飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十一弾:宮崎県九州四十九院薬師巡礼観光
2018年1月27日-28日
 

九州の東南に位置する宮崎県に足を運び、九州は大陸との交易の窓口であり、早くから我が国にもたらされた薬師信仰も、九州各地に深く寝ずいている。全行程1600キロ、九州七県にまたがる薬師霊場巡りは、大自然の生気を吸収して心身ともに癒される旅、九州四十九院薬師巡礼の宮崎県に点在する霊場87か所を訪れました。

27日19:50伊丹空港出発
21:00宮崎空港到達、レンタカーで宮崎駅方面に向かう。
21:35宮崎駅前のホテル到達、就寝。
28日8:00レンタカーで出発、霊場巡り

明星寺:『宮崎市誌』には、建暦2年(1212)松平七郎兵衛尉上総入道景清公の創建。天正11年(1583)徳尭隣公禅師が開山したと伝う。

入道景清といえば、平家の武将、源頼朝に対する怨念を断つため自ら両眼を挟り取り、霧島山中に幽栖した。没後に洞を建ててまつったのが生目神社で、いまも眼病平癒に篤い信仰がある。

降って、寛文3年(1663)清水与右衛門が堂宇を再興、永平寺三十世慧輪永明禅師を請うて中興開山した。

その後、文政3年(1820)七堂伽藍は火災に遭う。明治四年(1872)廃仏の法難により廃寺となるが、同13年、帝沢寺の恭山満堂和尚が復興、法灯を継承して現在に至る。


浄土寺:

幸福寺:

全長寺:

極楽寺:

今山大師寺:

昌龍寺:五百年ほど前、肥後から招来した薬師仏を祀る薬現寺として八戸地区に建てられました。
その百年後、現在地に移り曹洞宗昌竜寺となりました。昌竜寺の十世住職は、聖・如意輪・子安の三観音を迎え、八戸滝(60メートルの大瀑布を誇る名勝)を雨乞いの霊場としました。とくに安産、繁昌、交通安全の霊場としてにぎわっています。
また村中に、約三百年前、延岡用水を開いた恩人の藤江監物(ケンモツ)父子の終焉地があり、菩提寺となっています。
お寺の境内には、監物堂が建てられ、延岡城二の丸書院の絵天井が保存されており、ご本尊には約3トンの石からくりぬかれた不動明王が安置されています。

十年前本堂が再建されましたが、すべての木材が町内の木でまかなわれ、しかも格天井は、多摩美大教授宮いつき先生監修による「絶滅危惧種」が描かれ、全国に紹介されました。薬師霊場となってからは「薬師健康にぎり仏」が、平家伝説の持仏として重宝され、九州中から受けに来られるほどです。
また、心と体を護る「薬師心身健康守り」も大変人気があります。背景に祖母傾国定公園をいただく、高千穂の神々に護られた仏の里で、どうぞ心身を清らかに休めて下さい。


15:30終了、宮崎空港に向かう。
17:00宮崎空港到達。
19:15宮崎空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州宮崎県に足を運び、宮崎県に点在する九州四十九院薬師霊場7か所をおとずれ楽しみました。
各々の霊場の規模は中等度で派手さはなく、地味で人も少なく寂れていました。マイナーな霊場巡りですね。
次回は鹿児島県に点在する九州四十九院薬師霊場を訪れる予定です。

 
 






飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十弾:埼玉県武蔵野三十三観音巡礼観光
2018年1月20日-21日
 

関東地方の埼玉県に点在する、東京の西北、武蔵野の面影が色濃く残っている西武池袋線の沿線に点在する霊場、比較的都心に近い石神井から、深い緑におおわれた武蔵野丘陵の所沢周辺へ、さらには深山を思わせる飯能方面へと分布している武蔵野三十三観音霊場の19番ー33番までの霊場を訪れました。

20日13:30新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:10東京駅到達、タクシーでお台場日航ホテルに向かう。
16:30日航ホテル到着。
17:30講演会出席
20:00懇親会
22:00就寝。
21日7:30ホテルのタクシーで出発
8:00品が駅前でレンタカーで出発、埼玉方面に向かう。
霊場巡り

東光寺:法栄山遍照院東光寺と称するが通称「東光寺」と呼ばれている。入間市小谷田にあり、お茶畑を望む高台にある。
真言宗豊山派に所属し、本尊は不動明王で作者年代ともに不詳。当寺の創立年代は定かでないが中興開山は印融法印である。永正16年(1519)寂、墓碑当寺墓地に現存する。当山の伽藍は昔現在の南方300メートルの所にあり、広大な寺領を有していたが、数度の火災にあい、堂宇什器什物悉く灰塵に帰す。従って古書記録等全てを失い事実沿革を明瞭にする事ができない。
現存する本堂は寳暦元(1751)年霊妙和尚により現存の所に建立されたものである。
当山には武蔵野三十三観音霊場第19番東光寺奉納された梵鐘が2基ある。1基は延宝2年(1674)時の領主である五味家の菩提寺であったときのもの。他の1基は昭和63年新宿丸山園によるもので、鐘楼堂にはこの梵鐘が架かっている。また、当山は奥多摩新四国八十八ヶ所弘法大師霊場の第46番札所となっている。

龍圓寺 :参道を上ると、正面の本堂をはさんで右に庫裡(納経所)、左に観音堂等がある。観音堂には、千手観世音が安置されており、縁起によれば、10センチほどの金の佛像で小名田谷の井戸から出現したという。小名田谷は、地頭、市川氏が住んだ屋敷跡で、観世音出現の井戸の近くには稲荷の小祠があったとか。現在は、寺の東側に稲荷と井戸観音を祠り、復旧させた形をとっている。
寺は、建仁の頃この地に草庵を結んだ僧寂蓮が、この千手観世音菩薩像を安置したのに始まるという。その後数度の火災にあい、堂宇を鳥有に帰したが、この間、宝永6年(1709)に入寂した僧俊誉が中興となっている。
神仏共存の地区で、村社の祭典には境内にも仮屋が立ち、その起点となる。神田ばやし隠岐流(市無形文化財)や鉦はり(双盤)の保存活動も、寺中心に進められている。裏手には、武蔵野三十三観音霊場第20番龍円寺国分寺瓦をやいた登り窯跡の「かま跡公園」、境内には、狭山茶、唐桟織ゆかりの碑もある。弘法大師奥多摩新四国霊場第41番。

高正寺:武蔵野に細長く東西に延びる加治丘陵の北斜面に位置する当山は、今から約800年ほど昔鎌倉時代の初期、この地の豪族金子余市近範公によって開創された古刹である。
近範公は当時この加治丘陵で製鉄業を営む(今でもこの丘陵からは良質の砂鉄が出る)豪族で、その戒名を高正寺殿関叟常鉄大居士と称し、諏訪神を守護神としていたところから、当時は現在諏訪山萬齢院高正寺と称する。本堂には近範公の持念秘仏、虚空蔵菩薩を安置し、御前立聖観世音菩薩が札所霊場本尊である。
当山の聖観音像は、左の御手に蓮華蕾ではなく、開花した蓮華拈じておられる飛鳥形式の御影である。20番札所龍圓寺からは、徒歩約20分の峠道であるが、この坂道を金子坂といい近範公の砦跡と伝えられている。武蔵野三十三観音霊場第21番高正寺また仏子駅(古くはブッシと読んでいた模様で、この地に鉄仏師がいたのではないかの説あり)から徒歩約8分、境内には金比羅堂招福殿等の諸堂があり、また裏山の中腹には、奥多摩新四国八十八霊場第69番本尊を祀っており、現在曹洞宗に属する禅寺である。

圓照寺:当山は真言宗智山派光明院正覚院圓照寺と称し、平安の初期宗祖弘法大師龍燈桜の奇瑞を感じ、霊泉を加持して堂宇を創立したと云う。鎌倉時代の初期には、武蔵丹党の加治氏の菩提寺として円照上人が、弁財天を勧請し諸堂を整備して開山となった。その後寺は加治家と盛衰を共にし、やがて三浦氏の助力で僧朝弘が中興開山となり、寺域は拡大され、徳川幕府より朱印15石を賜り、明治初年寺領を奉還して現在に至った。本尊は加治氏の守り本尊とされた阿弥陀三尊が安置され、本堂は元禄年間の再建にかかるものだが、わずかの円柱と天井裏床下などをそのまま生かし、昭和38年に改築した。
境内には、安永年間に再建した北向不動尊を始め、心字池の中央に厳島より加治氏勧請の弁財天が安置され、毎年1月14日には大祭でにぎわう。本堂の一角に札所本尊如意輪観音(小野賢一郎氏寄進)が安置されている。武蔵野三十三観音霊場第22番円照寺史蹟として、元弘3年5月22日在銘の板碑他5基が国の重文指定をうけ収蔵されている。又本堂内には各界名士染筆寄進の絵馬数百点が奉納されている。

浄心寺:当山は明応~文亀年間(1500頃)の草創といわれ、本尊に阿弥陀三尊を安置している。当初は瑞林院と号したともいわれる。開山の聚栄常福和尚は永正8年(1511)に示寂。武蔵野三十三観音霊場第23番浄心寺のち慶長12年(1607)市内飯能の本寺能仁寺5世吉州伊豚和尚を中興開山として再興され、現住まで17世に至る。開基は当地の土豪岩沢氏、瑞林院殿月叟浄心居士(没年不詳)で現寺号はこれによっている。現在も檀中に子孫が続いている。
六世梁観禅棟和尚は若年江戸駒込吉祥寺に遊学し、学業成就を寺中の毘沙門天に祈願、見事首席となった。帰郷後報恩の為に附近の堤家より伝来の毘沙門天像を譲り受け安置した。以来学業成就、商売繁昌の信仰が高まり明治初年より1月7日の大祭は信徒数万人が群集し、だるま市が開かれるようになった。霊場本尊の十一面観世音は附近の本明院の本尊であったが廃寺となった為当山へ武蔵野三十三観音霊場第23番浄心寺移されたもの。身代わり観音といわれ災難除けの信仰がある。当寺は武蔵野七福神、高麗坂東9番、奥多摩新四国10番霊場でもある。

観音寺 :当寺は、飯能の商店街の西端に位置し、市民の心のよりどころ「天覧山(てんらんざん)」を北に、南に飯能河原が望める、緑と清流につつまれた自然豊かな場所にあります。
真言宗智山派に属し、ご本尊は如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)。体内に弘法大師作の秘仏が納められていると伝えられています。また西国33番・坂東33番・秩父34番の観音霊場の各ご本尊の写しを合わせた百観音も勧請されています。
境内には、文殊菩薩、不動明王、毘沙門天、大歓喜天(だいかんきてん)、荼枳尼天(だきにてん)、弁財天、大黒天、布袋尊などもまつられており、中でも天狗地蔵は、子供の健やかな成長を祈る人たちからの信仰が厚く、また不動堂の寿老人は、武蔵野七福神のひとつとして正月には多くの参拝者でにぎわいます。
その他、江戸天明期に檀家で当地方の俳人加湧轍之武蔵野三十三観音霊場第24番観音寺(かわくてつし)の肝いりで建立された俳聖芭蕉の句碑や戦中戦後を通じて俳界で活躍した水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)の句碑もあり、訪れる人の心をなごませています。

圓泉寺:縁起によれば、天長年間(824~834)に弘法大師遊化の折り、草堂を建立し、金銅唐仏(現在は木像)の十一面観音菩薩をまつり、傍らに小院を建立し、圓泉寺と名付けたと伝えられている。その後衰微し、享保年間(1716~1735)中興開山慶秀が再建したといい、また、本堂は、火災に困り焼失し、天保15年(1844)4月に再建された。
不動明王をご本尊とし、他に薬師如来などをまつるが、特に武蔵野七福神の『福禄寿』は、「福」「禄」「寿」の功徳を授けてくれるといわれ、正月には、多くの参拝者で賑わっている。このご朱印帳の書き方は、ここだけのもので、福・禄・寿の3文字を使い、お顔の形になるようにかかれている。
小高い所にある妙見堂は、平将門の信仰した妙見菩薩をまつり、『平松の妙見さま』としてしたわれているが、この御神体は、将門の影武者の綿貫(平)豊八が拝受し、落ちのびた後、武蔵野三十三観音霊場第25番円泉寺綿貫家で守護してきたものを、江戸時代境内にお堂を建立し、まつられた。12月3日の大祭には、近在よりたくさんの人が参拝にみえる。

靈巖寺:関東平野の西端、関東山地との境を高麗川が蛇行して東に向かって流れている。北西の山々が、冬の季節風を防ぎ、緑と清流に恵まれたこの地は、1300年前(霊亀2年)大陸からの渡来人によって、高い文化がもたらされた。靈巌寺は、この歴史ある高麗の里にある。
当寺のすぐ裏、高麗川の対岸には、高麗神社があり、その宮司は、当時の高麗郡長、若光王の男子直系の子孫といわれる。
当靈巖寺は、千有余年前、満行上人によって開山され、蛇行する川が造った地形が箕の形をしていたことから箕輪山、満行院と命名、又境内や高麗川の岩壁に巨岩が湧出しているところから靈巖寺と寺号が出来た。寺の前には広大な水田が開けて有名な「田植え地蔵」の伝説も残るが、水田は明治43年の大水害によって悉く流失し今は牧場、養鶏場、桑畑、工場と化してしまっている。

聖天院:当山は、遠く1250年の昔、高句麗からの渡来人高麗王若光の菩提寺として建立された。若光は、続日本記703年の条に「従五位下高麗若光に王姓を賜う」とあるように朝廷からもその能力を認められ、武蔵国高麗郡の長として祖国の技術をもってこの地の開拓・発展に大いに治績を収めた人物である。
古い歴史と自然に恵まれた高麗郷であるが、とりわけ当山は後方に深い緑に包まれた山をひかえ、高台に位置する広大な境内からの眺望はすばらしく高麗郷随一である。本尊不動尊・高麗王若光守護仏聖天尊(出世開運)の霊験はまことにあらたかで、武蔵野三十三観音霊場としても名を馳せ、老若男女の御参詣日々に多く、山水を存分にとり入れた庭園は四季折々の風情に移ろい、霊域としてまことにふさわしいものがある。
かねてより宮様方をはじめ、各界地名・文化人、児童学生などあらゆる方々の武蔵野三十三観音霊場第26番聖天院ご参詣見学をうけ、当山を訪れた方々は深い感銘と貴重な人生の糧を得られております。

勝音寺:鎌倉建長寺72世勅諡佛印大光禅師、久菴僧可大和尚(上杉兵庫頭憲将公の子息にして応永24年正月26日寂・78歳)阿弥陀如来を本尊として、応永3年8月創立。江戸初期罹災し4世隣藝和尚(平沢の金剛寺駒高の安州寺を創立)により再興するも、亦々天保8年本堂を焼失し現在に至る。
観音堂(現在仮本堂)本尊千手観音菩薩(坐像1尺7寸)脇佛不動明王、毘沙門天(共に立像1尺2寸)を安置する。詳細不明なれど、相模国鎌倉の佛師定朝作と伝える、延文5年佛師周防法橋朝尊により修補、その後享保年間、昭和60年にも再修復現在に至る。(市指定文化財)
尚、慶安2年幕府徳川家より、観音堂領としての五石の御朱印を賜る。又寺宝として大般若経600巻、南北朝時代康安2年、下野国佐野庄の住人比丘昌旭が書写したもので「一巻百札観音懺法武蔵野三十三観音霊場第27番勝音寺一坐楞厳咒一反及金剛経一巻心経七巻読誦諸願供養書比丘昌旭大檀那浄心禅尼一人」と記されてある。(市指定文化財)
高麗坂東観音霊場30番、武蔵野三十三観音霊場27番札所。

瀧泉寺 :平安時代に開山された当山は、はじめ、京都仁和寺、御室御所の直末であったが、時が移り現在は、真言宗智山派に属している。寺のすぐ前を県下一の清流、高麗川が流れ、市の鳥で清流の宝石ともいわれる「かわせみ」もよくみかけられる。
近年は写佛の会が盛んになり、平成4年の秋には、10年、延2000人がかりの64畳分の胎蔵曼陀羅天井(本堂外陣)が完成した。現在は胎蔵曼陀羅と対をなす、金剛界曼陀羅の写佛天井画をはじめている。この他、本尊千手観音の功徳を余すところなく体験するために、千手観音千体写佛(持物手写佛)も同時に行われている。写佛に興味のある方も、そして無い方も是非お出かけ下さい(写佛とは…仏様の図を下絵にし、上に紙を重ねて仏様の姿を写し描きすることです)。
また、日本の貴重な花ハスも数多く栽培されている。これは完成した胎蔵曼陀羅と本尊千手観音が別名蓮華王と称されることに因んで奉納されているものであるが、武蔵野三十三観音霊場第28番瀧泉寺花の美しさを愛でることもさることながら、枯れゆく姿も観照していくところに当山のハス栽培の意義がある。8月には観蓮会なども開かれる。

長念寺:慶長3年飯能の能仁寺4世格外玄逸によって再中興開山された曹洞宗の古刹である。蔵する所の古文書やかつてこの境内にそびえ立っていた唐様式の観音堂(延享元年高倉寺に再建、現在国宝)など考えると開山は相当古く由緒深い寺院と考えられる。天文3年大石定久の肝煎で再興され、小田原北条との縁の深かった事も想像される。天正19年家康により10石の寺領を得て復活し慶長3年に再中興された。聖観音を本尊とし(県指定文化財)、高麗坂東27番の霊場でもある。
享保19年、領主黒田直邦の熱意で400年経過した古い堂を改築されたが、この堂は現在正法寺境内、岩殿観音に移され再建されている。
寺の境内には当時盛んであった武蔵野三十三観音霊場第29番長念寺名残と思われる南北朝頃の青石塔婆が多く保存され、また滝山城主大石定久や八王子城主北条氏照の寺領に関する文書や徳川家康の朱印状、黒田直邦関係の寺宝もあり歴史的価値の高い寺院である。奥武蔵の紫陽花寺と云われ、参道、境内に咲き競う赤白の紫陽花の花見客でにぎわっている。

福徳寺:建暦2年(1212)の創立で、開山は、宝山禅師と伝えられている。永く無住であるが檀家一同の深い信仰心に護られて今日に至っている。
御本尊聖観世音菩薩様は、参道正面の本堂に奉安されているものの拝観はできない。本堂より下の位置にある国指定の阿弥陀堂内には、県指定の善光寺様式の一光三尊の阿弥陀三尊像が居られ、重要文化財を護持している寺として有名である。
所在は、秩父街道(国道299号線)を吾野へむかう途中に東吾野駅がある。この先を200米程で右へ折れて虎秀谷を400メートルの所に美しい緑の中に御堂が見えて来る。
福徳寺の御納経所は、国道299号線を吾野方面に1200メートルほど行くと、同じ臨済宗建長派の禅寺興徳寺がある。
尚、福徳寺の阿弥陀堂は、例年4月15日と11月14日の午前10時頃から12時頃まで御開帳している。
武蔵野三十三観音霊場第30番福徳寺
また、7月16日には、大施餓鬼会の法要が厳修され、その時を含めて、年3回は、聖観世音菩薩様と、阿弥陀三尊如来様を拝むことができる。

法光寺:第31番札所曹洞宗法光寺は西武線吾野駅下車徒歩2分の所にある。ご本尊は延命地蔵菩薩であるが、本堂前の観音殿に木彫十一面観世音菩薩が祀られている。奥の院が裏山約1キロメートル、西武建材株式会社の採掘所内の鍾乳洞の中にある。この観音窟は鎌倉・甲州・武州の関東三大岩殿山と言われていた。当初のご本尊は残ってないが、貞和2年10月(1347)の刻名のある石龕(せきがん)が残されていた。考古学者柴田常恵先生の発願で再興、香取秀真先生の鋳造による十一面観音が石龕の厨子の中に安置してある。また正面には鷲尾順敬先生の額『妙好華殿』が飾ってある。新編武蔵風土記によると、その昔行基菩薩作のご本尊が祭られていたとある。
又、別本岩殿山縁起書によると、聖武天皇の御宇天平年中行基菩薩の開基で、東北行脚の折りこの洞窟で眠っていた折り白馬童子が現れ『汝山頂の霊木を以て十一面観世音の尊像を彫刻しここに安置せよ』とのお告げを受けた。翌朝彼のご神木を見つけ、歓喜して尊像を彫刻し安置したとある。また同所には約4メートルの滝や不動明王の魔崖佛の彫刻・弘法の硯水・馬の歪跡等の見所もある。

天龍寺(子ノ権現) :当寺は奥武蔵自然公園内、正丸峠・伊豆ヶ岳と続く山々の東端、標高640メートルの山の頂上にある。当山の開創は、延喜11年(911)に子ノ聖が十一面観音をお祀りし、この地に天龍寺を建てられたことにはじまる。その後、子ノ聖を大権現と崇め、本尊としてお祀りし、現在に至っている。
子ノ聖が当山へ初めて登山したおり、山麓にて鬼類に襲われ腰から下に火傷を負い苦労したことがあり、「足腰の病に悩める者、誠の心で我を念ずれば、必ず霊験を授けん」という遺言を子ノ聖が残したことから、足腰守護の神仏として世に広く知られ信仰されている。明治の頃には、人力車組合や荷車組合の方々の信仰が厚く、現代では、農家や職方、スポーツ選手等足腰強健を願う方、足腰守護を願う中高年の方々の参拝が絶えない。 武蔵野三十三観音霊場第32番子ノ権現天龍寺
さらに、当寺では往古より、本尊様へ履物を奉納し、各自の願をかける慣しがあり、境内にある日本一の鉄のわらじは、その信仰的シンボルとされている。
また、当寺を起点に正丸峠方面や竹寺方面への登山道は、『関東ふれあいの道(下記参照)』に指定され、多くの山の愛好家にも親しまれている。

八王寺:医王山薬寿院八王寺と称し、本尊「牛頭(ごず)天王」を拝し、本地仏「薬師如来」を祀る神仏習合の姿を今に見る、東日本唯一の遺構である。1000年の歴史を有する山岳仏教の道場として、多くの参拝者が登山される。
海抜500メートルに位置し、茅葺きの本殿は牛頭天王を祀り、丑年に開帳の特別行事が修される。春夏秋冬境内の移りゆく景色は素晴らしく、特に春(3月~6月)と秋(9月~12月)に接待される精進料理は、季節の味わいが好評で、住職の話が楽しい。
ハイキングコースにも組まれており、日帰りのハイキングとして手軽に歩ける。新春は、初詣の登山も車で済み、境内より、新宿、池袋の高層ビル街が望め、静かな山上での祈願が受けられる。
武蔵野三十三観音霊場第33番竹寺(八王寺)武蔵野三十三観音霊場三十三番の結願寺であり、三十三ヶ寺の願をここで終える。奥武蔵俳句寺としても親しまれており、文人墨客も多く参拝され、客殿等に絵馬や色紙短冊など多くが掲げてあり、これを見るのも楽しみである。

14:00終了、品川に向かう。
16:20品川駅到達。
16:50品川駅新幹線のぞみで出発
19:40新大阪駅到達

今回の旅行、関東地方の埼玉県に点在する武蔵野三十三観音の19番ー33番まで訪れ癒されました。今回は武蔵野三十三観音の第二弾目で前回は東京から埼玉の比較的にぎやかな場所に点在していた霊場でしたが今回は埼玉県の西北西の田園風景を望みながらの霊場巡り、渋滞もなく、車の少なく、すんなり訪れることができました。霊場の規模は中規模で派手さはありませんでした。
尚最終の32番33番は険しい山の中で道が狭く勾配が強くたどり着くのに時間がかかりスリルを味わいながらの走行でした。今回で武蔵野三十三観音巡り無事終了しました。

















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十九弾:福岡県九州四十九院薬師巡礼観光
2018年1月13日-14日
 

九州の最大の都市のある福岡県に足を運び、古来、九州は大陸との交易の窓口であり、早くから我が国にもたらされた薬師信仰も、九州各地に深く寝ずいている。全行程1600キロ、九州七県にまたがる薬師霊場巡りは、大自然の生気を吸収して心身ともに癒される旅、九州四十九院薬師巡礼の福岡県に点在する霊場8か所を訪れました。

13日17:42新大阪新幹線のぞみで出発
20:10博多駅到達、駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
14日  8:00レンタカーで出発、霊場巡り

国分寺:奈良時代、天平13年(741年)聖武天皇は、仏教による地方政治の安定と、文化の交流をはかるため、国ごとに国分寺と国分尼寺の建立を命じられました。この一連の流れに従い、当寺も、筑前の国の国分寺として創立されました。
当初は、絢燭豪華を極める大寺院で、その広大さは現在境内にのこる、大きな柱の礎石にも、容易にうかがい知ることができます。

その後、歴史の流れに従い数々の兵火により、本堂はおろか堂・坊舎まで焼かれ、ほとんど廃絶に近いまで荒廃していた時代もあったとか...

たまたま武蔵の国から来られた、廻国の修行僧が、形ばかりの草堂を再建した。
その後、数十年を経て元文年間(1736年)に中興の師、俊了、国中に浄財を募って小堂を建立した。

天明年間(1781年)に至り、僧・忍龍、山門を修理する傍ら、福岡黒田藩の長老・黒田美作より田地の寄付を受け寺の財産とする。

明治24年(1891年)中興一世・原 崇寿・本堂を再建し、坊舎を修繕しようやく一寺としての体裁を備うるようになった。

その後、二世・原 寿海・三世 原 法仙(尼僧)と住職を引き継ぎ昭和27年(1952年)3月 壇徒総代の絶大な協力のもと、台風と白蟻の被害に荒れる本堂を国庫の補助を受けて、大修理を行った。

四世・原 善信は、昭和27年(1952年)7月、母、法仙より住職としての業務を引き継ぎ。
昭和36年(1961年)6月、重要文化財である薬師如来を、火災から完全に守るため、壇信徒の支援を得て、その収蔵庫を完成させ万全を期した。
また、昭和49年(1974年)には、講堂兼庫裏50坪を改築し、壇信徒の集会等の場所を提供した。
なお、前記昭和27年住職の業務を引き継いでから、平成6年(1994年)7月人寂までの間、よく布教の拡大に勉め、納骨堂7堂を建立したほか、斎場兼納骨堂として新館四階建てを建立し、今日にいたっている。

南林寺:桓武天皇の命により、時の比叡山の僧最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)は藤原葛麿を長とした遣唐使の一行として、筑前国那の津(博多港:一説には平戸)から船出した。
途中暴風雨のため入唐断念を余儀なくされた。しかし、最澄は「無事に唐の国に渡ることが出たら、お礼に仏像を刻み、寺を建立し衆生を救うため一生を捧げます。」と祈って無事に唐の国に到着した。
翌年帰国後、最澄は誓願を果たすために筑前の山々を訪ね、夜須郡の白山(現在の朝倉市秋月古処山)の麓で霊木を見出し、七体の薬師像を一刀三礼して謹刻され開眼供養を行った。最初の一体を秋月に安置する予定であったが一夜にして七体の仏様は無くなってしまったのである。

最澄は仏のお告げにより上座郡長洲(朝倉市長洲)に最初の一体を見つけその地に南林寺を建立した。大同元年(西暦806年)のことである。

安国寺:

種因寺:『桂川町史』には、比叡山延暦寺末、弘仁元年(810)伝教大師が開基した。本尊に薬師如来を安置、説に伝教大師が謹刻した七仏薬師の一つであるという。
以来、職盛して大伽藍を有した。古図によると本堂・回廊・楼門・五重塔・鐘楼・仁王門・御供屋などが建ち並ぶ堂々たる構えであった。

こうした大伽藍も、戦国時代に大友宗麟と島津貴久の兵火に擢災。暦応2年(1339)8月、霊山という僧が中興したとあるのは、元号の間違いか、元禄9年(1696)崇福寺古外が撰した縁起一巻を蔵す。

薬師院:

福聚寺:

相円寺::御本尊の薬師如来は、行基作と伝えられている高さ272cmの木造坐像です。山の上の鍾乳洞の中の本堂に安置されています。

本堂まではダム脇の参道を歩き、250余段の石段を登らなければならず、九州四十九院薬師霊場の中で最も難所だと言われていますが、参道脇の数多のお地蔵様を見ることができ、本堂前から見下ろすたっぷりとした水をたたえたダムを抱く景観は、参拝なさった多くの方々に好評です。

4月上旬には境内や寺院周辺の桜、6月下旬から7月上旬にはあじさいが目を楽しませてくれます。

国分寺:豊前国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇が天下泰平と鎮護国家の祈願を込め建立を命じた寺院で、全国68箇所(66国と2島)に建立された「国分寺」の一つであり、境内地は、昭和51年(1976年)に国指定史跡に指定されています。

豊前国分寺のシンボルといえる三重塔は、明治29年(1896年)に建立されたもので、昭和32年(1957年)に福岡県の有形文化財に指定され、昭和60年(1985年)に全面解体修理が行われました。

17:00終了、博多駅に向かう。
18:10博多駅到達。
18:33博多駅新幹線のぞみで出発
21:01新大阪駅到達

今回の旅行、九州福岡県に足を運び、福岡県に点在する九州四十九院薬師霊場8か所を訪れたのしみました。
大都会福岡博多ですが郊外に出ると田園風景、見渡す限り田んぼ、畑でいっぱい、田舎を感じます。その中に点在している霊場、車での移動も含めて癒されました。