飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十六弾:山口県お城・城下町巡り&小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2018年11月24-25日
 

角島、秋吉台、錦帯橋などの観光スポット、関門海峡花火大会、萩焼まつり、七夕ちょうちんまつりなどの観光イベント、ういろう、瓦そば、夏みかん菓子などのご当地グルメがあり、山陽地方の県で、かつて周防国と長門国であった土地は毛利家に支配されていました。江戸時代には長州藩と称して幕末の動乱を主導している山口県に足を運び、山口県内に点在する比較的マイナーなお城6か所、小京都山口重要伝統的建造物群保存地区2か所を訪れました。

24日16:05新幹線のぞみで新大阪駅出発
18:34徳山駅到達、駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
25日8:00レンタカーで出発、お城、小京都伝統的建造物群保存地区巡る。

徳山城:慶安元年(1687年)毛利就隆によって築かれた。 就隆は毛利輝元の二男で元和3年(1617年)周防国都農郡を中心に三万石を分地されたことに始まる。
就隆は寛永2年(1625年)に下松に陣屋を構え、寛永11年(1634年)四万五千石の大名として正式に諸侯に列した。慶安元年(1648年)に野上村に居館を移し、慶安3年(1650年)に地名を徳山と改め徳山藩となった。
正徳5年(1715年)三代元次のとき、宗家である萩藩との境界にある松の木を巡って騒動となり、幕府から「本家に対する非礼」を理由に元次は改易、出羽国新庄藩へお預けとなって徳山藩領は萩藩に還付された。
享保4年(1719)領民の藩再興運動もあり、元次が家督を次男の元堯に譲って新たに三万石が与えられ徳山藩が再興となった。天保7年(1836年)就馴のとき幕府より城主格を賜り、石高も四万石に改められた。これによって「御館」と呼ばれていた居館は「御城」や「御殿」と呼ばれるようになった。

鞍掛城:築城年代は定かではない。 大内氏の重臣杉隆泰は鞍掛三万石を与えられ鞍掛山城を居城とした。
弘治元年(1555年)厳島合戦によって陶晴賢が毛利元就に破れると一度は毛利氏に降った。 しかし再び大内氏に従うべく内通したが密書を奪われると毛利氏によって攻めら落城、隆泰は千数百名の城兵と供に討ち死にした。

岩国:豊かな自然に恵まれ、山口県最大の河川である錦川が美しい景観をかたちづくりながら瀬戸内海に注いでいます。市の中心地域には、都市機能が集積し、南部の玖珂盆地では、交通の利便性を生かした工業団地が形成されています。観光都市としての一面も持ち、岩国城跡や錦川に架かる錦帯橋など、多くの観光資源に恵まれ、市域中央から山代地域には、温泉や自然景勝地などを生かした観光、交流施設があります。

東郷山城:詳細不明、東郷峠付近

柳井:柳井は、瀬戸内海交易の要衝として中世の時代から商業都市として栄えました。江戸時代には、岩国藩の御納戸と称され、その商圏は、近隣の各藩領だけでなく、九州一円から瀬戸内海の各地に及んでいました。
その商家の家並みが残る同地区は、柳井津でも最も早く開かれた旧町の西半分にあたり、東西方向の本町通りの両側に続く約200メートルの家並みと、 このほぼ中央から南側の柳井川に通じる掛屋小路からなります。
明治以降もこの地域は中心街として栄え、現在もなお江戸・明治期の商人の家系を継ぐ者が所有し、一部は現在も営業されています。
柳井市のもっとも重要な観光資源であり、年間多くの観光客が訪れます。 

上関城:築城年代は定かではないが室町時代に村上吉敏によって築かれたと云われる。能島村上氏の村上義顕の子村上吉敏によって築かれ、代々村上氏によって上関を通行する船舶から通行税を徴収するための拠点となった。
天文20年(1551年)大内義長から将軍家への進納の米二千石を積んだ船は、宇賀島水軍の警護を受け通行税を払わずに航行すると、三島村上水軍はこれを安芸国蒲刈にて迎撃した。大内義長は上関より村上氏を追い出して宇賀島水軍に守らせたが、間もなく村上氏が奪還して再び村上氏の所領となった。

若山城:築城年代は定かではないが文明2年(1470年)に陶弘護が吉見氏に備えて築城されたものと考えられている。天文19年(1550年)には陶晴賢が大内義隆を攻撃する前に大改修したという。厳島の合戦後、晴賢の子長房が守衛していたが、晴賢によって殺された杉氏の一党杉重輔が挙兵して押し寄せ、味方と間違えて城門を開いたところ攻められ落城した。

敷山城:敷山城跡は矢筈ケ岳の8合目あたりに位置する。ここはもともと敷山験観寺という山寺である。南北朝時代に足利尊氏が九州から反転して湊川の戦いで楠正成に勝利し上京、天皇が逃げた比叡山攻略に取り掛かった。そのとき周防国衙の役人清尊、教乗、大内弘道、小笠原長光などが挙兵しここに籠城する。しかし、尊氏によって派兵された大軍によりわずか10日あまりで落城する。

山口:山口市は、豊富な緑や清澄な水を有する自然に満ちた都市となっています。また、大内氏時代や明治維新関連の歴史や文化資源が今に残されており、湯田温泉などを含めて、観光地としての魅力も備えた都市となっています。

17:00帰路に向かう。
18:00徳山駅到達。
18:34徳山駅新幹線のぞみで出発
20:18新大阪駅到達。

今回の旅行、山口県に足を運び、比較的マイナーなお城6か所、小京都山口、重要伝統的建造物群保存地区2か所をおとずれ楽しみました。
今回もお城は地味で案内板も少なくたどり着くのに苦労を要しました。中には城址公園に変貌し整備されていた城跡もあり散策を楽しめました。

小京都山口、伝統的建造物群保存地区、岩国、柳井は何度か足を運んだことがあり、再確認できました。
 























飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十五弾:滋賀県お城・城下町巡り&小京都大津観光
2018年11月22-23日
 

日本のほぼ真ん中に位置し、その中央に県土の約6分の1を占める日本最大の湖・琵琶湖を抱え、周囲には緑豊かな山々や田園風景が広がる、水と緑の豊かな自然にふれ合うことができるところです。悠々と水をたたえる琵琶湖と周囲が織りなす美しい風景は、季節の移ろいに応じた折々の景観として楽しむことができます。びわ湖の雄大さと変化に富んだ風景は、「琵琶湖八景」や「近江八景」として風光明媚な景色を紹介しています。また、交通の要衝の地でもあり、古くから文化・経済の先進地として栄えたこの地には、古刹・名刹の歴史ある寺社や戦国時代をはじめとする英傑たちの足跡、歴史情緒が残る町並みなど、奥深い歴史文化があり、国内有数を誇る歴史文化資産は、今もなお県内のそれぞれの地域で大切に守り伝えられています滋賀県に足を運び滋賀県に点在する比較的マイナーなお城10か所と小京都と承認されている大津を訪れました。

22日12:30車で第二京阪,京滋バイパス経由して南郷インター下車、お城巡り

大石城:大石城は舌状尾根の先端部に築かれ、細い道を挟み両側一帯が城域で群郭式の構造であったと推測される。
主郭は、東西52m×南北35mの方形で周囲に土塁を、東背後に見張り台を兼ねた巨大な土塁と堀切を配し、西前面に一段低い副郭(東西22m×南北24m)を備えている。虎口は平虎口で西と南東隅に開いている。北側は断崖となっているが、南側が茶畑で高低差がほとんどなく土塁と空堀で画す程度で、防御が弱く思われる。

小川城:築城年代については諸説あり定かではないが、一般的には鎌倉時代末期に前関白近衛家基に従って設楽庄に入部した鶴見長実が嘉元3年(1305年)に築城したのが始まりと云われる。
鶴見長実の子、鶴見道宗が城主となり、弟行俊は小川氏を称して代々続いたが、長享元年(1487年)に多羅尾和泉守に敗れた小川成俊は山城国和束庄へ逃れ、以降は多羅尾氏の所領となった。
天正10年(1582年)本能寺の変によって織田信長が倒れた際、堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで所領に戻る際に設楽で一夜を明かしたのが、この小川城と伝えられる。 文禄4年(1595年)に多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、秀次に連座して改易されたが、その後に徳川家康に召し出されて旗本となり、江戸時代には多羅尾代官陣屋を構えている。これは多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。

新宮城:甲賀郡中惣遺跡群(寺前城,村雨城,新宮城,新宮支城,竹中城)の一つとして国指定史跡となっている。
新宮城は磯尾川の西岸にあり、北東へ伸びた尾根に築かれている。谷を挟んで南には新宮支城がある。
新宮城は南西端の最高所に主郭を置き、北東へ伸びた尾根に曲輪を展開する。 主郭は方形で高土塁が巡り、南西側は深い空堀で遮断し土橋が架かる。虎口は北と東にあり、北虎口は北下の堀切に出る。東虎口は二郭へ通じ、二郭は鈎状に屈折した虎口が付き、さらに北東下の段へと続く。二郭の北下には両側から土塁状の伸びた空間があり、池なのか虎口なのかよくわからない地形がある。麓付近には大きな平段がいくつか展開している。

水口城:寛文11年(1634年)徳川家光の上洛の宿館として小堀遠州によって築かれた。 築城に際しては水口岡山城の石垣を転用してたという。
天和2年(1682年)加藤明友が石見国吉永より二万石で水口城主となり水口藩を立藩した。

日野城:築城年代は定かではないが大永年間に蒲生定秀によって築かれたと云われる。
永禄11年(1568年)織田信長による観音寺城攻めで、蒲生賢秀は中野城に籠城したが伊勢国神戸友盛の仲介により人質をだして信長に降った。この時人質として出されたのが後の蒲生氏郷である。
本能寺の変で信長が討たれた時、蒲生賢秀は安土城二の丸を預かっていたが、その悲報を聞いた賢秀と氏郷は信長の妻子を中野城へ移し光秀の誘いに応じなかった。
天正12年(1584年)蒲生氏郷は伊勢国松坂へ転封となり、その後は田中吉政、長束正家が城代となり、慶長8年(1603年)廃城となった。

長光寺城:築城年代は定かではないが鎌倉時代中期に佐々木政尭によって築かれたと云われる。 元亀元年(1570年)南近江に侵攻した織田信長は長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置した。 六角氏は城を奪還するために攻め寄せ勝家は籠城して耐える。 意を決した勝家は味方を鼓舞するため兵に水を飲ませた後に水瓶を割って討って出た。これが「瓶割り柴田」の異名となって後世に語られている。

17:00近江八幡方面に向かう。
17:30近江八幡駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。

23日7:30車で出発、お城巡り

岡山城:南北朝期に佐々木氏の支城として築城され、永正五年(1508年)に足利十一代将軍義澄が六角氏の重臣伊庭氏と伊庭氏の家臣九里氏を頼って都より落ち延びて来て岡山城に入った頃より本格的な改修がされたものとの事です。この事態は六角氏と伊庭・九里両氏との間を悪くし、義澄が永正六年(1509年)に当城で病死して以後、永正十七年(1520年)、ついに六角定頼はこの城を攻め開城させました。後、大永五年(1525年)に伊庭氏・九里氏が再び籠りましたが、六角氏に破れ城も廃城になりました。

八幡山城:天正13年(1585年)豊臣秀次によって築かれた。 近江国四十三万石の領主となった豊臣秀次によって築かれ、城下町は安土より移されて発展、近江商人発祥の地としても知られる。
天正18年(1590年)秀次は尾張国清州へ転封となり、かわって大溝より京極高次が二万八千石で城主となった。しかし永禄4年(1595年)関白豊臣秀次が太閤によって自害させられると、京極高次は大津へ六万石で転封となり、聚楽第とともに八幡山城も廃城となった。

浅小井城:大古、沙々木神社豊浦冠者行実の息浅小井次郎盛実の後裔深尾氏第十代加賀守元泰が足利将軍義政の幕下にあって当地を領有後、十一代元範は佐々木(六角)高頼の命により文亀元年(1501年)に築城しました。十二代元秀、十三代元忠と続き、永禄年間にこの城を伊庭氏が領有を画策したが、六角承禎義賢はそれを避け、甲賀武士の山中大和守俊好に与えますが、永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました。その後の安土城築城後、城はこの地の豪族の伊佐志摩守に預けられ、信長の鷹狩の際は伊佐氏別邸に立ち寄り休息したと伝えられます。天正十二年(1584年)秀吉は池田秀氏<池田氏は近江源氏佐々木氏の流れで甲賀池田を発祥と六角氏に属していたが観音寺騒動の際六角氏を離れ、信長の近江侵攻時は織田氏に属しました>にこの城を与えますが、池田氏が文禄四年(1595年)に伊予大洲に転封し当城は破却されました。

山崎山城:詳細不明。城主は山崎氏が伝えられる。

大津に向かう。

小京都大津巡る。

大津:今から約1350年前、天智天皇により遷都された歴史の街、大津。日本最大の湖である、びわ湖に寄り添うように南北に広がるこの土地には、世界文化遺産・比叡山延暦寺や日本遺産である石山寺、かるたの聖地としてアニメや映画の舞台にもなった近江神宮をはじめとする多くの観光スポットに溢れています。また、「美肌の湯」として知られるおごと温泉や、夏はウォータースポーツ、冬はスキーなどのアクティブリゾートなど、おすすめスポットや1年を通じてのイベントも盛り沢山!もちろん、日本三大和牛のひとつである近江牛や、様々な湖魚料理など、お楽しみグルメもいっぱい。

石山寺:良弁開山の東寺真言宗大本山で西国三十三霊場第13番の観音霊場。諸堂宇は景勝地の自然と調和している。境内は巨大な硅灰石(天然記念物)の上に建てられており、寺名の由来となっている。

瀬田の唐橋:近江八景「瀬田の夕照」(せたのせきしょう)の主題である「瀬田唐橋」は、別名「瀬田橋」や「長橋」とも呼ばれ「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、古来より京都ののど元を握る交通・軍事の要衝として重視され、瀬田橋が戦の歴史舞台になって千八百年になりますが、特に有名なものは、古くは、大津京が幻の都となった大友皇子と大海人皇子(おおあまのおうじ)の『壬申(じんしん)の乱』をはじめ、『寿永の乱』、『承久の乱』『建武の乱』など幾多の戦乱の舞台ともなりました。織田信長の瀬田橋の架け替えは、比叡山焼き討ちの4年後、天正三年(1575)に諸国の道路修理を命じ関税を免除するとともに、瀬田城主、山岡景隆と木村次郎左ヱ右衛門を奉行に任命し、近江の朽木などから木材を調達し、長さ百八十間(約350m)、幅四間(約7m)の一本橋をわずか3ヶ月という突貫工事で架け替えさせたといわれています。

三井寺:天台宗寺門派の総本山で、観音堂は西国三十三所観音霊場第十四番札所。大友皇子の皇子・大友与多王が父の霊を弔うために寺を創建し、天武天皇に「園城寺」という勅額を賜ったことが名前の由来。また、境内には天智・天武・持統の三帝の産湯に用いられたという霊泉があり、「御井の寺」と称されたことから「三井寺」と呼ばれるようになった。金堂をはじめ、国宝や重要文化財の数は圧巻で、近江八景「三井の晩鏡」でも知られている。春は1000本の桜とライトアップ、秋は紅葉とみどころが多い。

坂本:比叡山延暦寺、日吉大社の門前町として栄え、穴大衆と呼ばれる石工集団の手による「穴大衆積み」という石積が特色づけている町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。約50ヵ寺も残る延暦寺の高僧の隠居所「里坊」には、借景や自然石を利用した見事な庭園があり、普段は非公開の庭園などが拝観できる社寺・庭園めぐりも開催されています。春の桜と秋の紅葉の時季は特に見ごたえがあり、多くの観光客で賑わいます。

浮御堂:近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。現在の建物は昭和12年の再建によるもので、昭和57年にも修理が行われ、昔の情緒をそのまま残している。境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。

光徳寺:真宗大谷派の寺院で創建は1361年(康安元年)覚忍により開創されたと伝えられています。
浄土真宗中興の祖である蓮如のために、自らの首を差し出すよう父源右兵衛を説得し、切らせて差し出したという漁師親子の殉教物語があります。
本堂前には「堅田源兵衛父子殉教之像」があります。

延暦寺:伝教大師最澄が比叡山に草庵を結んだことに始まる天台宗総本山。標高848mの比叡山全域を境内とする寺院で、日本仏教の母山と言われている。広大な寺域は100余りの建造物があり、延暦寺の総本堂である根本中堂(国宝)や大講堂などがある「東塔」、最澄作の釈迦如来を本尊とする釈迦堂やにない堂などがある「西塔」、横川中堂や元三大師堂などがあり、静寂に包まれた「横川」の三つのエリアに分かれている。戦国時代に織田信長の焼き討ちにあいましたが、豊臣秀吉や徳川家康などにより復興され、平成6年に世界文化遺産に登録された。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、滋賀県に足を運び、滋賀県に点在する比較的マイナーなお城10か所、小京都に承認されている大津を訪れ楽しみました。
今回のお城、かなり地味で案内板もなく見つけるのが苦労したお城が多く、大変でした。
小京都の大津にある歴史的建造物、石山寺、瀬田の唐橋、三井寺、坂本、浮御堂、光徳寺、延暦寺何回も訪れたことがあり再確認しました。
 












飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十四弾:岐阜県中部四十九薬師霊場&お城・城下町巡り観光
2018年11月17-18日
 

長野県と岐阜県を中心に、山梨・愛知県にまたがりアルプスの山懐にいだかれ、温泉地にも恵まれた大自然の中の巡拝コース中部四十九薬師霊場で岐阜県に点在する霊場10か所、お城11か所を訪れました。

17日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神経由して小牧インター下車、霊場巡り。

願興寺:縁起 人皇五十二代嵯峨天皇の弘仁六年(815年)天台宗宗祖伝教大師が比叡山より東国巡錫の砌り、御嵩の地にお宿りになりますと、遠近の人々が忽ち集まり仏教信者となり、大師は布施屋(無料宿泊所)を作らしめ、薬師瑠璃光如来の尊像を彫刻して安置された。その後、正暦四年(993年)一条天皇の御代に、皇女が剃髪して行智尼と称し、この地に正宝庵を結んで住まわれ、朝夕本尊薬師如来を礼拝せられたところ長徳二年二月七日(996年)、寺の西南にあたる尼ケ池より金色の御光が四方に輝き亘り一寸八分の御尊像が蟹の背に乗って池の面に浮かばれましたので、行智尼は、この尊像を迎え奉って本尊の腹中に納められました。このこと畏くも天聴に達し勅命により、七堂伽藍を建立し、大寺山願興寺の寺号を賜りました。俗名「蟹薬師可児大寺」はこの因縁によるものです。その後、幾多の兵火あって堂宇は炎上したものの、本尊をはじめ御尊像24体は恙がなくお移し大正三年(1914年)に国宝に指定され、今は国の重要文化財となっている。

真光寺:縁起 何時の頃か当地の里人達は、行基菩薩作の薬師如来像を招来してきて、形ばかりの小堂を建立して日夜尊崇怠りなく、このこと次第に近隣に伝わり、皆共々に相携えて参詣日毎に多し、やがて堂宇の狭小を感ずるや、人々相議して堂宇を拡張再建して一寺とした。
 信徒等は、加治田村の龍福寺第四世陽南大和尚を、懇請して開山第一世となす。爾来、順栄、順林、恵珀、道仙、師順、恵湛、玄苗、萬密、文青、穆洲と十世を経て現在第十二代となる。この間、第八代玄苗師の頃、火難に遭い、諸堂全焼、その後間もなく再建されて現在の伽藍とはなったが、そのために創建の年次も不明となった。

洞雲寺:縁起 当山は嘉吉三年(1443)将軍足利義勝公の寄付地により却庵寂永禅師の開基であり、文明十八年以降、瑞浪市開元院より交互性特派遣、慶長九年(1604)開元院十世梵的和尚中興開山となり慶長十三年(1608)西尾丹後守、寺領を寄進、殿宇を再建し永風を唱え大龍峯窟を全備した。
 通称田代山寺と呼ばれ山上にあったのを昭和三十三年に現在地に移転新築した。
 本尊 聖観世音菩薩。 脇仏 地蔵菩薩・昆沙門天
 別仏 東方薬師如来・阿弥陀如来・文珠菩薩・大黒尊天
    弁財尊天・水子地蔵菩薩・稲荷大明神・金比羅大権現
 当山薬師如来は寛永十七年(1640)殿宇と共に建立し今日に至る。又、町内4ケ所に薬師堂あり。
 病苦に悩むものには回春の光明を与え、貪苦に苦しむものには福徳を施与し、身体健全と家門隆昌の薬師如来様であります。

17:00関方面に向かう。
17:30関市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
18日7:30車で出発。
霊場、お城巡り

篠脇城:築城年代は定かではないが南北朝時代に東氏村によって築かれたと云われる。 東氏は下総国千葉氏の支族で、承久の乱(1221年)の功により郡上郡山田荘の新補地頭職を得て東胤行が下向して阿千葉城を築いたことに始まる。
四代東氏村は当時勢力を誇っていた鷲見城主鷲見氏との距離が近すぎることと、南朝方の拠点である越前からの来襲に備えるために、篠脇城を築いて居城を移したといわれる。
東氏は代々文武両道で続後撰集、続拾遺集、新続古今集などに入っていた。 応仁の乱が勃発すると東氏は東軍の細川氏に味方したが、美濃国守護の土岐は西軍の山名氏に味方した。この結果、応仁2年(1468年)守護代斎藤妙椿の攻撃を受け、激戦の末落城した。このとき関東に下向していた東常縁は「あるが内に斯かる世ーしも見たりけり、人の昔の猶も恋しき」と詠んだ。人づてに聞いた妙椿は自分に詠を贈ってくれたら所領を返そうと約束すると、「吾世経むしるへと今も頼む哉、みののお山の松の千歳を」をはじめ十首の和歌を贈ったという。これを受けた妙椿は約束通り所領を全て返還したという。
その後、十二代常慶の時、天文9年(1540年)と翌年の天文10年に越前国朝倉氏の攻撃を受け、この時はかろうじて撃退するが、東殿山に赤谷山城を築いて居城を移した。

小鷹利城:築城年代は定かではない。姉小路氏の庶流向氏(小鷹利氏)累代の居城とも云われるが、それを直接示す史料は残っていない。
天正11年(1583年)(あるいは10年)に向家の幼君右近を後見していた牛丸又太郎重親が、逆心を起こして横領を企てた。重臣後藤重元はこれを察知して右近を伴って城を脱し、角川へ逃れたが、重親が差し向けた追っ手に角川村で追いつかれ、重元は防戦して戦死、右近は逃げ延びて母方の縁を頼り常陸の佐竹氏に仕え、向右近宣政と名乗ったという。

蛤城:築城年代は定かではない。 応永年間末期に藤原師言が築いたとの伝承もあるが、天文年間に古川二郎による築城とも云われる。
その後は塩屋筑前守の城となり筑前守は上杉謙信、後は織田信長に従ったが天正11年に討死したという。
その後は一時三木氏の勢力にあったが、三木自綱が金森長近によって討たれると金森氏の城となり、金森可重が入城したが、増島城を築いて居城を移し廃城となった。
この城は「蛤城(はまぐりじょう)」とも呼ばれるが、これは飛騨へ入国した金森氏がこの城へきたとき、城内に蛤石があったため、以後蛤城と呼ばれるようになったのだという。

増島城:築城年代は定かではないが天正15年(1587年)に金森長近によって築かれた。 越前国大野城の金森長近が飛騨国の三木氏を滅ぼして飛騨に入部すると、増島城を築いて蛤城の金森可重を城主とした。
長近が没すると可重は金森氏を継いで高山城へ入り、増島城には長子金森重近を置いた。しかし可重が没した後に金森氏を継いだのは重近ではなく四男の重頼で、この結果重近が京都へ出て茶道に生きた。
元和5年(1619年)一国一城令によって廃城となり、その後は古川旅館として金森氏の別邸として存続されたが、元禄5年(1692年)金森氏は出羽国上山へ転封となり、その領地が天領となって破却された。

小島城:築城年代は定かではないが南北朝時代に姉小路氏によって築かれたと云われる。 姉小路氏は公家で三条実房の子公宣が京の姉小路に住んで姉小路氏を名乗った事に始まる。飛騨の姉小路氏は姉小路家綱が建武新政の際に飛騨国司となり、信包城(向小島城と推定されている)を居城としたことに始まるという。
姉小路家綱は南朝方によって国司に任命されたことから、おもに南朝方として戦っていた。その後、姉小路氏は小島氏・古川氏・向氏の三家にわかれる。
戦国時代になると京極氏の被官であった三木氏が台頭し、小島氏はそれに属していたが、天正13年(1585年)羽柴秀吉の命によって飛騨国に侵攻した越前国大野城の金森長近によって攻められ、小島城は落城した。

江馬下館:築城年代は定かではないが江馬氏によって築かれたと云われる。 江馬氏の出自は定かではないが、鎌倉北条一門または伊豆の江間氏の一族といわれる。
江馬氏下館は南東にある高原諏訪城を詰城とした館である。 江馬氏は高原諏訪城を本城として北飛騨一円に城を築き、北飛騨の雄として勢力を誇っていた。しかし戦国時代には越後国上杉氏、甲斐国武田氏に翻弄される。 江馬時盛ははじめ甲斐の武田氏に通じ、南下して姉小路氏を攻め勢力を延ばしたが、越後の上杉氏が飛騨に侵攻して降伏した。しかし永禄7年(1564年)武田信玄は山県昌景に命じて飛騨に侵攻すると、再び時盛は武田氏に通じ、翌年には武田氏とともに越中へ侵攻した。
武田氏よりの時盛に対して、嫡子輝盛は上杉氏に好意を寄せ父子の関係は悪化、時盛は三男信盛に家督を譲ろうとするが信盛は輝盛にはばかってそれを受けず、時盛は従弟の洞城主麻生野直盛の子慶盛を養子にしようとした。天正元年(1573年)ついに輝盛は父時盛を暗殺し、洞城を攻めて麻生野慶盛を自害させ、弟信盛・貞盛を追放して江馬氏の家督を継ぐ事となった。
天正10年(1582年)三木氏の後ろ盾であった織田信長が本能寺の変で死んだことを機に、輝盛は南飛騨の三木氏を攻めるべく出陣する。しかし吉城郡荒城川において大将江馬輝盛は三木氏の将牛丸又太郎によって討ち取られ、江馬軍は総崩れとなり、本城である高原諏訪城も落城した。
その後、江馬時政という人物が再興し、天正13年(1585年)飛騨に侵攻した金森長近に協力して姉小路氏(三木氏)を滅ぼすが、同年金森氏に反抗して一揆を起こし、金森氏に滅ぼされた。

高原諏訪城:築城年代は定かではないが江馬氏によって築かれたと云われる。

寿楽寺:縁起 創建は不祥だが所蔵する写本大般若経や祈祷札の墨書から推察するに、応永五年(1399)三月、記載の祈祷札(県指定文化財)に宮谷寺末寿楽寺とある。室町時代すでに寿楽寺が存在したことは確かであろう。元禄二年(1689)高山の素玄寺八世古林道宣和尚が中興開山して以来、曹洞宗を継承して現在に至る。本堂は宝暦五年(1756)六世和和尚の代に再建した。単層入母屋造り、間口七間の見事な構えである。
  本尊の薬師如来は、厨子入り秘仏である。資料によると天保十一年(1840)春三月に御開帳されている。脇間の十六羅漢像も威厳ある像である。棟続きの観音堂は明治十二年(1879)本田家が寄進した。鐘楼は昭和五十九年に建立された。

安国寺:縁起 建武の中興を成した足利尊氏直義は、禅僧、夢窓疎石の薦めで後醍醐天皇と元冠以来幾多の戦乱に露と消えた兵達の霊を弔う為、一国一寺一塔の大願を発し、六十六国二島に安国寺が設立された。
  飛騨の安国寺はその一つとして貞和三年(1347)少林寺を母胎として創設された。当時は七堂伽藍と九ケ寺の塔頭を備え、繁栄していたが、天文・永禄の頃、飛騨戦乱のため兵火にかかり、そのほとんどを焼失した。その後飛騨平定され、寛文の頃、南叟和尚の尽力で再建され今日に至っている。
 当山の薬師如来、日光・月光菩薩は、もと本町半田の山腹にあった横河山安寧寺の御本尊であった。安寧寺は安国寺と同時期に兵火にかかり、御本尊のみ難を逃れ、一時は民家に御座されていたが、安国寺再建の折、当所に移入し、堂宇を新たに建立して安置されたものである。行基菩薩の作と伝えられている。御像は寄木造りで永い間風雪に曝された為か彩色が殆ど剥落し、木地が露わになり、処々に胡粉の跡が伺える。このことが却って当山薬師如来の信仰を深めている趣がある。古来より十七年毎に大開帳を行っている。他に国宝経蔵、重文開山像等がある。

飛騨国分寺:縁起 聖武天皇の勅願により全国六十余州に建立された「金光明四天王護国之寺」は、国分寺と称せられる鎮護国家の祈願道場です。
 当山は、飛騨の国の国分寺として、天平十八年(746)に行基菩薩が開創された当国第一の古刹です。境内には、樹齢一千二百年の大いちょう(天然記念物)が繁っており、創建当初にそぴえていた七重大塔の礎石(国史跡)と共に寺歴を物語っております。
 市内最古の建造物である本堂(国重文)には、行基菩薩御作と伝えられる本尊薬師如来(国重文)をはじめ、旧国分尼寺本尊の聖観音(国重文)、恵心僧都御作と伝えられる阿弥陀如来(県重文)等が安置されており拝観することが出来ます。
 毎月八日の縁日には「薬師如来供祈願会」が巌修され心願成就祈願の信者さんが沢山参詣されます。
  また、当地方の女性は、安産腹帯を本尊薬師如来より授かる習わしが古来より伝えられており、更に母乳の出にくい母親は薬師如来よりいただけると御本尊へ祈願されます。
 境内の三重塔(県重文)は当国唯一の塔建築で、文政四年 (1821)に再建されており、内陣には真言宗の御本尊大日如来が安置されている。

相応院:縁起 当院は明治以前までは隣にある桜山八幡宮の別当寺で長久寺と称しておりましたか、明治初年の排仏毀釈によって廃寺となりました。当時の住職兼神職でありました桜山識雄和尚は、代官所(高山陣屋)へお願い状を出して必死に仏教を守られました。
 その結果高野山での飛騨の大名金森家の菩提寺であった相応院が飛騨の国との御縁でその寺号と金森可長近公寄進の雲上阿弥陀三尊・涅槃図・不動尊図等を譲り受け、現在地に本堂を建立致しました。長久寺は高山の裏鬼門に当るので不動尊像をお祀りして鬼門除けと住民の安全等を祈願する神仏混淆のお寺でしたので、その不動尊像・弘法大師像・歓喜天像・聖観音像・十一面千手観音像・弥勒菩薩像等をお祀りしております。又、当院には円空仏が二体あります。一体は稲荷さんで、もう一体は薬師如来です。高山市史に長久寺は山伏寺とも書いてありますので、円空さんも飛騨へ来られた折に立ち寄られ、何体か刻まれた事と思いますが前述のとおり排仏毀釈で古文書等はなく、縁起は代々伝わっている話のみです。
 円空薬師如来は本堂左側にお祀りしてあり、裏山には修行大師像がお祀りしてあります。

清傅寺:縁起 当山は、清寧天皇(480)までさかのぼると記されていますが、富山での大火で一部が焼失し、詳しいことは解りません。
 又、白山開山と伝えられる泰澄和尚が創設したお寺とも言われております。天平年間 聖武天皇のころ、皇帝健康にすぐれなく、ある時、泰澄和尚が、白山の麓に一堂を創設し、皇帝の病気平癒、国家泰平、万民安穏、五穀豊穣を祈念し、日々白山を見奉り、供養したところ、元気になられた。その後も泰澄和尚は御堂に籠り祈願を続けたと言うことです。堂守六代まで焼きましたが、八十二代後鳥羽帝の時、国乱が起り堂守中絶していたのを、永享五年三月、無量寿院賢興大僧正の高弟子、成伝律師が再興しました。
 その後加賀の守、前田家の祈願所となり、次男利次が富山藩として分家した時、富山へ移り、代々領主の祈願所となっておりました。しかし明治の改正により寺録を失い、同十三年の大火で殆ど焼失、その後、当山第19世下切弘道和尚により飛騨に移され現在に至っております。
 白山の仏の本地は十一面観音菩薩で当山も本尊は十一面観音です。脇仏に薬師如来が祀られています。飛騨仏師「信二良」作です。形像は、鉢を持する薬師様で、法隆寺の薬師様によく似た面長の美しい面であります。寺伝によれば姫薬師と呼ばれ女性に信仰があります。

鍋山城:築城年代は諸説あり定かではないが、一般的には天文年間に平野豊後守安室によって築かれたと云われる。 平野氏は安室の父右衛門尉の時に信濃国より飛騨国へ入国し三仏寺城主となり、安室の時代に鍋山城を築城(または修築)してここに移り、鍋山氏を名乗ったと云う。
安室は家の安泰をはかるため、実子の左近大夫を差し置いて三木氏より三木自綱の弟顕綱を養子に迎えたが、顕綱は安室を毒殺して左近大夫をも追放した。
追放された左近大夫は越前国大野城の金森長近を頼って落ち、天正13年(1585年)羽柴秀吉の命によって飛騨国へ侵攻した金森長近に加わって三木氏を攻め、再び飛騨へ復帰することとなった。しかし金森氏の飛騨入封後、その処遇に不満があり広瀬氏・江馬氏などと呼応して一揆を起こすが、金森可重によって鎮圧された。
飛騨国を制圧した金森長近はこの鍋山城へ入って政務を行ったが、高山城を築いて居城を移し廃城となった。

高山城:築城年代は定かではないが永正年間(1504~1521年)に高山外記によって築かれた天神山城が前身である。高山氏は飛騨国守護京極氏の家臣で守護代をつとめた多賀出雲守の一族という。
永禄元年(1558年)桜洞城主三木自綱と高堂城主広瀬宗城によって高山氏は滅ぼされると、自綱は叔父の三木久綱を天神山城主とし、天正7年(1575年)松倉城を築いて居城とした。
天正13年(1585年)三木自綱は越中の佐々成政と結んで羽柴秀吉と対立すると、羽柴秀吉の命によって越前国大野城主金森長近が飛騨国へ侵攻し、自綱は高堂城と広瀬城が落城すると降伏、最後に残った三木秀綱の籠る松倉城も落城して三木氏は没落した。
飛騨へ入部した金森長近ははじめ鍋山城を居城としていたが、天正16年(1588年)天神山城を改修して高山城と改称し居城とした。
元禄5年(1692年)金森氏六代金森頼時は出羽国上山へ転封となり、以後飛騨国は江戸幕府直轄領となって高山陣屋によって治められ、高山城は廃城となった。

松倉城:築城年代は定かではないが天正7年(1579年)頃に三木自綱によって築かれたと云われる。また一説に永禄年間(1558年~1570年)に自綱の父良頼の頃に築かれたとも云われる。
三木氏は応永18年(1411年)京極高員の代官として三木正頼が益田郡竹原郷に下向したことに始まると云われる。四代三木直頼のときに益田郡の大半を横領して桜洞城を築いて居城とした。五代良頼の時代になると大野郡へ進出して飛騨国司の姉小路家を滅ぼし、六代自綱のときには高原諏訪城主の江馬氏などを降して飛騨大半を平定した。
天正13年(1585年)三木氏は秀吉と対立する越中の佐々成政と結んだことから、秀吉の命を受けた越前国大野城主金森長近の侵攻を受けた。このとき自綱は広瀬城におり、松倉城には秀綱が籠城して金森軍と戦ったが内応者が現れ落城し、秀綱は城を脱して信濃へ逃れる途中に土民に襲われ死んだという。
三木氏の後に飛騨に入封した金森氏は高山城を居城として築き、松倉城は廃城となったと云われるが、現在残る主郭部の石垣などの遺構は、他の三木氏に関係する城から高石垣などの遺構が確認できないこともあり、金森氏など織豊系の武将によって改修されたものとも考えられている。

萩原諏訪城:天正13年(1585年)佐藤秀方によって築かれた。 天正13年(1585年)越前国大野城主金森長近は羽柴秀吉に命によって飛騨へ侵攻し、三木自綱を敗って飛騨を平定した。これによって金森氏は飛騨を与えられ高山城を築城して居城とし、姉婿の佐藤秀方に命じて桜洞城を廃して諏訪城を築かせこの地方を治めさせた。
元和の一国一城令によって廃城となったが、その後も金森旅館として存続する。しかし、元禄5年(1692年)金森氏が出羽国上山へ転封となると破却された。

禅昌寺:平安時代の創設と言われる臨済宗妙心寺派の禅寺。中国宋朝の様式を伝える建築物は「天下の名刹」として威容を誇っている。境内には金森宗和が造園した名勝指定の庭園「萬歳洞(ばんざいどう)」や茶室、雪舟筆の大達磨像等多くの寺宝の他、樹齢1200年を超える国指定天然記念物の大杉や勅使手植えのゆかりの梅など見どころ満載。予約をすれば座禅体験もできる。

温泉禅寺:縁起 文永二年(1265)湯ガ峰からの温泉の湧出が突然止まってしまう。その翌年、毎日のように飛騨川の河原に舞い降りる一羽の白鷺に村人が気づく。不思義に思った村人がその場へ行ってみると、温泉が湧いていた。空高く舞い上がつた白鷺は、中根山の中腹の松に止まり、その松の下には光輝く一体の薬師如来が鎮座していた・・・。これが下呂に伝わる白鷺伝説であり温泉寺開創の縁起である。 白鷺に化身し、温泉の湧出を知らせたこの薬師如来を本尊とするのが、瞥王霊山温泉寺である。下呂富士と呼ばれる中根山の中腹に建ち、創建は寛文十一年(1671)。江戸元禄期以降、北海道開拓に尽力したことで知られる初代飛騨屋久兵衛の父、武川久右衛門倍良が、萩原・禅昌寺八世剛山和尚を開山に迎え、建立した寺である。下呂温泉を、草津・有馬とともに天下三名泉として初めて全国に紹介したのが、室町時代の五山僧・万里集九である。(「梅花無尽蔵」より)以来、下呂温泉にはたくさんの湯治客が訪れるようになり、江戸中期には年間三万人を数えた。温泉寺にも、花柳病などの湯治客がお籠りし、朝夕薬師如来を拝みつつ、湯治の未、無事病気平癒した人達の残した絵馬が、今でも本堂に数多く残されている。また、願い叶わずこの地で命絶えた人達の過去帳も残っている。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、岐阜県に点在する中部四十九薬師霊場10か所、お城11か所を訪れ楽しみました。
霊場は立派なものが多く、城跡は案内が十分でなく、たどり着くのに時間がかかりました。
帰りの高速道路、紅葉帰りの車が多く渋滞に巻き込まれ時間がかかりました。



 





















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十三弾:中部四十九薬師霊場観光
2018年11月10-11日


長野県と岐阜県を中心に、山梨・愛知県にまたがり、アルプスの山懐にいだかれ、温泉地にも恵まれた大自然の中の巡拝コース、中部四十九霊場の長野・岐阜・愛知に点在する20ヶ所を訪れました。

10日12:30車で出発、第二京阪・京滋バイパス・名神を経由して
13:00犬山に到着、霊場巡り
萬沢寺:縁起 当山は、正治年間、畠山荘司重忠の創建なり、後に兵火にかかり、建物は全て焼失す。文明三年(1471)現在地に移り、寛文八年(1668)天台宗より、臨済宗妙心寺派に転宗す。
 当山に安置する薬師如来は、秘仏にして、古来より十七年毎に、御開帳を行う。

萬休寺:縁起 当寺は臨済宗(禅宗)妙心寺派に属し、寛永年間に美濃の清泰寺第三世北州和尚を勧請して創建されました。ここにお祀りする円空仏薬師如来はその昔、円空上人がこの地に度々投宿して行願を果たされた折、世話になった村の老若男女の無病息災と延命長寿を祈念して奉納されたもので、土地の纐纈家としてお祀りされていたものを、真に霊験新たかにしてもったいないと、後に薬師堂を建てて奉安し、以来村人の手により例年三月十二日を縁日として大祭供養が行われるようになりました。大正十五年越美南線が開通して当寺も移築されることになり、その時に庚申様と弘法様を併せて新たにお祀りしています。

北辰寺:縁起 下田薬師如来 美並村史に依れば、下田薬師堂は大正十二年(1923)に再建されたものであったが、その後堂守りの死去によって無住となり荒廃の恐れもあり、区民がこれを惜しみ昭和二十三年に北辰寺に移築したが、開山堂として使われ、本来の薬師如来像は、片隅に安置される結果となった。現住二十二世は、昭和五十年(1975)発願、一階を観音堂、二階を薬師堂として完備、正位に安置することが出来た。
 『そもそも紀州室の人、直阿上人諸国行脚の途次、この地に留錫して数日、一夜夢に薬師如来が現れて、昔、空海上人行脚のとき、桜木を以て一刀三礼、謹刻して桜宝山の本尊として、春秋五百余年寺門繁栄、村内結縁の衆、信心浅からず、星移り、世乱れて僧坊悉く散逸した故に、桜木の中に身を隠した。今又汝が仏神信仰の志あるを見て告げ知らす。疑心あることなかれ。と即ち直阿上人桜の木の老朽ちたる根元を掘ってこの像を発見し、一宇を建立、弘治三年四月八日大法要を営んだ。時の領主遠藤但馬守は、十二善神を寄進、併せて黄金十枚、米二五俵を祈念科として給う』とある。弘治二年五月(1556)のことである。(薬師縁起序)

慈恩禅寺:縁起 慶長十一年、八幡城主遠藤但馬守慶隆公が開基となり、京都大本山妙心寺の円明国師を勤請しその高弟半山禅師を迎え釈迦如来を本尊とし創建された。臨済宗妙心寺派の寺院。元文三年「護国」の称号と青蓮院宮一品親王の書なる勅額を下賜、又、棠林和尚代には禅堂が開かれた。惜しいかな、明治二十六年大水害にて裏山が崩壊し山門、勅使門のみ残し、全て埋没。時に明治天皇、勅使片岡侍従を差し使わされお見舞を賜わる。三年後に復興され今日を迎える。
 当山の薬師如来は行基菩薩御作と伝えられる。正徳五年、愛宕山に薬師堂を建立する。明治十六年境内に移転安置され現在に至る。又、寺宝「薬師如来十二神将」絹本の軸は県重要文化財の指定を受け秘蔵されている。境内御堂に下半身の病に功徳を有す鳥枢沙摩明王も安置している。当山奥庭「てっ草園」は創建半山禅師の作庭。雄大な岩山を背景とし池の周囲に紅葉を加え絶えず響き渡る滝の音が幽玄で豪壮な雰囲気を醸し出す。池泉廻遊式且つ座観式の室町様式庭園である。初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色など、それぞれに趣き深く、四季の移り変りを味わうことが出来る。

17:00小牧方面に向かう。
18:00小牧市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
11日7:30車で出発、霊場巡り。

密蔵寺:縁起  密蔵院の開山は慈妙上人です。鎌倉時代の嘉暦三年(1328)に建てられ、医王山薬師寺が本当の寺名です。密蔵院と呼ばれるのは後伏見院の御病気の折、慈妙上人が召されて加持祈祷をした結果治ったので、密蔵院の号とそれを書いた勅額を賜ったことからです。(現存)この熊野の地に寺を建てられたのは、奈良時代現在の小牧市大山に今は「大山廃寺」と呼ばれる比叡山延暦寺と同じくらいの天台宗本山が建てられたが、宗派争いによって焼かれた。
 本尊の木造薬師如来立像(国指定重要文化財)は、秘仏です。八百余年前の藤原時代に造られたもので、顔と胴とをつなぐ檜材の寄木造りで、彫りが浅くお顔や姿がやさしく美しい像です。高さは1メートルにも足らない小型のお薬師様です。

福寿寺:縁起 本尊「聖観世音菩薩」
 当寺は、昔、瑞浪市日吉町半原に瑞浪市の古刹開元院の末寺としてあったが、明治五年排仏毀釈で檀徒が神道に改宗し、寺の維持が困難になった。その後、日吉町細久手出身の同志の元で当地多治見市へ移転されたもので、寺の古文書等は無く、寺の歴史は不明です。
 薬師瑠璃光如来は、当寺住職が個人でお祀りし家族の身体健康を祈り続けてきたもので、中部四十九薬師霊場会に参加し、本尊の脇仏としてお祀りしてあります。

広福寺:縁起 当寺は、妻木の領地にして寛永二年(1625)三河の国加茂郡挙母村出身の雲外霞公首座が有志を募り一寺を開基しようと妻木村崇善寺中興開山清厳和尚に請願する。清厳和尚は、その請願を領主源頼利へ訴えて許され小刹を建立し、禄高七石二斗を付与される。寛永十三年(1636)崇禅寺第二世龍和尚が住職し、衆庶が檀徒となったので開山となられる。十七年後妻木権左エ門頼利が没せられたので法号を広徳院殿即心安休大居士として開基とする。
  萬治二年(1659)妻木城減禄の為寺領を還納して無縁となる。
 当寺は始め慈門山広徳寺と言っていたが、山間僻地で信徒参拝に不便のため、辛沢へ移転した。(当山中興物現和尚の時代で元禄年間かと思われる)明治二十四年岐阜県庁の許可を得て同地にあった寿陽山保福院を、慈門山広徳寺に合併し両寺の○印の字を合わせて新しい山号及び寺号を決定し同年八月一日に寿門山広福寺となる。
 明治三十四年一月四日夕、本堂と庫裡(共に旧広徳寺の建物)を全焼した。当地は年々水害を被り且つ頗る偏遇で信徒の参拝・布教に不便を感じていたので、当時薬師堂のあつた現在地(上田)移転を決め、薬師堂を境内仏堂として合併することを出願し大正七年四月二四日岐阜県庁の許可を得て大正九年六月七日移転合併した。

正福寺:縁起 当山は今より約四百四十年前の永緑年間、当地の住人福岡庄蔵なる者、自ら庵主(盛岩常林庵主)となりて庵を結び寺を草創した。慶長十八年(1613)庵主示寂後は一定の庵主なかりしも、寛永十年(1633)恵那郡馬場山田村盛久寺四世白峯林太大和尚を請し開山とした。十代大要禅英和尚法地開山に尽力し、天保三年(1832)盛久寺十二世自回厳道大和尚を請して法地となり爾来現在に至っている。
 本堂建物は四代一雲円秀和尚の代、寛保四年(1744)に、又庫裡は五世霊山梅苗大和尚の代、元治元年(1864)に建立されたものである。
 本尊薬師如来は木瓜厨子裏の頌文に依ると、聖徳太子の御真作とされている。四代裔元鉄苗和尚の発願にて、宝歴六年(1756)に仏工鈴木民部なる者に依頼して、脇仏として、日光菩薩、月光菩薩を彫刻し、木瓜厨子に納めて奉安した。
 当地は明治年間鉄道が敷かれる以前は、中馬街道の宿場として人馬の往来激しく、万病に霊験あらたかな仏様として、参詣者も多かったと聞いているが、現今は過疎の地となり参詣者も少ないが、御薬師様の御利益と霊泉(柿野温泉)の力によってか、高齢者が多い。

仏徳寺:縁起 当寺は明治三十五年火災に遭い全焼し記録等を失ったため、創建の年次など不明である。大正二年現在地に本堂を建立して、現在に至っている。
 当寺の薬師如来は、昔、山中にあつた瑠璃光山林泉寺に祭られていたが、いつの頃か廃寺となり当寺内に薬師堂を建立し、お祭りされました。作者、年代等は不明であるが古いものには間違いない。
 現在十二神将は五体程残っているのみである。昔より近隣の人々は眼病やその他の病にも御利益のある仏様として参拝者が多く、参拝者には、甘酒の接待がされていました。

長久寺:縁起 駄知薬師堂は、昭和十年発行の駄知町略誌に『当町上本町に薬師堂が在る。現在の拝棟礼によると元禄十六年(1703)に建立されており、この薬師如来は元、大峯山頂にあったが火災にかかり今の所に移ったもので 御利益誠にあらたかなため 信仰が非常に篤いものがあったと言う。
 伝説に、この薬師寺火災の時、薬師像の霊光は尾張の熱田の海にまで達し、魚が捕れなくなったため漁夫達はその光を尋ねて、はるばる当地に来て焼け跡より尊像を今のところに移し祀ったと言う。
 後、安永八年に地蔵様・弘法様を合祀し、毎年旧十月十一日を以て例祭とす。露天商来たり両側に連なり遠近よりの参詣者引きも切らず、商売繁盛、縁結びの御加護ありて今に信仰篤きものがある。
 尚、十二月二十二日頃冬至には弘法大師縁日として東濃は勿論各地より善男善女来籠して参詣するもの多く、節分には除厄豆撒きの祈祷に来る者、近来その数夥しきを見る。とあり歴史は古く、御利益あらたかなお薬師様が安置されいます。
 諸行事は今も続き、節分豆まき・お薬師祭り・冬至弘法祭り等の行事にて皆様に親しまれております。

常久寺:縁起 およそ、五百年前(室町時代・文亀元年・1501)京の光月源公禅師、全国を巡錫してこの地に来る。草庵を建て、開山を京は花園の本如実性禅師を勧請して、龍遊山(元禄十五年昌沢山と改む)常久寺と称するをもって草創となす。
 聖観世音菩薩を本尊とし、延命地蔵尊と達磨大師を脇尊(共に市文化財)となして、前立は慈母観世音菩薩をまつる。
 縁あって、秘仏「薬師如来」が隣刹の天台寺末の堂より、明治の始め当山に遷座する。
 大般若経六百巻。釈迦十六善神図、釈迦涅槃像(共に市文化財)等と篤い信仰を仰ぐ。
 何時の頃からか、誰言うとなく「中風(脳卒中)封じ・ぼけ封じ」として“安楽のお薬師様”と呼ばれ、深い信仰を集めるようになった。
 特筆すべきは、病が全快したり、願い事がかなったとき、「おかげさま参り」と言って、家族揃って御礼参りをする寺として名高い。

林昌寺:縁起 当寺は今から凡そ一二五〇年前、聖式天皇の頃、草伯という僧が行基菩薩作の薬師如来を本尊とする七堂伽藍を建立し、医王山瑠璃光寺と名付け、この地は仏法興隆の一大霊地であった。
 しかし、天文の頃諸国に兵乱が起り当山は武田勢の兵火にかかり仏閣・院坊ことごとく焼失した。
 その時、不思議にも当山の薬師如来は霊験あらたかにして、猛火焔々なる中を火の玉となって北の方、薬師ケ滝に非難して日夜光明を放っていた。村人達が相寄りこれは瑠璃光寺の薬師仏にまちがいないと、ますますその信仰を高めていた。
 この時、中西城主遠山氏の母堂、仏法帰依の心篤く恵月庵を建立して、薬師如来を奉移し併せて観音仏、阿弥陀仏の旧像を安置して礼拝供養をしていた。
 寛永二年(1625)山田村盛久寺三世の開基にて一寺を再建し寺号を医王山、林昌寺と改め薬師如来を恵月奄より迎えて本尊となし今日の隆盛に至っている。
 霊験利益、諸病平癒、諸願成就、安産、縁結び、皮膚病霊水あり 林昌寺入口に、爪切地蔵尊がある。長方形の粗末な石に浅い線で彫刻してある。弘法大師一夜の作と伝えられる。瑠璃光寺由来の仏として八月十六日には煙火の祭典を行う。

長国寺:縁起 大宝 二年(702)行基菩薩が自ら観音像を刻み、観音堂を建立して安置された。 これが長国寺の 草創である。永正八年(1511) 大井周辺の神社仏閣は兵火によりことごとく焼失した。長国寺も伽藍全てを失った。 元亀三年(1572) 春、曹洞宗の體巌雲如大和尚を招いて開山とし、長国寺は再復興された。現在地に移されたのは延宝年間(1673~80)のことである。

宗久寺:縁起 萬松山宗久寺は、元和二年(1616)岩村藩代官、鈴木主馬入道宗久なる者、村人の願いにより新地(年貢を納めなくてもよい土地)に寺を建立して、宗久の名をとり宗久寺と名付け開基となり大井長国寺より、長国二世葉山嫩奕大和尚を迎えて開山とし今日に至る。その間、嘉永六年十月四日大火に遭うて全焼し、時の住職十一世天領秀暁和尚は猛火に入りて共に焼死せらる。
 その再興に、中野長栄寺より金瑞俊猊大和尚を拝請し、檀信徒はもとより村人一丸となつて奮闘精進、安政六年(1859)秋に全伽藍が再建された.その伽藍も永年の風雪により、いたみがひどく昭和六十年本堂・山門の大改修を行い、特に本堂の屋根は古代様式に葺き上げ面日を一新しております。
 当山の薬師如来は、山門から本堂に向って右側の薬師堂にある。石仏で全高一五八センチ、裏には「薬師如来之像也」と銘文があり花崗岩に彫られているお顔は、人間味や面白味があり、ユニークで親しさを覚える石仏の為、石工が銘文を残したと思われる。
 通称「はだか薬師様」と呼ばれ、母乳・出来物等に功徳あるとされ、昔は桑や楮の木と竹で作った錐の連を薬師様の首にかけて祈願したそうである。明治十八年東野の宮之前より移転されました。

高徳寺:縁起 蛙薬師瑠璃光如来(高徳寺第二本尊)
 南朝の忠臣和田政忠は、後醍醐帝の孫伊良親王に供奉し信州より下りここに駐留し、この巨岩に薬師如来を祀り南朝の長久と配下の病気平癒を祈願した。元中四年の昔である。後世かわず薬師と称され治病信仰の仏とあがめられ、木曾義仲の観音堂も併せ祀られた。
 天文年間に普門院として苗木藩主四代遠山友春の帰依を受け弟入道宗云を初代院主とし、諸堂完備し仁王門も営まれ近郷に繁栄を極めた。明治三年九代友清は、大名行列しここへ仏参した入道五十年忌である。普門院は、明治三年苗木藩の排仏毀釈に取り毀され跡形なく鳥有に帰した。その後昭和九年に至り現在の仏像が再建開眼され蛭川村社の杵振り踊りが奉納された。

東円寺:縁起 本尊「出世薬師如来」は弘仁五年(814)伝教大師(最澄)の作と伝えられ、造像様式からみて弘仁仏の代表作と評価され、大正十四年国宝の指定を受けた。(昭和二十八年国重文替)
 この薬師如来が中山道中津川宿の狐堂にあった頃、堂前を乗馬のまま通る者は必ず落馬するので街道に対し、後ろ向きに安置した。
「後ろ向き薬師」の異名はその霊現あらたかさを物語り、江戸の始めより今日まで近郷の人々より尊崇されている。
 貞享元年(1684)春翁和尚が、代官山村公にこの地を請い一字を建立し仏像を移した。
 出世薬師如来は右手をあげ、左手は掌を上に膝にのせ薬壺をもっているが、この壺は後補されたものである。古い薬師如来は薬壺を必ずしも持っていない。日光・月光菩薩の脇侍を伴い、十二神将を加える場合が多いが、この如来は始めから独尊仏として造像されたらしい。造像様式は寄木造彫眼像で顔は満月のようにまるく彫りは浅い方で胸部から下はやや扁平で膝高が低い。

医王寺:縁起 当寺の建立は定かではないが、戦国時代の兵火の厄に遭う事再三、法灯中絶に至ったが、天文十三年(1544)中興開山して現在に至る。
 本尊薬師如来は、聖武天皇の勅命により、行基菩薩一刀三礼の御作と伝えられる。
 子供の夜泣き・疳虫封じ・家内安全等、祈祷を願う人多し。

長岳寺:縁起 当寺は弘仁年間伝教大師により創建され、本尊は定朝作十一面観世音である。また、木槌山観照寺(現廃寺)の本尊薬師如来(おそそ薬師)が祭られ、縁結びの仏として最近は厄除けの瓢箪を授けている。また、子授け薬師、子宝薬師と呼ばれ信仰を集めている。
  武田信玄公が三河からの帰途、駒場の山中で亡くなり、この寺にて火葬にされたと伝えられている。信玄公遺品を蔵す。
 また、天明の飢饉に亡くなられた人々の供養のため千二百八体の地蔵尊が安置されている。

運松寺:縁起 当山は、小笠原長清が伊賀良庄を領有した時、寺院用地として除地し、その後、小笠原貞宗(1294-1350)の時、除地の中央に、禅宗の長熊山運松寺をたて開山した。然るに天正十五年(1581)小笠原信嶺が武州本庄へ移封後、寺は荒廃したが、慶長六年(1601)伝策和尚が来て浄土宗となり、翌、慶長七年、知恩院直末となった。本堂は以前には現在の位置より北で一段高台にあったが、明治二年長熊紳社の祭典の際、打ち上げ花火の流星によって焼失し、明治十五年現在の本堂を再建した。本尊は阿弥陀如来である。
 当山の薬師如来は、和銅七年(714)行基菩薩の御作、御丈尺二の尊容である。小笠原定基は小野の郷にて武田晴信と軍陣を構えた時、風眼になり当薬師に参籠し満願の夜になって如来大悲の御声を賜った定基は直ちに薬師の霊跡十二ケ所巡拝祈願をすると不思議にも眼病は平癒した。定基は歓喜と報謝の念から天文十一年(1542)十二ケ所に御詠歌を奉納して、堂宇を営み代々に伝え信心相続させました。城主信嶺の時、基所替により十二薬師は廃され堂宇は大破に至った。寛文二年(1662)当山の住職は別に薬師の尊像を作り行基菩藤の御作を御腹籠として 往昔の如く堂宇を建立しました。なお、兵火に遭っても尊体より光明を現し兵火を消滅してしまう神秘の霊験のあらたかな薬師如来である。

雲彩寺:縁起 薬師堂所在地 上郷町別府・臨松庵 堂宇の建立は万治三年(1660)と言い伝えられる.
 本尊薬師瑠瑞光如来は行基の作と伝えられ、お身丈四十一センチの座像で八・三センチの胎内仏を内蔵する仏像である。脇侍日光・月光両菩薩は共に三十五センチの立像にて貞亨三年(1686)の作、十二神将は極彩色の見事な像で当地井出一門の仏師佑正の作で天明四年(1784)の作である.
 創立時は現在地より川下約1キロの薬師垣外にあったが年々雨季の氾濫により、しばしば堂宇危険に遭う為、現在地庚申原に明治七年移して祭祀した。
 往時二年つづきの不作に悩まされた農民達が薬師如来に祈願し五穀成就したと伝えられ、祈念すれば必ず成就すると村人達崇敬する所である。 
 諸病平癒(特に眼・耳病)の霊験あらたかな薬師如来で近隣十二薬師霊場の十一番札所でもある。

真浄寺:縁起 当山で祀られている薬師如来医現閤は寺より南方、下の平の医泉寺跡にあって医泉寺薬師と呼ばれております。
 久寿元年比叡山の栄運僧都が行基菩薩の謹作といわれる薬師如来を奉持して当地に巡錫し古くより霊泉湧出せるこの地に薬師堂を建立して祭祀し天台宗医泉寺が創立されました。
 約四百年後の天文二年、荒廃した医泉寺薬師堂を再興した。真浄寺二世天裕和尚は、真浄寺の末寺として管理しました。
  寛永十七年火災により堂宇全てを焼失しましたが、日光菩薩・月光菩薩・十二神将は難を免れて現在村の重要文化財になっております。慶安二年堂宇を再建、薬師如来も新たに迎えられて医泉寺薬師とし
て再興法地開閉されましたが維持困難の為、真浄寺が管理することになり今日に至っております。医現閤の前より湧出せる霊泉による小川の湯は薬師霊泉の湯として万病に効験ありと親しまれ、如来の大悲心は病める人の応病与薬・抜苦与楽の利益があります。

浄瑠璃寺:縁起 縁起書に「観誉僧都、大島川に沿って上ること十八丁、仁王山、間の洞の樹間に出現した薬師如来を感見して感激し、その地に本堂その他の堂塔伽藍を建立し、また鎮守として比叡山から日吉山王権現を勧請し、山号を大嶋山、院号を医王院、寺号を瑠璃寺と名づけた」と誌されてある。
 天永三年(1112)比叡山竹林院観誉僧都が、堂所へ瑠璃寺を創建し、七十二年後、比叡山北渓宝乗上人が来往し恵性坊(現在地)へ移転、更に二年後、恵性坊ヘ七堂伽藍五重塔を建立し堂所を奥の院と呼ぶ。建久三年(1192)源頼朝の祈願所となり寺領を得た。
  永録七年(1564)武田信玄の祈祷所依頼を兼住の比叡山東塔正覚院豪盛僧正が断わるも信玄は条目をよせた(現存)天正十年(1582)織田氏の伊那侵攻で全山焼失のため、住職は本尊を奥の院へ移し隠棲した。その後、堂所へ再建され十七年後、再度恵性坊へ移転された。寛文十二年(1672)本堂(現在のもの)を再建し、秘仏薬師如来の初開帳を奉修した後、随時、鐘楼・石仁王・客殿・庫裡・表門・弁天堂・六地蔵石像等の再建が行われた。
 本尊薬師如来並びに脇仏は藤原時代の作です。昭和九年国宝、同二十四年国重要文化財に指定された。同四十年には、慈選大僧正昇補、各界の要望により、公開仏とし開帳奉修をした。

光明寺:縁起 寛文十三年(1673) 山吹領主・三代 座光寺為実が隠居後、吉田村にあった日蓮宗立法寺を現在地に移転して開基、僧日理が開山した。元禄十二年(1699)本寺の谷中感応寺が天台宗に転宗したので、僧慶演が天台宗に改めた。寺名も光明寺と改称する。
 一方 「高森町誌」には開基、座光寺丹後守家第三代為実公、深く仏法を信じ家を為治公に譲りて隠居、寛文十三年(1673)現在の新田の北に庵室を建て白衣観音を安置し、吉田より立法寺を移して寺名とす、と記されている。
 現在、この白衣観音は桂堂に納められ今なお信仰が篤い。境内には伊那谷では類を見ない推定600年の名木「黒松」がある。 番外の薬師瑠璃光如来は座像で三寸と小さいながらも黄金に輝いている。説には江戸時代の作という。

寶心寺:縁起 当山は高野山真言宗に属し、排仏毀釈の影響を受けた当地に開山光城和尚が当地住民の要請により、昭和二十六年高野山より止錫し再興され中興開山、以来藤戸山寶心寺と号す。
 当山の薬師如来は、霊石(さすり仏)で近年付知川右岸堤防にて不思議な霊気現象により、お陰を戴いた地域住民が発掘し当山に安置したもので以来「瑠璃光さすり仏」として、石をさすり至心に祈願すれば不思議な効験が戴けると言うことで毎日多数の信者が参拝に訪れる。又、御堂の薬師如来尊像は播磨西国八番札所で「涙観音」で知られる稲富山円融寺より勧請安置されたもので、古くより信仰されているお薬師様である。
 又、当山には、岐阜県重要文化財に指定されている明兆(南北朝時代)の画いた十六羅漢(十六幅)をはじめ、大般若経を木の皮にサンスクリット語で記した「貝葉」等を蔵している。
 例年五月十三日には、霊石出現記念法要として「ほうろく灸祈祷」が奉修され多数の参拝者が訪れる。又、一月八日は付知恵比寿大祭十月二十日は本尊弘法大師の御影供法要が盛大に巌修される。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、長野県・岐阜県・愛知県に点在する中部四十九霊場2か所を訪れ楽しみ癒されました。
西日本の霊場立派な寺院が多いですね。満足です。


   
































飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十二弾:中国無錫観光
2018年11月3-4日
  

アジアの大国、中国に足を運び、上海から高速鉄道で45分の位置にあり、中国南部に位置し、上海から130km離れた街、かつて錫鉱石の採掘量が多い土地でしたが、漢代初期のころまでに採掘し尽くしてしまい、そこから「錫の無い街」と呼ばれるようになりました。三国志に登場する呉の発祥の地であり、3,000年の歴史を持つ「江南の名城」と中国では呼ばれていますが改革開放以降、日本企業の進出も目覚ましい、太湖を中心とした風光明媚な観光地から霊山大仏や水滸城、三国城など中国ならではのスケールを持つテーマパークまで、あらゆる観光客が楽しめる無錫を訪れました。

3日10:10関西空港日本航空で出発
12:05上海浦東空港到達。リモーターカー、メトロで上海駅下車。
15:00上海駅高速鉄道で出発。
15:42無錫駅到達。メトロで南禅寺下車、清名橋古運河景区散策。

南禅寺:無錫でお土産探しをするならここ。古刹「南禅寺」を中心に広がる繁華街で、伝統工芸品店から無錫の中高生に人気のアニメショップ、ファッション雑貨店などがずらり。地下にもお土産屋さんが並んでいます。

清名橋古運河景区:昔ながらの街(老街)がある。別名は清名橋古運河景区。運河の周囲には昔ながらの建物が広がっている観光スポットだ。この運河から一歩、道を入ると、飲食店を中心に商業街が展開されている。清名橋古運河景区は、2014年6月に世界文化遺産に認定された京杭大運河(黄河、長江など、全長1,797km)の一部。
この清名橋古運河景区は全長5.5km。2010年6月、中国歴史文化名街に認定され、観光スポットして多くの人が訪れている。清名橋古運河景区の歴史は古く、10世紀ごろにできたようだ。派手な商業街のようなところではなく、独特の雰囲気ただよう観光地だ。

18:20市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
4日7:30タクシーで蠡園に向かう。
8:00蠡園観光、その後歩いて黿頭渚公園に向かう。

太湖:江蘇省と浙江省にまたがる湖・太湖は、琵琶湖の3倍の面積を有する巨大湖。蘇州側の湖畔よりも観光地が集中しているのが無錫側太湖の特徴で、テーマパークや史跡も湖沿いにあります。もっともよく知られている観光地点は「鼋頭渚」。遊覧船や山の上から広大な風景を眺めることができます。無錫きっての桜の名所でもある。

黿頭渚公園:無錫のシンボルでもある二つの山、錫山と恵山に挟まれた公園です。緑豊かで、地元のお年寄りたちとのんびりなごめる(現地の60代以上は入場無料だそう)だけでなく、史跡めぐり、登山、古鎮散策、お寺めぐり、庭園めぐりも楽しめるんです。明代に建てられたお寺や古民家、庭園、宋代に架けられた橋など、数100年から1000年の歴史を持つ見どころがいっぱい。

9:30タクシーで恵山古鎮に向かう。

恵山古鎮:まるで昔の中国にタイムスリップしたような、古い建物が建ち並ぶ観光スポットです。格安でグルメを楽しめる屋台がずらりと並んでいたり、お土産屋さん、旧家が連なっています。食べ歩きを楽しんだり、お買い物をしたり、ぶらりと散策するのに適している場所です。
徒歩とメトロで無錫駅に向かう。
12:00無錫駅到達。
12:57無錫駅高速鉄道で出発。
13:40上海駅到達。メトロ、リニアモーターカーで上海浦東空港に向かう。
15:30上海浦東空港到達。
17:45上海浦東空港日本航空で出発。
21:00関西空港到達。
今回の旅行、アジアの大陸、中国に足を運び、上海から高速鉄道で45分に位置する無錫を訪れ、水郷の町を散策して観光いたしました。
毎回中国旅行、アクシデントが付き物でしたが今回は問題なく観光できました。
強いてあげると黿頭渚公園を散策中、市民マラソンに出くわし、さすが中国2万人のランナーでした。大勢のランナーのため橋を通過するのに30分待たされました。

一方ラッキーなことがありました。帰りの飛行機、特典航空券を利用していましたがビジネス席に空きがあったため無料でアップグレードしていただきました。ビジネス席、快適で立派なフランス料理も出てきました。
ビジネス席を利用しますとエコノミー席利用できなくなりますね。
海外旅行の飛行機の旅はアウトドアスポーツと考えています。
体力のある限りエコノミー席で頑張ります。