飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十二弾:佐賀県お城・城下町巡り観光 2017年2月18-19日 九州の小規模な国人に過ぎなかった龍造寺氏が、龍造寺家兼の時代に飛躍し、肥前で権力をふるう戦国大名となり、一時は島津氏、大友氏と並び九州の支配を分け合うが、龍造寺隆信の死後、配下の鍋島氏に実権が移る佐賀県に足を運び、比較的マイナーなお城8か所を訪れました。 18日17:30伊丹空港出発 18:50長崎空港到達、レンタカーで武雄方面に向かう。 20:00武雄駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 19日7:30レンタカーで出発、お城巡り。 千葉城:築城年代は定かではないが南北朝時代頃に千葉氏によって築かれたと云われる。 千葉氏は桓武平氏で下総国に住し、代々千葉介を称して千葉氏を名乗った一族で、千葉常胤が源頼朝の挙兵や奥州合戦で戦功を挙げ、肥前国晴気荘を与えられた。千葉頼胤のとき、元寇で九州へ下向したが討死し嫡男の宗胤も下向した。この宗胤の次男千葉胤泰が肥前千葉氏の祖となった。 肥前千葉氏は小城・佐賀・杵島三郡に及ぶ勢力を振るったが、文明年間(1469年~1487年)頃には千葉氏は内訌により分裂、少弐氏に属した晴気城の千葉胤資と大内氏に属した千葉城の千葉興常が敵対した。明応6年(1497年)大内義興は少弐政資を攻めると筑前を破棄した政資は晴気城へ逃れたが、さらに追い立てられ政資と千葉胤資は滅亡した。これによって千葉興常は肥前守護代に任ぜられた。 大内義隆が討たれ、龍造寺隆信が台頭してくると千葉氏はその支配に組み込まれるようになる。龍造寺隆信が有馬・島津連合軍と戦って敗死すると鍋島直茂が執政となり、近世佐賀藩の家臣として千葉氏は続いた。 高木城:久安年間(1145年~1151年)に高木貞永によって築城された。 高木氏の祖は藤原氏で鎌足12代の後裔藤原隆家が大宰権師として赴任したことに始まる。 南北朝時代には足利氏に属して豪族として強大な勢力を持っていたが龍造寺氏との戦いに破れて衰退した。 姉川城:築城年代は定かではないが正平15年(1360年)に菊池武安によって築かれたと云われる。その後は菊池氏の庶流という姉川友安、姉川惟安、姉川信安などが城主であった。 蓮池城:応永34年(1429年)小田常陸介直光によって築かれた小曲城がその前身である。 小田氏は常陸国小田城主であった小田氏の庶流という。 永享6年(1434年)横武頼房が少弐の勢力を回復するために挙兵したときには、小田貞光もこれに参戦して渋川満直と戦った。永享3年(1530年)大内の軍勢を田手畷で敗った少弐氏であったが、家臣の龍造寺家兼が勢力を伸ばすと天文5年(1530年)少弐資元は大内義隆の家臣陶興房に攻められ自刃して果てた。資元の子冬尚が頼ったのが蓮池城主の小田資光である。 少弐冬尚が再興すると小田政光はこれに仕え、天文14年(1545年)には水ヶ江城、天文20年(1551年)には村中城を攻めている。しかし、天文22年(1553年)小田政光が城番を務めていた村中城が龍造寺隆信よって奪われると政光の居城である蓮池城も攻められ、政光は龍造寺氏に降った。 永禄元年(1558年)小田政光は龍造寺隆信の要請によって少弐冬尚の家臣江上武種を攻め長者林で戦った。苦戦した政光は隆信に増援を求めたが隆信は援軍を送らず、政光は討死してしまった。政光戦死の報を聞いた隆信は小田氏の居城である蓮池城を急襲して攻め落とした。 蓮池城を脱して落ちていた政光の子小田鎮光・朝光・増光はその後帰参が許され龍造寺氏に従ったが、永禄11年(1568年)小田鎮光は梶峰城へ移され、龍造寺長信が多久から蓮池城に移った。長信の後は龍造寺家晴、鍋島信生(後の直茂)、江上家種の居城となった。 江上家種は龍造寺隆信の次男で鍋島直茂の嫡男勝茂を養子に迎えていた。 家種は文禄2年(1593年)文禄の役で渡海し釜山で討死しており、その後は鍋島氏が城主となった。この時代の蓮池城には天守が存在し、一つ目は天正18年(1590年)に名護屋城に移している。その後天守が再建され、元和の一国一城令により廃城となったときに佐賀城へ移されたと云われる。 承応3年(1654年)鍋島直澄が蓮池城跡地に蓮池陣屋を構え蓮池藩となった。蓮池藩は 寛永16年(1639年)佐賀藩初代鍋島勝茂の三男鍋島直澄が三万五千石余りを分与され、その後に五万二千六百二十五石の所領を分与されたもので、蓮池陣屋を構えるまでは佐賀城三ノ丸に居住していた。 綾部城:宮山城、鷹取城、などこの地に固まる複数の城の総称。 勝尾城:応永30年(1423年)九州探題渋川義俊によって築かれたと云われる。渋川氏は大宰少弐武藤氏と争いに敗れ、その大宰少弐武藤氏も明応6年(1497年)筑前国の回復を目論んだが周防国大内氏に敗れた。その後、筑紫氏が勝尾城主となり、満門、惟門、広門と三代に渡って居城となった。 天正14年(1586年)筑紫広門は北侵する島津軍と戦ったが敗れ落城した。この戦いでは弟晴門が島津の部将川上忠堅と一騎討ちを演じて相討ちとなり、広門は捕らえられて幽閉の身となった。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で広門は幽閉先から脱出して再帰を計り、旧領を奪還する。戦後秀吉から賞され、筑後国上妻郡に一万八千石余りを賜り転封となった。 基肄城:天智4年(665年)築かれた。 天智2年(663年)に唐・新羅軍と対峙した日本と百済の連合軍は海戦において大敗した。大陸からの侵攻に備えて大宰府を置き九州の各所に城を築いた。そのうちの一つが基肄城で百済から亡命した貴族の指導のもとに築かれた朝鮮式山城である。 三瀬城:築城年代は定かではないが、享禄年間(1528年~1532年)に三瀬(野田)土佐守入道宗利によって築かれたと云われる。 もともとは在地領主の三瀬氏の居城であったが、天文元年(1532年)三瀬貞家のとき、神代勝利を招いて山内諸豪族の盟主とし、三瀬城を譲ったと云われる。 神代勝利は山内の盟主として勢力を拡げ、村中城主の龍造寺隆信と戦った。永禄7年(1564年)勝利は隠居して畑瀬城へ移り、家督は嫡男の長良が継いだ。神代長良は翌永禄8年に三瀬城を改修して家臣団を集め、龍造寺氏に備えた。また長良は千布城を拠点として平野部へも進出したが、同年嫡男と娘が疱瘡によって夭折すると、この混乱に乗じて龍造寺隆信に攻められ千布城から追われた。 元亀2年(1571年)神代長良は鍋島直茂の弟小川信俊の子を養子に迎えて家督を譲り、その神代家良は天正18年(1590年)に山内から芦刈・川久保へ領地替えとなり、三瀬城は廃城となった。 17:00長崎空港到達。 19:20長最空港出発 20:35伊丹空港到達。 今回の旅行、九州佐賀県に足を運び、佐賀県に点在する比較的マイナーなお城8か所を訪れ楽しみました。 佐賀県も観光地が少ない都道府県、比較的マイナーなお城は案内板も確りあり、容易にたどり着けることができました。 九州のお城巡り、残りは熊本県のみとなりました。震災でインフラがまだまだ不十分、年末を計画しています。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十一弾:中国上海水郷古鎮(朱家角・楓涇・七宝)巡り観光 2017年2月11-12日 日本に一番近場の上海に足を運び湖水地方に点在する古民居が保存され、伝統的な生活様式が残る古鎮と呼ばれる町や村があり、特に江南地方は昔から水利に恵まれたため、運河の走る小さな水郷古鎮の朱家角・楓涇・七宝を訪れました。 11日9:30関西空港全日空で出発 11:15上海浦東空港到着、リニアモーターカー、地下鉄経由して 14:00地下鉄徐涇東下車、タクシーで朱家角に向かう。 14:30朱家角到達、散策 朱家角:朱家角は三国時代には既に存在していたという広さ4.7km2の古い小さな町で、『小橋と流水の天然風景、正真正銘の明清時代の町』と言われているそうです。伝承によると、宋、元代から朱家角には市が形成され、町全体を貫く運河によって近隣の産物が集められ、川岸に定期市が形成されたそうです。こうして商業が栄え、明・清代には江南でも比較的規模の大きな町に成長したためか、朱家角には明・清代以降の建物が多いようです。確かに町中を縦横無尽に河が流れ、36個もあるという石橋が架かっている『これぞ水郷』といった町です。 朱家角の家の多くは川を背にして道に間口を開いています。両岸の民家は川側に勝手口を設けており、商店まで行かずに荷を運ぶ舟から直接物を購入するそうです。 古鎮には南北を貫く明清時代の古い街があり、肩を並べて三人しか通れないほど狭い通りです。両側には赤い色の門の老舗が立ち並んでいます。街は南大街と北大街からなり、南大街は特色のある小吃店を中心として、北大街は観光工芸品、骨董、書画作品の販売店を中心として分かれています。今の古い街はもうすでに「休養、旅行、買い物」三つのファクションを一体化した繁華街になりました。 |