窟庵:新羅千年の歴史と息遣いがこもた石窟庵は、統一新羅の文化と科学、宗教的な情熱の結晶体であり、国宝の中でも最上なものとして見なされる文化財です。
石窟庵は、吐含山の麓に位置して、仏国寺から山頂に車で約7.5km向かう途中にあります。新羅の景徳王10年(751年)、仏国寺の創建と同様、宰相金大成によって石仏寺という名前で創建されますが、彼が亡くなった後、国が工事を引き受けて完成させたものです。


10:00シャトルバスで仏国寺に向かう。
10:15仏国寺散策
仏国寺:慶州の吐含山の麓にある仏国寺は石窟庵と共に、護国の念願を達するために新羅第35代景徳王10年(751年)、当時宰相である金大成によって設計、創建されたお寺です。
世界文化遺産に指定されている仏国寺は、現在もスケールの大きな寺院ですが、最盛期の8世紀には総2000間の60余棟の木造建物に成り立った壮大なスケールを誇っていたといいます。


11:00タクシーで慶州に向かう。
11:30慶州到達、昼食
13:00慶州バスターミナルから出発
14:00釜山金海国際空港到達
16:55釜山金海国際空港出発
18:15関西空港到達。

今回の旅行、近場の外国、韓国に足を運び、三国時代の新羅の古都慶州を訪れ、数多く点在する円墳の町中を散策し楽しみました。
2日目はタクシー、バスを利用して郊外に位置する世界遺産仏国寺、石窟庵を巡りました。

2泊3日の慶州の旅、比較的派手さはなく地味ですが点在する多くの古墳の町、散策して巡り満喫しました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十五弾:新潟県越後八十八箇所霊場巡り観光第二弾
2016年10月1-2日
 

日本海に沿って東西細長く位置する新潟県に足を運び、越後八十八箇所霊場巡り第二弾、三条を中心とした菩提の道場第40番ー65番までの霊場26か所を巡りました。

1日17:40伊丹空港出発
18:45新潟空港到達、レンタカーで三条に向かう。
19:30三条駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
2日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

越後八十八ヶ所霊場めぐりは四国八十八ヶ所霊場の写し霊場として作られたそうです。歴史は「越後三十三ヶ所観音霊場」から比べるとずいぶんと新しいようです。弘法大師ゆかりの霊地をめぐるので宗派は真言宗となってます。本尊は「観音菩薩」から「大日如来」に「地蔵菩薩」、さらには「聖徳太子」と様々です。

泉薬寺:

安養寺:

乗福寺:

海蔵院:

如法寺:

本都寺:

宝積院:

妙圓寺:

華蔵院:

遍照院:

阿弥陀院:

妙楽院:

宝光院:

慈眼寺:

不動院:

総持寺:

西福寺:

延命寺:

徳聖寺:

圓福寺:

寛益寺:

法華寺:

根立寺:

正円寺:

普談寺:

福隆寺:

16:30終了。
17:00新潟空港到達。
19:15新潟空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、日本海沿いの新潟県に足を運び、越後八十八箇所巡り第二弾菩提の道場第40番ー65番までの26か所の霊場を巡りました。
のどかな田園風景を望みながらのドライブ霊場巡り満喫しました。