飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十五弾:中国南京観光
2017年3月18-20日
  

アジアの大国中国に足を運び、雄大な長江と明代の城壁が自慢で北京、西安、洛陽と並ぶ中国四大古都の一つで人口密度が高い大都市、長江の河口から360kmさかのぼった盆地に位置する南京を訪れました。

18日16:15関西国際空港全日空で出発
17:50上海浦東空港到達、リニアモーターカー、メトロ経由して上海駅下車
17:00上海駅駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
19日9:00上海駅高速鉄道で出発
11:00南京駅到達、散策。
南京の歴史は三国志の時代から始まります。北京、西安、洛陽に並ぶ中国4大古都の一つとして栄え、紫金山には明代の皇帝の陵墓が築かれています。三国志ファンは必見の場所なんですよ。近代には、孫文のお墓(中山陵)が築かれました。また、戦時中は旧日本軍による南京大虐殺があった場所として世界的に知られています。

南京総統府 (天王府跡): 辛亥革命から国民党の民族主義政誕生にいたるまで、近代中国の激動の政治史において重要な役割を果たしてきた宮殿です。600 年以上に渡って南京総統府 (天王府跡) は、中国国家における政界の要人たちの執務室として使用されてきました。今日では 20 世紀中国の歴史をテーマにした博物館になっています。皇帝時代の建物群をめぐりながら骨董品や写真、資料などの展示品を見学し、広大な庭園を散策してください。

梅園新村記念館:1946年5月から翌年の3月まで、周恩来らの共産党代表団が国民党との交渉を行うために滞在した場所です。構内には、当時の建物に周恩来の執務室等が再現されているほか、史料陳列館があります。

南京博物館:多くの中国王朝の都が置かれた南京の歴史を知ることが出来る充実した展示内容です。上海の博物館も見学したことがありますが、やはりいくつもの中国王朝の都が置かれた南京だけあって、出土文物など国宝クラスの展示品が多く、見所満載の博物館です。

中山陵:日本人に馴染み深い中国の近代政治家といえば孫文。日本にも留学経験のある革命家です。彼のお墓があるのも南京なんですよ。明孝陵と同じ紫金山内にあり、392段の石段を登って見学します。夏場はかなり厳しい見学コースかも。中国では修学旅行で行く定番スポットらしく、いつ行っても学生の団体さんであふれています。

霊谷寺:中国人には寺として知られ、中山陵の東にあります。6世紀には、今の明の初代皇帝の墓に本来ありました。14世紀後半に現在の場所に移されたのです。梁を使わずに建設された無梁殿がここの名所です。ブロックを組み合わせて陶製の瓦屋根を支えています。全部で5つのアーチがあり、中央にある最

明孝陵:明朝を造り上げた朱元璋と皇后が眠る陵墓。世界文化遺産の一つです。棺や周辺エリアはまだ発掘されていないそうで、発掘の申請を出してはいるものの許可が下りていない状態なんだそう(2012年3月現在)。どんな歴史ミステリーが解明されるのか、ナビも気長に注目していきたい場所です。ユニークな動物の石像はもちろん当時作られたもの。周囲は梅の名所としても有名です。

美齢宮:中国の江蘇省南京の、東部にあり、蒋介石が建てた主席官邸。紫金山の南麓に位置し、孫文の陵墓である中山陵と世界文化遺産である明孝陵の南隣に位置する。◇1931年に建造され、当時の名称は国民政府主席官邸だったが、蒋介石と夫人の宋美齢がしばしば宿泊していたので美齢宮と呼ばれるようになった。現在は資料館として再現され、入り口には宋美齢が使用していたクラシックカーが展示されている。1992年3月、南京市文物保護単位に指定された。

18:00南京南駅付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
20日8:00歩いて北に向かう。

雨花台風景名勝区:中華門から南へ、南京市郊外の高台に、広大な雨花台風景名勝区があります。この日は日曜日で、大勢の市民や観光客で賑わっています。ここは、国民党が統治した中華民国時代に、敵対していた共産党員等が処刑された場所で、国共内戦に勝利した解放後の1950年代になって、革命戦士の冥福を祈るため建設されたのだそうです。

中華門:明代に築かれた城壁の一部。数々の戦乱をくぐり抜けてきた門が当時のまま残されています。城壁としての強度を保証するため、不良品対策として積まれているレンガ一つひとつに制作者の名前が刻まれているんですよ。しかも、中国全土、異なる年代のレンガが使われているため、刻まれている文字の書体がバラバラなのも興味深い点。生々しい歴史を間近で見ることができます。

太平天国歴史博物館:太平天国に関する資料を集めた歴史博物館。天王洪秀全の胸像をはじめ、洪秀全の玉衣や玉璽、また太平天国軍が使用した大砲など当時の遺品や資料を数多く展示している。なお、当所は清朝なか ばまで「瞻園」と呼ばれていた庭園で、太平天国時代、東王楊秀清の宮殿(東王府)として使われていた。

夫子廟:上海でいえば豫園にあたる下町観光スポット。孔子を祀る「夫子廟」と、その周辺一帯の繁華街のことで、廟は合格祈願に訪れる若者でにぎわっています。周辺には食べ歩きやお土産探しができるお店もいっぱい。オープン100年以上を超える老舗も見かけます。地元の人いわく、来るなら夜がベスト。ライトアップされて、夕食やお酒を楽しむ人たちでにぎわうんです。 」と、その周辺一帯の繁華街のことで、廟は合格祈願に訪れる若者でにぎわっています。周辺には食べ歩きやお土産探しができるお店もいっぱい。オープン100年以上を超える老舗も見かけます。地元の人いわく、来るなら夜がベスト。ライトアップされて、夕食やお酒を楽しむ人たちでにぎわうんです。

メトロで西に向かう。

侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館:南京大虐殺の記念館です。遺骨や元日本兵から寄贈された資料、パネルなどで旧日本軍が起こした惨劇を展示。ここを訪れたことがある日本人は、考え方の違いを問わずほぼみんな「一度見ておいたほうがいいかもね」という感想を持つようです。ニュースやネットで見聞きしたことに頼らず、一度自分の目で見て、自分がどう思うのかについてじっくり考えてみましょう。平和について改めて考えさせられるはずです。

12:00南京南高速鉄道駅到達。
13:10南京南駅高速鉄道で出発
14:20上海虹橋駅到達、メトロで上海浦東空港に向かう。
16:30上海浦東空港到達。
19:05上海浦東空港全日空で出発
22:00関西国際空港到達。

今回の旅行、アジアの大国、中国に足を運び、中国四大古都の一つ、南京を訪れ、散策し楽しみました。
南京大虐殺で有名な南京、反日感情が強いと思われがちだが、町の人々は結構親切、親日の様に感じました。
侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館は新しくなり立派、日本の多大な寄付でも成り立っています。日本は南京市に多大な援助を行っているみたいです。現在の南京の人々は理解し過去の事件を忘れ日本人と温かく接しているようです。

今回の2つのホテル、両方とも日本から持参した地図の位置が異なっており、タクシー運転手、町の人々に聞いて何とかたどり着くことができました。
過去何回も中国を訪れたことがありますがホテルの位置、日本で十分調べておくことが賢明です。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十四弾:栃木県お城・城下町巡り観光
2017年3月11-12日
 
 
北関東地方の源頼朝、木曾義仲、そして平家が争う渦中で、頼朝についた小山氏が力をつけ、下野守護となる。宇都宮氏、那須氏と領地を分け合うが、度重なる争いで衰退し、小規模な勢力が割拠する時代に突入した栃木県に足を運び比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

11日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:30東京駅到達、タクシーで帝国ホテルに向かう。
17:00帝国ホテルタクシーで虎ノ門ヒルズに向かう。
17:30講演会参加
21:00タクシーで帝国ホテルに向かう。
21:30帝国ホテル到達、就寝。
12日7:30帝国ホテルタクシーで八重洲に向かう。
8:00レンタカーで出発、栃木県佐野方面に向かう。
9:00佐野市到達、栃木県宇都宮から南エリアに点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れる。

佐野城:慶長7年(1602年)佐野信吉によって築かれた。 信吉は新たに佐野城を築城して唐沢山城より城下町を移したが、城は完成を見る事無く、信吉の実兄の伊予国宇和島藩主富田信高の改易に連座して所領没収となった。

唐沢山城:天慶3年(940年)藤原秀郷によって築かれたのが始まりとされる。 秀郷は平将門が関東を制圧した天慶の乱を鎮圧した功によって、下野に勢力を張った。
延徳3年(1491年)佐野氏中興の祖といわれる佐野盛綱が城を修築した。 戦国時代には小田原北条氏と越後上杉氏の狭間にあって苦慮しながら、上杉謙信による攻撃を10回にわたって退けるなど堅城ぶりを発揮した。
しかし、天正13年(1585年)当主佐野宗綱が長尾顕長の足利に攻め入ろうとして、須花坂を越えようとしたとき、鉄砲に当たって討死した。その後家中は動揺し北条氏康の五男氏忠が佐野家の養子となって家督を継ぐことで北条氏と和解する。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、先の当主宗綱の弟房綱は豊臣方となり唐沢山城の城代大貫氏を討って唐沢山城に入った。 これにより秀吉から所領三万九千石を安堵される。 その後、房綱は秀吉の家臣富田左近将監の次男信種を養子に迎え、信種は佐野信吉と改名した。
慶長7年(1602年)信吉は佐野城を築いて居城を移したため、唐沢山城は廃城となった。

皆川城:築城年代は定かではない。寛喜年間(1229年~1232年)に皆川宗員によって築かれたと云われるが、これは近くにある白山台であったとも考えられている。この先の皆川氏は元享3年(1323年)には断絶している。 永享12年(1440年)には長沼秀宗が皆川城を本拠にしてしたことから、この頃には築かれていたようである。
皆川広照は宇都宮氏に従っていたが、北条氏政・氏直父子が大軍を率いて北上してくるとそれに降った。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、皆川広照は小田原城に籠城したが、徳川家康を介して秀吉に降り助命された。
天正19年(1591年)皆川広照は栃木城を築いて居城としたが、家康の六男松平忠輝の家老となり、忠輝が信濃国川中島へ移るに従い信濃国飯山へ転封となっている。

多気城:康平6年(1063年)宇都宮宗円によって築かれたと云われるが定かではない。 「天正4年(1576年)の12月2日に着工して同月25日に落成した」との記載が残っているが、その期間からすると改修工事と思われる。
戦国時代末期の宇都宮国綱は北条氏の脅威から一時的に宇都宮城を離れ多気山城に居城を移し、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に、宇都宮城に戻ったともいわれる。

石那田城:石那田館は田川と赤堀川に囲まれた平地に築かれている。長方形に近い館で北東側がやや斜めになった五角形の館であったようだが、現在北側は日光宇都宮道路によって消滅している。土塁は西側に残っており、南は田川に面した崖地になっている。詳細不明。在地豪族の小池氏の館と推測されている。

宇都宮城:築城年代は定かではないが宇都宮氏によって築かれた。 鎌倉時代には館として機能していたが南北朝時代に城郭として拡張されていく。
宇都宮氏は慶長2年(1597年)22代国綱の時、突然豊臣秀吉によって改易された。 改易の理由は諸説あり定かではないが、国綱の養子問題について、内乱を引き起こし秀吉の命に背いたことが要因とされる。
宇都宮氏の後は城代として浅野長政が入城するがすぐに会津若松から蒲生秀行が入封する。 蒲生秀行は4年後に会津若松に復帰して替わって大河内氏、奥平氏と替わる。
元和5年(1619年)本多正純が十五万石で入封し近世城郭へと大改修された。 元和8年(1622年)本多氏は有名な「宇都宮城釣天井事件」の俗説が巻き起こる程、突然の改易となり、正純は出羽国本荘に流された。その後は譜代大名が目まぐるしく入れ替わる。
元和8年(1622年)下総国古河より奥平忠昌が十一万石で入封、寛文8年(1668年)昌能の時、出羽国山形に転封。
寛文8年(1668年)出羽国山形より(奥平)松平忠弘が十五万石で入封、天和元年(1681年)陸奥国白河へ転封。
天和元年(1681年)陸奥国白河より本多忠平が十一万石で入封、貞享2年(1685年)大和国郡山へ転封。
貞享2年(1685年)出羽国山形より奥平昌章が十万石で入封、元禄10年(1697年)昌成の時、丹後国宮津へ転封。
元禄10年(1697年)丹後国宮津より阿部正邦が十万石で入封、宝永7年(1710年)備後国福山へ転封。
宝永7年(1710年)越後国高田より戸田忠真が七万八千石で入封、寛延2年(1749年)忠盈の時、肥前国島原へ転封。
寛延2年(1749年)肥前国島原より松平忠祗が六万六千石で入封、安永3年(1774年)忠恕の時、肥前国島原へ転封。
安永3年(1774年)肥前国島原より戸田忠盈が七万八千石で入封、以後明治に至る。

飛山城:築城年代は定かではないが永仁年間(1293年~1299年)に芳賀高俊によって築かれたと 云われる。 芳賀氏は下野国芳賀郡大内荘の発祥で、清原高澄の子高重が花山天皇の怒りに触れて寛和元年(975年)芳賀郡大内荘に配流となって居住したことに始まる。南北朝時代には宇都宮氏に従って北朝方として南朝方と対峙、暦応4年(1341年)南朝方の春日顕国によって攻められ、飛山城は落城、しかし康永年間(1342年~1345年)頃には再び芳賀氏の手に戻った。天正18年(1590年)の小田原征伐の後に廃城となった。

児山城:築城年代は定かではないが建武年間(1334年~1338年)に児山朝定によって築かれたと云われる。 多功朝定は宇都宮頼綱の四男で多功城主の多功宗朝の二男(または三男)で、児山郷を領して児山城を築き児山氏の祖となった。
永禄元年(1558年)上杉謙信が多功城を攻めた際、児山兼朝が上杉方の佐野豊綱と戦って討死し、児山城は廃城となった。

祇園城:築城年代は定かではない。一説に平安時代末期に小山政光によって築かれたとも云われるが確証はない。 小山氏(おやま)は藤原秀郷の末裔太田政光が下野国都賀郡小山を領し小山氏を名乗ったことに始まる。

南北朝時代には小山朝氏・氏政は北朝方に属す。康暦2年(1380年)小山義政の時には宇都宮氏との領地争いが起こり、鎌倉公方足利氏満の再三の制止しにもかかわらず、河内郡裳原で宇都宮基綱と戦い基綱は討ち死にした。これに対して鎌倉公方は義政を討つよう関八州に命を下し、義政は各地で応戦するも好転せず永徳2年(1382年)祇園城を焼き払って櫃沢城へと逃れるも更に攻められ義政は自害し、子の若犬丸は奥州へ逃れた。若犬丸も奥州で挙兵したが再興はかなわず応永4年(1397年)会津で自害し小山氏は滅亡した。この時代の小山氏の本城は祇園城ではなく鷲城であったという。

その後小山氏は同族の結城泰朝が継ぎ祇園城を本城として代々続く。戦国時代には北条氏に属していたが、豊臣秀吉による小田原征伐後に所領を没収され、所領は結城秀康に与えられた。

徳川家康が関東へ移封となると本多正純が三万三千石で入封したが、元和5年(1619年)宇都宮へ転封となり廃城となった。

鷲城:築城年代は定かではない。小山氏の居城で小山義政は祇園城、長福城、中久喜城などの支城を配して鎌倉公方足利氏満と戦った

17:30東京駅到達。
18:10東京駅新幹線のぞみで出発
20:30新大阪駅到達。

今回の旅行、北関東の栃木県に足を運び、宇都野宮から南のエリアに点在する比較的マイナーなお城10か所をおとずれ楽しみました。
土曜日は東京で講演会に出席し、翌日はレンタカーで栃木県に向かいました。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十三弾:山口県お城・城下町巡り観光
2017年3月4-5日
 

中国地方の最西端、周防、長門からなり、周防の大内氏が力をつけ、防長両国に基盤を築き、大内氏の勢力拡大は北九州にまで及んだが、尼子氏との戦いで衰退し、やがて防長の支配は毛利氏に移り変わった山口県に足を運び、比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

4日17:05新大阪新幹線のぞみで出発
18:57新山口駅到達、レンタカーで防府に向かう。
19:30防府駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
5日7:00レンタカーで出発、反時計回りで山口県西エリアに点在するお城を巡る。

築山城:室町時代に大内教弘によって築かれたと云われる。 大内氏は守護大名として次第に勢力を伸ばすにつれ大殿大内氏館だけでは手狭となった為、別邸として築山館を築いた。
もともとは大石を積み上げた石垣で周囲を囲っていたが、江戸末期に毛利氏が長門国萩城から山口城に居城を移したときに大石を運び出した為、現在の土塁のようになったと云う。

大内氏館:正平15年(1360年)頃に大内弘世によって築かれたと云われる。 弘世は京に似た山に囲まれた盆地として山口を選地しここに館を築いた。大内義隆が重臣陶晴賢によって討たれ、その後、陶氏を滅ぼした毛利氏によってこの館跡に龍福寺が建立された。

山口藩庁:元治元年(1864年)毛利敬親によって築かれた。 防長二カ国三十六万石の大名であった萩藩毛利十三代敬親によって築かれた。
毛利敬親は文久3年(1863年)湯田温泉への日帰り湯治と称して萩城から山口へと拠点を移した。 これは保守派に取り囲まれた萩では攘夷を実行できないことと、北に偏った萩では交通の便、海からの防御の面で不都合があったためである。 幕府に対しては山口屋形として申請していたが、背後には中世大内氏の詰城であった高嶺城があり、表には水堀を配していた。

高嶺城:弘治3年(1557年)大内義長によって築かれた。
弘治元年(1555年)陶晴賢が厳島合戦で毛利元就に敗れると、義長は毛利氏に備えて急拠築城することとなったが毛利氏の侵攻が早く完成を見ないまま籠城することとなる。 大内氏に属してした諸将が毛利氏に寝返るなど次第に不利となり義長は城を捨てて長門国且山城に逃走し長福寺で自刃した。
その後毛利氏は市川経好等を城番として置き城を補修した。 永禄12年(1569年)毛利氏は豊後国大友氏と筑前国立花城にて対峙したが、大友氏は大内義興の弟高弘の子大内輝弘に兵を与えて山口に侵攻させた。このとき高嶺城は市川氏の留守兵がわずかに守るだけであったが、市川経好の正室市川局が籠城兵を指揮して毛利の援軍が来るまで持ちこたえた。 輝弘は茶臼山に退きそこで自刃して果てた。

荒滝城:
築城年代は定かではない。大内氏の重臣で後に毛利家臣となった内藤隆春の居城と伝えられる。 内藤隆春の姉が毛利元就の嫡男毛利隆元の正室尾崎局であった。陶晴賢による大内義隆への謀叛には同調せず、厳島合戦の後は毛利氏に従って各地を転戦し、大内義長滅亡後は長門守護代となった。隆春には嫡子がいなかったことから宍戸元秀の二男元盛を養子に迎えている。この元盛が佐野道可と名乗って大坂城に籠城した人物である。

清末陣屋:万治2年(1659年)毛利元知によって築かれた。 長府藩毛利綱元は承応2年(1653年)毛利秀元の遺言により秀元の二男元知を一万石で分地し元知は万治2年(1659年)陣屋を築いた。
享保3年(1718年)元平の時、長府藩元矩が嗣子なく元平が匡広と改名して長府藩を継ぎ清末藩は長府藩と合併した。
享保14年(1729年)匡広の二男正苗に一万石が再分地され清末藩が再興した。

勝山城:築城年代は定かではないが永和4年(1378年)大内氏の家臣永富上総介嗣光が在城したのが始まりとされる。続いて応永15年(1408年)に相良民部少輔が在城したと云う。
大永7年(1527年)には内藤興盛の居城となり、この興盛の時に南の尾根続きにある青山城主高森内膳之助と「青山くずれ」と呼ばれる争いが起こった。(「青山くずれ」に関しては青山城を参照)。内藤興盛は後に長門国守護代となり櫛崎城へと移った。
陶晴賢を厳島合戦で敗った毛利元就はすぐさま周防国・長門国へ侵攻し、弘治3年(1557年)には周防国高嶺城に攻め寄ると、大内義長は内藤隆世(内藤興盛の孫)を頼って且山城へ逃れた。毛利氏の軍勢は且山城を取り囲んで攻め寄せ、外城を落とし本丸を残すのみとなったところで城内に矢文を放ち「内藤隆世は毛利父子に遺恨があるので自決すれば、義長のことは問わぬ」と伝えた。 隆世は切腹し義長は城を出て兄である大友義鎮を頼って九州を目指したが、叶わず長福院(現在の功山寺)にて自刃した。
その後は南条宗勝、山田重直が在城したという。

勝山御殿:勝山御殿は南を除く三方を山に囲まれた谷間の奥地に築かれている。 北に且山城、西に青山城、北東には四王司山城と中世城郭に囲まれた地である。
以前訪れたときは公園整備中であったが、現在は公園も完成しきれいに整備された御殿跡と案内板が設置されていた。
北から南にかけて本丸(奥)、本丸(表)、二ノ丸、三ノ丸と並び、西と南面が石垣となっている。

串崎城:天慶3年(940年)に藤原純友の配下稲村平六景家が在城していたと伝わるが定かではない。
戦国時代には大内義隆の家臣内藤隆春が在城していた。
関ヶ原合戦後、毛利輝元は防長二カ国に減封となり萩城を居城とした。これによって毛利秀元は六万石を分知されて櫛崎城を居城とし長府藩となった。 毛利秀元は毛利元就の四男穗井田元清の長子で、長らく嫡男に恵まれなかった毛利輝元の養子となった人物である。後に輝元に嫡男秀就が誕生したことから別家をたてた。
元和元年(1615年)幕府による一国一城令によって櫛崎城は廃城となり、長府藩は現在の豊浦高校の敷地に居館を構えて藩庁とした。元治元年(1864年)十三代毛利元周のとき勝山御殿を築いて居城を移している。

霜降城:治承3年(1179年)七代厚東武光によって築かれたと云われる。 厚東氏は物部氏の末裔を称し、初代厚東武忠が棚井の地に住んだことに始まるとされ厚東氏館を居館としていた。
十四代厚東武実は長門守護職となり勢力を拡げるが、その後大内氏と争うようになり、十七代厚東義武のとき延文3年・正平13年(1358年)大内弘世によって霜降城は攻め落とされ、厚東義武は城を逃れて九州へ落ちていった。

18:00終了。
18:46新山口駅新幹線のぞみで出発
20:38新大阪駅到達。

今回の旅行、山口県の西エリアに点在する比較的マイナーなお城10か所を巡り楽しみました。
山口県は道も広く、車も少なく、渋滞に絡まずスムーズに走ることができました。
次回は東エリアに点在するお城を巡りたいと思います。