飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十九弾:バルト三国&ヘルシンキ観光
2016年8月7-14日
ヨーロッパの北東部に足を運び、バルト海に面し、それぞれ独自の歴史をもっていたが、ロシア革命で独立の機運高まり、1918年にリトアニアとラトヴィア、20年にエストニアが独立を達成したバルト三国、フィンランドのヘルシンキを訪れました。
バルト三国:バルト海の東岸に、北からエストニア・ラトヴィア・リトアニアと並ぶバルト海に面した三国をバルト三国という。リトアニア人・ラトビア人はインド=ヨーロッパ語族、エストニア人はウラル語族と民族系統の違いはあるが、その地理的共通性からバルト三国と総称されることが多い。その地理的環境から、東方からのゲルマン人、西方からのスラブ人の圧力を受け、その歴史は自立の困難さが常につきまとっていた。中世にはリトアニアが大国になった時代があるが、近代においては長くロシアの支配を受け、一時独立したものの、第二次世界大戦後はソ連に組み込まれることとなった。ソ連のペレストロイカの中で独立の志向が強まり、1990~91年に分離独立を宣言、ソ連解体の導因となった。バルト三国といわれるエストニア、ラトヴィア、リトアニアは、1917年にロシア帝国が滅亡して以来、独立国となっていたが、第二次世界大戦が始まると1940年にソ連に併合された。独ソ戦が開始されると、一時ドイツに占領されたが、ソ連軍が解放し、1944年から再びソ連邦を構成する共和国として存続することとなった。その後ロシア人が多数移住し、ロシア語が強制されるなど、民族意識は押さえつけられていた。1985年、ソ連にゴルバチョフ政権が成立、ペレストロイカの時代となり、新思考外交によって東欧諸国のソ連離れが始まると、バルト三国でも急速に自立の気運が起こってきた。
7日10:45関西国際空港フィンエアー航空で出発
14:55ヘルシンキ空港到達
16:30ヘルシンキ空港フィンエアー航空で出発
18:15ビリニュス空港到達
バスでホテルに向かう。就寝。
8日
リトアニアはバルト三国の一番南にあり、3つの国の中では一番大きい国です。それでも国土は北海道の8割程度です。北はラトビアと南はポーランド、東はベラルーシと国境を接しています。一部飛び地となっているロシアのカリーニングラード州とも接しており、間を結ぶクルシュ砂州は世界遺産にも登録されています。
歴史的にはポーランドとともにバルト地域を支配している時代もありましたが、ロシア、ドイツ等の影響も大きく受けてきました。1991年に現在の独立国になる前はソ連に併合されていました。
8:30ヴィリニュス市内観光
ヴィリニュス:首都ヴィリニュスは人口約54万人(2013年現在)を有するリトアニア最大の都市です。バルト三国の中では唯一内陸にある首都で、ベラルーシとの国境に近い南東部に位置しています。リトアニア大公国の首都として歴史に登場するヴィリニュ首都ヴィリニュスは人口約54万人(2013年現在)を有するリトアニア最大の都市です。リトアニア大公国の首都として歴史に登場するヴィリニュスはその後、ポーランド、ソ連の支配下に入ることになります。現在のヴィリニュスは様々な歴史と文化が入り混じった魅力のある都市です。スはその後、ポーランド、ソ連の支配下に入ることになります。現在のヴィリニュスは様々な歴史と文化が入り混じった魅力のある都市です。
聖ペテロ・パウロ教会:ロシアからの解放を記念して17世紀後半に建造された、ヴィリニュスを代表するバロック様式の建築物です。旧市街の外れにあるこの教会は外装に7年、内装には30年も費やされたという美しい教会で、ここにある2000以上もの漆喰彫刻は見るものを圧倒します。「天使の漆喰彫刻」の裏には「死神の彫刻」があります。
杉原記念碑:首都ヴィルニュス ネリス川の河畔に建つ杉原モニュメント。桜の木が植えられ、傍らには広島で被爆した線路の敷石も展示されている。この記念碑は2001年に母校の早稲田大学により建立された。
3つの十字架の丘(展望台):旧市街東側にある丘です。その昔、ヴィリニュスで7人のフランチェスコ修道会の僧が殉教しましたが、うち4人が川に流され、そして3人がここで磔にされました。17世紀初頭、彼らの死を悼みこの丘の上に十字架が建てられました。十字架はスターリンによって破壊されましたが、1989年に再建。ここからはヴィリニュスの街が一望できます。
ゲディミナス城:リトアニアの首都ビリニュスの旧市街にあった城。14世紀に大公ゲディミナスがトラカイから同地に遷都した際に建設が始まったとされる。先に、丘の上に「上の城」が築かれ、16世紀頃までに「下の城」が完成した。19世紀に帝政ロシアにより大部分が破壊され、現在、ゲディミナス塔と呼ばれる監視塔の一つが残っている。。
ゲディミナス塔:14世紀、大公ゲディミナスがトラカイからヴィリニュスに遷都した際に、城が築かれた場所です。19世紀に帝政ロシアによりその大部分が破壊され、現在は監視塔として使われていたゲディミナス塔のみが残っています。ここからは新市街と旧市街が一望できます。「下の城」と呼ばれる王宮は、大聖堂のある広場にあります。塔は丘の上に建っており、丘の上にはケーブルカーで上れます。
ヴィルニュス大聖堂:1251年、十字軍の弾圧から逃れるため、ミンダウガス王がキリスト教を受け入れて最初に建造した主教座教会です。建物は18世紀に大改築が行われ、現在見られる姿となりました。正面の屋根にある聖スタニスラウス、聖ヘレン、聖カジミエルの3聖人の像は、旧ソ連時代には撤去されていましたが、1996年に再設置されました。
カテドゥロス広場:リトアニアの首都ビリニュスの旧市街にある中央広場。ゲディミナス城の丘の下に位置する。ビリニュス大聖堂に隣接し、高さ53メートルの鐘楼が建っている。
王宮:リトアニアの支配者のために15世紀に建てられた、ヴィリニュスにあるリトアニア大公国の宮殿である。長年にわたって追加築造され、16世紀から17世紀半ばの間に栄えたロウアー王宮で、4世紀にわたるリトアニア大公国の政治行政、文化の中心地であった。元の宮殿は1801年に取り壊された。新宮殿は、元の建物の敷地内に2002年から建設され、2009年7月6日にオープンしました。
聖アンナ教会:旧市街の東側にあるこの教会は、15世紀末に建造されたゴシックの秀作といわれている建造物です。フランボワイアン式の華やかなファサードを持つ、この赤レンガ造りの教会は、その美しさからナポレオンが持ち帰りたがった、という逸話も残されています。
ベルナルディン教会:聖アンナ教会の裏手にある16世紀建造の教会です。ゴシック様式とバロック様式がうまく溶け込んだこの建造物は「炎の教会」とも呼ばれ、北側の壁面は16世紀のフレスコ壁画で覆われています。教会はリトアニア人が帝政ロシアに対して蜂起した1863年に閉鎖。ポーランドに占領された1919年以降はポーランド将校の宿舎として、また旧ソ連時代には芸術アカデミーとして使用されていました。礼拝堂や側廊は当時のまま残されています。
聖ミカエル教会:リトアニア大公国の最高位であったレオ・サピエカの命により、一家の廊として1594年から1604年にかけて建造されたルネッサンス様式の教会です。1655年にはコサックの襲撃を受け建物の一部は破壊されましたが、その後何度か改修が繰り返され現在に至っています。旧ソ連時代は、建築博物館として使用されていました。
ヴィリニュス大学:1579年に創立されたこの大学は、中央ヨーロッパでもクラクフのヤギェウォ大学、ケーニヒスベルクの大学に次ぐ古い歴史を誇る大学です。1700年以降、ロシア帝国の領地になったヴィリニュスで、大学は反対運動の本拠となりました。そのため大学はロシアにより、およそ1世紀もの間封鎖されてしまいました。敷地内には12の中庭があり、またバロック様式の建物にはフレスコ画が残されています。このヴィリニュス大学のメイン・キャンパスは、100リタス紙幣に描かれました。
聖ヨハネ教会:ヴィリニュス大学の中にある教会です。旧ソ連時代、ここは科学思想博物館として使用されていました。内部には有名な学者たちの肖像画も飾られています。
旧市街に向かう。
旧市庁舎:市庁舎広場にあり旧市庁舎はそもそもゴシック様式の建物でしたが、18世紀の終わりにクラシックな建物に改装されました。かつては裁判所、財務室や武器弾薬庫などが置かれ、地下には刑務所もありました。現在は様々なイベントが年中開催されています。
聖カジミエル教会:17世紀初頭に建造されたイエズス会の教会です。ここにはリトアニアの守護聖人である聖カジミエルが祀られています。ロシア=ポーランド戦争の時に火災に見舞われ、その後18世紀中頃にバロック様式で再建されました。後にロシア正教、そしてプロテスタントの教会となりますが、宗教が禁じられていた旧ソ連時代には博物館として使用されていました。独立回復後の1991年、イエズス会の教会として復帰。内部には聖カジミエルの生涯を描いたフレスコ画や後期バロック様式の祭壇が3つあります。
トラカイにむかう。
昼食:キビナイ(ミートパイ)
キビナイ(ミートパイ):リトアニア料理のキビナイです。日本風に言えば、ミートパイです。ジャンクフードのような感じがしますけど、塩加減、肉の風味など総合して美味しいです。
トラカイ:ヴィリニュスの西28キロの場所にある、リトアニアのもう一つの古都です。この周辺には200を超える湖や、14世紀に築城された城などの見どころがあります。ボート遊びやハイキングも楽しめる行楽地の一つとして、リトアニアでも人気の観光地となっています。
トラカイ城:ガルヴェ湖の島に建てられた、14世紀に建造の赤レンガの美しい古城です。地元では「小さなマルボルク城」と呼ばれ、有名なリトアニア君主、ヴィタウタスの出生地となったことでも知られていています。かつて牢獄としても使用されていたことがあるこの城は、17世紀に巻き起こったモスクワ大公国との戦争で損壊し、その後廃墟の一途を辿りましたが、現在は改修され、ハイテクを駆使した映像で城やリトアニアの歴史を紹介する博物館としてして一般公開されています。
夕食:ツェペリナイ
ツェペリナイ:(飛行船)の形をした、もっちもち食感のいもだんご。中には肉だんごが入っています。リトアニアの名物料理。
就寝
9日
8:30バスでカナウスに向かう
カナウス:トラカイから車で1時間ほどの場所にある、リトアニア第2の都市です。その歴史は町が建設された11世紀にまで遡り、その後は交通の要所として栄えました。15世紀にはハンザ同盟に加わり、17世紀から18世紀にかけてはロシアやスウェーデンの侵攻という歴史を歩んできました。また、第二次世界大戦中には、ここにリトアニアの暫定首都が置かれました。このカウナスは「リトアニアの博物館街」と呼ばれるほど、多くの博物館が集まっています。リトアニアで最も有名な画家チュルリョーニスの美術館もここにあります。
カナウス城:ドイツ騎士団の侵攻に備えて13世紀に建造された要塞です。1363年に騎士団により幾度もの攻撃を受け破壊。その後、15世紀に再建されるものの、ビタウタス大公の時代に防衛拠点としての役割を終え、17世紀から18世紀にかけて戦争により、再び城の大部分が破壊されました。現在は、塔と城壁の一部が残されるのみとなっています。
旧市庁舎:市庁舎広場にあり、中世には市場が立った市民広場にある、18世紀のバロック様式の建造物です。その外観の美しさから「白鳥」とも称されています。帝政ロシア時代には政治犯の牢獄として、その後は皇帝の別宅としても使用されていました。現在は市の結婚登記所となっており、館内の一部は陶器博物館になっています。高さ58メートルの塔が何とも印象的です。
ベルクーナスの家:15世紀にハンザ同盟の商人によって建造され、その後16世紀になってイエズス会の手に渡された、赤煉瓦造りのゴシック様式の建物です。ここには昔、雷神ペルクーナスの神殿があったとされていますが、現在は図書館として使用されています。
ヴィタウタス大公教会:15世紀前半に建造された、赤煉瓦造りのゴシック様式の建造物です。またの名を「聖母被昇天教会」と言います。リトアニア大公であるビタウタスが、ボルスクラ川の戦いで難を逃れたことを神に感謝するために捧げられたカトリック教会です。ナポレオン戦争の際は弾薬庫として使用され、1850年から1899年には東方正教会が置かれました。また、作家のJ・トゥマス=ヴァイジュガンタス司教は、ここに埋葬されています。
聖ペテロ&パウロ大聖堂:カウナスの旧市街にある15世紀前半に建造された、カトリック教会の大聖堂です。当初、赤煉瓦造りのゴシック様式で建築されましたが、17世紀半ばにロシア=ポーランド戦争の際に一部が破壊され、その後修復されルネサンス様式の建物となりました。内部には18世紀後半、ポーランド=リトアニア共和国の最後の国王、スタニスワフ2世アウグストにより施された装飾が残されています。
旧日本領事館観光
旧日本領事館(杉原記念館):第二次世界大戦中、外交官であった杉原千畝氏が領事としての任務にあたっていた旧日本領事館です。当時、杉原領事はナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、生命の危機にさらされたポーランドに住むユダヤ人のシベリア鉄道経由での亡命を手助けするために、当時のオランダ領事であったヤン・ツバルテンディックと連携し、日本政府の意に反して「命のビザ」とも呼ばれた日本通過ビザの発給を行いました。領事館だったこの建物は現在、その杉原千畝氏の記念博物館として一般に公開されています。残された執務室からは、杉原氏の勇気とその大いなる決断が感じらます。大勢のユダヤ人を救った杉原氏は「日本のシンドラー」とも呼ばれ、日本人として唯一イスラエルから「諸国民の中の正義の人」として表彰されています。
昼食:コルドゥナイ
コルドゥナイ:リトアニア風水餃子
リガに向かう
十字架の丘:シャウレイの北12キロの場所にある、おびただしい数の十字架が立つリトアニア最大の巡礼地です。その発祥については明確にされていませんが、初めてここに十字架が立てられたのは、1831年のロシアに対する蜂起の後と考えられています。これらの十字架は、ロシアの圧制により処刑された人たちや、シベリアへ流刑されたリトアニア人たちを悼んだ人々が、一つ一つ持ち寄ったもので、大きさは小さなロザリオから高さ数メートルもある芸術的な十字架まで実に様々です。途中、旧ソ連軍が撤去を試みたものの再び十字架が集まり、いつしか現在のような数になったそうです。すでにその数は5万にもおよび、現在も日々増え続けています。この十字架の丘は「リトアニアの十字架の手工芸とその象徴」として、2008年にユネスコの世界無形文化遺産に登録されました。
夕食:魚料理
リガ市内のホテルで就寝
10日
9:00リガ市内観光
リガ:リガはバルト3国最大の都市です。13世紀初めにドイツ騎士団が領有し、17世紀には都市として確立。そして、18世紀後半に大規模な港湾都市として発展を遂げました。街の中心をダウガワ河が流れ、その東岸にユネスコ世界遺産に登録された旧市街が広がっています。19世紀後半、人口の増加に伴い公共交通網の整備やアール・ヌーボー建築などの大規模プロジェクトが行われ近代都市に生まれ変わったリガは、2001年に建都800周年を迎えました。
ユーゲントシュティール建築群:ユーゲントシュティールとは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動のことで、リガにもこの様式の建築物が多く建造されました。現存するユーゲントシュティール建築の多くは、旧市街からも歩いて行けるアルベルタ通りやエリザベテス通り周辺に多く見られます。アルベルタ通りのラトビア人建築家、コンスタンティーンス・ペークシェーンスによって作られた建物には、2010年夏に「リガ・ユーゲントシュティール博物館」がオープンしています。
ドム大聖堂:1211年にアルベルト司教の下、ラトビア・チュートン騎士団によって建造された、通称「ドーム教会」として知られる大聖堂です。およそ5世紀に渡って増改築が繰り返され、1776年にローマ様式、初期ゴシック様式、バロックおよびアールヌーボー様式が融合した荘厳な聖堂となりました。聖堂内には6768本ものパイプを持つ壮大なパイプオルガン(1884年製)があり、世界で第4番目にパイプの多いオルガンがある教会として世界的にも有名です。ここでは毎日12時からパイプオルガンのコンサートも行われています。また、リガの歴史を刻んだステンドグラスも見逃せません。
三人兄弟の家:世界遺産、リガ旧市街にあるそれぞれ違った時代の建築が3つ並ぶ観光名所。「長兄」と呼ばれている白い建物は15世紀に建てられたというリガ最古の建築。一部は現在、建築博物館となっている。
聖ヤコブ教会:リガの旧市街の中心から、やや北東方向にありラトビア国会とは道を挟んで反対側なので、すぐに分かります。
見上げる方向により観えない事もありますが、とんがり屋根の塔に小さな鐘がつるされています。
旧市街には複数の教会が点在しますが、温かみのある外観と明るい内装です。
スエーデン門:ラトビア、リガ旧市街にあるかつての城門。17~18世紀初頭にかけてスウェーデン統治下のラトビアで、スウェーデン人との交際は禁じられていたリガの娘が、見つかって門の内側に埋められてしまったという伝説が残る。ラトビア人ガイドの方によれば、近年、特殊カメラで撮影してみたところ、確かに若い女性の骨が埋められているのが映ったとか。なかなか悲しい場所だったりします。内部には、黄色い「スウェーデン兵舎」の建物が残り、ブティックやお土産、おしゃれなレストランなどが連なっています。
城壁:かつては2kmにわたって城壁が築き上げられていたとのことですが、現在は一部のみ残存している状態です。非常に重厚な作りで要塞都市であったことを思い浮かばせます。現在残存しているものは火薬塔の裏にあり、城壁沿いの旧スウェーデン軍兵舎にはバーやショップが入っています。
火薬塔:ラトビア軍事博物館:プルヴェルトルニス(火薬塔)にある、20世紀の独立の戦いに焦点を当てたラトビアの軍事に関する博物館です。
猫の家:ラトビア、世界遺産リガ旧市街でも、とびきりかわいい観光名所。屋根の上に二匹の猫がいます。実はこの猫、かつてドイツ人ではないという理由からギルドへの入会を断られた腹を立てたリガの商人が、大ギルドのほうにおしりを向けた猫を屋根において、怒りをデモンストレーションした、という反骨精神の証。視察に来てこの猫を見たドイツ人の偉い人がリガの担当者に「仲間に入れてやれよ」と言ってくれたおかげで、無事にギルドに入ることが出来たとか。この猫はリガのお土産雑貨にも度々描かれる、町のアイコン的存在です。なお、猫だけに注目されがちですが、1909年建築のアール・ヌーヴォー(ユーゲント・シュティール)建築も見事です。
リーヴ広場:リガ旧市街中心部にある広場で多くのオープンカフェやレストラン、露店、お店が位置しています。たくさんの石像が陳列されており、しかも販売されています。
自由記念碑:ラトビア共和国の独立を記念し、1935年に市民からの寄付金を集めて建造された高さ約50メートルの記念碑です。上部には当時のラトビアの主な3つの地域を表した星を掲げた「ミルダ」と呼ばれる女性像が立っています。毎年独立記念日には、独立の象徴であるこの記念碑に大統領や政府の要人、そして市民が献花しています。
聖ゲオルギ教会:かつては1204年にリヴォニア帯剣騎士団の城として建てられ、後に聖ゲオルギ教会となった現存するリーガ最古の建物にある博物館。タペストリーや木製品、陶芸品、琥珀のアクセサリーなどラトビアの民族工芸品を展示している。 聖ペテロ教会の裏、スカールニュ通りにある。
1204年に帯剣騎士団の城の一部として建てられた、現存するリガで最も古い建物。13世紀終わりに住民たちによって破壊され、この南側の部分のみが残された。後にここは聖ゲオルギ教会として使われ、宗教改革以後は倉庫となった。現在は工芸博物館となっていて、教会の面影はない。
聖ペテロ教会:1209年に建造されたルター派の教会です。1523年まではカトリック教会として機能していました。リガのシンボルにもなっている高さ約123メートルの塔は、17世紀にはヨーロッパ一の高さを誇る木造の塔でしたが、1721年に落雷により消失し1764年に再建されたものの、1941年に第二次世界大戦の爆撃を受けて再び破壊されてしまいました。現在は鉄筋の塔に建て替えられており、約70メートルの高さまでエレベーターで上ることができます。塔の上からはリガの旧市街のパノラマが望めます。また、不定期ですが教会ではコンサートなども催されています。
聖ヨハネ教会:ドミニコ修道院の礼拝堂として使われていた、1297年に初めて文献に登場する教会です。15世紀には、2人の修道僧が自らすすんでここに幽閉され、窓を通じて食料と水の受け渡しがされていと言われています。宗教改革の後は武器庫として使われましが、1582年にはルター派教会となりました。修道僧が閉じこめられていた場所には、十字型の穴があります。
市庁舎広場:リガ旧市街で最も人気スポットである市庁舎広場です。旧市街の入り口にもなっており、ガイドツアーの待ち合わせ場所としても使われています。ブラックヘッドハウスや聖ペトロ教会、リガ市庁舎をここから見ることができます。
ここの目玉はブラックヘッドハウスです。1300年代から数百年にわたって独身男性のギルドメンバーのためのパーティホールとして使用されていたという記録が残っていますが、その後1940年代にドイツ軍の空爆等により崩壊、その後リガ市建設800年記念事業として再建されました。旧ハンザ同盟の象徴でもあります。
ブラックヘッドのギルド:ブラック・ヘッドとは、中世のバルト海沿岸諸都市にあった独身男性の集まりです。美しいゴシック様式のこの建物は、1334年に初めて文献に登場する中世ギルドメンバーのパーティー・ホールとして使われていました。1941年にドイツ軍の空襲で破壊されましたが、2001年のリガ市建都800周年祝賀記念事業として1999年に再建。現在もパーティー会場やコンサートホールとして使用されています。
昼食:ロールキャベツ
ルンダーレ宮殿に向かう
ルンダーレ宮殿:リガの南60キロの場所にある、ビロン公の夏の宮殿として1736年から1740年にかけて建造された、ラトビアの中でも特に見事なバロック=ロココ様式の記念建造物です。フランスのベルサイユ宮殿を思わせるバロック様式の建造物であることから、「バルトのベルサイユ」とも呼ばれています。この宮殿はサンクト・ペテルブルグの冬の宮殿を建築した、イタリア人建築家ラストゥレリが設計を手がけました。ここでは毎年夏にバロック音楽フェスティバルが開催される他、パーティーなどにも使用されています。
ホテルで夕食、就寝。
11日
8:30シグルダに向かう
シグルダ観光:森と丘に囲まれた国立公園の中にあるスィグルダは、「ラトビアのスイス」と呼ばれる人気のリゾート地です。平坦な地形のラトビアでは珍しく起伏の多い地形であることから、冬にはスキーやボブスレーなどが盛んに行われ、国際大会で活躍するボブスレー選手はここから輩出されています。また、夏には人気の保養地として国内外からたくさんの観光客が訪れています。交通至便なリゾート地として発展してきたこの町には、旧ソ連時代の1973年にガウヤ川国立公園が設立されました。
シグルダ城址:ラトビア、ビゼメ地方の町スィグルダにある城址。ガウヤ川東岸に位置し、13世紀初めにリボニア帯剣騎士団により建造。18世紀の北方戦争で破壊され、現在は城門と城壁の一部が残っている。
トゥライダ城:バルト系諸部族やリーブ人がドイツ人を相手に戦いを繰り広げ歴史の舞台となった、スィグルダ近郊にある赤レンガの古城です。この城は現在修復され、博物館として公開されています。周辺には42ヘクタールのトゥライダ博物館保護区があり、そこにラトビアの民謡をテーマにした公園や木工職人の工房などがあります。 また、この場所では9世紀からの様々なイベントが開催されています。
昼食:ツーカス・ツェペティス
ツーカス・ツェペティス:ラトビア料理でローストポークのこと。
タリンに向かう
夕食:エストニア料理
エストニア料理:バルト沿岸諸国としてドイツ料理の影響を強く受けているが、後の支配者であるスウェーデン料理の影響も強く、長くスウェーデンの支配下にあった同じフィン・ウゴル語派の隣国フィンランドと似通った食文化を共有している。
フィンランド料理との相違点としては、ドイツの影響を受けてビールを使った料理が好まれること。料理の嗜好にとどまらず、フィンランド人に比べてエストニア人は酒好きと考えられている。他のバルト沿岸の国家との違いは、魚類を好んで料理に使うこと。特に、イワシは主要な食材の一つである。煮込む料理が多く、牛乳とジャガイモは欠かせない。
就寝
12日
9:00タリン市内観光:タリンは中世の町並みが残る、パッチワークの様な都市です。800年もの歴史を誇るこの町には、ロシアのツァーリ時代に栄えたカドリオルグ地区など、旧ソ連時代を思い起こさせる遺跡や自然も多く残されています。そうした歴史的建造物が保存されたタリン旧市街は、1997年にユネスコ世界遺産に登録されました。
歌の広場:5年に1度ここで開催されるユネスコ無形遺産「歌と踊りの祭典」の会場となる広場です。ここにはエストニア人建築家が設計した、美しいアーチ型の屋根が印象的な野外音楽堂(1万5000人収容)があります。丘の上からはアーチの向こうに旧市街やフィンランド湾が望めます。また、音楽堂の脇に建つ灯台の上には、「歌と踊りの祭典」の開幕に合わせて点灯される聖火台があります。
カドリオクル公園:エストニアがロシア領になってから、ピョートル大帝がエカテリーナ皇妃のために造った離宮が残されている公園です。イタリア人建築家のミッケチが設計したこのバロック様式の宮殿は、1718年から完成までに5年の歳月が費やされました。この建物は現在美術館として使用されています。手入れが行き届いた宮殿の中庭は大変美しく、日本庭園もあります。また、この向かい側には大統領官邸があります。
トームペア:エストニアの首都タリンの山の手地区。旧市街西部、城壁に囲まれた丘の上に位置し、13世紀建造のトームペア城、タリン大聖堂、帝政ロシア時代のアレクサンドルネフスキー大聖堂などがある。1997年、旧市街は「タリン歴史地区」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録された。
トームペア城:町を見下ろす高台にある、かつてこの地方を納めていた領主の館です。城の一角には「のっぽのヘルマン」と呼ばれる高さ50.2メートルの塔が、15世紀の建造当時のまま残されています。この塔の上にはそれぞれの時代の支配者の旗が掲げられていましたが、現在はエストニア国旗が掲げられ、独立を果たしたエストニアの象徴となっています。この城の原型は13世紀のものですが、現在見られるのは19世紀に再建された姿です。ここは現在エストニア国会議事堂として使用されているため、内部の公開はされていません。城の脇には見晴らしの良い公園があります。
のっぽのヘルマン塔:町を見下ろす高台にある、かつてこの地方を納めていた領主の館です。城の一角には「のっぽのヘルマン」と呼ばれる高さ50.2メートルの塔が、15世紀の建造当時のまま残されています。この塔の上にはそれぞれの時代の支配者の旗が掲げられていましたが、現在はエストニア国旗が掲げられ、独立を果たしたエストニアの象徴となっています。
城壁:タリンの街を中世の世界そのままに守ってきたのがタリン城壁です。1.85Kmの塀沿いには塔の広場、トーンペア城、ヴィル門、セーターの壁など、絵になるスポットがいっぱいです。
アレクサンドル・ネフスキー聖堂:議会議事堂の真正面にある、1900年に建造されたタマネギ型のドームを持つロシア正教の教会です。ロシアのツァーリの権力を示すために建てられたと言われています。独立を長く切望していたエストニア国民にとっては、決して喜ばしい建物ではありませんでしたが、現在はエストニアに住むロシア正教の信者にとって重要な教会となっています。
観光郵便局:トームペアの、アレクサンドル・ネフスキー教会の横にあるエメラルドグリーンの建物が観光郵便局です。普通の郵便局との違いは外壁やポストの色くらい?内部は普通ですが、とても綺麗で居心地の良い作業机もありました。
大聖堂(トームキリク):地元では「トーム教会」と呼ばれている、トーンペアの丘に建つルター派の教会です。13世紀に建造されたこの純白の教会は何度も修復が繰り返され、随所に様々な建築様式を見ることができます。教会の床には13~14世紀前半のものと見られる墓石が横たわり、北欧戦争でスウェーデン軍を率いたポンタス・ド・ラ・ガーディ、ロシアの最初の世界探検を率いたドイツ人のアダム・ヨハン・フォン・クルーゼンステルンや、エカテリーナ女帝の愛人と噂されたスコットランド出身のサミュエル・グレッグ将官などが埋葬された教会としても知られています。バロック調の塔は1770年代に増築されたものです。
展望台:絶景ポイントが パットクリ展望台
展望台:Kohtu通りの奥にある絶景ポイントのコフトウッツァ展望台 Kohtuotsa Vaateplats です。
デンマーク王の庭:1219年にデンマーク軍がトーンペアを征服する際に基地として利用し、はじめて国旗を手に入れたと伝わる場所です。その結果、デンマークがタリンと北エストニアを100年に渡って支配することになったと言われています。
ネイツイントルン:乙女の塔、処女の塔とも呼ばれています。
町の娼婦を収容した牢獄だったことがあるそうです。このデンマーク王の庭園に隣接した、14世紀に建造された四角い塔です。かつて娼婦を収容した牢獄として使用されていた建物で、ここでは怪奇現象が起こると町の人々が噂をしています。
キ―ク・イン・デ・キョク:「台所を覗く」という意味の、高さ38メートルの塔です。かつて兵士らが塔の上から、下に見える家の台所を覗き見できると冗談をいった事からこう呼ばれるようになりました。1470年に建造されたこの塔はすぐに補強され、壁の厚さは4メートルにもおよびます。上階をイヴァン皇帝の軍にを吹き飛ばされたものの建物はそのまま残され、現在はタリンの軍事・防衛博物館として使用されています。
聖ニコラス教会:旧市庁舎の南西、ニグリステ通りにある13~15世紀に建造された大きなゴシック様式の教会です。第二次世界大戦で空爆を受け建物は破壊。その後、1980年に再建されました。中にはベルント・ノットが描いた奇怪で神秘的な作品「死の舞」があります。この建物は現在、14世紀のレリーフや建築用具が集められた博物館として使用され、また週1回の割合でオルガンコンサートも催されています。
アダム・ソンエリック博物館:画家アダム・ソンエリックの絵画と工芸品を集めた美術館。
ラエコヤ広場&旧市庁舎:町の中心であるラエコヤ広場。かつて、市場や祝い事に使用されていましたが、ここで処刑が行われたこともあると記録に残されています。広場の中央には、バラのコンパスが彫られた丸い石があります。ラエコヤ広場にあるゴシック様式の建物がタリンの旧市庁舎です。旧市庁舎は1402年から1404年にかけて建造され、北欧最古のゴシック建築と言われています。この建物に付随した塔の高さは65メートル。その先端には、旗を持った番兵の像があります。この像は「トーマスおじいさん」と呼ばれ、タリン市民に親しまれています。
市議会薬局:旧市庁舎広場の角にある、1422年に創業したヨーロッパ最古の薬局です。ここには中世の治療薬だった「焼き蜂」や「ユニコーンの角の粉末」はもうありませんが、裏の部屋には昔の道具や薬が展示されています。
大ギルドの会館(エストニア歴史博物館):1410年に建てられた「大ギルドの会館」を利用した博物館です。獅子頭のノッカーの付いた厳めしい扉と、その裏に現れる巨大なホールです。ここは当時、ギルドの中でも最高の富と権力を誇った建物で、そのメンバーはドイツ人の既婚者のみで結成されていました。彼らは、町議会を仕切っていたと伝えられています。現在はエストニアの先史時代からの歴史的資料
聖霊教会:旧市庁舎広場の近くに建つ、14世紀に建造された内部、外観ともに壮観な教会です。八角形をしたこの純白の教会の正面には、タリンで最も古い公共の時計がかけられています。また、バーント・ノトケによる聖餐台や木製のインテリアも必見です。
昼食
午後:自由行動
市庁舎監獄:旧市庁舎のすぐ裏には今はカメラ博物館になっているがその昔は監獄だったという「市庁舎監獄」の跡
子供ギャラリー:観光案内所のすぐ近くにある、いかにも歴史ありそうな可愛い建物です。中はギャラリーになっています。
ヴィル門:ヴィル通りの端に建つ、2つの小さな円柱の塔から形成された門です。その昔、この門の後ろには大きな四角い塔を含む城壁がありましたが19世紀に交通整理が行われ、門の大部分が取り壊されました。現在残っているツルで覆われたこの2つの塔は、タリンのシンボルとなっています。
ドミニコ修道院:1246年に建造されたタリン最古の建造物です。ここには美しい中庭があり、夏の間博物館として使用されています。また、この中庭へは隣接するピーター・アンド・ポール・ローマンカトリック教会を通って入ることもできます。
聖カタリーナの小径:かつてあった聖カタリナ教会の裏手にある小径です。ここには工芸品の作業場が集まり、アーティスト達が伝統的な手法でガラス器や帽子、キルト、セラミック、宝石類、手塗りの絹などを作成・販売しています。オープンスタジオでは、ガラス吹きや機織り、陶器の製作などの製作風景が見られます。
タリン市の博物館:14世紀に建造された商人の館を改造した博物館です。ここにはタリンの始まりから、1991年の「歌の革命」までの歴史が展示されています。
ブラックヘッドの会館:街の防衛と春の祭典を任されていた、ドイツの未婚商人で結成された組合の館です。組合の守護聖人であったモーリシャスが、色黒であったことからこの名がつけられました。1597年に建造されたルネッサンス様式の建造物で、赤、緑、そしてゴールドの色みが美しいドアは1640年に作られました。
聖オレフ教会:旧市街の北側、ライ通りとピック通りの間にある13~16世紀に建造されたゴシック様式の教会です。ここにはタリンで最も高い、高さ124メートルの尖塔があります。塔は夏季に開放され、上からは見事なタリンの町並みが望めます。
三人姉妹:旧市街にある建物のうちいくつかは名所となっており、ここは 三人姉妹 Kolm Õde という愛称で知られています。
もとは1362年に商人の館として作られたもの。内部を改装して2003年からは「Three Sisters Hotel」というホテルになっています。
スール・ランナ門:城壁の北端に位置するスール・ランナ門。
この外側は砲塔で、太ったマルガレータという愛称が付けられています。
ふとっちょマルガレータ&海洋博物館:海からの攻撃を防衛するため、1511年から1530年に建造された塔です。この「ふとっちょマーガレット」とは、かつてここに置かれていた大砲のこと。以前は沿岸に建つ外壁の門の一部でしたが、今ではタリンに残る唯一の外門となっています。現在は海事博物館の建物として使用されています。
ウクライナ・カトリック教会:この宗派の儀式は正教とカトリックの折衷となっている。
自然史博物館:エストニアの動植物の標本が集められています。博物館の入り口はフクロウの看板が目印です。展示は海、川、森などフィールド別に分かれていて、それぞれの生態系が分かるように工夫されています。
タリン市立劇場:建物はソ連時代に改装されたようですが
中世の商人の館だったそうです。
工芸とデザインの博物館:ライ通りを南に進んで、Aida通りとのT字路を過ぎた辺りに、壁が紅白二色に彩られた建物があります。内部は「エストニアの工業芸術とデザインの博物館(Eesti Tarbekunsti- ja Disainimuuseum)」です。様々なデザインの商品ラベルやクリスタル・ガラスの工芸品、革製品、アクセサリーなどが展示されていて、お土産としてエストニアの手工芸品をお土産として買う前に目を肥やしておくことができます。
キリスト変容教会:簡素な外観からはわからないのですがロシア正教の教会でした。後で調べると、聖ミカエル修道院の教会を18世紀初めにロシア正教教会に建て替えたのだそうです。豪華な祭壇があり、ちょうどミサが執り行われていました。
修道女の塔(城壁入口):スール・クローストゥり通り
このゴチック様式の門は後から開けられたか、大きく修復されたものと思われる。
人形劇場:ライ通りにあります。ここは1952年に創立された人形劇場です。ちなみにNUKUはエストニア語で人形という意味です。世界の操り人形が展示されていました。
リンダの像:のっぽのヘルマン近くの森の中にあるエストニア神話に登場する女王リンダの像。
神話ではカレフ王の墓陵を作ろうと考え、エプロンを使用し石を運んでいたが疲れ果て悲しみの涙を流したそうです。
像もうっすらと涙を流しています。
占領博物館:旧ソ連による占領初期から独立回復までの資料を収蔵した博物館です。時代ごとにまとめられたドキュメンタリービデオを中心に、資料が展示されています。また、ここには盗聴器や有刺鉄線など、市民抑圧に使われた道具も展示されていて、旧ソ連占領下にあった当時の様子が垣間見られます。
ロシア劇場:ロシア語による劇場、建物は20世紀初頭の映画館で、その内装の美しさは有名。
演劇と音楽史の博物館:エストニアの民族楽器などを展示。
エストニア・ドラマ劇場:かつてのドイツ劇場で、西欧の古典劇ほかエストニア作家の劇が上映されている。
エストニア劇場:ヴィル・センターからTammsaare公園を通って南西に行くとあります。1913年に完成したネオクラシック様式の建築で、当時のタリンでは最大級の建物だったとのことです。現在はオペラ座と、エストニア国立歌劇場管弦楽団のコンサートホールの複合施設となっています。
就寝
13日
10:30バルト海クルーズ:北ヨーロッパ、ユーラシア大陸とスカンディナヴィア半島に囲まれているバルト海におけるクルージングのこと。また、単に海上交通手段としてのクルーズも含まれる。
12:30ヘルシンキ到達
ヘルシンキ:フィンランド共和国の首都ヘルシンキは、人口約60万人のバルト海に面するモダンな都市です。2012年はヘルシンキが首都になり200周年を迎えた年でもあり、ワールド・デザイン・キャピタルに選ばれた年でもありました。
ヘルシンキは近隣の自治体エスポーEspoo、ヴァンターVantaa、カウニアイネンKauniainenと共に人口約百万の首都圏を形成しています。
ヘルシンキ散策
元老院広場:ヘルシンキ大聖堂の前に広がり、大晦日にはカウントダウンが行われることでも知られる広場。中央にはロシア皇帝アレクサンドル2世の像が、市内を見守るように建つ。広場から大聖堂への広い階段は、市民の憩いの場となっている。
ヘルシンキ大聖堂:白亜の外壁と緑色のドームのコントラストが美しい大聖堂。ドイツ人建築家のカール・ルートヴィッヒ・エンゲルが設計し、1852年に竣工した。当初はニコライ教会とよばれていたが、1959年に大聖堂が正式名称に。現在も福音ルター派の総本山として機能している。
マーケット広場:エスプラナディ通りを東に抜けると、4匹のオットセイが周りを囲む乙女の像、ハービス アマンダ像が立っている。その先の港に面しているのがマーケット広場。北側には野菜や果物、港側にはさまざまな魚、東側には革製品などのみやげ物が並んでいる。
ウスペンスキー寺院:北欧最大規模を誇るロシア正教の教会。スラブ・ビザンチン様式の建物で、赤レンガ造りの重厚な外観と、黄金色に輝くクーポラが印象的だ。内部の天井には青地にたくさんの星が描かれていて、神秘的な雰囲気。礼拝客もいるので静かに見学を。
アテネウム美術館:80を超える美術館・博物館のあるヘルシンキ。シティセンターから歩いて行ける範囲内だけでもたくさんの美術館があります。ヘルシンキ中央駅の向かいにあるアテネウム美術館は18世紀半ばから1950年代までの作品を中心にフィンランドで最大のコレクションを所有しています。
ヘルシンキ中央駅:ヘルシンキ中央駅は、メインストリートのエスプラナーディ通りから歩いて5分ほどの距離にあります。
ここにはフィンランドの鉄道VRや地下鉄、トラムの駅、バスターミナルなどが集まり、ヘルシンキの交通の玄関口として、毎日多くの人々に利用されています。
ヘルシンキ中央駅の個性的な建築は、日本でもよく紹介されています。現在の駅舎は、エリエル・サーリネンが設計し1919年に完成したもの。正面玄関には左右に2体ずつ、ランプを持った石像が鎮座しています。
国立劇場:ヘルシンキ中央駅の隣にあるフィンランド国立劇場(1902年築)もまたヘルシンキの民族ロマン主義的な建物として知られており、建築家Onni Tarjanneにより設計されている。
郵便博物館:郵便博物館は、ヘルシンキ中央郵便局の隣りにあります。大きな走る切手マークが目印です。大きな郵便局の中に、博物館が併設されています。
国立現代美術館キアズマ:モダンアートの専門美術館として1998年にオープン。「キアズマ」とはギリシャ語で「交差」を意味し、フィンランド人作家を中心に50年代以降のアートを紹介している。アメリカ人建築家のスティーブン・ホールが設計した建物も斬新。
17:25ヘリシンキ空港フィンエアー航空で出発
14日8:55関西国際空港到達
今回の旅行、ヨーロッパの北東部に足を運び、バルト海に面し、それぞれ独自の歴史をもっていたが、ロシア革命で独立の機運高まり、1918年にリトアニアとラトヴィア、20年にエストニアが独立を達成したバルト三国を訪れました。
前回のアゼルバイジャン・ジョージア・アルメニアの旧ソビエトの国々の観光も同様に観光名所は、3カ国とも、お城と教会が主で、自然の観光名所はほとんどなく、文化遺産巡りの観光旅行でした。
最近国内での旅行は、霊場とお城巡りに嵌っていますが、今回は外国版お城、霊場巡りのような気がします。
最終日はヘルシンキ市内観光、2回目の訪れで、ブログを確認し記憶を復活させながら巡り7泊8日のバルト三国&ヘルシンキ観光満喫しました。
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