飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十六弾:アゼルバイジャン・ジョージア・アルメニア観光
2016年4月28日ー5月5日
  

ヨーロッパのコーカサス地方に足を運び、カスピ海に突き出たアプシェロン半島の南に位置する首都バクーからなりシルクロードの中継地区として隊商たちが行き交わったところで、城壁に囲まれた旧市街には、イスラームのモスクやミナレットが建ち、当時の面影を伝えているアゼルバイジャン、トルコから流れてくるムトゥクヴァリ川の流域に開けた町、三方を山に囲まれ、斜面には家々が肩を寄せ合うようにびっしりとへばりついている首都トビシリが位置するジョージア、トルコ国境近く、南に万年雪を頂くアララト山を望み、町の歴史は紀元前8世紀まで遡り、世界でも最も古い街の一つ首都エレヴァンが位置するアルメニアを訪れました。

28日16:05関西空港出発
17:30成田空港到達
22:20成田空港カタール航空で出発
29日4:05ドーハ到達
6:40ドーハカタール航空で出発
10:25アゼルバイジャンバクー空港到達

 バクー市内観光:カスピ海の小さな港町だったアゼルバイジャンの首都バクー。今や第二のドバイと言われるほどの開発が進み、コーカサス地方の最大都市へと生まれ変わりつつあります。その開発の資金源とは油田、天然ガス、鉱石、キャビアといった天然資源。2018年には世界一高いアゼルバイジャンタワーが開業見込みです。一方でバクーの旧市街は世界遺産。伝統的な街並みを足元に、富める都会が形成されたユニークな街バクー。

殉教者の小道:殉教者の小道(Martyrs' Lane)、ここは、バクー市街やカスピ海を一望するハイランド・パーク(Dagustu Park/Highland Park)にある追悼モニュメントで、1990120日のソ連軍の侵攻による犠牲者のための墓地がある。

旧市街:バクー旧市街は、城壁に囲まれた一角で世界遺産に登録されています。城壁の中は石畳の街並みに日干しレンガ造りの民家、小さな商店、チャイを出すお店・・・どんどん発展をとげるバクーの中で、ここだけは昔の姿をそのままに残している場所です。

アジアとヨーロッパを結ぶシルクロードの中継都市でもあったバクー。旧市街のいろいろなところでその面影を伝えています。旧市街の北にある「シェマハ門」。13世紀からあるこの門は、シルクロードを行き交う旅人を見つめてきた旧市街への入り口です。2つある入り口の一つは人間、一つは旅人や荷物を背負ってきたラクダが検疫を受けた門です。門には今も旅の安全を祈る言葉が綴られています。

シェマハ門からほど近くには「キャラバンサライ」もあります。キャラバン(隊商)のサライ(宿)として、15世紀頃からシルクロードを移動する隊商によって宿として使われました。中庭の周囲を囲むようにある小部屋にはそれぞれブハラ、ムルタンなどの近隣諸国の都市名がついており、当時のバクーがシルクロードの中心都市として近隣の国や街との経済的な関係があったことを感じさせます。現在は「キャラバンサライレストラン」として使われており、伝統的なアゼルバイジャン料理をいただくことができます。

シルバン・シャフ・ハーン宮殿:15世紀に建造されたアゼルバイジャン初の世界遺産です。ディワンハーネ、ハーレム、ハマム、そしてモスクなどから形成され、16世紀までこの地を支配したシルヴァンシャー朝の王宮として使用されていました。2000年のバクー大地震により一時は危機遺産となりましたが、その後の復旧工事が行われ危機遺産リストから脱しています。現在、1920年に改修された宮殿部分が、博物館として一般に公開されています。

乙女の塔:「乙女の塔」は高さ28メートルの石壁の塔。12世紀頃の建造物で、望まぬ結婚を申し込まれた王女がこの塔からカスピ海へ身を投げたとの伝説に由来し、名付けられました。

レストランで夕食
ホテル到達後就寝
30日バクー市内観光

コブスタン遺跡:ゴブスタン(Gobustan)とは「ravine land」 すなわち「峡谷の地」という意味。 大コーカサス山とカスピ海が接続している所にあり、大コーカサス山地の支脈の一つが、 長い年月をかけて、 柔らかい粘土質の土壌が地殻変動や浸食作用により、 多くの峡谷が誕生した。 こうしできた多くの渓谷の洞窟が、 石器時代の人々の住居として長期間使用され続けた。4000ha以上であるこのコブスタン保護区域には、4,400の岩壁画があり、ゴブスタン全体が当時の生活を知る貴重な野外博物館のような場所となっている。 保護区とはなっているが、比較的フリーに見学できた。

ゴブスタンには無数の古代の岩絵が残されていて、主として女性や男性など、そして野牛や山羊、鹿やライオンなどが刻まれている。

排火教寺院:バクーの東30、車で約40分の所にあります。

この寺院は拝火教の寺院ですが、イスラムの流入によってこの地を追われたゾロアスター教徒がインド西北部に逃れ、その地でシヴァ女神信仰と混合するなど、 ヒンズー教の影響を受けつつ引き継がれた拝火教が、パールシーと呼ばれるその信者によってアゼルバイジャンに再びもたらした拝火教の寺院です。 彼らは隊商としてこの地を訪れており、宗教センターとしてだけでなく、商業活動センターとしての機能も併せ持つのがその特徴です。 建物は18世紀のもので比較的新しいですが、ゾロアスター教の寺院として、地中から吹き出る天然ガスにより赤々と灯された炎が人々の信仰を守ってきた場所 です。現在、ゾロアスター教寺院としては機能していませんが、その炎が絶やされることはありません。

レストランで昼食

バクー空港に向かう。
18:50バクー空港出発
20:05ジョージアのトビリシ到達
レストランで夕食
夕食後ホテルで就寝
51日ジョージアの古都ムツヘタヘ

ムツヘタ到達後観光:トビリシから北西へ約25キロ、車で約30分のところにあるグルジアの古都。ムトゥクヴァリ川とアラグヴィ川が交差している場所に位置し、グルジア軍道の通過点の町。ムツヘタの町は1994年にユネスコの世界遺産に登録された。紀元前35世紀、グルジア南東部にあったイベリア王国の首都として栄えた。4世紀にミリアン王が聖ニノによりキリスト教に改宗し、グルジア正教の総主教座が置かれた。 5世紀に王ヴァフタング1世によって都は移されトビリシが首都となった。

ジュワリ聖堂:6世紀(586-604建)建立。ジュヴァリとは十字架の意味。伝説によれば、現在ジュワリ寺院が建っている丘に異教徒の神殿があったが、聖ニノがその場所に大きな木製の十字架を立てたと言う。その場所に小さな教会を経て、6世紀に現在の形の教会が建てられた。教会の中には、大きな十字架が立っている。入口の上部には天使が十字架を支えている浮彫細工(The Ascent of the Cross)がある。 また、十字架型(cross-type)の教会として初めて建築された教会で、後に建てられた十字架型教会の見本になっている。

スベティツホベリ大聖堂:4世紀に、ミリアン3世がグルジア最古の木造聖堂を建立。ミリアン王夫妻はここで洗礼を受ける。5世紀にヴァフタン1世によって再建、10101029のギオルギ2世の下グルジアの建築家アルスキスゼ(Arsukisdze)によって現在の石造の教会が再建、18世紀にエレクレ2世によっても再建されている。要塞としても使用されていたため、石塀には銃眼がある。

トビリシのサメバ大聖堂の次に2番目にグルジアで大きな教会。4世紀~17世紀までグルジアの総主教座が置かれていた。グルジア王国の代々の戴冠式も行われ、ヴァフタン1世やエレクレ2世など王たちのお墓もある。1014日には建都を祝うお祭りが催される。

スヴェティツホヴェリは「生きている柱」という意味であり、名前の由来を伝える話がある。キリストがエルサレムで磔で処刑されたときに、ムツヘタ出身のグルジア・ユダヤ人のエリアスEliasが居合わせ、キリストの着衣の一部をムツヘタへ持ち帰った。彼の妹(姉)シドニアSidoniaがこの衣に触ると,神聖な力によって彼女は衣を握ったまま失神してしまう。彼女は衣を握ったままこの大聖堂の立っている場所に埋葬される。その後、その場所に杉が生える。4世紀に聖ニノがここに教会を建立することを決め、杉7本を伐採する。6本を立て、最後の1本を立てようとすと、木が宙に浮いて立てられない。聖ニノが一晩祈り続けると,最後の木は自ら地に戻り立ってしまう。この木からは聖油が流れ出て、この油により民衆の病を救うことができたという。

 現在もキリストの着衣が教会の下に眠っていると信じられ、教会の前では「聖なる油」が販売されている。

グルジア軍用道路を北に向かう。

アナヌリ教会:ジンヴァリ湖畔に建つ17世紀の教会。他のグルジアの教会と同じように要塞としての役割もあった。城塞の中には2つの教会があり、山側(道路側)がイエスキリストに捧げた教会、湖畔側が聖母マリアに捧げた教会(The large cupola church ghvtismhobeli, Mother of God)となっている。

畔側の教会は1689年建立。教会内部には見ごたえのあるイコノスタシス(障壁)がある。大部分のフレスコ画は18世紀の火事により損傷を受けているが、南側の壁には少しフレスコ画が残っている。また外部の壁には保存状態の良い浮彫細工の装飾が残っている。

山側の教会は17世紀初頭に創建され、湖畔側の教会より古いものになる。鐘楼から眺めるジンヴァリ湖の景色も素晴らしい。

レストランで昼食
トビリシへ

トビリシ到達後トビリシ市内観光:トビリシはジョージアの首都。シルクロードの町としてムトゥクヴァリ川Mtkwari(英語ではクラ川Kura)沿いに栄えた。東西南北から様々な民族が行き交いし、数々の他民族による侵略もあったため、現在も多文化を感じる街並みをもっている。トビリシにはグルジア正教の教会、アルメニア正教の教会、ユダヤ教のシナゴーグ、イスラム教寺院、カトリックの教会などがあり、トビリシの町の大きさでこれほど様々な民族が居住している町は世界でも少なく,他では味わえない雰囲気を楽しめるだろう。

メテヒ教会:旧市街のムトゥクヴァリ川沿いにある丘の上の教会。シルクロードを往還するキャラバン(隊商)が、安全を求めて逃げ込む要塞の役目も果たしていた。1235年のモンゴルの侵略によって破壊され、1289年デメテル2世によって再建。しかし、その後もオスマン帝国、サファヴィー王朝によって破壊されては再建されている。帝政ロシア時代には監獄として使用され、革命運動で検挙されたゴーリキーもここに幽閉された。また、ソヴィエト後期には劇場として使用されていた。1991年から再び教会として使用されている。

教会の横には1958年にトビリシ遷都1500年の記念に立てられた騎乗姿のゴルサゴリ像がある。

教会からはナリカラ要塞、旧市街、ムトゥクヴァリ川が見下ろせ、トビリシの景色を満喫することができる。

シナゴーグ:アハルツィヘからトビリシへ移り住んだグルジア・ユダヤ人によって1895-1903年に創建。「アハルツィへの人々のシナゴーグ(synagogue of the people of Akhaltsikhe)」とも呼ばれている。

シオニ教会:グルジア正教の総本山。575639年の間に創建されたが、メテヒ教会同様度重なる破壊と再建を繰り返した。シオニの名はエルサレムの聖シオニ山(Mt.Zion)に由来する。現在も聖ニノの十字架が納められている。内部はたくさんのイコンや壁画で美しい。

ナリカラ要塞 Narikala ნარიყალა:オリジナルの要塞は5世紀に新しい町トビリシを守るため創建された。現在はナリカラ城内に聖ニコロズ教会が建てられている。ナリカラからはトビリシの景色を見渡せ、メテヒ教会やハマムが見える。

ハマム(硫黄温泉大浴場):17世紀からある硫黄温泉の大浴場。フランスの小説家アレクサンドル デュマやロシアの詩人プーシキンもトビリシを訪れた際温泉を楽しんだ。浴場は2つあり、一つはロイヤル浴場(Royal Bath)。もう一つは青色のモスクの形をしたオルベリアニ浴場(Orbeliani Bath House)。個室もある。

グルジア母の像 Kartlis deda ქართლის დედა町のシンボルになっている像。ソロラキの丘の上に立っており右手に剣、左手にワインの杯を持っている。敵が来れば剣で戦う誇りをもち、友が来ればワインで歓迎するというシンボル的な意味がある。ナリカラ要塞から見える。

ワインを飲む人(タマダ)の像:トビリシ博物館の近くの路上にある。グルジアで出土した紀元前7世紀の「ワインを飲む人」のレプリカ。ワイン発祥の地と言われるグルジアならでは。

 平和橋 Peace Bridge/Mshvidobis hidi მშვიდობის ხიდი 201056日に開設されたムトゥクヴァリ川にかかる歩行者用の新しい橋が建設。イタリアの建築家ミケーレ デ ルッキ(Michel De Lucchi)のデザイン。

ムトゥクヴァリ川 Mtkvari river მტკვარი:トビリシの真ん中を流れる川。トルコからカスピ海まで続くこの川に沿ってシルクロードが通っていたため、この川を中心に町が栄えた。

ルスタヴェり通り Rustaveli Street რუსთაველის გამზირი:トビリシのメインストリート。オペラハウス、国会議事堂や多くの店が立ち並んでいる。散歩しながら、観光もできる大通り。

自由広場 Freedom Square თავისუფლების მოედანი(Tavisuplebis):ルスタヴェリ通りの東端にあり、広場の北側には噴水のある小さな公園、南側には美しい市庁舎がある。ソヴィエト崩壊後に起こった軍事クーデターや2003年のバラ革命の舞台となった。最寄り駅はダヴィズプレヴィスモエダニ駅。

旧市街 Old Tbilisi ძველი თბილისი:メテヒ教会、ナリカラ要塞、サメバ大聖堂辺りのエリア。古い町並みが残っており、ペルシャ統治時代の面影を残すバルコニーが見られる。

レストランで夕食
夕食後ホテル就寝

2日バスでアルメニアに向かう

アルメニアは「ノアの方舟」伝説で有名なアララト山の麓に広がる、世界最古のキリスト教国です。このアララト山は現在トルコ領となっていますが、紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に繁栄した大アルメニアの中心に位置していたことから、アルメニア民族のシンボルもなっています。アルメニア最大の見どころは古い教会。古代宗教の神殿遺跡なども数多く見られます。首都エレバン近郊にあるアルメニア正教の総本山「エチミアジン大聖堂」は、世界各国に散在するアルメニア人の心のよりどころとなっています。

アルメニア首都エレバンへ

アララト平野の南東に位置するアルメニアの首都です。その歴史はアルギシュティ1世によって要塞が築かれた紀元前8世紀にまで遡り、バグラト朝の中枢として栄えました。イルハン朝の中心都市となった後は、オスマン帝国とサファヴィー朝の角逐の場となり、サファヴィー朝ではエレバン・ハン国に編入されました。1679年に見舞われた大地震により多くの建造物が倒壊しましたが、エレバンの街にはそうした歴史を感じさせる重要な建造物が数多く残されています。また、郊外には、エチミアジン大聖堂、リプシマ教会、ズヴァルトノツ古代遺跡の3つのユネスコ遺産があります。

ハフパト修道院:聖ニシャンによって10世紀に創設された、ハフパットにある修道院です。アルメニア史上において、最も美しく壮麗な修道院の一つに数えられており、アルメニア国内にある聖十字架の中でもハフパットの聖十字架が最も有名です。「ウラルトゥ王国ハフパットの聖十字架」とも呼ばれるこの修道院には、最盛期に500人ほどの学僧が集まっていました。近くにあるサナイン修道院とともに、アルメニア教会の中心的な役割を果たしたこの修道院は、1996年にユネスコ世界遺産に登録されました。

レストランで昼食

途中アラガツ山を望む。

アラガツ山:アルメニア西部にある山。標高 4090mの火山で,噴火口は圏谷となっている。山頂部には氷河が発達。高山地域は牧場に利用され,山麓は農業地帯で,果樹,茶の栽培,養蚕が盛んである。

ホテル到達、夕食、就寝

3日ホルビラップ修道院:ノアの方舟で有名な美しいアララト山を望む修道院です。その歴史は4世紀にまで遡り、キリスト教の布教に勤めていた聖グレゴリウスが、13年もの間捕われていた場所として知られています。結局、時のアルメニア王ティリダテス3世がこれに屈し、301年にキリスト教がアルメニアの国教として定められました。また、カルタゴの将軍がここで晩年を過ごしたという伝説も残されています。

アララト山:聖書によるとノアの方舟が漂着したと伝えられる「アララト山」 大(5,137m)小(3,896m)二つの富士山より高い円錐型の綺麗な山容が平地から眺められます。

エチミアジン:アルメニア中西部、アルマヴィル・マルツ地方のアララト山とアラガツ山に挟まれたアララト平野に位置する、アルメニア使徒教会発祥の地です。後にヴァガルシュ王により、町の名はヴァガルシャパトと改称されました。ここには総本山となるエチミアジン大聖堂があり、アルメニア教会歴のクリスマスには、世界中から信者が集まります。エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡は、この地方の聖堂建築に大きな影響を与えたとされ、2000年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。

エチミアジン大聖堂:ガルニ村アルメニア使徒教会の総本山として知られる、アルメニア最古の大聖堂です。4世紀初頭に基礎部分が築かれ、その後幾度となく増築が繰り返されてきました。アルメニア風の中央ドームや十字廊の建物からは、その歴史が感じられます。この聖堂の建築を機に、アルメニア高地に次々と珠玉の宗教建築が建てられるようになりました。ここにはカトリックの法王庁に相当する大司教座が置かれ、神学校なども併設されています。また、聖堂の奥には、聖遺物や祭礼に使用される十字架などを集めた宝物館もあります。敷地内に並べられたハチュカル(十字架の碑)も必見です。

ガルニ神殿:ガルニ神殿はアルメニアに残る唯一のヘレニズム建築。紀元前3世紀から後3世紀ころまで太陽神の神殿・ミトラ神殿として使用されていたもので、1年に1度太陽が神殿の中を照らす構造になっているそうです。 現在の神殿は16世紀の地震で壊れたものを20世紀に修復したもの。青みを帯びた玄武岩で作られた神殿は美しく優美です。かってはブロンズの像といけにえ台が置かれていました。

ゲガルト洞窟修道院:エレヴァンの南東約30キロ、アザート川の上流にゲハルト修道院があります。ゲハルトとは「槍」の意味。キリストが十字架に磔になった時、キリストの脇腹を刺したと言われる槍が、ここに隠されていました。修道院の創建は4世紀に遡るという古いもので、現在の建物は13世紀に造られたもの。しかし、なんと言ってもこの修道院の特徴は岩山を彫り抜いて造られたということにあります。外から見ると一見普通の石造りの修道院ですが、修道院は岩場に張り付く形で作られており、洞窟寺院のようになっています。なお、聖槍は現在、エチミアジン大聖堂に保管されています。

エレバン市内に向かう共和国広場:エレバンの中心地にある共和国広場を散策する。

民族音楽ショーとともに夕食

ホテルに向かう

4日エレバン市内観光

カスケード:・カタラクトなどに通じる言葉で滝とか階段状のものを指す。ソ連・アルメニア共和国成立を記念して建てられたそうだ。内部にはエスカレーターがあり、楽に頂上部まで行ける

ジョージアのトビリシへ、途中

セバン湖:セヴァン湖はアルメニア・ゲガルクニク地方にある湖。アルメニア最大の湖で、大規模な湖としては世界で最も高地にあるものの一つ。

セバン修道院:セヴァン湖畔にある、9世紀に創建されたいくつもの建物からなる複合宗教施設です。現在は聖使徒教会と、聖書の物語が十字架を囲むようにして彫られている、珍しいハチュカル(十字架の碑)のある聖母教会のみが残されています。この2つの教会の横には、6本の木製の柱でできたガヴィト(回廊)の遺跡があります。このガヴィトや柱の一部は、エレバン歴史博物館で見ることができます。

レストランで昼食

トビリシ到達

21:05トビリシ空港カタール航空で出発
5日1:10ドーハ到達
2:40ドーハ空港カタール航空で出発
18:40成田空港到達
55日20:20成田空港出発
2150関西空港到達

 今回の旅行、ヨーロッパの旧ソビエトの国々、コーカサス地方に位置する、アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニアの三カ国を訪れ楽しみました。

観光名所はほとんどが教会で岩窟教会を含めて歴史深い歴史的建造物に触れ8日間の観光旅行満喫しました。

教会等歴史的建造物以外でアラフト山は3000m級の山と5000m級の山の総称で圧巻でした。

大アラフト山は5000mを超える山で迫力がありましたが小アラフト山は日本の富士山にそっくり、区別がつかないほどよく似ていました。

ジョージアとアルメニアの教会群をメインで訪れましたが、最初に訪れたアゼルバイジャンの首都バクはきれいな街で最新の建築技術で建てられた建物が多く、未来都市様な風貌を見受けられました。カスピ海の底に多くの油田が存在しオイルマネーでドバイに匹敵するように未来建築ラッシュで将来が大きく変貌する期待が膨らむ街になるでしょうね。数年後に訪れてみたいです。

比較的日本人にはなじみの少ないヨーロッパコーカサス地方の三つの国アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニア8日間の観光旅行でした。












































飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十五弾:茨城県お城・城下町巡り
2016年4月16ー17日
 

関東地方の南北朝の内乱で、常陸国も2つの勢力に分かれ、激しく火花を散らし、この争乱で北朝方の佐竹氏が発展し、文禄4年の常陸統一につながっていく、関ヶ原後、石田三成に協力した佐竹氏は秋田の国替となる茨城県に足を運び点在する比較的マイナーなお城10箇所を訪れました。

16日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:16品川駅到達
16:44品川駅特急ひたちで出発
18:07水戸駅到達、駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
17日8:00レンタカーで出発、お城巡り

那珂西城:藤原秀郷流那珂氏の居城と考えられていたが、現在では大中臣姓(おおなかとみせい)那珂氏の居城とする説が有力となっている。大中臣姓那珂氏の祖は賴継の子宗経で、実経、実久と続く。実久は御家人として常陸国那珂東郡・那珂西郡などの地頭職を得て那珂中左衛門尉を称し、その子時久は那珂三郎左衛門を称している。那珂氏はその後、丹波国天田郡金山郷へと移って行くがその時期は明確ではない。那珂宗泰が足利尊氏に従って丹波へ移った説が有力ではあるが、その祖父経久の時代とも云われる。いずれにしても那珂氏は古くより丹波の地に所領を得ていたようである。

石神城:延徳2年(1490年)小野崎通老によって築かれたと云われる。
延徳元年(1489年)陸奥の伊達・葦名・結城の軍勢が常陸へ侵攻してきたさい、主君の佐竹義治の身代わりとなって小野崎通綱は討死した。この功によって通綱の子通老は河合350貫、石神350貫の地を与えられ、石神城を築いて石神氏を称したという。
天文5年(1536年)石神通長のとき領地の境界を巡って争いとなり、同族の額田城主小野崎額田就通に攻められ石神城は落城した。その後、石神氏は帰城を許され、天正5年(1577年)には石神通実が三百六十騎を率いて佐竹義重に従い結城晴朝を授けた。天正12年(1584年)石神通信は佐竹義重に従って府中を攻め討死、通信の子石神通広のとき、佐竹氏に従って秋田へ移り廃城となった。

太田城:築城年代は定かではないが天仁2年(1109年)に小野崎通延によって築かれたと云われる。 小野崎氏は藤原秀郷流を称し、太田大夫公通が下野国佐野郷より常陸国大田郷にきて初代小野崎氏となり、その子通延も太田大夫を称している。太田城築城に関しては、この通延あるいはその子通成によるものとする説もある。
長承2年(1133年)には佐竹氏初代佐竹義昌が佐竹郷八ヶ村を領して馬坂城主となり、二代佐竹隆義は久安年間(1145年~1151年)頃に太田城主小野崎通成に圧力をかけ、通成は太田城を明け渡して小野崎城を築いて退き佐竹氏の家臣となった。以後、佐竹氏はこの太田城を居城とし、天正18(1590年)に江戸氏の水戸城を奪い居城を移すまで代々の居城であった。

助川海防城:天保7年(1836年)水戸藩主徳川斉昭によって築かれた。 水戸藩主徳川斉昭は家老の山野辺義観を海防総司に任命し、太平洋を見渡せる高台であるこの地に海防のための城を築かせた。
本丸、二の丸、三の丸を備えた本郭的な城郭であったが、元治元年(1864年)山野辺義芸のとき、天狗党の乱によって落城し焼失した。

龍子山城:築城年代は定かではない。応永年間(1394年~1428年)に大塚氏がこの辺りを支配して龍子山城を居城としたと云われる。
大塚氏の出自は詳らかではないが佐竹氏の一族あるいは小野崎氏の一族とする説もある。多賀郡大塚郷を発祥とし菅股城主であったが、龍子山城を築いて移ったという。
大塚氏ははじめ佐竹氏に従っていたが、文明17年(1485年)岩城常隆が侵攻して車城を攻め落とすと岩城氏に従った。その後は代々岩城氏に従っていたが、戦国時代末期に佐竹氏の勢力が拡大すると佐竹氏に従った。慶長元年(1596年)大塚隆通のとき、陸奥国楢葉郡折木へ転封となる。慶長7年(1602年)岩城貞隆が所領を没収されると、大塚氏は伊達氏の家臣で陸奥国角田城主の石川昭光を頼って家臣となった。
慶長7年(1602年)佐竹氏が秋田へ転封となると出羽国角館から戸沢政盛が四万石を領して小川城へ入り、慶長11年(1606年)龍子山城を改修して松岡城と改称して居城とし、松岡藩となった。元和8年(1622年)出羽国山形の最上氏改易により出羽国新庄へ六万石で転封となった。
戸沢氏の後は水戸藩領となり、付家老中山氏の所領となった。宝永4年(1707年)中山氏の所領が太田へ移されると太田へ移ったが、享和3年(1803年)再び高萩地方を知行することとなり、松岡館が再建された。

笠間城:元久2年(1202年)笠間時朝によって築かれたと云われる。 笠間氏は常陸国茨城郡笠間発祥で、下野国宇都宮氏の支流塩谷朝業の次男時朝が笠間に住み、笠間氏を名乗ったことに始まる。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、笠間綱家は宗家の意に反して小田原北条氏に味方した為、秀吉は宇都宮国綱に命じて笠間氏を滅ぼした。 その後、宇都宮氏の支配下に置かれたが慶長2年(1597年)宇都宮氏が改易となった後は、下野国宇都宮に入封した蒲生氏郷の家老蒲生氏成が三万石で笠間に入封した。
慶長6年(1601年)武蔵国私市より(松井)松平康重が三万石で入封、慶長13年(1608年)丹波国篠山へ転封。
慶長13年(1608年)下総国佐倉より小笠原吉次が三万石で入封、慶長14年(1609年)改易。
慶長17年(1612年)下総国古河より(戸田)松平康長が三万石で入封、元和2年(1616年)上野国高崎へ転封。
元和3年(1617年)上野国小幡より永井直勝が三万二千石で入封、元和8年(1622年)下総国古河に転封。
元和8年(1622年)常陸国真壁より浅野長重が五万三千石で入封、正保2年(1645年)長直の時、播磨国赤穂に転封。
正保2年(1645年)遠江国横須賀より井上正利が五万石で入封、元禄5年(1692年)正任の時、美濃国八幡に転封。
元禄5年(1692年)下野国足利より(本庄)松平宗資が四万石で入封、元禄15年(1702年)資俊の時、遠江国浜松へ転封。
元禄15年(1702年)常陸国下館より井上正岑が五万石で入封、延享4年(1747年)正経の時、陸奥国磐城平へ転封。
延享4年(1747年)日向国延岡より牧野貞通が八万石で入封、以後明治に至る。

宍戸城:建仁3年(1203年)宍戸家政によって築かれたのが始まりとされる。 宍戸氏は八田知家の四男家政が常陸国宍戸荘地頭職となり、宍戸氏を称したことに始まる。 小田城の小田氏、下野国茂木城の茂木氏などは同族である。
元弘3年(1333年)宍戸知時の子朝家は足利尊氏に従って六波羅を攻め、その功によって安芸国甲立荘を賜わり、建武元年(1334年)甲立に下向し、はじめ柳ヶ城を居城としたが、後に五龍城を築いて移った。この家系が毛利元就の長女五龍局を正室に迎えて一門となった安芸宍戸氏で、江戸時代は一門筆頭として長州藩家老となっている。
宍戸氏は当初小田氏に従っていたが、佐竹氏の勢力が拡大し、小田氏が衰退すると佐竹氏に属していくこととなる。天正18年(1590年)小田原征伐に参陣した佐竹氏は、秀吉より常陸大半の領有権を安堵された。これにより水戸城の江戸氏を攻めると、宍戸義綱は江戸氏に荷担して佐竹氏と戦い討死した。義綱の子義長は鹿島へ逃亡、宍戸宗家は佐竹氏と親密な関係にあった義利が継ぎ、文禄4年(1595年)には海老ヶ島城へ転封となった。 義利が没すると宍戸義長が家督を継いだが、関ヶ原合戦後に佐竹氏は出羽国秋田へ転封となる。しかし宍戸義長は秋田へは従わず土着している。宍戸氏の一族のうち秋田へ移ったものもおり、茂木氏とともに出羽国十二所城に配された。
慶長7年(1602年)出羽国秋田より(安東)秋田実李が五万石に減封され宍戸城に移された。この実季によって近世宍戸城が築かれたものと考えられている。 秋田氏は正保2年(1645年)秋田俊季のとき、陸奥国三春へ五万五千石で転封となり、幕府直轄領となった。
天和2年(1682年)徳川光圀の弟松平頼雄が一万石を与えられて諸侯に列し、宍戸に陣屋を設けて支配した。以後、松平氏が代々続いて明治に至る。

難台山城:この城は、南北朝時代の南朝の勢力が失われようとしていた元中4年(1387)小田第8代孝朝の子、五郎藤綱が小山隆政若犬丸に加担して挙兵したところである。足利方は、上杉朝宗を将として攻めたが、小田五郎はよく奮闘し南朝のため気を吐いした。朝宗は攻撃に手を焼き、近くの舘岸城に拠って持久戦法をとった。一方佐竹氏に真壁方面からの糧道を絶たれるにおよんで万策つき、自らは部下と共に自刃した。この戦を機に、南朝方はその勢力を失った。城跡は、難台山頂近くにあり、雑木林の中にわずかに石を組んだ跡がのこっている。

真壁城:承安2年(1172年)真壁長幹によって築かれたと云われる。 真壁氏は大掾氏の支流で多気直幹の四男長幹が常陸国真壁郡真壁郷を領して真壁氏を名乗ったことに始まる。
真壁氏は初代長幹以後400年余り真壁城を居城として続くが、小田氏・江戸氏・結城氏など諸豪族の狭間にあって領地の維持に奔走している。戦国時代になると常陸国守護佐竹氏が国内統一へ向けて勢力を拡大し、また小田原北条氏が関東へ進出するなど巨大勢力が迫る中、真壁久幹は長男に北条氏政より氏の字受け氏幹、次男には佐竹義昭より義の字を受け義幹と名乗らせている。最終的には佐竹氏に属し、関ヶ原合戦後佐竹氏に従って出羽国秋田へ移り出羽国角館城へと移った。
浅野長政が五万石で入封し長重が継いだが、元和8年(1622年)笠間へ転封となり、寛永元年(1624年)には稲葉正勝が一万石で入封したが、正勝は寛永5年(1628年)に下野国真岡を継ぎ廃藩となり、その後は天領となって廃城となった。

小幡城:築城年代は定かではない。応永24年(1417年)頃に大掾詮幹の三男義幹による築城、あるいは鎌倉時代に小田知重の三男光重が築いたという説などがあるが、いずれも確証はない。
戦国時代には小幡氏がいたが水戸城の江戸氏の支配下に置かれ、府中城の大掾氏との領地境に位置する小幡城は、重要な支城と位置づけられていた。
天正18年(1590年)小田原征伐に参陣しなかった江戸氏は、常陸の大半を安堵された佐竹氏によって瞬く間に滅ぼされ、この小幡城もその役目を終えたと推測される。

18:27水戸駅特急ひたちで出発
19:43東京駅到達
20:00東京駅新幹線のぞみで出発
22:33新大阪駅到達。

今回の旅行、関東地方の茨城県に足を運び、点在するお城10箇所を訪れて楽しみました。
遺残の少ない城跡が多く、又城址公園に変化しているところも多く見受けられました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十四弾:鳥取・岡山中国三十三所観音巡礼
2016年4月9ー10日

山陽路から山陰路へと続く三十七の観音霊場、四季折々、それぞれに美しい変化を見せる自然環境と、素朴な風土の中に待ち受ける小寺・名刹の中国三十三所観音巡礼の鳥取・岡山に点在する14箇所を巡りました。

9日15:30車で近畿中国自動車道経由して
18:30鳥取駅前のホテル到達。
19:00繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
10日8:00車で出発、観音巡り。

観音院:
観音院は、太閤ヶ原(たいこうがなる)、本陣山などの連なる鳥取市東部を囲む丘陵地の山裾にあり、すぐれた環境に支えられている。名勝に指定されている林泉庭園が有名である。
  岡山の藩主池田忠雄が寛永九年(1632)年に薨ると、嫡男光仲が三歳で家督を嗣いだが徳川幕府(てだれ)の政策から〝備前は手先の国なれば幼少にて叶うべからず〟との達しで、因幡・伯耆の二州に国替された。ときに宇喜多興家・直家の菩提寺であった。岡山・露月山・光珍寺四世宣伝法印は、光珍寺を弟子豪弁(後の観音院二世)に譲り、帰依僧として随伴を命じられ、城山に近い栗谷に寺地を与えられて雲京山・観音寺を興し、城山より出現の聖観世音菩薩の尊像を賜り本尊とした。その後栗谷の寺地は御用地となり、寛永十六(1639)年頃上町の現在地に移り伽藍を整備し、補陀落山・慈眼寺・観音院と号した。
  光仲は殊のほか観音信仰に篤く、祈願所として庇護し御越年と九月に城内長久・万民安楽の祈祷を修していた。宝永六(1709)年二代藩主綱清の代に藩の祈願寺となり寺格の高い「八ヶ寺」の中に列した。明治維新に藩の祈願寺は廃せられたが、寺壇の協力・人々の信仰に支えられてて稍稍殷盛をたどり現在にいたっている。

大雲院:江戸時代、鳥取は池田三十二万石の城下町。初代藩主は徳川家康の曾孫である池田光仲公。公は曽祖父家康・東照大権現を祀るため東照宮を勧請、慶安三年(1650)に鳥取城の鬼門にあたる樗谿に東照宮を建立し、その祭礼を司る別当寺として本院を建立。当所は乾向山東隆寺淳光院と称し、東照宮の祭礼をすることと同時に、徳川将軍家位牌安置所として、上野寛永寺に埋葬された将軍の位牌を安置して年回法要を、更に、藩主の祈願所として定例・臨時の祈祷をしていた。  初代住職の公侃は藩主光仲の従兄弟で、歴代住職就任時に個別の寺院号となっていたが、江戸中期(1815年)に大雲院が常院号となった。樗谿には東照宮をはじめ本地堂・元三大師堂・護摩堂等を中心に多くのお堂が建ち、内坊四ヶ寺を持つ大寺院として因幡・伯耆ニ州の頂点に立つ寺として寺運は隆盛を見たが、明治維新の神仏分離令によって東照宮の別当職を免ぜられ現在地に移転したが、寺内の徳川将軍家の位牌堂では現在も法要が続けられており、常夜燈の灯りが消えることは無い。
 神仏分離令、あるいは鳥取大震災、農地解放策等の影響によって多くの堂宇、仏像や寺宝が大破焼失し、往時の三分の一程度しか現存しないことは悔んでもあまりある。  だがしかし、本堂中央に鎮座する阿弥陀三尊、それを取り巻く形で外陣ぐるりに、西国三十三番札所の観音像三十三体で、極楽浄土を表現した様はまことに圧巻、全国でも珍しく、さすが中国観音霊場の結願寺としての風格に唸らずにはおられない。

摩尼寺:摩尼寺は鳥取砂丘から国道九号線を跨ぎ、林道を深く入った山麓にあり、古くから因幡地方の信仰を集めてきました。本尊は千手観音菩薩、帝釈天を祀り湖山長者の伝説が伝えられている古刹です。
 境内は門前から急な石段を三百余り登ったところにあり、途中の仁王門から更に上段へと通じています。両側の繁みには石仏安置し、参詣者に菩薩の功徳を授けています。山門を入ると正面に千徳殿と呼ばれる本堂が重鎮し、丈六仏に近い四天王を中尊に聖衆郡像を安置しています。続いて十王堂と三祖堂があり、その前には藤原秀衡の病気平癒を祈願したという杉の切株も残っています。さらに奥まった台地に建てられた摂取殿には善光寺分身如来が祀られています。山頂の奥の院には、帝釈天が出現したという霊跡など多くの遺跡も点在しています。
  古くから、摩尼山には亡き人の霊魂が集まると信じられてきました。奥ノ院法界地の地蔵尊には多くの位牌が並び、霊魂を呼び戻したと伝える摩尼山の信仰が脈々と息づいています。

三仏寺:全山千古の原生樹海に覆れた標高九百米の三徳山。その山頂に近い壁立千仭の岩肌に、しがみつく様に建つ国宝投入堂。まさに仙界の趣きである。三徳山の峻厳の峯々に、如何なる技法を駆使したのか想像を絶するが、不動堂、観音堂、納経堂、鐘楼、地蔵堂、文殊堂の諸堂が建つ。山麓には三仏寺と皆成院、正善院、輪光院の三坊がある。即ち三仏寺は、一山寺院を形成し三坊で護持している。
 創建は文武天皇の慶雲三年(706)役ノ行者小角が開いた修験道の根本道場で、この自然崇拝の道場に、嘉祥二年(849)慈覚大師が堂塔を建立し、阿弥陀如来、釈迦如来、大日如来の三尊仏を安置して三徳山三仏寺と号し、大いに信仰を集めた。
  鎌倉時代には源頼朝より寺領三千石他堂宇の寄進を受け隆盛を見るが、乱世に入り衰退の憂目をみる。
  足利時代には将軍義満の外護を受ける。しかし、戦乱の兵火に、あるいは明治維新時にと、栄枯衰退を繰返すも千三百年の間、信仰の力は今なお強く持続していることに感嘆せざるを得ない。

長谷寺:山陰路の要衝として古来より栄えてきた倉吉。標高208mの打吹山頂には打吹城があり、打吹山麓一帯は城下町の中心であった。長谷寺はこの城に登る途中に在る。城址を含めて山麓一帯は「さくら」「つつじ」が咲き乱れ、現在では「打吹公園」となり山陰随一と言われている。長谷寺は、急な山道を東参道、西参道共300m程登った所にあり、本堂は舞台造りで千社礼が無数にに貼り付けてある。寂びた御堂の佇いはこれこそ霊場の雰囲気そのものであろう。   長谷寺開山は養老5年(721)元明天皇の勅願による法道上人で、本尊に十一面観音を安置したと寺の縁起は伝える。長谷の寺号は大和初瀬に因んでおり、これは観音霊場の代名詞でもある。当時は寺領三百石、七堂伽藍を構えていたが、時代の変遷に衰微していった。が建久4年(1193)、前年鎌倉幕府を開いた源頼朝の命に依り寺運を再興する。寺梵鐘に明徳四年(1393)の銘がある。その前年に南朝は終焉。この辺りは後醍醐天皇に味方した南朝方、明徳は珍しい北朝の年号。いかにも時代は乱世、倉吉の中世は長谷寺が如何に大きく関わっていたかを物語っている。   弘治3年(1557)南条元次が打吹山に籠って豊臣秀吉と戦った折、堂塔は勿論寺域一帯焦土と化したが、不思議なことに唯一観音堂だけが難を免れた。人々は観音像の霊力に驚き、信仰は一段と深く篤くなったという。   慶長15年(1610)領主中村伊豆守が霊像のお加護を蒙り、寺の復興を計って伯耆大山寺より俊快阿闍梨を迎え、次いで松平相模守が祈祷所に定めたことで熾盛するが、その後荒尾家の庇護を受け明治維新を迎えた。

大山寺:修験道の道場として栄え、養老2年、金連上人が地蔵菩薩を祀ったのが開山と伝えられている。称徳天皇は、神仏習合の思想から地蔵菩薩を「大智明大権現」勅宣され、貞観8年、慈覚大師が留錫し、堂舎を建立して台密の法を伝え、引声阿弥陀経の秘曲を口伝し、天台宗の末寺に加わることとなった。
  承安元年、火災に遭い一山は悉く焦土と化し本尊も焼失。地方の豪族紀成盛長者は堂社を再建し、金銅の地蔵菩薩を初め鉄製厨子を奉納。
  室町期には多くの僧兵をかかえ比叡山、吉野山、高野山に劣らないほど隆盛を極め、元弘の役では船上山に名和長年が後醍醐天皇を奉ずると大山寺衆徒であった長年の弟・信濃坊源盛は一山の僧兵を引きつれ兄長年を助けた史実も残っている。慶長年間、豪円僧正が大山寺座主となり徳川幕府に願ったて3000石の地領を得、三塔に支院42坊を構えたが、明治維新の神仏分離の政策から衰退、昔日の盛観を見ることは出来ないが、尚三堂宇に10ヶ寺の支院を有し、貴重な文化遺産も多く保存されてい。

木山寺:当山は標高430メートルの山上にあり、老杉古柏の鬱蒼とした静寂な境内と、そして周辺一帯は郷土自然保護地域に指定され、誠に自然環境の美しい霊峰につつまれている。
  近隣には後醍醐天皇ゆかりの古桜醍醐桜があり、神庭の滝・鍾乳洞そして国の重要文化財である弘法大師作の不動明王を祀る勇山寺等々名所の多い地域である。
  当山の御本堂、医王の霊薬をもって全ゆる衆生の病気や迷いを救われる薬師如来である。鎮守神として木山牛頭天王と善覚稲荷大明神を祀る。このため本堂正面の寺額に牛頭天王と善覚稲荷の二神が刻まれている。参詣の人々は他の霊場寺院と異なるので不審に感ぜられる。これは往古の神仏習合の伝統が今日もなお継承されているからである。
  牛頭天王は本地の薬師如来が化身したお姿であり、善覚稲荷は本地十一面観音の化身である。この十一面観音を本尊として中国観音霊場になっている。

誕生寺: 誕生寺は、浄土宗他力念仏門の開祖、法然上人降誕の聖地、建久4年法力坊蓮生(熊谷直実)が、師法然上人の命を奉じこの地に来て、上人誕生の旧邸を寺院に改めたもの、すなわち誕生寺である。
  本堂須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所。爾来八百数拾年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されている。
  中国三十三観音特別霊場であるとともに、法然上人(圓光大師)25霊場の第1番でもある。「法然上人誕生の地」として、岡山県の「史跡」に指定された境内には、誕生椋、無垢橋、産湯の井戸など、永き歴史を物語るものがある。
  法然上人の御両親は、当時多くの人に信仰されていた岩間の観音菩薩(柵原、本山寺)に21日の御祈願をされ、法然上人を授かったといわれる。

法界院:法界院の開山は天平年間(729)報恩大師と寺伝に伝わる。
  報恩大師は修験道の流れを汲む観音呪を修めた行者であり、備前の地に48ヶ寺を草創する。中国観音霊場寺院としては餘慶寺と正楽寺が共に749年に開創されている。
  法界院御本尊・聖観音は、桧の一木一体の稀有の霊像で、平安初期の貴重な作として国の重要文化財に指定されている。彫りは浅く裳の飾りも簡素だが、一部に胡粉が残っているところから極彩色であったことが窺える。聖徳太子御作とも伝えられている。
  境内は勇壮な構えの仁王門から質素な造りの二天門に至るが、二天門の左右に奉安する毘沙門天像と持国天像は、今は本尊脇仏として内陣に祀られているが、本尊に酷似した彫で隠れた文化財である。
  昭和63年に御開眼した、京都美術院国宝修理所所長、小野寺久幸大仏師の謹刻された桧の寄せ木造りの昭和の聖観音立像が、毎年4月21日の午前中に一般開扉されている。

円通寺:円通寺は、良寛和尚修行の寺として名高い。
 元禄11(1698)年、加賀の国金沢の名刹大乗寺の住職を退いた高僧徳翁良高和尚を開山として迎え、開創された補陀洛山円通寺庵が寺の起こりである。
  本尊は、行基菩薩作と伝えられる聖観世音菩薩像(星浦観音菩薩)。寺域一帯は岡山県指定の名勝地とした円通寺公園であり、すこぶる景勝の池である眼前に玉島湾や水島灘が光を湛える眺望は格別の風情である。良高和尚も当地を景勝地として称えている。
 安永8(1779)年、22歳の良寛は十世大忍国仙和尚の直弟子となり、正式に出家得度し国仙に随侍して当寺に安居、寛政7(1795)年頃まで修行した。当寺は、大正初年頃より良寛の修行地としての由緒を慕う来訪者が続いている。良寛遺墨として、漢詩、和歌、俳句なども所蔵している。
 当寺が修行の道場として伝統的風格を維持してきた根底に、求道三昧の先哲先聖の尊崇と、仏祖の願海に帰入しようとする信仰一途の檀信徒による寺門護持の篤き願行のあったことは言うまでもない。

蓮台寺:まかね吹く吉備の児島、その半島の霊峯 瑜伽山に蓮台寺はある。海抜300米、3万坪の境内をもつ別格本山である。
 今から1200年前(天平5・733年)奈良時代に行基菩薩が五塵の垢を洗う聖地瑜伽山に一寺を開き、阿弥陀如来、薬師如来の二尊を「瑜伽大権現」としてお祀りしたのが瑜伽山(由加山)蓮台寺の始まりです。
 当由加山にこもり行基菩薩自ら37日(さんひちにち)21日間の行を修し感得されたのが当山蓮台寺後本尊、十一面観世音菩薩であります。その後、室町初期に今弘法としてたたえられた増吽僧正が中興。中世にはすでに、瀬戸内海随一のお詣り所として栄え、現在の伽藍が整備されたのは江戸時代です。
 人々の願いを叶えるため仏が権の姿(権現神)として現れたのが「権現さま」瑜伽大権現は霊験あらたかで、「厄よけの権現さま」といわれ、備前藩主 池田継政(2代)以降、当権現への信仰は篤く、祈願寺として藩主自ら参拝になられました。(その時に宿泊使用された建物が「蓮台寺客殿」です。) 四国「金比羅大権現」と共に「ゆがのごんげんさま」として一生に一度は参詣諸祈願成就を祈る「両まいり」の大権現として信仰されました。
 永い歴史をもつ蓮台寺大伽藍には、権現堂、大師堂、観音堂、多宝塔、鐘楼堂、大日堂、妙見宮など多くの建造物が点在しています。 これらの建築群を重要文化財ゾーン(奥の院)として保護する為、平成十年に瑜伽三尊をお祀りする祈祷と供養の殿堂「総本殿」が完成。現在に至っています。
 総本殿の本尊十一面観音・瑜伽大権現・弘法大師は開運招福・厄よけ・病気平癒・先祖供養の「瑜伽三尊」として総本殿において、日夜祈念が行われ、今も1200年の歴史を経て「求めあれば威神力をもって必ず応じて」下さっています。 又、菊花御紋章入りの筋塀に囲まれた宮殿は、絵画を含め全てが県指定の重要文化財です。

西大寺:約1200年の歴史を誇る西大寺は、千手観世音菩薩様を本尊仏として古来より親しまれ信仰され、町衆の暮らし全般に影響を与えてきました。
  岡山県三大河川の一つ吉井川河口は、瀬戸内海に注ぐ水運の要衝にあって、また深い観音信仰と相まって発展してしてきたことは現在の古い町並みをもって、十二分にうかがい知る事ができます。広い境内には本堂をはじめ仁王門・三重塔・大師堂・経蔵・客殿・鎮守堂などが配され歴史の深さ、たいへんな繁栄ぶりが偲ばれます。
  鎮守堂には、一山の守護神である牛玉所大権現と金毘羅大権現が合祀され、会陽(裸祭り)は牛玉信仰が特異な行事に発展したもので、その起こりは開山住職・安隆上人が修正会を催したことによります。
  ともあれ町中にあって吉井川河畔に映る情景は、現代人の心を揺さぶるに足りる憧憬とも言えます。

余慶寺:吉井川の流れを見下ろす小高い山の上に上寺山餘慶寺は甍を連ねている。天平勝宝元年(749年)報恩大師によって開山された。
  往古には、東の山の峰から太陽が昇るのを拝むのに適した所といわれたことから、日待山日輪寺と称し、備前48ヶ寺のひ とつとして栄えた。
  平安時代には、慈覚大師が再興し本覚寺と改めた。その後、近衛天皇の勅願所となり上寺山餘慶寺と改め、国家の安泰と五 穀豊穣を祈願した。武家時代には赤松則宗公の信仰を得て、さらには宇喜多氏、池田藩主の尊崇と保護を得ておおいに栄えた。
  山内には本堂(観音堂)薬師堂、三重塔、地蔵堂、鐘楼、山王社、愛宕社、開山堂などの諸堂が伽藍を連ね、かつては7院 13坊といわれた支院は、恵亮院、本乗院、吉祥院、定光院、明王院、圓乗院の6院が現存している。
さらに山内は豊原北島神 社とも隣接し、平安時代より発展した神仏習合の姿を遺存している。

正楽寺:瀬戸内海岸線沿いは、一般的に柔らかな光が温かさを萬遍なく降り播くが、少し海岸線から入り込んだ正楽寺附近までくると、光が透明感をもち、やや鋭い清澄さが凛とさせる。それは寺背後の山の緑と土塀の白壁と竹林の静寂、更に極めて明確に整理された威風を漂わす重厚な寺構のせいであろうか。
  報恩大師甲開墓(749)の古刹である正楽寺は、信賢上人が鎌倉時代(1304)に現在地に伽藍を造営して発展の礎を確立、寺門は栄華を極めるが、元和元(1615)年大火災により全て消失、以来衰退するも宝永年間(1704)から文化7(1801)年までの約百年間をかけ、本堂・書院・庫裡・鐘楼・山門(仁王門)と建立、現在の寺構を整える。仁王門「雲と波」の彫刻は、大変貴重な芸術作品で壮麗な鎌倉時代の面影を残している。
 江戸時代には、備前池田藩の祈願所となり、寺には池田家代々の位牌が安置されている。
  正楽寺地名の蕃山は、陽明学を完成させた熊沢蕃山に由来するもので、その子孫が寺社奉行となり、正楽寺の中興に寄与した功績は尽大だったと伝える。

今回の旅行、中国地方の鳥取と岡山に点在する中国三十三観音所の14箇所をめぐり楽しみました。
噂通り立派な寺院が多く、癒やされました。

次回は島根・広島・山口に点在する中国三十三観音を徐々に攻めていきます。