飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十四弾:千葉県お城・城下町巡り観光
2016年9月24-25日
 

安房、上総、下総の房総三国で乱を起こした平忠常の後裔、千葉氏が基盤を築いたあと、里見氏が台頭し、戦国時代には安房国を支配した。天下統一後は、江戸に近い将軍のお膝元として有力大名が支配された千葉県に足を運び比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

24日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:23東京駅到達、中央線で新宿に向かう。
17:30新宿京王プラザで宴会に出席。
21:00東京駅付近のホテルにて就寝。
25日8:00レンタカーで出発、千葉北部のお城巡り。

関宿城:築城年代は定かではない。 応永年間(1394年~1428年)に梁田満助による築城とも、長禄元年(1457年)梁田成助による築城とも云われる。 梁田氏は桓武平氏の後裔で下野国梁田郡梁田御厨の発祥という。
梁田氏は代々足利氏に仕え、天正2年(1574年)梁田晴助の時に北条氏によって攻められ落城、晴助・持助父子は水海城へ退去した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後、関東に入部した徳川家康は異父弟の松平康元を置いた。
元和2年(1616年)(久松)松平忠良が美濃国大垣に転封。
元和2年(1616年)越後国三条より(能見)松平重勝が二万六千石で入封、元和5年(1619年)遠江国横須賀に転封。
元和5年(1619年)下総国古河より小笠原正信が二万二千石で入封、寛永17年(1640年)貞信の時、美濃国高須へ転封。
寛永17年(1640年)遠江国久野より北条氏重が二万石で入封、正保元年(1644年)駿河国田中へ転封。
正保元年(1644年)武蔵国石戸より牧野信成が一万七千石で入封、明暦2年(1656年)親成の時、京都所司代となり摂津・河内国に転封。
明暦2年(1656年)武蔵国より板倉重宗が五万石で入封、寛文9年(1669年)重常の時、伊勢国亀山に転封。
寛文9年(1669年)上総・下総・武蔵・相模国から久世広之が五万石で入封、天和3年(1683年)重之の時、備中国庭瀬に転封。
天和3年(1683年)常陸・下総・下野から牧野成貞が五万三千石で入封、宝永2年(1705年)三河国吉田に転封。
宝永2年(1705年)三河国吉田より久世重之が五万石で入封、以後明治に至る。

臼井城:築城年代は定かではないが臼井氏によって築かれたと云われる。 臼井氏は桓武平氏千葉氏の一族で、千葉常兼の三男常康が下総国印旛郡臼井を治め、臼井氏を名乗ったことに始まる。
文明11年(1479年)関東管領上杉氏と古河公方との争いで太田道灌の弟太田資忠と千葉自胤によって攻められ、臼井城は落城した。
永禄4年(1561年)臼井興胤の時、里見義尭の家臣正木時茂によって攻められ、興胤は結城に退去。その後に生実城を本拠とした原氏が臼井城を居城とする。
永禄9年(1566年)上杉謙信によって攻められ、「実城堀一重」まで攻め込まれたが、辛うじて落城を免れた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に入部した徳川家康は、酒井家次を三河国吉田より四万石で入部させたが、慶長9年(1604年)家次は上野国高崎に転封となり廃城となった。

師戸城:
師戸城は印旛沼に面して南へ張り出した台地の南端に築かれている。現在は印旛沼公園として整備されている。師戸城は台地の南端を切り離すように深い空堀が巡らされ、現在は三つの曲輪が残っている。南北に大きく分かれた曲輪の南側が更に東西に分かれている。

本佐倉城:築城年代は定かではないが文明年間(1469年~1487年)頃に千葉輔胤によって築かれたと云われる。 千葉輔胤のとき、千葉城から本佐倉城へ居城を移し、以後代々千葉氏の本城となった。 千葉氏は天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、北条氏とともに小田原城に籠城して運命をともにした。

飯高城:築城年代は定かではない。 天正8年(1580年)に平山刑部少輔常時が城内に寺院を建立し、天正19年(1591年)には飯高妙福寺の学室を移し、城地の全てを寄進して日蓮宗の檀林とした。江戸時代には徳川氏の保護を受け明治まで続いた。この平山氏に関しては史料も残されておらず不明とされるが、「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」では小田原北条氏の家臣で武蔵平山氏を飯高に封じたのではないかと推測している。

坂田城:築城年代は定かではないが千葉氏によって築かれたと云われる。 その後千葉氏の重臣三谷大膳亮胤興の居城となった。 三谷氏(みや)は千葉氏の庶流という。弘治元年(1555年)に大台城主井田因幡守友胤が坂田城主三谷胤興を討ち、坂田城に居城を移したという。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で坂田城も落城したという。

御茶屋御殿:徳川家康をはじめ、将軍家が鷹狩りに向かう際の休息所として利用したと伝えられる史跡です。下総国船橋から狩場である上総国東金地方に向かう行程のほぼ中間に位置しています。
御茶屋御殿の創建を直接示す史料は残されていませんが、徳川家康の狩猟のために急遽造られた東金新道(御成街道)とともに建設されたと考えられており、内郭を区画する土塁とその外周に彫り巡らされた薬研堀が非常に良好な状態で残されています。

小弓城:築城時期は定かではありません。平安中期頃、亥鼻城が築城された頃にこの城も築かれたようです。戦国期に入り、千葉氏の重臣の原氏が在城したようです。永正十五年(1519年)、真里谷城の武田怒鑑(信保)は古河公方の足利高基の弟の足利義明を奉じて小弓城を攻め、義明はここに移り、小弓公方・小弓御所と呼ばれました。天文七年(1538年)の第一次国府台合戦で義明が討死したため、原氏(原胤清)が城を奪還するも、この城を廃し、北西に生実城を築城し移りました。

千葉城:千葉市の中心部、千葉県庁や中央区役所のあるエリアに、千葉城と呼ばれている城郭風の建物がある。かつて千葉にこんな城があったと思う人がいるかも知れないが、これは1967年に、千葉市が歴史とは無関係に作った観光施設である。
 竣工当時は「千葉市郷土館」という名称で観光課が運営していたが、1979年、市役所の組織改編で文化課に移管。1983年からは「千葉市立郷土博物館」に改称された。
 現在は生涯学習振興課の所管となって、一部が貸しホール状態になっているが、3階の坂東の名門千葉一族に関する展示は充実していて素晴らしい。

18:30東京駅到達
18:47東京駅新幹線のぞみで出発
21:10新大阪到達。

今回の旅行、東京で講演会に主席後翌日、千葉県の北部に点在する比較的マイナーなお城9か所を巡り楽しみました。
千葉の東京よりは都会、前回の北海道と大きく違い、信号が多く、ところどころ渋滞があり、スムーズに移動できず時間を要しましたが何とか9個のお城をめぐることができました。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十三弾:北海道道東三十三観音&八十八箇所霊場&お城・城下町巡り観光第七弾
2016年9月21-22日


北の北海道の道東地方に足を運び北海道八十八箇所巡り1か所、三十三観音2か所、比較的マイナーお城2か所をめぐりました。

21日15:25伊丹空港出発
17:10新千歳空港到達、レンタカーで帯広方面に向かう。
20:10帯広市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日7:30レンタカーで出発釧路方面に向かう。

密厳寺:
明治30年代、徳島県出身の開拓者により大師堂が建立されたが、本別川沿いにあったため、明治40年4月の水害で流失。その後、開基住職豊沢文雄を迎え境内地を現在の高台にもとめ、明治42年本堂落成時に寺号公称の許可を得ました。大正4年豊沢文雄は根室本城寺に移り、大正6年二世福家仁龍入山、教線を拡張各地に大師堂を建立します。三世福家龍祥は昭和33年住職拝命し、48年には諸堂を建立し現在の寺観になりました。
平成18年四世福家立雲開基百年事業として諸堂内の大改修を行いました。 
40番御本尊は大正2年開創、昭和60年再興の北海道三十三観音20番千手観音と共に、本堂内に祀られ、巡拝者は本堂内に入ってのお参りを基本としています。


西端寺:明治25年頃、現在の米町に長谷部実玄和尚により開教、その後同33ヵ所霊場の函館の高野寺の住職西端良純和尚、有志の発起により建立される。明治32年8月14日西端寺と公称第四世住職近藤快應の手により市内春採33ヶ所、阿寒88ヵ所霊場を建立。五世住職福田快厳、高野山1150年記念事業として、諸堂、伽藍を新築、その折本山より「準別格本山」の栄を賜り、昭和46年9月管長猊下御親修のもと、本堂落慶、寺格昇格記念大法要を厳修される。

鶴ヶ岱チャランケチャシ:春採湖に突き出た岬の上にあり、二重の空堀をめぐらして構築されている。この地は湖の神線の遊び場という言い伝えが残る。

モシリヤチャシ:丘の上に構築された大きめのチャシ。見た目がお供え餅に似ていることから、このタイプのチャシは「お供え山型」と呼ばれる。

16:00新千歳空港に向かう。
16:30新千歳空港到達。
17:55新千歳空港出発。
19:50伊丹空港到達。

今回の旅行、北の北海道道東地方に足を運び、北海道観音2か所、八十八箇所1か所、お城2か所をめぐり楽しみました。
広大な北海道、特に帯広、釧路地方は平野が広く、真っ直ぐな広い道、地平線を見ながら、ストレスなく、快適なドライブを楽しみながら霊場、お城を巡り満期しました。
 





飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十二弾:宮城県お城・城下町巡り観光第二弾
2016年9月10-11日

東北の宮城県に足を運び、南北時代、奥州探題の�斯波氏が勢力を拡大し、南朝方の葛西氏と戦国の世まで対立した。のちに伊達氏が巨大勢力を作り上げ、同地では、土塁や空堀を備えた拠点を館とよぶのが特徴的な宮城県に点在する比較的マイナーなお城8か所を訪れました。第二弾。

10日16:10伊丹空港出発
17:25仙台空港到達、レンタカーで石巻方面に向かう。
18:30石巻市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
11日7:30レンタカーで出発、反時計回りでお城めぐり。

七尾城:文治五年(一一八九)源頼朝による奥州合戦に従軍して大功をたて奥州総奉行に任じられた葛西清重が、北上川防衛のために、ここに城を築いたと伝えられる。
 後、桃生郡主であった山内首藤氏の居城となるが、その時期については明らかではない。主城のほかに、西北に各三つずつ出城があり、あわせて七つの城なので七尾城と称したと言う。
 永正年間(一五一〇年頃)城主であった首藤貞道が、この城に篭って石巻城の葛西宗清と戦った。当時の七尾城は三方を水に囲まれた難攻不落の城で、葛西氏が総力を挙げて攻撃しても陥落せず、最後は兵糧攻めによってついに落城したと言う。
 その後、葛西氏の一族が居住したが、天正十八年(一五九〇)葛西氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、以来この城は廃城となった。
 本丸・二の丸・三の丸・空濠・門跡等、当時の遺構が現存している。

寺池城:宮城県登米市(旧登米町)にあった戦国時代の平山城(ひらやまじろ)で、江戸時代には仙台藩21要害の一つとされた。北上川西岸の丘陵の南端部に城跡が残っている。築城年代は不明だが、源頼朝の奥州藤原氏討伐に従軍し、奥州総奉行に任じられた葛西氏により建設された城である。1590年(天正18)の豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏が改易・断絶すると、寺池城は秀吉家臣の木村吉清・清久父子の属城の一つとなったが、翌年の葛西大崎一揆で、一揆勢に攻められ佐沼城(同市迫町)とともに落城。伊達氏の米沢からの国替えに伴い、伊達氏の城となった。この城を重視した伊達政宗(だてまさむね)は1604年(慶長9)、家臣の白石宗直を1万5000石で配し、元和の一国一城令以降も登米要害として存続し、引き続き白石氏が代々城主を務めて明治維新に至った。なお、白石氏は1982年(天和2)に藩主から伊達姓を下賜され、以後の白石氏は登米伊達氏と呼ばれるようになった。城跡は現在、本丸跡は畑、二の丸が裁判所敷地、三の丸が寺池公園(城址公園)になっている。曲輪(くるわ)、土塁、空堀、壇、井戸跡が残り、碑や復元絵図が設けられている。なお、寺池公園内には城の歴史資料が展示されている資料館、樹齢300年以上の赤松の巨木(市指定天然記念物)がある。同城は明治維新後は廃城となり、遺構はほとんど残っていないが、市内の熊谷家に寺池城裏門を移築したとされる門がある。また、城周辺は、城下町の佇まいを伝える街並みが残っている

佐沼城:築城年代は定かではない。一説に文治年間(1185年~1190年)に藤原秀衡の家臣照井太郎高直によって築かれたと云われる。
南北朝時代には葛西氏の持城であったが、文明年間(1469年~1487年)頃には佐沼直信が城主であった。天文年間(1532年~1555年)頃には大崎氏の家臣石川直村が城主となり、石川義誠・石川義広・石川彦九郎と四代にわたって城主となった。
天正18年(1590年)小田原合戦で葛西氏と大崎氏はともに小田原に参陣せず、秀吉の奥州仕置きにより改易となった。旧大崎・葛西領は秀吉の家臣木村吉清に与えられ寺池城を居城としたが、翌天正19年(1591年)旧大崎・葛西家臣を中心とした大崎葛西一揆が蜂起すると、木村吉清・清久父子は寺池城を追われ佐沼城へ逃れた。秀吉の要請により駆けつけた伊達政宗と蒲生氏郷の軍勢により一揆は退散、佐沼城へ押し込められていた木村父子も助かったが、一揆蜂起の責任を取らされ改易となり、蒲生氏郷の客将となった。

一揆の後、旧大崎・葛西領は伊達政宗に与えられ、佐沼城には出羽国大橋城主で重臣の(湯目)津田景康が置かれた。江戸時代に入ると佐沼要害となり、代々津田氏が城主となっていたが、宝暦6年(1756年)津田丹波守定康のとき、故あって改易となり、高清水要害より亘理伯耆守倫篤が佐沼へ移り、以後代々続いて明治に至る。

岩ケ崎城:築城年代は定かではないが南北朝時代に富沢日向守道祐によって築かれたと云われる。 富沢氏は葛西氏の傍系で、正平6年(1351年)岩切城合戦での功によって三迫富沢郷を賜り、鶴丸館を築いて富沢道祐と称した。
富沢氏は道祐を祖として明岩、直家、直綱、直景と五代続いたが、直景は天正18年(1590年)葛西大崎一揆で佐沼城での戦いに加わり、一揆方として戦い討死、富沢氏は滅亡した。
江戸時代になると仙台藩伊達領となり伊達政宗の五男宗綱が三万石を領して岩ヶ崎要害を居城とした。元和4年(1618年)宗綱が嗣子なく没したため、政宗の六男宗信が岩ヶ崎伊達家を継いだが、寛永4年(1627年)宗信も嗣子なく没した。
岩ヶ崎伊達家断絶後は石母田氏、田村氏、古内氏、茂庭氏と続き、元禄7年(1694年)に藤沢から中村氏が入部して以後明治に至る。

岩手山城:築城年代は定かではないが応永年間(1394年~1428年)に氏家弾正によって築かれたと云われる。奥州探題斯波家兼に監司として下向した氏家詮継ははじめ杉の沢館を築いて居城とし、後に岩出山城を築いて移ったとされる。
氏家氏は大崎氏の重臣であったが、天文5年(1536年)には大崎義直に反乱を起こした新田頼遠を助けて岩出山城に籠もり、大崎氏とその援軍としてきた伊達稙宗と戦った。大崎氏と伊達氏は丸山館に陣を構えて岩出山城を攻略しようとしたが落城されることができず、和睦となった。
天正14年(1586年)岩出山城主氏家弾正吉継は大崎義隆の寵童であった新井田刑部と対立し、伊達政宗に援軍を要請した。政宗は留守政景を大将として大崎義隆を攻めたが、最上義光が大崎氏に味方して援軍を出し、黒川晴氏の離反などもあって伊達軍は敗退した。
天正18年(1590年)奥州仕置によって大崎氏が改易となると氏家氏も滅び、木村父子の所領となったが、葛西・大崎一揆が起こり、鎮圧後は伊達政宗の所領となった。
天正19年(1591年)伊達政宗は出羽国米沢より転封となり、奥州仕置で下向していた徳川家康が榊原康政に命じて縄張した岩出沢城に入り岩出山城と改名して居城としたが、慶長8年(1603年)仙台城を築いて居城を移し、四男伊達宗泰に一万五千石を与えて岩出山城主とした。岩出山伊達氏は岩出山要害を居城として代々続き明治に至る。

宮崎城:宮城県加美郡加美町(旧宮崎町)にあった戦国時代の城。鳥川と田川の合流点近くの断崖の上に築かれていた。築城は正平年間(1346~70年)といわれる。戦国時代末期には大崎氏の属城で、家臣の笠原民部の居城となっていた。1590年(天正18)、豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏は滅亡。その後、葛西・大崎両家の旧臣らが蜂起した葛西大崎一揆では、この城は一揆側の最後の拠点となったが、翌1591年(天正19)に、伊達政宗(だてまさむね)の攻撃を受けて落城した。その後、国替えにより旧葛西・大崎領を領地とした伊達家の属城となり、同家の家臣の石母田(いしもだ)氏や古内氏が居城とした。城跡は現在、加美町役場宮崎支所や宮崎小学校の敷地となっているが、城の遺構はあまり残っていない。熊野神社近くに、城跡を示す標柱が立っている。また、近くを流れる土手川(美代川用水路)は、宮崎城の外堀として開削されたものである。

名生城:築城年代は定かではないが南北朝時代に斯波家兼によって築かれたと云われる。 足利氏の流れを汲む斯波高経の弟斯波家兼は奥州探題に任ぜられ下向した。この家兼が大崎氏の祖となり、家兼の二男兼頼が出羽国山形に入部して最上の祖となった。
大崎氏の居城は不明な点が多いが、家兼が当初居城としたのが中新田城、二代直持は師山城、十二代義直と十三代義隆が中新田城に居城し、義隆は後に名生城へ移っている。
大崎氏は奥州探題として広大な勢力を持ったが、度重なる内紛によって没落し、天文年間(1532年~1555年)頃には実質上伊達氏によって支配されるまでになった。天正16年(1588年)大崎氏の内紛を鎮圧するために伊達政宗が出兵した時 、大崎義隆は最上義光に援軍を要請してこれを追い払うなど、伊達氏からの脱却を目論んだが達成することはできず、天正18年(1590年)小田原城攻めに参陣しなかったため、所領を没収され改易となった。

涌谷城:築城年代は定かではない。中世には大崎氏の一族で百々氏の分流である涌谷氏の居城であったと云われる。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐に参陣しなかったことから、大崎氏は改易となり、葛西大崎一揆の後は伊達政宗の所領となった。政宗は天正19年(1591年)亘理城主亘理重宗に遠田郡への転封を命じ、重宗は最初百々城を居城としたが翌年涌谷城へ移り、家臣の長谷景重を百々城に置いた。
江戸時代に入ってからも涌谷要害として維持され、慶長9年(1604年)亘理重宗が隠居して高清水要害に隠居領一千石をもって移ると、嫡男定宗が家督を継いだ。慶長11年(1606年)伊達政宗の庶子宗根が亘理重宗の娘を娶り、あわせて亘理家の名跡を継ぐこととなったため、定宗には伊達姓が与えられ、これによって涌谷伊達家が興った。以後、涌谷伊達家が代々続いて明治に至る。

17:30仙台空港到達。
18:50仙台空港出発。
20:10伊丹空港到達。

今回の旅行、東北の宮城県に足を運び、宮城県のお城めぐり第二弾、比較的マイナーなお城8か所を訪れました。
平城が多く、山城も比較的標高の高くないところに位置しているものが多く、又跡地が城址公園、公共の施設などで見つけるのが容易、スムーズに訪れることができました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十一弾:福島県お城・城下町巡り観光
2016年9月3-4日
 

相馬地方の相馬氏に、会津地方の廬名氏、県北の伊達氏などが力をほこり、さらに安積郡の伊東氏、岩瀬郡の二階堂氏、白川庄の結城氏と、多勢の勢力が覇権を争い、のちに伊達政宗がほぼ手中した福島県に足を運び、比較的マイナーなお城10か所を訪れました。 

3日15:40伊丹空港出発
16:45福島空港到達、レンタカーで福島市方面に向かう。

小浜城:大内氏は、かつて福井県の小浜に居住していたが、晴継の代である応永年間(1394~1428)、東安達を統治していた石橋氏の家臣となり当地に移住した。そして、その子宗政が築城した折、地形が本国に似ていることから小浜城と名付けたという。
 その後、戦国の世に弱小の国人領主であった定綱は、大名領主であった伊達・芦名に交互に身を寄せては自分の安全を計っていたが、天正十三年(1585)伊達政宗に背いて芦名に属したことから攻撃を受け敗走した。そして政宗は、畠山氏が居住する二本松城の包囲戦を実行するため、当城に一年ほど在陣している。
 昭和五十六年(1981)三月の発掘調査によって、七棟の掘立柱建物跡が発見された、本丸東側(上段)では小規模な建物跡(物見櫓)を発見、西側(上段)では桁行18.5m・梁行9.2mの南北に庇、西に正方形の付属屋が付く本格的な、政宗の殿舎と推定できる建物跡を発見、軍事の中核拠点であったことが確認されている(『城址説明板』より)
城跡は公園となっており、蒲生氏時代の石垣などの遺構が残る。

19:00福島市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

4日7:30レンタカーで出発、時計回りでお城めぐり。

桑拙西山城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に伊達朝宗によって築かれたと云われる。 伊達朝宗は藤原氏山蔭流の後裔で仙台藩伊達家の祖である。常陸国新治郡伊佐荘を治めていた豪族で、源頼朝に従って奥州合戦に参加し、その恩賞として陸奥国伊達郡を賜り、常陸国は嫡男為宗が相続し、朝宗と二男宗村が奥州に下向、赤館を築いたという。
応永7年(1400年)伊達大膳大夫政宗は関東公方足利満兼に背き、関東管領上杉氏憲らの攻撃を受けて赤館に籠もり、これを撃退しているが、応永9年(1402年)に降伏している。
天文元年(1532年)伊達稙宗が赤館を改修して西山城を築き、梁川城から居城を移した。 天文11年(1542年)から天文17年(1548年)まで続いた伊達稙宗・晴宗父子による天文の乱では、晴宗は稙宗が鷹狩からの帰路を襲撃し、この桑折西山城へ幽閉している。間もなく小梁川宗朝によって稙宗は救出され石母田城へ逃れるが、天文の乱とよばれる奥州を巻き込んだ伊達家の内訌へと発展していく。
天文17年(1548年)室町将軍足利義輝による仲裁で和睦が成立し、稙宗は家督を晴宗に譲り隠居地として丸山城を築いた。晴宗は米沢へ移り西山城は廃城となった。
延宝7年(1679年)本多忠国が大和郡山から福島藩十五万石に封じられ、西館に築城する予定であったが、天和2年(1682年)播磨国姫路に転封となり実現しなかったと云われる。

梁川城:築城年代は定かではない。築城に関しては伊達氏の祖である伊達常陸介朝宗とか、三代義広であるとか諸説あるが判然としない。ただ九代大膳大夫政宗はこの梁川城で生まれた可能性が高いようである。
天文元年(1532年)伊達稙宗が桑折西山城へ居城を移し、その後は稙宗の八男伊達宗清に与えられ、梁川氏を称した。
天正19年(1591年)小田原合戦の後、伊達政宗は岩出山へ転封となり、梁川は会津に入部した蒲生氏郷領となって蒲生頼郷が城代を務めた。慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に入部すると須田長義が梁川城代となる。寛文4年(1664年)上杉氏は十五万石に減封となり、幕府直轄領となった。近世城郭としての梁川城は蒲生氏・上杉氏の時代に改修されたものと考えられている。
その後は本多、松平、白河などの所領となったが文化4年(1807年)に松前領となり、一時幕府領となったが、再び松前領となった後は代々続いて明治に至る。

黒木城:築城年代は定かではないが建武年間(1334年~1338年)に黒木大膳亮正光によって築かれたと云われる。
黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家家臣説があるという。 建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。
その後、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ支配していた。しかし、天文年間(1532年~1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
相馬氏は青田信濃顕治を城代して置いたが、永禄6年(1563年)青田氏一族が離反して伊達氏に走り、代わって相馬三郎胤乗、続いて黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と謀叛を起こして伊達輝宗の元に走った。
その後城代となった門馬上総介貞経は天正18年(1590年)駒ヶ峯城奪還戦で中村城代相馬隆胤などとともに討死し、佐藤丹波信綱が城代となったが後に廃城となった。

中村城:慶長16年(1611年)相馬利胤によって築かれた。 関ヶ原合戦では相馬氏は中立を保っていたが徳川方からは西軍に付いていたとみなされ慶長7年(1602年)領地を没収され居城であった牛越城を太田原氏に明け渡し三春城の蒲生郷成を頼った。
利胤は申し開きをするため江戸に上洛し家康・秀忠父子にお家再興を願いこれが聞き届けられ慶長8年(1603年)牛越城ではなく前の居城であった小高城を一時的に居城として中村城を築城した。
相馬氏は15代続いて明治に至る。

駒ヶ嶺城:駒ヶ嶺城は、天正年間に相馬盛胤によって築かれ、藤崎摂津が城代となった。 
 天正17年、伊達政宗によって攻められ落城した。 政宗は、相馬氏との境目の城として重視し、黒木備前を城代とした。 その後、城代に桜田玄蕃ら伊達氏重臣が任じられ、江戸中期の享保3年に伊達一族宮内主税が城代となり2千石を領して明治に至った。
 幕末の戊辰戦争では、伊達氏の防衛拠点として浜通りを北上する官軍をこの城で迎え撃ったが、官軍の近代火力の前に落城した。

小高城:嘉暦元年(1326年)相馬重胤によって築かれた。 相馬氏は平将門の子孫であると云われ下総国相馬郡に移り相馬氏を称した。 文治5年(1189年)藤原泰衡の討伐に功があり恩賞として行方郡を領していたが重胤の時、小高城を築いて移った。
慶長元年(1596年)義胤の時、牛越城を築き居城を移したが関ヶ原合戦後に改易となりお家再興を幕府に願い出て聞き届けられると再び小高城を居城とした。 慶長16年(1611年)相馬中村城を築き居城を移したので廃城となった。

平城:滝尻城は諏訪神社の境内に比定されており、この参道入口に石碑が建っている。遺構はこの入口に面して土塁が伸びている程度で、今は堀らしき地形は確認できないが、かつては堀があったという。『福島県の中世城館跡』ではこの諏訪神社とは別に鹿島神社の背後一帯に築かれた山城を滝尻城ではないかとしており、こちらは滝尻城を参照。

須賀川城:須賀川城は鎌倉時代に当地の豪族・二階堂氏によって築かれた城である。二階堂氏は会津の蘆名氏と敵対するが劣勢で、当時の当主・盛義は子の盛隆を人質に出し、蘆名氏と和睦した。その盛隆は後に蘆名家の養子となり、蘆名家の当主となった。天正17年(1589)には伊達政宗の攻撃を受け落城し、須賀川城は伊達家の支配下に入った。

長沼城:築城年代は定かではないが南北朝時代に長沼氏によって築かれたと云われる。 長沼氏は下野国小山氏の一族で下野国芳賀郡長沼発祥、文治5年(1189年)源頼朝の奥州攻めのに参加して戦功を揚げ長沼城を居城としていたが、応永年間(1394年~1428年)頃に鴫山城へ本拠として移ったと見られている。
永禄年間(1558年~1570年)頃には葦名・伊達・二階堂などの諸勢力が長沼城を巡って激しく争ったが、最終的には葦名盛氏の所領となって新国貞通が城主となった。天正8年(1580年)盛氏が没して二階堂氏からの養子である盛隆が家督を継ぐと船岡館主松本行輔や貞通の弟笈川館主栗村下総とともに謀反を起こした。
天正17年(1589年)には葦名氏を滅ぼした伊達政宗の所領となったが、翌18年の奥州仕置によって会津に入封した蒲生氏郷の家臣蒲生郷安・蒲生主計が城主となった。 氏郷が病没すると慶長3年(1598年)には上杉景勝が会津に入封し信濃国長沼城より島津忠直が城主となった。慶長6年(1601年)には再び蒲生氏の所領となり蒲生郷治・玉井数馬介が城主となったが元和一国一城令によって廃城となった。

16:40福島空港到達

18:15福島空港出発
19:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の福島県に足を運び、比較的マイナーなお城10か所をめぐり楽しみました。
今回も地味な城跡が多く、見つけるのも苦労を要しました。
相馬からいわきまでの海沿いを走行しましたが、原子力の影響がいまだにねずよく、車も人も少なく、お店も閉まっており閑散としていました。いつになれば以前の姿に戻るのでしょうね。