飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百一弾:長野県お城・城下町巡り観光
2017年6月17−18日
 

木曾義仲が拳兵した平安末期から、南北朝時代の混乱を経て、武田氏が勢力を拡大した戦国時代まで、幾度も戦いが繰り広げられた信濃、とくに戦国時代は築城技術が発展し、貴重な史跡を現在に伝えている長野県に足を運び、県内に点在する比較的マイナーなお城8か所を訪れました。

17日18:40新大阪新幹線のぞみで出発
19:31名古屋駅到達
19:40名古屋駅特急しなので出発
21:48松本駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
18日8:00レンタカーで出発、お城巡り。

大島城:築城年代は定かではないが大島氏によって築かれたと云われる。 大島氏は船山城主片切為行の八男、八郎宗綱が大島郷を分知され大島氏を称したのが始まりとされる。
元亀2年(1571年)武田信玄は飯田城代であった秋山信友に命じて大島城を普請させ、高遠城とともに伊那の拠点とした。
天正10年(1582年)織田信忠率いる織田軍が飯田城を落とし大島城に迫ったが、城兵は戦わず城に火を放って逃亡し落城する。

飯田城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に坂西氏によって築かれたと云われる。 坂西氏の出自については詳らかではないが、飯田城を築いて愛宕城から居城を移したと云われる。
戦国時代には武田信玄によって攻略されたが、天正10年(1582年)織田軍の侵攻により落城した。
織田氏の領地となった後は毛利秀頼が入封したが、本能寺の変の後は徳川氏の領地となり、菅沼定利が城主となった。 天正18年(1590年)徳川家康が関東へ転封となると、菅沼氏は上野国吉井へ移り、毛利秀頼が再度入封する。文禄2年(1593年)文禄の役で秀頼が病没すると京極高知が入部した。

松尾城:築城年代は定かではないが室町時代頃に小笠原氏によって築かれたと云われる。
小笠原氏は室町時代に府中、松尾そして鈴岡の小笠原三家に分かれ、信濃守護および小笠原惣領職の座を争った。隣接する鈴岡小笠原氏とは当初良好な関係であったが、やがて伊賀良荘の領有を巡って対立することとなった。明応2年(1493年)正月小笠原貞基は、鈴岡城主小笠原政秀・長貞父子を松尾城にて謀殺し鈴岡小笠原氏を滅亡させた。
小笠原貞基は政秀の養子であった府中の小笠原長朝と幾度となく戦ったが敗れて甲斐へ逃れた。その後、松尾城に戻ってきたが、天文3年(1534年)に貞基の子貞忠は小笠原長棟に攻められ再び甲斐へ逃れた。
天文23年(1554年)武田氏が伊那へ侵攻した際には、定基の子小笠原信貴が先鋒として伊那に攻め入り小笠原長時の弟小笠原信定の籠もる鈴岡城を攻め落とし、松尾城主に復帰した。
天正10年(1582年)織田信長が信濃に侵攻すると、信貴の子小笠原信嶺は織田氏に降伏し、その後の高遠攻めなどで道案内をした。信長が本能寺の変で倒れると信濃に侵攻した徳川家康に降り旧領を安堵された。天正18年(1590年)徳川家康が関東に移封となると小笠原氏もそれに従い武蔵国本庄へ移り廃城となった。

鈴岡城:築城年代は定かではないが、室町時代初期に小笠原貞宗の子宗政によって築かれたとも云われる。
小笠原氏は室町時代に府中、松尾そして鈴岡の小笠原三家に分かれ、信濃守護および小笠原惣領職の座を争った。文安3年(1446年)惣領の小笠原宗康は弟の光康とともに小笠原持長と漆田原で戦って討死した。その子政秀は鈴岡城を拠点として伊賀良荘を領して勢力を維持し、松尾小笠原氏とは良好な関係にあったが、やがて伊賀良荘の領有を巡って松尾小笠原氏と対立することとなった。政秀は文明12年(1480年)諏訪氏と結んで松尾の小笠原家長を討ったが、明応2年(1493年)正月に家長の子貞基によって松尾城で子の長貞とともに暗殺され、鈴岡小笠原氏は滅亡した。
政秀の養子であった府中の小笠原長朝は、松尾城の小笠原貞基と幾度となく戦って甲斐へ追いやった。その後、松尾城に戻ってきていた貞基であったが、天文3年(1534年)に小笠原長棟に攻められ再び甲斐へ逃れた。その後、長棟の子小笠原信定が鈴岡城主となった。
信定は武田信玄が信濃に侵攻し、府中の小笠原長時が敗れた後も抵抗したが、天文23年(1554年)武田氏が伊那に侵攻すると敗れて京へ逃れた。

妻籠城:築城時期、築城者は定かではありません。文永年間(1264〜75年)に沼田右馬介あるいは木曽讃岐守家村が築いたとも伝えられます。室町中期には美濃遠山氏の所領であったとされ、その後の戦国期(1500年頃)からは木曽氏が支配しました。天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは木曽義昌が秀吉方に付き、妻籠城には山村甚平衛良勝を入れましが、徳川方の菅沼大善定利、保科越前守正直、諏訪安芸守頼忠らが攻め寄せたが、良勝はこの城を死守しました。関が原の戦いの時には修復されましたが、元和二年(1616年)に廃城となりました。

高島城:文録元年(1592年)日根野高吉によって築かれた。 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の功により日根野高吉が入封する。 高吉ははじめ諏訪古城に入ったが、文録元年(1592年)に諏訪湖に浮かぶ小島に築城を開始する。
慶長7年(1602年)吉明の時下野国壬生に転封となり、代わって諏訪頼水が上野国総社より二万七千石で入封、諏訪氏は10代続いて明治に至る。

桑原城:築城年代は定かではないが桑原氏によって築かれたと云われる。
天文11年(1542年)武田信玄が諏訪へ侵攻し、上原城の諏訪頼重を攻めると、頼重は上原城を焼き払って桑原城へと退いたが、これを退けることはできず降伏し甲斐へ連行された。

上原城:築城年代は定かではないが諏訪氏によって築かれた。

天文11年(1542年)武田信玄が侵攻すると、諏訪頼重は上原城を焼き払って桑原城へ退き降伏した。信玄は上原城に板垣信方を置いて代官としたが、天文17年(1548年)上田原合戦で討死した。

17:00終了松本駅に向かう。
18:15松本駅到達。
19:07松本駅特急しなので出発
21:21名古屋駅到達
21:30名古屋駅新幹線のぞみで出発
22:20新大阪駅到達。

今回の旅行、信州長野県に足を運び、県内に点在する比較的マイナーなお城8か所をおとずれ楽しみました。
今回もマイナーなお城であるが比較的、城址公園として整備さているところが多く満足できました。
次回松本から長野方面のお城を攻めたいと思います。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百弾:武蔵野三十三観音巡り観光
2017年6月10−11日

石神井公園から飯能市に向けて走る西部池袋線、沿線にひろがる風景は東京都心から次第に山間の地へと移り変わり、自然の息吹に心が癒され、大都会のすぐ近くにある魅力いっぱいの観音巡り武蔵野三十三観音の18観音を訪れました。

10日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:20品川到達、タクシーでザ・プリンスパークタワーに向かう。
16:45ザ・プリンスパークタワー到達、講演会に出席
20:30講演会・懇親会終了後、東京駅前で友人と談話
23:00ザ・プリンスパークタワーに戻り就寝。
11日7:30ザ・プリンスパークタワータクシーで出発
7:50東京駅八重洲口到達、
8:00レンタカーで出発、霊場巡り。

長命寺 :
西部池袋線の石神井公園駅北口を出て、東に800メートル、練馬高野台駅より北に150メートル行くと左側に大門が見え、門前に『東高野山長命寺』と書かれた石碑が見えてくる。当山は和歌山県にある高野山奥之院を模して寺域が作られており、江戸時代中期より「東の高野」として江戸市民の信仰を集めていた。本尊は寛永17年(1640)に大和長谷寺小池坊(奈良県)の秀算が長谷寺本尊十一面観音を模し、同木にて観音像を作り金堂(観音堂)に安置したが、これまでに2度の火災に見舞われたが復興されている。金堂より西北部にある奥之院には、長命寺開基である慶算阿闍梨が、高野山にて感得した弘法大師像が安置されている。奥之院に到る参道には多くの供養塔が建てられ、御廟橋や蛇柳が配せられている。大師堂の周囲には十三仏石像、閻魔十王石像等の石仏郡が整然と配置され、この一帯の景観は石仏群の迫力と残された自然により、霊場として深い静寂を漂わせている。これらの石仏群は東京都の史跡に指定されている。また、当山は府内八十八ヶ所霊場の17番とされている。

道場寺 :
本山の開創は遠く天平元年(729)と伝えられている。時移り、鎌倉建長寺開祖、蘭溪道隆大覚禅師を請し、建長5年(1253)参学の道場とした。その後藤原景村の養子北條輝時は、姓を豊嶋兵部大輔とし、堂宇を整え香華所とし豊嶋山道場寺と号したのが応安5年(1372)である。しかし豊嶋氏は文明9年(1477)に太田道灌に敗れ、諸堂宇は灰燼に帰した。100余年を経た永禄5年(1562)に、北條氏康より寅朱印(土地等の免税の許可書)を拝領し、寺宝として保存されている。その后、法燈の絶えるをうれいて、開基和尚は勝光院2世を請し開山とし、慶長3年(1598)に中興した。現在の堂宇は天平の往時を偲び、唐招提寺金堂を模し、堂内には木彫りの三尊仏、等身大の聖観世音像及び薬師如来が安置されている。境内には山門、鐘楼、三重塔(総欅材)が建立されており、特に三重塔内の金銅薬師如来坐像台座に、スリランカ国より拝受の仏舎利も奉安されている。ほかに豊嶋泰経一族の墓並びに練馬区最古の青石塔婆(文応元年・1260)他、出土した土器石器もある。

三寳寺 :
寺伝によれば応永元年、鎌倉大楽寺の大徳幸尊法印が、石神井郷小仲原の地に錫を止めて豊島一族の祈願寺として一宇の浄舎を建立したのを嚆矢とする。以後勅願寺として尊崇され、小田原北条氏や徳川氏より寺領を寄進されるなど、寺運隆盛であった。山門は三代将軍家光がお成りになったことに因んで御成門と称し、将軍家累代の祈願所とし、無本寺として独礼の寺格を以て遇せられた。また関東十一談林のひとつとして60余ヶ寺の末寺を有し、5ヶ村の鎮守である氷川神社をはじめ、三寳寺池中の島弁財天、水天宮、愛宕社などの別当であった。境内の大黒天堂は開運出世福徳無盡の尊として参詣絶えず、地階の子育千体地蔵尊は檀信徒自ら彫刻した1000体の地蔵尊をお祀りし、更に天井にも檀信徒の画いた天井画数十枚を配して荘厳されている。武蔵野三十三観音のほか、御府内八十八ヶ所、関東三十六不動などの札所として参詣者が多く、特に境内の奥之院は高野山のそれを模し、八十八ヶ所お砂踏霊場は四国霊場の風光が感ぜられる。文久年間など2度の火災に遇い寺宝を灰燼に帰したため、御成門のみ当時の面影を残している。

如意輪寺 :
如意輪寺は、具(つぶさ)には光明山福生院如意輪寺という。真言宗智山派に所属して、総本山は京都東山七条の智積院である。如意輪寺草創の正しい年代は不詳であるが、古過去帳記載の中興第七世と思われる恵定法印(正保4年・1647)の五輪塔が、現存住職墓碑では最古のものである。また下田氏一族の墓地には、寛永16年(1639)、慶安5年(1651)等の古碑があり、江戸時代初期の資料として貴重である。この他にも、応長元年(1311)、嘉吉4年(1441)、寛正2年(1461)等の板碑も保存されていることから、当寺の開創は相当古いものと推定される。当山の本尊は本来不動明王であったが、本堂消失後、新本堂建立とともに、金剛界大日如来(鋳造、享保5年製作)を本尊として安置し、観音堂には如意輪観世音を奉祠する。明治25年の火災により本堂庫裡共に全焼して、本尊不動明王や古文書などもすべて焼失しているが、境内東南隅にあった観音堂は難をまぬがれて、大正2年(1913)現在地に移築され、保谷の観音さまとして皆に親しまれている。現在、武蔵野三十三観音霊場第4番札所、多摩新四国八十八ヶ所霊場第35番札所となっている。

多聞寺 :
武蔵野の面影を残す当地に悠久の歴史を秘めて佇む当山は、真言宗智山派に属し元仁年間(鎌倉時代)に草創され、天満宮を安置して梅本坊と号している。凡そ100年の後、祐観上人が止住して毘沙門天を本尊とし、寳塔山吉祥院多聞寺と寺号を改めたが、天満宮は今なお本堂に祠られ学問の神として参詣者も多く訪れている。更に毘沙門天は七福神のひとつに数えられ、除災招福の功徳尊として信仰されている。また、当山は武蔵野三十三観音霊場第5番の札所の他、多摩四国八十八ヶ所第37番の札所でもあり、東久留米市七福神巡りの1寺でもある。また、10月14・15日には『獅子舞』が境内一杯繰り広げられ、市内はもちろん近郷在住から大勢の見物客が訪れ勇壮な舞に酔いしれている。
この『獅子舞』は江戸時代のはじめ頃、伊勢から東久留米市南沢に伝えられたもので多聞寺境内と鎮守南沢氷川神社で五穀豊穣の年の秋祭りに実施される。
今日では、3年ないし4年ごとに行われている。


全龍寺 :
当山は慶長元年並木主水正安松を開基とし、浄牧院九世玉室應珍和尚の開山である。貞享4年、明治13年と2度の火災によって記録及び什物の類は殆ど焼失し、詳細は不明である。清瀬市内6ヶ寺の中、15石の御朱印寺は全龍寺只1ヶ寺のみである。戦前は中清戸の3分の1は寺有地であったが、農地解放により20町余を失い、現在境内地は3000坪足らずになった。

徳蔵寺 :
徳蔵寺は福寿山と号し、臨済宗大徳寺派に属する。開山は璧英宗趙禅師で、御本尊は白衣観世音菩薩(白は清浄菩提心を表し、白衣で石上に座す)で、武蔵野三十三観音霊場第7番の札所であり、また狭山観音霊場第11番札所にもなっている。境内は、もと板倉氏の屋敷跡であったといわれ、「新編武蔵風土記稿」には土塁や塀の跡が残っていたといわれている。従って忠誠の文化財である板碑や宝篋印塔等、境内から数多く発掘され保存されている。また元文2年(1737)当寺9世億厳儀厚代建立の本堂は昭和57年、客殿、庫裡と共に改築されて現在に到っている。徳蔵寺板碑保存館は昭和43年、多くの方々のご協力により鉄筋あぜ倉造り、2階建が完成、元弘の碑(国重要文化財)を中心に板碑約150基、石器、土器やその他の物を展示し、一般の方々が拝観できるようになっている。秋の彼岸の最終日保存会員が参集し、保存館内で板碑供養会や歴史講演会が行われている。

圓乘院 :
狭山丘陵は東西に約10.5キロメートル、周囲30キロメートルの楕円形をしているが、東村山市と東大和市に沿った丘陵の谷間を利用して、飲料水を蓄えるダムが昭和9年に完成した。これが村山貯水池(多摩湖)で、多摩川の水を引き入れて貯水し、貯水量は約1953万立方メートルといわれる。徳蔵寺から東村山駅(西口)を経て東大和市に入り、西武武蔵大和駅ガードをくぐると多摩湖への入口がある。この先、案内板に従い右に折れて丘陵を登っていくと鐘楼門があり、本堂が見えてくる。寺は武蔵野の台地に静かにたたずみ、平成4年には、山容の整備が施され東大和市から二十景の随一に指定され、手入れのいきとどいた境内は身がひきしまりやすらぎを覚える。寺伝によれば賢誉法印(平治元年−1159−入寂)が始祖で、古くは延寿院とよび、上の屋敷にあった草庵は風災にあい、慶長12年(1607)現在地に移る。第二十世の慶範法印代に紀州根来寺より錐鑽(きりもみ)不動尊を写して本尊とし、24世宥専法印は寺の再興を図り中興第1世となった。本堂正面須弥檀には札所本尊如意輪観音がご安置されている。

實蔵院 :
もと野老山正福寺(ところさんしょうふくじ)と呼び、現在は単に野老山と号し、真言宗豊山派に属している。寺歴については、宝暦3年と文政7年の2度の大火で、古文書、縁起類、一切烏有に帰して詳らかでないが、戦前供出した古半鐘には、正平7年新田義興によって開基されたとの銘があった。現在の本堂は、嘉永3年に再建され、本尊は大日如来、同本尊の脇侍として、聖観世音菩薩が安置されている。なお当寺は旧鎌倉街道に沿っており、この野老とは、現在の所沢の古い名称であり、このことによっても創立が古いことを証明していると思われる。なお昭和29年本堂の修繕及び庫裡の改築が行われた際、貞治4年(1365)8月8日建立の弥陀一尊種子板碑、應永11年(1424)2月2日建立の弥陀一尊種子板碑、並びに享徳3年(1454)9月30日の金箔押 弥陀三尊種子板碑が発見され、保存されている。宝暦年間(1751−64)の中興開山を慧海阿闍梨と伝えられており、現在の住職は、墓誌によって第23世に当たっている。

新光寺 :
当寺の創建は定かではない。新光寺略縁起に、遊石山観音院と号し、本尊の聖観音は、行基大士の作と伝え、慶安2年(1649)に観音堂領として、幕府から六石の朱印が出されている。寛政2年(1790)の寺社書上には、「三間四面のお堂」と記録されている。草堂に観音像を安置したのがこの寺の始まりであろうか。また、『新編武蔵風土記稿』や『吾妻鏡』『武蔵野話』『江戸名所図絵』などの地誌に、建久4年(1193)源頼朝が那須野へ鷹狩に向かう途中、ここで昼食をとった折り、その時の幕舎の地を寄進している。その後元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉攻に向う途中、当寺に立寄り戦勝を祈願したことなどが記載されている。更に、聖護院門跡道興准后の『廻国雑記』に、野老沢の観音院に、福泉と言う山伏がいて、酒の肴にとろろいもを出したので『野遊のさかなに山いもそいて、ほりもとめたる野老沢かな』と書いている。当寺は旧鎌倉街道の傍にあって、この附近が所沢の地名と集落発生のところとされている。

普門院 :
縁起書によれば、本尊は不動明王にして往古は一草宇であったが、後昇格して一寺に列したという。開創は天平宝字年間、弘法大師巡錫の際此に至り、人々のために三ツ井戸(西所沢東川のほとり)を加持祈念した。其時本尊不動明王を親刻し、井ノ南丘に草宇を構えて安置したもうと伝えられている。元来西所沢町の東川のほとりにあったものを、寛文年中に開創地より、現今の字地に移し現在に至る。三ツ井戸付近の地は幽谿緑樹繁茂し、堂宇腐蝕甚しく、興廃を繰りかえしてきた。尚三ツ井戸の水は衆病を除き、寿命無量の益ありとして無量寺といわれ、明治・大正・昭和と年移り、現在に至る。参道から門に入る左手前に、北向の六地蔵菩薩がお祀りされている。昔から子供の守本尊として夜泣き、病気など母親の悩みごとなどを解決して下さる、霊験あらたかなお地蔵さまである。

全徳寺 :
近年、所沢市郊外も急速に宅地化がすすみ、武蔵野特有の雑木林の面影は少なくなってしまったが、そんな中でも狭山茶の畑が点在していて、まだ緑が残っている静かな環境の中に全徳寺は建っている。山門・本堂・客殿等の建築は平成元年に完成したものであるが、寺伝によれば、永禄年間(1560頃)に、開山の顧山明鑑和尚が、地区内にあった無住の数寺を統合したものと言われている。ちなみに、顧山明鑑和尚は、永禄11年1月6日遷化と石碑にある。本堂には、本尊釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩の三尊仏と、観音堂には、普悲観世音菩薩が安置されている。釈迦三尊、普悲観音は、地元在住の仏師、皆川閑慶師の作で、特に、釈迦如来の胎内には、十二支の守り本尊が納められており、最近は、十二支の守り本尊詣りも増えてきた。近くには、新田義貞の鎌倉攻め(1333)で有名な、小手指原古戦場や、由緒ある北野天神社もあり、さらには、狭山湖へのハイキングコースにもなっている。

金乘院:
本尊千手観世音菩薩は行基大士の作、弘仁年間弘法大師の開基と伝えられ、此の地を千手ヶ谷と称し、一心に観世音を信ずる者には、必ず諸願を成就せしむと云われ、信仰されて来ている。昔、弘法大師がこの地を通り、山の中から不思議な光が出ているのを見られ、入って来た所、小さな祠に観音菩薩の祀られているのを見つけ、その晩此の祠に一夜の宿をとられた。当時此の地方に悪病が流行し住民が難儀しているのを見て、翌日から千座の護摩を修行され、その折に本堂右裏の池の水を閼伽水として使われたといわれている。後に住民が此の水を飲んだ所、病人はたちまち良くなり、再び明るい生活に戻ったと云われており、現在の境内の水はすべて此処から引かれている。現在の本堂は宝暦年間に再建されたもので、本尊千手観音菩薩の左に毘沙門天、右に不動明王、更に聖観世音菩薩、聖徳太子、二十五菩薩など多くの諸尊像が祀られており、当時からの絵馬が堂内外に多く現存している。

妙善院:
曹洞宗妙善院は、旧前沢村(東久留米)浄牧院の末寺で、本尊は白衣観世音、行基の作といわれる。惣門より山門をくぐり、本堂に至る。山門には仁王様と2階には十六羅漢様が安置、左手に地蔵堂、右手に慈母観音像を仰ぎ、鐘楼堂を同じく右に見ながら、又時代に即応した、幼稚園、保育園を右手に見ながら、水屋で身も心も浄めて参拝する。当寺は天正年間(1570年代)今から400有余年前、源義家の後孫、徳川の旗本、沢次郎左衛門の開基とされ、開山は阿山呑碩大和尚で、現在が18世である。歴代沢家の菩提寺として護持され、由緒ある寺院。沢吉縄は、徳川家康に仕えて関ヶ原の戦いに参戦するなどの働きをした武将で、子孫は以後徳川幕府の旗本として歴代将軍に仕えた。元禄年間には常陸国新治郡などにも知行地を与えられ600石取りとなった。代々当寺を菩提寺とし、天明5年(1785)には開基盆供料として金百疋を奉納、嘉永7年(1854)には、一族の幸良が描いた幸純ならびに幸洸・幸得の画像2幅(市指定文化財)が奉納された。ほかに、沢氏系図、徳川家康画像なども残されている。

松林寺 :
吟龍山松林寺は、道元禅師を開祖とする曹洞宗の寺院である。所沢市安松にある長源寺を本寺とし、安永9年(1780)から嘉永3年(1850)にかけて、伽藍の整備を完了するも、大正2年に火災に遭い、本堂、庫裡等ほとんどの伽藍を焼失した。しかし翌大正3年には仮本堂を再建し、昭和40年には梵鐘を再鋳、昭和46年には庫裡を新築し、そして昭和51年に現本堂を建立した。本尊は松久朋琳作の釈迦牟尼仏である。さらに平成3年に薬師六角堂を再建し、現在の姿となる。この薬師堂の本尊、薬師瑠璃光如来は、明治18年、東京上野の寛永寺山内、成就院より縁あって、当寺に奉祀され、長らく常吉薬師として親しまれてきた。近年特に老朽荒廃が著しく、総桧造り銅板葺き六角堂として、あらたに日光菩薩、月光菩薩の両脇侍を新彫りし、仏画十二神将を奉祀、仏具荘厳具一式を新添して、新築建立されたものである

慈眼寺 :
西部新宿線、狭山市駅西口より徒歩で約7分。狭山市駅交差点のところにある。交差点の交通量が多く、近くに航空自衛隊入間基地もあり騒々しいところであるが、境内へ入ると大木に囲まれているためかしばし喧騒を忘れさせてくれる。しかし時折飛び立つジェット機の騒音やヘリコプターの振動には閉口させられてしまう。時間のある方は本堂を横切り墓地の一番奥まで行くと、自衛隊航空機の離発着が見られ、さらにそこから一望する秩父の山々や狭山の町並みは巡礼の疲れをしばし癒してくれる。本堂内には本尊、十六番観音「聖観世音菩薩」とその奥に狭山市指定文化財の「阿弥陀如来像」が安置されている。墓地より市街へ下る裏道には、「黒こげ地蔵(別名  イボとり地蔵)」がひっそりと祀られている。その由来は、入間川は戦後まで宿場町として栄え多くの遊郭が存在していたが、肉体的・精神的にも病に侵された遊女達の深い信仰を受け、常に線香の煙やロウソクの灯が絶えずそのススで真っ黒になってしまったことからその名が付いたと伝えられている。

徳林寺 :
狭山市駅西口下車。歩8分余りで徳林寺に着く。駐車可。まず本堂へ。納経所は庫裡。茶所あり。トイレ可。当山の創立は、元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの合戦にこの地に本陣館を置き、その守護仏として聖観音を安置し、地頭小沢主税が開基となり当寺が建立された。この聖観音が武蔵野霊場のご尊像であり、お像は唐からの渡来仏と伝えられている。台座と光背は鎌倉時代の作といわれ総金箔押しの豪華な秘仏である。また当寺は、文和元年(1352)から約7年の間、足利基氏が坂東武者を補佐として関東管領の入間川御所(入間川殿)が置かれた。また初期の宗旨は明らかではないが、天文元年(1532)に曹洞宗(禅宗)に改宗された。慶長年間上州より当地に移住した綿貫庄左ェ門が当山の中興開基となり、綿貫家は豪商で名を轟かせ、狩野派の御絵師などを抱えており、当山にはその筆になる仏画の軸物があり、その中で釈迦八相図・涅槃図は市指定文化財になっている。平成5年に本堂造立を完成。周囲のビルの立ち並ぶ街の中、木造の優美な伽藍は、堂宇の安らぎを与えてくれる。

蓮花院:
蓮花院は、入間市春日町に在って真言宗智山派に属し、世音山蓮花院妙智寺と云い、院号をもって公称としている。開山当時の古記伝等は現存していないが、口碑によると建仁元年(1201)6月「新古今集」の代表的歌人として名高い寂蓮法師が東国巡行の際、黒須川を渡り里人とはかり堂閣一宇を創立し、千手観世音を本尊としたと云う。境内に開山寂蓮法師の古碑が現存している。広大なる境内は、けや木や杉の大木におおわれ、いちょうや楓も多く、特に夏の間咲き続ける百日紅や秋の紅葉の美しさと、池を配した日本庭園のたたずまいは、あくまで静寂にその景観の美しさは稀に見る浄域で往昔新田義貞が鎌倉攻めの途上、必勝を祈願した黒須観音の存在で名の在る古刹である。現在の観音堂は、天保6年(1835)に再建されたもので、精巧な彫刻と併せて、内陣の格天井には、格間165枚に、東松山出身の狩野派画家江野梅青の手による花鳥の色彩絵が、見ごとに描かれている。また、当寺所有の鰐口は県指定の重要文化財で直径38センチの重量感あふれた作品である。

15:30終了、東京駅に向かう。
16:30東京駅到達
16:47東京駅新幹線のぞみで出発
19:20新大阪駅到達

今回の旅行、土曜日は東京ザ・プリンスパークタワーで講演会に出席し宿泊、翌日の日曜日はレンタカーで武蔵野エリアに点在する武蔵野三十三観音の18か所を巡り楽しみました。
中規模の寺院がほとんどで比較的集中して点在していましたので訪れることが容易でゆっくり回りました。
次回は残りの15か所を訪れたいと思います。


 



























飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十九弾:富山県お城・城下町巡り観光
2017年6月3−4日


雄大に聳える立山連峰と国内最深の富山湾、越中守護の畠山氏の家督争いをきっかけに、各地で群雄が基盤を築くようになり、その後、上杉謙信が越中を平定し、能登国も支配するが、織田信長の勢力に敗れ、江戸時代は富山藩として前田氏が治めた富山県に足を運び、富山県に点在する比較的マイナーなお城、7か所を訪れました。

3日大阪駅18:12サンダーバードで出発
20:56金沢駅到達
21:06金沢駅新幹線つるぎで出発
21:29富山駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
4日7:30レンタカーで出発、お城巡り

宮崎城:築城年代は定かではないが寿永年間(1182年〜1185年)に宮崎太郎長康によって築かれたと云われる。
寿永元年(1181年)源義仲は都落ちした北陸宮の御所を八幡山(城山)に築き奉じたといわれ、このとき在地豪族の宮崎太郎・南保二郎・入善小太郎などの名が見られる。
宮崎城の名が史料に現れるのは南北朝時代で、越後守護上杉憲顕の家臣長尾景忠が南朝方の籠もる宮崎要害で勝利を得たとあるのが唯一という。
越後との国境にある宮崎城はその後も重要視され、椎名氏の家臣や越後の上杉氏の家臣などが在城した。戦国時代末期になると越中へ侵攻した織田軍は松倉城や魚津城を落とし、越中に入国した佐々成政の家臣が在城した。成政の後は前田氏の家臣高畠織部が在城したが、後に廃城となった。

魚津城:築城年代は定かではないが、室町時代に守護畠山氏の守護職椎名氏により築かれたと云われる。
椎名氏は松倉城を居城としいるが、北陸道の押えとして築いたものと思われる。
椎名氏は上杉氏が越中に侵攻するとそれに降ったが、後に武田信玄と結び上杉氏に背いた。 これに対して上杉氏は越中に侵攻し、魚津城を落とし河田長親を置いた。
天正10年(1582年)柴田勝家を大将とした織田軍が侵攻し取り囲んだ、これに対して上杉氏は天神山城に後詰めとして着陣したが、これを救う事はできず中条景泰をはじめことごとく討ち取られた。
この後、本能寺の変の急報を聞いた織田軍は撤退、すぐさま上杉氏が奪還に成功し須田満親を守将として置いた。
天正11年(1583年)佐々成政が侵攻、満親は開城して退去した。

松倉城:
築城年代は定かではないが南北朝時代に井上俊清によって築かれたと云われる。戦国時代には守護畠山氏の守護代椎名氏の居城であった。 椎名氏は上杉氏が越中に侵攻するとそれに降ったが、後に武田信玄と結び上杉氏に背いた。 永禄12年(1569年)上杉謙信によって攻められ落城、椎名康胤は逃亡した。 上杉氏は後に金山城にいた河田長親を移し拠点として重要視するが、天正10年織田氏に攻められ落城した。

弓庄城:築城年代は定かではないが土肥氏によって築かれたと云われる。 土肥氏は相模国土肥郷を本貫とする土肥実平を祖とするといわれ、南北朝時代頃に越中に入部し土着したという。弓庄系の土肥氏がいつ頃弓庄城を居城としたのかは定かではない。戦国時代にははじめ上杉謙信に属し、謙信没後は織田信長の勢力下に収まったが本能寺の変の後、再び上杉氏方となり、天正10年と天正11年の二度にわたって佐々成政の攻撃を受けたが落城しなかった。しかし越後の上杉景勝からの来援もなく孤立したため開城し、土肥氏は越後に去ったという。

猿倉城:飛騨の塩谷秋貞が元亀年間〜天正初期に越中攻略のひとつの拠点として築城されたようです。塩谷氏は当初上杉方で謙信死後は織田方となりますが、天正十一年(1583年)に城生城を攻略中に上杉景勝の軍に攻められ討死し塩谷氏は断絶しているようです。

安田城:築城年代は定かではないが天正13年(1585年)頃に築かれたとみられている。天正13年(1585年)羽柴秀吉による佐々成政征伐で、秀吉が白鳥城に本陣を布いた際に、白鳥城にいた前田氏の家臣岡島一吉が安田城に移っており、築城もこの頃と見られている。岡島一吉が金沢へ退いた後は代官平野三郎左衛門が居城し、後に廃城となった。

白鳥城:築城年代は定かではない。古くは寿永2年(1183年)源義仲の部将今井兼平が御服山に陣を張るなど要害として活用されていた。
天正6年(1578年)には神保八郎左衛門が居城としていたとも云われるが定かではない。神保氏は越中国中央部に勢力を持った国人で、天文12年(1578年)頃に神通川を越えて富山城を築き、新川郡を支配していた椎名氏と対立していた。
永禄3年(1560年)頃から越後の上杉謙信は圧迫された椎名氏を援助して神保氏を攻め、永禄5年(1562年)神保長職は呉増山に立て籠もってこれに抵抗したが敗れて城を去った。
天正13年(1585年)羽柴秀吉の佐々成政征伐では、秀吉の本陣が白鳥城に置かれ、白鳥城に籠もっていた前田氏の部将岡島一吉は南麓の安田城に出城を築いて移った。 この頃に現在に残る縄張に改修されたと見られている。
佐々成政が降伏すると成政は新川一郡に減封となり、砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増された。利家は越中三郡を支配するため守山城に前田利長、木舟城に前田秀継、増山城に山崎長鏡、白鳥城に岡島一吉、城生城に青山佐渡を置き、佐々成政に備えた。天正15年(1587年)佐々成政は肥後に転封となると、慶長2年(1597年)には前田利長が守山城から富山城に移り、岡島一吉は白鳥城から安田城へ移ったという。

17:00終了、富山駅に向かう。
17:30富山駅到達
18:11富山駅新幹線つるぎで出発
18:33金沢駅到達
18:42金沢駅サンダーバードで出発
21:23大阪駅到達

今回の旅行、北陸地方の富山県に足を運び比較的マイナーなお城7か所を訪れ楽しみました。
今まで多くのマイナーなお城を訪れましたが、地味な城跡が多かったですが、今回の城跡、遺残が見るべきものが多く、感動いたしました。城跡も今回のような立派な遺残が あれば訪れた価値があります。