飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十九弾:宮崎県小京都&重要伝統的建造物群保存地区&お城・城下町巡り観光
2017年1月28-29日
  

九州の守護大名の伊東氏が権力を持つが、木崎原の戦いで島津氏に大敗を喫すると、豊後の大友氏を頼り、島津氏と大友氏は激しく争い、最終的には豊臣秀吉の九州統一によって争乱にピリオドが打たれた宮崎県に足を運び、比較的マイナーなお城2か所、小京都1か所、重要伝統的建造物群保存地区3か所を訪れました。

28日17:55伊丹空港出発
19:05宮崎空港到達、レンタカーで延岡方面に向かう。
21:05延岡駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
29日8:00レンタカーで出発、歴史的建造物巡り。

延岡城:築城年代は定かではないが中世の縣城(あがた)がその前身である。
近世延岡城を築いたのは高橋元種で、豊臣秀吉による九州征伐により松尾城に封ぜられた豊臣大名である。元種は慶長6年(1601年)に延岡城の築城を開始し、慶長8年(1603年)に完成した。

松尾城:文安3年(1446年)土持宣綱によって築かれたと云われる。
縣庄を本拠として勢力を張った縣土持氏は宣綱の時、松尾城を築いて西階城より移り、康正2年(1456年)一族の財部土持氏とともに都於郡城の伊東氏と戦ったが敗れ、翌長禄元年(1457年)には財部城は伊東氏によって包囲され、開城して財部土持氏は滅亡する。
その後、縣土持氏は伊東氏と門川城、日知屋城などを争って度々戦うが、元亀3年(1572年)木崎原の戦いで島津氏に敗れた伊東氏は瞬く間に衰退し、天正5年(1577年)伊東義祐は都於郡城を捨てて大友氏を頼って落ち延びた。これによって島津氏と大友氏の巨大勢力の狭間に立つこととなった縣土持氏は、島津氏、大友両氏に通じて命脈を保とうとするも、天正6年(1578年)大友氏の大軍に攻撃され落城し滅亡した。
その後、耳川合戦で大友氏を敗った島津氏の所領となったが、天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後は高橋元種が入封し、慶長8年(1603年)延岡城を築いて移るまでの居城であった。

椎葉村:椎葉村(しいばそん)は、ちょっぴり悲しい平家落人伝説で全国に知られた宮崎県北西部にある東臼杵郡の村です。いまも各地からの観光客が絶えない日本三大秘境のひとつ平家落人伝説の郷。

美々津:江戸、明治時代の白壁土蔵の町並みが残る。昔から海の交易の拠点として歴史を刻み、関西との交流の主役となった廻船問屋の活躍がしのばれ、往時の文化的な遺産を大切にした町づくりが行われている。

飫肥:飫肥は、天正16年(1588)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏5万1千石の城下町として栄えたところです。武家屋敷を象徴する門構え、風情ある石垣、漆喰塀が残る町並みは、昭和52年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
昭和53年に復元された大手門を中心に、松尾の丸や藩校振徳堂、伊東家の歴史を綴る貴重な資料が展示されている飫肥城歴史資料館があります。また、 商人町通りには樽を店頭に置いた商家や、格子に壁燈籠、番傘を飾った商家が軒を連ね、町を流れる堀割の清流など、江戸時代を彷彿とさせる町並みが楽しめます。

16:00終了、宮崎空港に向かう。

17:30宮崎空港到達。
19:30宮崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。
今回の旅行、九州宮崎県に足を運び、比較的マイナーなお城2か所と小京都1か所、重要伝統的建造物群保存地区3か所を訪れ楽しみました。
今回から初の小京都、重要伝統的建造物群保存地区巡り、日本の中世の街並みの散策、癒されますね。
これから全国の中世の街並み散策、楽しみです。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十八弾:香川県お城・城下町巡り観光
2017年1月21-22日
 

四国の室町時代に讃岐守護に任じられた細川氏の支配下にあり、ただ、守護代として東部を治めた安富氏、西部を治めた香川氏など、同地ゆかりの勢力も力を蓄え、やがて応仁の乱を経て割拠の時代に入る香川県に足を運び、比較的マイナーなお城13か所を訪れました。

21日13:00車で出発、阪神高速、神戸淡路鳴門、高松自動車道経由して引田インター下車、お城巡り。

引田城:築城年代定かではない。 永正年間(1504年~1521年)頃に昼寝城主寒川元政の家臣四宮右近が城主であった。
元亀3年(1572年)寒川氏は阿波国の三好長治によって大内郡を奪われ、長治の家臣矢野駿河守が引田城主となった。
天正10年(1582年)中富川合戦で長宗我部氏に敗れ、虎丸城に籠城した十河存保を救援するため、秀吉は仙石権兵衛秀久を引田城に派遣して守らせた。
羽柴秀吉の四国征伐によって讃岐国は仙石秀久に与えられ引田城主となったが、九州征伐での戸次川合戦での失態により秀久は改易、替わった尾藤知宣も九州征伐の失態によって改易となっている。
生駒親正が讃岐国を与えられると引田城に入ったが讃岐国の東に偏りすぎていたため、聖通寺城に移り廃城となった。

虎丸城:築城年代は定かではない。
初期の城主は寒川氏で太田郡、寒川郡、小豆島を領し東讃に勢力を張った豪族である。
元亀3年(1572年)寒川元政の時代に阿波国の三好長治によって虎丸城は奪われ、寒川氏は昼寝城へ退き、虎丸城へは三好氏の家臣雨滝城主安富氏が入る。
天正10年(1582年)中富川合戦で長宗我部氏に敗れた十河存保は虎丸城へ逃れる。天正12年(1584年)十河城は長宗我部氏によって落城したが、虎丸城も奮闘するが天正12年(1584年)末頃に落城したと考えられている。

雨滝城:築城年代は定かではないが長禄年間(1457年~1460年)安富盛長によって築かれたと云われる。 安富氏は播磨国三ケ月郷を領していたが応安年間(1368年~1375年)頃に細川頼之に従って讃岐国にきた。
元亀3年(1572年)安富盛定の時、三好長治の家臣篠原弾正入道紫雲の女を娶り三好と誼を結んだ。 元亀3年(1572年)東讃に勢力のあった寒川氏は三好氏によって虎丸城を追われ、昼寝城に退くと、虎丸城には盛定が移り雨滝城には家臣六車城主六車宗湛が移った。

十河城:築城年代は定かではない。 十河氏は山田郡を拠点とした植田氏の支流の一つであり西讃の香川氏、東讃の安富氏の二大勢力には及ばなかったが、阿波の三好一族との関係が深まったことでその勢力が大きくなった。
十河景滋の子が早世したため三好長慶の弟が養子となり家督を継いだ。これが十河一存である。一存は子の義継を長慶の養子にして三好を継がせ、義賢の子存保に十河家を継がせるなど三好と十河のつながりをより深めた。
織田信長の勢力が三好に及ぶようになると、三好長治と存保はそれに対抗したが最終的には信長に降った。
長宗我部氏が四国平定の兵を進めていた時、存保は阿波国勝瑞城にあり長宗我部氏の攻撃により落城し存保は虎丸城へと退いた。十河城には三好隼人佐があり良く戦ったが最後は開城し備前へ逃れた。
羽柴秀吉による四国征伐の後、仙石秀久が讃岐へ入り、存保は二万石が与えられ再び十河城主となったが、九州征伐において戸次川合戦で討死した。

喜岡城:建武2年(1335年)高松頼重によって築かれた。 建武3年(1336年)細川定禅との合戦に破れ落城するがその後、高松氏の居城となる。
天正13年(1585年)城主高松頼邑は長宗我部に属していたが豊臣秀吉の四国平定軍約二万に攻められ将兵約200ことごとく討死して落城した。
現在喜岡寺が建てられている所が本丸跡と言われ、その近くには城址碑が建てられいる。
このあたりは周りの地形より一段高くなっておりそれがわずかに城のあった名残と言えるかも知れない。

屋島城:屋嶋城は源平古戦場としても知られる屋島に築かれていた。 長らくその存在が不明であったが、平成10年に地元の研究家によって南嶺の南西斜面部に石積が発見され、それ以降発掘調査などによって北水門、南水門、城門、土塁などが発見されている。城壁は総延長7kmに及ぶとされるが、大半は自然の断崖を利用したもので、それが途切れる谷間に城壁を築いていたようである。南の城門地区の石垣の復元工事が完成して公開されている。窪んでいる部分が城門で下部には暗渠がある。城門へはハシゴを使って登る事を想定しているようで、入ると左へ折れて登っていく構造であった。

18:00高松市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

22日7:00車で出発、お城巡り。

勝賀城:前回ここを訪れた時は登山口がわからず撤退したのだが今回は勝賀城主の居館である佐料城の所から登山口への案内表示があり農道をたどって行くと登山口の駐車場にたどり着けた。
遠望からもわかる通り山頂はかなり広く本丸の周囲をぐるりと取り巻いた土塁が残ってる。
遺構は良く残っているようだが残念なことに本丸以外は草が生い茂っている。

聖通寺城:築城年代は定かではないが応仁年間(1467年~1469年)奈良元安によって築かれた。 奈良氏は武蔵国大里郡奈良を本貫としていたが元政が貞治元年・正平17年(1362年)の高屋合戦における功により鵜足郡と那珂郡を領した。 天正10年(1582年)長宗我部氏の侵攻により城を捨て阿波国勝瑞城へと敗走したが中富川合戦で討死した。
羽柴秀吉による四国征伐の後、讃岐国を領した仙石秀政が入城したが戸次川合戦の敗戦により失脚した。
その後、尾藤知宣、生駒親正と替わり生駒氏の時に高松城を築き廃城となった。

多度津陣屋:文政10年(1827年)京極高賢によって築かれた。 多度津藩は元禄7年(1694年)丸亀藩主京極高豊の子高通に一万石を分与して多度津藩が成立したが、当初は丸亀城下に藩庁を置いていた。 四代高賢の時、幕府に陣屋建設を願い出て許され、完成したのが多度津陣屋である。

宅間城:城址は埋め立ての為に土を取られたようである。 周りは畑や住宅地となり登ってみたものの矢竹が密集して群生しているため踏み入ることができない。

天霧城:貞治年間(1362年~1368年)香川氏によって築城された。 香川氏は守護の細川氏の四天王の一人として西讃岐一帯を領していたが長宗我部元親の侵攻により開城する。 その後羽柴秀吉の四国平定に長宗我部氏が降伏すると天霧城も開城し以後廃城となる。

城山城:築城年代は定かではないが屋嶋城と同様、七世紀後半頃に築かれた朝鮮式山城と考えられている。 『日本書紀』によれば天智天皇6年(667年)に高安城、対馬国金田城とともに屋嶋城が築かれたことが記されているが、この城山城については記されていない。東麓には古代讃岐国の国府があったとされ、それに関係するものと考えられている。

由佐城:現在は香南町歴史民族郷土館として櫓を模した建物が建つ。

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、四国の讃岐うどん等で有名な香川県に足を運び、香川県に点在する比較的マイナーなお城13か所を訪れ楽しみました。
香川県も観光地で有名、観光名所がたくさんあるため、比較的マイナーなお城は案内板も少なくわかりにくいとことが多く、今回も見つけるのが苦労しました。

山城の天霧城訪れてからの下りの狭い右折の曲がり角で右後方車輪の脱輪を避けるため大回りしたら左前の車輪が溝に落ち脱輪しました。急いでバックしましたが車輪が空回りし動かず、車から出て状態を把握し考え込んでいました。
周りは人はおらず、JAFを呼んでも山の奥、時間がかかる。
もう一度運転席に乗って再度チャレンジ、バックしても動かず、逆にハンドルを右に回して前進を試みたら脱輪した左前方タイヤが溝から道に乗り上げ難なく復帰でき帰れることができました。
下り坂のためバックは車の重みで力が入らず、前進では逆に車の重みで力が入り溝を乗り越えることができました。いい経験勉強になりました。
一人での自動車運転気を付けましょう。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十七弾:鹿児島県お城・城下町巡り観光
2017年1月14-15日
 

九州の南端、大隅、薩摩、そして日向の一部で構成され、古くから海外との交易が盛んで、大隅の肝付氏、日向の伊東氏がいち早く合戦に鉄砲を取り入れ、守護の島津氏が同地を支配し、九州全土を席巻した鹿児島県に足を運び比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

14日16:25伊丹空港出発
17:40鹿児島空港到達、レンタカーで鹿屋方面に向かう。
19:30鹿屋市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
15日7:30レンタカーで出発、お城巡り。

高山城:築城年代は定かではく諸説あるが、 長元9年(1036年)兼俊が大隅国肝属郡の弁済使となって肝付氏を名乗り居城として築いたと云われる。
南北朝時代には北朝方の島津氏に対して、日向国伊東氏・肥後国菊地氏とともに南朝方となって転戦した。 肝付兼久は明応3年(1494年)島津忠昌による高山城攻めを退け、永正3年(1506年)再び柳井谷に陣を置いて攻めてきた島津忠昌を退けた。
戦国時代になると肝付兼続は大隅国一円に勢力を広げ戦国大名となっていったが、良兼・兼亮の時代に島津氏に降伏、高山は安堵されたが他の領地は没収された。 天正8年(1581年)肝付氏は薩摩国阿多へ移封となり廃城となった。

志布志城:築城年代は定かではない。南北朝時代には楡井氏が領していたが、畠山氏と禰寝氏によって攻められ落城し、頼仲は弟頼重とともに胡麻ヶ崎城へと退いたが、弟頼重は討死し頼仲も自害して楡井氏は滅亡した。
楡井氏を滅ぼした畠山直顕は延文3年(1358年)日向国穆佐城にて肥後の菊地氏に敗れて敗走し衰退、志布志城は島津元久が領して新納実久が城主となった。
新納忠続の時、伊東氏の備えとして飫肥城へと移されたが伊東氏に飫肥城を奪われ、改めて志布志城主となる。七代新納忠勝の時には勢力を拡大しようとしていたが都城城主北郷忠相、串間城主島津忠朝の怒りをかって攻められ忠勝は降伏した。新納氏の所領は北郷氏と豊州島津氏で分領となった。その後永禄5年(1562年)頃に肝付兼続が所領としたが、肝付氏が島津氏に降伏すると志布志城は鎌田政近の所領となり、元和の一国一城令によって廃城となった。

恒吉城:築城年代は定かではない。 鎌倉時代には恒吉大膳亮の所領であったといわれる。応永年間(1394年~1428年)の城主は山田忠道、永享年間(1429年~1441年)には忠道の兄山田忠尚が城主であった。その後は一時島津忠親の所領となっていたが概ね肝付氏の所領として続き、天正4年(1576年)からは都城の北郷氏の所領となった。北郷氏はその後祁答院へ移り、かわって伊集院氏の所領となった。慶長4年(1599年)庄内の乱で蜂起した伊集院忠真は、恒吉城に一族の伊集院惣右衛門を城主として守らせた。島津方は島津図書頭忠長、志布志地頭の樺山久高、松山地頭柏原左近将監有国の三名が恒吉城を攻め、樺山久高の策によって三日間の攻防で落城した。 その後は寺山四郎左衛門久兼が地頭となったという。

富隈城:築城年代は定かではないが文禄年間初期に島津義久によって築かれた。 島津義久は文禄4年(1595年)家督を譲って富隈城に隠居した形をとって鹿児島から移り、慶長9年(1604年)舞鶴城へ移るまで在城した。

加治木城:築城年代は定かではないが平安時代に大蔵氏によって築かれたと云われる。 大蔵氏は東漢霊帝の血を引く帰化人とされる。
数代目の当主大蔵良長のとき継嗣なく、流罪となってこの地へ流れてきた関白藤原頼忠の三男経平に娘を娶せて大蔵家を継がせ、経平は加治木氏と名乗ってこの地に住んだと云う。加治木氏は以後有力国人としてこの地を治めていたが、明応4年(1495年)加治木久平は帖佐へ侵攻し平山城の南城を占領したが、高尾城に籠った川上忠直に防がれ、加治木侵攻に怒った島津宗忠昌の大軍に攻められ加治木城に帰還した。翌明応5年(1496年)島津忠昌が加治木城に押し寄せ久平は敗れて謝罪し許されたが薩摩国阿多へ移され加治木氏は没落した。
加治木氏の後は伊地知重貞が地頭となったが後に重貞も島津氏に叛いた為、大永7年(1527年)島津忠良が加治木城に攻め寄せ伊地知重貞・重兼父子は城中で自刃して果て、肝付兼演に加治木城は与えられた。
天文23年(1554年)蒲生範清は渋谷一族とともに島津氏に反抗し加治木城に攻め寄せた。島津貴久は加治木城を救援する為、岩剱城の祁答院良重を攻め、加治木城を取り囲んでいた蒲生軍が岩剱城を取り囲んでいた島津氏を討ちに戻ってきた所を激戦の末に打ち破り加治木城を救った。
文禄4年(1595年)加治木・日当山・溝辺のうち一万石が豊臣家の蔵入地となり、肝付兼三は喜入に移封となった。しかし、文禄・慶長の役での島津氏の功によって加治木は島津氏の所領に戻り、島津義弘が平松城より加治木へ移ったが加治木館を新たに築城した為、加治木城は廃城となった。

長尾城:築城年代は定かではないが承久年間(1219年~1222年)頃に横川時信によって築かれたと云われる。 以後河内守種氏まで六代続いた。
永禄年間(1558年~1570年)頃には北原伊勢介が領していたが、永禄5年(1562年)北原氏に内乱があり、一族の多くが島津氏に属した為、伊勢介と子の新助は日向国飫肥の伊東氏に内応して横川城に籠った。島津氏は島津義弘・歳久兄弟が横川城を攻め、北原父子は城内で自刃して果てたと云う。
その後は菱刈重猛の所領となり、一族の菱刈中務が城主となったが、永禄10年(1567年)重猛の弟隆秋が島津氏に叛くと菱刈中務もそれに加わり、島津氏によって馬越城が落城すると横川城を棄てて大口城へ退いたという。

栗野城:天正15年(1587年)島津氏によって築かれたと云われる。天正18年(1590年)島津義弘は日向国飯野城より移って居城とした。
義弘は朝鮮の役にはここから出陣し、帰国後文禄4年(1595年)に帖佐館を築いて移り、城代として川上三河守が在城したという。

出水城:築城年代は定かではないが建久年間(1190年~1199年)に和泉兼保によって築かれた。 和泉氏は応永24年(1419年)川辺松野城の合戦で島津久豊方に組みしたが戦死し後継なく断絶した。
享徳2年(1453年)島津忠国の弟用久が薩州島津家を興しここを本拠とした。

平佐城:築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に薩摩氏によって築かれたと云われる。 15世紀末には入来院氏の所領で12代重朝が一時居城としていた。 元亀元年(1570年)入来院、東郷氏が島津氏に降ると島津義久は直轄地として地頭を置き、天正8年(1580年)頃は桂忠あき(日方)が地頭であった。

清色城:築城年代は定かではないが入来院氏によって築かれた。 入来院氏は鎌倉時代中期に相模国渋谷庄司の渋谷光重が地頭職となり、その子定心が入来院地頭となって入来院を名乗ったことに始まる。
永禄年間(1558年~1570年)入来院氏は島津氏に降り以後島津氏に従った。文禄4年(1595年)入来院重時は代々所領とした入来院の地を離れ、大隅国湯尾へ転封となった。慶長5年(1600年)入来院重時は島津義弘に従って関ヶ原合戦に参加し討死した。重時には嫡男がいなかったことから島津義虎の子で頴娃家の養子となっていた久秀が重国(後に重高)と名を改め入来院家の家督を継いでいる。
江戸時代に入り、慶長18年(1613年)入来院重国は湯尾から旧領である入来院に転封となり、以後入来院地頭として入来麓に仮屋を構え代々続いた。

16:00終了、鹿児島空港に向かう。

17:00鹿児島空港到達。
18:10鹿児島空港出発。
19:20伊丹空港到達。

今回の旅行、九州南端の鹿児島県に足を運び比較的マイナーなお城10か所を訪れ楽しみました。
広範囲に点在するお城、道も広く、信号も少なく、渋滞もなく、スムーズに訪れることができました。

鹿屋市内の繁華街で夕食を済ませましたが、居酒屋、焼き鳥屋、どこもいっぱいで7件目でやっと席に着くことができました。食事のお店を苦労するは初めてで、人口はそんなに多くなく、観光名所も多くなく、観光客も少ないのに何故こんなに混んでいたのか、お店が少ないのでしょうね。