飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十七弾:ウズベキスタン観光
2017年4月28日−5月5日
 

古都サマルカンドとシルクロードの国々の中央アジアに足を運び、青の都、イスラーム世界の宝石、東方の真珠など、多くの異名を持ち、常にシルクロードの中心都市としての道を歩んできた古都サマルカンドで有名なウズべキタンスを訪れました。

28日7:30関西空港ジェットスターで出発
8:55成田空港到達。
11:05成田空港ウズベキタンス航空で出発
16:35タシケント到達
18:40タシケント国内線で出発
21:00ウルゲンチ到達、バスでホテルに向かう。
21:50ヒヴァのホテル到達、就寝。

29日9:00バスで出発、カラカルパクスタンに向かう。
11:00カラカルパクスタン到達観光

カラカルパクスタン:カラカルパクスタン共和国の面積は約16.5万km2。ウズベキスタン国土の37%を占めている。
独自の憲法を持ち、国旗、国章、国歌を制定しているほか、国歌語として、カラカルパク語とウズベク語を規定している。人口の約3割がチュルク系カラカルパク人で、最多はウズベク人、他にカザフ人やトゥルクメン人、ロシア人が住んでいる。
共和国の北部には縮小する湖と呼ばれるアラル海が位置し、20世紀最大と言われる環境問題を抱えている。経済は綿花、米、メロンなどの農産物の生産に支えられ、かつては盛んだったアラル海での漁業は行われていない。
首都のヌクスは、カラカルパク語でノキス(Nokis)。町の作りは広くて平面的でソ連的である。ウズベキスタンを旅行する終点又は始発点と言える。サラトフやアルマトゥからの電車が開通し、モスクワへ定期便も運航している。
ヌクスは砂漠の中の環境危機地域であるが、花や緑があるオアシスでもある。町には色々なホテルも数多い。カラカルパク料理には、ジュゲリ・グルトゥック(肉の小団子が入ったスープもの)、ジズ(羊肉の料理)、雌馬の乳から作られた酸乳の入ったスープなどがある。
ヌクスの町は、他の都市に比べると歴史はまだ75年と浅いが、賑やかである。ヌクス地下に文化層があり、紀元前4世紀〜紀元4世紀に相当する物だと考古学者が明らかにした。ホラズムのオアシス研究に大きな貢献した民俗学者のI.サヴィツキーが知られている。
また共和国内には、アヤズ・カラをはじめとする遺跡が1,000ヶ所以上あると言われている。古代ホラズム文化を生み出したアムダリヤ川が、流れを変える度に人々は城を造り替えなければならかったのだ。現在、ヒヴァのイチャン・カラを含め、古代ホラズム地方の遺跡を囲む“ゴールデン・リング”の道は始まる。考古学研究、観光開発も期待される地域である。

トプラク・カラ:1940年代にアムダリヤ川の下流に東側に、数百mに渡って点在する多数の都城跡がる発見された。カラとは城塞の意味。トプラク・カラ(1〜4世紀)直角形に近い形をした8〜9mの土の防壁がある。注目するのは、都市の存在時に絶え間なく増築されていた寺院。宮殿の大部分は華麗な施設や文字模様の壁の聖堂から成り立っている。

12:00昼食、伝統的な移動式住居、ユルタで食事。

13:00アヤズ・カラ:アヤズ・カラ(6〜7世紀)四角い形をし、平たい丘に日が当たるように三方に高い断崖がある。土を固めて日干ししただけの焼いていない煉瓦で建てられている。

14:00バスでヒヴァに向かう。
16:00ヒヴァ到達。
18:00ヒヴァの夕景鑑賞
19:00夕食
21:00ホテル到達就寝。

30日ヒヴァ観光
ウズベキスタンの都市ヒヴァ(ヒワ、ヒバ)は、首都タシケントの西約750km、ウルゲンチ市から南西に35kmのアムダリヤ川の下流のオアシスの町です。古代ペルシャ時代からカラクム砂漠への出入口として繁栄しました。
町は外敵を防ぐために外壁と内壁の二重の城壁に守られており、内側の城壁に囲まれた内城イチャン・カラには20のモスク、20のマドラサ、6基のミナレットなど多くの遺跡が残されています。
1969年には全体が『博物館都市』に指定されて、1990年にはユネスコ文化遺産に登録されました。
『中央アジアの真珠』とも謳われるヒヴァは、いかにも古いイスラムの町という印象を受けますが、ペルシャなどの周辺諸国の攻撃によって何度か破壊されているので、現在見ることができるのは17世紀から18世紀に整えられた建造物です。

オタ・ダルヴァザ門(西門):ヒヴァのイチャン・カラの正門かつ観光バスの入り口、アタ・ダルヴァザ門(西門)です。
アタとは『お父さん』の意味で、直訳すると『父の門』です。
1920年にヒヴァが赤軍によって解放されたのちに壊されましたが、1975年に修復されました。
門は2本のミナレットのような塔で造られていて、門をくぐる城壁に土産屋やガイドの詰め所がある。

ムハンマド・アミン・ハーン・メドレせ:ヒヴァのイチャン・カラの西門を入ってすぐ右手の、カルタ・ミナルのすぐ近くにあるムハンマド・アミン・ハーン・マドラサ(ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ)です。
ムハンマド・アミン・ハーンの命で1852年に完成した、中央アジアで最も大きな規模のマドラサです。
広さは71.7m×60m、中庭の広さは38m×38mあります。

カルタ・ミナル:カルタ・ミナルのカルタとは『短い』という意味で、直訳すると『短い塔』になります。
アタ・ダルヴァザ門(西門)を入ると、すぐ右手に見えます。
青の彩紬タイル模様で覆われた、ヒヴァで一番カラフルな美しい塔ですが、残念ながら未完成品です。
当時のムハンマド・アミン・ハーンが中央アジアで最も高い109mのミナレットを建てようと、1852年に着工されました。

タシュ・ハウリ宮殿:ヒヴァのイチャン・カラの東門近くにあるタシュ・ハウリ宮殿です。
タシュ・ハウリとは『石の庭』の意味で、アラクリ・ハーンによって1830年から1838年にクフナ・アルクに匹敵するものとして建てられた宮殿です。
ヒヴァの中でも最も豪華なタイルや柱で飾られているそうです。
宮殿は公務を行なう謁見や儀式の場、宴会やお客を接待する場、アルズ・ハウリと呼ばれる裁判所とハーレムに分かれています。
また、中庭にはユルタという丸テントを建てて、遊牧民族のお客さんたちをもてなしていたそうです。

クフナ・アルク:ヒヴァのイチャン・カラの西門近くにあるクフナ・アルク(キョフナ・アルク)です。
17世紀に建てられた、ハーンの居城です。
クフナ・アルクとは『古い宮殿』という意味で、新しくタシュハウリ宮殿が完成した後に区別する意味でこう呼ばれるようになりました。
クフナ・アルクは要塞で囲まれており、この中にハーンたちによって建てられた執務のための公邸、くつろぎの間、夏と冬のモスク、ハーレム、兵器庫、火薬工場、さらに造幣所まであったそうです。
入ってすぐの場所には、罪人に行われた刑罰を再現した絵や、拷問に使われた道具が展示されています。

昼食
ヒヴァ観光

パフラヴァン・マフムド廟:ヒヴァのイチャン・カラにある、一番大きな青いドームが鮮やかなパフラヴァン・マフムド廟です。
パフラヴァンとはペルシャ語で『英雄』『力士(レスリング選手)』という意味です。

ジュマ・モスク:ヒヴァのイチャン・カラのほぼ中心に位置するジュマモスクです。
ジュマとは『金曜日』のことで、イスラム教では金曜日が休日に当たるため、多くの人が礼拝に集まります。
10世紀に建てられたモスクですが、何回もの修復工事を繰り返し、18世紀末頃に現在の形になったそうです。
広さは55×46m、高さは5mで、3.15mの間隔で212本の柱が立っていて、明かり窓付きの天井とシンプルな漆喰の壁に囲まれています。
この間隔と本数は、説法者から全員の顔が見えるように、計算されて決められたそうです。

イスラーム・ホジャ・ミナレット:北側の正面入り口は高さ33mのミナレットに面しています。
ミナレットの中には81段の階段があり、上まで登ることもできます。

夕食:ヒヴァ王朝の夏用宮殿「トザボーグ・パレス」
バスでウルゲンチに向かう。
21:00ウルゲンチ空港出発。
22:00ブハラ到達、ホテルに向かう。
22:30ホテル到着就寝。
1日8:30バスで出発、ブハラ観光

ブハラ:ウズベキスタンの都市の一つブハラは、サンスクリット語で『修道院』を意味しています。
イスラム王朝の庇護の元、優秀な宗教家や科学者が集まって、一大都市を形成しました。
しかし、1220年のチンギス・ハーンの来襲でほぼ壊滅してしまいました。
その後、16世紀のシャイバニ朝の時代にブハラは復興し、再び多くのモスクやマドラサが建築されました。
そして20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれていて、中央アジアのみならず、イスラム世界全体の文化的中心地として繁栄を誇っていました。
ブハラは、ザラフシャン川下流域のオアシス地帯に位置し、その中心の都市になっています。
ブハラの町は新市街と旧市街とに分かれ、旧市街は2000年にユネスコ世界文化遺産に認定されました。
よって、観光の見所は旧市街に集中していると言えます。

イスマイール・サマニ廟:ウズベキスタンはブハラにある、イスマイール・サーマーニ廟(イスマーイール・サマニ廟)です。
中央アジア最古のイスラム建築で、どれくらいの古さなのかというと、建造されたのが892年から943年にかけてだそうです。
9世紀の終わりにブハラを占領して都としたサーマーン朝のイスマイール・サーマーニが、父親のために建てた霊廟でしたが、後で彼や彼の息子も葬られたので、結局サーマーン朝の王族の霊廟となりました。
サイズは9m四方の可愛い大きさで、壁の厚さが1.8m、日干しレンガを積み上げた構造です。
モンゴル軍が来襲した時はほとんどの部分が土に埋まっていて、周囲がお墓だったこともあって、モンゴル軍に気付かれることはありませんでした。
おかげで他の建築物の大部分が破壊されたブハラにあっても、壊されること無く残る事ができました。
発掘されたのはソ連時代の1925年です。

アルク城:ウズベキスタンはブハラの旧市街に位置しているアルク城です。
このアルク城辺りが古代ブハラの発祥の地だと言われ、少なくとも紀元前4世紀頃から存在していたようです。
アルクというのは『城塞』を意味し、歴代ブハラ・ハーンの居城でした。
7世紀にはフタ・ハウタンという女王が、このアルク城砦でアラブと戦ったそうです。
モンゴル軍が襲来してきた時は、多くの住民がアルク城に立てこもって抵抗しましたが、結局チンギス・ハーンによって大虐殺され、城も破壊されてしまいました。

カラーン・ミナレット:ウズベキスタンはブハラのシンボル、カラーン・ミナレット(カリャン・ミナレット)です。
1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーンに建てられたミナレットです。
カラーンとはタジク語で『大きい』という意味で、その名のとおり高さは46mもあり、土台部分は10mも地下に埋められています。
色はほぼ茶色一色です(灯火用窓の下の一層だけ青いタイル)が、日干しレンガの積み方を変えて14層の帯状に模様が付けられていて、とても手の込んだ凝った作りの建物です。
ブハラの町を徹底的に破壊したチンギス・ハーンも、このカラーン・ミナレットだけは壊さずに残しました。

カラーン・モスク:カラーン・ミナレットとつながっているカラーン・モスクは、1514年のシャイバニ朝時代に建造された、ブハラで最大のモスクです。

ミル・アラブ・メドレせ:ウズベキスタンはブハラにあるミル・アラブ・マドラサ(ミル・アラブ・メドレセ)です。
カラーン・モスクの真正面に位置していて、1536年にウバイドゥラ・ハーンによって建てられたマドラサです。
青と白のモザイクタイルからなる植物文様と文字文様を組み合わせた、典型的な末期ティムール様式の装飾のマドラサです。

丸屋根で覆った交差点のバザール「タキ」自由散策

ウルグベク・メドレせ:ウズベキスタンのブハラにあるウルグ・ベク・マドラサ(ウルグ・ベク・メドレセ)です。 ティムールの孫のウルグ・ベクが1418年に建設したマドラサで、中央アジアでは現存する最古のマドラサです。
ブハラでは唯一のウルグ・ベクゆかりの建築物です。

アブドゥールアジス・ハ―ン・メドレセ:ウズベキスタンのブハラにあるアブドゥールアジス・ハーン・マドラサ(アブドゥールアジス・ハーン・メドレセ)です。
ウルグ・ベク・マドラサの向かいに位置していて、ウルグ・ベク・マドラサが建てられてから200年以上も経って建設された神学校です。

昼食
ホテルに戻って休憩
17:00バスで出発
ラビハウズ:ウズベキスタンのブハラのオアシス、ラビハウズです。
ハウズとは石垣でキレイに四角く取り囲んだ『池』のことです。
ブハラは200近くのハウズがあった水の都でしたが、改革の後にソ連時代にほとんどが埋められてしまって、現存するハウズは6つだけだそうです。
なお、水の都というワリには水がキレイでなく不衛生で、よく疫病が流行っていたそうです。
このラビハウズは1620年に作られた46m×36mの大きさの池で、『力ずくのハウズ』と呼ばれていました。

ナディール・ディヴァンべギ・メドレせ:ウズベキスタンのブハラにあるナディール・ディヴァンベギ・マドラサ(ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ)です。
1622年にブハラ・ハーン国の大臣ナディール・ディヴァンベギによって建てられたマドラサで、ラビハウズの前にあります。

マゴキ・アッタリ・モスク:ウズベキスタンのブハラにあるマゴキ・アッタリ・モスクです。
地中に埋もれていたのを1936年に発見され、今でも周囲の地面よりも5mほど低い位置にあります。
マゴキとは『穴の中』という意味です。
モスクの中ではブハラで最古だそうです(全部の建物の中ではイスマイール・サーマーニ廟が最古)。

夕食。ブハラ民族舞踊ショーを鑑賞しながら食事
20:00ホテル到達、就寝
2日7:00バスで出発
シャフリサーブスに向かう

シャフリサーブス:『緑の街』と言う意味を持つシャフリサーブス(シャフリサブス)は、遠くにザラフシャン山脈が見える谷間の小さな町で、かつては緑豊かなオアシス都市でした。
古くから『ケシュ』という名で知られており、7世紀には三蔵法師も訪れたことがあるそうです。
シャフリサーブスはゾグディアナの古都で、ティムールの生まれた場所として有名です。
ティムールはサマルカンドにも劣らない雄大な建築物をシャフリサーブスに建てましたが、16世紀後半にブハラのアブドゥール・ハーンによってほとんどの建物が破壊されてしまったそうです。
そのせいか、あまり派手さはないですが、静かで落ち着いた観光地だという印象を受けました。
なお、シャフリサーブス歴史地区は、2000年にユネスコ世界文化遺産に認定されています。
昼食
シャフリサーブス歴史地区観光

アクサライ宮殿跡:ウズベキスタンのシャフリサーブス観光で、まず目にすることになるであろうアク・サライ宮殿跡です。
ティムールが夏の離宮として建てさせた物です。
『アク・サライ』とは『白い宮殿』と言う意味ですが、実際は青と金色のタイルで装飾されていて、白かったわけでは無いです。
白という色に高貴なイメージがあったため、『アク・サライ』と呼んでいたそうです。

ドルッサオダット建築群:シャフリサーブスにあるドルッサオダット建築群の一つに、ジャハンギール廟があります。
ドルッサオダットとは『大いなる力の座』という意味です。

ドルティロヴァット建築群:シャフリサーブスにはドルッティロヴァット建築群と呼ばれる、ティムールゆかりの建築物が3つあります。
コク・グンバス・モスク、グンバズィ・サイーダン廟、シャムスッディン・クラル廟です。
ドルッティロヴァットとは『瞑想の家』と言う意味です。

サマルカンドに向かう
サマルカンド:古来、シルクロードの要衝として栄えながら、13世紀にモンゴル軍の侵攻によって廃墟と化したウズベキスタンの古都サマルカンド。この地を甦えらせたのが、一代で大帝国を築き上げた英雄ティムールでした。ティムールは世界のどこにもない美しい都市を目指し建設しようと、各地の遠征先から優れた技術者や芸術家たちを連れ帰りました。建物を飾る「サマルカンド・ブルー」と呼ばれる鮮やかな青色タイルは、中国の陶磁器とペルシアの顔料が出合って誕生したもの。まさに「文化交差路」のサマルカンドは2001年、世界遺産に登録されました。
グリ・エミール廟:グリ・アミール廟(アミール・ティムール廟、グル・エミール廟、グーリ・アミール廟)はウズベキスタンのサマルカンド旧市街にあります。
グリ・アミールとは、タジク語で『支配者の墓』の意味で、ティムールをはじめとして息子のシャー・ルフ、孫のウルグ・ベクら、ティムールの一族が眠っている霊廟です。
1996年に修復されたばかりで、サマルカンドブルーの丸屋根がひときわ輝く建物です。
夕食
サマルカンドリ・エミール廟夜景観賞
就寝
3日8:30バスで出発
レギスタン広場:サマルカンドの象徴、さらにシルクロードの象徴とも言えるレギスタン広場です。
レギスタンとは『砂地』という意味です。
向かって左からウルグ・ベク・マドラサ、ティラカリ・マドラサ、シェルドル・マドラサの3つのマドラサがコの字形に並んでいます。
チンギス・ハーンが今のアフラシャブの丘にあったサマルカンドの町を滅ぼした後、このレギスタン広場を中心にして復興が進められました。
そして14世紀のティムールの時代には大きな屋根つきのバザールが造られ、ウルグ・ベクの時代に最初のウルグ・ベク・マドラサが建てられました。
現在のように3つのマドラサが並んだ姿になったのは、17世紀にヤラングトシュ・バハドールによって建築された後になります。

レギスタン広場は、他の土地から来た隊商が始めに到着する場所であったり、謁見式・閲兵・催し物が行われる場所でもありました。
昼食
シャーヒ・ジンダ廟:サマルカンドのアフラシャブの丘の南にあるシャーヒズィンダ廟群です。
サマルカンド隋一の聖地で、ティムールの関係者のお墓がズラッと並んでいる、まさしく『死者の通り』です。
11世紀から20世紀にかけて、多くの霊廟が建てられました。

ビビハ二ム・モスク:サマルカンドにある、サッカー場がすっぽり入ってしまうほど大きい、中央アジア最大のモスク、ビビハニム・モスク(ビビハヌム・モスク)です。
敷地面積は167m×109mもあります。
始めはサマルカンド金曜モスクと呼ばれていましたが、市民によってビビハニム・モスクと名づけられたそうです。
なおビビハニムとは『第一婦人』という意味です。

シヤブ・バザール:ビビハニム・モスクのすぐ近くにある、サマルカンド最大のバザール、シヤブ・バザール(シヨブ・バザール)です。
古くから開かれているバザールで、大きなアーケードの下では野菜・果物をはじめとして、香辛料や穀物、生活用品などが所狭しと並べられています。

夕刻
サマルカンド発高速鉄道「アフラシャブ号」で出発
タシケント到達
夕食
ホテル到達就寝
4日タシケント市内観光:ウズベキスタンの首都タシケント(タシュケント)は、ウズベキスタンの北東部に位置する人口約210万人の中央アジア最大の都市です。
タシケントとはテュルク語で『石の町』を意味します。
1964年に起こった直下型大地震によって、一度はタシケントの街は壊滅状態になりました。
しかし 懸命な復興努力の結果、見事に近代的な街に生まれ変わることができました。
道路の道幅も広く、たくさんの自動車や路面電車が走り、また中央アジアで唯一地下鉄が走っている都市でもあります。
町を行く人たちの格好も、イスラム風の人はほとんど見かけず、洗練された都会的なファッションが多いです。
またシルダリヤ川から大量の生活用水を引き込んでいるので、非常に水が豊富な場所でもあり、街の各地に噴水が見られます。

バラクハーン・メドレせ:ウズベキスタンの首都タシケントの郊外にあるバラク・ハーン・マドラサ(バラク・ハーン・メドレセ)です。
1531年にシャイバニ朝のバラク・ハーンによって建てられた、めずらしい一階建ての神学校です。
このマドラサには、ソ連時代に中央アジアのイスラムの本庁が置かれていて、イスラム教全般を管轄していました。
ソ連からの独立後は、中央アジアの国々はそれぞれにイスラムの本庁を持っています。

チョルスー・バザール:タシケントの地下鉄チョルスー駅を出てすぐの場所にチョルスー・バザールがあります。

タシケント地下鉄乗車体験
昼食

日本人墓地:タシケント市南東地区、ヤッカサライ通りに位置する公営墓地の一角が日本人抑留者墓地として整備されている。太平洋戦争終結直後(ポツダム宣言受諾後)、8月8日に参戦したソヴィエト連邦により、中国東北地方、樺太や北方領土にいた日本兵約57.5万人(平和祈念展示資料館)がスターリンの指示により強制的にソヴィエト連邦内のシベリアや中央アジアへ移送され、厳しい環境の下、強制的に労働力として徴用され、その間に約6万人の命が失われた。
ソヴィエト連邦を構成するウズベキスタンでは、日本人抑留者のうち2万3千人が移送され、強制的に労働力として使役され、817名(在ウズベキスタン日本大使館)が帰らぬ人となっている。
タシケント市営ヤッカサライ墓地には、タシケント市より79名、タシケント地区墓地より8名、計87名の日本人が 眠る。ソヴィエト時代は土を盛っただけであったがウズベキスタン独立後、遺族関係機関の支援やウズベキスタン政府の協力により、現在のような戦没者名と出身県を刻印した墓石が設けられ、敷地内にはウズベキスタン各地に点在する日本人抑留者墓地の共同慰霊碑が設営されている。隣接してドイツ人抑留者墓地がある。

ムスタキ―リク広場(独立広場):ウズベキスタンは1991年8月31日にソビエト連邦から独立し、それを記念して作られた広場が、首都タシケントにある独立広場です。

ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場:1947年に完成した1500人も収容できる劇場で、6つの休憩ロビーは、タシケント、サマルカンド、ブハラ、ホレズム、フェルガナ、テルメズの6地方のスタイルで装飾されているそうです。
淡い茶色の落ち着いた感じの外観をしていて、玄関正面の大きな噴水が特徴的です。

ウズベキスタンス歴史博物館:ウズベキスタン歴史博物館は、ウズベキスタンの首都タシケントの新市街にあります。
中央アジアでは最も大きい博物館で、ウズベキスタンの歴史を大まかに知ることができます。
古くは石器時代から、最近ではロシア帝国の征服以後の歴史までです。
夕食
22:00タシケントウズベキスタン航空で出発
5日9:55成田空港到達。
11:50成田空港出発
13:35関西国際空港到達

今回の旅行、中央アジアに位置するウズベキタンスに足を運び、シルクロードに関連した種々の都市古都を訪れ、モスク、城跡、廟等を見学しました。イスラム系の国ですが旧ソ連の影響も強く、ロシアとイスラムが混在した国でした。
青系のモスクなどの歴史的建造物、世界遺産も数多く登録され、見るべきものが多く、堪能したしました。
ここ数年、旧ソ連の国々を訪れましたが、それぞれ共通するものが多く、中世の街並み感動でした。
ウズベキスタンはまだまだ発展途上国ですが、親日で、世界遺産など観光名所も多く、これから楽しみな国でもあります。



  





































飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十六弾:島根県中国三十三所観音巡礼観光
2017年4月1−2日
  

中国地方の島根県に足を運び山陽路から山陰路へとつづく中国三十三所観音霊場、島根県に点在する7か所を訪れました。

1日17:10伊丹空港出発
17:55出雲空港到達、レンタカーで出雲市内に向かう。
18:30西出雲駅前のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。
2日7:00レンタカーで出発、霊場巡り。

鰐淵寺:浮浪滝を中心とした修験信仰、持統天皇6年(692)に当たる壬辰年在銘の重文・青銅観音菩薩像が示すような観音信仰、ならびに智春上人の滝の行験に期待する薬師信仰の三つから生じた寺で、奈良時代に開創されましたが、平安に入り伝教大師が比叡山に天台宗を開かれますと、第三代天台座主慈覚大師が山陰に足跡を印された折、天台の教義の下に第一番にはせ参じ、天台宗最初の末寺となりました。
 後、出雲大社や比叡山横川(よかわ)三昧院、無動寺との関係を深め、鎌倉時代には、武家との関係を密にし、出雲大社との習合を確立・推進し、別当寺を務めました。又、この頃、南院と北院との存在も伝わります。
  頼源(らいげん)は後醍醐天皇に尽くし、栄芸は毛利元就との親交を深め、本堂再建を輝元の代に完成させました。又、有名な弁慶も当寺で修行し、いまも『弁慶まつり』『弁慶ウォ―ク』として残り、八百屋お七もねむっております。この他、寺との関係のある名僧・武将は数多くその名を残しております。

一畑薬師:出雲神話の国引きで名高い島根半島の中心部、標高三百メートルの一畑山上にあります。「目のお薬師様」として古くから全国的な信仰の広がりをもち、千三百段余りの石段(参道)も有名です。現在は車で簡単に上がれます。山上からの眺めは絶景で、宍道湖を眼下に、東に大山、西に三瓶山を始めとする中国山地の山々を一望できます。静かで眺めの良い宿泊施設(コテージ)もあります。
  お寺の宗派は禅宗(臨済宗)、一畑薬師教団の総本山です。本尊の薬師如来は、平安時代894年に日本海から引き上げられ、眼病、諸病平癒、子供の無事成長はじめ、諸願に霊験あらたかとして篤く信仰されています。全国におよそ50の分霊所、年間数十万人余りの参拝があります。観音堂は、本堂の右側の大きなお堂です。瑠璃観世音菩薩をおまつりし、中国観音霊場の他出雲観音霊場の特別札所となっています。日々のご祈念、例月祭、坐禅会、団体研修、茶会、奉納音楽祭など年間を通じてさまざまな行事があります。

神門寺:出雲大社との係わりに於ても、又、中世時代、山陰地方随一の寺院であったことなど未知のロマンを今も秘めたままになっている。名残りらしきものは欅の巨木の森に囲まれた広大な寺域に垣間見ることができる。
開山が宋肇菩薩、二世は伝教大師、三世が弘法大師である。いかに当時隆盛していたことを物語るもので、弘法大師がこの神門寺から「いろは四十八文字」を四方に弘めたれたということから神門寺ではこの仮名文字の御真筆を現在も収蔵している。
 御本尊は行基菩薩のご自作と伝えられる阿弥陀如来で、法嗣は永く密教を厳修していたが、三十八世良空上人が法然上人の専修念仏に帰依して上洛し、七条の袈裟と六字名号を授かって帰り、山陰地方の念仏弘通の霊場となった。観音堂には慈覚大師作と思われる平安初期の秘仏十一面観世音菩薩像が祀られている。

禅定寺:斐伊川堤から三刀屋町に入る道と国道九号線から宍道町より国道五十四号線を三刀屋に向かう何れかの道にしても三刀屋の町を過ぎて約3km入ったところに鍋山の集落があり、そこから出雲市へ出る道路を2km位入った所に参道入口がある。そして約5〇〇m馬場を登ると山門につく。峻しい山の自然が随所にあり登山は苦しい事もある。しかし、今では車で山門下まで入る事が出来て案ずる事はない。
  山寺が創建された深遠な事は、密教思想の根本でもある、苦行修練の精心を説いたもので、苦難の道に菩提心を養う事が信仰の世界といえる。こうした聖地に建立された寺の山号・寺名についても四方の景観により慶びを迎える山であるというところから慶向山と号し、又禅定三昧に適した所であるところから禅定寺と名づけられた由。
  庫裡の畳の上から中国山脈の連山を眺める時、数10kmの山並は静かに眠る「おろち」のようで四季にはそれぞれの姿を見せてくれる。雄大にして、繊細なその表情は、自然の豊かさを教えてくれる

多陀寺:奇岩と白砂が交互に繰り返し広がる山陰海岸・石見路、その中核の街が「浜田」であり、中世には大陸貿易の主要港として栄えた街である。その浜田、否、石見路を代表する屈指の古刹が多陀寺である。寺は県立自然公園の浜田海岸や天然記念物の石見畳ヶ浦の絶景が一望できる小高い山上に位置する。
  多陀寺開山の流世上人は空海と相弟子で、共に唐に留学僧として渡り、恵果阿闍梨より密法の直伝を受け、空海より2年早く帰国(806年)、諸国を遊歴しながらの上洛の途次、この地での奇瑞を感得し、唐より持帰った金色観音像を安置したのが始まりと、縁起を伝える。
  山陰海岸の落日風景は、えも言われぬ美しさ、荘厳さは定評があり、仏教信者には将に、夕陽の沈む大海原に西方浄土の光芒を見る想いであったろう。
  参道は急な石段からと、山腹を迂回した自動車道がある。仁王門の傍には天然記念物の大楠が天に聳えるのが印象深い。また、珍しい流木仏60余体を蔵していることでも広く知られている。

清水寺:山陰唯一の多宝塔、中海圏の観光名勝古刹静かにうねる中海から南にわずか2km、海抜50m余りの小さな山の谷間にたたずむ清水寺は、東には霊峰大山を望み、西には八雲の峰峰が連なる景勝の地、安来節の故郷、安来市に位置する。
 用命天皇2年の開基で、1400年の法灯を有する山陰随一の観音霊場である。
 根本堂は明徳4年の建立で600余年の歳月を有し、御本尊は推古天皇感得の厄除けの観音様である。
  初詣、厄年のお払い、節分の星祭り、春の還誕祭、夏の御開扉法要、秋の光明真言会、師走の大梵焼祭、そして、毎月17日の観音様御縁日には朝から香煙のたえ間ない、天台密教の祈願道場である。
  又、境内の奥に高くそびえる三重塔は山陰唯一の多寶塔で、登ることができる塔は全国でも珍しい。更に光明閣の書院庭園、重文の佛像他寺宝を収めた宝蔵と、豊かな自然とよく調和した堂舎は中海圏の観光要所として、参拝者のたえることなし。

雲樹寺:中海に面した安来港は、伯太川の河口が発達し、地場産業の積み出し場所として賑わいました。また西回り航路の寄港地として古くから栄えていましたが、松江藩では東の入口に位置したことからも警備も厳しく、番所、制札場などが設けられていました。
  その安来港から伯太川をさかのぼって千代富橋を過ぎ、堤を下ると、左側に臨済宗妙心寺派の名刹・雲樹寺の参道が見えます。拈華微笑仏を本尊とするこの寺は、後醍醐・後村上両朝の勅願寺でした。
  松並木の参道に入ると辺りは水田で、中程にある四脚門を通り、石門を抜けると左に広がる境内に、山門、仏殿、方丈、と伽藍が一直線に並んでいます。禅宗様式と呼ばれる構えで、地方寺院には珍しい貴重なものです。大門から先の繁みには「酒だち地蔵」の祠があります。山門のすぐ脇にある観音堂には、親称「子授け観音」が祀られており、諸願成就と共に、古来より多くの信仰を集めています。
  方丈の背面の山には枯山水形式の禅宗庭園があり、巡拝者の心を和ませてくれます。


16:00終了、出雲空港に向かう。
17:00出雲空港到達。
18:25出雲空港出発
19:15伊丹空港到達。

今回の旅行、中国地方の島根県に足を運び島根県に点在する中国三十三所観音の7か所を訪れ楽しみました。
いずれも立派な霊場で、門から建物までたどり着くのが遠くて時間がかかるところが多く、規模の大きい霊場が目白押しでした。
残るは広島県の霊場のみとなりました。次回訪れたいと思います。