飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十弾:島根県お城・城下町巡り観光
2017年9月30日-10月1日
   

中国地方の日本海に東西細長く位置し、室町時代に京極氏が守護になると、同族の尼子氏を守護代に据え、守護代を継いだ尼子経久は戦国大名になるべく野心を見せ、京極氏にいったん役目を解かれたが、やがて力を盛り返し出雲を手中に収めた島根県に足を運び、島根県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

9月30日17:10伊丹空港出発。
17:55出雲空港到達、レンタカーで出雲市内に向かう。
18:40西出雲駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
10月7:30レンタカーで出発、お城巡り。

七尾城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に益田兼高もしくは益田兼時によって築かれたと云われる。 益田氏は一般的に藤原氏の後裔とされるが、歌人柿本人麻呂の後裔とする系図も庶流の周布氏系図として残っている。初代は御神本兼高こと益田兼高で、元暦元年(1184年)源頼朝の呼びかけに応じて一の谷の合戦に参加し、翌年の壇の浦の合戦でも戦功を挙げた。この功によって鹿足郡を除く石見国五郡を与えられ、那賀郡上府から益田に移った。

兼高が益田に居住した所は諸説あるが、上久々茂土居、大谷土居そして三宅御土居へと益田川の上流から次第に下流へと移っていったと考えられている。そしてその詰城として築かれたのがこの七尾城で、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で敗れ防長二カ国に減封となった毛利氏に従い、長門国須佐へ移るまでの累代の居城であった。

益田氏城館:応永3年(1370年)頃に益田兼見によって築かれたと云う。
大谷土居屋敷が火災により全焼したことによって三宅の地に新たに土居が築かれた。七尾城を詰城とした平治の居館である。

浜田城:元和6年(1620年)古田重治によって築かれた。 元和5年(1619年)吉田重治が大坂の役の功によって五万四百石余を領し、伊勢国松坂より浜田へ加増転封となり元和6年(1620年)浜田城を築いて浜田藩となった。

慶安元年(1648年)浜田藩主二代古田重恒が嗣子なく没して古田氏は改易となり、播磨国山崎より(松井)松平康映が入封する。

(松井)松平氏は康映から康宦・康員・康豊・康福と五代続き、宝暦9年(1759年)松平康福のとき下総国古河へ転封となり、代わって下総国古河より本多忠敞が入封した。

本多氏は忠敞から忠盈・忠粛と三代続き、明和6年(1769年)本多忠粛のとき三河国岡崎へ転封となった。代わって三河国岡崎より(松井)松平康福が入封するが、この康福は 宝暦9年(1759年)に下総国古河へ転封となり三河国岡崎を経て再び浜田へ戻ってきている。

第二期(松井)松平氏は康福から康定・康任・康爵と四代続き、天保7年(1836年)松田康爵のとき、陸奥国棚倉へ転封となった。代わって上野国館林より(越智)松平武厚が六万一千石で入封した。

(越智)松平氏は武厚から武揚・武成・武聰と四代続いたが、慶応2年(1866年)第二次長州征伐のさい、浜田口を守備していた長州藩の大村益次郎に敗れ、浜田城を自ら焼き払って出雲国松江に逃れた。その後、武聰は飛領地であった美作国鶴田に陣屋を構えて鶴田藩として明治を迎えている。

二ツ山城:築城年代は定かではないが貞応2年(1223年)富永朝助(出羽朝祐)によって築かれたと云われる。記録に残る築城年代としては石見国では益田氏の七尾城に次ぐ古さである。

出羽氏(イズハ(ワと発音))は伴姓で祖富永祐純は近江国三上荘の荘官であったが治承4年(1180年)源頼朝の挙兵に呼応して木山義経に味方し平家に反旗を翻した。これによって石見国邑智郡久永荘に流罪となった。文治元年(1185年)壇ノ浦合戦で平家は滅亡し、佐々木定綱が石見国守護に補任されたこともあって荘園別当和田氏とともに瑞穂・石見町の支配することとなった。

南北朝時代には出羽氏は北朝方として各地を転戦した。康安元年・正平16年(1361年)阿須那の藤掛城主高橋師光・貞光父子は足利直冬の要請によって南朝方となり、北朝方の出羽氏を攻めた。高橋氏はもともと備中国高梁を領し、北朝方として高師直に従っていたが、高師直の失脚によって阿須那に転封となっていた。高橋氏の出羽侵攻は半年余り続き、出羽実祐は次第におされ二ツ山城に押し込められると高橋氏は火を放って山を焼き尽くしたという。実祐は火中で自刃して果てたが、嫡子祐忠は地頭所城に籠って佐波氏からの攻撃を退けた。

二ツ山城を落とした高橋氏は本城を築いて居城とし、その後、安芸国・備後国にも勢力を拡げている。出羽氏は横領された出羽郷の旧領回復を執拗に嘆願していたが、明徳3年(1392年)大内義弘によって南北朝の統一がなされ、高橋氏は出羽郷七百貫のうち二百五十貫の領地を出羽氏に返還することで和議が調い、出羽氏は出羽郷の宇山城に居城した。
戦国時代になると台頭してきた安芸国の毛利元就に接近し、享禄3年(1530年)高橋氏が毛利元就によって滅ぼされると出羽郷の旧領を回復した。この時、本城は破却されたが、宇山城から二ツ山城に居城を移したかどうかは定かではない。

出羽元祐(元実)は嗣子として毛利元就の六男鶴法師丸を迎え、元服して出羽元倶と名乗ったが、元亀2年(1571年)僅か十七歳で早世した。家督は元祐の実子元勝が継いだ。この元勝は天正17年(1589年)従五位下出雲守に叙任され豊臣姓を賜わっている。天正19年(1591年)出羽氏は出雲国頓原の由岐に転封となった。

慶長5年(1600年)毛利氏が関ヶ原合戦で防長二ヶ国に減封となると、出羽氏もそれに従って移り、御手廻組と大組(元勝の子元智を祖とする)の二家存続した。

福光城:築城年代は定かではない。はじめ福光氏の居城であったと云われる。

永禄2年(1559年)石見に侵攻して温湯城の小笠原長雄を降した毛利元就は、吉川経安に福光氏の所領を与えた。これを機に吉川経安は福光城を改修して殿村城から居城を移した。

永禄4年(1561年)本明城の福屋隆兼が毛利元就に叛いて挙兵し、福光城の吉川氏を攻めたが、これを撃退している。

天正9年(1581年)織田信長の家臣羽柴秀吉が因幡国鳥取城を攻めたとき、信長に降ろうとした城主の山名豊国を家臣の森下道誉と中村春続が追放した。森下と中村は吉川元春に支援を要請、これに応じて吉川経安の子、吉川経家が鳥取城へと派遣された。鳥取城に籠城した経家は兵糧がなくなるまで織田軍に抵抗し、最後は城兵の解放を条件として自身が切腹し開城した。

その後は経家の子経実が城主となったが、毛利氏が関ヶ原合戦に敗れ、防長二カ国に減封となると、経実は吉川広家の家老として周防国岩国へ移り廃城となった。

鵜の丸城:元亀2年(1571年)毛利元就によって築かれた。 山陰側の毛利水軍の拠点として築かれたもので、都野氏に在番を命じている。

山吹城:延慶2年(1309年)大内弘幸によって築かれたと云われる。

銀山争奪のため、大内・尼子・毛利氏によって激しく争奪戦が行われたが最終的には毛利氏の所有となっり、江戸時代には天領となって廃城となった。

高瀬城:築城年代は定かではない。 南北朝時代に建部伊賀が築いたとの伝承もあるが、今残る形状は戦国時代に米原氏によって築かれたものと思われる。尼子十旗の一つ。
米原氏は近江国坂田郡米原郷の発祥で、佐々木六角氏の支流といわれ、出雲国守護代となった尼子氏の被官として下向したものであるが、その年代については定かではない。
永禄5年(1562年)米原綱寛のとき毛利氏に降り、毛利氏に従って豊後大友氏との戦いに従軍していたが、永禄12年(1569年)尼子勝久が再興をはかり出雲に入国すると帰国し尼子方へ復帰した。
しかし毛利氏によって尼子再興軍も次第に勢力を削がれ、高瀬城と 真山城を残すのみとなったが、元亀2年(1571年)3月高瀬城は落城し、綱寛は真山城へと逃れその真山城も同年8月落城した。
この後は吉川元春が入城し尼子再興軍一掃の拠点となったが、尼子氏が滅亡すると廃城となった。

三刀屋城:築城年代は定かではないが三刀屋氏によって築かれた。尼子十旗の一つ。
三刀屋氏は清和源氏満快流で承久3年(1221年)諏訪部扶長が出雲国三刀屋郷の地頭職を得て、16代為扶の時に三刀屋氏を名乗った。 この時居城として築かれたのがじゃ山城(石丸城)であり、その支城として築かれたのが現在の三刀屋城(城山)で、戦国時代にじゃ山城(石丸城)から三刀屋城(城山)に本拠を移したといわれる。
天文11年(1542年)周防大内氏が出雲の国人衆を率いて出雲に侵攻すると、三刀屋氏もこれに降り、尼子氏の居城月山富田城へと侵攻する。 しかし出雲国人衆は尼子氏に再び寝返り大内氏は嫡子義房を水死させる大敗を喫した。
永禄5年(1562年)毛利氏が出雲に侵攻するとこれに降り、以後毛利氏に属して各地で転戦したが、天正16年(1588年)に上洛したさい徳川家康と面会したため毛利輝元から疑われ領地を没収される。

16:00終了、出雲空港に向かう。
16:30出雲空港到達。
18:25出雲空港出発
19:15伊丹空港到達。

今回の旅行、中国地方の日本海に面してに位置する島根県に足を運び、島根県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れ楽しみました。
比較的案内板がしっかりしていてスムーズに訪れることができました。
今回は出雲より西に点在するお城を訪れました。次回は東方面を訪れたいと思います。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九弾:中国青島観光
2017年9月23-24日
  

アジアの大陸、中国に足を運び、中国山東省にあり、発達した港湾都市。近頃では観光都市としても、人気、人気のある理由として、ドイツの風情を感じさせる街並みがその一つにあげられ、ドイツの占領時代という歴史がある青島を訪れました。

23日10:45関西国際空港全日空で出発
12:35青島空港到達、リムジンバスで青島市内に向かう。
14:30青島駅前到達、散策。

青島:1894~1914年はドイツの租借地。その前は小さな漁村。1914~1921年、1938~1945年は日本の支配を受けた。中国4番目に大きな不凍港。市内にはヨーロッパ風の建物が多く、中国で有名な避暑地や別荘が点在。

青島桟橋:1891年に清政府が軍需物資の供給のために埠頭を建設したのが始まりで、それから増改築を繰り返して現在に至ります。
1931年に国民党政府が桟橋南端に半円形の防波堤を作って、「回瀾閣」という八角亭を建設したものが残っています。

天主教:ドイツ軍がこの場所に来るようになった頃に青島に伝えられました。
1925年には青島教区が設立され、1932年から1934年にかけてこの協会が建設されました。ヨーロッパ風の協会で、塔高は60米、塔上には4.5米の巨大な十字架があり、正面は青島花崗岩から作られた重厚な建築物です。

基督教堂:鐘楼とホール両部分を含んで、最初はヨーロッパ貴族が青島で礼拝に行く場所である。クリスマスの時無料で参観でき、大勢の人が集まった。

ドイツ総督官邸 迎賓館:青島は従来“万国建物博覧会”と呼ばれ 、その中に一番魅力ある建物は迎賓館。 もともとドイツ総督屋敷で、皇居の古典風格を受け継いでいます。高さ30m、建築面積4,080平米の建物は、100万ドイツマルクを費やした。内装は絢爛豪華で、ダンスホール、食堂 が完備。1934年 “迎賓館”と名づけられた後 国内外の首脳の接待場所に。1997年一般開放へ 。

天后宮:1467年に建造された建物で、青島市に最も歴史の古い建築物です。山東省重点文物保護場所にも指定されており、現在は青島市民俗博物館として利用されています。

魯迅公園:文豪魯迅を記念するため開設された公園。中には魯迅の像がある。園内の紅の暗礁とても有名で、静かな名所である

小魚山公園:1985年2月に建設された比較的新しい公園です。頂上には「覧潮閣」と呼ばれる建物が立っています。ここから青島の浜など遠くを眺める事ができます。

市の東部にある、欧米や日本などの様々な建物が建ち並ぶ一帯で、名称に関がつく道路が八つあったので「八大関」と名づけられた。別名"万国建築博覧区"と言われる別荘地である。

八大関:別荘区には、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ギリシャ、スペイン、スイス、日本など20以上の国の建築スタイルを持つ立派な洋館が立っている。今は、撮影現場としてもよく使われている。また、"道に植えられた花木を見ると道の名が分かる"という特徴もあり、"花街"とも呼ばれる。ここには砂浜の美しい第二海水浴場がある。岩場に立つ美しい石組みの花石楼は、帝政ロシアの領事館だったが、のちに蒋介石の別荘となった。現在は一般公開され、屋上からの第二海水浴場の全景が素晴らしい。

花石楼:ビーチ,芝生,洋館が錯綜し,青島散策する絶好場所。[万国建築博覧会]と呼ばれる。
30年代24カ国の領事館や外国貴族住宅団地。区内8本の道路は万里の長城の八つの関所の名前で名付けられたので、 八大関と呼ばれる。風格の違い200軒の建築があり、近年結婚アルバムのロケ地として有名、新人がいっぱい。木造遊歩道(海浜木桟道)完成し、新旧市街を結ぶ40キロの遊歩道が出来た。

18:30ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

24日7:30散策。

五四広場:新市街地のシンボル。毎日市民や観光客でにぎわう。土日は様々なイベントが行われる。市役所前広場の五四広場から徒歩10分でオリンピックセンターへ入 る。新市街地のビル群や海辺への眺めがいい。

10:00地下鉄で青島北駅に向かう。
11:00青島北駅到達、タクシーで青島空港に向かう。
11:40青島空港到達。
14:00青島空港全日空で出発
17:30関西国際空港到達。
今回の旅行、アジアの大陸、中国に足を運び、多くの日本企業が進出し、発展著しい、港町、ドイツ風情を感じさせられる街並みの青島を訪れ散策し楽しめました。
地下鉄が急速に進化し、青島駅から東方面はホテルやマンションの高層ビルが立ち並び近代都市として進化続けています。海岸線は公園が多く、遊歩道が整備され、絶好の散策コース癒されました。















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八弾:中国杭州観光
2017年9月16-18日
  

アジアの大陸、中国に足を運び美しい水をたたえる西湖を中心とした観光都市、名画の中から抜け出たかのような景色が人々を魅了し続けている杭州を訪れました。

16日16:10関西国際空港全日空で出発
17:25上海空港到達、リニアモーターカー、メトロで上海虹橋駅に向かう。
19:50上海虹橋駅到達。
20:37上海虹橋駅新幹線で出発
21:40杭州東駅到達、メトロで杭州駅に向かう。
22:05杭州駅到達、駅前のホテルで宿泊。
17日7:30出発、メトロで杭州駅出発
7:50鳳起路駅下車、西湖の周辺を反時計回りで散策。

杭州:蘇州と並ぶ中国の景勝地。周囲15km、広さ5.6平方km、水深2.7mの西湖が有名。13世紀にはマルコ ポーロも訪れ、「世界で最も華やかな都市」と讃えた。絹織物、治金、機械、化学工業が盛ん。

西湖(せいこ)は、中国浙江省杭州市の西部にあり、風景の美しい湖と山、豊富な名所旧跡と文化芸術が一体になった国家級の風景名勝区として国内外に名を馳せています。「天下第一湖」と呼ばれ、「この世の天国」とも称されます。2011年6月24日の第35回世界遺産委員会で世界文化遺産として登録されました。中国の世界遺産登録リストの中で唯一の湖沼文化遺産で、これは現在の世界文化遺産の中でも数少ない数か所の内の1つです。
西湖は昔、武林水、銭唐湖、西子湖などと呼ばれました。宋代になって始めて西湖と呼ばれるようになりました。西湖は三方が山に囲まれ、湖の面積が約6.5平方キロです。南北長さはおよそ3.2㎞あり、西東は約2.8㎞幅があります。山紫水明が西湖の基調であり、山水と文化の融合こそ西湖の名勝を格調高くしています。

西湖十景:杭州市の西に位置する西湖は中国十大美景の一つです。西湖の最も著名な景観は南宋時代に作られた「西湖十景」です。「十景」とは断橋残雪、平湖秋月、柳浪聞鶯、三潭印月、曲院風荷、蘇堤春暁、南屏晩鐘、双峰挿雲、雷峰夕照、花港観魚のことです。南宋時代の西湖十景は西湖の周りに分布しており、湖上にあるものもあります。

断橋残雪:断橋は冬、雪景色を観賞する最高のところです。断橋は伝説の「白蛇伝」にも登場し、とてもロマンチックで有名です。唐の時代には木の橋で「段家橋」と呼ばれましたが、南宋時代、「断橋残雪」と名づけられました。

平湖秋月:平湖秋月は白堤の西端の外西湖側にあります。湖に向かって佇めば平野が広がり、一年中、天候にかかわらず湖の景色を満喫できる最適の場所です。唐代には望湖亭が建てられ、南宋時代には「平湖秋月」と名付けられました。

浙江省博物館:1929年に開館した浙江省最大の博物館。当初は浙江省立西湖博物館といった。孤山館区、文瀾閣、西湖美術館、武林館区、黄賓虹紀念室、沙孟海旧居など7つの景区で構成されている。
その中心となるのが1993年の改修・拡張工事で完成した孤山館区。陶瓷陳列、黄賓虹書陳列、常書鴻油画陳列、漆器陳列などの常設室で収蔵物を展示している。近くには清代に編纂された四庫全書を収蔵する文瀾閣や1997年に開館した西湖美術館がある。
武林館区は2009年に竣工した展示館。隣接する浙江革命歴史紀念館と合わせ、歴史を中心にした展示を行う。

西冷印社:は、中国で金石、篆刻を研究する著名な学術団体として、浙江省の重点文物保護単位です。篆刻家の丁仁、呉隠らが1904年に創設し、篆刻の大家である呉昌碩が主任、社長となりました。現在、後漢『三老諱字忌日碑』と名家たちの石刻、摩崖題記などがあります。印社内の園林、建築はいずれも自然の地形を利用して作られ、独創性に富む。柏堂、竹閣、仰賢亭、四照閣、観楽楼、華厳経塔などの古跡風景は、山林の景色と金石の雰囲気が一体となっていて、西湖園林の精華が示されています。

岳王廟:は、西湖の棲霞嶺の南側の麓に位置し、金の侵略と戦った宋の名将、岳飛を祭る廟です。岳廟は、南宋嘉定十四年(紀元1221年)から作られ始め、最初の名は「褒忠衍福禅寺」と呼ばれ、明天順間の時に「忠烈廟」と改称されました。その後、岳飛は鄂王の称号を与えられたので、「岳王廟」と呼ばれました。歴代の興廃を経た現存の建物は、清代に再建され、墓園、忠烈祠と啓忠祠の三つの部分から構成されたものです。

曲院風荷:曲院風荷は「蓮」をテーマにした大型公園です。曲院は宋の時代にはお酒を作る工場でした。洪春橋近くの湖面には蓮が植えられ、清の康熙皇帝は岳湖の畔に石碑を保護するための東屋を建てました。ここには小さな建物と湖面に浮かぶ蓮の花だけが残っています。

蘇堤春暁:蘇堤は蘇東坡が杭州を治めた時の功績の一つで西湖を疏浚した泥で作った長い堤です。蘇東坡は北宋時代の杭州知事の任期中に、杭州の軍民を動員し西湖の泥を掘り出しました。後に蘇東坡を記念して蘇公堤と名付けられました。

三潭印月:島の陸地は「田」の字のように分割されています。湖の中に島があり、島の中にさらに湖があります。西湖最大の風景区として評価も高く、島内外の湖には鏡のようにきれいに月が投影され、満月の夜に船から見る情景は最高です。

花港観魚: 南宋の時代、ここは内侍官盧允昇の個人の庭園で、彼は池を作って鯉を育て、ここを「盧園」と名付けました。南宋の画家は「花港観魚」と呼んでいました。5つの部分で構成された公園で、花と鯉を鑑賞するには最高の場所です。

雷峰夕照:北宋の975年に建立、後に呉越王は王妃黄氏が男の子を産んだことで黄妃塔とも呼ばれました。しばしば「雷峰塔」と呼ばれています。

南屏晩鐘:西湖の南、「雷峰塔」の向かいにある「浄慈禅寺」の鐘の音と西湖の夕日とが作り出すすばらしい情景をこう言います。

柳浪聞鶯:公園の見どころは柳です。春の庭園は新緑の柳の葉で覆われ、鶯がさえずり安息の地のようです。公園の「百鳥の天国」には酔柳、浣紗柳、獅柳などのしだれ柳が約500本植えられています。ここでは大型提灯祭も開催されます。

西湖天地:2003年の誕生以来、流行に敏感な杭州っ子に話題のスポット。自然との共生をテーマに開発されたエリアで、西湖の東湖畔に面した庭園のような環境のなかに、レストランやショップなど10店舗が点在している。どの店も緑に包まれた瀟洒な邸宅風で、光が降り注ぐ心地よい空間。モダンチャイニーズを堪能したり、またカフェでまどろんだりと、おしゃれな一日を過ごすのにぴったり。

清河坊(河坊街):は、宋の時代の杭州の街並みをイメージして作られたショッピング街で、観光客にとっては杭州ならびにその周辺の特産品を一箇所で買える便利なエリアです。もともと清河坊という街を再開発して宋の時代を再現しようとしたもので、最近は「清河坊」よりも「河坊街」という呼び方をされることが多いようです。

17:00ホテル到達
18日9:00杭州散策
14:00杭州東駅新幹線で出発
15:05上海虹橋駅到達
15:15メトロ、リニアモーターカーで上海空港に向かう。
16:30上海空港到達。
18:20上海空港全日空で出発
21:35関西国際空港到達。

今回の旅行、アジアの大陸、中国に足を運び、西湖を主として周辺に点在する歴史的建造物、公園を散策し癒されました。

ほぼ10数キロ歩き、西湖の周辺の名所をほぼ制覇しました。

中国は何かとトラブルが多い、飛行機は遅れませんでしたか、ホテルの位置が、案内図と異なっておりました。地図では杭州駅西500m程に位置に存在していましたが、見当たらず、現地の人に尋ねたら、杭州駅の上にあるとのこと、振り返ってみますと、杭州駅の上に大きな建物が聳えたっていました。杭州駅に戻ると、今度はエントランスがわからず、駅員に聞いて教えていただきました。
駅の上に位置してたにもかかわらず、地図での位置が違っていたためホテルに到着するのに30分かかりました。
 




















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七弾:石川県お城・城下町巡り観光
2017年9月2-3日
  

室町時代に畠山基国が能登守護を任じられ、守護代には遊佐浩氏が就い、やがて応仁の乱を終えた畠山義統が下国し、戦国大名となり、一方、加賀では富樫氏が守護を務めていたが、一向一揆に悩まされた石川県に足を運び比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

2日18:12大阪駅サンダーバードで出発
20:56金沢駅到達。駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
3日8:00レンタカーで出発、お城巡り。

穴水城:築城年代は定かではないが南北朝時代に長氏によって築かれたのが始まりとされる。 当初は砦程度の規模であったものが、戦国時代に長氏十九代長続連の時に城として整備されたとされる。

天正4年(1576年)上杉謙信が能登に侵攻して七尾城に攻め入ると長氏は七尾城に籠城し、留守であった穴水城は上杉氏によって攻略され上杉家臣長沢筑前・白小田善兵衛が守将として置かれた。

天正6年(1578年)長沢筑前が主力を率いて珠洲郡正院の一揆鎮圧へ出向いた隙に、長連龍が穴水城を攻略して一時は奪還したものの、越後勢が大挙して押し寄せた為、城を脱して越中の神保氏を頼って落ちた。連龍は後に鹿島郡半郡の所領を織田信長より得て、能登に入部した前田利家に従った。

小丸山城:天正10年(1582年)前田利家によって築かれた。 天正9年(1581年)越前国府中より能登に入国した前田利家は羽咋郡菅原(菅原城か)に入り、その後能登一国を領して七尾城に入った。利家は山城である七尾城より港に近い所口村へ居城を移す為に築城に着手した。これが小丸山城である。しかし本能寺の変により織田信長が没すると天正11年(1583年)には加賀国で石川郡と河北郡を加増され、利家は加賀国尾上城(後の金沢城)へと移り、小丸山城には兄の前田安勝を置いた。その後、一国一城令により廃城となった。

石動山城:天正4年(1578年)上杉謙信によって築かれたと云われる。 天正4年(1578年)七尾城を攻めた際に、石動山城を築き直江大和守景綱を守将として置いたという。

石動山ははやくより山岳宗教の拠点として栄えており、天平寺の石動山衆徒が砦を構えていたと推測される。天正10年(1582年)には織田信長が本能寺の変で倒れた混乱をついて、能登畠山氏の旧臣が蜂起して石動山に籠ったが、これを前田利家や佐々盛政などの織田軍が攻め込んで焼き打ちにし全山焼失した。

その後、前田氏の寄進により復興をとげたが、明治の神仏分離政策で全ての院坊が破却され廃寺となった。

末森城:築城年代は定かではないが畠山氏によって築かれたと云われる。 天文19年(1550年)の城主は畠山義続の家臣土肥但馬であった。

天正5年(1577年)上杉謙信は七尾城を落とした後、末森城に侵攻してこれを落とし七尾城に援軍として来援した織田方と手取川で戦った。

前田利家が能登に入封となると、家臣奥村永福が城番となり、土肥但馬の一族が附属した。天正12年(1584年)越中国の佐々成政は能登を急襲して末森城を囲み、坪井山砦に本陣を構えて攻めかけた。土肥伊予などは吉田口で討死し、三の丸・二の丸も落ち、本丸を残すのみとなったが、奥村永福は頑強に防戦した。末森城の急襲を知った前田利家は、松任城の前田利勝に出陣を命じ、単身出撃して津幡城に入り、松任の軍勢と合流した。利家は末森城を包囲している佐々軍の背後に回り込んで攻撃したので、佐々軍は壊滅し、利家は末森城に入城して成政に備えた。成政は坪井山砦の本陣で体制を整えたが、利家が末森城に入って防備を整えた事を知ると攻撃を断念して越中に引き上げた。

津幡城:寿永2年(1183年)木曽義仲の軍を迎え撃つ為に平家軍によって築かれた砦がはじまりと云われる。その後、正平6年(1351年)富樫氏春が籠って桃井直常と戦った。

天正11年(1583年)前田秀継が築城し居城とした。翌天正12年(1584年)末森城合戦の時、ここで前田利家と秀継は末森城救済の軍議を開いた。翌天正13年(1585年)前田秀継は越中国今石動城の守将となり、後に越中国木舟城へ移ったが、地震により没した。

朝日山城:朝日山城は加賀朝日町と北千石町の間にあり東西に伸びた丘陵に築かれている。 「日本城郭大系」には開墾された曲輪の写真が掲載されているが、現在は南麓の部分は畑となっているものの、大半は薮に覆われている。

朝日山城は東西に三郭連ね一段下がった腰曲輪で繋ぐ縄張りで、東端部に堀切が残っている。

松根城:築城年代は定かではない。

応安2年・正平24年(1369年)越中の桃井直和が陣を構えていた所、能登の吉見左馬助がこれを攻略したという。

長享2年(1488年)には越智伯耆が布陣していた。

文明年間(1469年~1487年)には加賀一向一揆尾山坊の首領州崎兵庫(慶覚)の家臣青天小五郎(青山小五郎)が籠もっていた。

天正12年(1584年)前田利家と敵対した佐々成政が家臣杉山隆重を置いて、境目の城としていた。

鷹巣城:築城年代は定かではない。天正4年(1576年)には平野神右衛門が居城としていたが、翌天正5年(1577年)に越後の上杉謙信のもとへ走ったと伝えられる。

天正8年(1580年)佐久間盛政が金沢城へ入ると、その家臣柘植善左衛門、敦賀八矢、松本我摩久順次などが城番となった。また、一説に柴田勝家の家臣拝郷家嘉が在城したともいう。

天正13年(1585年)富山城主佐々成政が前田利家方の鷹巣城を攻めたが、前田利家はこれを撃退したという。


高尾城:築城年代は定かではないが長享2年(1488年)以前に富樫氏によって築かれたと云われる。

富樫政親は加賀国守護であったが、次第に強力になる一向一揆に危機感を募らせ、将軍足利義尚に支援を要請して一向一揆に対抗しようとした。一向一揆方は政親の家老山川三河守を介して和睦を伝えたが、政親はこれを固持し高尾城を修築して備えた。 一揆方は越前・越中からの政親方の援軍に対する備えを行い、富樫泰高を大将として大乗寺に本陣を据えて高尾城を大軍で包囲した。政親は城内より討って出て一揆勢と戦ったが打開することはできず、頼みの援軍も加賀国境で一揆軍に退けられ政親は城内で自刃して果てたという。一説に高尾城から脱出して鞍ヶ嶽城に入ったが、そこで敗れて討死したとも伝えられる。

16:30終了、金沢駅に向かう。
17:00金沢駅到達。
17:54金沢駅サンダーバードで出発
20:38大阪駅到達。

今回の旅行、北陸地方の石川県に足を運び、石川県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れ楽しみました。
石川県は観光名所が多く、比較的マイナーなお城の案内板は少なく、特に山城は見つけるのに一苦労でした。
今回は金沢市から北のエリアに点在するお城を訪れました。
次回は金沢市から南のエリアに点在するお城を巡りたいと思います。