飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十三弾:岩手県奥州三十三観音&お城・城下町巡り観光
2016年6月26−27日
 

東北地方の世界遺産で有名な奥州藤原氏の支配した平泉、その他にも源氏の流れを汲む名門武家、南部氏の遺構が数多く残され、また陸奥土着のさまざまな武家の居城が点在している岩手県に足を運び奥州三十三観音5か所、お城7か所を訪れました。

26日17:00伊丹空港出発
18:25花巻空港到達、レンタカーで北上方面に向かう。
19:10北上駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

27日7:00レンタカーで出発、霊場、お城めぐり。

二子城:
築城年代は定かではないが和賀氏によって築かれたと云われる。 和賀氏の出自は定かではないか武蔵七党の一つ横山党の中条氏の後裔とも源頼朝の落胤とも云われる。二子城は和賀郡一帯に勢力を持ち天正18年(1590年)の奥州仕置によって滅亡した和賀氏の本城である。

岩谷堂城:築城年代は諸説あり定かではないが、鎌倉時代に千葉胤道によって築かれたと云われる。南北朝時代以降江刺氏が勢力を伸ばした為、葛西氏との争いが多くなり度々合戦が行われた。 明応4年(1495年)の合戦で江刺氏が敗れると岩谷堂城には葛西政信の孫重胤が城主となる。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかった葛西氏は、奥州仕置きによって改易となり、岩谷堂城には木村吉清の家臣溝口外記が入った。しかし、葛西大崎一揆との戦いで外記は討死、一揆鎮圧後は伊達政宗の所領となり、家臣の桑折摂津守が入った。万治2年(1659年)伊達宗規(岩城宗規とも)が岩谷堂要害五千石で転封となり、岩谷堂伊達氏となった。この宗規の時代に大手の移転など大規模な改修があった。その後は岩谷堂伊達氏が代々続いて明治に至る。

柳の御所:奥州藤原氏の「平泉館(ひらいずみのたち)」に比定され、政務の場であったと考えられている。

中尊寺:中尊寺は嘉祥3年(850)慈覚大師円仁を開創とする天台宗の古刹です。昭和33年別格大寺に昇格、天台宗東北大本山の称号が許されています。奥州三十三観音巡りの特別霊場(番外札所)でもあります。その後、12世紀のはいめに奥州藤原氏初代清衡によって大規模な堂塔の造営が行われました。藤原氏滅亡後、度重なる火災によって、多くの堂塔が焼失したなか金色堂だけが当初のまま残り、その堂内には奥州藤原氏のご遺体が納置されています。


毛越寺:岩手県平泉町に天台宗 医王山 毛越寺があります。特別史跡・特別名勝に指定されていますが、奥州三十三観音 特別霊場でもあります。毛越寺は慈覚大師円仁が開山し、二代基衡から三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営されました。往時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれています。奥州藤原氏滅亡後、度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが、現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されています。

長泉寺:曹洞宗。元は天台宗のお寺であったが、衰退していたのを大原城主の大原広英が再興し、曹洞宗の寺となる。

普門寺:曹洞宗。草創は本山・永平寺より2年古い。開山した記外和尚は三度宗に渡航し、帰国の際に皇帝より宝物を賜り、現在も寺宝として残る。本尊の聖観音もその一つで県有形文化財。

大善寺蛸浦観音:別名「蛸浦観音」。ご本尊は本村小向の佐々木家にて寄贈したものという。尾崎山の麓の海岸にあり神社に祀られている。 

大槌城:大槌城(おおつちじょう)とは、岩手県上閉伊郡大槌町にかつて存在した日本の城(山城)。代々、大槌氏が城主を担当した。室町時代に大槌次郎によって築造されたといわれている[1]。浜崎城とも呼称されていた。規模は東西が700m、南北が100mに及ぶ。

鍋倉城:築城年代は定かではないが天正年間(1573年〜1592年)に阿曽沼広郷によって築かれたと云われる。 阿曽沼広郷は代々遠野保を領し横田城を居城としていたが、猿ヶ石川の度々の反乱に川向かいに住んでいる諸士の往来に不都合であったため、鍋倉山に新城を築いてた。この新城も横田城と称していたが、南部氏の治世となって鍋倉城と改称された。慶長5年(1600年)広郷の子広長のとき、南部利直に従って山形に出陣中に一族で鱒沢城主である鱒沢広勝の謀叛によって遠野を乗っ取られ、以後南部領となった。寛永4年(1627年)八戸から南部直義が遠野に約一万石で転封となり、城を改修して城下町を整備した。このとき横田城から鍋倉城へと改称した。直義は南部家の重臣として盛岡に居ることが多かったため、先代で養母である清心尼が遠野の政治に関わることが多かったようである。以降、八戸南部氏(遠野南部氏)が代々続いて明治に至る。

土沢城:慶長17年(1612年)南部氏によって築かれ、縄張は南部家臣野田内匠頭直盛が行ったという。最初の城主は新堀城主江刺隆直で二千石を与えて移駐させたという。南部氏は度々伊達氏と国境を巡って小競り合いがあり、伊達氏が築いた浮牛城に対する備えとして国境に近いこの地に拠点となる土沢城を築いた。江刺氏は葛西氏の重臣であり、奥州仕置きにより改易された葛西氏の旧臣を操る伊達氏を牽制する役目も担っていたとされる。 寛文10年(1670年)の総検地に際して廃城となり、その後も城内小路を統治所として七代続いたが江刺氏は天明元年(1781年)お家騒動によって断絶した。

花巻城:築城年代は定かではない。古くは前九年の役の安倍頼時の磐基駅に擬定されている。花巻城の前身は鳥谷ヶ崎城といい稗貫氏の居城であった。稗貫氏の出自は諸説あるが、鎌倉時代頃に稗貫郡に入部し、はじめ小瀬川館(あるいは瀬川館)を居城とし、ついで本館(十八ヶ城とも)、最後に鳥谷ヶ崎城を居城とした。永享8年(1436年)南部を支援した薄衣氏が稗貫氏の十八ヶ城を攻めた際にここに陣を構えていることから、鳥谷ヶ崎城の築城はそれ以後という。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかったため、稗貫広忠は奥州仕置で領地を没収され、鳥谷ヶ崎城には浅野長吉が滞在し、長吉は浅野重吉を目代として置いた。稗貫広忠は和賀義忠が浅野家臣後藤半七の籠る二子城を攻めた際、これに呼応して鳥谷ヶ崎城を攻め落とし奪還に成功した。しかし、天正19年(1591年)には一揆を平定する秀吉の軍勢に二子城・鳥谷ヶ崎城ともに落城し、稗貫広忠は大崎氏を頼って落ちたという。一揆平定後、南部家臣北秀愛が八千石を領して花巻城代となり近世城郭へと改修された。慶長3年(1598年)秀愛が死去すると替わって父北信愛が城代となる。 慶長5年(1600年)南部氏が山形に出陣中のときを狙って和賀忠親が一揆を起こし花巻城へ押し寄せた。一揆軍は本丸まで攻めよせたが、信愛は城内にいた13名の士卒と婦女子だけで持ちこたえ、北十左衛門の援軍が駆けつけ一揆軍を退けた。慶長18年(1613年)信愛が没すると南部利直の次男政直が二万石で城主となった。 政直没後は嗣子なく城代が置かれ、以後明治に至る。

17:00終了。花巻空港に向かう。
17:30花巻空港到達。
18:55花巻空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北の岩手県に足を運び、点在する奥州三十三観音5か所、お城7箇所をめぐり楽しみました。
藤原家やその他の武家で歴史的に深い岩手県、立派な霊場、立派なお城が目白押しでした。
ほとんどの城跡は城跡公園と変化し規模の大きさを物語っていました。

世界遺産の平泉は何回か訪れたことがありましたが整備ができすぎ、道路も広く、きれいに仕上げており、観光に力を入れすぎて逆に歴史を感じないような景観のような気がします。
整備しすぎてきれいすぎる、古さを感じない歴史を感じない、改築した建造物がほとんどで現存する歴的建造物は数少ないのは残念です。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十二弾:神奈川県お城・城下町巡り観光
2016年6月18日ー19日
 

関東地方の相模国と武蔵国という「歴史的に極めて重要な土地を含み、鎌倉幕府はもとより、戦国時代も小田原の北条氏が強烈な存在感を示し、古都鎌倉、小田原城など、歴史散策の見どころが多数ある神奈川県に足を運び、点在するお城・城跡10か所を訪れました。 

18日13:50新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:40東京駅到達、タクシーで赤坂のホテルに向かう。
17:00赤坂のホテル到達
17:30品川の新高輪プリンスホテルに向かう。
17:50新高輪プリンスホテル到着
18:00講演会出席
20:00講演会終了、懇親会。
21:00赤坂のホテルに向かう。就寝。
19日8:00レンタカーで神奈川県内お城を巡る。

衣笠城:衣笠城(きぬがさ★★神奈川県横須賀市衣笠町、標高102m、比高80m。)は大谷戸川と深山川に挟まれた半島状の丘陵に位置する。
康平年間(1058-1064)三浦為通によって築城されたといわれ、以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。
治承四年(1180)八月源頼朝の旗揚げに呼応して、この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。この位置は衣笠城の大手口で、坂を登って滝不動に達する。居館はその附近にあったかと推定され、一段上に不動堂と別当大善寺がある。さらに、その裏山に金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、この城の詰の場所であったと伝えられている(『横須賀市資料』)。
宝治元年(1247)北条氏によって三浦泰村一族が滅亡し、佐原氏が継承した以後廃城になったとみられている(『日本城郭大系』)。
現在の遺構は削平地以外に明確ではないが、なるほど城郭に適した立地、地形をなしている。
物見に使われたという巨石があり、その下から武器などが出土したという。城址は「衣笠山公園」ではないので注意したい。横浜横須賀道路衣笠ICを出て、坂口集落に進み、大善寺を目指すとよい。

新井城:三浦一族滅亡の地で、面積約128ヘクタール。相模湾に突き出た小半島に位置し、小綱代湾と油壺湾に挟まれて、三方をいずれも海で囲まれ、切り立った断崖である。陸地に通ずる路は、北方約3キロの大手の引き橋で、この橋を切って落とせばどこからも攻め込まれないようになっていた。引き橋は後に地名になったが、ここで北条軍は橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれたという。現在は関東大地震による隆起で、往時の面影は薄らいでいるが、当時としては大軍をもっても攻めがたく、わずかの手兵で三年間も持ちこたえた。いずれにしても室町期の居館としての新井城の名残りは、本丸を中心にめぐらされている空堀に往時を偲ぶことができる(『三浦市・現地説明板』)。
築城年代は不明だが、衣笠城を本拠とした三浦氏が滅亡すると、それを継承した佐原氏の拠点として築かれたようである(『三浦半島城郭史』)。明応三年(1494)には、城主・三浦時高と養子・三浦義同の内訌で落城して三浦義同が奪取、彼は一時大田道灌に従ったが、その後、山内上杉氏に属している。戦国期に至った永正九年(1512)から同十三年に亘って、北条早雲と三浦氏はこの城で攻防を繰り広げている。早雲は新井城を力攻めで落とすことができず、持久戦となり、玉縄城を築いて武蔵方面の援軍を断ち切った。兵糧尽きた三浦義同は子・義意と共に城門を開いて打って出て、華々しく討死を遂げ、一族は滅亡した
城址は、ほとんどが東京大学の敷地になり関係者以外は立ち入ることができないが、ハイキングコースから傍観することができ、大規模な空堀と土塁を確認できる。おそらく後北条氏時代の遺構であろうが、周辺は断崖で、その要害ぶりを垣間見る。また近く「内の引き橋」と呼ばれる堀切が配され、さらに3q離れた所に「引き橋」という地名がある。ここまで城域なのかは躊躇するが、三浦半島の城址としては最も優れた史跡であろう。なお「油壺」の由来は滅亡時に三浦一族が投身し、湾が血で覆われたことによるという。

鎌倉城:鎌倉時代、源頼朝の築城。彼が鎌倉に幕府を開いたのは、源氏ゆかりの地であり、三方を馬蹄形の連丘に囲まれた理想的な都城の地形であったことによる。鎌倉城の範囲は広大で、稲村ヶ崎から飯島崎までに連なる丘陵に囲まれ、南は相模湾に面している。また、七ヶ所の切通しを作って出入口とし、防御度を増させている。
鎌倉城での戦いは3回あり、正慶二年(1333)新田義貞によって攻められ、北条高時以下は自刃して幕府は滅亡している。建武(1337)北畠顕家らが攻め込み、杉本城とともに落城。最後は、文和元年(1351)新田義興らが初代鎌倉公方・足利基氏を攻め込み、落城している。
以上の合戦ではいずれも守備側の敗北に終わり、その後、南北朝時代に至ると要害性が失われ、鎌倉城をめぐる攻防戦は行われなくなった(『日本城郭大系』)。
永禄四年(1561)長尾景虎が、上杉憲政から、鶴岡八幡宮にて上杉姓と関東管領職を譲られたのは有名な話である。

玉縄城:甘縄城とも。標高71m、比高45m。
永正九年(1512)北条早雲(伊勢新九郎長氏)築城。当時小田原城にいた早雲は、関八州制覇の過程で、三浦半島の新井城を本拠とする三浦義同と衝突、三浦半島の基部であり交通の要衝であったこの地に向城を築いた。永正十三(1516)新井城に兵糧を送ろうとした上杉朝興の軍勢を早雲は玉縄城の北方に陣取って対抗、まもなく新井城は落城した(『北条五代記』)。
大永六年(1526)二代当主・北条氏綱の弟・氏時が城主となり、房州国・里見氏が鎌倉に乱入した際、彼は玉縄城を背に、戸部川(現・柏尾川)で防戦した。氏時歿後は猛将・北条綱成が城主になる。
永禄四年(1561)上杉景虎(謙信)の小田原城攻撃の帰路、鶴岡八幡宮へ拝賀し管領就任を披露すべく鎌倉へ立ち寄った際に玉縄城は囲まれたが、城主・綱成は不在だったもののその長子・氏繁がよく守ったので越後へ引き上げた。
永禄十二年(1569)武田信玄の小田原攻めの時は、藤沢のおんべ山砦(大谷城)を落としたものの玉縄城は素通りしている(『北条記』)。これは上杉謙信でも落とせなかった堅城ぶりを信玄がよく理解していたからだとされる(『日本城郭大系』)。
綱成の引退後は氏繁が城主となり、天正六年(1578)氏繁が歿するとその子・氏勝が城主となった。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めのとき、氏勝は山中城へ援軍したが、大軍の前に落城。恥辱を感じた氏勝は、当主・氏政が小田原城に篭城するよう命じたが、「玉縄城を枕にして討死すべし」と答えて玉縄城に籠城。頑強に抵抗したが、徳川家康の策によって、氏勝の叔父である大応寺住職・了達を通して説得し、開城となった。その後、本多正信、水野正忠などが入城したが、元録十六年(1703)に廃城(『日本城郭大系』)。
城は大規模な山城で、後北条氏系城郭有数の堅牢ぶりであったが、本丸跡には清泉女学院が建ち、また周囲も新興住宅地と変貌した。「諏訪壇」など、ところどころに遺構が残ってはいるようだが、細かく散策できない状況である。昭和三十年代の航空写真を見るに、本当に残念なことである。

大庭城:標高42.8mの大規模な平山城。東方を引地川、西方を小糸川に挟まれた要害の地にある。
成立年代は不明で、室町時代後半に相模国で威勢を誇った扇谷上杉氏の拠点されている。明応八年(1499)には、「一人大庭堅其塁、大庭氏館、此去不遠」と記され(『玉隠和尚語録』)、扇谷上杉氏の「一人」が大庭城で守りを固め、大庭氏の居館はその近くにあったことが分かる。(大庭氏館は大庭城址南西の城(たて)にあったと考えられている。)また、その家宰・太田道灌の勢力が及んでいたようでもある。
戦国時代、永正九年(1512)に北条早雲は鎌倉入りしており(『快元僧都記』)、すでに藤沢一帯も後北条氏が領していたとされる。しかし、戦国期の史料も少なく、福島左衛門という人物が城主であったらしい(『小田原衆所領役帳』)ことを知るのみである。
従来、大庭城は玉縄城の支城とされ、後北条氏時代には廃城になっていたともされるが、出土した遺構や城の規模から、後北条氏によって改修された可能性が高い(『日本城郭大系』)。
城址は、かつて約南北800m、東西250の台地の全域を城域とし、北に駒寄・二番構、東に門先、西に裏門・城下などの地名が残ることから、周辺にも城に関連する施設や大規模な城下が存在していたとされる。 しかし1970年代ニュータウン化で北側が宅地化され、現在は南部の450mほどが城址公園として名残りをとどめている。
広大な大庭城址公園だが、意外にも良好に遺構が残存している。現在四つの大郭に、馬出しのような小郭、腰郭、大規模な空堀、土塁などが散見され、城好きには是非とも藪の中に進入して確認されたい。

深見城:境川に面した台地上に築かれている。北側から東側は切り立った急崖となっており、境川との比高は15m程度で、天然の要害を形成している。西側は天竺坂の大規模な掘割り、そして南側は平坦地形を加工して曲折を多用した二重の堀と、土塁構造が密接に連携した東西2つの虎口(門・出入り口)などを構築し、要害地形を形成している。その縄張りは構造は歴史遺構上、高い価値を持つもので、発掘調査の成果から、利用は14世紀末頃より16世紀末頃までの年代幅の中にあることが分かっている。一方、現存する城址の構造をみると、軍学による城制に整合することから、16世紀戦国時代の遺構であると思われ。
一説に、享徳四年(1452)頃、山田伊賀守経光が城主であったという(『新編相模国風土記稿』)が、この人物の詳しいことは分かっていない。
ほとんど手付かずで保存されたようで、遺構がよく確認できる。また、戦国末期の後北条氏の改修と思われ、屈折した空堀を多用した注目に値する城郭である。主郭にふたつの虎口があるのは珍しい。その分、防御力は下がるだろう。また、主郭を巻く二重の空堀の外には、これといった城塞設備が見られない。したがって南側の防御力が薄くなっているが、これは軍事的な城郭として構築されたのではなく、武将の居館を主な目的とされたからではないだろうか。


桝形山城:室町時代の築城で比高57mの山城。その起源は源頼朝の重臣である稲毛氏が枡形山山腹の居館の詰め城として築城したものであったという。鎌倉の北方を防御する山城として重要視された。
その後、北条早雲が関東進出中の永正元年(1504)、今川氏親とともに扇谷上杉朝良に味方した際、この枡形山に布陣した。また後北条氏が関東に勢力を拡大し、江戸城を包囲した時にもこの枡形山が改修されたようである。一説に、永禄12年(1569)、甲斐の武田信玄が後北条氏の小田原城を攻撃した際にこの近くを通過したが、この際にも後北条氏の一拠点として横山弘成という武将が守っていたという。
現在は生田緑地の一角としてハイキングコースにもなっている。城址である頂上部は非常に広大で、展望も抜群である。城としての遺構は認められないものの、すこぶる築城に向いた都心に稀有な地形であり、周囲は切り立った地形であることから特段の防御施設はもともと無かったのかもしれない。

茅ヶ崎城:標高32m、比高20m。200m×100mの山城で、郭・土塁・空堀・虎口が良好に残る。
室町中期以前の上杉氏か、上杉氏に替わって相模を支配した後北条氏による築城でないかという。小机城から約4キロほどの近距離であり、戦国時代にはその支城として重要な役割を果たしていたとされる。。
小机衆のひとりでこの周辺を領していた座間氏が城代に入ったといわれる。後北条氏の勢力が鶴見川流域から早淵川周辺に拡大する中で利用・改修されたと思われる。相模統治が確立し、その勢力が関東一帯に広がるにつれ茅ヶ崎城の重要性は薄れ、大きな改造がなされないまま廃城を迎えたとされている。よって現在残る遺構は後北条時代中期のままなのであろう。
遺構は大変保存度が良い。ただ、小机城と比較すると、空堀はやや小さく、本格的な虎口も見られないことから、小机城よりも早い時期(後北条氏前期)に築城され、その後、大きな改築もなかったものとされている(『日本城郭大系』)。
城址は小高い山全体が要塞化されたもの。しかし、近く公園化の計画もあるようで、重機が荒らした痕跡も見られた。今後の行方が心配である。

小机城:飯田城、根古屋城とも。標高42m、比高22m。築城年代築城者不明だが、室町時代・豪族小机氏が築いた館が発祥ともいう。
城郭としての初見は文明八年(1476)長尾景春の乱で、城主・矢野兵庫助は景春方に味方した。一方、上杉氏配下の太田道灌は、豊島泰経を江古田原の合戦で破り、平塚城、石神井城を落とし豊島氏残党と笠原、小机、矢島氏が籠城する小机城を文明十年(1478)一月に攻撃する。この時、泰経は小机城に逃れていたという。この合戦で道灌としては珍しく2ヶ月という長い期間をかけたらしいが、鶴見川を挟んだ対岸に亀之甲山陣城を敷いて攻め落としたという(『太田道灌状』)。また道灌は「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と詠じて士気を鼓舞したとの伝説もある。
その後廃城となっていたが、戦国時代・後北条氏時代には小机城が重視され、「小机衆」という軍団が組織し、城代に笠原信為を入れて大改修を実施した。また氏康の子である三郎氏秀が城主になるなど関東進出の前線拠点であった。
天正十八年(1590)豊臣秀吉との小田原城合戦では、小机城は笠原虎千代が守備していたが、豊臣軍の攻撃を受けることなく後北条氏が降伏したので、実際に戦いはなかった。徳川家康の関東入封によって小机城は廃城となった。
遺構保存度の芳しくない神奈川県にあっては、全国に誇れる中世城郭である。このような本格的な城郭が新横浜のスタジアムが望める都会に残っているとは驚き。

神奈川台場:慶長十五年(1610)造立。寛永十一年(1633)守殿造営(『新編武蔵国風土記稿』『日本城郭大系』)。
神奈川県には、徳川将軍が鷹狩りや遠出の際に宿泊する施設として、いくつかの御殿が築かれた。(他に中原御殿、藤沢御殿、小杉御殿など)
神奈川御殿も周辺には土塁や空掘を設けて要塞化し、家臣屋敷などが立ち並んでいたと思われる。伝承によれば、「成仏寺」の敷地を徳川家が召し上げて御殿を造営したという。
横浜市神奈川区神奈川本町、「成仏寺」の北側、JR横浜線と京急本線の間の地域が跡地とされるが、他の御殿と同様に遺構は何ら残っていない。近く「仲木戸」という駅名が城塞のあったことをわずかに偲ばせる。

17:00東京駅に向かう。
18:00東京駅到達。
18:10東京駅新幹線のぞみで出発
20:35新大阪駅到達。

今回の旅行、神奈川県に点在するお城10か所をめぐり楽しみました。
大都会の神奈川県、信号・踏切・車の多く渋滞に何度も巻き込まれ移動に時間かかりましたが何とか10か所のお城をめぐることができました。

今回の城跡、数か所の城址公園に変貌している箇所以外はめだった城跡は存在せず、大半が地味なものであり見つけるのが苦労を要しました。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十一弾:北海道八十八箇所霊場&北海道三十三観音霊場&お城巡り観光第5弾
2016年6月11日ー12日
 

北の北海道の道南に足を運び、点在する北海道八十八箇所11か所、北海道三十三観音4か所、お城2か所を巡りました。

11日15:45伊丹空港出発
17:10新千歳空港到達、レンタカーで苫小牧方面に向かう。

望洋寺:
当山は大正13年開基住職吉田守賢師が、この地に来錫し開教を始めた事に濫觴します。昭和2年幸町に不動院教会所を設立し認可を受け、その折、総本山智積院より下付された不動明王(二童子付)が、現本堂に安置の御本尊です。
昭和10年ころ、当初から目標でした寺号公称を目指し寺域創りに奔走します。昭和12年遂に現在地に移転しました。本堂を落成して望洋寺と寺号公称し、爾来、各行事を通じて教化活動も活発に展開し、檀信徒の安らぎの道場として基盤が確立されました。その後、納骨堂、大師堂、護摩堂、客殿等の諸堂が落成し伽藍の輪奐も整ってきました。20数年前より毎月写経会、大師講、護摩供、詠歌講を開催し、また毎年全国の霊場に巡拝し共に感動を味わっています。


白老陣屋:安政3年(1856),幕命により仙台藩が築いた陣屋跡。当時植えた松,土塁,堀がそのまま残されている。

18:30室蘭方面に向かう。

19:00室蘭駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
12日6:30レンタカーで出発、日高方面に向かう。

日高寺:明治四十三年香川県(三郷郡三野町旧吉津村)出身の琢磨宥文がこの地に説教所を建立したことをもって開山としています。
 宥文は明治四十一年四十歳のときに、北海道開教をすすめられ、香川県からやってきました。おそらく笠谷霊海(亮昌寺)、原田智巌(高野時)らのすすめがあったと思われる。
(北海道三十三観音よみがえった霊場 資延憲英著参照)
大正十五年に建立された八十八ヶ所霊場が、裏山に有り約一時間で巡ってくることができる。
当初は軟石作りの為、痛みも激しくなったので、平成五年九月に新しく八十八ヶ所を御影石にて建立をしました。

龍徳寺:高野山真言宗の末寺で、明治三十六年、旅の僧侶が説教所を建てる。明治四十一年大阪の宝珠院住職少僧都、仙田梁応が布教をはじめ説教所の設置を出願し、翌四十二年許可になった。寺号公称は大正十三年十一月認可となった。
明治四十五年本堂新築、昭和三十二年開創五十周年法会を営む。同四十三年納骨堂新築、五十一年庫裏、会館新築、六十二年山門新築、十五年本堂新築、開創百周年法会を営む。御本尊金大日如来、脇仏は馬頭観音、弘法大師尊像、平成二十六年現在寺歴百十一年である。

シベチャリチャシ:全道のアイヌを率い、和人と戦ったアイヌ民族の英雄シャクシャイン。銅像の建つ真歌公園は、そのシャクシャインが寛文9年(1669)、「寛文九年蝦夷の戦い(シャクシャインの乱)」で最後の砦とした場所である。
シャクシャインの乱とは、交易時の不平等に怒りを募らせたアイヌの長シャクシャインが、全道のアイヌに呼びかけ一斉に蜂起した争い。一時は道南地方(現長万部町国縫)まで攻め寄ったものの、松前藩の鉄砲隊に徐々に後退。最期は和議の申し出という口実のもとに謀殺され、砦も焼き払われたと伝えられている。

円昌寺:明治30年、開基龍長和尚は、神奈川県大磯町西小磯に在った白岩山円昌寺(東寺派)を現在地に移転し、寺号公証。 三石山円昌寺(本尊金剛界大日如来)創立。
明治42年本堂、庫裏新築。
明治45年裏山に、巡路三千米の新四国八十八ヶ所完成。真言宗各宗派連合長者土宜法龍師を導師として開眼法要。
大正4年龍神堂建立。
大正5年北海道三十三観音霊場 三十一番聖観世音像安置。(現在祀られている観音像は昭和53年再安置された聖観世音像である。)
大正15年鐘楼堂完成(現存)。昭和19年大梵鐘供出させられる。
昭和6年三石観音堂入佛開眼(優駿豊平号大印の等身像上に馬頭観音を安置)。
昭和30年堂宇祝融。昭和33年三世住職小笹典之師晋山。
昭和39年本堂再建落慶。昭和47年現梵鐘開眼供養奉修。
平成3年当山開基百年記念慶讃大法会執行。
年中行事:3月10日涅槃会、4月20日正御影供会、7月15日弘法大師降誕会お砂踏み、11月8日十夜法会。 山内のツツジの見頃は五月下旬から六月上旬です。

妙龍寺:妙龍寺は北海道小樽市にある寺院です。
明治15年に開山して以来、北海道の開拓とともに歩んできました。お寺の前には地獄坂という坂があります。
この坂の上には高校・大学があるのですが、その昔は建物が少なく、
山からの吹雪が容赦なく学生達に襲いかかっていました。
その様子を見て、誰が名付けたか地獄坂と呼ばれるようになりました。

地蔵寺:
当山は昭和3年4月40歳にて仏門を志した細川智隆和尚にて昭和5年10月24日高野山真言宗広尾教会を設立。16年10月8日遷化、同年11月千葉憲應師晋山、檀家強化に勤めましたが18年、室蘭市に転寺します。同年林賢修師晋山し、昭和21年5月岩手県に転寺しました。その後昭和21年5月宮下栄厳師が晋山する。27年には宗教法人地蔵寺と寺号公称し、昭和32年広尾新四国八十八ケ所開創のため21日間水だけの苦行断食し寺裏の丸山に開創しました。
春季大祭4月24日、秋季大祭は11月10日に厳修しています。 先代栄厳僧正は42年本堂、52年回向殿納骨堂を建立、境内整備にも努力し、昭和60年11月1日遷化。その後現住栄隆晋山、現在に至ります。祈祷を重点にし各種お払い、特に2月11日の星祭厄払いは盛大です


高野山寺(金剛閣)、高野山寺:
雄大な日高山脈のふもと、江戸時代から純度の高い砂金を産出する清流「歴舟川」が沃野を潤す大樹町。
当山は昭和の大仏師「松久宗琳」入魂の大日如来と不動・愛染両明王が、鎌倉様式を忠実に再現した本堂に鎮座する古刹です。
開基は大正6年、初代住持佐藤密道が、明治の末、遠くインド、ミャンマーを遍歴し、ミャンマーの名刹シェダゴンパゴダで五粒の仏舎利を授かり、当山に奉安したのを濫觴とします。また、開基がその師、高野山奥の院維那、八王子金剛院主「田和諦観大和尚」から伝えられた古佛十一面観世音及び弁財天をも奉安します。 
境内には樹齢二百年にも及ぶ松(一位)と桐が仲良くたたずんでいます


帯広方面に向かう。

新正寺:
明治末、伊藤キク37歳が、受戒し「栄心」と名のり、教会所設立、その後、新正寺となります。 
現本堂は御堂作りで大正2年、竹田忠三郎の寄進にて建立されました。 
古くから、加持、祈祷の寺である44番札所御本尊は、十一面観世音菩薩です。 
五穀豊穣の願いが込められています

真隆寺:
明治39年真言宗説教所として開山。大正15年に北海道開教を志した長谷川真隆和尚が当山説教所主任として着任、日夜真言密教の教えを広め加持祈祷などによる人々の救済に力を注ぎ、またその霊験あらたかでした。 
現在はスキー場のある明野の山に四国八十八ケ所霊場本尊の石仏を奉安し日増しに信徒が増加し永続維持の基盤ができ昭和6年寺号公称の認可を受けて第一世住職を拝命しました。 
真隆和尚遷化後は昭和26年英隆和尚が第二世住職を拝命し本堂、納骨堂など境内整備等は英隆和尚によってなされ、英隆和尚遷化後は隆憲和尚が第三世住職を拝命し現在の庫裏納骨堂、弘真閣は隆憲和尚によってなされました。現在、四国八十八ケ所霊場本尊の石仏は境内の北側に奉安されています。


松光寺:境内は観音。八十八ヶ所石仏があり四季をとおしてありがたい思いをいたします。

高野寺:
大正3年中富良野弘照寺開基住職岩田實乗師により高野山説教所として開基。昭和3年末富山県出身高野山で修学を積み釧路西端寺から来帯した大多賀清洞師夫妻が借地に建てた12坪の大師堂に定住して大師信仰の宣揚に勤めました。 
昭和11年本堂新築、同18年高野寺公称、十勝川温泉協会設立糠平八十八ケ所開創、糠平寺創立。更に昭和46年現在地に移転新築し同58年82歳で遷化の間、生涯を寺門興隆と教化に専念し、二代住職実忍に至ります。
堂内には、日本唯一英霊馬頭観世音菩薩、子安弘法大師、宇賀大明神、タイ国御請来仏舎利と降魔釈迦如来、本堂内に八十八ケ所御尊像が奉安されています。


弘真寺:
当山は大正10年、帯広近郊の川西村美栄に薬師如来を本尊とする利生寺の開基から始まります。
昭和4年には十勝四国八十八ケ所霊場を開創。昭和30年帯広市富士町に本堂を移転改築、昭和34年寺号を日月山 弘真寺に改め、昭和58年帯広市西24条南2丁目(西帯広)に伽藍を移転建立し現在に至っています。
祈願寺・供養寺として地域に根ざし熱心に手を合わせる参詣者がみられます。
十勝四国八十八ケ所霊場の他に、十勝管内6ケ寺院で干支の石を奉安している十勝北斗十二支めぐりでは、「寅」と「卯」を奉安しています


照覺寺、照覺寺(三味堂):
当寺は、昭和10年清水町御影の照明寺住職山本祐澄により当町に大師教会光明支部設置の許可を受け、大師信者である広瀬ヨノ宅にて教線を張ったのに始まり、その後、山本師の弟子前川光榮が引継ぎ高野山芽室教会となりました。 
昭和17年東2条5丁目に本堂を設立、昭和19年、西沼行貫が教会主管代務者となり、同24年寺号公称し開基住職に。 
師は寺門興隆と布教に心血を注ぎ寺院を整え、同45年行貫遷化後、師の妻行基尼は同47年行眞が晋山するまで寺を守りました。行眞は住職就任直後、足掛け6年かけ寺を現在地に移転し普請します。 
当山には行貫の弟子勇弘道が謹刻した千体の地蔵菩薩をおまつりしている御堂があり「北海道十勝北斗十二支 福徳神めぐり」の霊場(全六ケ寺)になっています。そのなかで、「申」と「酉」の守本尊とエトの霊石を奉安しています。
三昧堂は、当寺の施設の中にあるもので、住職が専ら修法する道場で、一般の檀信徒の入堂はできません。
ここの本尊は不動明王でその他、歓喜天、ダキニ天、龍神、聖徳太子などが奉安されています。



15:30新千歳空港に向かう。

17:00新千歳空港到達

17:55新千歳空港出発

20:10伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、道南に点在する北海道八十八箇所11か所、北海道三十三観音4か所、お城2か所を巡り楽しみました。

広々とした真っ直ぐな道、地平線を見ながらのドライブ、本州では味わえない風景、最高!、何回訪れても素晴らしい、癒されるドライブ霊場巡りでした。

札幌、旭川に点在する寺院は小規模の物が多かったですが、道南に点在する寺院は立派な建物が多く感動いたしました。何らかの歴史的背景によるものなのでしょうか。

何回も訪れたいドライブ観光、爽快で、癒されて、楽しめた北海道道南ドライブ霊場お城巡りでした。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十弾:福島県東北三十六不動霊場&奥州三十三観音霊場巡り観光
2016年6月4日ー5日

全国で3番目に広い面積を誇り、雄大な自然と美味しい食べ物、そしてあたたかい人々が住む県です。 福島は大きく3つのエリアで分かれています。 豊かな大自然と会津藩士ゆかりの名所旧跡が点在する「会津地方」美しい花々とみずみずしい果実がいっぱいの「中通り」太平洋に面し、雄大な景観を眺める「浜通り」風土、文化、気候も違うそれぞれの魅力で訪れる人に驚きと感動を与えます福島県に足を運び、福島県に点在する東北三十六不動尊霊場6か所と奥州三十三観音4か所を巡りました。

4日15:40伊丹空港出発
16:50福島空港到達、レンタカーで郡山に向かう。
17:30郡山市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
5日7:30レンタカーで出発、霊場巡り。

相応寺:
相応寺は大玉村の中心部にあるが、不動堂である遠藤ヶ滝不動尊は安達太良山の麓にある。相応寺は、法相宗の高僧・徳一大師が大同二年(807年)眉岳に開基したが、高地は積雪も多く雷火の炎上も度々あった。応永年間(1394年)亀山の地に移り、更に永禄三年(1563年)実弁法印の代に現在地へ伽藍を造営した。元の寺跡にも石造りが現存する。遠藤ヶ滝不動尊は平安時代の遠藤武者・盛遠に因む。袈裟御前との恋に破れた盛遠が名を文覚と改め仏門に帰依し、若い頃、安達太良山中の瀑布において気を養ったことから冠して、遠藤ヶ滝と称するようになった。以来、遠藤ヶ滝不動尊と敬い人々の信仰を篤くしたが、この別当寺が相応寺であった。

観音寺:
福島県桑折町に、奥州三十三観音第十二番札所  浄土宗 大悲山観音寺があります。観音寺は宝治元年(1247)伊達家四代桑折西山城主政依が父義弘公の菩提を弔うため、京都・鎌倉にならい伊達五山の1ケ寺として建立された寺です。創建当初は天台宗であったが、真言宗の時代もあったといわれています。寛永13年(1636)に宗門改めの際、当時の住職が浄土門の出であったので、浄土宗に改宗、磐城専称寺の末寺となりました。

大聖寺:
福島県桑折町に 奥州三十三観音第13番札所  明王山 大聖寺があります真言宗豊山派のお寺です。

天王寺:
福島県飯坂に 臨済宗妙心寺派 香積山 天王寺があります。奥州33観音 第11番札所です。天王寺は大阪、谷中、富国の天王寺とともに日本四天王寺の一寺といわれ、用明2年(587)用明天皇が開基したと伝えられています。

医王寺:
福島市飯坂に 真言宗豊山派 瑠璃光山 医王寺がある。平安時代天長3年(826)に開基したお寺であり、奥州三十三観音 特別霊場であります。弘法大師作の薬師如来をおまつりし、霊験あらたかで数多くの人々の信仰を集め鯖野も薬師と呼ばれ親しまれております。また、佐藤家の遠祖、一族の菩提寺でもあります。

太龍寺:縁起によると、「当寺は寛永二十年(1643年)会津藩主保科正之公の開創なり。機外昭鑑禅師を開山とし百石(元禄年中墓地と振替、五十石となる)を賜る藩士の家中寺として栄えた」という。不動明王像は当初成就院にあったが、明治維新の神仏分離で成就院は吾妻山神社と改まり、仏像の多くは大龍寺十七世太宗玄義和尚が当寺に移した。そして不動講などを組織して信仰を鼓吹し、殊に信者の内に長寿の者が多くなり、いつしか長寿不動尊と崇められた。

会津薬師寺:当寺は天台宗医徳山薬師寺と号し、今より千二百余年に遡る。宝亀十年(779年)千寿院として草創された。のち嘉祥元年(848年)慈覚大師円仁が開基したと伝えられる会津屈指の古刹である。その後、平泉藤原氏が滅亡の際、藤田式部忠重の氏族、佐藤清純が平泉高館に祀ってあった薬師像を持ち帰り、建久元年(1190年)円鑁沙門が寺構を再建して薬師堂を造営し、これより薬師寺と称するようになった。
 近年に護摩堂を興して、希有の車不動尊を勧請した。


圓養寺:当寺は戊辰の役により荒廃し、人心が傷悴していた折り、及川照龍律師(明治四十年十月十七日没)が末広講を結成し成田山新勝寺の御分霊を勧請され明治二十一年十月二十八日、円養院として開基されたと伝えられています。第二世照輪師は弘敬講社を結成せられ信者の教化に尽力された。昭和九年に第三世金沢誠仁中僧正が晋山し、布教を重ねて昭和二十八年、円養寺と改め現在の山容に整えられた。

徳善寺:霊験あらたかな不動尊として広く世に知られている、山本不動尊の御本尊は弘法大師の御持仏といわれ渓流を眼下に50米の巨巖の洞窟に安置された世にも稀れな霊場で平城天皇大同二年(809)弘法大師の御開創であると伝えられています。御縁起によりますと弘法大師勅命により湯殿山開基の為東北へあんぎゃの途上当地方八溝山(1022米)系鬼頬山(701米)に住む悪鬼調伏祈願の為同山々腹に護摩坦(現在)を築き37日の不動護摩の秘法を修行せしに霊験空しからず結願に悪鬼退散し以来住民安穏なることを得て生業にいそしむことが出来たと云われます。弘法大師はこの地こそ不動明王有縁の地なりと感得し尊像奉安の霊地を当山の霊窟に求められたと伝えられます。この尊像は大師にお供して来た道隔阿闍梨がこの地に留まり草庵を結び、日夜供養と修法に精進致しましたので登山参拝の人々にて賑い諸堂宇の建立と相待って貴賤の耳目を驚かすと記録されております。爾来1170余年霊窟の不動尊として世に知られ賑わっております。

常福寺:天平六年(734年)東北地方に大地震あり、次いで疫病流行し病に臥すもの日夜相次ぎ、惨状目も当てられず。大和国鷲峰山の住僧源観上人はるかにこの悲報をききて憐み、善無畏三蔵伝来の秘仏薬師如来を護持して当地に来る。不動堂は開山以来いく度か山火事に遭い、現不動堂は明治四十八年に建立された。

18:15福島空港出発
19:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の福島県に足を運び、福島県に点在する東北三十六不動尊霊場6か所と奥州三十三観音4か所を巡り楽しみました。

今回も立派な霊場が多く、田園風景を見ながらドライブを楽しみ、霊場巡り癒されました。