飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十三弾:兵庫県お城巡り観光
2016年11月26−27日


摂津、但馬、丹波、播磨、淡路と、広大なエリアに多数の国を擁し、山名氏と赤松氏が勢力を誇っていたが、羽柴秀吉の前に屈し、国宝で世界遺産の姫路城は、城郭史において極めて重要な存在である兵庫県に足を運び、比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

26日17:00車で出発、阪神中国山陽自動車道経由して赤穂インター下車。
19:30赤穂駅付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
27日7:30車で出発。お城巡り。

白旗城:築城年代は定かではないが元弘3年(1333年)頃に赤松円心則村によって築かれたと云われる。
建武2年(1335年)新田義貞が大軍を率いて白旗城を包囲したが、50日あまりの籠城を耐え抜き落城しなかった。しかし、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱では山名軍によって落城、赤松氏は城山城で一時滅亡した。

上月城:
築城年代は定かではないが、鎌倉時代末期に上月景盛が大平山に上月城を築いたのが始まりとされる。上月氏は赤松氏の庶流で四代続いたが、嘉吉の乱によって滅亡した。天正5年(1577年)織田信長の部将羽柴秀吉が福原城を攻略して上月城を攻めた。上月城は赤松政範が籠もり宇喜多直家が救援に駆けつけたが、高倉山に本陣を構えていた羽柴秀吉によって上月城は落城し、政範は自刃して果てた。尼子勝久を担いで尼子家再興を願う山中鹿之介は織田信長に与し、この上月城を守ったが、天正6年(1578年)毛利の大軍によって落城し、尼子勝久は自刃、山中鹿之介は捕らえられて毛利の本陣へ護送される途中に討たれた。

利神城:貞和5年・正平4年(1349年)別所敦範によって築かれたのが始まりである。 別所氏は嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱により赤松氏とともに滅亡したが応仁元年(1467年)別所治定が再興して城主となった。 しかし、天正6年(1578年)上月城の山中鹿之助によって攻められ落城した。
関ヶ原合戦後は播磨国を領した池田輝政の甥にあたる池田由之が城主となり佐用三万石を領した。 完成した城の威容を見た輝政は慶長12年(1607年)三層の天守の破却を命じ由之を退去させ長政を城主としたが期間は3年程であった。
佐用郡は続いて輝政の妻である良正院尼公(徳川家康の女)に化粧領として与えられ4年後には実子である輝興に城主を譲った。
寛永8年(1631年)輝興は赤穂に転封となり廃城となった。
城は山頂に"へ"の字のような形で石垣で固めた曲輪を配しているが、中央に三層の天守をあげた本丸を配し南に二之丸と馬場、西に三の丸を配している。
一般的には南から尾根伝いに登ることになるが尾根まで登るとすぐに幅2m程の道の両側を石垣で固め石段のある番所跡のような所がある。そこから尾根を進むと石垣で固めた空堀に木橋が掛けられ続いて天王社が祭られた横穴が現れる。 それを越えると三の丸まで何もないが三の丸手前の山上にたどり着いたときには山頂に見える崩れかけた石垣の異様な光景に暫し座り込んで見入っていた。

置塩城:文明元年(1469年)赤松政則によって築かれた。 赤松氏は嘉吉の乱によって一時没落していたが、南朝方から神璽を取り戻した功によって、政則の家督相続が認められ加賀半国の守護として復興した。
その後政則は、応仁の乱で細川勝元の命で播磨へ攻め込み、旧領の回復に努め、代々の居城であった白旗城から置塩城へ居城を移した。
天正5年(1577年)赤松則房は羽柴秀吉の播磨平定に従って、天正13年(1585年)の四国征伐に功があり、阿波国住吉に一万石の所領を得て阿波国住吉城に移り置塩城は廃城となった。
羽柴秀吉が姫路城を改修した際に、置塩城の用材を姫路城に転用したといわれる。

八木城:築城年代は定かではない。 八木城は石垣造りの石城と土塁造りの土城があり通常八木城とは石城を指す。
城主八木氏は「山名四天王」のひとりに数えられたが山名氏の勢力が衰えるとしだいに毛利氏に近付くが天正5年(1577年)と天正8年(1580年)の2度にわたる羽柴軍の但馬攻めによって15代八木豊信は降伏する。
降伏した豊信は天正8年(1580年)の羽柴秀吉による鳥取城攻めに従って因幡国若桜鬼ケ城の守備を命ぜられたが毛利氏の攻撃によって落城、豊信は後に日向国佐土原城主の島津家久に仕えた。
天正13年(1585年)別所重棟が一万二千石で入封するが子吉治は関ヶ原合戦で西軍に属した為に改易となった。

此隅山城:築城年代は定かではないが文中年間(1372年〜1374年)に山名時義によって築かれたと云われる。山名氏はその全盛期において11ヶ国(山城・和泉・紀伊・丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・美作・隠岐・出雲)の守護を勤め「六分の一殿」と呼ばれる程の一大勢力を誇った。
応仁の乱では山名持豊(出家して宗全)は西軍の総大将として東軍の細川勝元と対峙した。しかし、戦国時代になるにつれ山名氏の守護としての地位は落ち、永禄12年(1569年)羽柴秀吉によって攻められ此隅山城は落城し、城主の山名祐豊は但馬から堺へ逃れた。その後、堺商人の力を借りて但馬に復帰し、天正2年(1574年)に有子山城を築いて居城とした。 このとき、此隅山城の別名子盗を嫌い有子と名付けたと云われる。

有子山城:天正2年(1574年)山名祐豊によって築かれた。 永禄12年(1569年)羽柴秀吉によってそれまでの居城であった此隅山城が落城し、山名祐豊は但馬から堺へ逃れた。その後、堺商人の力を借りて但馬に復帰し、天正2年(1574年)に有子山城を築いて居城とした。 このとき、此隅山城の別名子盗を嫌い有子と名付けたと云われる。
但馬へ復帰した山名祐豊であったが、天正8年(1580年)再び織田軍の羽柴秀長によって攻められ有子山城は戦うことなく開城、城主山名氏政は城を脱して因幡へ逃れ、城内に残った山名祐豊は五日後に病死したと云われる。
天正13年(1585年)前野長康が五万石で入封したが、関白豊臣秀次の処刑に連座して殺された。文禄4年(1595年)播磨国龍野から小出吉政が五万三千石で入封、慶長9年(1604年)小出吉英が山麓に出石城を築いて居城とし、山頂の有子山城は廃城となった。

黒井城:築城年代は定かではないが建武年間(1334年〜1338年)に赤松貞範によって築かれたと云われる。 箱根竹ノ下の戦功によって足利尊氏より春日部荘を得た赤松貞範が築いたとされる。
その後、荻野氏の居城となり、荻野和泉守・荻野伊予守と替わった。荻野氏時代の大手口は東方面とされ、荻野伊予守秋清は留堀城を館城としていたといわれる。
天文11年(1542年)後屋城主赤井時家の次男才丸は朝日城の荻野一族に請われて荻野氏を継ぎ、朝日城主となった。これが丹波の赤鬼と称された荻野(赤井)直正で、天文23年(1554年)叔父の黒井城主荻野秋清を留堀城で殺害し黒井城主となった。
荻野直正は兄の後屋城主赤井家清が亡くなると、その子忠家の後見人として赤井家を取り込み、丹波国のみならず但馬国へも侵攻して勢力を広げ、八上城波多野氏とともに西丹波を支配した。
天正4年(1576年)織田信長の部将明智光秀が丹波攻略を命じられ黒井城を包囲したが、この時は八上城波多野秀治が背反して光秀は近江国坂本へ引き上げた。 天正6年(1578年)荻野直正が病没すると、その子正置(直義)は幼少の為、三尾城主赤井幸家が後見人となった。しかし、天正7年(1579年)明智光秀は八上城を落とし、さらに氷上郡の諸城を落として黒井城を孤立させ、8月9日攻め落とした。
黒井城を攻め落とした光秀は斎藤利三を城主とした。利三は南麓(現興禅寺)に館を構え、ここで春日局が誕生したといわれる。明智光秀が山崎合戦で羽柴秀吉に敗れると、黒井城主として堀尾吉晴が入部するが、天正13年(1585年)堀尾吉晴は近江国佐和山へ転封となり廃城となった。

岩尾城:永正13年(1516年)和田斉頼によって築かれたと云われる。 和田氏は文明3年(1471年)谷基綱が地頭として信濃国南和田より入部(一説にそれより三代前の谷頼綱が至徳年間(1384年〜1387年)に入部した説もあり)したのが始まりとされる。 基綱の子頼衡は一族の斉頼を婿として迎えたが、斉頼は養父頼衡を殺害して和田日向守と名乗り、近隣を侵略して井原荘を和田荘と改名したという。斉頼は天文13年(1548年)病没し、師李が城主となったが、天正7年(1579年)丹波へ侵攻した明智光秀に攻められ落城した。天正14年(1586年)近江国木戸より佐野栄有が三千七百五十石で入封すると、岩尾城を近世城郭へと改修した。文禄4年(1595年)佐野栄有は近江国木戸へと移り、その後は前田玄以の属城となって慶長2年(1597年)廃城となった。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、近場の兵庫県に足を運び、比較的マイナーなお城9か所を訪れ楽しみました。
比較的地味で目立った遺跡が少ないお城めぐりでした。
 











飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十二弾:知多四国八十八箇所巡り観光
2016年11月19−20日
愛知県知多半島に足を運び、弘法大師ゆかりの愛知県知多半島に開かれた知多四国八十八箇所霊場第二弾の41か所を訪れました。

19日17:00車で第二京阪京滋バイパス新名神高速道路経由して半田の駅付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 
20日7:30車で出発、知多四国霊場巡り。

密蔵院:

安養院:

大御堂寺:

野間大坊:

法山寺:

報恩寺:

曹源寺:

来応寺:

玉泉寺:

安楽寺:

高讃寺:

洞雲寺:

宝全寺:

大善院:

相持院:

中之坊寺:

三光院:

宝蔵寺:

慈光寺:

地蔵寺:

大智院:

慈雲寺:

浄蓮寺:

正法院:

誕生堂:

密厳寺:

正法院:

誕生堂:

密厳寺:

如意寺:

福生寺:

妙楽寺:

妙楽寺:

栖光院:

龍蔵寺:

観福寺:

弥勒寺:

観音寺:

清水寺:

玄猷寺:

地蔵寺:

円通寺:

長寿寺:

興生寺:

16:00終了帰路に向かう。

今回の旅行、愛知県知多半島に点在する知多四国八十八箇所霊場第二弾41か所を訪れ楽しみました。
知多半島の狭いエリアでの八十八箇所巡り、移動に時間がかからず多くの霊場を巡ることができました。
個々の霊場は立派なものが多く、ローカルな新四国にしては素晴らしかった。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十一弾:伊予大島八十八箇所&愛媛県お城巡り観光
2016年11月12−13日
 

開創二百年余りの歴史を有する島四国、のどかな瀬戸内の風景を心癒される伊予大島准四国霊場八十八箇所の16箇所と愛媛県のしまなみ海道に位置するお城三か所を訪れました。

12日17:25新大阪新幹線のぞみで出発
18:32福山駅到達、レンタカーで今治方面に向かう。
20:5今治港付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
13日7:00レンタカーで出発、伊予大島に向かう。
8:00伊予大島霊場巡り

牛頭山:
 
昌清庵:
  
櫛野辺堂:
  
万性寺:
 
道場庵:
  
霊仙寺:
 
金剛院:
 
遍照坊:
 
般若庵:
 
大来庵:
 
普光寺:

五光庵:
 
福寿庵:
 
供養堂:
 
紫雲庵:
 
知足庵:
 
蓮台庵:  

12:00しまなみ海道に位置する愛媛県のお城巡り。

甘崎城:天智天皇10年(671年)越智氏によって築かれたと云われ、最古の水軍城とされる。中世には村上水軍の水軍城として来島村上氏の部将村上吉継などが居た。慶長5年(1600年)今治に入封した藤堂高虎は弟の藤堂大輔を城主として城を改修、その死後は菅宇兵衛、桧垣五郎などが在城したという。慶長13年(1608年)藤堂高虎の伊勢国安濃津への転封により廃城となった。

能島城:応永26年(1419年)村上吉房によって築かれたと云われる。 村上吉房は村上義顕の三男で分家し築城した。
村上水軍三家のうち最も四国よりに拠点を構えた来島村上氏は主家河野氏の内紛に乗じて伊予本土にまで次第に勢力を拡大していく。 四代通康は河野通直が寵愛し後継者として指名した程であったが、これには河野家臣団の猛反発を喰らい反対派が来島を攻める第一次来島合戦が起こった。
天正10年(1582年)村上通総のとき、織田信長の部将羽柴秀吉の調略を受けて河野氏を離反し織田氏に付いた。河野氏は毛利氏とともに来島村上氏を攻め、通総は耐えきれずに来島城を脱して秀吉の元に逃れたが、鹿島城主で通総の兄である得居通幸は鹿島城を固く守って攻撃を退けた。
秀吉の元に逃れていた通総も羽柴氏と毛利氏が和睦したのち旧領に戻り、天正13年(1585年)秀吉による四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒を務めた。この功により風早郡一万四千石が来島通総に与えられ、通総は来島城を廃して鹿島城を居城とした。
慶長2年(1597年)来島通総は慶長の役で討死し、家督は次男の長親が継いだ。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で来島長親は西軍に属し、豊後国森一万四千石で転封となったが、三島村上氏で唯一江戸時代に大名となり、久留島氏と名を改め明治まで続いている。


来島城:応永26年(1419年)村上吉房によって築かれたと云われる。 村上吉房は村上義顕の三男で分家し築城した。
村上水軍三家のうち最も四国よりに拠点を構えた来島村上氏は主家河野氏の内紛に乗じて伊予本土にまで次第に勢力を拡大していく。 四代通康は河野通直が寵愛し後継者として指名した程であったが、これには河野家臣団の猛反発を喰らい反対派が来島を攻める第一次来島合戦が起こった。
天正10年(1582年)村上通総のとき、織田信長の部将羽柴秀吉の調略を受けて河野氏を離反し織田氏に付いた。河野氏は毛利氏とともに来島村上氏を攻め、通総は耐えきれずに来島城を脱して秀吉の元に逃れたが、鹿島城主で通総の兄である得居通幸は鹿島城を固く守って攻撃を退けた。
秀吉の元に逃れていた通総も羽柴氏と毛利氏が和睦したのち旧領に戻り、天正13年(1585年)秀吉による四国征伐では小早川隆景の指揮下で先鋒を務めた。この功により風早郡一万四千石が来島通総に与えられ、通総は来島城を廃して鹿島城を居城とした。
慶長2年(1597年)来島通総は慶長の役で討死し、家督は次男の長親が継いだ。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で来島長親は西軍に属し、豊後国森一万四千石で転封となったが、三島村上氏で唯一江戸時代に大名となり、久留島氏と名を改め明治まで続いている。

18:00福山駅到達。
18:59福山駅新幹線のぞみで出発。
20:01新大阪駅到達。

今回の旅行、愛媛県しまなみ海道に足を運び、伊予大島に点在する八十八箇所霊場の16箇所と3個のお城を訪れ楽しみました。

伊予大島の八十八箇所霊場は初心者にはもってこい、険しい場所にはなく、距離も短く、四国八十八箇所霊場を訪れる前の練習の霊場巡りです。

今回3回目で伊予大島八十八箇所すべてを巡ることができました。

昼からは愛媛県のしまなみ海道に点在するお城を巡り、こちらも愛媛県のお城全てを終了いたしました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十弾:東海三十六不動尊巡礼観光
2016年11月5−6日


日本各地には様々な霊場、史跡巡りがあり、東海地方にも不動明王信仰の三十六不動尊霊場があります。愛知・岐阜・三重に点在する東海三十六不動尊巡礼の22箇所を訪れました。

5日12:30車で出発、第二京阪京滋バイパス名神高速道路を経由して米原下車、霊場巡り。
18:30小牧インター付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

華厳寺:

圓鏡寺:

乙津寺:

6日7:00車で出発、反時計回りで霊場巡り

大聖寺:

寂光院:

長福寺:

大徳寺:

貞照寺:

地蔵寺:

満徳寺:

甚目寺:

護国院:

長久寺:

建中寺:

七寺:

宝生院:

萬福院:

福生院:

寶珠院:

興生寺:

大学院:

笠覆寺:

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、愛知・岐阜・三重に点在する東海三十六不動尊巡礼の22箇所を巡り楽しみました。
東京から西の霊場はどれも立派、今回もスケールの大きな霊場を巡ることができ堪能しました。
次回は残りの愛知の海沿い方面と三重に点在する東海三十六不動尊巡礼を巡る予定です。