飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三弾:福島県お城・城下町巡り観光
2017年7月8-9日
  

東北地方の相馬地方の相馬氏、会津地方の蘆名氏、県北の伊達氏などが力を誇り、さらに安積郡の伊東氏、岩瀬郡の二階堂氏と多数の勢力が覇権を争い、のちに伊達政宗がほぼ手中にした福島県に足を運び比較的マイナーなお城7か所を訪れました。

8日15:45伊丹空港出発
16:50福島空港到達、レンタカーで出発、須賀川方面に向かう。
17:30須賀川駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
9日7:00レンタカーで出発、お城巡り。

猪苗代城:築城年代は定かではないが佐原経連によって築かれたと云う。 佐原氏は三浦氏の一族で黒川城の蘆名氏とは同族であり後に猪苗代氏を称した。佐原経連が最初に築いたのが八手山城と云われ、その後この猪苗代城を築いたという。

天正16年(1588年)鶴峯城に隠居した猪苗代盛国は当主盛胤が蘆名義広に伺候している隙を付いて猪苗代城を乗っ取り伊達氏に内通した。これを機に天正17年(1589年)伊達氏が猪苗代城に入城し、麿上原で蘆名義広を破り会津を手中に治めた。 しかし、伊達氏は小田原合戦後の奥州仕置によって会津を召し上げられ、会津は蒲生氏郷の治める所となり猪苗代氏は伊達氏に従いこの地を去った。

その後、猪苗代城は一国一城令の例外として会津若松の支城として存続し、各大名の城代が置かれ明治を迎える。

神指城:慶長5年(1600年)上杉景勝によって築かれた。 慶長3年(1598年)上杉景勝は越後国春日より会津に転封となり黒川城へと入ったが、ここは小田山に近く大砲による砲撃に弱い為、新城を築く事にしたと云う。この予見は正しく戊辰戦争では黒川城へ小田山より砲撃が行われた。

当初候補地として北田城が挙げられたが水害の危険性から神指城が築かれたという。 築城は直江兼続が担当し3月18日より本丸、5月10日より二の丸の工事が昼夜兼行で行われたが、完成を見る事無く工事は中断された。これは徳川家康による上杉討伐の機運が高まり、それに対する備えとして国境の城の整備を進める為とされる。

結局、徳川家康による上杉討伐軍は石田三成の挙兵により中止され、上方へ戻った徳川軍と石田軍によって関ヶ原の合戦がおこり、戦後上杉氏は米沢に転封となったため、景勝は神指城には一度も入城しないまま米沢へ移った。

向羽黒山城:永禄4年(1561年)葦名盛氏によって築かれた。 盛氏が隠居城として築いたもので、家督を盛興に譲った後、盛氏は一旦向羽黒山城へと移った。しかし、天正2年(1574年)盛興が26歳の若さで嗣子なく没すると、盛氏は盛興の正室(伊達氏)を自分の養女として、二階堂盛隆を養子に向かえて家督を継がせた。盛氏は後見人として黒川城へ再び移ることとなり廃城となったとされる。

しかしながら、現在の遺構は隠居城というには遙かに壮大で、また虎口などは非常に技巧的かつ規模が大きく、連続して存在するなど、蘆名氏の後に会津を領した、伊達、蒲生、上杉の各領主によって改修されたものと思われる。

鴨山城:築城年代は定かではないが南北朝時代に長沼氏によって築かれたと云われる築城年代は定かではないが南北朝時代に長沼氏によって築かれたと云われる。 長沼氏は下野国小山氏の一族で下野国芳賀郡長沼発祥、文治5年(1189年)源頼朝の奥州攻めのに参加して戦功を揚げ南会津に所領を得たものとされる。当初は長沼城を居城としていたが、応永年間(1394年~1428年)頃に鴫山城を本拠として移ったと見られている。

長禄3年(1459年)山中越中は白河結城勢を密かに導き、長沼氏を鴫山城より追だしたが、長沼氏は葦名氏の力を借りて鴫山城を取り戻したという。

天正17年(1589年)葦名氏が伊達政宗によって滅ぼされると伊達氏に帰属し、先陣として伊達氏に服属しない山内氏や河原田氏を攻めた。天正18年(1590年)豊臣秀吉による奥州仕置き伊達氏が会津から取り除かれると、長沼氏は伊達氏に従って退去した。

その後は会津に入封した蒲生氏郷の家臣小倉作左衛門、ついで上杉氏の家臣大国実頼が城代となり、この頃に大門付近の改修が行われた。再び蒲生氏が会津に入封した時には蒲生主計・蒲生内記が在城したが、寛政4年(1627年)加藤嘉明が会津に入封した後、元和の一国一城令により廃城となった。

久川城:天正17年(1589年)河原田盛次によって築かれたと云われる。 河原田氏は藤原北家秀郷流の下野国小山氏の庶流で下野国都賀郡河原田郷発祥とされる。

河原田盛光が源頼朝に従って奥州合戦で戦功を挙げ、その恩賞として伊南を与えられたのが会津河原田氏の始まりとされる。河原田氏は西館・東館を平治の居館として築き、南背後の駒寄城を詰城として築いたとされる。

天正17年(1589年)葦名義広は摺上原で伊達政宗と戦ったが敗れ、生家である佐竹氏を頼って常陸へ落ちた。政宗は居城を黒川城へと移して所領拡大を計るなか、河原田氏は伊達氏に対抗するために久川城を築いたと云われる。

伊達氏は新たに帰属した鴫山城主長沼氏などを先陣に久川城に攻め寄せたが、攻め落とすことはできず、天正19年(1591年)伊達氏は惣無事令に反したとして会津領は召し上げられ、奥州仕置きによって蒲生氏郷に与えられた。久川城を守りきった河原田氏ではあったが、奥州仕置きにより所領は没収となり、葦名義広を頼って常陸から出羽国角館へ移るもの、帰農して土着したものなど離散した。現在も出羽国角館の武家屋敷群の中に河原田家の武家屋敷があり、この子孫のものである。

会津に蒲生氏が入封すると蒲生郷可、上杉氏の時代には清野助次郎長範、再び蒲生領となると蒲生彦太夫が入城し、慶長15年(1610年)頃に廃城となった。

棚倉城:寛永2年(1625年)丹羽長重によって築かれた。 慶長8年(1603年)立花宗茂が棚倉一万石を領して大名に復帰し、居城としたのは赤館といわれ、宗茂は後に三万五千石に加増され、元和6年(1620年)宗茂は旧領の筑後国柳河へ転封となった。かわって元和8年(1622年)に入封したのが丹羽長重で、常陸国古渡より五万石で入封するとはじめ赤館を居城としていたが、棚倉城を築いて居城を移し赤館は廃城となった。

赤館城:築城年代は定かではない。

建武年間(1324年~1336年)には伊賀国より下った伊賀隆定の二男定澄が赤館城主となり、赤館氏を名乗り、以後代々赤館氏の居城となった。

永禄3年(1560年)寺山館まで勢力を北上させた佐竹氏に対抗するため、白河結城氏は葦名氏に支援を求め、葦名氏によって赤館が改修され、赤館氏は沢井へ領地替えし、上遠野盛秀を城代とした。

天正3年(1575年)佐竹氏は赤館を攻略し南郷を制圧し、赤館・寺山館・羽黒館・東館をもって南郷衆を組織した。

関ヶ原合戦後に佐竹氏が出羽国秋田へ転封となると一時天領となったが、慶長8年(1603年)立花宗茂が棚倉一万石を領して大名に復帰し、そのとき居城したのがこの赤館といわれる。宗茂は後に三万五千石に加増され、元和6年(1620年)宗茂は旧領の筑後国柳河へ転封となった。元和8年(1622年)丹羽長重が常陸国古渡より五万石で入封すると、新たに棚倉城を築いて居城を移し廃城となった。

16:30終了、帰路に向かう。
17:30福島空港到達。
18:10福島空港出発。
19:20伊丹空港到達。


今回の旅行、福島県に点在する比較的マイナーなお城7か所をおとずれ楽しみました。
城跡は現在公園として利用されているところが多く、気持ちよく散策することができました。
道も広く、車も少なく、信号も少なく、ストレスなく気持ちよくドライブお城巡り満喫しました。






















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二弾:岩手県お城・城下町巡り観光
2017年7月1-2日
 

東北地方の世界遺産で有名な奥州藤原氏の支配した平泉があり、その他にも源氏の流れを汲む名門武家、南部氏の遺構が数多く残され、また陸奥土着のさまざまな武家の居城が点在している岩手県に足を運び比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

1日17:05伊丹空港出発
18:25花巻空港到達、レンタカーで北上方面に向かう。
19:20北上駅付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
2日7:30レンタカーで出発、お城巡り。

九戸城:築城年代は定かではない。白鳥城との別名から安倍頼時の子則任が築城したとの伝承があるが、これを裏付ける史料はない。
九戸氏による築城としては、明応年間(1492年~1501年)九戸光政によって築かれたとする説や永禄年間(1558年~1570年)頃に九戸政実によって築かれたとする説などがある。
天正19年(1591年)九戸政実は三戸城主南部信直に対して挙兵する(九戸政実の乱)。政実の反乱は天正8年(1580年)南部晴政・晴継と南部家当主が相次いで没し、その家督を巡って田子信直(後の南部信直)と九戸政実の弟実親が争ったことや、信直が小田原城攻めに参陣して南部宗家の安泰を計るとともに、九戸氏らを家臣として組み込もうとしたことに対する反発などがその発端と考えられている。
九戸氏の反乱に荷担した櫛引城主櫛引清長は三戸方の苫米地館を攻めたがこれを落とせず九戸城に入った。また、久慈城主久慈直治・政則父子も九戸城に入り籠城した。
三戸城主南部信直は九戸氏の反乱を家中でおさめることができず、豊臣秀吉に援軍を求めた。秀吉は豊臣秀次を大将、浅野長政を軍監として奥州再仕置軍を派遣した。奥州再仕置軍が九戸方の姉帯城、根曽利城を攻め落とすと九戸方は全ての支城を捨てて九戸城に立て籠もった。仕置軍が九戸城の堀際まで攻め寄せて城を包囲すると、長興寺の和尚に説得された九戸政実は降伏開城した。
九戸氏が滅亡すると蒲生氏郷によって九戸城は近世城郭として改修され、南部信直に渡された。信直は九戸城を福岡城と改名して三戸城より移り居城とした。このとき松の丸を居所としたと伝えられる。しかし、居城が所領の北に偏っていたため、新たに盛岡城を築きはじめ、寛永10年(1633年)利直の時代に完成し、福岡城は廃城となった。

一戸城:
築城年代は定かではないが建長年間(1249年~1256年)頃に一戸摂津守義実によっで築かれたと云われる。 一戸南部氏は南部光行の長子行朝を祖とする。妾腹のために本家を相続できず野田城を築いて一戸氏を名乗ったという。この行朝の子義実が一戸城を築き移ったと云われる。一戸南部氏の動向は詳らかではないが、周辺には分家を輩出しており、それなりの勢力を持っていたようである。南部晴政の死によって起こった家督相続争いは、三戸南部氏を二分する騒動となり、結局重臣北信愛の推す南部信直が家督を相続することとなったが、これに反発していた九戸政実は密に一戸城主一戸兵部大輔政連を誘って南部信直を亡き者にしようと画策するが政連に拒まれた。天正9年(1581年)九戸政実は政連の弟一戸信濃と謀って政連を暗殺し、政連の子出羽も後に討たれ一戸家は断絶となり、一戸城には政実の腹心一戸図書が入った。 これを知った南部信直はただちに一戸城を襲撃してこれを落とし、北信愛の二男北主馬介秀愛を城主とした。天正19年(1591年)九戸の乱で九戸政実は一戸城に夜襲をかけたが、北秀愛はいち早く南部信直に九戸の反乱を伝えた。乱の後は石井信助が城代となったが文禄元年(1592年)豊臣秀吉の命により廃城となった。

姉帯城:築城年代は定かではない。 城主は九戸南部氏一族の姉帯氏という。天正19年(1591年)九戸の乱で姉帯大学は弟の姉帯五郎兼信とともに姉帯城に籠もり、豊臣秀吉の軍勢と戦ったが大半が討死して落城したという。

浄法寺城:築城年代は定かではないが浄法寺氏によって築かれたと云われる。 浄法寺氏は鎌倉御家人畠山重忠の末裔を称し、重忠の三男重慶を祖とする。
浄法寺氏は十四代浄法寺重恒のときに南部守行の麾下となり、二十五代浄法寺重房のときに三戸南部氏の家臣となったと云われる。
天正19年(1591年)九戸城主九戸政実が反乱を起こしたとき、浄法寺修理は南部信直に従い、豊臣秀吉による奥州仕置き軍として浅野長政の先鋒として九戸城攻撃に布陣している。
浄法寺修理は五千石を領して南部家の重臣であったが、慶長5年(1600年)南部利直の岩崎城攻めで、これに従っていた浄法寺修理は不手際を犯して家名断絶となった。

昼沢城:工藤氏の末裔とされる葛巻氏の築城といわれるが詳細はわかっていない。三重空堀など防御遺構が独特である。

安部館:
築城年代は定かではない。安倍館は古来厨川柵と見られ、前九年の役で安倍貞任ら安倍一族が籠城して源頼義・清原武則の連合軍に敗れた場所と考えられていた。しかし、近年の発掘調査によって嫗戸柵(うばと)であった可能性も指摘されているという。鎌倉時代には岩手郡一帯を所領とした工藤行光の居城であった。工藤氏は後に栗谷川氏(厨川氏)を名乗り、天正年間(1573年~1592年)頃、栗谷川仁右衛門は南部氏に属していた。

雫石城:南北朝時代に戸沢氏によって築かれた。 戸沢氏は南北朝時代に南朝方に属しており、暦応3年・興国元年(1340年)頃には雫石城が南朝方の拠点として築かれ北畠顕信が在城して南朝方を指揮した。
天文年間に入ると南部家への服従を拒否したため石川高信を大将とする南部勢によって攻撃され落城した。

座主城:

高水寺城:建武2年(1335年)斯波家長によって築かれたと云われるが定かではない。 斯波氏は足利泰氏の長男家氏が斯波郡に下向し斯波氏と改名したことに始まる。
戦国時代には南部氏と戦うようになり、天文6年(1537年)には岩手郡を攻略したが、天正年間(1573年~1592年)頃には南部氏に押され、南部の支族九戸政実の弟弥五郎が入り婿となって高田吉兵衛康実と名乗り高水寺城の出丸として吉兵衛館に住んだ。しかし、天正14年(1586年)高田康実が出奔して南部氏のもとに走ると再び南部と争うようになり、天正16年(1588年)には家臣の岩清水館主岩清水義教らが南部氏に内通するなどし斯波詮直は高水寺城を捨てて大崎氏の元に逃亡、高水寺斯波氏は滅亡した。
その後、南部信直は中野康実(高田康実改め)に高水寺城を与え、郡山城と改称して城主とした。郡山城は南部氏が盛岡城を築城する過程で一時南部氏の居城として利用されたが、寛文7年(1667年)廃城となり資材は盛岡城に転用されたという。

17:20終了、花巻空港に向かう。
18:00花巻空港到達。
18:55花巻空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の岩手県に足を運び岩手県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れ楽しみました。
今回のお城巡り、案内板も少なく、見つけるのに一苦労、跡地が公園である地は比較的まし、こ辺の畑周辺が跡地のところも多くがっかりしたお城巡りでした。