飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十三弾:徳島県お城・城下町巡り観光第二弾
2016年3月26ー27日 

瀬戸内海・紀伊水道・太平洋に面している一方で、山地も多く、県全体面積の約8割を占めているという自然に恵まれた地域です。また、阿波人形浄瑠璃や情緒あふれるうだつの町並み、そして四国八十八ヶ所霊場などの歴史や文化が今も多く残る町の徳島県に足を運び紀伊水道沿いに点在する比較的マイナーなお城・城下町の4箇所を巡りました。

26日14:30車で阪神淡路鳴門自動車道経由して徳島に向かう。
16:25徳島市内のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

27日7:00車で出発、紀伊水道沿いに点在するお城・城下町を巡る。

平島館:
築城年代は定かではないが藤原清兼によって築かれた平島塁がその前身である。天文3年(1534年)室町幕府11代将軍足利義澄の二男足利義維(後の義冬)が阿波国守護職細川持隆に招かれ、三千貫の所領を与えられて阿波へ移り、平島塁を修築して住んだのが平島館である。
平島館に代々住んだ足利氏は阿波公方あるいは平島公方と呼ばれた。足利義冬の長男が永禄11年(1568年)に三好三人衆に奉じられて第十四代室町幕府将軍となった足利義栄である。江戸時代になって蜂須賀氏が支配するようになると平島公方の所領は減らされ、わずか百石となった。四代義次のときには足利から平島に改めるように命じられ、以後平島氏を称するようになる。文化2年(1805年)九代義根のとき阿波から脱出して紀州経由で京へ上った。これにより平島館は廃城となった。

牛岐城:築城年代は定かではない。 観応2年・正平6年(1351年)足利義詮の家臣で淡路国由良城主である安宅備後守頼藤と、同族で紀伊国周参見見氏が竹原庄を知行したとき、牛牧庄を預かっている。
延文3年・正平13年(1358年)に安宅氏は南朝方に与したが、貞治元年・正平17年(1362年)頃には阿波国の南朝勢力は一掃され、安宅氏も阿波を追われた。
その後、阿波国守護職細川氏の家臣新開氏(しんがい)が入部した。この新開氏は武蔵国新戒を出自とする豪族である。
天正3年(1575年)土佐の長宗我部元親が阿波への侵攻を開始すると、天正8年(1580年)には牛岐城主の新開遠江守実綱入道道善も降伏した。
天正10年(1582年)中富川の戦いでは長宗我部方として戦ったが、同年10月に丈六寺に招かれて謀殺された。その後、元親は弟の香宗我部親泰を海部城から牛岐城へ移し、阿波の拠点としている。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で、木津城が落城したことから香宗我部親泰も牛岐城を破棄して土佐へ退いた。その後、阿波へ入部した蜂須賀家政は家臣の細山帯刀(後に賀島主水正と改名)が一万石で城主となり、阿波九城の一つとなった。
賀島氏が入城した後、牛岐から富岡に改称され富岡城と呼ばれたが、寛永15年(1638年)一国一城令によって廃城となった。

日和佐城:
築城年代は定かではないが元亀年間(1570年~1573年)日和佐肥前守によって築かれたと云われる。天正5年(1577年)(一説に天正3年)日和佐氏は長宗我部元親に降った。

海部城:築城年代は定かではないが永禄年間(1558年~1570年)頃に海部左近将監友光によって築かれたと云われる。
海部川流域に勢力を持った海部氏が戦国時代末期に海部川下流の鞆浦に築城したのが始まりであった。海部氏は三好氏に従っていたが、長宗我部元親が土佐国を統一すると阿波国の最前線となっていた。
元亀2年(1571年)長宗我部元親の末弟である島弥九郎親益は、病気療養の為に土佐国から海路有馬温泉に療養に赴く途中、強風によって那佐湾に停泊した。この知らせを聞いた海部友光は手勢を率いて島弥九郎を討ち取った。これを期に長宗我部元親は阿波国へ侵攻することとなる。
天正3年(1575年)大軍を率いて海部城を攻めると、海部方の武将で鉄砲の名手栗原伊賀右衛門は攻め寄せる敵兵を尽く打ち落としていた。しかし長宗我部方の武将で槍の名手である黒岩治左衛門によって討たれてしまい、ついに海部城も落城した。一説にこの戦いは宍喰城での戦いで、海部城では主力が三好氏に従軍して留守であったため、抵抗する間もなく開城したとも云われる。
海部城を攻め落とした元親は弟の香宗我部親泰を海部城に入れて阿波国の拠点としたが、その後に牛岐城へ移っている。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐によって蜂須賀家政が阿波国へ入封すると、阿波九城の一つとして大多和長右衛門正之を入れ改修された。その後、城番は中村右近大夫重友、益田宮内一政そして一政の子、益田豊後守行長へと替わった。この行長は藩の掟を破り、木材を切り出して江戸で売り払い私腹を肥やして謀叛を企て処刑された。
寛永15年(1638年)海部城は廃城となり、かわって東麓に御陣屋が築かれた。

12:30終了、帰路に向かう。

今回の旅行、徳島県に足を運び、紀伊水道沿いに点在する比較的マイナーなお城・城下町4箇所を訪れて楽しみました。
徳島のお城巡り第二弾で今回で徳島のお城をほぼ制覇しました。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十ニ弾:台湾台中・台南観光
2016年3月19ー21日 

日本の九州の大きさと同じ程度の土地に約2350万人弱の人々が暮らし、人口の98%は漢民族、残り2%が14の原住民系民族と言われています。主要都市は「台北」や「高雄」で、話されている言語は中国語と台湾語が主になります。日本と台湾の関係は、1972年の日中共同声明が基本となっていますので、「非政府間の実務関係」として維持されていると言われています。また民間レベルでの交流は、極めて親日的として知られており、台湾から日本への訪問人数、日本から台湾への訪問人数は非常に高い水準で維持されている状況の台湾に足を運び、台北、高雄に次ぐ台湾第3の都市で、台湾の西部中心部よりやや北に位置しています。近年の台湾経済の発展を支える成長の著しい地ですが、現在の台湾経済や文化面でも重要な役割を担っている新しい都市でもあります。新都市らしく街並みも整備され道路も広く、いまだ街のあちこちで都市作りの工事が続く活気のある街です。また、暑い夏と冬の温度差はわずかに10度ほどと年間を通し温暖で、台湾の人々の間でも、台湾中で最も気候の良い街と言われています台中、日本でいえば京都のような古い町並みと歴史を持つ街で億載金城や赤嵌楼など数多くの古跡や歴史的建造物が残っており、また、郊外には、曾文ダムや関仔嶺、月世界、南部横貫道路など有名な景勝地があり滝や渓谷、森林、渓流、高山などレジャーに適した自然が豊富にあり、ハイキングやトレッキングにも適した滞在地の台南を訪れました。

19日19:00関西国際空港、チャイナエアラインで出発
21:20台湾桃園国際空港到達、タクシーで台北市内のホテル到着就寝

20日7:00台北高速鉄道で出発
9:04台南到達、タクシーで台南タウンに向かう。
9:20台南タウン散策

国立成功大学:成功大学の「成功」は、台湾の英雄「鄭成功」からとったもの。台南には鄭成功にまつわる史跡がたくさんあります。構内で是非見ていただきたいのは昭和天皇のお手植えと言われているガジュマルの巨木です。

台南公園:

立入国小:

神農老街:清時代の街並みが残るエリア。築200年以上の古民家が並ぶ。夜にはライトアップされるので、夜に訪れるのもよい。神農街とは「神農廟」へと続く参道である。

大天后宮:1684年に建てられた。祀られているのは、「媽祖」である。大天后宮周辺は、昔の街並みが残っており、散策が非常に楽しいエリアである。

祀典武廟:赤嵌楼の真向かいにあります。お参りセットなども売っている、三国志の武将・関羽を祀った廟です。

赤崁楼:オランダ人によって築かれた。元の名前は「プロヴィンティア」(Provintia)である。鄭成功が台湾を占拠すると、プロヴィンティアは東都承天府と改名すると同時に、台湾の最高行政機関として使われるようになる。

天壇:神格が最高位の玉皇大帝を祭る廟で、一般に天后廟ともよばれている。必見は正面に掲げられた「一」の文字で、台湾で最も美しい「一」といわれている。地元の人は旧暦の毎月1日と15日に、家内安全祈願のお参りをします。

呉園:

台湾府城隍廟:1669年建造の台湾最古の城隍廟。地域の守護神であり、また死後の世界を管理する神とされる城隍爺を祭っており、地獄の裁判官ともよばれる。そろばんをはじいて死者の生前の善悪を計算し、天に昇るか地獄に落ちるかの評価を下すと考えられています。

国立台湾文学館:台湾語や客家語で記された作品をはじめ、台湾の文学と歴史に関する展示を行う博物館。建物は日本統治時代の1916年に台南州庁として建てられた西洋建築で、建築家は日本人の森山松之助。雰囲気の良いオープンエアのカフェが併設されています。

孔子廟:1666年に開かれた、台湾で初めての孔子廟とされる。清の統治時代の末期までは、台湾全島でもっとも格の高い教育機関であった。入り口には「全台首学」と書かれており、その名残がみられる。なお、現在の建物は日本統治時代の1917年に再建されたものである。

大南門:台南の城市をぐるりと囲む城壁と城門は1730年代に造られ、なかでも南門は正門としての威容を誇っていた。二重構造で外壁の石垣が半月形をしているので月城というロマンチックな名前もある。内門の上には燕尾瓦の屋根も美しい櫓が立つ立派な城門だが、大南門以外に当時の遺構はほとんど残っていないといいます。

延平郡王祠:オランダ支配から台湾を解放に導いた民族的英雄・鄭成功を祭る廟。1662年の創建で、古くは開山王廟と呼ばれ日本統治期には開山神社と改称されました。

大東門:台南の東の防衛の門です。迎春門とも呼ばれていました。大南門と同様に18世紀初めに建てられました。現在の門は20世紀後半に復元された門です。現在は広い道路の中央にあります

14:30タクシーで台南駅に向かう。

15:01台南高速鉄道で出発
15:46台中到達、タクシーで台中タウンのホテルに向かう。
16:05ホテル到達。
17:00散策

国立台湾美術館:アジア一の規模を誇る美術館で、原則的に入館無料で楽しむことができます。定期的に様々なテーマの美術展が開催され、館内は子どものための絵本センターや美術関係の図書館など施設が充実しています。

中華路夜市:台中で一番歴史のある夜市。創業50年以上続くという屋台も多く、蛇料理やすっぽん料理、鵝肉(がちょう肉)料理や臭豆腐などの珍しい食材がいっぱいです。ほとんどの屋台では後ろにテーブルが用意され、台湾ビールを飲みながらゆっくりと食事ができるようになっています。中華路夜市は生活に密着した夜市で、服や雑貨のお店よりも圧倒的に飲食店が多いのが特徴です。

19:00ホテル到着、食事を済ませて就寝

21日台中散策

国立自然科学博物館:1986年に設立の台湾初の科学博物館です。宇宙ホール、鳥瞰ホール、立体ホール、環境ホールの4つのテーマに別れ、全部見て回るには丸一日かかります。一番人気はコンピューター制御で動く恐竜の親子と、それを2回から眺める葉っぱの服を着た恐竜のおじさん。3分に1度、現代の環境破壊について嘆き、ぼやいているというユニークなものです。

精明一街:

文心玉市:

宝覚寺:台中大仏とも呼ばれる金色に輝く弥勒大仏像(布袋)で有名なお寺です。高さは約30mで台湾では2番目の大きさ。この大仏の耳を触ると幸福に、へそを触るとへそくりが増えるのだとか。大きすぎて触れないので、代わりに近くの小さな大仏を触ります。その大仏を触ると同じご利益が得られるのだそうです。大きな大仏の内部は台湾民族文物館になっていて、おへそが窓にあたるという凝った造りになっています。また、円覚寺には日本人戦死者の慰霊碑があり、毎年11月には台湾で物故された日本人の慰霊祭が行われます。

孔子廟:台湾の学問の神様、孔子廟。1726年に建立された由緒あるお寺です。受験シーズンが近くなると多くの受験生が合格祈願に訪れますが、それ以外は市民の憩いの場として利用されています。台湾では珍しい宋式のデザインで、美しい装飾が施されています。

台湾伝統版印特蔵室:

中山公園:1903年、日本統治時代に市民の憩いの場所として整備された公園です。公園の中心にある日月湖は初夏から初秋にかけて、蓮の花が水面に花を咲かせます。日月湖に浮かぶ島に建てられた東屋は日本の親王の休憩場所として建てられたもので、台中公園にはこのような日本と関わりの深いものが随所に見られます。

市議会:街中でパッと目を惹く白い洋館の「台中市政府庁舎」。実はこちら、日本統治時代に作られた歴史ある建物なのです。

元は、旧台中州庁でしたが、現在は市役所の事務所として使用。日中、建物内の見学も可能なので、足を運んでみる価値はありますよ。中庭が広く、芝生は手入れが行き届いてとっても綺麗。また、暗くなるとライトアップされた姿もうっとりする美しさです。

台中駅:台中駅は台中市の中心駅です。日本統治時代にオープンした駅舎は、赤レンガを使った英国風のデザインが特徴的で、築70年以上を経過しています。レトロな雰囲気のある駅ですが、駅舎内にはハンバーガー屋やコンビニ、土産物店などがありとても便利です。食堂やレストランはないので、名物の駅弁「排骨弁当」を楽しみましょう。

11:30タクシーで高速鉄道台中駅に向かう。
12:07台中高速鉄道で出発
12:55桃園到達、シャトルバスで台湾桃園国際空港に向かう。
13:20台湾桃園国際空港到達
21日17:25台湾桃園国際空港チャイナエアラインで出発
20:50関西国際空港到達。

今回の旅行、東南アジアの日本と親日の台湾に足を運び、台北、高雄に次ぐ台湾第3の都市で、台湾の西部中心部よりやや北に位置しています。近年の台湾経済の発展を支える成長の著しい地、台中、日本でいえば京都のような古い町並みと歴史を持つ街で億載金城や赤嵌楼など数多くの古跡や歴史的建造物が残っている台南を訪れ、散策観光して楽しみました。
今回で3回めの訪れの台湾、西部地区はほぼ制覇、次回は東部の花蓮・台東を訪れる予定です。

狭い台湾、東部を訪れたら、最終的には、レンタカーで秘境を含めくまなく巡りたいと考えています。
























飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十一弾:宮崎県お城・城下町巡り観光
2016年3月12ー13日 

九州に足を運び、守護大名の伊東氏が権力を持つが、木崎原の戦いで島津氏に大敗を喫すると、豊後の大友氏を頼り、島津氏と大友氏が激しく戦い、最終的には豊臣秀吉の九州統一によって争乱にピリオドが打たれた宮崎県を訪れ、宮崎県に点在する比較的マイナーなお城・城下町を17箇所巡りました。

12日14:45伊丹空港出発
15:50宮崎空港到達、レンタカーでお城巡り

清武城:築城年代は定かではないが文和年間(1352年~1356年)清武氏によって築かれた。 清武氏は伊東氏の支族である。 伊東氏四十八城の一つ であったが天正5年(1577年)伊東氏が豊後に逃亡後は島津氏の領地となり伊集院久宣が城主となった。 豊臣秀吉による九州征伐の後は伊東氏の所領となり稲津氏が城主となった。 関ヶ原合戦では稲津氏は宮崎城を攻め落とし佐土原城にも攻め寄せた。

穆佐城:築城年代は定かではないが元弘年間(1331年~1334年)足利尊氏によって築かれた。尊氏は妻の出である赤橋氏の所領とした。この後、伊東氏、土持氏など南北朝の武将が争った。
応永年間(1394年~1428年)には薩摩国の島津元久が侵攻し周辺諸城を落として子豊久(後の8代当主)に守らせた。
文安2年(1445年)伊東氏が攻め取り落合治部少輔を置き以後伊東氏が豊後に逃れるまで伊東氏48支城の一つとなった。

綾城:築城年代は定かではないが元弘年間(1331年~1334年)頃に綾氏によって築かれたと云われる。綾氏は足利尊氏の家臣細川小四郎義門がこの地を領し、その子義遠が収納使として下向、綾氏を称した。綾氏ははじめ内屋敷城を築いて居館とし、後に詰城として綾城を築いたという。
綾氏は義遠以降、義勝、義廉、義郷、義佐、義範、義継、義義と八代続き、伊東氏に従った。その後は伊東氏48城の一つとなり、長倉若狭守、稲津越前守、佐土原遠江守が城主を務めたが、天正5年(1577年)伊東氏は島津氏によって日向を追われ、島津の所領となった。
島津氏の時代になると新納久時、上井秀秋、蒲生清宣、本田新平、新納久時、大野将監と城主が続き元和の一国一城令によって廃城となった。

宮崎城:築城年代は定かではない。建武2年(1335年)に図師随円・慈円父子がこの城を拠点に南朝方として兵を挙げたことが知られる。
慈円は北朝方の縣城主土持宣栄に攻められ落城した。
戦国時代は伊東氏の城で一族の伊東県氏が居たが、文安3年(1446年)島津に内応したことから伊東祐堯がこれを奪い取り、家臣の落合彦左衛門を置いた。
天文3年(1534年)伊東家の家督を継いだ伊東祐吉が宮崎城を居城としたが、天文5年に病没。祐吉の兄義祐が還俗して家督を継ぎ、佐土原城から宮崎城へ一時居城を移したが、都於郡城へ移り、宮崎城には肥田木越前守が守将となり伊東氏48城の一つとなった。
天正6年(1578年)伊東氏が没落すると島津豊後守忠朝、天正8年には上井覚兼が城主となった。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の後は延岡の高橋元種の所領となり、家臣の権藤種盛が置かれた。。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で、東軍に属していた飫肥の伊東祐兵の部将稲津掃部助は西軍に属した高橋元種の宮崎城を攻め落としたが、高橋氏は東軍に寝返っていたことから宮崎城は高橋氏に返還されるという「稲津騒動」の舞台となった。

19:30宮崎駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

13日7:00レンタカーで出発、お城巡り

日南方面に向かう。

南郷城:慶長6年(1601年)伊東祐慶によって築かれたと云われる。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で、伊東祐慶は清武城主稲津重政に命じて西軍の大垣城に籠城していた縣城主高橋元種の支城宮崎城を攻め落とさせた。しかし、高橋元種は東軍に寝返って本領安堵となっていたため、宮崎城は高橋氏に返還され、稲津重政は責任を負わされる形で粛正された。
翌慶長6年(1601年)島津氏に対する備えとして築いたのが、この南郷城だと云われる。 しかし、元和元年(1615年)一国一城令によって廃城となった。

目井城:築城年代は定かではないが天文年間(1532年~1555年)に島津忠広によって築かれたと云われる。
飫肥城主であった島津忠広が支城として築き、家臣の日高源左衛門に守らせたが、源左衛門は伊東氏に降り、その後は度々島津氏と伊東氏によって争われた。永禄11年(1568年)伊東氏が飫肥城を奪取した後はその家臣川崎駿河守が入り伊東氏四十八城の一つに数えられた。

串間方面に向かう。

櫛間城:建武2年(1336年)に野辺盛忠によって築かれたと云われる。
野辺久盛の子盛忠が南朝方に属して櫛間城を居城とした。野辺氏は盛忠のあと、盛房、盛久、盛在、盛仁と続くが、嘉吉元年(1441年)盛仁は足利義満の子の大覚寺義有(義昭)を匿った罪で罰せられ、野辺氏は滅亡する。
野辺氏の後は伊作久逸が城主となった。久逸は飫肥城主の新納忠続と争いとなって伊東氏と結ぶなど島津氏に反旗を翻したが、その後降伏して伊作の地に戻り、櫛間は飫肥城主となった島津忠廉の管理となった。
天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後、筑前国古処山城より秋月種実・種長が高鍋三万石に転封となり高鍋城へ移った。慶長4年(1597)には櫛間城へ移り居城としたが、慶長9(1604年)に再び高鍋城を居城としたため廃城となった。以後、串間は高鍋藩の飛領地となった。

都城方面に向かう。

都城城:永和元年・天授元年(1375年)北郷義久によって築かれた。 北郷氏(ほんごう)は島津忠宗の六男資忠が戦功をあげ、北郷を所領し北郷氏を称した事に始まる。
北郷氏は2代義久の時、都之城を築き居城として以来、天正15年(1587年)から慶長5年(1600年)までの間に一時伊集院氏の領地となったが、元和の一国一城令で廃城となった後は、都城麓で明治まで続いた。
豊臣秀吉によって九州が統一されると、伊集院忠棟が都之城に入封するが、主家島津氏の転覆を画策した忠棟は伏見の島津邸で成敗された。これを知った子忠真は都之城をはじめ、月山日和城・山ノ口城・勝岡城・梶山城・安永城・志和池城・山田城・野々美谷城・梅北城・財部城・末吉城・恒吉城に兵を入れ徹底抗戦に出た。しかし慶長5年(1600年)徳川家康の仲介で忠真は降り庄内の乱は幕を閉じた。

祝吉館:築城年代は定かではない。 島津氏発祥の地として知られる。 島津忠久は惟宗広言の子で文治元年(1185年)伊勢国須可荘の地頭職と島津荘の下司を得た。さらに薩摩国・大隅国・日向国の守護職を得て鎌倉から下向した。
島津家は多数の分家を排出したが、薩州家は実久の時に相州家忠良に破れ、その子貴久によって一族が統一され、義久の代には九州の大半を制圧するに至ったが、天正15年(1587年)豊臣秀吉に破れ、薩摩国・大隅国と日向国の一部の所領となった。

梶山城:築城年代は定かではないが応永年間(1394年~1428年)高木氏によって築かれたと云われる。 嘉吉元年(1441年)島津忠朝の所領となったが、明応4年(1495年)伊東氏の所領となった。
大永2年(1522年)山田城主北郷久家が攻め寄せたが、伊東氏が待ち構え久家を討ち取った。
豊臣秀吉によって九州が統一された後は伊集院氏の所領となった。

勝岡城:築城年代は定かではないが文保年間(1317年~1319年)島津資久によって築かれたと云われる。 資久は島津忠宗の五男で文保2年(1318年)樺山地方三百町を譲られ樺山氏を称した。
明応4年(1495年)には伊東氏の所領となり加江田氏を城主とし、後永正17年(1520年)荒武藤兵衛を城主として改修させ、北郷氏の侵攻を破った。
しかし、天文元年(1532年)には北郷氏に破れ、豊臣秀吉の九州統一後は伊集院氏の所領となったが、庄内の乱の後、元和の一国一城令により廃城となった。

えびの方面に向かう。

加久藤城:築城年代は定かではないが応永年間(1394年~1428年)に北原氏によって築かれたと云われる。
飯野城主の北原氏の城で、徳満城の支城であったが、北原氏に代わって島津義弘が飯野城主となったとき、久藤城に新城と中城を拡張し加久藤城と名付けた。加久藤城には広瀬夫人と長子鶴寿丸を住まわせ川上忠智を城代とした。
元亀3年(1572年)伊東氏が加久藤城の鑰掛口を攻めた「木崎原合戦」の舞台となり、島津軍に敗れ壊滅的打撃を被った伊東氏はその後衰退の道をたどっていくこととなる。

日向方面に向かう。

都於郡城:建武4年・延元2年(1337年)伊東祐持によって築かれたと云われる。 伊東氏は源頼朝の家臣工藤祐経が日向の地頭職を得てその子祐時が伊東氏を称したことに始まる。祐持のとき日向に下って都於郡城を築いたが、その後京都で没し、祐持の子祐重が貞和4年(1348年)に日向に下向、一族の守永祐氏に奪われていた都於郡城を回復して居城とした。
その後、伊東氏代々の居城として続いたが、永正元年(1504年)火災によって焼失し、その後は宮崎城や佐土原城などを居城とすることもあった。伊東義祐は嫡男義益を都於郡城に置いて自身は宮崎城や佐土原城を居城とした。家督を継いだ義益が没すると、その嫡男義賢も都於郡城主となった。
日向一円に勢力を拡げ伊東氏四十八城と呼ばれる勢力を持った伊東氏も、天正5年(1577年)島津氏に敗れ、豊後の大友宗麟を頼って落ちていった。
島津氏の所領となると鎌田政親が城主となり、天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後は佐土原領となった。

佐土原城:築城年代は定かではないが建武年間(1334年~1338年)田島氏によって築かれたと云われる。 田島氏は伊東祐時の子祐明が田島庄の代官として居住したため田島氏を名乗ったことに始まる。
伊東義祐は天文21年(1552年)京都金閣寺に模した金柏寺を建立するなどその栄華を誇ったが元亀3年(1572年)木崎原合戦で島津氏に大敗すると天正5年(1577年)一族を率いて豊後国大友氏を頼り落ち延びた。
その後、佐土原城は島津義久の弟家久が城主となったが九州征伐の後に急死した。 家久の子豊久が継いだものの関ヶ原合戦に参戦し義弘の退却戦で殿を勤め戦死、一時天領となった。
慶長8年(1603年)島津以久が三万石で垂水から入封し2代忠興の時、山下に二の丸を移して御殿が建てられた。

高鍋城:築城年代は定かではないが斉衡年間(854年~857年)財部土持氏によって築かれたと云われる。 財部土持氏は日向一円に広がった土持七頭の一つであったが、長禄元年(1457年)景綱の時、伊東祐尭に小浪川合戦で敗れ滅亡した。
伊東氏は落合民部少輔を城主とし伊東氏48城のうちの一つとなった。
豊臣秀吉による九州統一後は秋月種実の所領となり、慶長9年(1604年)種長の時、串間城から財部城に居城を移した後、明治まで秋月氏の治政が続いた。
慶長12年(1607年)からは城改修を行い、山上に三重櫓が設けられるなど近世城郭へと変貌した。また地名も延宝元年(1673年)三代種信の時、高鍋と改めた。

高城:建武2年(1335年)新納時久によって築かれたと云われる。 新納氏は島津忠宗の四男時久が足利尊氏から新納院を与えられ新納氏を称したことに始まる。新納氏が上京中に富山国長に城を奪われ、後に新納土持氏の所領となったが、長禄元年(1457年)土持景綱が伊東祐尭に敗れると伊東氏の所領となった。伊東氏は野村蔵人佐を城主として伊東氏四十八城の一つに数えられたが、天正5年(157年)伊東氏は島津に敗れて豊後に逃走し、島津氏は山田有信を城主とした。天正6年(1578年)大友宗麟の大軍は松山塁などに布陣して高城を包囲したが、城主山田有信はわずかな兵で島津の援軍がくるまで耐えた。島津義久も軍勢を率いて駆け付け、両軍は高城川で激突し、緒戦は大友軍が押し込んでいたが、次第に島津軍が優勢となり大友軍は敗走、島津の追撃にあい耳川に追い詰められ大敗した。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐では、羽柴秀長率いる二十万の大軍に攻められた。山田有信はわずかに千五百の兵で籠城して耐えたが、援軍に駆け付けた島津義久の軍勢は白根坂で秀長軍と戦い敗れ撤退、その後島津義久は秀長を経由して秀吉に降伏した。高城が開城したのは義久の降伏であった。

松山塁:天正6年(1578年)佐伯宗天によって築かれたと云われる。
天正6年(1578年)豊後の大友宗麟の軍勢は日向へ侵攻し、高城を攻めるため野久尾陣、松山陣(惣陣)、田間陣、河原陣、松原陣の五箇所に陣を構えた。この松山陣には佐伯宗天が布陣した。この高城合戦で敗れた大友軍は敗走する中でさらに多くの将兵を失い、以降衰退していく。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐では羽柴秀長の軍勢が高城を攻めたときにも活用された。

18:00宮崎空港到達
19:30宮崎空港出発
20:35伊丹空港到達。 

今回の旅行、九州宮崎県に足を運び、宮崎に点在する比較的マイナーなお城17箇所を巡りました。

城跡は際立った遺残が少ないところが多いが、今回は櫓有り、石垣有り、石碑ありと城跡を想像できる歴史的建造物が多く確認できました。又位置を見つけるのも容易でした。

宮崎北部の延岡方面以外の城を制覇出来た宮崎県ドライブ城跡巡りでした。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十弾:福岡県九州八十八ヶ所巡り&篠栗八十八ヶ所巡り観光
2016年3月5ー6日 

南の九州に足を運び、福岡県を訪れ、九州八十八ヶ所10箇所、観光客を含めると年間百万人が訪れ、霊跡の地に創られた新四国霊場の一つである篠栗八十八ヶ所37箇所を巡りました。

篠栗八十八ヶ所:福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八カ所の札所があり、全国から多くの参拝者が集まります。 南蔵院を総本寺とする 篠栗霊場とも言われます。
唐から帰国した弘法大師(空海)が修行した霊験あらたかな土地で、1835年この地を訪れた尼僧慈忍が八十八カ所の創設を発願したのが始まりと言われています。

5日13:42新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:11博多駅到達、レンタカーで霊場巡り。

海心寺: 津東山海心寺(シントウザン カイシンジ)は福岡県福津市にある高野山真言宗のお寺です。開祖 海範和尚により旧津屋崎町東町に草堂を建立し、高野山本覚院より弘法大師像を勧請し本尊としたのが始まり。 その後、二世 勉(ベン)和尚にて信貴山より毘沙門天を勧請され、現在の地に毘沙門天堂が建立されました。いまでは旧津屋崎町東町のお堂を「海心寺奥の院」 宮司のお堂を「毘沙門さん」として地域の皆様に親しまれております。

鎮国寺:長安の青龍寺で恵果和尚から密教の秘法を授かり、大同元年(806)にご帰朝された弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げをこうむり、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号されました。
宗像三柱の御本地仏として、大日如来、釈迦如来、薬師如来の三尊を刻み、本尊と定められ、「真言秘密の大法を伝え得たるは、危難をお救い下さった不動明王様のお蔭に他ならず」と謹刻された不動明王立像は、現在護摩堂に安置され、霊験あらたかで遠近から篤い参詣が絶えません。
 境内は一年を通じて色とりどりの風景を楽しむことができます。正月から早咲きの淡紅梅が、2月には早咲きの桜も開花し、梅と桜の競演が楽しめます。4月は約40種類の桜が次々と咲き乱れ、ツツジやシャクナゲも境内を一層賑やかに彩ります。アジサイ、花蓮、彼岸花と続き、秋の紅葉は11月末から12月初旬が見頃です。

鎮国寺奥の院:長安の青龍寺で恵果和尚から密教の秘法を授かり、大同元年(806)にご帰朝された弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げをこうむり、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号されました。
宗像三柱の御本地仏として、大日如来、釈迦如来、薬師如来の三尊を刻み、本尊と定められ、「真言秘密の大法を伝え得たるは、危難をお救い下さった不動明王様のお蔭に他ならず」と謹刻された不動明王立像は、現在護摩堂に安置され、霊験あらたかで遠近から篤い参詣が絶えません。
 境内は一年を通じて色とりどりの風景を楽しむことができます。正月から早咲きの淡紅梅が、2月には早咲きの桜も開花し、梅と桜の競演が楽しめます。4月は約40種類の桜が次々と咲き乱れ、ツツジやシャクナゲも境内を一層賑やかに彩ります。アジサイ、花蓮、彼岸花と続き、秋の紅葉は11月末から12月初旬が見頃です。

18:30宗像付近のホテル到着し食事を済ませて就寝。

7:00レンタカーで出発、霊場巡り。

宗像観音寺:宗像観音寺は宗像大社の包括に有り、閑静な住宅地で、国道3号線バイパス光岡の信号を北へ入りJR尾園踏切手前約30m位の場所を左折した所にあります。 開基の因は昭和28年に全海僧が外国航海中に度々夢の中に聖観音像が現れ当地に祭るようになり、時を経て全海僧の勧めもあって、妻和子も仏門に帰依して“光染尼”と改名し、現在住職を務めています。
昭和55年高野山の承認を得て、寺号を戴き宗像観音寺となり、平成7年9月本堂を建立。当寺境内には九州二十四地蔵3番札所一言地蔵尊・薬師如来・十三仏像・修行大師像・聖観音像等を祭っております。

観音寺:当地は、もとは鷲尾山といわれ、山頂の鷲尾神社(西暦十二年創建)の別当坊「東林寺」(天台宗、八五九年開創)があった。寛永十一年(一六三四年)黒田二代 藩主忠之公、幕府より謀反の疑惑(黒田騒動、日本三大騒動の一つ)を受け愛宕神に祈願したところ、ほどなく嫌疑が晴れたことから、山頂に愛宕神社を開創 し、別当坊「円満寺」(真言宗)を置いた。同年九月博多東長寺中興・快周大和尚導師のもと御遷座大法要が修行された。
以後、歴代藩主の御祈願所として信仰を集め山岳信仰の拠点として隆盛を極めた。明治三十四年(一九〇一年)の神仏分離令により「東林寺」は「円満寺」 とともに廃寺となり当地に観音堂を残こした。愛宕大権現の本地佛、御本尊勝軍地蔵尊は、この観音堂に迎えた。数々の苦難のたびに出現され奇跡を起こし、難 なく乗り越えられた御本尊様は、「諸難を除く愛宕権現」と詠われ、熱心な信仰を集め、特に、御百度参りや毎月の御1日(おついたち)参り、二十四日の(御 本尊縁日)には多数の信者で賑う。バスの参拝は山頂でバスを降りて階段を下り、参拝の間、バスは山を下り階下に移動して出発するのが便利。

法蔵寺:ベットタウン化する姪ノ浜の地において、高層マンションが立ち並び福岡市の中心になりつつある西区の中で、一歩旧道に入ると昔ながらの町並みが残る。この町並みの一郭に法蔵院がたたずんでいる。昭和初期 開山瑞光尼より建立された当寺は、今では霊場開創の祖と言われる。「
第三世覚誠和尚の誓願」であった「九州の地に八十八ヶ所を開創」し、人々に癒しと心のよりどころの地として、教えを伝承し たくさんの巡礼者をおまちしています。

誓願寺:創建安元元年(1175年)落慶法要導師栄西(開山)本尊は阿弥陀如来、但し誓願寺奥の院は毘沙門天裏山、毘沙門山といい「今津の毘沙門さん」 として、近郷に流布している。最盛期は1山42坊ありましたが、現在は大泉坊のみ現存してます栄西筆「誓願寺盂蘭盆一品経縁起」は国宝その他重要文化財等数多くありますが、国立博物館に寄託中です。 歴史は少々ありますが、お寺自体は質素で「心安らぐ境内」と好む人もボチボチいます

千如寺大悲王院:福岡、佐賀両県にまたがる背振山系の雷山(標高955m)の中腹に位置する千如寺は、寺伝によれば仏教公伝前の成務天皇48年(148)にインドの僧清賀上人によって開創されました。 鎌倉時代には、北に玄海灘を臨む位置にあるため、元寇に対する最前線の祈祷寺院として栄へ、最盛期には三百の僧坊があったと伝えられています。
 その後、室町から戦国の長い戦乱の中で、僧坊は荒廃し、千如寺のみを残すのみとなりましたが、宝暦3年(1753)福岡藩主の黒田継高公によって大悲王院が建立されました。  明治維新の神仏分離令により、雷神社の神宮寺であった千如寺は廃寺となり、本尊を始め全ての仏像、古文書等は大悲王院に移され、現在千如寺の法灯は大悲王院によって守り伝えられています。

隆善寺:隆善寺は玄界灘の美しい海と雷山山脈の深い山々に囲まれた“自然豊かな町”、“福岡のベットタウン”という二面性を持った自然と人工の調和した町、前原市にあります。 厄除開運・商売繁昌・病気平癒・学業上達等、種々の御祈祷・御祈願の寺で参拝者が絶えません。 ご本尊将軍地蔵菩薩は諸々の禍や様々な魔に対して、打ち勝たせてくれる地蔵尊です。 その他、境内には修行大師を始め、
十三仏・文殊菩薩わらべ地蔵などを安置しております。またお腹をくぐりご縁を願うカエルもいます

眞光寺:糸島市は、金印伝説で知られる「魏志倭人伝」に記された、伊都国に属し、当寺は 二丈岳(伝、二上山)登山口の一つに位置します。更に当寺周辺(旧糸島郡二丈町)は古 より神仏習合の地として、又、密教興隆の聖地とされていました。
眞光院は、大正年間、福岡県篠栗に開創、後に福岡市簀子町に移り、さらに平成元 年、仏様の導きとこの地へのご縁により当所へ寺院建立致しました。
この眞光院移築に際し、「因縁転化の道場」として大随求菩薩を御本尊にお迎え致 しました。大随求菩薩尊は「いかなる極悪重罪の人をも救い、いかなる願いをも叶え る」とされており、どんな人でも救ってくださるという大慈悲の仏様です。随求さん にお願いすると願い事が叶う、と熱心な参拝者も多くお見えになります。
また、当山鎮守の尊として清瀧大権現をお祀りしております。清瀧権現様は、「因 縁転化秘法」の主尊でもあり所願成就のため力を発揮してくださいます。また諸堂宇 には倶利伽羅不動明王、お綱大明神を奉安しております。
境内からは姫島が海を隔てて正面に見え、夕日が島々を赤く染め海に沈みゆく様は まさに極楽浄土の世界です。また背後の二丈岳からの清水(伏流水)が境内を潤しています。

篠栗方面に向かう。

本明院:

高田虚空蔵堂:

高田阿弥陀堂:

高田観音堂:

高田十一面観音堂:

中町延命寺:

下町薬師堂:

補陀洛寺:第七十九番「補陀洛寺(ふだらくじ)」は篠栗四国霊場の”打ち納め札所”としてJR篠栗駅からすぐの場所に位置する。
御本尊の十一面観世音菩薩は諸病緒難を除き、福徳を授かるといわれている。寺名の「ふだらく」は観世音菩薩の住むという補陀洛山(補陀洛浄土)に由来する。お遍路コースのゴール地点として春秋のお遍路シーズンには多くの参拝者が訪れる。
すぐ近くには旅館とお土産屋も並んでいるのでお遍路さんにとっては便利なお寺だろう。

中町屋島寺:

篠栗公園大日寺:

篠栗恩山寺:

遍照院:
明治時代より100年以上の歴史を持つ遍照院。境内には6メートルを超える「修行大師像」が建立されており、この寺院のシンボルとして祀られている。
また、ここでは病気を治してくれるという言い伝えのある「病立切地蔵(やまいたちきりじぞう)」が安置してある。このお地蔵さまは何層にも衣装をまとっているが、ここに来て重い病気が治ったと、お礼の衣装を着せに来る参拝者が後を立たないという。このように県外からの参拝者だけでなくまた、地元の人からの信仰も非常に厚い寺院である。
毎月第1日曜日(2・7月以外)午後1時より月例護摩を行っている。

金出大日堂:

珠林寺薬師堂:

金出観音堂:

金出神峰寺:

弘照院:初代住職は、明治35年、針ノ耳親子岩と本尊聖観世音菩薩の霊験にうたれて、札所の小さな庵に入庵して、熱心に布教活動を行なった。大正8年、ご利益を得て子宝に恵まれた夫婦が、子安観音像を奉納され、針ノ耳子安観音として知られるようになり、子宝・安産の仏様として多くの人に信仰されている。もう一つの見所の「十夜ヶ橋(とよがはし)」は、その昔、お大師様が愛媛県大洲地方を訪れた折、その地方はあまりにも貧しく、橋の下で一夜を過された。その夜が十夜のように感じられたことから「十夜ヶ橋」と呼ばれる橋がある。二代目住職が四国巡拝中に感得し、境内に橋を築いて、橋の下にお大師様を勧請した。観音祭は1・7月を除いて毎月18日に行います。また、1月の第4木曜と7月の第2木曜に奥之院参拝、それ以外の月の第2木曜に篠栗参りを行っております。車でお参りし、1年で2周します。初代住職は、明治35年、針ノ耳親子岩と本尊聖観世音菩薩の霊験にうたれて、札所の小さな庵に入庵して、熱心に布教活動を行なった。大正8年、ご利益を得て子宝に恵まれた夫婦が、子安観音像を奉納され、針ノ耳子安観音として知られるようになり、子宝・安産の仏様として多くの人に信仰されている。もう一つの見所の「十夜ヶ橋(とよがはし)」は、その昔、お大師様が愛媛県大洲地方を訪れた折、その地方はあまりにも貧しく、橋の下で一夜を過された。その夜が十夜のように感じられたことから「十夜ヶ橋」と呼ばれる橋がある。二代目住職が四国巡拝中に感得し、境内に橋を築いて、橋の下にお大師様を勧請した。観音祭は1・7月を除いて毎月18日に行います。また、1月の第4木曜と7月の第2木曜に奥之院参拝、それ以外の月の第2木曜に篠栗参りを行っております。車でお参りし、1年で2周します。

妙音寺:

観音坂観音寺:

雷音寺:
ここは火伏せのお寺として信仰のある寺院。佐賀にて当時多発していた火災消滅を願って佐賀県の消防団の人たちがお参りを始めたところ、火災が減ったとのことで文化防災デーには毎年参拝しているというほど。また、そのせいかこの寺の住居の屋根下には“これがあると火災が起こらない”と言われる空の大きな蜂の巣があり、広く火伏せの寺として信仰が厚い。ちなみに、この寺名の由来は雷がお釈迦様の説教の音のように聞こえることから「雷音寺」となっているそうだ。毎月第4日曜日に護摩祈願を行っている。

萩尾薬師堂:

萩尾阿弥陀堂:

呑山観音寺:
昔から“のみやまさん”の通称で親しまれている霊場「呑山観音寺」。年間の参拝者は100万人を超え、霊験あらたかなお寺としてご利益を求める祈願者が後をたたない。そんな呑山観音寺では年に三つの大きな行事を行っている。3月の第2日曜は「星まつり」では招福開運・商売繁盛を祈る“七福宝銭まき”を行っており、毎年1,500人以上の人でにぎわう。
8月第3日曜には「精霊まつり三大供養会」(流水灌頂会・水子供養万燈会・大施餓鬼会)、10月の第3日曜には千手観音秘法護摩供と大般若経600巻転読による“ご開帳大祈祷会”など大きな行事を行い、信仰を集めている。
また、ここの見所としては水子地蔵尊(3,000体以上)や、弘法大師と稲荷大明神が祭られる大師堂と稲荷社などがあり、訪れた際にはぜひ参拝していただきたい。毎月第3日曜日、午前10時半より月例観音護摩法要が行われている。

天王院:もともとは紀州高野山にあった鎌倉時代創建の古刹だったが、明治以降に廃寺となっていたのを昭和48年に、この地に移し再建されたのがこの「天王院」だ。中国から帰国中のお大師さまを海難から救ったという波切不動明王を本尊とし、海上安全、大漁祈願はもとより人生の荒波を鎮めて運を切り開く開運出世の御仏として信仰を集めている。
また、ここの本堂は、篠栗の中でもっとも大きな本堂としても知られ、新緑や紅葉など四季折々の景色を楽しむ参拝者も多い。大きな行事としては、12月の第3土曜の夕方から翌朝にかけて30名の僧侶の介添のもと全国でも珍しい荒行“八千枚不動明王護摩大行”を行っており、篠栗霊場の一年の納め行事として恒例となっている。
また、本堂脇にある愛染堂には恋愛成就の仏様、愛染明王が祀られている。毎月28日、午前10時半より波切不動護摩法要が行われている。

五塔ノ滝観音堂:

大宝寺:鳴淵ダムのふもとに位置する大宝寺。ここは耳鳴平癒祈願の参拝者が多く訪れるお寺。ことのおこりは、ある時、耳鳴りに悩む方が、ここへ日参し、それが治り感謝の気持ちから耳鳴りの鈴が奉納されました。以来、今でも多くの方々がご祈願に参拝されています。また、縁結びのお寺としても有名で、良い縁にめぐり合えなかった参拝者同士がここで出会って結ばれたというなんともおめでたいご縁の寺でもあります。ここでは百萬辺大数珠くりや毎月第三日曜日(2月を除く)には月例護摩祈願祭を行っています。宇宙と自然と観音さまのパワーを授かって下さい。

明石寺:

鳥越観音堂:

山手観音堂:

山手薬師堂:

山王薬師堂:

山王寺:約3メートルの弘法大師坐像を安置する山王寺。これだけ大きな坐像は他に類をみないが、ここでの見所はこれだけではない。大師堂内には映画「無法松の一生」にて坂東妻三郎が実際に使用した人力車が奉納されているのだ。当時北九州からの参拝者であった大森重雄さんから昭和38年に奉納されたもので、過去には石原裕次郎や勝新太郎も使用したという逸話もあり、非常に貴重な人力車である。この他にも、本堂には本尊大日如来像や、本四国より勧請された蔵王権現像を祀っており、ここを訪れた際には一見しておくべきだろう。
毎月第2日曜と28日、午前11時より月例護摩供を行っている

山王釈迦堂:

山王釈迦堂:

山王薬師堂:

延命寺:

篠栗地蔵堂:

17:30博多駅に向かう。
18:35博多駅到達。
18:58博多駅新幹線のぞみで出発。
21:20新大阪駅到達。

今回の旅行、九州福岡に足を運び、福岡に点在する九州八十八ヶ所10箇所、篠栗八十八ヶ所37箇所を車で訪れ楽しみました。
九州八十八ヶ所の霊場は比較的立派なお寺が多く、一方篠栗八十八ヶ所の霊場はエリアも狭く、霊場も小ぶりでしたが、ルート、案内板がわかりやすく、駐車場も整備されており、時間のロスもなく巡ることができました。

両方の霊場は位置が集中していてエリアも広くなく、移動に時間がかかりませんでしたので、総霊場47箇所を巡ることが出きました。