飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十九弾:山口中国三十三所観音霊場巡り観光
2016年5月28日ー29日
 

山陽路から山陰路へとつづく三十七の観音霊場、四季折々、それぞれに美しい変化を見せる自然環境と、素朴な風土の中に待ち受ける古寺、名刹の山口県に点在する8か所を訪れました。

28日14:20新大阪新幹線のぞみで出発、広島でこだまに乗り換え
16:20新山口駅到達
17:00レンタカーで新山口駅北口のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
29日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

宗隣寺:宝亀8年(777年)唐より来朝した為光(威光)和尚が、故国に似たその景観を愛すると共に、山ふところの湧泉に霊感をうけて一寺を開き、松江山普済寺(ずんごうざんふさいじ)と名付けたのが創まりと寺伝はつたえた。

功山寺:元応2年、虚庵玄寂禅師開創で金山長福寺と号した。足利尊氏、足利直冬、長門守護厚東氏、大内氏等の帰依を受け隆盛を誇った。
 弘治3年大内義長が毛利元就に敗れ仏殿で自刃をした大内氏終焉の地であり、その後の戦乱で寺も荒廃し中世に誇った大内文化も衰退する。慶長7年毛利秀元が修復、寺門を興隆し、慶安3年功山寺と改称する。元治元年三条実美等七卿が潜居中に高杉晋作が門前で義兵の旗挙げをした維新発祥の地でもある。

観音寺:観音院は古くより"玉江観音"と呼ばれ、海の護り観音として崇められていた。また、大道無門に境内を開放していたので、幕末には志士たちが会合所として頻繁に利用、激論を交わしていたという。
  萩は三方を山に囲まれた盆地で、阿武川下流が岐れて松本川・橋本川となり、その三角洲に、毛利輝元が四年の歳月をかけて1604年に完成させた典型的な城下町である。維新前夜までの260年間毛利36万石の拠点であった。萩が辺境僻地であったために、幕末に藩庁を山口に移した後も、維新以後の大きな社会変革からも影響を受けることなく、城下町往時の面影遺構をそのままよく残している。

大照院:下克上による大内氏の悲劇の減亡(1551年)は戦国時代の真只中。大内氏の後を継いだ毛利元就は中国地方一帯10ヶ国を制した。元就嫡男輝元の頃は祿高121万石、豊臣五家老の一人であった。しかし、関ヶ原の戦(1600年9月15日)に敗れ、居城を広島から外寇防禦(がいこうぼうぎょ)の名目で辺境であった萩に、領国も周防・長門の防長二州、祿高36万9000石に減封、更に責任を問われて輝元は隠居、その子秀就が僅か6才で家督を継ぎ、萩毛利藩初代藩公となった。

洞春寺:山口は14世紀中頃から約200年間、戦国大名の雄として中国地方に割拠した大内氏の本拠地で、西の京と謳われるほど栄え、今尚大内文化の面影を色濃く残す街である。その中でも特に多くの文化遺産が見事に集積されたゾーンの中心をなす臨済宗の巨刹が洞春寺である。

龍蔵寺:龍蔵寺の創建は、奈良時代の文武2年(698年)神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)と崇められていた僧・役(えん)ノ行者小角(おづぬ)が豊後の彦山から飛来し、岩窟に熊野大権現を勧請(かんじょう)して秘法の護摩供を厳修したと寺縁起は伝える。その後、天平13年(741年)行基菩薩がこの霊窟に留錫(りゅうしゃく)し、草庵を結び自ら千手観音を謹刻(きんこく)し『龍蔵寺』と称したという

漢陽寺:漢陽寺は中国自動車道・鹿野ICから直ぐの所に位置する。寺裏山の潮音洞(ちょうおんどう)より流れ出る遺り水を活かし、古庭園を模して築庭された閑雅な雰囲気の『曲水の庭』に代表される様々なタイプの庭園(蓬莱山(ほうらいさん)池庭、九山八海の庭、地蔵遊化の庭など)と、精進料理が好評を得て名を馳せ、今では訪れる人も多く、マスコミに紹介されることも再々の有名寺である。

般若寺: 般若寺は、その名が示しますように用明天皇(聖徳太子の御父君)の勅願で、若くして亡くなられた般若姫の菩提を弔うため、姫の父である豊後の国(大分県)の満野長者が聖徳太子の師、恵慈和尚という方を開山として創建した真言宗の古いお寺です。

今回の旅行、中国地方に点在する、中国三十三箇所観音霊場の山口に位置する8か所を訪れ楽しみました。

今回も立派な寺院が多く、圧倒され、また癒されました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十八弾:越後八十八箇所霊場巡り観光
2016年5月21日ー22日


日本海に沿って東西に細長い県、新潟県に足を運び、玉瑞和尚)が1866年にここを巡礼して地域の人が幸せになるよう祈り15年かけて造った霊場です。玉瑞和尚は羅漢さんとも言われ親しまれています。ここは地すべりによって巨大な岩がどんどん転がって来てできた岩場でまさにジオ!自然の大地を感じることができる越後八十八箇所霊場の16カ所を巡りました。

21日17:40伊丹空港出発
18:45新潟空港到達、レンタカーで新潟駅前に向かう。
19:15新潟駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

薬師寺:

延命寺:

如法寺:

萬善寺:

照明寺:

西生寺:

国上寺:

本覚院:

青龍寺:

仙城院:

不動院:

真城院:

悉地院:

法光院:

乙宝寺:

法音寺:


18:00新潟空港到達
19:15新潟空港出発
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、日本海に沿って位置する新潟県に足を運び、越後八十八箇所の16か所をめぐり楽しみました。

比較的立派な霊場が多く感動いたしましました。

広々とした田園の中をまっすぐな道に車も人も少なく気分よく爽快にドライブしながら16か所の霊場巡り満喫しました。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十七弾:埼玉県お城・城下町巡り観光
2016年5月14日ー15日


武蔵国は古くから武士団の力が強く、平安後期以降の館が多く残る。鎌倉幕府の成立に尽力した武士たちは、館からより強固な城に拠点を移したが、やがて関東に転封された徳川家康によって多くが廃城となった埼玉県のお城10か所を訪れました。

5月14日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:25東京駅到達、タクシーでパークタワープリンスホテルに向かう。
16:45パークタワープリンスホテル到達
17:30講演会出席
20:00講演会終了後懇親会
22:00就寝。
15日8:00レンタカーで埼玉県に向かう。
お城・城下町めぐり。

赤山城:1600年 初代伊奈忠次は家康の関東入国とともに伊奈町に関東郡代として関八州.江戸幕府の直轄地
として治めたが、1629年寛永5年三代忠治tadaharu の時に八千石で赤山領に移り、
赤山城を創建10代163年間居城とした。
広さは2万4千坪の陣屋を構え外堀は水が、内堀は空堀で内側には土塁が築かれていた。
本丸、二の丸だけで11万平方メートルからなる小さな城下町であった。
伊奈家は家康入国以来関東全域の治水を負い、「坂東太郎の利根川」と「暴れ荒川」の洪水を農民らと抑え、用水を引き農地を開き、すぐれた土木技術により治水灌漑.新田開発を民と共に行い、民の中から指導者を育て苦楽を共にし信頼を勝ち得た。江戸時代の治水、新田開発に大きく貢献、初代忠次.三代忠治 は利根川.荒川から関東平野に新しい水路を作り諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらし、初代忠次から三代忠治に至る60年間で徳川家の禄高を60万石から120万石にした。
そして、関東入国以来50年江戸の町は爆発的な人口増加により緊急に江戸80万の民の水を確保するため、1653年 保科正之らにより三代忠治が奉行を命じられ多摩川の水を引いてくる上水道.玉川上水事業が行われた。
しかし偏見を持った知恵伊豆松平信綱に国策である玉川上水事業を川越藩の野火止用水事業に利用され、追求した忠治は疎んじられ閑職に追われた。

岩槻城:長禄元年(1457年)太田道真・道灌父子によって築かれた。 関東管領扇谷上杉持朝は古河公方足利成氏に対抗するため、太田父子に命じて築かせた。大永4年(1524年)小田原の北条氏綱は扇谷上杉朝興の居城である江戸城を攻め落とし、翌5年には岩槻城に侵攻、家臣渋江三郎が北条氏綱に内応したため落城、北条氏は渋江三郎を守将とした。 石戸城へ逃れた太田資頼は、享禄3年(1530年)岩槻城を奪い返した。資頼の子資正が継いだ後、扇谷上杉氏が滅び、山内上杉氏も越後国長尾氏を頼って落ち延びると、資正は上杉政虎(謙信)と結び、北条氏に対抗する。 しかし、永禄7年(1564年)里見氏等とともに北条氏と戦ったが破れ、北条氏の謀略により長子氏資が寝返り、資正は佐竹氏を頼って落ちた。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、浅野長政等が攻め寄せ落城した。 徳川家康が関東に入部すると、高力清長が二万石で入封するが、江戸時代を通じて激しく城主が替わっている。

伊奈氏陣屋:天正18年(1590年)伊奈忠次によって築かれた。 天正18年(1590年)徳川家康の関東入部に従い三河国小島から移り、一万三千石(一説に一万石)を知行した。伊奈忠次は家康の関東入部により関東代官頭(関東郡代)に任ぜられ、検地や治水、新田開発などに手腕を発揮した。慶長15年(1610年)忠次が没すると嫡男伊奈忠政が家督を継ぎ、関東代官頭も引き継がれたが、元和4年(1618年)に没した。忠政の家督は嫡男伊奈忠勝が継いだが、幼小であったことから関東代官頭は忠政の弟で旗本として赤山陣屋を構えていた伊奈忠治が継いだ。小室藩の家督を継いだ伊奈忠勝であったが、翌元和5年(1619年)わずか九歳で没し、小室藩は嗣子なく改易となった。しかし、伊奈家の過去の功績から忠勝の弟忠隆が旧領のうち小室郷など千百八十六石が与えられ旗本として存続、以後明治まで続いた。

足利政氏館:永正15年(1518年)足利政氏によって築かれたと云われる。 足利政氏は足利成氏の嫡男で二代目古河公方である。
永正3年(1506年)頃から政氏と嫡男高基は対立しはじめ、いったんは和解となったが永正10年(1513年)に上杉顕定の後継者問題で再び対立し、政氏は下総国古河城を出て下野国小山城主小山成長を頼った。しかし、永正13年(1516年)頃になると高基を支持する小山政長の影響で小山氏も高基に味方するようになり、政氏も隠居を余儀なくされ、この久喜の館へ移ったという。
永正16年(1519年)に永安山甘棠院を建立し、開山は政氏の子貞巌和尚である。 永正17年(1520年)政氏は古河城の足利高基を訪ねて和解し、享禄4年(1531年)にこの地で没した。

源経基館:築城年代は定かではない。伝承に依れば、承平8年(938年)武蔵介に任ぜられ下向した源経基が館を構えた所という。

松山城:築城年代は定かではないが、応永6年(1399年)上田友直により築かれたと云われる。 それ以前にも正慶2年・元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉の北条高時を攻めたおり、要害を構えたという。
天文6年(1537年)川越城を落とし勢いに乗る北条氏綱は上田正広の籠る松山城に侵攻したが落とすことはできず撤退した。 扇谷上杉氏は川越城奪回を目指して攻めるが、逆に北条氏康の夜襲により撃退され、さらに松山城をも奪われた。
しかし、上田朝直はすぐさま岩槻城主太田資正の協力を得て松山城を奪還。この時、本丸は太田資正の家臣広沢尾張守が守り朝直は二の丸に入った。 再度北条氏は松山城を攻め、この時朝直が北条方へと寝返り城は落城した。
永禄4年(1561年)上杉政虎が大軍を率いて攻め攻略し太田資正に預けた。政虎が関東から退くと再び北条氏が来襲するが、太田氏はこれを退ける。 しかし翌永禄5年(1562年)北条氏が侵攻、甲斐武田氏にも援軍を求め大軍で押し寄せた。 北条・武田連合軍は大軍をもって攻撃したが容易に落城せず、武田氏は金山衆を用いて地下に穴を掘る作戦にでるも失敗。連合軍は完全包囲で兵糧攻めし、なんとかこれを落とし再び上田朝直の居城となった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では前田利家、上杉景勝等の大軍に囲まれ落城した。
徳川家康が関東に入部すると、三河国桜井城より(桜井)松平家広が一万石で入封するが、慶長6年(1601年)松平忠頼の時、遠江国浜松に転封となり、以後廃城となった。

大築城:築城年代は定かではない。応永年間(1394年〜1428年)に吾野左衛門尉憲光が築いたとも伝えられる。『新編武蔵国風土記稿』では天正年間(1573年〜1592年)に松山城主の上田能登守朝直が慈光寺を攻めるために築いたとする。

河越氏館:築城年代は定かではないが平安時代末期に河越氏によって築かれたと云われる。 河越氏は桓武平氏秩父氏の一族で、秩父重隆が河越へ移り河越氏の祖となった。治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で挙兵すると、はじめは平家方として頼朝と敵対するが、のちに畠山氏などとともに頼朝に従い平家討伐軍に参加した。 河越重頼の娘は頼朝の弟源義経の正室となるなど重用されたが、義経と頼朝の仲違いから重頼・重房父子は誅殺され、武蔵国留守所総検校職の地位も畠山重忠に奪われ河越氏は衰退する。元久2年(1205年)畠山重忠の乱で、北条義時率いる重忠討伐軍に河越重時・重員兄弟が従軍する。嘉禄2年(1226年)には畠山重忠に奪われていた武蔵国留守所総検校職の地位が鎌倉幕府より河越重時に与えられた。応安元年(1368年)河越氏は「平一揆」を組織して鎌倉幕府と対立し、河越館に立て籠もったが敗れ、伊勢に落ちて没落した。明応6年(1497年)山内上杉顕定は河越城の扇谷上杉氏を攻める為に河越氏館跡に上戸の陣を構えている。その後、小田原北条氏が河越城一帯を勢力下におさめると、重臣大道寺政繁がこの辺りを整備したという。

難波田城:難波田城は中世に富士見市内を本拠として活躍した難波田氏の居城跡で、昭和36年に埼玉県旧跡に指定されました。城は荒川低地の一角に築かれた平城で、規模は5万平方m以上と推定されています。  園内には難波田城資料館や城跡を復元した「城跡ゾーン」、市内の古民家を移築した「古民家ゾーン」があり、富士見市の歴史や文化を感じることができます。

山口城:築城年代は定かではないが平安時代末期に山口家継によって築かれたと云われる。 山口氏は武蔵七党の一つ村山党の出自で、村山頼家の子家継が武蔵国入間郡山口に住んで山口氏を名乗ったことに始まる。家継は平安時代末期に山口に館を構え、後に城郭として整備されたと考えられ、戦国時代には根古屋城を築いて居城を移したといわれる。

今回の旅行、関東地方の埼玉県に足を運び、埼玉県に点在する比較的マイナーなお城10か所をめぐり楽しみました。