飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十六弾:メキシコ観光
2016年12月28−2017年1月4日

東はカリブ海、西は太平洋に面し、国土は日本の約5倍、標高差や地質により気候や自然環境が多様で訪れる場所によってはまったく異なる印象を受け、弓状に伸びる広大な国土に歴史、文化、自然の魅力が詰まったメキシコを訪れました。
28日8:30伊丹空港出発
9:35羽田空港到達
10:35羽田空港シャトルバスで出発
11:45成田空港到達
15:25成田空港アエロメヒコ航空で出発
12:15(時差ー15時間)メキシコシティ到達

メキシコシティ:世界遺産を数多く擁する南米観光の人気都市、メキシコシティ。世界遺産の中でも広大な規模を持つテオティワカン遺跡には世界中から多くの遺跡好きが集まります。メキシコを発祥の地とするプロレス、ルチャリブレ観戦や、テオティワカン、アステカ、マヤ、3つの文明の発掘物が揃う国立人類学博物館も外せない観光名所。優れたアートも発達していて、独特なスタイルの女流画家フリーダ・カーロ、メキシコ人建築家「ルイス・バラガン」のゆかりの地としても有名です。

バスでメキシコ国立人類学博物館に向かう。
13:30メキシコ国立人類博物館到達見物。

メキシコ国立人類学博物館:
チャプルテペック公園の中に位置するメキシコ国立人類学博物館は、マヤ文明以前からスペイン侵略までの古代メキシコの芸術作品の数々が並び、その規模は世界一です。メキシコで最も訪れられている博物館としても有名です。地上階には古代メキシコの文化、そして2階には現在メキシコに住む先住民族の暮らしが展示されています。まず、博物館に入ると、右手に中央アメリカで繁栄した文化が時系列に並んでいます。その後、四角く囲まれた建物を反時計回りに進んでいくと、メキシコでどのように文明が発展していったのかを見てとることが出来ます。
展示室は23あり、それぞれ特定の地域や文化の展示がされています。メソアメリカ文化のテオティワカン、トルテカ、アステカ、ミステク、サポテカ、オルメカ、およびマヤ文明などがその例です。最も有名なアステカ・カレンダーの「太陽の石」は必見です。1400年後半ソカロの下に埋まっていたところを発見され、約3.6メートル、25トンの玄武スラブ岩です。こちらはオリジナルの作品で、とても貴重なものです。ぜひお忘れないようにしてください。その他の見どころは、8世紀のマヤ文明の墓の復元と完璧な保存された骨組み、テンプロ・マヨールのミニチュア模型、アステカ君主モクテスマ2世の羽が付いた頭飾りのレプリカや、オルメカ文明の巨頭像があります。

16:00バスで近くのホテルに向かう。
16:15ホテル到達、
周囲を散策。

独立記念塔:日本大使館やオフィスが並ぶレフォルマ通りにそびえ立つ塔があります。これはEl Angel(エル・アンヘル)と呼ばれる、「天使」の名を持つ独立記念塔です。
この塔は1810年に始まったメキシコ独立戦争の100周年を記念して1910年に建設されたものです。塔の高さは48mあり、アンヘルの部分だけでも6.7mあります。アンヘル像は、ギリシャの勝利の女神ニーケーをかたどったものです。この像は銅製で、24金で覆われており、重量にして7トンもあります。右手には勝利を象徴する月桂樹、左手には自由を表すちぎれた鎖を持っています。
塔の足元には、メキシコ独立革命の父であるイダルゴ神父の像のほか、メキシコ独立戦争の英雄であるモレーロス、ゲレーロ、ミナ、ブラーボの像が立っています。さらに四方には、「法」、「正義」、「戦争」、「平和」を示す黒い像が配置されています。
ちなみにこのレフォルマ通りや独立記念塔は、イベントやお祭り、抗議運動などが行われる際に、多くの人が集まることでも知られています。

18:30ホテルで夕食就寝。
29日8:00バスで出発プエブラに向かう。
10:30ブエブラ観光

ブエブラ:メキシコシティより東へ約100km(車で約2時間)ほどの観光都市、プエブラ州都プエブラ市。正式名称はエロイカ・プエブラ・デ・サラゴサ(Heroica de Puebla de Zaragoza)。1862年5月5日にイグナシオ・サラゴサ将軍が指揮したメキシコ軍が、プエブラでの会戦でフランス軍に打ち克ったことから、その名がつけられました(アメリカで毎年盛大に祝われる「シンコ・デ・マヨ」は、プエブラ戦勝日にちなんでいます)。人口約149万のメキシコで4番目に大きな都市で、プエブラ市中心部にある歴史地区のセントロ・イストリコ(Centro Historico)は1987年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。
16世紀のスペイン入植によって築かれ、カトリック教の繁栄や、メキシコシティとベラクルス港を結ぶ重要な中継点として発展してきたこの町。天使たちが生んだという伝説があり、プエブラ・デ・ロス・アンヘルス(Pueblas de Los Angeles=天使たちのプエブラ)と呼ばれ、市内のいたるところに天使の像やモチーフが散りばめられています。コロニアルな町並みには、特産の陶器、タラベラ焼きのタイルをふんだんに使い装飾された美しい建造物が多く見られます。プエブラは宮廷料理から発展したメキシコ料理の発祥地であり、グルメ好きなら避けては通れない場所でもあります。また、プエブラ市中心部から西へ8kmの町チョルーラは、5〜8世紀頃の世界最大級のピラミッドの上に教会が建てられた独特な場所で、古代文明とコロニアル文化の両方を堪能できます。

ブエブラ大聖堂:70m近い高さを誇る二つの鐘楼を持つのが、街の中心的建造物の一つであるカテドラル。天使の街の由来を持つカテドラルで、16世紀から17世紀にかけて建築されたものだ。外側は地味な石煉瓦造りだが、内部はまばゆいばかりの白と金。当時のキリスト教勢力の強大さを思い知らされる。

サント・ドミンゴ教会:教会の外装はえんじ色の壁と石煉瓦の組み合わせのシンプルなものだが、やはり贅沢を極めた教会であるのは、一歩中に入ればすぐにわかる。16世紀から17世紀に75年以上かけて建造された教会で、白に金箔をあしらった内装は豪華絢爛。内部にあるロサリオ礼拝堂が有名で、メキシコ・バロック様式の最高傑作といわれるだけあるきらびやかさを持っている。教会にも礼拝堂にも像が多いのが特徴的。幼子を抱いた聖母像は微笑ましいが、傷ついたキリスト像などは目を背けたくなるような写実感がある。

タラべラ焼き工房:陶器づくりに適した土が取れ、陶器づくりも行っていた歴史を持つところへ、スペインの陶器職人が移り住み、さらに質の良い陶器が作られるようになったという。多くの製造業者があるが、本物のタラベラ焼きを作れるのは認定業者だけ。購入する時には、そのあたりも要チェックだろう。白地に青が主だが、黄・赤・緑の華やかな絵付けをした陶器も多く出回っている。形は、カップ、皿、壺、そしてタイルなどさまざま。大きさもいろいろだ。

パリアン市場:プエブラ土産を買うなら、時間が余ったなら、食べ物や飲み物が欲しくなったなら、迷わず向かうのがエルパリアン市場。道沿いの商店だけでなく露天的な店もたくさん出ていて、見ているだけでも楽しい。また購入には値引きのためのやりとりが必須。市場内には観光用の工場があり、ロクロを足で回しながら手作業で陶器を作り、棚で乾燥させ、焼いて、絵付けをするという一連の作業を観察できる。

ソカロ広場:アステカ帝国時代神殿が立ち並んでいた重要な場所であり、現在もなおメキシコの政治的、宗教的な中心地。正式名は「憲法広場(PLAZA DE LA CONSTITUCION)」。毎朝夕に行われるフラッグセレモニーは観光の名物。

ポポカテペトル山:中米,メキシコ市南東約70kmの成層火山。標高5465m。万年雪を抱き山頂に直径約600mの火口がある。16-18世紀に活動したが,1927年の噴火後は活発な活動をしていなかったが再び噴火活動が繰り返されている。

ウェホツィンゴフランシスコの修道院:ポポカテペトル山腹の16世紀初頭の修道院群 そのひとつの「ウェホツィンゴフランシスコ会の修道院」を訪れました。先住民への布教を促すために、前庭で礼拝が行われたといいます。

バスでメキシコシティに向かう。
18:00ホテル到達。

マリアッチ音楽を聞きながらメキシコ料理、就寝。

マリアッチ音楽:メキシコ音楽の小編成の楽団。弦楽器のアンサンブルに金管楽器を加えた編成で,昔は婚礼の席や,野外パーティーなどで演奏していたが,のち一般化した。大小のギター類,バイオリン,マンドリン,コントラバス,トランペットなどによる7〜12人ぐらいの編成が多い。
メキシコ料理:、アステカ族の料理やマヤ族など先住民族の料理を母体とし、コンキスタドールのもたらしたスペイン料理の影響を受けて成立した料理で、土着の作物トウモロコシ、インゲンマメ、多様なトウガラシ(チレ)を用いた、辛味の効いた料理でよく知られている。

30日9:00バスで出発

三文化広場:トラテロルコ(TLATELOLCO)の広場にアステカ時代の神殿の遺構、植民地時代のサンティアゴ教会(IGLESIA DE SANTIAGO)、現代の高層ビルという3代に渡る建築様式が集まっている。

グアダルーペ聖堂:メキシコのカトリック総本山であるグアダルーペ寺院。褐色の聖母が祀られていることでも有名ですが、一番はバチカン公認のカトリックの三大奇跡が起こった場所として有名です。
その奇跡とは、1531年にこの地に教会を建てるように聖母からお告げを受けた先住民のディエゴ。ディエゴは司祭にそのことを話しますが、信じてもらえずにいました。そこに再び聖母が現れて、その季節に咲いていないバラを渡し証拠とするように言いました。
そしてディエゴはそのバラを司祭に見せ、このグアダルーペ寺院が建てられたとされています。

テオティワカン:テオティワカン遺跡は、2世紀頃に栄えた世界最大の宗教都市の遺跡です。
世界遺産にも登録され、2q以上にわたる広大な遺跡がしっかりと残っているとして有名です。
ここには太陽と月の2つのピラミッドがあり、どちらのピラミッドにも登ることができます。太陽のピラミッドはテオティワカン遺跡内で最も大きな遺跡で、登るのは大変ですが、頂上からの景色は格別ですので是非登ってみて下さい。
また、太陽のピラミッドの頂上は人気のパワースポットになっていて、安倍首相や小泉全首相も訪れるなど、首相達の定番スポットになっているようです。メキシコシティ一の人気の観光スポット。

昼食後

メキシコシティ歴史地区「メキシコシティ歴史地区とソチミルコ」は、人口2000万を数えるアメリカ大陸最大の都市メキシコシティーにある行政区の一つであるソチミルコと、メキシコシティーの地下に眠る古代文明の遺跡から構成される世界遺産です。
南アメリカにはかつてアステカ帝国が栄えていましたが、16世紀にこの地を征服したスペイン人によりその文化、建築物は全て破壊されてしまいました。ところが、1978年になって中南米最大の大聖堂の地下から偶然アステカ帝国時代に作られた石積みが見つかり、メキシコシティーはアステカ帝国の遺構の上に建設された都市であることが分かったのです。
その後の発掘ではアステカ文明の大神殿が姿を現し、失われたアステカ帝国の文化が地上に復活することとなりました。謎多きアステカ帝国の首都テノチティトランはテスココ湖内の島の上に建設されたのですが、メキシコシティーの南に位置するソチミルコはその湖の一部であり、今も残るアステカ時代の農業の名残が、アステカ帝国繁栄の当時を偲ばせます。

メトロポリタン大聖堂:メキシコシティを代表するこの大聖堂は、奥行き109m、幅59m、高さ65mと巨大でアメリカ大陸で最大級の教会です。1573年に建設が開始され、1800年代まで完成が延びたことから、ルネサンス、メキシコ風バロック、新古典主義様式が採用されています。元々はアステカの戦争の神ウィツィロポチトリの神殿があった場所で、スペイン人の征服者がやってきて神殿の基礎の上に大聖堂を建設したものです。現在は柔らかい土壌のため、1990年代に安定化工事をしたものの、建物自体は傾いています。
中には16の礼拝堂と、祭壇、金で覆われた装飾品、絵画や彫刻を見ることが出来ます。そして大聖堂の上には何トンもする25もの鐘が取り付けられていて、11時45分ごろから5分間に渡ってソカロ広場が鐘の音に包まれます。

ソカロ広場:メキシコ各地にはスペインの建築家達によって作られたコロニアル都市があり、セントロ・イストリコは、その中でも代表的な歴史的中心地区で世界文化遺産に登録されています。そんなセントロ・イストリコの中心にあるのが、世界最大のソカロと呼ばれる広場。
ソカロの周りには重要な機関がまとまっていて、大統領の演説など政治的な場所として使用される他、コンサートやイベントが行われることもあります。普段は地元の人達の憩いの場として愛されている広場です。

テンプロ・マジョール遺跡:メキシコシティは、元々、古代アステカ帝国の首都テノチティトランがあった場所で、ここには古代文明の壮麗な宮殿や寺院が立ち並んでいた。そこにやってきた侵略者スペイン人たちは古代都市を破壊し、その上に自分たちの植民都市を築いた。このため、現在のメキシコシティ中心部の下にはアステカの首都の土台が埋もれているわけだ。
1978年2月、メキシコシティの中心にある大聖堂の近くで工事を行っていた電力会社の作業員が、地下部分でレリーフが施された石を見つけた。これをきっかけに、地下の調査が行われ、この周辺に大規模な古代遺跡が埋まっていることが確認された。その後、古代遺跡の保全作業が進められ埋もれていたアステカ帝国の大寺院であるテンプロマヨールの基盤部が姿を現すととともに、アステカの神を彫刻した巨大な石版をはじめとする、様々な遺物が発見されたのである。

国立宮殿:メキシコシティにある中世建築物で、ソカロの一画を占める大きな建物です。現在は大統領の国務室、大蔵省として使用されています。中には、ベニートフアレスの記念室もあります。
特に独立の鐘と正面入り口の奥にあるディエゴ リベラによって描かれた大壁画「メキシコの歴史」は見事!

レフォルマ大通り:メキシコシティへ来たら、車か、徒歩かはともかく、必ず一度は通るであろう道がレフォルマ大通り。並木道のフランスのシャンゼリゼ通りに例えられる(実際にそれに似せて作られたのだが)。時間の余裕があったら、絶対お勧めしたいのは、ゆっくりこの通りを散歩してみる事。実に楽しい!歩道はまさに、無料のギャラリー。常設の彫刻がある他にその時々でテーマがあってメキシコの芸術家の色々な彫刻の展示がある。チャプルテペック公園の辺りは随時、野外写真展、芸術家製作の芸術ベンチもユニークで、お気に入りベンチに座って、記念写真を撮って散歩の一休み。

メキシコ国立自治大学:メキシコ国立自治大学の中央キャンパスは、1551年に建てられたアメリカ大陸で2番目に古い大学であり、ラテンアメリカ最大の敷地面積を誇る大学です。
この中央キャンパスは、オリンピックスタジアムと、40個の学部、研究所、文化センター、中央図書館、博物館、生態系の保全区域があり、それがまるで1つの街のようであることから大学都市と呼ばれています。
また、この都市は建築家たちが統一性を持って作りあげ、その素晴らしさから2007年に世界文化遺産に登録されました。
キャンパス内の建物の壁には、有名な作家であるフアン・オゴルマン、アルファロ・シケイロス、ディエゴ・リベラ達による絵が至る所に描かれています。
重要なメキシコ芸術に触れることができ、メキシコの学生生活も垣間見ることができるので、メキシコシティのおすすめの観光スポットです。

空港へ

22:00メキシコシティ出発
23:56メリダ到達

31日1:00ホテル到達就寝

9:00バスで出発

マヤパン遺跡:マヤパンは1220年代から1440年ころまで栄えた、マヤ文明の古代都市の中でも新しい時代に属する都市だ。それ以前のユカタン地方北部は強大な勢力を持ったチチェン・イッツアの支配下にあったが、この支配者に対する反乱が起きてチチェン・イッツアは衰退、放棄されてしまった。その後、反乱を起こした者たちを中心に、チチェン・イッツアから100kmほど離れた場所に新しい都の建設が進められた。これがマヤパン(マヤの旗)だ。

カバー遺跡:「カバー遺跡」はウシュマル遺跡同様の”プウク様式”の建築技法が用いられ、神殿に施された物凄い数の”雨神チャック”と呼ばれるマヤの神の顔が装飾されておりその装飾はまさに圧巻。装飾の細かさに目が釘付けです。雨神チャックの顔で装飾されたその神殿は、別称「仮面の神殿」とも呼ばれております。

ウシュマル遺跡: 「ウシュマル遺跡」といえば、他のマヤ遺跡では見かけない丸みを帯びたピラミッドがとても目を引きます。このピラミッドは”魔法使いのピラミッド”と呼ばれ、小人達が一晩で作り上げたという伝説が残る謎のピラミッドです。
ウシュマル遺跡は装飾が特徴的なプウク様式という造りになっており、ピラミッドや尼僧院など壁が装飾で覆われており、その装飾も一見の価値あり。この様式に代表される「マヤアーチ」と呼ばれるアーチ型の通路・入り口も必見。ウシュマル遺跡はこうした建築様式にも注目したい場所です。

メリダ市内観光:メリダはメキシコにある都市で、ユカタン州の州都です。1542年、スペイン人入植者フランシスコ・デ・モンテーホによって都市が開かれ、中央広場の南側にあるモンテーホの宮殿は現在、銀行として使われています。市の中心部には美しいコロニアル様式の町並みが。街中には観光兼移動手段であるトロッコ馬車が走っています。

18:00ホテル到達
夕食就寝

1日8:00バスで出発
チチェンイッツァ―遺跡:紀元後6世紀頃からの、マヤ独自の旧チチェン・イッツァ時代と
10世紀以降のトルテカ文明と融合した新チチェン・イッツァ時代とに分かれる。
旧チチェン・イッツァ時代は、マヤ文明特徴の定期的な遷都で、終了する。
10世紀頃に再びこの地に移り住みだしたが、その時は、中央高原のトルテカ文明の影響を受けていた。
生贄の心臓を捧げるチャックモール像、戦士、生贄の頭蓋骨、ククルカン、、とトルテカの特徴が顕著。
この時代を、新チチェン・イッツァ時代とする。
ウシュマルと同盟し権勢を誇るが、13世紀には、マヤパンを中心とした反乱にあい、滅亡する。
シケケンセノーテに向かう。

シケケンセノーテ観光:セノーテ・イキルは地底湖の事。
川がないメキシコのユカタン半島で降った雨は、石灰岩の大地を溶かし、やがて鍾乳洞となります。
そして雨水は地下で川となって、流れているのですが、その天井部分となっている地層が没落してできた井戸のような泉がセノーテ・イキルです。
真水を蓄えているセノーテ・イキルは貴重な水源でもあり、雨の神チャックが宿る聖なる泉として、マヤ時代から信仰されています。

バシャドリ市内観光:VALLADORIDはカンクンがあるQuintana Roo(キンタナ・ロー)州の隣のYucatan(ユカタン)州に位置しています。カンクンはビーチリゾートと言う事もあって、昔ながらのコロニアルな感じが全くありません。でもVALLADORIDは昔のままで、建物なんかも古いけどヨーロッパ調です。コロニアルな町と言うのはいったいどういう町?と思う方もいらっしゃいますよね。通常町の中心に大きな公園があり、公園に面して教会や市庁舎があります。少し行くと必ずメルカド(マーケット)があります。

カンクンに向かう。途中夕食。

カンクン:カンカンクンは、カリブ海に臨む世界屈指の超豪華ビーチリゾート。
その魅力はなんといっても、真っ白なパウダーサンドビーチ・極彩色/サファイヤブルーの美しい海、そしてどこまでも高く青い空。メキシコ政府の肝いりで開発されただけに、カンクンほど信じられないほどの美しさと利便性を両立しているリゾートは他には見当たりません。そして何より、カンクンが他のリゾート地と一線を画す特徴はそれらにとどまらない多様性!!ではないでしょうか?
世界中のセレブを魅了してきたビーチに始まり、カンクンが位置するユカタン半島は古代マヤ文明の遺跡が数多く残された場所。少し足を延ばせば世界遺産のチチェン・イツァや美しい城塞都市トゥルムなど悠久の歴史に触れることができますクン市内のホテル到達就寝。

2日9:00自由行動、市内バスで遺跡。博物館巡る。
エルレイ遺跡:漁村としては先古典期には既に存在したようですが、マヤセンターとしての繁栄は後古典期後期 1200年頃からで、 16世紀半ばのスペイン人によるマヤ征服まで、交易の拠点として重要な位置を占めました。

カンクン・マヤ博物館:2012 年 11 月にオープンしたマヤ カンクン博物館では、最新式の広い展示スペースに古代の遺物を収蔵。30 年間にわたる何百万ドルもの規模のプロジェクトで収集したマヤ工芸品 350 点があります。マヤ カンクン博物館での魅惑的な数時間は、この地域の伝統文化に興味のある方や、雨の日のアクティビティを探している方にぴったり。この地域のエル メコ遺跡やエル レイ遺跡を見学予定の方には、ここでしっかりと基礎知識をつけてから行くことをおすすめします。

12:00ホテルに戻りショッピングセンターに向かう。
16:00ホテルに戻る。
16:30カンクン空港に向かう。
19:27カンクン空港出発。
21:10メキシコシティ空港到達。
3日00:35メキシコシティ空港出発。

4日6:20成田空港到達。
空港バスデ羽田に向かう。

10:30羽田空港出発
11:40伊丹空港到達

今回の旅行、太平洋の遥か東、アメリカ大陸に足を運び、日本の約5倍の国土面積をもつ大国。西側は太平洋が広がり、東側は大西洋につながるメキシコ湾やカリブ海に面している。首都メキシコ・シティをはじめとした中央高原地帯は標高2000m級の大地に都市が点在する、温暖で過ごしやすいエリアだ。一方で海岸沿いや南東部のユカタン半島などの低地は年間を通じて暑い日が続く。そんな地形や気候の起伏に富んだメキシコは各地に多様な文化があり、遺跡や古都、ビーチリゾートなどの観光要素が盛りだくさんなメキシコを訪れ
国内に点在する遺跡、テオティワカン、ウシュマル遺跡、チチェンイッツアー遺跡、世界的に有名なリゾート地カンクンを訪れ楽しみました。
多くのピラミッド遺跡はエジプトのミラミッドは砂漠の中に点在し聳えていましたが、メキシコのピラミッドはジャングルの中に点在し重厚でがっちりした容貌で迫力があり圧巻でした。又
世界有数のリゾート地カンクンはカリブ海とラグーンに挟まれた20qの細長い洲に純白のビーチが広がりその美しさに感動しました。
メキシコに点在する巨大なピラミッド含む遺跡巡りと世界的有名なリゾート地カンクン観光、5泊8日の旅満喫しました。

 


























飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十五弾:九州八十八箇所&佐賀県お城巡り観光
2016年12月10−11日
 

九州の小規模な国人に過ぎなかった龍造寺氏が、龍造寺家兼の時代に飛躍し、肥前で権力をふるう戦国大名となる、一時は島津氏、大友氏と並び九州の支配を分け合うが、龍造寺隆信の死後、配下の鍋島氏に実権が移る佐賀県に足を運び佐賀県に点在する九州八十八箇所霊場の12か所、比較的マイナーなお城8か所を訪れました。

10日17:30伊丹空港出発
18:50長崎空港到達、レンタカーで大城方面に向かう。
19:50大城市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
11日7:30レンタカーで霊場・お城巡り。

獅子城:築城年代は定かではないが治承年間から文治年間(1177年〜1190年)頃に源披によって築かれたと云われる。 源披は松浦党の祖源久の孫にあたり、この一帯を領して築城したが、子の源持の時代に平戸へ移った為、廃城となったという。その後、戦国時代に日在城主鶴田兵部大輔直(ただす)の弟、鶴田兵庫介前(すすむ)によって再築城された。

金剛寺:寺伝によれば、当山ご本尊は、上松浦の要として当山より南に半里の地に在りし獅子ヶ城に代々守り本尊として 伝えられていた尊像で、別名を厄除け千躰大師と称します。
 城主鶴田氏衰退後、永年岩間に端座せしが、明治三十年三月。 縁あって当地に大師堂を建立し安置し奉るが当山の始めなり。
 なお、厄除け千躰大師の名の由来は、一切衆生の願いの数だけ、その尊いおすがたを千にも万にも千々に分かち、 人々の災厄をしりぞけ、衆生を救わんとのお誓いによるものです。

岸岳城:築城年代は定かではないが、波多氏によって築かれたと云われる。 波多氏の居城としては八幡神社の裏山に波多城がある。 波多氏は、源久の次男特を祖とする松浦党の一族で波多氏を名乗った。
16代波多盛が嫡子なく没すると、後室の妹の子を17代波多親として迎えたが、これに不満を抱いた重臣日高氏は岸岳城を乗っ取った。後室は龍造寺氏に岸岳城の奪還を依頼、日高氏は松浦氏に援軍を依頼したが、松浦氏の到着前に龍造寺氏が攻め寄せ、日高氏は岸岩城を破棄したという。
波多氏はその後豊臣秀吉による九州征伐に参陣せず、秀吉の怒りに触れたが減封のみで存続、しかし文禄の役からの帰国途中で改易となり常陸国筑波山麓へ配流となった。

鶴林寺:九州の西北端に位置し、唐津・玄海灘を臨む、古くから大陸と日本を結ぶ海洋の要港であった。近くには、虹の松原の景勝があり、唐津くんちも全国に知られている町である。
ご本尊は薬師如来・子安弘法大師を安置し、安産、子育ての加持祈祷の寺として信者様に知られ、境内は不動明王、十三仏を配置し、地元では子安さんとして知られている寺であり、松井寳堂師が開基、ひたすら弘法大師の教えを実践。
吉原山の山号は、○信者に結縁している。この土地は吉原氏の所有で先祖の地を寺院に提供その功徳を称して山号にした。

大聖寺:唐津城、唐津焼、虹の松原で有名な唐津市。その中心部、駅より徒歩5分ほどの場合に大聖院は位置します。周りは寺町の名にふさわしく寺院が立ち並びます。もともとこの寺は秀吉の時代、北波多村というところにあり、岸岳城主波多三河守の祈願寺として名を大法寺と称した。岸岳城落城の後火災に会い、その後慶安元年に大僧都興玄大和尚により唐津に移転され名を大聖院と改号した。
山門を入れれば正面に入母屋造りの本堂がある。本尊は不動明王様で参拝の方々の願いを一身に受け止めてくださいます。また一緒にお祀りされているお大師様は、もともと讃岐の金比羅様の境内にありその後、明治初年に四国善通寺にお移りされ明治7年大聖院に御遷座なされました。
開運厄除け・道中安全に特にご利益ありといわれております。また、本堂には開運福徳大黒天、唐津神社本地佛十一面観世音菩薩(8月17日のみご開帳)・銅造如来坐像も安置されています。山門より右手屋上に大きな修行大師像がお祀りされております。昭和7年の御遠忌に建造されましたが戦国中に没収、昭和26年に再建されました。

徳川家康陣:徳川家康は文禄の役の時、武蔵国江戸城主二百四十万石の大名である。家康は名護屋で在陣しているが渡海はしていない。
徳川家康の陣は名護屋浦を挟んで東西にあり、こちらが西が本陣、東が別陣である。 その規模は西側の方が小さい。

住吉城:築城年代は定かではないが後藤氏によって築かれた。 後藤氏は塚崎城を居城としていたが、天正14年(1586年)20代家信の時に住吉城を居城とした。 しかし、慶長4年(1599年)火災により焼失したことで再び塚崎城へ居城を移し廃城となった。

宝光院:世界に名声高い有田焼の地に有って周りは県立公園の黒髪山と龍門峡を背にし、流れる水は百選の1つで、初夏にはホタルが舞うという背景に小さな寺が有ります。
御本尊は十一面観世音(秘仏)で、参拝者の願いや苦しみを取り除いて頂いています。
開山は修験者達がお参りされる人の願い事や、五穀豊穣を祈願したと言い伝えが有って、現在も引き継いで御本尊に祈念しております。境内には水子堂が建っていますが、各方面より多数の人達が供養に訪れています。各地でも、水子、子育て丈の(供養・祈願)お堂が有るのは大変珍しいと思います。
又、本堂の側には御大師様が安置されていて厄除大師としてお参りされています。寺全体が明るく、心が清らかになる寺です。どうぞお誘いあわせでお参りください。

西光密寺:古来より山岳信仰の霊山として名高く、 佐賀県立自然公園でもある黒髪山のほぼ頂上にあります。  弘法大師さまが入唐求法の途上で遣唐使船が平戸係留の間に、 無事の渡航を祈念して黒髪山にご登嶺され、 無事にご帰朝の後にはお礼参りに再びご登嶺あり、 不動明王を爪彫りされ安置されたのが寺の始まりと伝えられています。 (この不動明王は今は佐世保市の黒髪山大智院にお祭りされています) 
 現在の西光密寺のご本尊は、 黒髪三所権現の本地仏といわれる、薬師如来、 阿弥陀如来、千手観音の三体の掛け仏さま(秘仏)です。 多数ある山中の石造物等から、 往時の信仰の深さが偲ばれます。

無動院:室町時代創建の当山は、約600年もの間、黒髪山修験道とともに、繁栄してまいりました。境内には重要文化財指定の六地蔵尊石塔、近隣の人々に篤く信仰を受ける眼病平癒の黒髪眼不動尊、子供の安全発育を願う子育地蔵尊等心の安らぎが得られる静かな佇まいのお寺です。心を癒しにおいでください。
 また、九州三十六不動霊場第二十六番札所としての信仰も受けております。
土曜日は住職による寺子屋書道教室も開講され、小学生の賑やかな声が聞こえ京都嵯峨書院九州支部にもなっています。

東光寺:佐賀県西部に位置する三間坂は長崎県境を塞ぐ神六山の裾野に拓けた盆地で、信仰の中心は黒髪山に縁起している。
東光寺は国道35号線から南に入ったところに在り、参道を分けて左側に幼稚園が営まれている。寺史には弘法大師が巡錫の砌り黒髪山に西光密寺(大智院)を創建されたとき、その末寺として建立されたと伝えられているが、阿忍僧正をもって中興開基としている。阿忍僧正は天文十六年(1547)、東光寺を再建して本尊に薬師如来を安置した。脇持は阿弥陀如来と聖観音を合祀し、後の明暦二年(1656)城主茂和の命により黒髪大権現を勧請して鎮守神と崇め、神仏合体の信仰を宣揚した。
脇持の阿弥陀如来は安阿弥の作と伝え、厨子に願文が書されている。それによると『曰奉造厨子一字信心。大檀那後藤藤原純明公。権少僧都阿忍。天文十六年卯月八日 東光坊』とある。その後、領主(後藤家)の崇信は篤く、元亀三年(1573)貴明は仏殿を造営し、寛文七年(1667)茂紀は仏像の修復に寄与するなど、代々料米を下附して外護につとめられた。しかし、明治三年の神仏分離令によって鎮守社は近くに独立移転し、東光寺も寺運の衰退気味になるも、法灯は継承され先代隆堅和尚により現在のように伽藍が整備された。
寺宝として現存する兼好法師撰、小倉山京極定家筆「真髪山紀事」の古文書は、弘法大師と黒髪山との関係を知る上での貴重な史料である。
 身丈二十センチほどの観音像(制作年代不詳)に異国の信仰が偲ばれる。右手の結んだ印が親指と中指で十字の形をしており、隠れキリシタン観音と呼んでいる。美術品としてみる仏像の価値観より、祈りという信仰の心を覗くことができる。また、白く美しい正観音(ボーンチャイナ)も信仰を集めている。

塚崎城:築城年代は定かではないが元永年間(1180年〜1120年)に後藤氏によって築かれたと云われる。 後藤氏は藤原北家利仁流で塚崎荘の地頭となり下向したと云われる。
天正14年(1586年)20代家信の時に住吉城へ居城を移したが慶長4年(1599年)火災により焼失したことで再び塚崎城を修復して居城を移した。

光明寺:武雄温泉は古くからの湯治場として多くの人々の癒しの場として親しまれて参りました。光明寺は「南無薬師諸病疾除の瑠璃の寺肥前湯の町尽きぬことなし」と詠歌に歌われている様に、温泉の守護として土地の人々に見守られながら今日に至っております。
 また明治26年より武雄新四国発願所としてお彼岸等には、市内を中心に420カ所以上のお堂や寺院などを住職が先頭に立ち檀信徒の方々と巡拝し、広く信仰を集めております。また、境内や参道には多くの石仏が手作りの赤い胸当てを掛けてお参りの方々を暖かく迎えておられます。

高野寺:大同元年(西暦八〇六年)弘法大師さまが中国、当時の唐の国の都長安にて密教を学ばれ、九州博多に帰朝され九州各地を行脚しておられた折、この土地が紀州の高野山に似ておることからこの地を肥前の高野山と定められ、草の庵を結ばれたのがこの寺の始まりと伝えられる。その折、現在の穀倉地帯の佐賀平野は原野でこれを開墾するには、人口を増やさねばと、一体の観音さまを刻み、この観音さまに祈ると子供が授かり安産で元気に育つと申され現在も子宝観音として、子授け、安産、子育ての祈願が絶えない。 
また、佐賀多久藩の祈祷寺として代々帰依を受け、残される古文書には、「いかなる咎人も高野寺の境内に走りそうらえばその罪を許される」と云う近世の駆け込み寺の役割もしていた罪障消滅の道場である。境内には平地に珍しい高山植物のシャクナゲが樹齢三百年以上を含めて千本以上あり、毎年四月初旬より開花し大勢の花見の客でにぎあう。平成十八年(西暦二千六年)、開創千二百年を記念として、焼失後百十八年ぶりに、新しく本堂、会館など建立し境内を整備し弘法大師の教えを今に伝えておる。

須古城:築城年代は定かではいが天文年間(1532年〜1555年)に平井氏によって築かれたと云われる。平井氏は少弐氏の一族で少弐資頼の二男盛氏の子経氏が平井氏を称したのが始まりとされる。その後、千葉氏の家臣となり有馬氏に備えてこの地へ配されたという。
有馬氏に備えて杵島の地にいた平井氏は、大永5年(1525年)平井経則は有馬氏に寝返り、以後有馬氏に従って千葉氏と戦った。天文年間(1532年〜1555年)に須古城を築いて居城とし、支城として男島城と杵島城を築き弟に守られた。
平井経治は永禄6年(1563年)から天正2年(1574年)までの間に、龍造寺隆信によって四度攻められ、天正2年(1574年)ついに落城し平井氏は滅亡した。
その後、須古城は龍造寺氏の属城となり、天正6年(1578年)(一説に天正9年)に龍造寺隆信が隠居すると須古城へ移り居城とした。しかし、天正12年(1584年)龍造寺隆信は有馬・島津連合軍との戦いで討死し、須古城は隆信の弟龍造寺信周の居城となり、須古鍋島家の祖となった。

潮見城:潮見城跡は橘氏が長嶋の庄の総地頭としてこの地に、潮見山の要害を利用して築城

鹿島城:文化4年(1807年)鍋島直彜(なおのり)によって築かれた。 鹿島藩ははじめ常広城にあったが、度重なる水害の為、幕府の許可を得て高津原に築城した。

誕生院:誕生院は、真言宗の中興の祖であり、新義真言宗の開祖である興教大師覚鑁聖人の誕生の地に建てられた祈願のお寺です。境内5200坪の中には、金堂、本堂、鐘楼堂などが建ち、桜、藤、つつじ、しゃくなげ、もくせいなど四季折々の花が咲き乱れる香煙縷々として絶えることなく今日に至ります。御本尊は、皆様の身代りになって下さる錐鑽身代不動明王さまです。
年間通じて、覚鑁聖人のご誕生になられた聖地として安産祈願や誕生祈願、又、涙を流す慈悲深き水子地蔵さまには多くの方々に参拝戴いております。皆様も、是非、ご気軽にご参拝戴き、私生活や仕事を忘れて、諸仏諸菩薩のご利益を受け、ひとときのやすらぎを求めてはいかがでしょうか。

蓮厳院: 祐徳稲荷神社の膝元。平安時代から続く古刹で、本堂と庫裡は藁葺き屋根。庫裡は県内では少なくなったクド造りとなっています。 一見寺とは思えないたたずまいです。 ご本尊阿弥陀如来2体と薬師如来1体は国の重要文化財で全国でも数少ない定朝様式の仏様として知られています。 平安時代から今日まで、人々は手を合わせ諸願成就と、ご先祖様の菩提を祈る寺でございます。
又、当山奥之院岩屋山興法寺は真儀真言宗の祖、覚鑁上人(興教大師)幼少の折の修行聖地であり、当山は上人13歳で仏門に入る時本山二利寺寛助大僧正の弟子になられた勝縁の寺としても知られています。 平安仏に手を合わせ、心身の平安をお祈り下さい。お参りをお

大定院:当山は慶長年間に、藩主 鍋島直澄公が開基となり、権大僧都 阿金和尚の開山と伝えられている。
 永代 米穀数十石を毎年修繕費として下附され、鍋島藩の祈願寺として法燈隆昌をなす藩の厚い庇護を受けていたが、 明治4年の廃藩の際に寺領没収され、その後の資助が絶え堂宇荒廃する。
 明治12年、嬉野町より当地に移転し、鍋島藩ゆかりの吉田焼陶業の繁栄と領民の福祉、また、鍋島直澄公の霊牌を安置し祈願所とされている。

16:30終了。
17:30長崎空港到達。
19:20長崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。
今回の旅行、九州佐賀県に足を運び、佐賀県に点在する九州八十八箇所霊場12か所、比較的マイナーなお城8か所を訪れ楽しみました。
観光名所の少ない佐賀県、マイナーなお城にもかかわらず、整備され案内板もあり今回はすんなりと見つけることができました。
霊場の立派な寺院が多く満足いたしました。
今回で九州八十八箇所霊場は制覇いたしました。 















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十四弾:九州八十八箇所&長崎県お城巡り観光
2016年12月3−4日
 

九州北西部に位置し、対馬や五島列島など島々が多く、様々な勢力があり、強力な水軍を擁する松浦党が発展し、大村氏も長く存在感を示したが、戦国時代が到来すると勢力地図は一新、秀吉の直轄地となる長崎県に足を運び、長崎に点在する九州八十八箇所霊場2か所、比較的マイナーなお城11か所を訪れました。

3日17:30伊丹空港出発
18:40長崎空港到達、レンタカーで佐世保方面に向かう。
20:10佐世保市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
4日7:30レンタカーで出発、霊場、お城巡り。

最教寺奥の院:最教寺は、大同元年(806)弘法大師が唐から帰朝した時、初めて護摩を焚いたところといわれる。現在、奥の院には大師の護摩石と坐禅石があり、住時をしのぶことができる。慶長十二年(1607)平戸藩主松浦鎮信が高野山最教寺を復興、真言教学の学問所である談義所を合併し、大和国長谷寺の空盛上人を中興開山として招いた。
また、その二年後、奥の院を建立している。西の高野山と呼ばれるだけあって、広大な境内である。駐車場からは、脇より境内に入ることになるが、本来の参道は楠が並ぶすばらしい石段が続く。切妻造の山門を入った正面が入母屋造の本堂で、安永三年(1774)の建築である。本尊は虚空蔵菩薩を拝することができる。

開元寺:弘法大師空海は、密教の奥義を学ぶため、唐(中国)に渡ることを目指した。そして、延暦二十三年(804)三十一歳の時、留学生として第十六回遣唐使船で難波を出航。その時の大使は藤原葛野麻呂。伝教大師最澄や義心、橘逸勢なども、同じく入唐して いる。瀬戸内の各所に立ち寄りながら九州に至り、最後に日本を離れたのが、田ノ浦である。寺号の由来は、嵐など苦労の末、弘法大師が十二月の終わりに唐に上陸後、一ヵ月の間とどまった福州の寺院が開元寺で、近年にその寺号を称したものである。入唐山開元寺 というが、お寺であるわけではなく、顕彰碑と法要殿があり、顕彰碑には『弘法大師唐渡解纜之地』と刻まれている。石碑には、石造の厨子のなかに、弘法大師の石仏が安置されている。また、法要殿においては五月に『田ノ浦法要』が勤修される。弘法大師の時代と同じ風景を見、大師の心の内を垣間見ることのできる霊場である。

日の岳城:中世以来、平戸松浦氏の居城は御館をはじめとしていくつかの変遷をみるが、26代(初代藩主)鎮信(法印)が、それまでの白狐山城(勝尾岳城)を棄城して、現在平戸城のある亀岡に築城を着工するのは、慶応4年(1599)のことで松浦氏が戦国大名を脱して近世大名へと転換をはかる時期と符合する。ところが城は完成を待たずに鎮信みずからの手で焼き払われてしまう。オランダ商館設置に象徴される平戸城下の発展と領内のキリシタンの存在に向けられた幕府の猜疑と不信をとくことが理由であったと考えられるが、はっきりした理由は不明である。
 以後、藩主は約100年間城を持たず御館に居住していたが、元禄16年(1703)、5代藩主棟(たかし)の再築願いが許可され、翌(宝永元)年着工、亨栄3年(1718),6代藩主篤信(あつのぶ)の代に完成する。焼却以前の平戸城を日の岳城とよび再築後は亀岡城、玄武城、朝日岳城の名でよばれた。現在の天守閣は昭和37年(1962)の築造である。

梶谷城:築城年代は諸説あるが松浦氏の始祖源久(みなもと ひさし)によって築城された。

直谷城:築城年代は定かではない。 城主は志佐氏で、松浦清の次男貞を初代としており、松浦氏の勢力拡大とともに志佐一帯に勢力を伸ばしここを居城とした。
八代志佐義の時代には壱岐の湯岳を領有して朝鮮貿易も行っている。 明応年間(1492年〜1501年)志佐純勝のとき、大村氏と龍造寺氏の連合軍に攻められ落城、五島へ逃れたことにより直谷城は空城となった。
その後の平戸・田平合戦によって里城の峰氏は田平一帯を松浦氏に譲り直谷城に入り志佐の名跡を継いで志佐純元と名乗った。
寛永2年(1625年)志佐純昌のとき御厨に移封となり直谷城は廃城となった。

三城城:永録7年(1564年)大村純忠によって築かれたと云われる。
三城をめぐっては三城七騎籠(さんじょうななきごもり)が有名で、これは元亀3年(1572年)塚崎城主後藤貴明・平戸城主松浦隆信・高城城主西郷純尭の連合軍に囲まれたおり、城主大村純忠と主たる武将七騎(大村純盛,朝長純盛,朝長純基,今道純近,宮原純房,藤崎純久,渡辺純綱)で籠城し守り通した戦いである。
三城は慶長4年(1599年)に喜前が玖島城を築城し拠点を移すまでの本拠地であった。

玖島城:慶長4年(1599年)大村喜前によって築かれた。 大村氏は藤原純友の後裔を称し、純友の孫直澄が肥前国藤津郡・彼杵郡・高来郡の三郡を与えられ、彼杵郡大村郷に住んで大村氏を称したことに始まるとされる。 喜前の時、玖島城を築き三城より居城を移した。
大村純前は有馬晴純の次男純忠を養子に迎え家督を継がせた。これが初のキリシタン大名として知られる大村純忠である。純忠は永禄6年(1563年)洗礼を受けてバルトロメウの洗礼名を与えられた。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に従い所領を安堵され、純忠の後に家督を継いだ大村喜前は、関ヶ原合戦で東軍について小西行長の宇土城を攻め、二万八千石弱の所領を安堵された。
大村氏は家臣団を再編する機会がないまま大名となったため、藩主の経済力が極めて低く、これを解決するため「御一門払い」と呼ばれる家臣団の整理を断行し、庶家一門十五家の所領八千石余を没収し、領内の総検地を行った。

俵石城:築城年代は定かではないが室町時代に深堀氏によって築かれたと云われる。 深堀氏は相模国三浦荘発祥の三浦氏の一族で建長7年(1255年)八浦荘地頭職を得て能仲が下向して深堀氏を名乗った事に始まる。
鎌倉時代以降一貫してこの地を治め、江戸時代には佐賀藩鍋島氏の家老として深堀陣屋を築いている。

諫早城:築城年代は定かではないが文明6年(1474年)頃に西郷尚善によって築かれたと云われる。 西郷氏は尚善の時に伊佐早次郎入道を討って、宇木城から諫早へ進出して船越城に入り、高城を築いてこれに移ったという。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に参陣しなかった西郷氏は所領を没収され、替わって龍造寺家晴が諫早に入部し一万石余を領した。家晴の子直孝の時、諫早氏を名乗り諫早家は独立した大名であったが、直孝が病身で江戸でのご奉公ができないとの理由で大名を破棄し佐賀藩の家老となった。諫早氏は高城城を居城として維持していたが、五代茂門の時、財政難によって城が維持できなくなり、東麓に諫早陣屋を構えて居城とした。

鶴亀城:築城年代は定かではない。神代氏代々の居城であったと考えられるが、神代氏の出自は詳らかではない。筑後や肥前にも神代(くましろ)氏がおり、龍造寺隆信と争った神代勝利などが著名であるが、この神代(こうじろ)氏は別系統である。
南北朝時代の神代式部貴益と戦国時代の神代兵部大輔貴茂が知られる。貴茂ははじめ日野江の有馬氏に属していたが、龍造寺隆信の勢力が及ぶとそれに従い、天正5年(1577年)には龍造寺軍が神代に着船すると神代貴茂は龍造寺隆信を饗応した。
天正12年(1584年)龍造寺隆信が有馬・島津連合軍と沖田畷で戦い討死すると、龍造寺方となっていた島原の豪族は有馬方へと寝返る中、神代貴茂は龍造寺方として踏みとどまり、有馬氏によって攻められた。しかし神代城は難攻不落であったため攻め落とされることはなかった。貴茂は有馬氏と和議を結ぶべく多比良城に招かれたが、その帰路謀殺されてしまった。当主を失った神代城も落城し神代氏は滅亡した。

深江城:応永年間に鎌倉幕府の引付奉行安富奉嗣が深江の地頭職となって以来、この地を領した。 天正5年、佐賀村中城主龍造寺隆信が高来郡の征討を企て、日之江城主有馬鎮貴と対決した際には、安富純治・純泰父子は有馬勢の主力として戦っている。
 天正10年、有馬鎮貴が島津氏と手を組み、再度龍造寺隆信と戦った際には、龍造寺方となり深江城に籠城して戦っている。 その後、龍造寺隆信が沖田畷の合戦で敗死したため、安富純泰は佐賀に移り深江氏を称した。

原城:明応5年(1496年)有馬貴純によって築かれたと云われる。 日野江城を居城とした有馬氏八代有馬貴純によって支城として築かれたのが始まりと云われる。
慶長4年(1599年)有馬晴信は日野江城よりも住みやすくより堅固な城を築いているとイエズス会宣教使の報告書に記されており、これが原城と考えられている。慶長9年(1604年)にはほぼ完成し、三層の櫓や家臣の屋敷、教会も建設された。
慶長19年(1614年)有馬直純のとき日向国延岡に五万三千石で転封となり、元和2年(1616年)松倉重政が大和国五條より四万三千石で日野江に入封した。 松倉重政は新たに島原城を築いたため、原城の石垣や建物を島原城へ移し、原城は元和の一国一城令によって廃城となった。
寛永14年(1637年)島原の乱が勃発し、一揆側の総大将として天草四郎が農民二万数千とともに籠城する。天草四郎は小西行長の家臣益田甚兵衛好次の子と云われる。 これに対して幕府は板倉重昌を派遣し九州の諸大名を率いて原城を包囲した。幕府の討伐軍は幾度となく原城に攻め寄せたが、籠城していた一揆軍は城を固く守ってこれを寄せ付けなかった。一揆を鎮圧出来ない幕府は老中松平信綱を派遣して事態の収拾を図ろうとしたが、この知らせに焦った板倉重昌は原城に総攻撃を命じ、突撃して討死してしまった。老中松平信綱は十数万もの軍勢で原城を包囲すると兵糧攻めを行い、兵糧が尽きたころに総攻撃を仕掛け原城は落城、大将天草四郎時貞も討ち取られた。
この一揆の責任を問われ島原藩主松倉勝家は改易ののちに斬首刑となり、大名として唯一切腹ではなく斬首という厳しい処分が科せられた。

日野江城:建保年間(1213年〜1218年)有馬経澄によって築かれたと云われる。 有馬氏の祖は藤原純友あるいは平直澄とも云われるが詳らかではなく、有間庄の開発領主で始め有間氏を称し、後に有馬と改めたと考えられている。
有馬氏が最盛期を迎えたのは天文年間(1532年〜1555年)頃で有馬晴純の時である。 晴純は始め賢純と名乗っていたが、将軍足利義晴より晴の字を賜り晴純と名乗った。 島原半島から肥前東部を制しており、天正年間(1573年〜1592年)に龍造寺隆信が台頭してくるまでは、肥前で最大の勢力であった。
晴純のあと家督を継いだ義貞は、永禄6年(1563年)百合野の戦いで龍造寺隆信に大敗を喫し、以後衰退していく。義貞の家督を継いだ義純は家督相続わずか一年で急逝したため、義純の弟鎮純が家督を継いだ。この鎮純が後にキリシタン大名となった有馬晴信である。
天正5年(1577年)佐嘉の龍造寺隆信の軍勢が島原半島を侵攻すると、有馬氏もこれに対抗できず降った。しかし、天正10年(1582年)晴信は龍造寺を離反して深堀城を攻め、天正12年(1584年)には島津氏の支援を受けて沖田畷の合戦で龍造寺軍を敗り、龍造寺隆信は討ち死にした。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で有馬氏は秀吉に従い所領を安堵された。
江戸時代に入り日野江藩四万石の大名となった有馬晴信は、慶長17年(1612年)岡本大八事によって所領没収の上甲斐国都留軍に配流となった。晴信の嫡男有馬直純は幼少の頃から家康の近習となって家康の養女国姫を娶っていたことなどから、父晴信の連座を免れ、家督相続のうえ日野江藩四万石を継承した。その後、幕府に転封を願い出て慶長19年(1614年)日向国縣五万三千石で加増転封となった。
有馬氏転封後、しばらく天領であったが、元和2年(1616年)大和国五條より松倉重政が四万石で入封した。重政は当初日野江城を居城としたが、島原城を築いて居城としたため廃城となった。

18:00長崎空港到達。
19:20長崎空港出発
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州北西部に位置する長崎県に足を運び、長崎県に点在する九州八十八箇所霊場2か所と比較的マイナーなお城11か所を訪れ楽しみました。

平戸から島原まで広範囲の霊場お城巡りでしたが、道も広く、車も少なく、スムーズに訪れることができました。