飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十八弾:宮城県お城・城下町巡り観光
2016年7月30-31日
 

東北の宮城県に足を運び、南北時代、奥州探題の�斯波氏が勢力を拡大し、南朝方の葛西氏と戦国の世まで対立した。のちに伊達氏が巨大勢力を作り上げ、同地では、土塁や空堀を備えた拠点を館とよぶのが特徴的な宮城県に点在する比較的マイナーなお城7か所を訪れました。

30日16:10伊丹空港出発
17:25仙台空港到達、レンタカーで仙台市内に向かう。
18:30仙台市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
31日7:30レンタカーで出発、お城めぐり。

岩切城:
築城年代は定かではないが南北朝時代に留守氏によって築かれたと云われる。

正平6年・観応2年(1351年)足利尊氏と直義の対立による観応の擾乱が東北にも波及し、奥州管領の吉良貞家と畠山国氏が対立した。尊氏方についた畠山氏・宮城氏・留守氏は岩切城に籠城し、これを直義方の吉良氏・和賀氏・結城氏が攻め落とし、畠山国氏ら百余名が討死あるいは切腹した。

この戦いで勢力を失った留守氏は、その後大崎氏に従って勢力の回復を計り、戦国時代に伊達氏の勢力が拡がると、大崎氏と伊達氏の狭間で留守氏の内部も分裂していく。永禄10年(1567年)には留守顕宗が伊達晴宗の三男政景を養子に迎える。

元亀年間(1570年~1573年)留守政景は利府城に居城を移し、岩切城は廃城となった。


若林城:
寛永4年(1627年)伊達政宗によって築かれたが、それ以前には国分氏の城があったと云われる。

伊達政宗が隠居城として幕府に願い出て許可されたのが若林城で、寛永4年(1627年)に築城を開始して翌寛永5年に政宗が入城した。寛永13年(1636年)政宗が江戸の屋敷で没すると、若林城は一重の堀を残して廃城となった。


川崎城:
築城年代は定かではないが慶長13年(1608年)頃に砂金右兵衛実常によって築かれたと云われる。伊達氏の家臣であった砂金氏が前川本城から川崎城を築いて移ってきた。

一国一城令のなか、川崎要害として存続し砂金氏が住んでいたが、元禄15年(1702年)砂金重常が嗣子なく没して砂金氏は断絶、その後は一時宮床の伊達氏が居たが、伊達村詮が川崎要害を与えられ、川崎伊達氏となり以後代々続いて明治に至る。


船岡城:
築城年代は定かではない。正治2年(1200年)芝田次郎は鎌倉幕府からの召し出しに応ぜず、参上しなかったことから、幕府の命を受けた宮城四郎家業によって芝田館を攻撃され、滅亡したという。

天文年間(1532年~1555年)には伊達稙宗の家臣四保但馬守定朝が居た。定朝の子宗義のときに四保氏から柴田に改称し、文禄2年(1593年)志田郡桑折へ転封となった。柴田氏は慶長8年(1603年)に伊具郡金津、慶長12年(1607年)に胆沢郡水沢、元和2年(1616年)に登米郡米谷と転封したが、天和元年(1681年)の伊達騒動の後、柴田宗意のときに再び舟岡要害へ戻ってきた。

慶長年間(1596年~1615年)には伊達氏の重臣屋代勘解由景頼が二の丸に住んでいた。元和元年(1615年)原田宗資が桃生郡大瓜から転封となるが、その子宗輔のとき伊達騒動によって原田家は断絶、柴田宗意が舟岡要害に復帰して以降明治まで続く。


角田城:築城年代は定かではないが永禄年間(1558年~1570年)に田手宗光によって築かれたと云われる。田手氏は伊達崎城主の伊達氏一族で伊達朝宗の六男実綱を祖とする。はじめ伊達崎氏を称し、後に田手氏となり江戸時代は伊達一門となっている。

永禄9年(1566年)隣接する丸森・金山・小斎一帯が相馬氏に侵略されると、田手宗光は伊達氏を離反して相馬氏に従った。天正4年(1576年)以降、伊達氏と相馬氏の争いは激しくなり、天正12年(1584年)に伊達氏が再び支配するようになると、宗光の子で父に従わず伊達氏に従っていた田手宗時が角田城主となった。
田手宗時が討死した後には伊達成実が城主となったが、文禄4年(1595年)成実は突如伊達家を出奔し、角田城は政宗の命を受けた屋代勘解由兵衛景頼によって接収され、これに抵抗した成実の家臣羽田右馬助実景ら三十余名が討死した。

その後しばらく城主が不在となっていたが、慶長3年(1598年)石川昭光が角田城主となり、一国一城令の後も角田要害として石川氏の居城として代々続き明治に至る。

金山城:築城年代は定かではないが永禄年間(1558年~1570年)頃に相馬氏の家臣井戸川将監によって築かれたと云われる。
丸森・金山・小斎一帯は相馬氏と伊達氏による争いが行われ、永禄9年(1566年)相馬氏がこの辺り一帯を支配し、家臣井戸川将監が金山城を築いて籠もった。

天正年間(1573年~1592年)に入って伊達氏と相馬氏によって争われたが、天正12年(1584年)に金山城は伊達氏の支配する所となった。この戦いに戦功のあった保原城主中島宗求が、金山・大内・伊手に二千石を与えられ金山城主となった。中島氏は伊達氏家臣として江戸時代を通じてこの地を支配し、一国一城令の後も金山要害として維持された。

亘理城:築城年代は定かではない。天正年間(1573年~1592年)頃には亘理氏が小堤城より移り居城していたと考えられている。

亘理氏は天正19年(1591年)に遠田郡へ転封となり、始め百々城に入ったが、すぐに涌谷城へ移っている。替わって片倉小十郎景綱が城主となった。関ヶ原合戦の後、慶長7年(1602年)に景綱は白石城へと移り、替わって伊達成実が亘理城主となった。

一国一城令の後も亘理要害として成実を祖とする亘理伊達家が在城し、代々続いて明治に至る。

19:05仙台空港出発
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北の宮城県に足を運び、仙台から南方に点在する比較的マイナーなお城、7か所を訪れ楽しみました。
マイナーなお城を探し見つけるのは苦労を要することが多いが、今回の仙台から南に点在するお城はマイナーなお城にもかかわらず整備され案内板がしっかりして見つけるのが容易でした。そのため時間があまり仙台空港のラウンジ2か所で休憩し、時間をつぶしました。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十七弾:福岡県篠栗八十八箇所巡り観光
2016年7月23-24日

南の九州福岡県に足を運び、今から千二百年前にお大師様(弘法大師空海)が、真言密教を悟り唐の国(中国)より帰ってきた際に、若杉山(奥の院)を訪れ、加持修法によって人々を救済した地で新四国霊場の一つである篠栗八十八箇所めぐり第二弾篠栗地方に点在する11か所を巡りました。

23日21:26新大阪新幹線のぞみで出発
23:56博多駅到達、駅前のホテルで就寝。
24日10:00講演会出席
12:00講演会終了
12:15懇親会
13:00終了
JRで篠栗方面に向かう。
14:00城戸南蔵院前駅到達、霊場巡り

城戸千手観音堂:

城戸大日堂:

城戸病奪り薬師堂:

田ノ浦排師堂:

城戸釈迦堂:

城戸文殊堂:

南蔵堂:

城戸ノ滝不動堂:

神変寺:

松ヶ瀬地蔵堂:

松ヶ瀬阿弥陀堂:

17:00霊場巡り終了、タクシーで博多駅に向かう。
18:30博多駅新幹線のぞみで出発
21:05新大阪駅到達。

今回の旅行、博多で講演会に出席後、午後から篠栗方面の霊場11か所を歩いて巡りました。
小ぶりですが立派な霊場が多く、訪れる人も多く賑わい活気に満ちていました。

 












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十六弾:韓国釜山観光
2016年7月16-18日
 

アジア大陸北東部に位置する朝鮮半島南部にあり北部は北朝鮮と北緯38度にある軍事境界線で接している韓国に足を運び、韓国の第二の都市、世界有数の湾港都市として知られ、活気あふれる魚市場をはじめ、小高い山々や弓形の海岸線など、風光明媚な景観も風情もある釜山を訪れました。

16日19:15関西空港出発
20:40金浦空港到達、軽鉄道、メトロで釜山駅に向かう。
21:15釜山駅付近のホテル到着就寝。
17日7:00歩いて出発

四十階段文化観光テーマ通り、四十階段:40階段文化観光テーマ通りは、国民銀行中央洞店から40階段を含めた40階段文化館までの約450mほどの通りのことです。韓国戦争当時の避難民の哀歓と郷愁がこもった由緒ある40階段の周辺には、50~60年代の雰囲気に合わせて当時の思い出が回想されるよう再現され、新しい観光名所として育成しようと造られました。


釜山近代歴史館:建物は日本統治下で東洋拓殖の釜山支店だったもの。独立後はアメリカ領事館などとして使われた。館内展示はメインが釜山の近代史に関する写真や実物資料で、そのほかに東洋拓殖や戦後の米韓関係に関するものがある。日本統治下の釜山中心部の模型もあり、現在の釜山と対比させると興味深い。

ポスドンチェッバンコルモク:街自体がレトロで観光地というわけではなく、本屋通りという名の通り、現在でも約50軒を越える本屋さんがズラーと通り一面に並んでいます。種類も新書から古書まで、また幼児向けから小説、辞書まであり、そして韓国語だけではなく英語や日本語の本までと、活字となった本なら何でもあり

臨時首都記念館:赤レンガが美しい洋館で、元は日本統治下の1926年に建てられた慶尚南道知事公舎。韓国独立後、1950年に起きた朝鮮戦争で釜山は臨時首都となり、この建物が李承晩大統領の官邸として使われた。館内は大統領官邸時代を復元し、執務中の李承晩を人形で再現してある。日本間を韓国式に改装した方法なども興味深い。

富平市場:国際市場とは違い、主に食べ物や輸入品のお店が多く、観光客だけではなく、地元の釜山の人も利用する在来市場、富平市場。昼間は地元の人の台所として、夜になれば静かな市場に活気を!と2013年からスタートした夜市場のおかげでにぎやかに。長い歴史を持つ富平市場は別名カントン市場とも呼ばれています。

国際市場:地下鉄チャガルチ駅近くにある市場です。道の真中も両側もお店だらけ。路地と路地の間に店舗が密集しています。電化製品の通り、マーケット通り、雑貨、化粧品などそれぞれの通りで扱う商品が異なり、日常生活で必要な物は全部ここで買い揃えることができる賑やかな市場です。こちらでは韓国伝統食器や寝具、民族工芸品が有名です。

釜山タワー:龍頭山公園にそびえ建ち118mの高さを誇るタワーは釜山のランドマークになっている。高速エレベーターで上階の展望台まで行くと眼下には釜山港と市内中心部の全景が広がる。昼間の景色も見応えがあるが、特に夕方から夜にかけての夜景はすばらしく

メトロ1号線中央駅乗車

佐川駅下車

釜山鎮市場:釜山最大の繊維市場として知られる釜山鎮市場。地上4階、地下1階建ての建物には、約8000坪の売り場があり、2005年現在、1800の店舗数が入居する大規模な市場です。

佐川駅乗車

釜田駅下車

釜田市場:全国でも有数の規模を誇る、釜山随一の在来市場!東京ドーム約4個分に相当する敷地内には、多種多様の店が並んでいます。

釜田駅乗車

東菜駅下車

福泉博物館:福泉博物館は、福泉洞古墳群の出土品を中心とした三韓時代から三国時代までの釜山の歴史が見られる考古専門博物館で、1996年10月5日に開館しました。7次に渡って行われた発掘調査で明らかになった169基の遺構や各種の土器・鉄器類などの遺物が展示されています。これらの出土品や様々な墓の様式は、伽倻の神秘を解き明かすのに重要な情報を提供しています。また、日本の古代文化の源流を探るための重要な資料としても評価されています。

メトロ4号線寿安乗車

東菜駅でメトロ1号線に乗り換え

蓮山駅でメトロ3号線に乗り換え

水営駅でメトロ2号線に乗り換え

セントムシティ駅下車

映画の殿堂:釜山国際映画祭のメイン会場として作られた映画館となっています。国費1678億ウォンをかけ、地下1階から地上9階の高さとサッカー場の2.5倍の面積の広さを持ち、42600個のLED照明で建物自体を幻想的に演出する世界屈指の映画館となっています。

セントムシティ駅乗車

海雲台駅下車

釜山アクアリウム:海雲台ビーチの地下に設けられた巨大水族館。熱帯魚からジンベイザメ、クラゲ、ペンギンまで総合的な展示が楽しい。海底探検気分を味わえるシミュレーターのほか、ダイバーによる大水槽でのサメの餌付けショーが人気。

海雲台ビーチ:韓国を代表する港町の「釜山(プサン)」。ここには国内、海外にも知られている、韓国内屈指のリゾートビーチがあります!弓なりのビーチラインが1.8km続く美しい海雲台ビーチは、韓国八景に数えられるほどの景勝地。潮の満ち干気の変化も激しくなく水深も浅いので、海水浴するのにはぴったり!

海雲台駅乗車

広安駅下車

広安里ビーチ:地元の夜景&デートスポットと知られている、人気の「広安里ビーチ 」!
広安大橋の開通をきっかけに更に注目を浴び始め、 白い砂浜が広がるビーチ沿いには、若者向けのオシャレなカフェ、遊園地、丸ごとが刺身屋というグルメスポット「民楽センター」などがあり、海雲台よりも少し庶民的な雰囲気ですが、昼夜問わず遊べるビーチです。
美しい夜景とライトアップされた広安大橋を目当てに訪れる人が多い、人気スポットです!

金蓮山駅乗車

大淵駅下車

釜山博物館:実物のほかに写真や人形、模型などを使った日韓関係や近・現代史の展示は見学の価値あり。朝鮮通信使の行列や日本統治時代の街並みといった模型展示が特に目を引く。

大淵駅乗車

沙上駅で軽鉄道に乗り換え

首露王陵下車

首露王陵:首露王(スロワン)は加羅国の始祖と伝えられる王でもあり、金海金氏の始祖でもあります。インドのアユタ国の王妃「許黄玉」と結婚した「首露王」。 王陵は宣祖13年(1580年)に嶺南観察使であった許曄が首露王陵(スロワンヌン)と王妃陵を改築して床石や墓標などを設置し、王陵らしい姿で登場しました。御陵の境内には首露王や首露王妃の神位を祀る崇善殿や安香閣、典祀官など様々な建物と神道碑などの石造物があります。首露王陵の正門の墓碑は朝鮮仁祖25年(1647年)に建てられた物で、崇善殿は高宗21年(1884年)に王から捧げられた名前です。

国立金海博物館:1998年 7月 29日, 国立金海博物館は古代国家のひとつとして知られる伽耶文化遺産を集大成するために開館されました。伽耶の建国説話が込められた金海市旧地峰(亀旨峰) 脇にある国立金海博物館は伽耶の文化財を展示してあり、 同時に釜山・慶南地域の先史時代の文化と伽揶の成長基盤になった弁韓の文化遺産を展示しています。また、伽耶の歴史は他の古代国家に比べて歴史記録が残されてなく、伽耶の実体の大部分は、発掘調査などの考古学的方法で発掘した遺跡と遺物を通じて修復したものが多いんだそうです。このようなことから、国立金海博物館は他の国立博物館と違い考古学中心の専門博物館とした特色を持っている博物館になっています。また、博物館の建物にも凝っていて、黒瓦が使われた博物館の外観は鉄鉱石と炭のイメージを醸し出し、「鉄の王国」伽耶を象徴的に表しています。

博物館駅乗車

軽鉄道メトロで釜山駅に向かう

釜山駅到達

釜山駅付近のホテル到着後就寝

18日7:00出発

メトロ1号線釜山駅乗車

温泉場駅下車

金剛ケーブルカー乗車

金井山城南門:釜山北西に広がる金井山城は東莱邑城と並ぶ山城。東莱温泉の金剛公園ともつながっていて、そこからハイキングを楽しむ市民も多い。山城の中央部には名物の黒ヤギ料理店が集まっている金城洞がある。金剛公園からはロープウエイで昇ることできる

金剛ケーブルカー下車

メトロ1号線温泉場駅乗車

梵魚寺駅下車

バスで梵魚寺に向かう

梵魚寺:金井山の麓にある静かな山寺。創建は新羅時代だというが、当時のものは境内に残る石塔のみ。本堂は国宝に指定され、極彩色の柱などもなるべく原型のまま保存されている。ひなびた感じが味わい深く、新緑や紅葉の時期は特に美しい。韓の国三十三観音聖地第二十五番。

バスで梵魚寺駅に向かう

梵魚寺駅乗車

メトロ軽鉄道経由して金浦空港に向かう

金浦空港到達

16:55金浦空港出発

18:15関西空港到達

今回の旅行、隣国の韓国に足を運び、世界有数の湾港都市として知られる釜山をおとずれ歩きとメトロを使っての2拍3日の観光巡り堪能しました。

この時期韓国は蒸し暑く、ソウルと同様にメトロが発達した都市て釜山内の観光名所はほとんどがメトロの利用で訪れることができ、メトロの室内で涼みして一服してからの観光巡りでした。

2日目は金井山城ハイキングコースをトレッキングを考えていましたが時間が十分でなく、2大名所であるケーブルカーで金井山城南門とバスで梵魚寺をおとずれ満喫しました。

次回は古都慶州を訪れる予定です。
   

























飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十五弾:北海道八十八箇所&三十三観音&お城・城下町巡り観光
2016年7月9-10日
   

北の北海道に足を運び、旭川から北部に点在する北海道八十八箇所10か所、三十三観音1か所、お城1か所を訪れました。

9日15:20伊丹空港出発
17:10新千歳空港到達、レンタカーで旭川に向かう。
20:05旭川駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
10日6:30レンタカーで出発、霊場、お城めぐり。

大阿寺:
小島秀元師が明治37年来道。石狩を経て、当地に錫を留め、翌38年教会を設立し布教活動を始めたのを当山の開創とします。大正4年霊光山大阿寺と寺号公称し、以来第二世秀澄師、第三世秀隆師、第四世真光尚如師と受け継がれ昭和59年より現住職真光昌雄師が就任しました。 市の区画整理で境内が削られた横長の境内に、庫裡と本堂(昭和54年建立)、納骨堂が一列に並びます。 
門を入って右に大師堂があり、本尊子安大師(石像)は、近隣女性の信仰を集め、いつとはなしに花が奉られ、着物が掛けられています。また、当寺は北海道八十八ヶ所霊場札所のほか、朔北七福神霊場になっています。本尊は毘沙門天で、毎年7月7日に七福神まつりを行い多くの信者で賑わいます。


不動院:
大正12年5月3日、故阿部昭忠師が現境内の霊水滝前に小堂宇を建立したのが始まりです。
師は不治の病におかされていたところ、明王突然枕辺に現れ「汝の病症は医師の治療のみにては全治するものに非ず、西方の小山の中腹に小滝あり、その水を服用せよ!必ず全治すべし、夢疑う可からず」と告げられたそうです。不思議に思いましたが、そのまま打ちすぎたところ再度同じ夢の示現があり、師は意を決して医師や看護婦の止めるのも聞かず4月7日退院し、友人の力をかり、ついに小滝を探しあて病気も平癒し、師は大いによろこびその霊験あらたかなるを感じ報恩の為小堂宇を建立しました。


実心寺・実心寺観音堂:
当山は明治42年、種野憲如師がこの地に錫を留め観音信仰を広めるために開教に専念。大正13年には本堂、庫裡を建立し、知水山・実心寺と寺号を公称。開基憲如師、第二世暁如師、第三世憲暁師、現住職第四世秀憲師と法灯を継承。 
昭和46年納骨堂、同53年現本堂、庫裡、同59年檀信徒会館を建立。 入所時には奈良県の吉野桜を移植し「さくら」の寺として永く親しまれていましたが、現在は10本程が春に彩りを見せ近隣の人々の心を癒しています。 
境内庭園の中には、十一面観世音菩薩像と西国三十三ヶ所観音霊場があります。
観音堂は、中に十一面観世音菩薩像、弘法大師像を奉安し壇信徒信仰の道場となります。


法弘寺:
人は生きていく上で、様々な煩悩や執着、それらから生ずる苦悩の中に生きておりますが、当霊場17番札所のご本尊のお薬師さまはそういった苦悩を癒すお力を持った仏様です。 また、27番札所の御本尊十一面観世音菩薩さまは、慈悲に満ちた相、衆生を仏道に導かんとする怒りの相などの十一のお顔をもたれる仏さまです。名寄市を含む道北は、冬はマイナス35度、夏は35度と1年の寒暖の差が70度近くになる自然の厳しい地域です。しかし、夏の猛暑、冬の酷寒・風雪に耐え、咲いた花はその強さゆえに美しいものです。 当山は開基住職以来、植物や庭園に造詣が深い住職が続いた事もあり、庭には四季折々・種々様々な花、高山植物が咲き誇り「花の寺」として、参詣者や道行く人々の目を楽しませております。ご参詣になられた際には、お薬師さま・観音さまに手を合わせた後、庭の花々の強さや美しさを堪能され、仏様のいのちの真中に生かされている喜びを感じていただきたく存じます。
第27番札所御本尊「十一面観世音菩薩」さまは、慈悲に満ちた相、衆生を仏道に導かんとする怒りの相などの十一のお顔を持たれる仏さまです。 観音さまの慈悲・怒りなどの様々なお顔は、自然と同じであるといえましょう。植物が秋に花や葉を落とすのはやがて来る冬の寒さに耐えんとするものであり、また次の世代に「いのち」をつながんとするためであります。 当山は植物や庭園に造詣が深い住職が続き、庭には多数の石仏・石塔のそばに種々様々な山野草が咲く「花の寺」であります。 観音さまに手を合わせた後、庭の花々に目と心を癒され、また仏さまの世界をお大師さまとともに歩む喜びとしていただければ幸いです。


光願寺:
光願寺の前身は通称真言宗説教所です。 
堂内に不動明王像並びに弘法大師像を奉安し、町内の信仰を集めていたようです。 
昭和25年此の地に新本堂を建立。 真言宗豊山派真珠山光願寺と公称。 「朔北七福神 寿老人霊場」 「北海道三十六不動尊霊場第八番札所」


弘法寺:
弘法寺のある美深町は人口6千人ほどの町で地名の由来はアイヌ語の「ピウカ」(石の多い河床)からつけられました。弘法寺は明治39年徳島県地蔵寺第24世服部智信により創立されました。 
本尊の弘法大師像は江戸初期の寛文6年、仏師藤原源衛門作が鎮座され、脇仏は平成18年開創の北海道八十八ヶ所霊場本尊薬師如来像と大正2年徳島県出身の女性、山本ラクが観音像奉納により開創した北海道三十三観音霊場第28番札所として本尊聖観世音菩薩像が奉安されています。 
また、本堂左側には文化2年京都大仏師塩釜浄而法橋作の精巧な造りの十一面千手観世音菩薩像も祀られている。


観音寺奥之院:
明治33年にお山の山頂に、人の姿をした木のこぶが発見され、留萌に逗留していた修行僧の夢枕に立ち「我、観世音の化身なり」と言われました。 
そのころ、病に伏せっていた尾作修妙師が同じような夢を見、「我を信仰すれば必ず病が完治するだろう」といわれて以来信仰する様になりました。またその修行僧により入佛開眼されて開基住職となり、尾作修妙尼は悩める人々を救い、現在は孫に当たる康勝師が住職を務めています。本尊天然佛聖観世音菩薩(奥の院)の右横に13番、14番の御本尊を奉安、平成11年に開基百年法要を厳修。 毎年、6月18日当山山頂護摩道場にて火渡り、2月4日節分豆まき法要を行っています。 
札所が山頂にある為、火気の使用はおことわりしています。また、お堂に入ることは出来ません。山頂まで約115段の石段があります。


浜益毛陣屋:浜益村(現石狩市浜益区)は石狩湾の北部、北海道の日本海側沿岸のほぼ中央に位置します。かつてはマシケと呼ばれ、松前藩独特の場所請負制度による益毛場所がありましたが、のちにこの場所を二分し、北方を増毛(現増毛町)、従来の益毛を浜益毛(のちに浜益)としました。
 安政6年(1859)年に荘内藩は幕府に西蝦夷地警備を命じられ、秋田藩領の増毛を除く浜益から天塩までを領地として与えられハママシケに陣屋を作って総奉行をおきました。
 この陣屋は浜益川を天然の堀とし、海岸から500mほど東に入った丘陵部に大手門を設け、5haほどの土地を開いて本陣とし、千両堀といわれる物資輸送のための運河を掘ったそうですが現在は残っていません。
 荘内藩は土地開墾に力を入れ、藩内から1300人余の農民のほか、日常生活に必要な大工・鍛冶・味噌・醤油などの職人に至るまで移住させました。しかし明治維新の際には全員帰国し、田畑は荒れ果ててしまったそうです。

15:00新千歳空港に向かう。

16:30新千歳空港到達。
17:55新千歳空港出発。
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道に足を運び、霊場11か所、お城1か所をドライブかねて訪れ楽しみました。
今回も広大な北海道のドライブ巡り、広いまっすぐな道、車が少なく、信号も少ない、ストレスを感じない、爽快なドライブ走行満喫いたしました。
 









飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十四弾:秋田県お城・城下町巡り観光
2016年7月2-3日
  

北の東北に足を運び、戦国時代に突入するころ、秋田氏(安東氏)が勢力を拡大したエリア、関ヶ原の戦いが終わり、常盤から佐竹氏が国替えで送り込まれると、秋田氏、戸沢氏、本堂氏など、周辺の大名は反対に常盤へと転封された秋田県訪れ、秋田県の南部に点在する比較的マイナーなお城・城下町9か所をめぐりました。

2日16:55伊丹空港出発
18:15秋田空港到達、レンタカーで秋田市方面に向かう。
18:40秋田市のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
3日7:00レンタカーで出発、秋田県の南部の点在するお城をめぐる。

豊島館:永正3年(1504年)豊島玄蕃頭によって築かれたと云われる。 豊島氏は畠山重忠の末裔と云われ、永正3年(1504年)飛騨国より一門十二家二百人を率いて豊島荘に入ったという。
玄蕃頭の子次郎重村は仁賀保氏から妻を迎えていた。元亀元年(1570年)玄蕃頭は周辺の国人と同調して湊城主安東茂季に謀反を起こした。湊騒動とも呼ばれる内乱であったが檜山安東愛季の援軍もあって玄蕃は敗れ、山根館の仁賀保氏を頼って落ちたが、後に許されて豊島館に復帰したという。
天正16年(1588年)湊城主安東高季が脇本城主秋田実季に謀反した湊合戦では、湊安東氏に従って秋田氏に対したが敗れ、その後は由利十二頭のひとり羽川館赤津尾九郎の弟新内が豊島館に入って豊島殿と呼ばれたという。
一説に湊安東氏を継いだ安東茂季は湊城ではなく、この豊島館にいたとされる。

山根館:築城年代は定かではないが由利氏によって築かれたと云われる。
その後仁賀保氏祖である大井伯耆守友挙が修築して居城とした。 大井氏は信濃国大井城主大井朝光の後裔大井友光の子友挙が応仁元年(1467年)仁賀保に下向し、はじめ待居館に住んだが、翌年山根館を修築して居城としたといい、仁賀保氏は友挙の子挙政が名乗った事に始まるとされる。
仁賀保氏は由利十二頭の一人とされ、矢島氏などと争った。 仁賀保氏は友挙・挙政・挙久・挙長・重挙・挙晴・挙誠と七代に渡り山根城を居城とし、豊臣秀吉からも所領安堵を受けたが、慶長7年(1601年)関ヶ原合戦の恩賞により由利一円が最上氏の所領となったため、仁賀保氏は常陸国武田に五千石で移った。
元和9年(1623年)仁賀保挙誠は由利に戻り塩越城を居城として一万石を領した。

西馬音内城:建治3年(1277年)小野寺道直によって築かれたと云われる。 鎌倉時代初期に雄勝郡に入部した小野寺経道の二男道直が由利方面に対する備えとして西馬音内に配され、その後西馬音内氏を名乗った。
天正14年(1586年)最上氏に属した鮭延地方の奪還を目指した有屋峠の合戦では西馬音内茂道も参陣した。
文禄元年(1592年)西馬音内茂道の女を娶って婚姻関係であった由利十二頭の一人八森城主矢島満安が、同じく由利十二頭の一人山根館の仁賀保氏によって八森城を追われ、西馬音内へと逃れてきたが、このことが宗家との間にあらぬ疑いを招き西馬音内氏は満安を自刃させた。このような内紛の中、山形城主最上義光は雄勝郡へ侵攻し文禄4年(1595年)頃には西馬音内氏・柳田氏・松岡氏・深堀氏などが最上方に属した。
慶長3年(1598年)横手城主小野寺氏が湯沢城奪還を目指すと西馬音内氏は再び小野寺氏に属して立ちあがった。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では上杉氏に呼応して東軍となり、上杉氏が最上領から撤退した後は孤立し、最上氏が雄勝郡へ侵攻すると西馬音内氏は城を焼き払って庄内へ逃れ、横手城主小野寺氏は改易となって石見国へ流罪となった。


八口内城:築城年代は定かではないが八口内氏によって築かれたと云われる。 八口内氏は平将門の後裔を称する。

暦応2年(1339年)小野寺氏に攻められ落城したと云われる。
天正14年(1585年)越後の上杉氏が最上の庄内へ出兵することを知った小野寺義道は、鮭延氏が最上に降って以降失った地を奪い返すべく、山北より最上へ侵攻することを計画し、一族郎党に八口内城へ集結するよう陣触を出した。これを知った最上氏は最上義光自ら軍勢を率いて出陣した。両軍は山北と最上を結ぶ要衝にある有屋峠で八日間にわたり激しく戦い、両軍とも多数の戦死者を出した。(有屋峠の合戦)
文禄2年(1593年)豊臣秀吉による奥州仕置きとして検地を行うため、最上の家臣鮭延秀綱が先導して有屋峠を越え雄勝郡へ侵攻した。八口内城主八口内尾張守貞冬(定冬)は横手城の小野寺氏に注進するものの軍勢は集まらず、貞冬は有屋峠の道を堀切り、大木を切り倒し、逆茂木を引て待ち構え、武者三騎にて敵軍に討ち入り討死した。

稲庭城:築城年代は定かではないが小野寺氏によって築かれたと云われる。 小野寺氏は下野国都賀郡小野寺郷発祥で藤原秀郷流を称す。小野寺道綱・重道父子は文治5年(1189年)の奥州合戦の功により出羽国雄勝郡の地頭職となった。
小野寺氏の雄勝郡入部に関しては詳らかではなく、建久4年(1193年)頃に小野寺重道、または建長年間(1249年~1256年)の小野寺経道など諸説ある。
小野寺氏はこの稲庭を拠点として大館、西馬音内城、湯沢城などに一族を配して勢力を拡げ、戦国時代には沼館城へ居城を移したが、その後も稲庭城には小野寺氏の一族が居城した。
文禄4年(1595年)雄勝郡に侵攻した最上氏は湯沢城を落とし、岩崎城を占拠した。翌文禄5年(1596年)にはこの稲庭城も最上氏に攻められ落城した。

横手城:築城年代は定かではない。鎌倉時代から城があったとする説もあるが、天文年間(1532年~1555年)頃に小野寺輝道によって築かれたともいわれる。
小野寺氏は関ヶ原合戦で西軍に属したとみなされ改易となり、小野寺義道は石見国津和野の坂崎出羽守に御預けとなった。
慶長7年(1602年)佐竹氏が秋田に入部すると最上氏より城を受け取り伊達盛重が城代となった。慶長8年(1603年)には須田盛秀が城代となり、寛永2年(1625年)盛秀の子須田盛久が城代となる。
寛文12年(1672年)常陸国戸村城主であった戸村義連が城代となり、以後戸村家が城代として続いて明治に至る。

大森城:文明年間(1469~1487年)、標高120mの山頂に横手城主小野寺泰道の四男小野寺道高が築いたと云う。1580年頃、小野寺康道が入り、「大森城」と称して、3万石で平鹿西部一帯を支配した。1590年太閤検地の際、上杉景勝が入城し、一時、太閤蔵入地の収納所となる。1591年再び小野寺康道が入り、最上氏との対立で大攻防戦となったが、和睦した。1600年「関ヶ原の戦い」の後、最上氏家臣伊良子将監の居城となる。現在は大森公園、大森神社に変わり、曲輪、土塁などが残る。

本堂城:築城年代は定かではないが天文4年(1535年)頃に本堂氏によって築かれたと云われる。 本堂氏は陸奥国和賀郡に勢力をもった和賀氏の一族で、南北朝時代の頃に本堂に土着し元本堂城を築いて居城としたことに始まる。

天文年間(1532年~1555年)に本堂城を築いて山城である元本堂城より移ったとされる。戦国時代の本堂氏の系譜は義親・頼親・朝親・忠親・茂親で、義親は戸沢氏と戦って鴬野で戦死、頼親は金沢城主と戦って野口で戦死、朝親も戦死したという。
天正年間(1573年~1592年)の当主は本堂忠親で豊臣秀吉にの小田原征伐に参陣し、藤田信吉の検地に協力して八千九百八十三石余を領した。
関ヶ原合戦の後、本堂茂親は常陸国志筑八千五百石に転封となり廃城となった。本堂氏は以後交代寄合として明治まで続いた。

角館城:築城年代は定かではない。
応永30年(1423年)角館能登守利邦が小野寺氏に通じて謀反を起こしたため、門屋城主戸沢家盛に攻められ落城、応永31年(1424年)家盛は居城を門屋城より移し、以後代々戸沢氏の居城となったという。
戸沢氏は小野寺氏や安東氏(秋田氏)などと戦って勢力を維持し、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に参陣して本領を安堵され、同年藤田信吉による検地が行われ四万四千三百五十石余となった。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦では東軍に属して上杉氏を攻撃した。戸沢氏は慶長7年(1602年)常陸国小河城に四万石で転封、慶長11年(1606年)常陸国松岡へ移り、元和8年(1622年)出羽国新庄へ移り明治まで続いている。
戸沢氏が角館を去ると秋田へ入部した佐竹氏の家臣葦名盛重(義広)が常陸国江戸崎より一万五千石で入部し角館城主となったが、元和6年(1620年)一国一城令によって廃城となった。 葦名氏は三代で断絶し、明暦2年(1656年)佐竹北家の佐竹義隣が出羽国紫島城より角館に入り、「みちのくの小京都」と呼ばれる町並みを整備した。

16:00秋田空港に向かう。
17:00秋田空港到達。
18:45秋田空港出発
20:10伊丹空港到達。

今回の旅行、北の東北地方に足を運び、秋田県の南部に点在する比較的マイナーなお城9か所をめぐり楽しみました。

今回も田園風景を望みながらのドライブお城めぐり、車が少なく、信号も少ない、渋滞なく、ストレスを感じさせないドライブ走行満喫しました。

比較的地味なお城が多かったが、2つのお城だけ、派手できれいすぎるような景観で歴史を感じさせない人工的な建造物に思われ残念でした。

快適な東北・北海道のドライブお城めぐり、もうすぐ制覇ですね、頑張ります。