飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十五弾:岐阜県お城・城下町巡り観光
2017年11月25日-26日
  

今回は中部地方に位置し、下剋上を体験したかのような斎藤道三、義龍親子が美濃の権力を握ったが、龍興の代になって、織田信長に滅ぼされ、一方、飛騨は織田信長が没した後、豊臣秀吉が金森長近を送り込んで支配した岐阜に足を運び、岐阜県に点在する比較的マイナーなお城11か所を訪れました。

25日18:00車で出発、第二京阪京滋バイパス名神高速道路を経由して岐阜羽島インター下車
20:20岐阜羽島駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
26日7:00出発、お城巡り。

高須城:築城年代は定かではない。暦応元年(1338年)美濃国石津郡に地頭職を賜った氏家重国が館を構え、これを高須城の前身とする説がある。

大永2年(1522年)大橋重一が築き、以降、信重、重長と続く。大橋氏は後に勝幡城の織田信秀に属し、天文年間(1532年~1555年)以降は高津直幸、平野長治、秋山信純など多くの城主が入れ替わった。

関ヶ原合戦後、松ノ木城から徳永寿昌が五万七百石で高須城に入り高須藩となったが、二代徳永昌重は寛永4年(1627年)大坂城改修工事で監督不行届があり、改易され、出羽国鶴岡藩酒井忠勝、さらに出羽国新庄藩戸沢政盛にお預けとなった。同じく嫡男徳永昌勝もお預けの身となっていたが慶安元年(1648年)に赦され、子孫は二千二百石の旗本として速続している。

寛永17年(1640年)下総国関宿から小笠原貞信が二万二千七百石で高須へ移ってきたが、度重なる洪水などに悩まされ、自ら領地替えを幕府に願い出て、元禄4年(1691年)に越前国勝山へ転封となった。

その後は天領となっていたが、元禄13年(1700年)尾張藩主徳川光友の次男で信濃国高井藩主松平義行が高須藩へ転封となり、以降、高須藩三万石として代々続いた。

墨俣城:永録9年(1566年)木下藤吉郎によって築かれた。 稲葉山城攻略のため織田信長は墨俣の地に築城を試みるが、墨俣は当時美濃斎藤領であり稲葉山城と大垣城に挟まれており苦難を強いる。

最初に築城を命ぜられたのは佐久間信盛、続いて柴田勝家が命ぜられるがともに斎藤軍の攻撃により失敗した。 3回目に築城を命ぜられた木下藤吉郎は、建築用材を木曾川上流で加工し河川を利用して運搬し築城に着手する。 始めに柵を造り敵の攻撃に備え、外堀を掘りその土で土台を固め櫓などを組み立てていった。築城完成まで数日であったことから墨俣一夜城とも呼ばれる。

革手城:築城年代は定かではないが正平年間(1346年~1370年)土岐頼康によって築かれたと云われる。 頼康が将軍家の命によって土岐総領家の当主となり、美濃守護となり、続いて尾張守護を兼ね、仁木義長と争って伊勢守護となると永森城から革手城を築いて拠点とした。

加納城:文安2年(1445年)革手城の支城として斎藤利長が築いたのが始まりとされる。この城は天文7年(1538年)頃に一旦廃城となった。

慶長6年(1601年)徳川家康は岐阜城を廃城とし再び加納城の築城を命じ、天下普請によって築かれた。 この時岐阜城の天守や櫓、石垣等を移築転用している。 最初奥平信昌が上野国宮崎から十万石で入城するが寛永9年(1632年)忠隆が没すると嫡子なく断絶する。続いて武蔵国騎西城から大久保忠職が五万石で入封するが寛永16年(1639年)播磨国明石城に七万石で転封となる。 入れ替わりで戸田光重が播磨国明石城から七万石で入封、戸田光煕の時、山城国淀城に転封となり、備中国松山城から安藤信友が六万五千石で入封する。安藤信成の時、陸奥国磐城平城へ転封となり、武蔵国岩槻城より永井直陳が三万二千石で入封、以後永井氏が六代続いて明治に至る。

鷺山城:鷺山城が最初に築かれたのは文治の頃(1185-90)と言われるから源頼朝の奥州攻めの頃のことになる。そして佐竹常陸介秀義がこの城に居住したと伝えられているそうだ。
 佐竹氏は新羅三郎義光を祖とし、常陸国内で大きな勢力を築いた源氏である。秀義は義光から五代目、佐竹氏を名乗った昌義からは三代目にあたる。
 その佐竹氏がなぜ美濃に城館を構えるに至ったのか。たしかに秀義の子等の子孫が美濃に定着して美濃佐竹氏を称してはいる。その間の経緯でこの城が築かれたのかもしれないが、詳細は分からない。

北方城:築城年代は定かではないが北方太郎左衛門光就によって築かれたと云われる。

西美濃三人衆の一人安藤伊賀守守就は、斎藤義興を見限って織田信長に仕え、姉川合戦などで功を挙げたが、天正8年(1580年)河渡城主であった実子安藤尚就が甲斐の武田氏に内通した嫌疑により、守就父子は武儀郡谷口村に蟄居し、その所領は稲葉一鉄に預けられた。

天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変に倒れると、安藤守就は旧臣を集めて北方城に立て籠もり、稲葉一鉄・貞道父子と戦ったが敗れ自刃して果てた。

曽根城:築城年代は定かではないが永禄年間初期に稲葉良通によって築かれたと云われる。

稲葉氏は伊予国河野氏の一族で稲葉通貞の時に美濃にきて、土岐氏に仕えたと云われる。土岐氏が没落すると斎藤氏に仕え、さらに織田信長、豊臣秀吉に仕え天正16年(1588年)郡上八幡に四万石で移封となった。

稲葉氏のあと西尾光教が二万石で入封、関ヶ原合戦では東軍に属して大垣城攻めの功により揖斐城に三万石で転封となり、曽根城は廃城となった。

揖斐城:築城年代は定かではないが南北朝時代に土岐氏の一族によって築かれたと云われ、興国4年(1343年)に土岐頼清の子頼雄が築いて揖斐氏を称したのが始まりとも云われる。

代々揖斐氏の居城として続いていたが天文16年(1547年)揖斐光親が城主のとき斎藤道三によって攻められ落城したという。

その後、斎藤氏の武将堀池氏が城主となったが、天正11年(1583年)稲葉一鉄によって攻められ落城した。

菩提山城:永禄2年(1559年)一説に天文15年の説もあるが、竹中重元によって築かれた。 重元は羽柴秀吉に仕えて播磨国三木城攻略時に病没した竹中重治(半兵衛)の父である。

この地には岩手氏が勢力を張っていたが、竹中重元が岩手氏を攻め滅ぼして菩提山城を築いた。しかし、翌年には重元は病没し子重治が16歳で家督を継いだ。

重治は羽柴秀吉に仕えて播磨国三木城を攻略中に病没する。子重門は幼少であっだか成人した後、菩提山城を廃して麓の館を移し、竹中陣屋を築いた。

竹中氏陣屋:築城年代は定かではないが竹中重門によって築かれた。 重門は羽柴秀吉に仕えて播磨国三木城攻略時に病没した竹中重治(半兵衛)の子で、成人した後、菩提山城を廃して竹中館を築いた。

関ヶ原合戦後も所領を安堵され五千石を領して旗本として明治まで続いた。

西高木家陣屋:築城年代は定かではないが関一政によって築かれた多羅城がその前身である。 関一政は関盛信の二男で蒲生氏郷の与力として各地を転戦していたが、慶長5年(1600年)美濃国多良三万石の城主となり、信濃国飯山より移った。 関ヶ原合戦後、一政は父盛信が領した旧領の伊勢国亀山へ転封となった。

高木氏は源満仲を祖とする清和源氏で大和から伊勢に出て、斎藤道三に仕えて駒野城主となった。その後、織田信長、織田信孝に仕え今尾城主となったが信孝没後に駒野城へ戻った。小牧長久手合戦では織田信雄に従っていたが、天正18年(1590年)織田信雄が改易となると関東へ移った。その後、徳川家康によって貞利(貞久の二男で西高木家祖)、貞友(貞久の三男で東高木家祖)、貞家(貞久の長男貞家の子で北高木家祖)がそれぞれ召し出され関東に所領を与えられた。

江戸時代の高木家はこの多良に三家あり、いずれも大名格の交替寄合の旗本として江戸時代を過ごしたが、三家を区別する為に、陣屋の位置により西高木家、東高木家、北高木家となっている。 高木家は水奉行と呼ばれ、木曽川水系などの治水や巡見などが命ぜられている。宝暦治水と呼ばれる、宝永4年(1754年)から四年の歳月をかけて行われた木曽川流域の治水工事は薩摩藩主体で行われた難工事であったが、この治水にも高木氏は参加している。

慶長6年(1601年)高木権右衛門貞利が千石を与えられ、西高木家の祖となった。西高木家は貞利の後、貞盛のときに二千三百石に加増され、寛文8年(1668年)三代貞勝以降は三家が隔年で参勤交代するようになった。以後代々高木氏が続き、十代貞広のとき明治に至る。

16:00終了帰路に向かう。

今回の旅行、中部地方岐阜県に足を運び、岐阜県に点在する比較的マイナーなお城11か所をおとずれ楽しみました。

今回のお城、立派なお城が多く、資料館となっている模擬天守閣、城跡公園、立派な石垣、見るべきものがたくさんあり、感動しました。
今まで訪れた城跡巡り、ピカ一でした。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十四弾:三重県お城・城下町巡り観光
2017年11月18日-19日
 

東海地方で南北朝時代に大納言・北畠親房が伊勢国に向かい、南朝の勢力を強めるために奮闘し、南北朝の和議が成り立ったあとは、北畠氏をはじめ、長野氏、関氏のほか、北部の地侍北勢四十八家が戦いを繰り広げた三重県に足を運び、三重県に点在する比較的マイナーなお城7か所を訪れました。

18日16:00車で出発、第二京阪京滋バイパス新名神伊勢自動車道経由して松坂インター下車。
18:30松坂駅前のホテル到着後繫華街を散策し就寝。
19日7:00車で出発、お城巡り

赤木城:赤木城は赤木川の北岸にある標高230mの丘陵に築かれている。現在は国指定史跡となり、以前よりも更に良く整備されており、自然と石垣が織りなす絶景を堪能することができる。

比高30m程の丘陵に築かれた城で総石垣造りで、最高所の主郭を中心に南の谷間にある南郭を挟んで東西両尾根に東郭と西郭、北に北郭を設けている。

主郭はやや歪んだ方形で高石垣が巡り南東隅に枡形虎口を開く。南西隅と北端に張り出しがある。東郭は中央に虎口があり、伝鍛冶屋敷からの入口となる。北尾根は堀切が一条ある。

五ヶ所城:築城年代は定かではないが康永年間(1342年~1345年)頃に愛洲氏によって築かれたと云われる。 愛洲氏の出自については諸説あるが清和源氏武田氏の流れを汲むとされる。

南北朝時代愛洲氏は南朝方として北畠氏に属し、大永7年(1527年)愛洲弾正親忠は家督を国忠に譲って玉丸城へ移り、北朝方と戦った。

天正4年(1576年)田丸城主で北畠氏の養子となった織田信長の子信雄によって攻められ愛洲氏は滅亡したという。

波切城:貞治2年・正平18年(1363年)頃に九鬼隆良によって築かれたと云われる。 九鬼氏は隆良の時に波切の川面氏の養子となり紀伊国九鬼城より移ったという。

隆良には嫡子ができず、和具城主青山氏より養子を迎え隆基と名乗った。隆良より四代の九鬼泰隆の時に田城城へ移って居城としていた。隆良の孫にあたる九鬼嘉隆はこの波切城で生まれたと云いう。

九鬼氏は志摩十三地頭の一人であり、互いに盟約を結んでいたが不可侵条約の無視が次第に目立つようになり、伊勢国司北畠氏の助けを得た志摩七党が波切城に攻め寄せ、嘉隆は海路伊勢の安濃津へ逃れた。滝川一益を介して織田信長に接近した嘉隆は永禄12年(1569年)信長が北畠氏の居城伊勢国大河内城を攻めた時、志摩へ戻って志摩七党を敗って、田城城を取り戻して居城とした。

鳥羽城:中世に橘氏の居館があったとされ、永正年間(1504~1521年)橘忠宗の時に伊勢国司北畠材親に降り志摩国二郡を与えられ取手山砦に居城を移したという。

鳥羽城は文禄3年(1594年)九鬼嘉隆によって築かれた。 嘉隆は波切城主であったが、伊勢国司北畠氏の助けを得た志摩七党に攻められ、海路伊勢の安濃津へ逃れた。ここで滝川一益を介して織田信長に接近し、永禄11年(1568年)織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出し、小浜城主小浜久太郎、浦城主浦豊後守を攻め落とすと、鳥羽城主橘宗忠も娘を人質として降伏した。嘉隆はこの娘を妻に迎えている。 その後も和具城・越賀城などを攻略して志摩を平定した。

九鬼嘉隆は織田信長に属して水軍を率いて各地を転戦し、本願寺攻めでは毛利水軍を敗るなど活躍して、信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、朝鮮の役にも出兵した。

慶長2年(1597年)嘉隆は家督を守隆に譲り隠居し、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では、守隆は東軍に属して桑名城攻めで戦功を挙げたが、父嘉隆は西軍に属して鳥羽城を占拠し立て籠った。西軍が敗れた後は鳥羽城を脱して和具の洞仙庵に入った。守隆は徳川家康に父嘉隆の助命を嘆願して許されたが、この使者が到着する前に嘉隆は自害して果てた。関ヶ原合戦の功によって加増を受けた守隆は五万五千石を所領となった。

田丸城:建部3年・延元元年(1336年)北畠親房によって築かれたと云われる。 南北朝時代は玉丸城と呼ばれ南朝方の北畠氏の愛州忠行が城主で養子政勝の時に玉丸と名乗った。

天正3年(1575年)北畠信雄は大河内城を廃し田丸城に本拠を移し三層の天守を上げたが、天正8年(1580年)放火により焼失し再建することなく、松ヶ島城を築いて移った。

天正12年(1584年)蒲生氏郷が松ヶ島城に入封すると、氏郷の妹婿となっていた玉丸直昌が再び田丸城主となった。 氏郷が会津若松城に移封となると直昌も三春城主として移った。

その後は稲葉道通が城主となったが元和元年(1615年)摂津国中島に転封となり、田丸城は津城主藤堂高虎の預るところとなったが、御三家の一つ紀伊国和歌山藩が興されるとその所領となり家老久野氏が城主となった。

大河内城:応永22年(1415年)北畠顕雅によって築かれたと云われる。 伊勢国司北畠満雅は弟顕雅をこの地に配して北朝方の攻撃に備えた。

永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻すると伊勢国司北畠具教がここを本拠として信長軍と対峙した。 具教は籠城の末、信長の次男信雄を養子に向かえ家督を譲ることで和議を結び、三瀬館に隠居した。

信雄は家督を嗣ぐとここを本拠としていたが、天正3年(1575年)田丸城を改修し本拠を移して大河内城は廃城となった。

阿坂城:築城年代は定かではないが応永年間(1394年~1428年)に北畠満雅によって築かれたと云われる。

正長元年(1428年)小倉宮聖承(小倉宮)は皇位継承に不満を抱き、伊勢国司北畠満雅を頼って嵯峨より伊勢に落ちると、北畠満雅は鎌倉公方足利持氏とともに挙兵した。 満雅は阿坂城を築いて足利将軍の軍勢を迎え撃つと、幕府軍は城を包囲して水の手を切った。このとき籠城軍は白米を馬の背に流して水があるように見せかけ、幕府軍を欺いたことから白米城とも呼ばれる。

永禄12年(1569年)織田信長が大河内城の北畠具教を攻めたさいには、重臣大宮入道含忍斎が阿坂城に籠もっていたが、織田の家臣木下藤吉郎らに攻められて落城した。

16:00終了帰路に向かう。

今回の旅行、東海地方の三重県に足を運び、比較的マイナーなお城7か所をおとずれ楽しみました。
今回の城跡、立派な城跡が多く、丘城ほとんどで、石垣がしっかり残っていました。
十分見る価値があります。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十三弾:静岡県お城・城下町巡り観光
2017年11月11日-12日
 

中部地方の東西に広く太平洋に面し、駿河、遠江の守護職となった今川氏の影響力が、南北朝時代からおおきかったエリア、残る伊豆は北条氏が治め、今川氏真が徳川家康の攻撃を受け困窮すると、駿河、遠江の支配をあきらめて北条氏を頼った静岡県に足を運び、静岡県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

11日16:00車で出発、第二京阪京滋バイパス、新名神高速道路経由して浜松下車。
19:30浜名湖西部のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

12日7:00車で出発、お城巡り。

三岳城:築城年代は定かではないが南北朝時代に井伊道政によって築かれたと云われる。

暦応2年(1339年)井伊道政は後醍醐天皇の皇子宗良親王とともに三岳城に籠もり、南朝方の拠点となっていた。暦応3年(1340年)北朝方の高師泰・仁木義長らによって三岳城は落城し道政と宗良親王は大平城へ逃れて立て籠もったがこれも落城した。

永正11年(1514年)引馬城主大河内貞綱が尾張斯波義達と結んで反今川の兵を挙げたとき、井伊直盛はこれに呼応して三岳城に籠もったが、今川氏の武将朝比奈泰以の猛攻を受けて落城し奥山城へ逃れ後に今川氏に降った。

二俣城:築城年代は定かではないが文亀年間(1501年~1504年)二俣昌長によって築かれたと云われる。

桶狭間合戦で今川義元が敗死すると今川氏の勢力は衰え徳川氏の支城となる。 元亀3年(1572年)武田信玄は遠江に侵攻、武田勝頼を大将として二俣城を囲んだ。 武田氏は猛攻を仕掛けたが城は堅固で籠城兵もよく守っていた。しかし、城内の水之手が天竜川に井楼を組んでくみ上げていることを知った武田勢は、上流から筏を流してこれを破壊した。水之手を断たれた城内は水不足となり開城した。

天正3年(1575年)長篠の合戦で武田氏を敗った徳川家康は、武田氏の家臣依田信守・信蕃父子が守る二俣城攻略に懸かり鳥羽山城に本陣を構えて、その周囲に毘沙門堂砦、蜷原砦、和田ヶ島砦を築いて包囲した。 父信守が病死するなか信蕃が指揮して奮戦し、諏訪原城が攻略されても抵抗を続け、ついに武田勝頼の勧告により、全ての城兵を助けることを条件として開城、信蕃は堂々と城を出て高天神城へ退去した。

家康は家臣の大久保忠世を二俣城主とした。天正7年(1579年)家康の嫡男松平信康は、織田信長から武田氏に通じて謀叛の疑い有りとされ、家康に信康と生母築山殿の処罰を命じた。岡崎城から二俣城に幽閉されていた松平信康は、この地で自刃させられた。

天正18年(1590年)徳川家康の関東移封にともない、大久保忠世も相模国小田原四万石の城主として移り、替わって浜松城主となった堀尾吉晴の弟堀尾宗光が城主となり、関ヶ原合戦後、堀尾氏が出雲国広瀬へ転封となると廃城となった。

高根城:築城年代は定かではないが南北朝時代に奥山定則によって築かれたと云われる。

その後、奥山氏は今川氏に属して水巻城、大洞若子城、小川城を築いて一族で固め勢力を広げたが、桶狭間合戦後に今川氏が没落すると、今川・武田・松平のどこに属するかで一族は内部分裂となった。

元亀年間には遠江国に武田氏が侵攻し、高根城も武田氏の手に落ち、この頃に改修されたといわれるが、武田氏が没落すると廃城となった。

久野城:築城年代は定かではないが、明応年間(1492年~1501年)久野宗隆によって築かれたと云われる。

宗隆の子元宗は元禄3年(1560年)今川義元に従って桶狭間合戦に従軍して討死し、宗能が継いだ。その後徳川氏に属して、天正12年(1590年)徳川家康が関東へ転封となると下総国佐倉に一万三千石で転封となる。

その後、松下之綱が遠江国頭蛇寺城より一万六千石で入封したが、慶長8年子重綱の時に、幕府に無断で石垣を築いた罪によって常陸国小張に転封となる。

替わって久野宗能が万石未満の旗本として旧領へ戻ったが、元和5年(1619年)宗成の時、徳川頼宣の重臣となって和歌山へ移った。

替わって元和5年(1619年)下野国富田より北条氏重が一万石で入封したが、寛永17年(1640年)下総国関宿へ転封となり、廃藩となった。

横須賀城:天正6年(1578年)大須賀康高によって築かれた。 天正2年(1574年)武田勝頼に高天神城を奪われた徳川家康は、高天神城奪還のため、馬伏塚城の大須賀康高に命じて横須賀城を築かせ、康高を城主とした。

天正16年(1588年)康高は嗣子なく没した為、康高の娘を生母とする榊原康政の長男(一説に次男)忠政が大須賀家を継いだ。 天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い、忠政は上総国久留里へ転封となった。

代わって渡瀬繁詮が三万石で入封するが、文禄4年(1595年)豊臣秀次事件に連座して改易となると、家臣有馬豊氏が領地を継いだ。

高天神城:築城年代は定かではない。永正10年(1513年)頃に今川氏親の重臣福島正成が城将として高天神城に入城したことが初見とされる。

『高天神を制するものは遠州を制す』と称されるほど重要な城であり、武田氏と今川・徳川氏によって攻防が繰り広げられた。

今川氏没落後、高天神城主小笠原長忠は徳川氏に属していた。元亀2年(1571年)武田信玄は二万越える大軍で高天神城を包囲したが、これを落とすことができず撤退した。天正2年(1574年)信玄の跡を相続した武田勝頼は二万余の軍勢を率いて再び高天神城を包囲、力攻めと降伏勧告を繰り返し、小笠原長忠はついに支えきれず降伏開城した。高天神城を手に入れた勝頼は岡部真幸(元信)、横田甚五郎尹松らを城将として守らせた。

天正3年(1575年)武田勝頼は長篠・設楽原合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫してしまう。好機と見た家康は諏訪原城を攻略し、天正6年(1578年)横須賀城を築いて高天神城への備えとする。高天神城を攻略できない家康は小笠山砦など六つの砦を築いて付城としこれを包囲した。籠城する岡部氏らは武田勝頼に援軍を求めたものの、北条氏と対峙していた勝頼は援軍を送ることができず、天正9年(1581年)にはついに兵糧が尽きた。城将岡部真幸は籠城兵を従えて打って出ると大久保忠教によって討ち取られ、ついに高天神城は落城した。このとき横田甚五郎は秘かに城を脱して甲斐へ戻った。家康は高天神城を焼き払って廃城とし、以後は横須賀城を拠点とした。

諏訪原城:永禄12年(1569年)武田信玄が砦を築いたのが始まりとされるが定かではない。 本郭的な城が築かれたのは天正元年(1573年)武田勝頼によるもので、縄張りは馬場美濃守信房によるものである。

武田勝頼は翌天正2年に高天神城を攻め落とすなど遠江に勢力を伸ばしていくが、天正3年(1576年)に長篠・設楽原合戦で織田・徳川連合軍に大敗を喫してしまう。好機と見た徳川家康は諏訪原城を取り囲んで攻め立て、二ヶ月に及ぶ攻城戦の末、城兵は降伏開城して小山城へ退去した。

諏訪原城を奪った家康は改修して牧野城と改め、今川氏真、松平家忠、松平康親らを在城させ、遠江攻略の拠点とした。

天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると諏訪原城の役目も終わり、天正18年(1590年)に徳川家康が関東へ転封となった頃には廃城となったと推測される。

小山城:築城年代は定かではない。 今川氏が没落し、大井川を国境に駿河国を武田氏、遠江国を徳川氏が領することとなったが、武田氏は大井川を越えて遠江国に侵攻し小山城を修築した。

元亀元年(1570年)徳川氏が小山城を落としたものの、元亀2年(1571年)再び武田氏によって奪還された。この時、武田氏は城を改修し大熊長秀を城主として守備させた。

信玄が没し勝頼の代になると高天神城などを落とし遠江国に勢力を伸ばしたが、天正3年(1575年)長篠の合戦で織田・徳川氏に大敗すると高天神城も奪還され小山城も徳川氏の手に落ちた。

丸子城:築城年代は定かではない応永年間に斉藤氏によって築かれたと云われる。 今川氏親の頃になると丸子城は府中館を守る城郭群の一つとして今川氏に接収され、福島安房守を城主とした。

永禄年間(1558年~1570年)に武田信玄が駿河に侵攻すると、山県昌景を丸子城に布陣して西側からの防御にあたらせた。 駿河国を手中に収めると、諸賀兵部大輔、関甚五兵衛、後には屋代勝永を城番として置いた。

久能山城:南北朝時代に南朝方に属した入江駿河守が中野掃部助とともに北朝方の今川氏と戦ったが敗れ、久能山城に退去したことが知られるが、当時は本格的な城郭ではなく、城郭寺院に着眼して代用したものと考えられている。

永禄12年(1569年)頃に武田信玄によって築かれた。永禄11年(1568年)駿河国に侵攻して今川氏真を破った武田信玄は久能山にある久能寺を移設して久能山城を築いた。

武田氏は今福閑斎・今福丹波守を守将として兵350、馬上40騎を与えて守らせた。 天正元年(1573年)今福丹波守は遠江国諏訪原城の城番を命ぜられたが、天正3年(1576年)徳川家康によって攻められ落城すると再び久能山城に籠もった。しかし、天正10年(1582年)2月27日に持舟城が徳川家康によって落城すると、久能山城も徳川軍によって包囲され今福丹波守は開城して甲斐国へ逃れた。

天正11年(1583年)松平源三郎勝俊が城主となったが天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い、駿府城主となった中村一氏の家臣松下吉綱が城主となった。慶長6年(1601年)大久保弥一郎忠政が入り、慶長11年(1606年)以降榊原清政・照久父子が在城したが、元和2年4月17日徳川家康が駿府城にて没するとその遺言により久能山城は廃城となり、愛宕曲輪に埋葬され久能山東照宮が造営された。

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、静岡県に足を運び、静岡県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れ楽しみました。
今回は城跡としては立派な建造物が多く、再建天守閣、石垣、なかなかの遺残で、整備され城跡公園と利用されているところが多く見られました。案内板もしっかりありスムーズに訪れることができました。
静岡県のお城、レベルが高い、感心しました。









 






飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十二弾:和歌山県お城・城下町巡り観光
2017年11月4日-5日
 

近畿地方の南に位置し太平洋に接し僧兵集団が力を持ったエリアで、戦国時代に入っても、織田信長、豊臣秀吉に反発し、やがて秀吉の奇襲征伐によって、有力な拠点が相次いで陥落、秀吉は和歌山城を築き、紀州での支配力を強化した和歌山県に足を運び、和歌山県に点在する比較的マイナーなお城11か所を訪れました。

4日16:00車で出発、17:30和歌山市駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
5日7:00車で出発、お城巡り。

手取城:築城年代は定かではないが南北朝時代に玉置大宣によって築かれたと云われる。 玉置氏は大和国十津川地域の出身で、奥州岩城判官の後裔を称す。
南北朝時代に大和国から日高川の上流地域に鶴ヶ城を築き、さらに下流へ降って山崎城の川上兵衛則秋を攻略してこの地域を支配した。
その後は亀山城の湯川氏とともに日高地方を二分する勢力を築いて代々続いた。 天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州侵攻に対し、亀山城主湯川直春は娘婿である手取城主玉置直和に対して同調して秀吉と対決することを望んだが、玉置氏はこれに従わなかった。怒った直春は二百余名で手取城を攻め焼き払った。

亀山城:築城年代は定かではないが湯川氏によって築かれたと云われる。 湯川氏は甲斐源氏の武田三郎忠長が熊野の賊を平らげて芳養庄を賜り、内羽位に館を構え湯川(湯河)氏を称したことに始まる。
亀山城が築かれたのは貞和4年・正平3年(1348年)頃とも永享11年(1439年)頃とも云われ定かではないが、日高に進出した湯川光春によって築かれたと云われる。
その後代々湯川氏の居城であったが、十一代湯川直光は天文18年(1549年)頃に小松原館を築いた。これは単なる居館ではなく平城であったと云われる。移した理由については「亀山城は寒風の季節は住みにくい」というものであった。
天正13年(1585年)羽柴秀吉が紀州へ侵攻すると、湯川直春は娘婿の手取城主玉置直和に対して同調して秀吉と対決することを望んだが、玉置氏はこれに従わなかった。怒った直春は二百余名で手取城を攻め焼き払った。その後、秀吉の大軍に攻められた湯川氏は城を焼き払って退去し後に和睦する。しかし、天正14年(1586年)湯川直春は羽柴秀長の居城である大和郡山城で没した。一説に謀殺されたとも伝えられる。

入山城:築城年代は定かではない。
大永2年(1522年)阿波の三好義長が由良に上陸して小坊子城を築き、畠山氏と戦い勝利した。入山城はこの時に小坊子城の支城として築かれたと考えられる。義長は子息の三好義継を小坊子城に置いて阿波へ引き上げたが、畠山氏と湯川氏が結んで小坊子城を落としており、入山城は湯川氏の支配に置かれたと推測されている。
戦国時代には青木勘兵衛由定の居城となっており、秀吉に属して三好氏との戦いに功があったとも伝えられるが、不明な点も多い。入山城は北の城山と南の本丸という二つの城郭が同じ丘陵に存在していることから、歴史が混同されて伝えられているようである。

鹿ヶ瀬城:

湯浅城:康治2年(1143年)湯浅宗重によって築かれた。
湯浅氏は藤原鎌足の子孫で、平治の乱では熊野まいりから引き返す平清盛に兵30騎を率いて加勢した。
源平合戦では源氏に付き後に鎌倉幕府から阿て(氏に_)河荘・保田荘・田殿荘・石垣荘の地頭職に任ぜられた。
南北朝時代には南朝方となったが、南朝方が不利になるに従い湯浅衆も内部分裂し勢力は衰退した。

鳥屋城:築城年代は定かではないが鎌倉時代末期から南北朝時代初期頃に湯浅宗基によって築かれたと云われる。 湯浅宗基は湯浅氏の祖である湯浅宗重の孫で宗光の子である。石垣氏の祖となったことから石垣城とも呼ばれている。
応永7年(1399年)に紀伊国守護職として畠山基国が入国すると、その弟の畠山満国が城主となり外山城と改められた。その後、鳥屋城と改められ畠山氏の一族や守護代神保氏等が城主を務め、天正13年(1585年)畠山貞政が城主のとき羽柴秀吉に攻略され廃城となった。

大野城:築城年代は定かではない。建武年間(1334年~1338年)に紀伊国守護職に任ぜられた畠山基国がこの大野城に入城していたという。
その後、建武年間(1334年~1338年)には南朝方の浅間入道覚心、その子浅間忠成、保田氏、北朝方の細川氏が続いて大野城に入城した。
細川氏が南朝方の急襲によって敗走すると、紀伊守護職に任ぜられた山名義理が、永徳2年・弘和2年(1382年)に大野城を攻略して大野城主となった。しかし、六分の一殿と呼ばれるまでの勢力を持った山名氏を抑えようと、将軍足利義満が画策し明徳の乱が勃発する。山名義理は紀伊から兵を出さず動かなかったが、乱の平定の後に罰せられ、紀伊国と美作国を取り上げられた。紀伊を召し上げられた後も大野城から出なかった山名義理に対して、将軍は大内義弘を送って攻めせると、義理はこれに対応しようとしたが紀伊の国人衆はこれに従わず、義理は再起を図る為に城を脱して淡路国由良へ脱した。
応永6年(1399年)大内義弘が和泉国境で挙兵した応永の乱の後、紀伊国守護職に任ぜられた畠山基国が再び大野城に入城したが、基国は応永8年(1401年)に広城を築いて移り、大野城は二男の満則に守らせた。

雑賀城:妙見山城とも。天正五年(1577)織田信長の紀伊侵攻に備え、鈴木佐大夫が築いた本拠城といわれる。
佐大夫が妙見山北端に築き、中世城下町を形成。その子である孫一(重秀とも)の時に信長との雑賀合戦が勃発し、石山本願寺の顕如上人を死守しようとした。信長の軍勢は雑賀党の鉄砲に撃ちすくめられてあえなく撤退したとされる。巷説では織田信長10万の軍勢に対して、雑賀衆はわずが3千の兵であったともいう。その時に雑賀党の老若男女が勝利を祝って踊ったのが今でも残る「和歌祭り」の中の「雑賀踊り」であるとされている。
信長の歿後、天正十三年(1585)、豊臣秀吉が6万の大軍で紀伊に侵攻。根来寺・雑賀衆らが太田城に籠もる一方で雑賀城も雑賀孫六を主将として頑強に抵抗する。しかし顕如上人から降服すべき旨の書状が届き、開城に至ったと云われている。
千畳敷とよばれた広大な平地がかつての城跡で、城を中心に城下町が広がっていた。雑賀港の背後の階段状の斜面に家が建ち並ぶ奥和歌浦を見下ろす雑賀崎に本丸があったされる。しかし戦国時代の城址地は明確にはできず、一説にその後の江戸時代に城址へ紀州藩が海の見張りをするための番所を築いたとも云われている。現在、古城の面影は一切ない。

中野城:築城年代は定かではないが室町時代に雑賀党によって築かれたと云われる。
孝子峠越えと大川峠越えの道が交差する付近で、土入川沿いの微高地に位置する。 天正5年(1577年)織田信長の雑賀攻めでは、中野城は和泉国に近く前線となって攻められ落城、弥勒寺山城に本陣を構える雑賀党に対する織田方の陣として中野城は利用された。

太田城:延徳年間(1489年~1492年)第64代国造俊連が築城したとも云われる。 天正4年太田源太夫が築いた太田城は 天正5年織田信長は雑賀を攻めると太田衆はその先導を勤める。翌年雑賀衆は太田城を攻めるが、守りの堅い太田城を攻略できずに和議となった。
天正13年には羽柴秀吉の紀州侵攻軍が、根来寺などを次々と落とし太田城に来襲、三千の先陣が紀ノ川を渡岸しようとした所を弓・鉄砲で迎撃するなど抵抗する。 容易に落ちぬとみた秀吉は備中国高松城攻めでも見せた水攻めによる攻略を実行し、約一ヶ月の籠城戦で落とした

根来城:大治元年(1126年)に覚鑁上人(かくばん)が石手荘を寄進され、大治5年(1130年)に高野山に伝法院を建てたことに始まる。 戦国時代には根来衆と呼ばれる僧兵集団を持ち、雑賀衆(さいか)とともに石山本願寺の要請を受け、たびたび織田軍と戦った。
天正13年(1585年)羽柴秀吉により焼き打ちにあい、根来寺は壊滅的な打撃を受けたが、徳川家康の時代になると紀伊国徳川氏の庇護のもと復興された。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、近畿圏の南に位置する和歌山県に足を運び、和歌山県に点在する比較的マイナーなお城11か所をおとずれ楽しみました。

なかなか地味な城跡が多く、案内板も不十分、見つけるのが一苦労、特に山城は大変苦労しました。

最後に訪れた根来字、霊場巡りで訪れたことがありましたが城跡であったこと驚きました。
次回は御坊から南、新宮までのエリアに点在する城跡を訪れたいと思います。