飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十九弾:北海道釧路SL冬の湿原号観光
2016年2月27ー28日 

北の北海道に足を運び、湿原等で有名な釧路を訪れ、釧路と網走を結ぶ線釧網本線、そのうちの釧路湿原を通る釧路寄りの区間で、真冬の間、SL列車が運行される釧路SL冬の湿原号に乗車し釧路から標茶までの48.1kmを走行して釧路湿原の冬の雪景色を車窓から望みました。

27日15:00伊丹空港出発
16:10羽田空港到達
16:55羽田空港出発
18:30釧路空港到達
18:45釧路空港シャトルバスで出発
19:35釧路駅前到達
19:45釧路駅前のホテル到着後、周辺を散策し食事を済ませて就寝。

28日11:08釧路駅SL冬の湿原号で出発

釧路SL冬の湿原号:SL冬の湿原号とは、北海道旅客鉄道(JR北海道)が釧網本線釧路駅 - 標茶駅・川湯温泉駅間にて2000年(平成12年)1月8日から運行している、蒸気機関車牽引による臨時列車である。

12:37標茶到達
13:55標茶SL冬の湿原号で出発
15:29釧路駅到達
16:20釧路駅シャトルバスで出発
17:10釧路空港到達
19:05釧路空港出発
20:55羽田空港到達
21:30羽田空港出発
22:45関西国際空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、湿原等で有名な釧路を訪れ、釧路駅から標茶駅までの48.1kmをSL冬の湿原号に乗車し冬の雪景色の釧路湿原を車窓から望み楽しみました。
このコースは昨年の夏トロッコでも訪れ、夏と冬の釧路湿原の風景を車窓から望み景観の変化を楽しむことができました。





飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十八弾:大分県お城・城下町巡り観光
2016年2月20ー21日 

九州に足を運び、豊後は源頼朝に守護を任じられた大友氏が長く治め、南北朝の内乱が終息した頃、大内氏が九州に進出し豊前守護となり、両者は対立するが、大内氏が陶氏の陰謀などで衰退し、大友氏が掌握した大分県を訪れ、比較的マイナーなお城12箇所を巡りました。

20日18:00伊丹空港出発
19:00大分空港到達、レンタカーで別府に向かう。
18:05別府駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

21日7:00レンタカーで出発、お城巡り。

高崎城:築城年代は定かではない。建久2年(1191年)大友能直が豊後国守護職に任ぜられ、その先発隊が豊後へ入国しようとした所、在地豪族の阿南惟家が高崎山に陣取ってこれに抵抗したことが知られ、高崎山城の初見とされる。
正平14年・延元4年(1359年)には大友氏時によって本郭的な城が築かれており、南朝方勢力と戦った。これ以降、大友氏の詰城として利用された。
永正15年(1518年)朽網親満が反乱を起こして高崎山城に立て籠もったが、大友義長によって鎮圧された。
天正14年(1586年)大友義統が戸次川の戦いで島津軍に敗れると、一旦高崎山城に入城したが、ここからさらに豊前国龍王城へ退いている。

大友館:築城年代は定かではないが大友氏によって築かれたと云われる。 大友氏は相模国大友荘を本貫地とする一族で初代は大友能直である。大友氏が豊後に下向したのは三代大友頼康の頃と云われ、その後豊後に勢力を拡げていく。第二十代大友義鑑は嫡男義鎮を廃嫡して側室の子塩市丸を寵愛したため、天文19年(1550年)大友館にて家臣に殺された。大友館の二階で就寝中に襲撃されたことから「二階崩れの変」と呼ばれている。家督を継いだのがキリシタン大名として著名な大友宗麟となる義鎮で、豊後を中心に豊前・筑後・肥後など九州に勢力を拡げた。 天正6年(1578年)島津の侵攻に耐えきれず、豊後の大友氏を頼ってきた日向の伊東義祐の嘆願を受け、大友軍は日向へ侵攻する。日向の高城攻め、そして耳川合戦で島津氏に大敗を喫した大友氏はこの戦いで多くの家臣を失い、その後は勢力を失う。天正14年(1586年)には島津氏に豊後へ攻め込まれて焼き打ちにあい、宗麟は豊臣秀吉に支援を要請することとなる。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐により島津氏は降伏し、大友義統は豊後一国を安堵された。しかし義統は文禄の役で鳳山城を破棄して敵前逃亡した罪により改易された。

佐伯方面に向かう。

栂牟礼城:築城年代は定かではないが大永年間(1521年〜1528年)に佐伯惟治によって築かれたと云われる。 豊後の佐伯氏は豊後大神氏の一族で平安時代から続く名族である。
佐伯氏十代当主が佐伯惟治で、大永7年(1527年)大友義鑑から謀叛の嫌疑を掛けられ討伐軍を送られた。大友氏の討伐軍は臼杵近江守長景を大将とした二万余りの軍勢で、惟治は栂牟礼城に籠もってこれに応戦した。堅城であった栂牟礼城を攻め落とせなかった長景は一計を案じ、惟治に一時日向へ立ち退いた後、大友義鑑に申し開きをして許しを得るのが得策と説得、惟治はこの案に乗ってわずかな手勢を率いて日向へ落ちる途中、長景に通じていた土民によって討ち取られてしまった。
天正6年(1578年)耳川の合戦で大友氏は島津軍に大敗を喫し、佐伯惟教、惟真、鎮忠などが討死し、家督は惟真の子の佐伯惟定が継いだ。惟定は、天正14年(1586年)豊後に侵攻してきた島津軍を堅田合戦で退けると、朝日嶽城の守将で島津方に寝返っていた柴田紹安の居城である星河城を攻め落としてその妻子を捕縛し、翌天正15年(1587年)には島津方の土持親信が守る朝日嶽城の奪還に成功している。
文禄の役の後、主家である大友義統が除封となると、佐伯惟定もまた所領を失いこの地を去った。惟定は後に藤堂高虎に仕え、子孫は伊勢国津藩藤堂家に仕えて代々続いた。

日田方面に向かう。

森陣屋:慶長6年(1601年)来島長親(康親)によって築かれた。 関ヶ原合戦の後、長親は伊予国来島城から豊後国森に転封となり、2代通春の時、久留島と改めた。
森藩は一万四千石で城主格ではなかったため、角牟礼城を廃し南麓に陣屋を築いた。
天保8年(1837年)通嘉の時、三島神社の改築として陣屋を城郭風に改修し天守の代用とも云われる茶亭の栖鳳楼を建て現在の状態になった。

角牟礼城:築城年代は定かではない。史料に最初に登場するのは『志賀家文書』の文明7年(1475年)であることから、これ以前に築かれていた。
角牟礼城は玖珠郡衆の一人森氏の詰城として築かれたものであるが、後に玖珠郡衆の番城となった。天正15年(1587年)島津軍の北上に対して玖珠郡衆は角牟礼城に籠城して戦い島津の攻撃を防いで落城しなかった。
文禄2年(1593年)大友義統が改易となると毛利高政が入封した。この毛利時代に石垣造りの近世城郭へと改修されていった。
関ヶ原合戦後、毛利高政は佐伯に転封となり、黒田氏を経て慶長6年(1601年)来島長親が伊予国来島から入封すると、久留島陣屋を築き廃城となった。

日隈城:文禄3年(1594年)宮城豊盛(宮木長次郎)によって築かれたと云われる。 豊後の大友義統が改易となった後、豊臣秀吉の蔵入地となった豊後の日田郡と玖珠郡の管理を宮城豊盛が支配し、五千石を賜った。このとき、築いたのが日隈城である。
慶長元年(1596年)毛利高政が二万石の所領を賜って日隈城に入り、五重の天守を備えるなど城を改修した。関ヶ原合戦後、毛利高政は二万石で佐伯に移ったが、引き続き蔵入地の管理を任され毛利隼人佐が代官として在地した。寛永16年(1639年)天領となった日田地区の代官所は月隈城へと移り廃城となった。

月隈城:慶長6年(1601年)小川光氏によって築かれた。 関ヶ原合戦後、光氏が入封し古城を改修して丸山城と改め居城とした。
元和2年(1616年)美濃国大垣より石川忠総が六万石で入封すると永山城と改称したが、寛永10年(1633年)下総国佐倉に転封となり、豊前国中津藩小笠原長次と豊後国杵築藩小笠原忠俊に分割して預けられ、寛永16年(1639年)再び天領となった。
天和2年(1682年)播磨国姫路から(越前家)松平直矩が七万石で入封、このとき山上は破棄され麓に館を築いたが、完成を待たず出羽国山形に移封となった。 その後は再び天領となり小川氏が代官となった。

耶馬溪方面に向かう。

長岩城:建久9年(1198年)野仲重房によって築かれたと云われる。 重房は豊前国守護宇都宮信房の弟で、下毛郡野仲郷を分与され野仲氏を名乗った。
南北朝時代に野仲道棟・道春父子は北朝方として高勝寺城を攻め、永正5年(1508年)野仲興道は周防国大内氏とともに上洛し、船岡山合戦に参陣した。
戦国時代には大内氏に属すが、大内義隆が陶晴賢に討たれ大友宗鱗の弟晴英が大内義長と改名して大内氏を継ぐと、大友宗鱗が豊前に勢力を伸ばす。 この時野仲重兼は籠城して大友氏と対したが降伏、大友宗鱗はその武勇を賞して"鎮"の字を与え、野仲鎮兼と称した。
黒田氏が中津城に入封すると、野仲氏はこれに従わず、後藤又兵衛を先陣とした黒田長政に攻められ落城、野中氏は滅亡した。

中津方面に向かう。

光岡城:貞和6年・正平5年(1350年)赤尾次郎左衛門種綱によって築かれたと云われる。 赤尾氏は筑前の原田氏の一族で、足利尊氏から吉田村の地頭職に補任された。
代々大内氏に属しており、文明年間(1469年〜1487年)に吉田村を赤尾村に改めたという。
弘治2年(1556年)大友氏に降り、永禄9年(1566年)高尾城を落とし麻生氏を滅ぼした。 しかし、大内に属する土井城の佐野親重と時枝城の時枝平大夫によって攻撃され、赤尾統秀の次男行種は豊後へ逃れたが、それ以外の一族は討ち取られた。

立石方面に向かう。

立石陣屋:寛永19年(1642年)日出藩初代木下延俊が没し二代俊治が家督を相続すると、父延俊の遺言により弟延次(延由)に五千石が分与され旗本となった。
日出藩初代木下延俊の父家定は豊臣秀吉の正室ねね(高台院)の兄である。 本来の遺言は一万石を分与であったものの、家老長沢市之亟が五千石にしたと伝えられる。 日出藩はわずか三万石で、このうち一万石を分与するのは過分であることなどから、延次が豊臣秀頼の遺児豊臣国松ではないかという説もある。
日出藩分家立石木下家は寛文4年(1664年)正式に旗本交代寄合と認められ、十一代続いて明治に至る。


杵築方面に向かう。

日出城:慶長6年(1601年)木下延俊によって築かれた。縄張は義理兄である豊前国小倉藩細川忠興によるものである。
木下延俊の父は備中国足守藩主となった木下家定で豊臣秀吉の正室高台院の兄にあたる。家定の三男が延俊で関ヶ原合戦の時の所領はわずか五百石であった。関ヶ原合戦で正室加賀の兄細川忠興に従って東軍として丹波国福知山城攻めに加わり、速見郡内にて三万石余が与えられ日出藩となった。
寛永19年(1642年)二代俊治が家督を相続すると、父延俊の遺言により弟延次(延由)に立石領五千石が分与され、日出藩は二万五千石となり、以後十六代続いて明治に至る。

17:30大分空港に向かう。
18:00大分空港到達。
19:30大分空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州に足を運び、温泉、観光名所、盛りたくさんの大分県を訪れ、車で12箇所の比較的マイナーなお城を巡り楽しみました。
自然有り、歴史的建造物あり、多くの観光名所を身近に車で走行してのお城巡り堪能しました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十七弾:長崎県九州八十八ヶ所巡り観光
2016年2月13ー14日

九州に足を運び、江戸時代の鎖国の間、日本唯一の貿易港として中国やオランダとの文化の交流が盛んに行われていた長崎タウン、オランダの森の家を意味するハウステンボス、雲仙普賢岳を擁する高原リゾート雲仙と島原南蛮貿易の拠点として17世紀初めに日本初の商館が開かれた場所平戸・生月、西・東シナ海・玄界灘に浮かぶ離島(五島列島、壱岐、対馬)など多くの観光名所が点在する長崎県に訪れ、11箇所の長崎県に位置する九州八十八ヶ所を巡りました。

13日17:35伊丹空港出発。
18:55長崎空港到達、レンタカーで大村市内のホテルに向かう。
19:30大村市内のホテル到着後レストランで食事を済ませて就寝。

14日7:30レンタカーで霊場巡り。
島原方面に向かう。

龍照寺:島原外港から雲仙道路(国道57号線)を登ると約10分、 雲仙温泉からは島原方向に国道を下ると約15分、 寺に着くと巨大なお不動様(高さ13.8m)が出迎えてくれます。 境内からは雄大な普賢岳、有明海を挟んで対岸に玉名・熊本・天草の島々を望むこともできる 、すばらしいロケーションのなかにお寺があります。境内は明るく広々としており、山門・手水舎・本堂・護摩堂・大師堂(建立予定)・七福神堂・愛宕地蔵堂・庫裡などの寺構を整えています。
平成27年10月には、念願でありました新本堂落慶大法要を行いました。

長崎市方面に向かう。

延命寺:当山は1616年(元和2年)岡山より丁度、訪れていた龍宣和尚が当時流行していた新種の疫病平癒の為、祈願を行った処 御利益があったという事で長崎奉行の依頼で常駐し、当地で寺院を構えたのが始まりである。大正年間に入ると、「命を延ばす」、「いのちをつなぐ」という観点から老人福祉事業にも着手し、当時としてはめずらしかった、身寄りがない高齢者の為の生活施設「長崎養老院」を開設し、現在も養護老人ホーム「延命園」として続いている。

佐世保方面に向かう。

東前寺:東漸寺の門前には、天を突くような大きな楠があり、長崎県の天然記念物に指定されている。幹回りは約八メートル、高さは約二十メートル、樹齢約六百年。四方に枝を伸ばし、生命力をみなぎらさて、今なお青々と葉を茂らせている。幹にしめ縄を巻いており、 ご詠歌にも歌われる霊木である。和銅年間(708〜15)、現在の奥の院にあたる岩問山に行基菩薩が草庵を結び、薬師如来を安置したのが始まりと伝えられている。寛和二年(986)僧観海が、現在地に伽藍を建立。その後、衰微していたのを、寛永三年(1626)に教意法印が再建した。 本尊は、行基菩薩作の薬師如来でいつでも拝することができる。古色、歴史を感じさせる姿をしている。思わず手を合わせたくなるような尊像である。また、本尊の前に、一枚の鏡が置かれている。魔境といわれている。なぜ魔境というと、太陽などの光にかざすと、裏に刻まれた絵が映し出されるためである。何とも不思議な鏡であり、佐世保市の文化財に指定されている。

浄漸寺:奈良時代の養老二年(718)行基菩薩は、東大寺勧進のため全国を巡錫し、速木(現在の早岐)を訪れた折、楠木の霊木で薬師如来を刻み、堂宇を建立したのが浄漸寺の起源とされる。現在、早岐小学校の百段石と呼ばれている付近に、当時の境内があったという。以来、霊験あらたかな薬師如来として隆盛をきわめていたが、享保年間(1716〜36)に焼失、ただちに平戸松浦家によって再建されている。 藩の祈願所として、又早岐神社・住吉神社をも寺でお祭りしていた。この事は、当時の神仏混合の名残である。

大智院:弘法大師空海上人が若かりし日、留学僧として渡唐の途中、留学の目的達成を(現在の武雄市山内町の)黒髪山の大権現に立願され、 松浦郡田ノ浦の港から出航、唐の国長安(現在の西安)において青龍寺恵果和尚より真言密教を伝えられ、(大同元年)帰国の後、 博多に留まられていた際に、満願成就を奉告に再度黒髪山にご登嶺され、自ら爪で不動像を刻まれたのが発祥です。 この由縁によって爪刻不動明王(つまぼりふどうみょうおう)と呼ばれます。肥前国では弘法大師ご開基の最古真言道場です。

西光寺:西光寺は1687年に松浦藩の祈祷寺として現在の地に建立されたお寺です。本尊虚空蔵菩薩は、元は武雄市杉の岳にある行基菩薩が建立されたお寺にいらっしゃいましたが、約500年前に現西光寺の場所に虚空蔵菩薩が霊現されたことから、この地に移座されました。智慧や福徳を授けるという利益があり、弘法大師も若いころに虚空蔵菩薩のご修行に励まれ学業を成就なさいました。
 山内には長崎県天然記念樹「西光寺のオオムラザクラ」、佐世保市の指定文化財「野田フジ」、参道には「八十八ヶ所石仏群」があります。また、えびね、かのこゆりなど記念物などが現存します。
 西光寺では子育て地蔵をおまつりしており、多くのお子様方の成長を見守っております。
 また、「大難を小難に、小難を無難に。」西光寺大不動尊の霊前おいて交通安全お車祈願を随時いたしております。

光輪寺:市民の憩いの場所、中央公園の近く、医師会館や裁判所などがある高台に、光輪院の諸堂が建っている。入母屋造で妻入の毘沙門堂は、花頭窓を有する木造のお堂である。奈良信貴山から勧請された毘沙門天を安置する。赤い木造燈籠が、ワンポイントとして、おもむきを添えている。また、堀に沿って十三仏などの石仏が並ぶ。
本堂は、白い鉄筋コンクリートの建物。ギリシャの神殿のように丸い柱が四本立ち、宝形造の屋根には相輪が建っている。
本尊は、上品下生の阿弥陀如来。鎌倉時代の作と推定される古仏で、近年に修理されて、金色に輝いている。また、光輪院の諸尊で珍しいのは、本堂の裏側に祀られている魚籃(ぎょらん)観音立像である。魚籃観音は、観音の三十三応化身の一つで、魚が入ったかごを手に持つ。彫刻は少なく、滋賀県岩戸寺、東京魚籃寺など、あまり見られるものではない。九州では、平戸と生月島を結ぶ生月大橋の近く、生月大魚籃観音がある。

東漸寺:東漸寺の門前には、天を突くような大きな楠があり、長崎県の天然記念物に指定されている。幹回りは約八メートル、高さは約二十メートル、樹齢約六百年。四方に枝を伸ばし、生命力をみなぎらさて、今なお青々と葉を茂らせている。幹にしめ縄を巻いており、 ご詠歌にも歌われる霊木である。和銅年間(708〜15)、現在の奥の院にあたる岩問山に行基菩薩が草庵を結び、薬師如来を安置したのが始まりと伝えられている。寛和二年(986)僧観海が、現在地に伽藍を建立。その後、衰微していたのを、寛永三年(1626)に教意法印が再建した。 本尊は、行基菩薩作の薬師如来でいつでも拝することができる。古色、歴史を感じさせる姿をしている。思わず手を合わせたくなるような尊像である。また、本尊の前に、一枚の鏡が置かれている。魔境といわれている。なぜ魔境というと、太陽などの光にかざすと、裏に刻まれた絵が映し出されるためである。何とも不思議な鏡であり、佐世保市の文化財に指定されている。

西福寺:当山は、千有余年の昔より仙人山伏の修行道場として、この景勝寂奇岩怪石懸崖に清水の滝がある大洞穴の奥の院に庵を結んで修行していました。大正九年八月南有馬勢が直谷城に押し寄せて来た時、平戸城主と直谷城主の兵と合流して、弦掛の山に 陣を敷き有馬勢に向かって戦端に開き弓に弦を掛け戦った所で弦掛の地名があります。以後、この戦いで亡くなった霊を供養せんと庵を結んで法灯をかかげました。
明治以降、観世音菩薩の霊験あらたかなること、世に知れ渡り代々の先師はこのみ山に堂塔を建立し観世音菩薩を本尊とし、人々に信仰を集めています。

御橋観音寺:1240年前に名僧行基が海底で光を放つ大木から三体の観音像を敬刻し、開眼供養して東の海に流されたその内の1体が御橋観音寺となり現在まで信仰の霊地として栄えています。
また二条の大石橋をはじめ春は桜、秋は紅葉と平戸八景の景勝地としても有名です。当山のご本尊様は十一面観世音菩薩様で人々の様々な声を聞き救いの手を差し伸べてくださる非常に慈悲深い仏様です。どうぞ各種御祈願・供養等お気軽にご参拝下さい。

松浦方面に向かう。

善福寺:西海の玄界灘を臨む今福には、永長元年(1096)松浦党の始祖松浦久の築城した梶谷城があった。松浦久はここを拠点として一字名衆五十八家と称せられるほどに播廷し、鎌倉から室町時代にかけて水軍を組織して活躍した。 また文禄の役には秀吉の先陣として出陣し、異国にその名を馳せたが、現在は城跡を僅かに残している。 今福の港から入った山裾に善福寺は営まれている。 鐘楼門を構えた境内は静まり、本堂と前庭の趣が調和している。奥の院に至るとば口には、聖徳太子、修行大師、不動明王の石像があり、裏山、愛宕山周辺を囲うように 四国八十八ケ所霊場の石仏が祀られて、藜樹の道は精気が辺りに満ち幽幻に沈む。途中の岩窟には石像子安観音が安置してあり、秘かに村人の信仰が息づいている。 寺史によると、創建は建武二年(1335)寺上村に建立された。正平十年(1355)松浦直十三世が鰐口を寄進した。 現在、寺宝として護持し、県の文化財に指定されている。 その後、天正二年(1574)松浦親が薬師堂を建立し、阿尊和尚が本尊を勧請して開眼法要を営んだ。この頃、既に松浦党の庇護をうけて海上安全の祈願を厳修していた。善福寺は、寄進の宝物から寺史を新たにする。天和元年(1681)寺上村から仏坂免に寺領を移し、元禄八年(1695)堂宇を再建して目芳法印が開山したという。
 中興開基とみるべきであろう。寺史転変ありて、諸仏の修復を安政六年に行われた。明治四十二年に(1909)妙康法印によって現在地に移し法灯を継承している。本尊阿弥陀如来のほか、数体の諸尊を合祀した地方寺院の名刹である。

15:30長崎空港に向かう。

17:30長崎空港到達。
19:25長崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州長崎県に足を運び、長崎県に点在する11箇所の九州八十八ヶ所霊場を巡り楽しみました。
長崎県の南から北にかけての広範囲に点在する霊場をレンタカーで巡り、移動に時間がかかりましたがなんとか11箇所の霊場を巡り堪能しました。立派な霊場盛りたくさんでした。次回は佐賀県の霊場巡りを予定しております。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十六弾:熊本県九州八十八ヶ所巡り&お城・城下町巡り観光
2016年2月10ー11日 

室町時代に、古くから同地で力を持っていた菊池氏が守護となり、阿蘇氏、名和氏、相良氏などが各地を支配するが、争乱が絶えなく、やがて大友氏が肥後に進出し、龍造寺氏、島津氏と対立することになる九州熊本県に足を運び、九州八十八ヶ所13箇所、お城・城下町6箇所を巡りました。

10日17:40伊丹空港出発
18:50熊本空港到達、レンタカーで熊本駅に向かう。
19:30熊本駅付近のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

11日7:00レンタカーで出発、霊場巡り。

本蔵院:歴史は、阿蘇山から始まります。阿蘇山は本来、阿蘇神社の別当所として隆盛した西巌殿寺(天台宗・最栄読師開創)に総括された修験の山です。 有名な草千里には、かつて西巌殿寺の子院三十七坊が並び、修験の拠点となっていました。
しかし、明治の廃仏毀釈と修験道禁止令で、阿蘇修験は壊滅状態になりました。 西巌殿寺は山麓と山上にそれぞれ本堂を存続させていますが、子院三十七坊はいずれも廃されてしまいました。 後に、三十七坊の一院が熊本市迎町に移転し、真言宗に改宗したのが、満念寺本蔵院です。
さらに、昭和2年(1927)現在の本荘に移りました。 本尊は珍しい北向き不動明王。また、同じく本堂に祀られている弘法大師像は、人形師安本亀八の作です。

金剛寺:市街の中に在り、人々から中将姫の愛称で呼ばれている。創建は慶長年間(1596)斉藤又右門と称する人が開基したと伝えられている。
当初は熊本城の裏鬼門にあたる所にあって、加藤神社の別当を兼ねていたが、明治維新の廃仏毀釈に寺門は衰退していた。 明治25年(1892)増本法秀が現在の地に法灯をかかげ、由緒ある金剛寺を復興して維新の世情に弘法大師の教えを広めた。
しかし、昭和の戦火に焼失したが、寺門の再建に仏心をたぎらせ、新たな法灯を継承した。 以来、昭和58年に現在の秀和尼が本堂を再建して、祈りの道場を構えた。
中将姫の由来は、開基の斉藤又右門が霊示のお告げをうけて勧請したという。 中将姫といえば、奈良の当麻寺で出家した姫は、法如尼と改め阿弥陀如来に祈願していたところ、比丘尼が現れ、当麻曼荼羅を織り上げたと言う伝説がある。

蓮華院誕生寺:ここでお生まれの「皇円大菩薩様」をおまつりする真言律宗の「九州別格本山」です。 皇円大菩薩様(皇円上人様)は、浄土宗御開祖の法然上人様のお師匠様で、約900年前、肥後の守、藤原重房公の嫡孫として、ここ熊本県玉名市築地に御誕生されました。 幼くして比叡山で修行された皇円上人様は学徳にすぐれ日本三大歴史書の一つ『扶桑略記』を編述されました。 ご入定から六年後の治承元年(1177年)に平重盛が「蓮華院」を建立。そして60年後、法孫、恵空上人が、ご誕生の地に蓮華院浄光寺を再興、関白塔などを建立されましたが、天正十年(1582年)戦乱のあおりを受けて焼失してしまいました。 昭和に入り、川原是信大僧正様がご霊告により昭和5年に蓮華院を再興し、53年に奥之院を建立され、現在に至ります。

金剛寺:荒尾市は、熊本県の北西部に位置する。東に小岱山をいただき、西に不知火で名高い有明海に面し、彼方に雲仙岳を望む。県境の大牟田市とは共に炭鉱で栄えた。 昭和9年赤星精秀和尚が四国八十八ヶ所霊場遍路の後、真言宗寺院のなかった荒尾に、弘法大師御入定千百年御遠忌の記念事業として法雲院を開創した。法燈を継いだ善弘師が昭和35年入山して、法雲院を山号に改め、法雲山金剛寺と改称した。 参道には番号の刻まれた敷石がある。左側が四国八十八ヶ所霊場、右側が西国三十三ヶ所霊場の御砂が収められている。本堂前の観音立像の前には坂東秩父の観音霊場の御砂が収められ合せて百観音の結願となる。 弘法大師入唐1200年、御帰朝1200年それぞれの記念の石塔があり、中には中国赤岸鎮と青龍寺の石砂が収められている。殊に御帰朝記念の石塔には、中国で刻まれた黒御影石の金剛五鈷杵が蓮台の上に安置されている。

大勝寺:当山は千葉県成田市の成田山新勝寺が本山であり、その大本山成田山新勝寺の御本尊南無大日大聖不動明王(弘法大師一刀三礼謹刻開眼)のご分身が当成田山のご本尊であります。
1972年、九州のほぼ中央に位置し眼下に有明海が広がり、雲仙普賢岳、県立公園小岱山を望む自然ゆたかな地と、山門前には、西日本最大のテーマパーク「グリーンランド」を中心にアミューズメント施設等『遊・食・住』を兼ね備えた一大リゾート地が存在するこの有明の地を聖地と定め、本山より成田山の山号を戴き、寺号大勝寺を賜わり交通安全、厄除け現世利益、済世利人の成田山祈願道場として、九州一円熱誠信徒の心の寄り処となっている。

護国山仏性院金剛乗寺:825年弘法大師御開基にて「西の高野」と称される真言の大伽藍なり。
 お大師様九日間談義され、この地を九日町、当山を談義所と呼ぶ。後鳥羽院御勅願寺。 中興の祖恵鏡法印より34世。菊池・細川家など祈祷本坊、多くの信者の当病平癒・所願成弁の 祈願寺として現在に至る。
 1473年山鹿の温泉涸渇の折、当山中興八世宥明法印が硫礦山浄瑠璃寺(現在の薬師堂)を建立、 不借身命の大祈祷により温泉を復活させたのを祝って、山鹿の温泉祭が始められた。 また、法印供養法要の際山鹿庶民の献じた紙灯篭が灯篭祭の始まりとある。 お手植えの弁財天所縁の[童子椿]は法印の再来を待ち、花を開かず蕾のまま散るので有名。

八代方面に向かう。

医王寺:平安中期に創建されたと伝えられ、江戸時代寛文5年(1655)に、現在地に再興されました。歴代、八代城の安全と城主並びに城下、家内の除病息災・子孫繁栄を祈願して以来、八代城主 松井家の祈願寺だったお寺です。 
ご本尊は、薬師如来立像で、平安中期〜室町時代の作で桧の一木造り、高さ63.7cm、明治39年に国の文化財指定を受けました。聖観音は、鎌倉時代の作で桧の寄木造り、県指定重要文化財です。境内には、手足を病気、ケガから御守りいただける、青面金剛を祭神とする足手荒神、約300年も立ち続けた仁王様(石造の仁王像 高さ2m50cm)沢山の仏、神をおまつりしています。

八代城:元和8年(1622年)加藤正方によって築かれた。 熊本城に入封した加藤氏は元和の一国一城令の例外として熊本城と麦島城を残していたが、元和5年(1619年)麦島城は地震によって崩壊した。
熊本城主加藤忠広は幕府に麦島城を廃し新たに八代城を築くことを願い出て許された。 寛永9年(1632年)加藤忠広が改易となると替わって豊前国小倉から細川忠利が入封し、城代として弟立孝を本丸に父忠興を二の丸に置いた。 忠興が亡くなると家老の松井氏が城代となり以後明治に至る。

古麓城・鷹峰城:築城年代は定かではないが内河義真によって築かれたと云われる。 隠岐を脱した後醍醐天皇を伯耆国船上山に迎え、倒幕の兵を挙げた名和長年は、鎌倉幕府が滅亡すると、その功により嫡男義高に肥後国八代庄の地頭職が与えられた。 翌建武2年(1335年)一族の内河義真が代官として八代に下向し、南北朝初期の争乱により城を築いた。これが八代城で現在古麓城と呼ばれている。
「太平記」には建武3年(1336年)に北朝方の一色範氏が内河の城(八代城)を攻めたことが記されている。
長禄3年(1459年)名和義興が十六才のときに殺害されると、幸松丸は元服して名和顕忠と名乗った。文明年間(1469年〜1487年)になると名和氏は相良氏と敵対するようになる。文明14年(1482年)名和顕忠が高田に侵攻するが相良為続に撃退され、翌15年には相良為続が逆に八代へ攻め入り古麓城は落城した。相良氏は一度退いたが文明16年に再び八代に侵攻してくると名和顕忠は古麓城を捨てて逃れた。
明応8年(1499年)相良氏は豊福で菊池能運と戦って敗れると、勢いに乗じて八代へ侵攻した菊池軍に追われ、八代の地は再び名和氏が復帰した。
文亀4年(1504年)相良長毎が八代へ侵攻すると、名和顕忠は古麓城を明け渡し、木原城を経て宇土古城へ移った。天文3年(1534年)には相良義滋(長唯)によって城の拡張と城下町の整備が行われ、自ら移って居城とした。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後に入封した佐々成政は肥後国人一揆により改易となり、代わって加藤清正と小西行長が入封する。八代は小西行長の所領となり、古麓城は廃され麦島城が築かれた。

人吉方面に向かう。

願成寺:当寺はおよそ770年前、四条天皇天福元年(1233)人吉城主初代相良三郎藤原長頼公の創建で、開山弘秀上人は建久9年遠州常福寺より来られました。 金堂は鎌倉の長勝寿院の大御堂を模造し、1345畳敷と伝わっています。本尊は阿弥陀如来です。 文禄元年、当山13世勢辰上人は大いに功あって、寺録を300石増加され、慶長16年(1611)当山は後陽成天皇の勅願所となりました。塔頭六院を設け諸堂伽藍を経営していましたが、永録15年と更には西南戦争で、古の諸堂伽藍は悉く焼失しました。しかし、国指定重要文化財の阿弥陀如来・県指定重要文化財の不動明王・両界曼荼羅・七重の石塔・相良家の墓地・古文書数千点他安泰を待所蔵。

高寺院:球磨地方は、かつて平家一門の荘園がありました。平家滅亡後、平重盛の家人だった平貞能が、追善菩提のため重盛の念持仏の金造毘沙門天を胎内に納めた尊像を刻み、堂宇を建立したのが高寺院の始まりとされています。また、一説には、永享5年(1433)に快親という僧が開山して、本尊に毘沙門天を安置したとも言われています。江戸時代には、かなりの諸堂が軒を連ねていました。庫裏を兼ねた本堂は、寄棟造の葦葺きで、山村の農家のような感じの建物。外観からはお寺とは思えないが、日本人のふるさとといった雰囲気があります。
本堂の裏手にある入母屋造の収蔵庫に、本尊などの諸仏が安置されています。内部に並ぶ三体の毘沙門天像は、まさに壮観であり威風堂々と立っています。このうち、二体が国指定の重要文化財であります。

観蓮寺:元は観琳寺といい、治承年間(1177〜1181)平重盛菩提のため、矢瀬主馬佑が建立したと伝えられています。その当時は禅宗の一派だったそうですが、大永6年(1526年)当地の内乱「瑞堅の乱」に依り堂宇も焼失してしまいました。慶長年間(1596〜1615)再興しその時から千福寺 観蓮寺と改称し真言宗に改められました。途中数回の無住の時を経て現在に至っています。
青井山高野寺:熊本県南部、清流「球磨川」の流れる街「人吉市」の中心部、国宝「青井阿蘇神社」 門前にお寺を構えます。  大正十五年、初代良戒大和尚により開山せられました。その当時から“お大師さん”や“こうやさん”と 呼ばれ、皆様に親しまれております。 山門を入りまして左手すぐのところに『新四国八十八ヵ所霊場』の八十八体の佛様が御鎮座されておられます。 四季折々の花を見る事が出来る参道を歩けば、正面に『御身堂(おんみどう)』と呼ばれる、当山本尊 「高祖弘法大師(おだいしさま)」のおられます蓮華の花を模した八角堂(本堂)がございます。 本堂入り口の手前右手には、小さな子供たちを抱いた愛らしい「水子地蔵」さまがおられます。

勘代寺:日本三代急流 球磨川の上流 奥球磨 美しい田園風景の中にございます多良木町に勘代寺はあります。寺暦は鎌倉時代中期からの歴史を有し、諸代相良家の祈願所とし栄え現在は地域の方々の心のよりどころとして、日々お香のたえることのないお寺です。ご本尊様は、秘仏十一面観世音菩薩さま 内陣には、等身大以上のお大師様 薬師如来 孔雀明王 不動明王 をおまつりしておりまた 境内には、修行大師 弥勒菩薩を中心に石像十二支守護本尊八体佛 疳封じ地蔵 水子地蔵 子安観音裏門からは 厄払いの男坂四十二段・女坂三十三段をのぼると、厄除け不動尊をおまつりしており、毎月のお大師様報恩日(21日)には、たくさんのお参りのかたがたに大数珠まわしをしていただき、護摩祈祷を修しております。

生善院:寛永2年(1625年)に創建され、熊本県南部に位置する真言宗智山派の寺院です。
 謀反の疑いで非業の死をとげた普門寺第5代住職盛譽法印と後を追って死んだその母玖月善女を 祀るために人吉藩主相良長毎公により建立されました。本堂には盛譽法印の影像である阿弥陀如来が、 観音堂には母玖月善女の影像である千手観音がそれぞれ納められています。 言い伝えでは、盛譽法印の母玖月善女は、その息子の死を怨み相良氏を呪いその愛猫「玉垂」とともに、 茂間ヶ崎淵(湯山ごしんさん)に身を投じました。その後、この猫が相良氏のもとに化けて出たため、 この猫の供養も兼ねて生善院が建てられたと伝えられており、この化け猫の伝説により生善院は 通称「猫寺」と呼ばれています。

鍋城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に上相良氏によって築かれたと云われ、 以後代々上相良氏の居城となった。
南北朝時代には上相良氏は南朝方となり、人吉の下相良氏は北朝方として対立するようになる。その後南朝方に属した上相良氏は形勢が不利となって下相良氏に帰順し、相良氏惣領の座は下相良氏へと移った。

熊本市方面に戻る。

御船城:築城年代は定かではない。 阿蘇惟長によって日向国に追われた阿蘇惟豊は、甲斐親直(宗運)の助けで惟長を追って復帰する。その後、阿蘇惟豊の命で御船城主御船房行を討った甲斐宗運は、御船城主となった。宗運は御船城を居城として勢力を持ち、大友氏と阿蘇氏の間に立って重要な役目を果たしたが、耳川の合戦で大友氏の勢力が衰えると、島津氏の命で攻め寄せた相良義陽を響ヶ原で討ち取るなどの戦功をあげた。宗運が亡くなると島津氏が北上して益城郡の諸城を落とし、御船城主甲斐親乗は城を捨てて退散した。

岩尾城:築城年代は定かではないが貞応年間(1222年〜1224年)頃に阿蘇惟次によって築かれたと云われる。 阿蘇氏の浜の館の詰城として築かれたものである。
天文21年(1552年)に岩尾城で火事があったことが「八代日記」に記されているという。

18:10熊本空港到達。
19:20熊本空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州熊本県に足を運び、九州八十八ヶ所13箇所、お城・城下町6箇所を巡り楽しみました。

天候快晴、久々のドライブ日和、気温も比較的暖かく、気持よく、霊場・お城を回るこtが出きました。

九州の八十八ヶ所、お城巡り、徐々に制覇し続けています。明後日は長崎の霊場、お城巡りを予定しています。


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十五弾:広島県お城・城下町巡り観光
2016年2月6ー7日

毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を破ったことをきっかけに、中国地方に巨大な勢力が展開され、山陰を抑えた吉川元春、山陽を治めた小早川隆景による毛利両川体制が支配の拡大に大きく寄与した広島県に足を運び、比較的マイナーなお城・城下町を巡りました。

6日18:20新大阪新幹線のぞみで出発
19:28福山駅到達、駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
7日:8:00レンタカーで出発、城跡巡り。

神辺城:神辺城は、建武2年に朝山景連によって築城され、嘉吉の変の時に赤松氏討伐のため山名丈休が修築した。
戦国時代の天文17年に杉原忠興が城主であったが、忠興が大内氏から尼子氏へ属したため、大内義隆の重臣陶隆房によって攻められ落城した。
その後、杉原忠興は毛利元就に従い城主に返り咲くが、永禄7年には毛利元就の7男元康が城主となった。
慶長5年、関ヶ原の戦功により広島城主となった福島正則の持城となり城代が置かれた。 元和5年に福島氏改易の後、大和郡山から水野勝成が入城するが、福山城築城に伴い廃城となった。

桜山城:桜山城は、築城年代や築城者は定かでないが、文応〜文永年間に山名氏正が居城していたが、弟山名備中に殺され、その後備中を氏正の子が討って再び桜山城に居城したと伝えられている。
遺構には中世後半の特徴が見られることから、戦国時代の永禄10年に小早川隆景が三原城を築城するが、この時期に背後の桜山城を三原城の詰の城として修築したと考えられている。

相方城:相方城は、永禄6年に毛利の武将で宮一族の有地元重が、宮氏の本城亀寿山城と相対するようにこの城を築城した。
天正初年、元重が出雲富田月山城主尼子氏に従うと、毛利方の神辺城主杉原盛重が攻めたが容易に落ちず、毛利の援軍が到来して開城した。
有地元盛は、備中猿掛城の合戦、大坂石山の木津川口での海戦、播磨上月城攻めに参陣・奮戦している。
天正15年、豊臣秀吉による山城禁止令によって相方城は廃城となった。 尚、相方城の城門が戸手天王社に移築されている。

鞆城:鞆の浦には、古くから大可島城が村上水軍の拠点としてあった。 鞆城の築城年代には諸説が在るが、天正3年、織田信長によって京を追放された足利義昭はを毛利輝元は鞆城に迎えている。
慶長5年、関ヶ原の戦功により安芸・備後の太守として福島正則が広島城に入城すると、鞆城には重臣大崎玄蕃を入れて、天守の建築などの城の修築を行った。
元和の一国一城令により鞆城は廃城となった。 しかし、廃城後も大手門等は存在し、城としての機能は残った。 福山城主となった水野勝成は、鞆城に嫡男勝俊を居住させている。 その後、福山藩の鞆奉行所となった。

鷲羽山城:建武3年・延元元年(1336年)杉原信平・為平兄弟によって築かれたと云われる。 杉原(椙原)氏は丹波国椙原発祥で桓武平氏。平貞盛を祖としているが、平清盛の四代孫秀衡の子恒平を養子に迎えていることから平秀衡の後裔とも称している。
椙原胤平の子、信平・為平兄弟は再興をかけて九州へ落ちた足利尊氏にしたがって九州の多々良浜の戦いで功を挙げ、木梨十三か村(尾道・後地・栗原・吉和・久山田・木原・猪子迫・白江・三成・市原・木梨・小原・梶山田)を領し鷲尾山城を築いたという。
鷲尾山城主は信平・光守・元盛・元直・光恒と続いたが、天文12年(1543年)尼子晴久の軍勢によって攻められ鷲尾山城は落城、杉原光恒は自刃して果てた。 光恒の子隆盛(始め高盛・元清とも)は大内義隆の助力を得て鷲尾山城主となり釈迦ヶ峰城と改められた。
元亀3年(1572年)石原忠直に攻められ落城。高盛も討死してその子元恒は本郷城主古志豊長を頼り、後に小早川隆景の助力で石原氏を討って釈迦ヶ峰城を取り戻した。
天正12年(1584年)元恒は千光寺山城を築いて移り廃城となった。

三原城:三原城は、永禄10年に毛利両川の小早川隆景によって築かれた。 隆景は、それまでの新高山城から三原城へと移したが、その後も逐次増改築が繰り返され、天正10年まで完成したと言われている。
天正15年、小早川隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増されて名島城に居城を移す。 文禄4年、隆景は養子秀秋に家督を譲り、三原城に隠居、慶長2年に没した。
慶長5年に関ヶ原の戦功で福島正則が安芸広島城に入ると、三原城には福島正之が入った。 元和5年、福島正則が改易となった後、紀伊和歌山から浅野長晟が広島城へ入封する。 三原へは、浅野家筆頭家老浅野長吉が紀伊新宮より入り、代々相続し明治に至った。 

高山城:高山城は、建永元年に源平合戦の時、源頼朝に仕えた土肥実平の子孫小早川茂平が東国から沼田荘に本拠を移して高山城を築城した。 小早川氏は、一族を各所に配して土着させ勢力の拡大を図った。
分家の木村城主竹原小早川氏と嫡流家とは不和になり、応仁の乱の時には、東軍に与した嫡流家を西軍に与した竹原家が2度に渡って高山城を攻めることもあった。
戦国時代の天文19年、沼田の小早川嫡流家の当主繁平は、盲目であったため、繁平の妹婿に分家竹原小早川隆景がなり、嫡流家の養子となって沼田・竹原両小早川氏が合体した。
天文20年に隆景は、竹原小早川氏の居城木村城から高山城へ移る。 そして、翌年に隆景は、中世城郭の縄張りであった高山城を廃し、戦国時代の乱世に適した新城を沼田川を挟んで対岸にある砦を大修築して築いた。 これが新高山城でる。

新高山城:小早川隆景は、天文2年に吉田郡山城主毛利元就の三男に生まれた。 天正10年、13代小早川興景が銀山城(広島市)攻めに出陣中に病死すると、興景夫人が元就の姪であった関係から、天正13年に養子に迎えられ、竹原小早川氏14代を相続した。
隆景は、天正19年に沼田小早川繁平の養子となり、小早川本家をも相続して高山城へと移り、天正21年に新高山城を築いて居城を移した。
隆景の晩年、養子秀秋に筑前名島城と家督を譲ると、慶長元年に三原城を隠居城と定め、新高山城の石垣の巨石を残らず三原城へと運んだと云われている。  

頭崎城:
頭崎城は標高504.3mの頭崎山に築かれている。城域は広く東西約700m、南北約500mと安芸国でも有数の規模を誇る。主郭部は山頂にあり、石垣の残る「甲の丸(本丸)」の南に「二の丸」、南東下の頭崎神社のある所が「三の丸」、その南の高台が南北二段の「太鼓の段」、南西に伸びた尾根にあるのが「煙硝の段」、主郭の北西下に「西の丸」、以上が主郭部の曲輪で看板の建っているものである。他に確認した看板は三の丸から南へ降りた所にある鳥居の段、北西から続く林道側にある「大将の陣」である。西の丸から東へ回り込んだ所には連続竪堀、さらに北東下に降りていくと畝状竪堀群が残っている。南西側の谷間一帯には屋敷跡のような平段遺構が数多く残されており、一部に石積を伴っている。「大将の陣」と呼ばれる所は最高所が林道によって切通されているが、北と南に平段遺構が連なっている。

鏡山城:鏡山城は、長禄・寛正年間に大内氏によって築かれたと云われている。西条盆地は、室町時代には安芸の中心地で、安芸に進出した大内氏の拠点が鏡山城であった。 応仁の乱から戦国時代にかけて、この城の争奪戦がくり広げられた。
大永3年、出雲富田城主尼子経久の芸備進出に対抗して、大内義興は鏡山城に蔵田房信を置いた。 しかし、尼子経久は、毛利元就ら芸備の諸将らを先鋒に城を囲み、城将房信の奮戦もむなしく落城した。

府中出張城:築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)白井胤時によって築かれたと云われる。 白井氏は千葉上総介忠常の後裔義胤が上野国白井山田荘を領して白井氏と名乗り、その子胤時が下向して出張城を築いて居城としたと云う。
白井氏ははじめ安芸国守護の銀山城武田氏に属し、明応4年(1495年)武田元信より「安芸国仁保島海上諸公事」が認められ、仁保島付近を航行する所船からの勘過料を徴収する権利を得ている。
白井氏は主に水軍を持って勢力を張っていたようで、大永7年間(1527年)には周防国大内氏に属し、天文8年(1539年)には武田氏の川内警固衆を敗っている。
陶晴賢が大内義隆を討つと、その後、台頭してきた毛利元就によって追われ、白井氏は大内氏の宇賀島水軍と合流する。弘治元年(1555年)には矢野保木城にて大内方として毛利に抵抗していた野間隆実を援護するため、呉浦や仁保島、海田などを襲撃する。 しかし、陶晴賢が厳島合戦において毛利元就に敗れると、後に白井氏は小早川隆景に降った。

銀山城:
城は北から張り出した尾根の先端にあり、主郭から南の尾根と東の尾根に曲輪を配している。城への登城路は両尾根の谷を北西から南東へと落ちる竪堀とされる。この竪堀は谷の奥で主郭側から落ちる数条の竪堀群と合流するようになっている。主郭部は南から北へ伸びた尾根にあり、三段の曲輪がある。北側が主郭と思われる。 主郭は北側を堀切で断ち、北と西側に土塁があるとされるが、わずかに高くなっている程度である。西側の南端隅部に石積がわずかに残されている。 一番南側の曲輪の北東隅に虎口があり、両側が土塁となっている。この虎口は外側に空間があり、そこから東面を北側へと通路が走り登城路とされる竪堀へと通じる。この南の曲輪の西側面には畝状竪堀があるとされるが薮が深く見付からなかった。東尾根に配された曲輪群は北側に土塁が残り、南側は石垣が部分的に残っている。ここから登城路とされる竪堀を狙うのは容易である。

桜尾城:桜尾城の築城年代は定かではないが、鎌倉時代には厳島神社神主佐伯氏の本拠となっていた。 室町時代には、安芸の守護武田氏は佐西郡の領有をめぐって、佐伯氏としばしば戦っている。
厳島の合戦の前年、天文23年に毛利元就は桜尾城を占拠して、重臣桂元澄に守らせている。 元澄没後、元就の四男穂田元清が城主となり、慶長5年の関ヶ原の合戦後毛利氏が防長に転封するまで、西方の政治・軍事の要衝であった。

亀居城:慶長5年、関ヶ原で西軍に与した毛利輝元は防長2ヶ国に減封され長門萩に移った。 替わって、福島正則が尾張清洲から安芸・備後2ヶ国の領主として広島城に入城した。
正則は、領国に6支城(三原・三次・神辺・鞆・東城・亀居)を構えることにし、小方の地には甥の福島伯耆を配した。
亀居城は、慶長8年から築城を開始し、慶長13年に完成する。 しかし、完成間もない慶長16年に、幕府の圧力により廃城となった。 また、元和5年には、福島正則もまた広島城無届け修築を理由に改易となった。

18:05広島駅に向かう。
18:45広島駅到達。
18:57広島駅新幹線のぞみで出発
20:18新大阪到達。
今回の旅行、広島県に足を運び、福山からスタートし大竹までのお城14箇所を巡り楽しみました。

山城、平城、平山城とタイプの違ったお城を14箇所、時間かけて探し出して訪れました。

今回は遺残の多い城跡が多く、歴史を感じ取ることが出きました。