飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十一弾:栃木県お城・城下町巡り観光
2018年10月27-28日
 

今回は北関東地方に位置し、県庁所在地は宇都宮市、県内には日光国立公園が立地し、日光・那須などの観光地・リゾート地を有する栃木県に足を運び、栃木県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

27日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:25東京駅到達
16:35東京駅新幹線やばびこで出発
17:26宇都宮駅到達、駅前のホテル到着後友人と食事を済せる。
23:00就寝。
28日8:00レンタカーで出発、城めぐり。

西明城:築城年代は定かではないが益子氏によって築かれたと云われる。 益子氏(ましこ)は「下野国誌」によれば「康平年間(1058年~1065年)に紀正隆が益子那流山の山麓に益子城を築き、のち山上に住した」とある。つまり始め益子城を築き、その後に西明寺城を築いて住んだと解釈されているが定かではない。

益子氏は紀伊姓で、同じく宇都宮氏の家臣の清原姓芳賀氏とともに、紀清両党と呼ばれ鎌倉時代から南北朝時代にかけて宇都宮氏の重臣として活躍した。

天正17年(1589年)益子氏は笠間氏を攻めるなど主家宇都宮氏に叛いたとされ、宇都宮国綱は芳賀高定らと謀って益子氏を誅伐して所領は没収され、益子氏は滅亡したという。

茂木城:築城年代は定かではないが建久年間(1190年~1199年)に茂木三郎知基によって築かれたと云われる。 茂木氏は八田知家が源頼朝より得た下野国茂木保の地頭職を三男知基に譲り、茂木氏を名乗ったことに始まる。

建武3年(1336年)茂木知貞・知世父子は北朝方として各地を転戦するが、留守中に南朝方の北畠顕家に攻められた。

天正13年(1585年)北条氏政によって茂木城は一時奪われたが、佐竹義重によって奪い返された。文禄3年(1594年)茂木治良は佐竹義重の命によって常陸国小川城に転封となり、代わって佐竹家臣の須田盛秀が茂木城代となったが、慶長7年(1602年)佐竹義宣が秋田へ転封となり廃城となった。

村上城:永和4年(1378年)村上新助良藤によって築かれたと云われる。 村上氏は益子氏の一族で、良藤が築城したのち村上丹波守則光、村上丹波守光義と三代にわたる居城であったと伝えられる。

烏山城:築城年代は定かではないが那須氏によって築かれた。築城に関しては応永24年(1417年)那須資重が烏山城を築いて稲積城より移った説と、明応年間(1492年~1501年)に那須資実が築いたとする説がある。

那須資氏の二男資重は沢村城主沢村氏の家督を継いで八代沢村五郎資重と名乗ったが、福原城の本家を継いだ兄那須資之との不和により応永21年(1414年)沢村城を攻められ、資重は烏山に逃れた。 資重は当初興野氏の館に住み、その後稲積城を修築して移り、応永25年(1418年)には烏山城を築いて居城とした。(烏山築城は資重の孫資実との説もある)資重の子資持が那須に復姓して下那須家となり、那須家は本家上那須家と下那須家に分かれて争うようになった。その後、那須家は下那須房資の代に上那須家が滅亡して(亀山城を参照。)下那須家が本流となっている。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で那須資晴は参陣せず、小田原城落城後にようやく秀吉に参謁したが遅参により所領を没収された。那須氏はその後、資晴の子資景が五千石を賜り福原要害城を居城として再興している。また晴資自身も所領が与えられ文禄元年(1592年)には肥前国名護屋に二百五十の兵を引き連れて参陣している。

那須氏が改易されると天正18年(1590年)尾張国清洲から織田信雄が二万石で転封となるが、二ヶ月程で天正19年(1591年)秋田へ転封となった。

那須神田城:天治2年(1125年)須藤権守貞信によって築かれたと云われる。 須藤権守貞信は那須氏の祖とされる人物であるが、その出自については山内首藤氏や那須国造後裔など諸説あって定かではない。

那須資高の十一男は、かの有名な那須与一宗隆で、元暦2年(1185年)源平合戦では源義経に従い、屋島合戦で舟の先端の竿に付けられた日の丸の扇を馬上より弓で見事に射落としその名を轟かせた。その後、源頼朝より那須家の惣領を継ぐよう命じられている。この時、与一は兄弟に所領を分知し那須十氏となった。

・長男太郎光隆は森田の地を与えられ森田城主森田氏を称す。
・二男次郎乗隆は佐久山の地を与えられ、佐久山城主作山氏を称す。
・三男三郎朝隆は芋渕の地を与えられ芋渕氏、その後裔は梁瀬に移り梁瀬氏を称す。
・四男久隆 ・五男五郎之隆は福原の地を与えられ福原城主福原氏を称すが、与一宗隆の跡を継いで宗家となり、那須氏が上下に分かれた時は上那須氏となった。
・六男六郎真隆は滝田の地を与えられ滝田城主滝田氏を称す。
・七男七郎満隆は沢村の地を与えられ沢村城主沢村氏と称す。那須家が上下に分かれた時には下那須家となり烏山城を居城とした。
・八男八郎義隆は堅田の地を与えられ山田城主堅田氏と称す。その後、片平へ移り片平城主片平氏を名乗った。
・九男九郎幹隆は稗田の地を与えられ稗田氏を称す。
・十男十郎為隆は千本の地を与えられ千本城主戸福寺氏を称す。後に千本氏を名乗る。

武茂城:築城年代は定かではないが正応・永仁年間(1288年~1299年)頃に武茂泰宗によって築かれたと云われる。武茂氏は宇都宮城主宇都宮景綱の三男泰宗が武茂郷を領して武茂氏を称したことに始まる。

応永14年(1407年)武茂綱家は子の持綱を宗家宇都宮満綱の養子とし、宗家の家督を継がせた。応永30年(1423年)宇都宮持綱は、持綱が宗家を継いだことに不満を持っていた川崎城主塩谷教綱によって梨木坂で討たれた。持綱の遺児等綱はわずか四歳で、家臣に添われて佐竹を頼って逃れたが、永享10年(1438年)祖父武茂綱家が後見人となって等綱は宇都宮の家督を継いでいる。

持綱が宇都宮宗家の家督を継いだため武茂氏は断絶していたが、寛正3年(1463年)持綱の曾孫にあたる芳賀兵衛成高の子正綱が、武茂太郎を称して武茂氏を再興した。しかしこの正綱も宇都宮明綱(等綱の子)が嫡子なく没した為に、宇都宮氏の家督を継ぎ武茂氏は再び断絶した。

永正3年(1506年)正綱の子兼綱が武茂氏を再興した。この兼綱は武茂右衛門五郎と称して武茂郷一万石を領した。

その後、武茂氏は佐竹氏と那須氏の対抗の狭間にたち、永禄3年(1560年)頃に佐竹氏に属した。文禄4年(1595年)武茂豊綱・堅綱は久慈郡大賀村に八百石を与えられて所替えとなり、代わって佐竹家臣太田五郎左衛門資景が武茂城主となった。 関ヶ原合戦後、佐竹氏は秋田へ転封となり、武茂堅綱もそれに従って秋田へ移った。

黒羽城:天文12年(1543年)大田原資清によって築かれた。 大田原氏は那須七騎の一つに数えられ、資清のときに水口館から大田原城を築いて居城を移しており、それまでの「大俵」から「大田原」氏へと名を改めた。

天正18年(1590年)大田原晴清は、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、大田原氏は主家那須氏に先んじて小田原に参陣し、沼津の陣営で豊臣秀吉に謁見、本領七千石余を安堵された。

慶長5年(1600年)関ヶ原合戦においては、上杉氏の動向を探り、また上杉氏に対する備えとして徳川氏の支援を受けて城を拡張した。慶長7年(1602年)には四千五百石余を加増され、併せて一万二千石余となって大名に列した。

大田原藩は寛文元年(1661年)三代大田原高清が家督相続したとき、弟為清に一千石を分与して一万一千石余となり、以後代々続いて明治に至る。

芦野城:築城年代は定かではないが芦野氏によって築かれた。 築城に関しては二つの説があり、一般的に前者の方が有力とされている。 天文年間(1532年~1555年)に芦野資興が太田道潅に兵法を学び芦野城を築いたという説と、天正18年(1590年)に芦野盛泰が築いた説である。

芦野氏は正平年間(1346年~1370年)に那須資忠の三男(あるいは二男)資方(あるいは資宗)が芦野家を継いだことがわかっているが、それ以前については詳らかではない。しかし、吾妻鏡の建長元年(1256年)6月2日の条に「奥の大道を警固するべき路次の地頭」として芦野地頭があり、芦野館を居城とした人物がいたことは確かなようである。

天正18年(1590年)那須七騎の一人芦野盛泰は、主家烏山城主那須資晴には従わず、那須衆として豊臣秀吉の小田原城攻めに参陣し本領を安堵された。

慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では徳川家康に属して上杉景勝の南下に備え、その功によって加増され約三千石を領して交代寄合の旗本となった。この時、芦野城の二の丸に陣屋が構えられ芦野陣屋として代々芦野氏が続き明治に至る。

大田原城:天文12年(1543年)大田原資清によって築かれた。 大田原氏は那須七騎の一つに数えられ、資清のときに水口館から大田原城を築いて居城を移しており、それまでの「大俵」から「大田原」氏へと名を改めた。

天正18年(1590年)大田原晴清は、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、大田原氏は主家那須氏に先んじて小田原に参陣し、沼津の陣営で豊臣秀吉に謁見、本領七千石余を安堵された。

慶長5年(1600年)関ヶ原合戦においては、上杉氏の動向を探り、また上杉氏に対する備えとして徳川氏の支援を受けて城を拡張した。慶長7年(1602年)には四千五百石余を加増され、併せて一万二千石余となって大名に列した。

大田原藩は寛文元年(1661年)三代大田原高清が家督相続したとき、弟為清に一千石を分与して一万一千石余となり、以後代々続いて明治に至る。

御前原城:築城年代は定かではないが、伝承によれば治承・寿永年間(1177年~1185年)頃に堀江左衛門尉頼純によって築かれたと云われる。 堀江氏は源姓塩谷氏(しおのや)ともいい、八幡太郎義家の後裔で頼純が祖という。

五代塩谷朝義は宇都宮頼綱の弟朝業を養子に迎えて家督を譲った。塩谷朝業は正治・建仁年間(1199年~1204年)頃に川崎城を築いて居城を移したという。その後も塩谷氏の支城となっていたようで、四郎左衛門尉泰朝が城主となっている。

17:00終了。宇都宮駅に向かう。
17:30宇都宮駅到達。
17:58宇都宮駅新幹線やまびこで出発
18:48東京駅到達
19:00東京駅新幹線のぞみで出発
21:37新大阪駅到達。

今回の旅行、北関東に位置する栃木県に足を運び、栃木県に点在する比較的マイナーなお城10か所をおとずれ楽しみました。

各城跡は、遺残物は少なかったが、案内板がしっかりあり、たどり着くのが容易でした。ほとんどが城址公園に変貌しており整備され散策が気持ちよくできました。

今回で東日本の城跡、ほぼ制覇しました。残るは西日本の5都道府県の城跡を残すのみとなり、年内に制覇予定です。

 
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十弾:石川県お城・城下町巡り観光
2018年10月20-21日


北陸地方に位置し加賀百万石の城下町・金沢市には、季節を問わず、常に美しい景色が見られるよう設計された「兼六園」をはじめ「金沢城」「ひがし茶屋街」「近江町市場」など、加賀藩の栄華を今に伝えるスポットが点在。能登半島ならではの日本海の美しさを堪能するなら「千里浜なぎさドライブウェイ」や「聖域の岬(珠洲岬)」「巌門」ヘ足を伸ばすのもおすすめです。「鶴仙渓」や白山神社の総本山「白山比咩神社」など、内陸の見どころも見逃せません石川県に足を運び、石川県に点在する比較的マイナーなお城11か所を訪れました。

20日13:20大阪駅サンダーバードで出発
16:35金沢駅到達、レンタカーで小松方面にむかう。
お城巡り

松任城:築城年代は定かではないが鏑木氏によって築かれたと云われる。 天正5年(1577年)上杉謙信が侵攻したが落城せず、和議となった。 天正8年(1580年)若林長門守が加賀に侵攻した織田軍と交戦し謀殺され落城した。
天正11年(1583年)前田利長が四万石で越前府中から移ったが、天正15年(1587年)豊臣秀吉の直轄領となった。
その後、丹羽長重が城主となるが、関ヶ原合戦後に再び前田利長に加増され赤座吉家が城代となり、慶長19年(1614年)廃城となった。

17:40粟津市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
21日7:30レンタカーで出発、お城巡り。

大聖寺城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に築かれた。 現在の縄張になったのは、天正11年(1583年)に四万四千石で入封した溝口秀勝の頃という。 慶長3年(1598年)秀勝は越後国新発田に移封となり、替わって小早川秀秋の家臣山口玄蕃が入封した。
関ヶ原合戦で豊臣方に付いた玄蕃は徳川方の前田利長に二万五千もの大軍で攻められ、一日にして落城した。 その後、一度修復されたものの元和の一国一城令で廃城となった。
寛永16年(1639年)3代加賀藩主前田利常の子利治に七万石を分地して、大聖寺藩が興された。 大聖寺藩は大聖寺城を使用せず、東麓に館を構えた。

波佐谷城:築城時期は定かではないようですが、一向一揆方の宇津呂(打尾)丹波という人物が築城したと伝えられます。天正八年(1580年)の柴田勝家の攻撃で落城しました。その後、小松城に入った村上勝頼が支城として波佐谷城に村上勝左衛門を入れたとされます。慶長三年(1598年)に村上氏は越後の本庄に転封され、この頃に波佐谷城は廃城になったと考えられます。

波佐谷には加賀一向宗の有力寺院の松岡寺がありました。この寺は蓮如の三男の蓮綱が建て、子の蓮慶がこの地に移したとされます。しかし、松岡寺は享禄四年(1531年)に一向宗の内紛で攻められて廃寺になったと伝えられます。

御幸塚城:築城年代は定かではない。 加賀南部の半国守護富樫泰高の居城とも云われ、天正4年(1576年)一向一揆方が、この城から出陣して織田軍を攻めたという。 織田信長は佐久間盛政を将として攻め、盛政配下の徳山則秀の策略で内応者を出し落とした。

慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では東軍の前田利家の家臣が布陣し、西軍の丹羽長重と浅井畷で戦った。

小松城:築城年代は定かではないが天正年間初期(1573年~1592年)に若林長門守によって築かれたと云われる。 若林長門守は一向一揆の部将で天正7年(1579年)柴田勝家によって攻撃され落城した。

織田信長は六万六千石で村上頼勝を城主としたが、慶長3年(1598年)越後国本庄に移封となり、丹羽長重が十二万石で松任城から移った。

関ヶ原合戦では豊臣方に属し、徳川方の前田利長と交戦したが敗れて利長に降った。 関ヶ原合戦後、長重は改易となったが慶長8年(1603年)常陸国古渡に一万石で大名に復帰した。

それ以後、前田氏の持城であったが元和の一国一城令により廃城となる。しかし、寛永16年(1639年)加賀藩3代前田利常の隠居城として再び整備された。

和田山城:永正3年(1506年)和田坊超勝寺によって築かれたと云われる。 天正年間に越前一向一揆を破り加賀国に侵攻した織田軍により平定され、北庄城の柴田勝家の部将安井家清(左近)が城主となった。

岩倉城:築城年代は定かではないが享禄年間に一向一揆によって築かれたと云われる。 加賀国守護富樫氏を降した一向一揆に対抗して加賀に侵攻した朝倉氏に対する備えとして築かれたという。

織田軍による加賀侵攻では、鳥越城の前衛として攻防が繰り広げられ落城。織田氏方の拠点として改修されたといわれる。

二曲城:築城年代は定かではないが二曲右京進によって築かれたと云われる。 二曲氏は二曲村の土豪で代々この地に勢力を持っていたという。 織田信長が加賀一向一揆に侵攻すると、鈴木出羽守が白山麓山内衆の総大将として派遣され、鳥越城を築城して拠点を移し二曲城は三坂峠を押える支城となった。
天正8年(1580年)柴田勝家によって攻められ鳥越城とともに落城、鈴木一族は滅亡した。 勝家は鳥越城に吉原次郎兵衛、二曲城に毛利九郎兵衛を置き固めたが、白山麓一向一揆の抵抗は続き天正9年(1581年)に奪還された。 しかし、天正10年(1582年)織田信長によって一向一揆の掃討作戦が行われ、佐久間盛政によって鎮圧、門徒ら300人が磔に処せられた。

鳥越城:築城年代は定かではないが鈴木出羽守によって築かれた。 鈴木出羽守は加賀一向一揆白山麓山内衆の総大将として築城し、織田信長による加賀侵攻に対抗した。
天正8年(1580年)柴田勝家によって攻められ二曲城とともに落城、鈴木一族は滅亡した。
勝家は鳥越城に吉原次郎兵衛、二曲城に毛利九郎兵衛を置き固めたが、白山麓一向一揆の抵抗は続き天正9年(1581年)に奪還された。
しかし、天正10年(1582年)織田信長によって一向一揆の掃討作戦が行われ、佐久間盛政によって鎮圧、門徒ら300人が磔に処せられた。

舟岡城:築城年代は定かではない。 織田信長の加賀に侵攻に対応して、白山麓山内衆の大将鈴木出羽守の守る鳥越城への入口を固める為に修築されたといわれる。
天正8年(1580年)織田軍の加賀平定作戦で鳥越城とともに落城したという。
その後は丹羽長秀の家臣早谷五左衛門、前田利家の家臣高鼻石見守が城主となった。

高尾城:築城年代は定かではないが長享2年(1488年)以前に富樫氏によって築かれたと云われる。

富樫政親は加賀国守護であったが、次第に強力になる一向一揆に危機感を募らせ、将軍足利義尚に支援を要請して一向一揆に対抗しようとした。一向一揆方は政親の家老山川三河守を介して和睦を伝えたが、政親はこれを固持し高尾城を修築して備えた。 一揆方は越前・越中からの政親方の援軍に対する備えを行い、富樫泰高を大将として大乗寺に本陣を据えて高尾城を大軍で包囲した。政親は城内より討って出て一揆勢と戦ったが打開することはできず、頼みの援軍も加賀国境で一揆軍に退けられ政親は城内で自刃して果てたという。一説に高尾城から脱出して鞍ヶ嶽城に入ったが、そこで敗れて討死したとも伝えられる。

16:20終了、金沢駅に向かう。
17:30金沢駅到達
18:07金沢駅サンダーバードで出発
20:54大阪駅到達。

今回の旅行、北陸に位置する石川県に足を運び石川県に点在する比較的マイナーなお城11か所をおとずれ楽しみました。。
歴史的建造物が多く風情のある石川県、観光名所も多く、交通の便もよくなり、多くの観光客でにぎわっていました。マイナーなお城も比較的整備され案内板もしっかりあり、城址公園に変貌しているところが多く、整備され楽しく巡ることができました。





  
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十九弾:北海道八十八ヶ所三十三観音&お城観光
2018年10月13-14日
 

北の北海道に足を運び、富良野、帯広、網走、旭川のエリアに点在する北海道八十八ヶ所、三十三観音、お城8か所を訪れました。

13日15:30伊丹空港出発
16:40羽田空港到達
17:55羽田空港出発
19:35旭川空港到達、レンタカーで旭川市内のホテルに向かう。
20:50旭川市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
14日5:15レンタカーで出発富良野方面に向かう。

春宮寺:明治38年6月、炭屋実雄が京都から来道し、当現在地に説教所を開設したが、何か理由があったのか、2年後には後任者を決めて、説教所を去ることになる。
 炭屋実雄が後任者の谷澤正道に宛てた手紙が何通が残っており、北海道行きをためらう谷澤正道を説得する苦心の跡がうかがわれる文面である。説教所は神楽岡の高台の続きにあり、離宮造営地として設定されただけあり、上川盆地と大雪山を一望に収める風光明媚の地だった。
 明治44年、辛苦の中で「春宮寺」寺号公称の許可を得た。
春宮寺のいわれは、この辺一帯が御料地であったので、皇族の安泰を祈る気持ちから、皇太子を意味する春宮とした。
 本堂は大正6年の建立。寺近くのアオダモの原生林を払い下げてもらい、用材とした。建築には金釘は1本も使わず、大木を上手に用い、木組みで造られている。

弘照寺: 明治34年頃、開拓で入植した大師信者が当時の上富良野村東中に大師堂を建立し、大師講を組織したのが当寺の前身であり、その後、明治38年富山県出身の岩田實乘が晋住し、真言宗説教所としたのが弘照寺の開創である。その後、寄進のあった現在地に堂宇を建立し、大正8年に移転をした。昭和6年寺号公称が許され、また、岩田實乘が目白僧園にて修行の折、師事をした釋雲照和上から山号を賜り、「慈雲山弘照寺」と称して現在に至る。

富良野寺:富良野寺の開基は前住職宮田戒応師の祖父宮田俊人で佐賀蓮池藩の下級武士宮田儀満の子である。
 俊人がどんな理由で渡道を決意したかは不明だが、古丹別の説教所に空きのあることを高野山普賢院住職から知らされ、そのすすめもあってのことと想像されている。天塩国古丹別は日本海も稚内近くの海岸線から、数キロ山すそに入った小村だった。俊人が「北海道天塩国古丹別説教所担当依(ママ)嘱候事」なる辞令をたずさえ来道したのは明治三十九年、四十歳の夏である。しかし当時の古丹別が辺境の地でありすぎたことや、この土地の将来性などを考え早々に見切りをつけ、開教の適地を上川地方にもとめた。
 上川地方の中心地旭川は軍都景気に沸き立ち人口が急増し、それが近郊にまでおよび各宗の説教所が布教を開始、教線がみごとに拡張されているのをみた。そこで俊人は情報を得るため現金峰寺の前身、真言宗布教所に秋山亮範を訪ね、富良野地方の開教の可能性を知らされた。
 富良野駅に降り立つや俊人は托鉢をしながら市街を一巡すると、一夜の宿のお接待を受ける。
 一介の托鉢の僧に温かくその日の宿をお接待したのは、倉前惣太だった。倉前惣太はしばらく俊人を自宅において面倒をみ、八月盆になると徳島や淡路出身の真言宗徒の家を教えて棚経に歩かせ、それが縁となって開創の気運が高まるのである。
 俊人はここに布教所開創の決意をかため、秋に北海道をいったん離れ翌四十年五月家族と共に再渡道、ただちに仮り住まいの借家で布教活動を開始した。そのとき高野山から下付された弘法大師像は現在脇士として祭られている。大師像の台座の裏には「元文五庚申」(一七四〇)の記録がある。

帯広方面に向かう。

エクエピラチャシ:ユクエピラチャシは道内でも最大級のチャシ跡です。「ユク・エ・ピラ」とはアイヌ語で「シカ・食べる・崖」という意味です。陸別に伝わる英傑でリクンベツ(陸別)の首長、カネランにちなんで「カネランチャシ」とも呼ばれていますが、詳細はわかっていません。また、火山灰で覆われているため、まるで夏でも雪が残っているような白いチャシとしても知られています。

網走方面に向かう。

桂ケ岡チャシ:北海道網走市郊外のニクル丘陵にある北海道の先住民アイヌの築いた砦跡。「桂ヶ岡砦跡」が正式名称。国指定史跡。北海道内にはアイヌ民族が築いたチャシと呼ばれる砦の跡が700以上確認されているが、ニクル丘陵に残る桂ヶ岡チャシは大小2つのチャシからなる北筒式土器などを出土する集落跡をともなった大規模な砦跡で、大小2つの長円形、鏡餅状の郭跡や竪穴住居跡、貝塚などが残っている。アイヌ民族はかつて、この丘の上のチャシでチャランケ(談判)をしたことから「チャランケチャシ」などともよばれる。桜の名所として知られる桂ヶ岡公園内にある。同公園内には網走市立郷土博物館もある。

弘道寺:明治二十七年説教所として開設。以来六代の住職により大師の法燈が受け継がれてきております。
境内地の四脚門をくぐると右手に鐘楼堂・オホーツク曼茶羅(新四国八十八ヶ所)つつじ・石楠花の花園を巡り坂を上りきると修業大師がお迎えを致します。

旭川に向かう。

大照寺:明治28年讃岐(香川県)・伊予(愛媛県)の2団体が開拓に入植すると共に、郷里の雲風山国祐寺(現香川県三豊市)本尊のご分霊である聖観音を祀る小庵を結び、覚動和尚が錫を留め開創。以来、大師信仰を育む寺として信仰を集め、また、不動明王、弘法大師、十一面観音像は、何れも高野山より勧請した霊尊であります。 
昭和62年には現本堂の建立、平成元年には、北海道三十六不動尊霊場第4番札所として、その法灯を輝かせ、1月17日の初本尊大護摩供には老若男女が所願成就を祈念し、多数の檀信徒の参詣があり、厄除招福宝剣加持により、その法縁に浴しています。 当山はオンコ(一位)の寺としても知られ、希望者には種を分けています。

大聖寺:

15:10旭川空港到達
16:20 旭川空港出発
18:10羽田空港到達
19:20羽田空港出発
20:35伊丹空港到達

今回の旅行、北の北海道に足を運び、富良野、帯広、網走、旭川に点在する、霊場、お城8か所を訪れ楽しみました。

走行距離600kmでドライブ観光、自然の中、渋滞なく、真っ直ぐな広い道、広大な敷地、平野の走行、ストレスなく、何回来ても最高の北海道のドライブ観光、満喫しました。  









飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十八弾:中国紹興観光
2018年10月6-8日
   

アジアの大陸、中国に足を運び、上海から高速鉄道で1時間30分に位置し、浙江省の北東部にある古都。中国十大名酒の一つである紹興酒でも有名。また多くの偉人を輩出しており、作家魯迅、清末の女性革命家秋瑾や教育家蔡元培の生家がある紹興を訪れました。

6日16:10関西空港全日空で出発
17:25上海浦東空港到達、リニアモーターカー、メトロで伊梨路駅下車
19:20駅前付近のホテル到着後就寝。
7日6:00出発、メトロ伊梨路駅乗車上海虹橋駅に向かう。
6:40上海虹橋駅到達。
7:37上海虹橋駅高速鉄道で出発
9:05紹興北駅到達、タクシーで紹興駅に向かう。
9:30紹興駅到達、観光名所歩いて回る。

紹興:中国・浙江省に位置する紹興は、「紹興酒」で有名な水郷の街です。また、日本でも有名な小説家・魯迅の故郷でもあります。日本人にはあまりなじみのない観光地かもしれませんが、実は上海から新幹線に乗って1時間半で行くことができ、気軽に街歩きや食べ歩きを楽しめる穴場スポットなんです。

中国黄酒博物館:紹興といえば、やっぱり紹興酒ですよね。黄酒博物館は、2007年にできたまだ新しい博物館です。

紹興博物館:紹興の歴史を学びたいならこの紹興博物館がおすすめ。1993年にオープンした紹興博物館にはたくさんの紹興文化や風土に関する展示物があります。近くにバス停もあるのでアクセスも便利です。

秋瑾故居:清末の女性革命家秋瑾の実家跡。役人であった祖父の任地、福建アモイに生まれた秋瑾は16歳のとき、 家族とともに紹興に帰郷、ここで少女時代をすごした。その後、21歳で結婚、夫にしたがって北京へ出たものの、 1900年に起こった義和団事件を目の当たりにし、革命家となることを決意。夫と子供を置いて日本へ留学した。帰国後は、 再び紹興に舞い戻り、体育学校の校長という身分を隠れ蓑に同志の徐錫麟らとともにひそかに革命運動を推し進めた。だが、 1907年夏、徐錫麟の安慶蜂起が失敗すると、共同謀議のかどで逮捕、処刑された。なお伝えられるところによれば、 処刑の際、「秋雨秋風人を愁殺す」という絶命詞を残したとされる。実家跡は現在、秋瑾故居および秋瑾記念館として 一般公開されている。館内には彼女の書簡や詩文、生前愛用していたショールや日本刀、さらに外出の際、 常に身につけていたという拳銃などが展示されている。市内解放南路を南にくだり、応天塔を右側にはいった 和暢堂22号にある。

魯迅故里:もう江南水郷の雰囲気が溢れている街に建設された。魯迅の作品の中で描写された小さい頃の楽園百草園、三味書屋、小説中の咸亨酒店、魯迅が住んでいた家など全部見られる、街を歩きながら、当時の環境を実感することができる。魯迅記念館の陳列館には魯迅小説の原稿、写真、手紙など600点余りが展示されている。

魯迅記念館:虹口公園内にある魯迅の記念館。建物は故郷の紹興の民家を模して造られ、入口の題字は周恩来の筆によるもの。館内には魯迅の写真や直筆原稿、生前愛用した品々、美術作品等が展示されている。


魯迅故居:魯迅故里の中にあり、魯迅が17才まで暮らした旧居。当時の名家の屋敷構えを今に伝えている。部屋、食堂、台所などの他、彼が随筆の中で子供時代の楽園だったと書いた裏庭「百草園」も必見。

三味書屋:近代中国を代表する小説家・魯迅が12歳から17歳まで勉強していた清朝末期の封建的な塾で、魯迅故里の向かいに位置している。魯迅は遅刻して叱られた際に自分を戒めるため机に「早」という文字を刻んだといわれ、その文字がそのまま残されている。

沈園:沈氏園とも呼ばれ、浙江省紹興市の東南側の洋河弄に位置している。敷地面積が3.8万?、古跡区、東苑と南苑三つの部分に分かれており、孤鶴亭、半壁亭、双桂堂、八咏楼、宋井、射圃、門梅?、琴台と広耜?などのスポットもある。もともとは沈家の私的花園で当時は今より更に大きかった。園内に楼閣、東屋、築山、池などが多く見られ、たくさんの文人墨客がここを訪ねていた。 2002年11月、「国家3A級観光地」に選ばれ、紹興にある古典園林の中で現存している唯一の宋代園林である。また、 夜の沈園を楽しむのなら、「沈園の夜」が見逃せない。宋代の町並みを再現した沈園の中に入ると、小売り人の叫び声、様々な宋代衣装、見物人にお辞儀する家来や女中、空に響く民間音楽の演奏など全てが宋代の雰囲気を作り出しており、あの時代に戻ったような勘違いをしてしまうほど、とても見る甲斐のあるところである。

八字橋:急激な経済発展によって、どんどん街並みが近代化しています。紹興の八字橋周辺なら、昔の水郷の街の雰囲気が味わえるでしょう。八字橋周辺にある家は、基本的に白壁ばかりです。

16:00紹興駅から東に位置する新都市に位置するホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
8日9:00歩いて紹興駅に向かう。
10:00タクシーで紹興北駅に向かう。
10:30紹興北駅到達。
12:05紹興北駅高速鉄道で出発。
13:25上海虹橋駅到達、メトロ、リニアモーターカーで上海浦東空港に向かう。
15:30上海浦東空港到達。
18:20上海浦東空港全日空伝統的建造物群保存出発。
21:35関西空港到着

今回の旅行、アジアの大陸中国に足を運び、上海から高速鉄道で1時間30分に位置する紹興に足を運び、ひたすら歩いて観光名所を巡りました。

至る所に運河が張り巡らされており、点在する歴史的建造物が運河に沿って位置し、又高層ビルが至る所に聳え、新都市と旧都市が交じり合って存在し、又運河で形成された水郷の町でもありました。

今回も中国旅行、トラブル続出、上海から紹興北までの高速鉄道のキップをインターネットで予約していましたが、6日当日の朝、確認したら日が間違って予約していました。慌てて再度インターネットで予約しなおすと発車が30分前の切符が1枚だけ残っていました。ラッキーでひやひやでした。
日本と違って高速鉄道の切符は中国ではすぐ満席になります。残っていてよかったです。

次に関西空港に向かう列車に乗車中、急に停止、アナウンスで線路に落下物を認めたとのこと、17分後に出発しました。

次に関西空港から全日空機で出発、機体が滑走路に向かう途中、機長からアナウンス、計器類の不備を認めたためゲイトに戻って修理するとのこと機内待機、しばらくしてなおらないとのことで機外に出てゲイトに待機とのアナウンスあり、結局代替え機が出発するのに3時間30分遅れのフライトとなりました。

次に上海浦東空港からリニアモーターカーに乗車のための切符、割安のため往復券を購入しました。
しかしリニアモーターカーから改札口で出るためチケットを挿入しましたが戻ってこない。近くに駅員がいないし、説明するのに中国語、大変とのことで、あきらめました。40元損しました。

すんなりいかない中国旅行、今年もあと2回中国旅行(無錫、アモイ観光)予定しています。頑張ります。